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(九)糸縒(いと よ)りの娘
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 文久二年(一八六二)は壬戌(みずのえいぬ)で、須坂藩の参勤交代は御暇(おひま)の年なので、六月になったら国許(くに もと)へ帰らねばならない。直虎にとっては藩主になって初めての帰藩であるが、もっとも過去には父に連れられ、あるいは兄の御供(お とも)として何度か帰ったことはあるが、新たな気持ちで(いど)むからには帰る≠ニいうよりゆく≠ニ言った方が正確だった。
 参勤交代の従者の数については、幕府指針に従い、例えば十万石の藩では足軽・人足を含めて二三〇人から二四〇人としており、財政が厳しいからといって極端に人数を減らすことはできない。一万石の須坂藩においては、馬上三騎、足軽二十名、その他の人足三十名が通例で、道程や日数にもよるが、百万石と言われる巨大な加賀藩ともなれば総勢数千名の規模になり、かかる費用は五千両にも及ぶまさに住民の大移動である。
 江戸から須坂へは中山道(なか せん どう)を行き、追分宿(おい わけ じく)から北国街道(ほっ こく かい どう)を経由するルートと、少し手前の沓掛宿(くつ かけ じく)から沓掛街道を大笹(おお ざさ)まで行きそこから大笹街道(おお ざさ かい どう)を経由するルート、更にはもっと手前の高崎宿(たか さき じく)から、大戸(おお ど)を経て大笹から大笹街道を経由する三つのルートがあった。もっとも「大笹街道」というのは江戸側から見た名称で、須坂の人は「仁礼街道(に れい かい どう)」とか「信州街道」と呼んでいる。例えば北国街道を経由すると、馬一頭に荷物をつけて須坂から江戸まで通常六日ほどかかるが、大笹街道を使えば一日短縮でき、これが江戸までの最短コースである。
 経費を浮かせるために、無論(む ろん)直虎たちは大笹街道を経由するわけだが、須坂生まれで何度も行き来している要右衛門が、今回はじめて行く者たちに説明するには、大笹宿(おお ざさ じく)から田代(た しろ)を経由し、そこから険しい鳥居峠(とり い とうげ)を登り、菅平(すが だいら)を南北に横切って(みね)(はら)へ、そこから峠を下って宇原川(う ばら がわ)沿いを進めばもう仁礼宿(に れい じく)で、あとは鮎川(あゆ かわ)に沿って栃倉(とち くら)八町(はっ ちょう)井上(いの うえ)と、最終的に北国街道の福島宿(ふく じま じく)(須坂市福島町)が大笹街道の起点(き てん)であると自慢げである。
 その道すがら、直虎の頭の中はめまぐるしく回転していた。
 野口源兵衛らの糾弾(きゅう だん)により藩政の方は不正も正され、順調だとの報告を受けていたが、それにつけても財政の方は依然借金返済の目処(め ど)は立っていない。赤字総額は四万四千両以上にのぼっており、これは現代の金額でいえば、仮に一両六万円として換算(かん さん)しても二十六億四千万円、それを一万石の大名がその年の米の取れ高を丸々返済に宛てたとしても、優に四年以上かかる単純計算だ。小笠原長行から金を借用できたとしても、それは西洋式軍備体制を整えるためという約束なので使うわけにいかないし、目下(もっ か)の課題は確たる殖産事業(しょく さん じ ぎょう)の確立であるが、生糸(き いと)を手掛かりにしようとおぼろげながら考えてはいたが、それを具体化(ぐ たい か)して定着させるまでには経費も時間もかかるだろう。さしあたって当面の難局を(しの)ぐには、金を貸してくれそうな商家や豪農に頭を下げて回るしかなさそうだ。
