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(八)十六連発銃
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 藩主になって世界が変わった。
 (いな)──変わったというのは実感で、実際は付き合う人間の幅が広がったわけであり、以前の付き合いといえば家人とその人間関係の中でのみの生活だったのが、ひとたび藩という囲いを飛び出せば、そこは心ある者たちが西洋というものに目を据えて生きる志士たちの住処(すみ か)であった。
 打つ手がひとつ遅れれば、取り返しのつかない遅れをとっていたかも知れないと思うと、父が藩主を交代させた意味が、単に直武の身体を心配したわけでなく、何か別のところにあったのではないかと思えてくる。
 小笠原長行(お がさ わら なが みち)と出会ってより、家臣が心配するほど寸暇(すん か)を惜しんで唐津藩(から つ はん)屋敷の別邸に出入りし業務を手伝う中で、人の出入りの多さに驚かされながら、中には浪人風情の者までやってきては、長行と密談を交わしているのを横目で見ているのである。
 そんなある日、
 「内蔵頭(くらのかみ)殿、ちょっと使いを頼まれてくれぬか? これを芝新銭座(しば しん せん ざ)大小砲(だい しょう ほう)習練場(しゅうれんじょう)に届けてほしい」
 と一通の書状を手渡された。
 「して、どなたに?」
 「江川太郎左衛門(え がわ た ろう ざ え もん)殿に届くようしてくれ。まあ急いでいるわけでないから調練(ちょう れん)の様子など見聞して来てもよいぞ。いろいろ学ぶこともあろう」
 直虎は書状を(ふところ)にしまい込んで別邸を出た。
 江川太郎左衛門とは伊豆韮山(い ず にら やま)の代官を務める江川英敏(ひで とし)のことである。彼の父江川坦庵(たん なん)は、国産反射炉(はん しゃ ろ)の基礎を築いた西洋砲術の草分けである。
 幕府の代官というのは天領(てん りょう)に置かれる旗本の役人で、大きな幕府直轄領(ちょっかつりょう)の代官ともなれば数万石の大名と同程度あるいはそれ以上の統括力を持っている。坦庵(たん なん)の管轄は武蔵(むさし)相模(さがみ)、伊豆、駿河(する が)甲斐(か い)の五か国にまたがる十万石に及ぶ領地で、若い頃は世直し江川大明神(だいみょうじん)≠ニ呼ばれるほどの手腕を発揮してきたが、時折来航する外国船に対して必要以上の警戒をしなければならない土地柄でもあった。そのため蘭書(らん しょ)を読み兵学を学び、西洋における軍事手法を研究していた。
 天保十二年(一八四一)、当時西洋砲術の最先端ともいえる長崎の高島秋帆(たか しま しゅう はん)が西洋砲術による実地演習を成功させると、その脅威を目の当たりにした幕府は、西洋砲術を習得させるため坦庵を秋帆の門に入門させ、やがて高島流西洋砲術を皆伝(かい でん)された坦庵は『韮山塾(にら やま じゅく)』を開設する。そこには高島秋帆の西洋砲術を学ぼうとする幕臣や諸藩の藩士が数多く集まり、中には佐久間象山をはじめ大鳥圭介や橋本左内、桂小五郎などの名も見られる。
 彼の持論は、
 「歩兵・騎兵・砲兵の三兵を柱とする西洋式の軍制にもとづき、西洋式の小銃・大砲を導入し、それらの火器を集団的に運用すべき」
 とするもので、単なる理論でなく実践において西洋式砲術を習得しようと試みた。
 嘉永六年のペリー来航を契機に勘定吟味役格海防掛(かんじょうぎんみやくかくかいぼうがかり)に任じられた後、江戸湾防備の実務責任者として奔走することとなり、幕府から江戸内湾への台場築造(だい ば ちく ぞう)とあわせて反射炉の建造の許可を得た。『反射炉』とは不純物を多く含む銑鉄(せん てつ)を溶解して優良な鉄を生産するための炉で、その技術は十八世紀から十九世紀にかけてヨーロッパで発達したものだが、天保年間には長崎の高島秋帆が輸入した蘭書などを通じて日本にも伝わっていた。より安価で大量の大砲を製造するためには絶対的に必要な設備だったのだ。
 ところが激務による無理から病気になり、安政二年正月、坦庵はその竣工(しゅん こう)を見ることなく他界する。そして、その意志を継いだのが子の江川英敏で、幕府から芝新銭座に八千数百坪の土地を下賜(か し)され、その地に大小砲専門の演習場と付属の建物が設置されるに至る。
 つまり幕末における西洋砲術の系譜は、高島秋帆による大成から江川坦庵への伝授、そして坦庵の『韮山塾』からの弟子の輩出、更に坦庵死後はその弟子たちによる芝新銭座大小砲習練場からの普及という一つの構図が成り立つ。
 とはいえ文久に入った今になっても、西洋砲術と言ったところで攘夷派や一般民にとってはまだまだ関心は薄く、ようやく普及の途につきはじめた時分である。
 長行の別邸から芝新銭座の大小砲習練場までは、外濠(そと ぼり)に架かる新シ橋を渡って道なりに進み、距離にして一里もない。近くには将軍の別邸浜御殿(はま ご でん)があるが、幕臣といっても御門警備の分際では、幕府の軍事演習の現場などチャンスがない限り施設に近付くこともない。その道のりを要右衛門を伴にした直虎は、西洋の小銃や大砲の調練の様子を見聞できる幸運に胸をわくわくさせた。すると、