 彼が須坂に到着した頃、領内は夏祭りの真っ最中だった。領民たちは不景気などどこ吹く風の陽気(よう き)さで、祭り囃子(ばや し)にでんでん太鼓(だい こ)を打ち鳴らし、新しい領主となった直虎を迎え入れた。こんな流行(は や)り唄まで聞こえてくるほどである。

♪これさ皆さん聞いておくんない、須坂の小町(こ まち)の話を聞きない

 心学(しん がく)論じて百姓だまして何のかのとてむやみに取り立て
 しかるところへ、四書(し しょ)にあるよな大覚殿(だい かく でん)とか御世話(お せ わ)なさって立派にのりだし
 隠密(おん みつ)まわして家中(か ちゅう)のくせもの町役見届(み とど)け、万一(まん いち)同々よくよく見定め
 それから江戸より御下(お さが)がりて
 悪人どもは法雨(ほう う)(はら)われ家老の者ども(なわ)めに(およ)んで
 吟味(ぎん み)の上にて切腹しろとのお(かみ)のご上意(じょう い)
 百姓泣かせた(むく)いがきたやらショウシイものだよ
 百姓方で大きに喜び、御年貢(お ねん ぐ)けんむでうれしいうれしい

 カッタカタノタ、ソレ、カッタカタノタ──

 「ずいぶんと(にぎ)やかだのう」
 須坂藩には天守を持つ城がない。それに代わる陣屋(じん や)に入って着替えを済ませた直虎は、遅くまで鳴り響く笛や太鼓の音に耳を傾けながら国家老の丸山本政にそう言った。
 須坂館と呼ばれるこの陣屋は、大坂の陣で功績を挙げた初代直重が、信州須坂十三か村四千五十石余りの加増をされた際、元和元年(一六一五)八月に初入国し、小山の普願寺に仮陣屋を設けたのが始まりとされる。そして家臣を留めて下総矢作に帰った直重は、元和三年六月、三十三歳の若さで没し、その家督は二代直升に引き継がれた。当時直升は数え九歳だったが、十一歳の時(元和六年)すでに駿府加番の役職を果たしているのをみると、幼くも賢い敏腕な人物であったと見える。
 ちょうどその頃、関ヶ原の戦いで徳川方に参戦して勝ったものの、その後は憂き目を見ながら高井野に移封を命じられ川中島に流されてきた武将福島正則が、須坂にやってきて仮陣屋を設けたのが元和五年(一六一九)七月のことだった。その後彼は二年余りを須坂の地で過ごす。
 一方、翌年の秋に駿府加番の職務を終えた直升は、将軍秀忠より福島正則の見張りの命を受け自国普願寺の仮陣屋に入るが、元和七年八月、正則は高井野館(現高山村)に居を移す。
 すると直升は正則が住んでいた館を改修し、間口十三間奥行き三間の馬小舎のみそのまま用いて、現在の場所に陣屋を築いた。その後増築して東西八十間、南北八十六間の規模となり、天守を持つ城とまではいかないが、須坂藩の拠点としての機能を果たしている。
 直虎は、詰め所に用いるがらんとした大部屋の格子窓から、ぼんやりとした夜明かりを見つめて、遠くから聞こえてくる囃子太鼓の陽気なリズムに笑みを漏らした。その様子に本政が、
 「みな殿の領内入りを喜んでいるのでございます。なにせ今年の年貢を(めん)ずる()れを出したのですから喜ばれて(しか)るべきでしょうな。一方、役人どもは扶持(ふ ち)を半分に減らされて愚痴(ぐ ち)しか出てきません。無論(む ろん)私も──須坂陣屋にかかる経費も全て自費です……」
 「陣屋でない、須坂城と呼べ」と、開口早々はったりでもいいから景気よくいけと直虎は笑う。そして、
 「半分だけでも出れば良いではないか。わしなど()しじゃ」
 とまた笑う。
 「よくもまあ、呑気にいられますなあ……」
 野口らの悪行(あく ぎょう)に苦しめられた領民に対する直虎の措置(そ ち)は、現代ではおよそ考えられないほど寛大なものだった。すなわち、

一、今年の年貢を免ずる
一、没収金(ぼっ しゅう きん)は貧しい民に分与し、貸し金一切は藩から破棄(は き)のこと
一、諸々(もろ もろ)の貸金は破棄のこと
一、御用金(ご よう きん)その他非常の課物(か もつ)を一切停止すべし

 というもので、更にさんざん領民を(いじ)めた役人の給料を五〇パーセント削減したというから、庶民たちが大喜びするはずだった。本政はその能天気(のう てん き)な当主の笑みに(あき)れるより仕方ない。
 「明日から忙しくなるぞ。田中主水(もん ど)には江戸で話を通してあるが、ほか小田切辰之助(お た ぎり たつ の すけ)など回って金を借りにゃならん」
 「殿自ら(おもむ)くつもりで?」
 「当たり前じゃ。こういう大事なことを人任せにするからあんなことになる」
 あんなこととは言わずと知れた野口源兵衛らの数々の悪事のことである。本政は「やれやれ」といった表情を浮かべた。
 「それから」と直虎は続けた。
 「領内にいま糸師(いと し)は何人おる?」
 糸師≠ニは生糸(き いと)職人のことである。いわゆる養蚕農家(よう さん のう か)や生糸商人も含めた職種だが、突然何を言い出すかといった顔付きの本政は、領内の職業台帳を取り出し、「三十数軒といったところでしょうか」と答えた。
 「そればかりではなかろう。その調べはいつのものだ? もう一度調べなおせ」
 「五年前のものですが……須坂には糸仲間というものがありまして、そこに属さぬ者が数人あったとしても大きな違いはないはずです」
 と、台帳をもとの場所に戻しに行ったところが、「一昨年前のものがありました!」と万延元年(一八六〇)の記録を見て目を丸くした。
 「どうした?」
 「六十三名になっております。ここ数年で倍に……しかも糸仲間に牧茂助や小田切武兵衛、十二屋清兵衛も加わっておりますぞ……?」
 挙がった名はみな領内の豪商達である。
 「ほれみろ。さすが商人は目聡いのぉ。時勢をちゃんとわきまえておる。どんどん彼らの後押しをせい。わしは須坂を生糸殖産の国にしようと思う」
 「生糸殖産の国……? お待ちください! 吉向焼(きっ こう やき)高麗人参(こう らい にん じん)の次は生糸(き いと)ですか? (もも)栽培もやっておりますが、まだまだ軌道(き どう)に乗るどころの話しではありません。それに生糸なぞ既に先が見えておりますぞ──」
 須坂の生糸産業は、第九代藩主直晧から十代直興にかけての文化年間期(一八〇四〜一八)には、土地の性質を活かして、松代藩とともに養蚕を見据えた桑園の拡大を奨励しており、その頃から繭の問屋や糸商人が現れ、それぞれ組合のような組織を作って業を行っていた。しかしそれはあくまで『登せ糸』──つまり京都の西陣や、蚕糸業の本場である上州へ送るのがほとんどで、領内を潤す規模のものでない。日本国内の需要と供給の関係は他の地方の競争も加わり過渡期を迎え、業種の将来性としては暗いという認識を本政は持っている。
 「だいたいこのご時世(じ せい)、西陣や上州のほか一体誰がそんなもん買いますか?」
 「外国よ! おまえの目は節穴か? 横浜開港以来、生糸商人が盛んに動いておるのを知らぬか? 須坂においても糸師の急増がそれを証明しておる。こりゃいけるぞい……」
 直虎は勝算の笑みを浮かべた。
 上田藩では既に諸外国との生糸貿易が始まっていたことは前述したが、一八五〇年代、ヨーロッパにおいて(かいこ)の伝染病が大流行し、(きぬ)の産地だったフランスとイタリアの養蚕業を壊滅的(かい めつ てき)にした。それを知った将軍徳川家茂(いえ もち)は、これより少し後、蚕の卵を集めてナポレオン三世に寄贈(き ぞう)し、その返礼としてアラブ馬が贈られたという美談が残るほどで、ヨーロッパからの生糸蚕種(き いと さん しゅ)需要(じゅ よう)が急増している世界情勢を直虎は知っている。
 「が、外国……こりゃまた途方(と ほう)もない話ですなぁ」
 「藩の窮乏をよそに商人たちはすでに動いておる。しかし桑園の奨励をしたのは藩じゃ。わしらは海外貿易を盤石なものにし、糸師にどんどん(もう)けてもらおうではないか。そしていずれ生糸取引に冥加金をかけよう。儲かるぞい。だいたい生糸の元は何だと思う、(くわ)じゃ、扶桑(ふ そう)じゃ、(じゃく)じゃ。よい考えであろう?」
 「殿のお考えになることはどうも私には……」
 「まっ、それよりまずは当面の資金繰(し きん ぐ)りじゃ」
 と、さっそく翌日から豪商、豪農廻りをしようと張り切ったところが、出かけるまでもなく、向こうの方から新領主への挨拶だと言って、次々と手土産(てみやげ)を持って陣屋に訪れた。
 「土産(みやげ)進物(しん もつ)は無用。課物は一切停止したはずじゃ」
 と、直虎は自分が出した触れに忠実で、その都度厳重に注意して帰した。
 「まったくお(かた)いお殿様じゃ」と、たちまち噂が広まってしまったが、そんな対応に追われてひと月などあっという間に過ぎ去った。
 直虎にしてみれば、一刻も早く軍備の西洋化に着手したいところであるが、まともな知識もなければ金もない。講武所奉行になった大関増裕に最先端の歩兵・砲術の教練の様子を聞き出す書状をつづってみたり、小笠原長行から紹介された赤松小三郎や佐野鼎(さ の かなえ)などとつながるために上田藩や福井藩の知人に根回しを要請する書簡をしたためたり、杉田玄端へ蘭学の質問書など書き、長行にも相談方々近況など書き(つづ)ってしまえば、あとは漢書や江戸より持ち返ったわずかな蘭学書(らん がく しょ)など読みふけるほか須坂の片田舎(かたいなか)ではできることは限られていた。
 「まったく暇じゃ──」
 アブラゼミの声がコオロギのそれに変わる季節になって、直虎はお(しの)びで陣屋を出ることを覚えた。町民風情(ふ ぜい)の身なりで出歩いて、領内の空気を自分の肌で確かめようとしたのだ。要右衛門や本政に見つかればまたうるさい事を言うに決まっているから、いつも陣屋を出るのも一苦労で、部屋にこもって本を読むと言っては目を盗んで外に出、馬場で馬の世話をする振りを装って抜け出してみたり、あるいは(かわや)へ行く振りをしてそのままふらりと出たり、手拭(て ぬぐ)いで頬被(ほお かぶ)りをして人目を忍んで素早く陣屋を抜け出した。
 その日も町民姿を装った彼は、鼻歌を歌いながら相森(おう もり)方面へ向かって歩く。
 青い空には蜻蛉(とんぼ)が舞って、一筋(ひと すじ)の雲が浮かんでゆっくり流れていた。
 やがて目が覚めるほど青々とした桑畑(くわ ばたけ)が広がる土地に出ると、ふとそこが、昔少年時代に来た場所と同じであることを思い出したのだった。気候も気温も見る景色も、全くその時と似ていたからだろう、確か兄の直武が家督(か とく)を継いだ翌年──藩主側近として兄と一緒に帰藩した弘化三年(一八四八)の、季節こそ違えちょうど今とまったく同じ天候だった。その年の一月に発生した江戸の大火で、南八丁堀の上屋敷が類焼し、そのあと江戸を離れた数えで十一の思春期──。
 兄が家督を継いでからというもの、もはや自分は当主になることもないだろうと、ある種の(あきら)めが心を重くしていた時期がある。そんなことは堀家の五男坊として産まれた時点で分かっていたが、世話焼(せ わ や)きの者達が口々に「若様(わか さま)」などと呼ぶものだから、いつの頃からか心のどこかにもしや≠ェ生まれていたのかも知れない。しかし兄が厳然と当主になった日、自分の中で何かがはじけ、
 「違う……」
 と、とても居心地(い ごこ ち)の悪い気持ちが湧いて出たことがある。
 否、そうでない──
 あの例えようのない重く暗い心持ちは、家督を継いだ兄の存在がもたらしたものでなく、何かもっと大きなものに対する虚無感だった。須坂に帰藩する五カ月ほど前、江戸の町を灰燼(かい じん)に帰した弘化の大火災で、美しいまでの火の粉が飛び交う炎の中で、たまたまいた上屋敷が炎に呑まれゆく光景を目の当たりにした衝撃は、幼心に少なくともそれまでの人生観を一新するものであり、死人が千人出たと聞いた時には「生き延びることができて良かった」というより人の命の儚さを感じずにいられなかった。
 「口減らしだ。お前も兄と一緒に須坂へ行け」
 父に言われて江戸から追い出されるように直武の伴をしてきたが、その翌年の六月に参府を控えた三月下旬には、今度は死者一万人ともいわれる善光寺大震災が発生したのである。須坂陣屋の揺れも甚だしく、家屋の棚や箪笥が倒れ建物の壁にいくつものひび割れを作った。その震災による千曲川の氾濫被害もさることながら、須坂陣屋すぐ裏の鎌田山の頂きに登って四顧すれば、善光寺平方面の夜空が三日三晩オレンジ色に染まっていたのをその目で見たのだった。
 「あの淡い光の中で、いったい何人の人の命が燃えているのか──?」
 そのやるせない心持ちを押えるように、震災後まもない町中へ陣屋を抜け出した。そう、今日と同じように目的もなく歩いていると、眼前(がん ぜん)に広がる災害とは対照的な、同じこの緑鮮やかな桑畑と遭遇(そう ぐう)したのだ。
 あのとき──
 桑畑に七つくらいの童女(どう じょ)と五つくらいの(わらべ)が桑の実をほおばり、口の中を紫色(むらさき いろ)に染めているのを見かけた。二人は姉弟(きょう だい)のようで、桑の葉を()みに来たところが実を食べるのに夢中になってしまったことは、背負(せ お)う大きな桑背負(くわしょい)(かご)の中に、まだ半分ほどしか入っていない桑の葉の量でおおよそ察しがついた。震災のことなど歯牙にもかけないその姉弟の光景が(いと)おしく、
 「何をしておる?」
 声をかければ、驚いて逃げ出した姉弟の後を、良山は本能的に追いかけた。
 (しばら)く行くと、二人は粗末(そ まつ)なあばら家の中に「お糸姉(いと ねえ)ちゃん!」と叫びながら駆け込んだ。入り口あたりに無数のまぶしが立てかけられているのを見ると養蚕業を営む家に違いなく、戸口に立って「なぜ逃げる?」と屋内に向かって声を挙げると、中から彼と同じ十歳くらいの土で汚れた少女が顔を出し、腰の刀を見て恐縮(きょう しゅく)したように「お(さむらい)さん?」と(つぶや)(ひざまず)いた。
 「お許し下さい。妹たちがなにか無礼(ぶ れい)を働きましたでしょうか?」
 土間(ど ま)一面に蚕が飼われた薄暗い屋内の隅で、先ほどの二人が身体を寄せ合ってこちらを見る穢れなき瞳の色が胸を突き刺した。
 「桑畑であの二人を見かけてな、うまそうに桑の実を()っていたから声をかけたのじゃ。そしたら逃げ出したので追って来た。こちらは糸師の家か?」
 「左様(さ よう)です」と、少女は顔を伏したまま答えた。
 腰の物が彼女を委縮させてしまっていることに気付いた良山は、刀を鞘ごと抜いて少し離れた壁に立てかけ、
 「そうかしこまるな。一応士族ではあるがたいした身分でない。(おもて)を上げて話をしよう」
 お糸姉ちゃんと呼ばれた少女は最初戸惑(と まど)った様子だったが、やがて顔を挙げ、年も近かったせいもあるだろう、身分のことなど忘れて二人はすっかり打ち解けた。
 彼女は糸師の長女で名を(いと)といい、商品を納めに出た父親の留守(る す)を仕事をしながら待っているのだと言う。母はなく、自分が母親がわりで妹と弟の面倒を見ており、今日中に蚕を全部メダナへ移さなければいけないのだと、黙々(もく もく)と仕事を始めるのだった。
 「こんなことを毎日しているのか?」
 糸は怪訝(け げん)な顔をして良山を見つめた。そのはずである。良山にとっては物珍(もの めずら)しくとも、彼女にとっては物心ついてからの当然の仕事なのだ。
 「ひとつ糸師の仕事をわしにも教えてくれぬか? 武士など人に仕えてなんぼじゃ。それより腕に職を付ければそれだけで生きてゆける」
 自然の脅威を前に虫けらのように死んでいく人の命もあれば、目の前の少女のように、それでも力強く生きようとする人の命もある。その少女の瞳の輝きに、彼は状況や環境に翻弄される己の弱さを見たのかも知れない。
 「本気で言っているのですか?」と糸は花のように笑った──。
 それからというもの、連日のように彼女の家へ通って養蚕の仕事を教わるようになった。陣屋を出るときは刀を持たず、着物も汚れてもよいボロを着て行ったから、ますます彼女は気を許し、良山のことを「(りょう)ちゃん」と呼ぶようになった。
 桑摘みをしながら自分の仕事を誇らしげに語る彼女によれば、そもそも養蚕業、あるいは糸師と一口に言っても蚕種農家と生糸生産者とそれらを扱う商人がおり、商人には蚕種(さん しゅ)を扱う(まゆ)仲買人と生糸を扱う糸商人とがあって、須坂における生糸産業の歴史はその両者による争いでもあったと言う。その争いを回避するため糸仲間が結成され、今では世話人の下で出釜(で がま)の生産形態が出来あがっている。出釜というのはいわゆる問屋制家内工業のような生産形態のことで、繭仲買人が繭を買い付け、農作業の合間に農家の婦女子に糸繰(いと ぐ)りの仕事を与え、蚕種の仕入れから生糸の生産までを村の有力者が一手に引き受ける方式である。ところが糸が住む相森(おう もり)は、すぐ隣りが松代藩領の小河原という地籍で、歴史的には須坂の生糸産業よりずっと古い。しかも糸の家は上州座繰(じょう しゅう ざ ぐ)り≠ニいう最新の機材を備えた、蚕種から生糸生産までを行う専業蚕種農家なので、営業力さえあれば須坂の糸仲間に加わらなくても自力でやっていくことができた。昔から松代藩小河原や天領小布施との結びつきが強い分、領内の同業者のしがらみも少ないらしい。
 そんな話を聞きながら、心の煩悶(はん もん)を忘れるように良山は初めての養蚕体験に没頭した。
 そして糸の支持に従って手伝ううちに、仕事の手順も要領もすっかり覚えてしまう。もちろん時季的にできないこともあるが、それは彼女の説明で知ることができた。
 養蚕には春蚕(はる ご)夏蚕(なつ ご)秋蚕(あき ご)の年三回(かいこ)の飼育があり、生糸をつむぐのには春蚕のものが一番質が良く、夏蚕と秋蚕は取れ高が少ない上に質もあまり良くないのだと糸は言う。糸仲間が行う出釜は、上族(じょう ぞく)といって成熟した蚕をまぶしに入れた日から七日目くらいの生繭(なま まゆ)からとった生糸が上等とされているが、
 「農家の女の子たちだって農作業の合間の作業だからみんな忙しいの。生繭を残さないように糸を取ろうとするけど、結局取り切れずに残った繭を囲炉裏で煎ったり、天日で干して、(さなぎ)を殺して、保存するんだけど、それでは日増しに艶が悪くなって糸繰りの量も減ってくるの。結局残った繭を繭仲買人に売るようになるわけ。その点、私の家は専業だから効率も良く、質もいいわけ」
 誇らしげな彼女の笑顔がまぶしい。そして毎日桑の葉を刻んで蚕に与え、蚕座(さん げ)の掃除をし、(まゆ)ができたら()して中のサナギを取り出し、サナギは()って甘露煮にして食べると珍味なのだと小壺に保存したそれを頬張っては手を動かした。
 「食べてみる?」
 と、糸はサナギの甘露煮をひとつつまんで良山の口中に(ほう)り込んだ。それは蜂の子の味にも似て、一度食べたら癖になりそうだった。
 繭は乾燥させてから(なべ)()る。
 「それでもうちは上州座繰り≠使っているから効率がいいの。このへんでは座繰り機を使ってるところなんてまだあまりないのよ」
 と自慢げに、器用に何本かの糸口を引いてはより合わせ、小枠に巻き取っていく。更にもう一度ねん糸機で大きな枠に巻き直して生糸は出来あがる。彼女は更にその生糸を絹糸(きぬ いと)にし、()ってから鍋で染色(せん しょく)して刺繍糸(し しゅう いと)を作るのだと教えた。
 百姓の(たみ)は、そんな同じことを一生繰り返し、やがて老いて死んでいくのだ。そのあまりに素朴(そ ぼく)な生きざまの中に、人の生命(いのち)の輝きを見る思いがする。糸縒(いと よ)りの作業をする彼女の横顔を(なが)めながら、働く娘のなんと美しいことかと良山は思った。
 「そんなに見ないでください。気が散ります──」
 その恥じらいの乙女(おとめ)仕草(し ぐさ)が、ふと、延年舞(えん ねん まい)の一つに、稚児(ち ご)が女装して糸を縒りながら男を待つ所作(しょ さ)があったそれと重なった。良山は、即興(そっ きょう)で和歌──(いな)、江戸で流行りの七度返し″と呼ばれる雑排(ざっ ぱい)を思いついて口ずさむ。

 糸縒(いと よ)りの 暇厭(いとま いと)おふ 糸姫(いと ひめ)の いと(いと)しいと 糸染(いと ぞ)めの(いと)

 それを聞いて、糸は仕事の手を休めてぽかんと見つめ返した。そして「意味が分からない」と言ったので、歌を紙に書いて手渡した。
 「字が読めません──」
 まだ識字率(しき じ りつ)が低い時代である。良山は優しく笑んで、
 「休みもせず、糸縒りの仕事に夢中のお糸ちゃんが、とても美しいという意味だよ」
 と教えた。糸は(ほの)かに(ほお)を赤らめ、その梅のような口元から呼吸のように小さな声で「ふ〜ん」と言って、恋文でも隠すように襟元(えり もと)にしまい込んだ。その澄んだ瞳は、まだ少年の良山にとってあまりに艶めかしく、やがて見つめ合う二人の口許は、引き合うようにそっと触れた。
 そんなことがあって間もなく参府の時を迎えた良山は、兄と伴に江戸に行ったきり、以降彼女とは会っていない──。
 と、
 「良ちゃん?」
 背中で昔の名を呼ぶ女の声がした。振り向けば、すっかり()れた女に成長した糸がそこに立っているではないか。
 「お、お糸ちゃん! どうしてここにおる?」
 思わず直虎は声を挙げた。
 「それは私の科白(せりふ)。この桑畑はうちの畑です。江戸に行くと言ったきり何年経っても帰って来ないから、てっきり向こうで所帯(しょ たい)を持って暮らしているのかと思いました」
 「そう言うお糸ちゃんはどうなのだ? 婿(むこ)さんを迎えて子もおるのではないか?」
 「そうであったらいいのですが、いまだ独りです。どこかにお嫁の(もら)い手ないかしらん? そんな事より寄っていきませんか? また糸の作り方教えてあげます。いまは夏蚕(なつ ご)の真っ最中」
 直虎は、その弾む声に誘われて、久しぶりに彼女のあばら家に立ち寄った。
 薄暗い家の中は相変わらず人の住処(すみ か)というより蚕に占領された空間で、その片隅に病に伏した彼女の父親が蚕に申し訳なさそうに横になっていた。数年前から病気がちで今は働くこともできず、妹はとっくに嫁に行き、弟の方は丁稚奉公(でっ ち ぼう こう)に出たままで、糸師の仕事は全て自分がやっているのだと糸は近況を語った。同情した直虎は、
 「女手ひとつで大変であろう」
 「それがそうでもないのです。お陰様で上田からの引き合いが多くて、父と二人の生活くらいなんとかなってしまいます」
 糸ははにかみながら静かに言った。
 「このまま糸師を続けるがよいぞ。できれば仲間をたくさん増やしておけば、将来もっと繁盛(はん じょう)することになるだろう」
 糸は不思議そうな顔をしたが、そんな話より彼女にとってはなぜ彼が須坂にいるかが気になるようで、それを自問自答(じ もん じ とう)して楽しむように、
 「分かった! 新しいお殿様に仕官(し かん)したのでしょう。それでこの間、そのお殿様と一緒に江戸から下って来たんじゃないかしら。どう、当たり?」
 直虎は目聡(め ざと)い女だと思いながら「まあ、そんなところだ」ととぼけて糸が()れたお茶をすすった。
 「今度の御殿様(お との さま)はずいぶんお(かた)い方のようですね。なんてったってご家老様に切腹を命じるくらいですもの、きっと閻魔様(えん ま さま)のようなお顔をしているんですわ。でも今年のお年貢が免除ですから悪口は言えませんね」
 直虎は閉口(へい こう)しながら「それがなかなかいい男であるぞ」と(うそぶ)いた。
 「ふ〜ん」と糸はつぶやいて、ふと何かを思い出したように部屋の奥の古い箪笥(たん す)の中をごそごそし出す。どうやら(つの)る話が山ほどあるらしい。そうして手渡されたのは一枚の紙きれで、そこには昔彼が彼女に(うた)ったあの雑排(ざっ ぱい)が書かれていた。あのとき字が読めなかった彼女は、その後歌の意味が知りたくて猛勉強したのだと笑う。そして、
 「このいと(いと)しい≠ニいうのは糸染(いと ぞ)めの(いと)≠ノ掛かっているのですか? それとも糸姫(いと ひめ)≠ノ掛かっているのですか?」
 と真顔(ま がお)で聞くのだ。直虎にとっては()(ごと)のつもりで作ったものが、糸の表情は冗談ではすまされない気迫(き はく)(にじ)み、恥じらいの頬を赤く染め、土で汚れているとはいえその表情からあの日と同じ(なま)めかしい色香(いろ か)(ただよ)わせた。
 直虎は得体の知れない妙な空気に呑まれつつ、静かに近付き合う身体にはた″と我に戻った。奥には彼女の父親も寝ているし、このままなるようになってしまったらまた要右衛門や本政にどれほどの嫌味(いや み)や悪たれを言われるか知ったものでない。慌てて「すまぬが用事を思い出した」と立ち上がり、あばら家を飛び出した。
 「次はいつ来られますか?」
 糸の言葉に責められながら、「気が向いたらな」と言い残し、逃げるように立ち去る直虎に、またひとつ小さな悩みが生まれた。