 「アニキ!」
 聞き覚えのある声に振りむけば、三頭の馬にまたがった三人の家族連れ。声の主は歌舞(か ぶ)いた衣装に身をまとう、年頭に出会った大関家の跡取り泰次郎で、後ろには西洋を真似た正装姿の大関増裕(おお せき ます ひろ)とその妻待子(まち こ)が並んで、少し照れくさそうにしていた。主君の親戚の登場に、伴の要右衛門はその場にひざまずいた。
 「こりゃ(まっ)さん、どうしたその恰好(かっ こう)は? おや、髪型を変えたか?」
 直虎は月代(かさ やき)(頭髪を()りあげた部分)のせまい増裕の丁髷頭(ちょんまげあたま)を見て言った。
 「最近、なんでもかんでも西洋、西洋だ。わしもあちらさんに習って、ちと髪を伸ばしてみようと思ってな……」
 増裕はまだ生えかけの月代(さか やき)部分を()いて苦笑い。これより後、『講武所髷(こうぶしょまげ)』と呼ばれるその髪型は江戸で大流行することになる。そんなことより目を引くのは、当時女性の馬術などほとんど稀有(け う)な時代にあって、隣で同じように馬にまたがっている待子の凛々(り り)しさで、このとき色香(いろ か)漂う二十三の彼女を直虎は()()れと見つめた。
 「巴御前(ともえごぜん)かとみまごうたわい」
 「織田家から鈴木勘右衛門(かんえもん)殿を屋敷に招いて、愚妻(〇 〇)長足流馬術(ちょう そく りゅう ば じゅつ)稽古(けい こ)をさせておるのです。それでも最近ようやく板についてきましたかな?」
 増裕は待子を自慢げに見つめて「かかかっ」と笑った。
 「まあ、愚妻(ぐ さい)なんてヒドイっ」
 馬上から(にら)む待子の視線上にある増裕の顔を、直虎は少し(うらや)まし()に見つめた。
 「仲のよろしいこった。で、どうしてかようなところに?」
 増裕は思い出したように事情を話し出す。
 「須坂藩邸に行ったら外桜田(がい さくら だ)の唐津藩邸に行ったというから来てみたのさ。会えてよかったよ」
 「急ぎの用かい? それにしたって家族連れでその仰々(ぎょう ぎょう)しさは、何かめでたい事でもあったかな?」
 「実は、このたび講武所奉行(こう ぶ しょ ぶ ぎょう)″に任じられ、今日はその報告と挨拶に来たのだ」
 「こ、講武所の奉行に?」
 直虎は思わず声を挙げた。『講武所』とは幕府直轄の兵学校のことである。ペリー来航に伴い浜御殿の南側に四町の大筒操練場(おお づつ そう れん じょう)が作られたのが始まりだが、正式に発足したのは安政三年(一八五八)で、間もなくその場所は軍艦操練所(ぐん かん そう れん じょ)となり、組織改編に伴って洋式調練や砲術を教授する『講武所』は神田(かん だ)に移された。その奉行に抜擢(ばっ てき)されたとは、ほぼ同時期に藩主となった従兄弟(いとこ)にして随分な出世のしようである。
 「それはおめでとうございます!」
 「忙しくなってからでは挨拶もままならないと思い、いち早く知らせに参ったしだい。(なお)さん、これからはなにもかも西洋に見習わなきゃいかん。遅れをとるな」
 「そりゃご丁寧に。こんな所で立ち話も難だ、茶屋にでも入るか?」
 「それには及ばん。まだ回るところがある。(なお)さんも用事の途中だろ?」
 増裕は「ドウっ!」と叫ぶと馬を回した。それに従おうとした派手な衣装の泰次郎の腕を(つか)んだ直虎は、「またゆっくり遊びに来い」と早口に伝えた。
 「そうします。実はおいらもアニキに相談があるんです」
 「金の相談以外なら何でも申せ」
 「これです……」
 泰次郎は右手の小指を立てて頭を掻くと、三人は慌ただしそうに立ち去った。
 こんなふうに大関増裕は、暇を見つけては時折待子と(くつ)を並べて、江戸市中を馬で遠乗りするのが楽しみだったと伝わる。その派手々々しさに驚嘆の目を見張った市中の人々は、後にこんな狂歌(きょう か)落首(らく しゅ)にして通路の板壁に貼りだした。

 夫婦して江戸町々を乗りあるき異国の真似する馬鹿の大関

 「あれは報告に来たというより馬に乗れる嫁さんを見せびらかしに来たのですなぁ。それにしたってあの息子のていたらくは何たる様……」
 要右衛門が膝の砂を払って立ち上がった。
 「親と一緒に挨拶まわりとは、泰次郎にしては上出来じゃ」
 二人は西洋風を装った夫婦と歌舞伎役者まがいの様相をした息子のアンバランスな家族の後ろ姿を見送った。

 江川英敏(ひで とし)の屋敷は大小砲習練場敷地内東側にあり、すぐ隣の習練場からはときたま大きな号令とともに鉄砲のパンパンという耳をつんざく音が響いていた。到着した直虎は門番の男に主人の在宅を確認して「小笠原図書頭(ずしょのかみ)様の使いで参りました」と告げると、門番の男は直虎と要右衛門の身なりを注意深く観察してから、腰の刀を預かり「どうぞ」と中に招き入れた。直虎は要右衛門を外で待たせると、そのまま屋敷内へと入った。
 はたして客間で姿を現したのは二十代半ばの目付きの鋭い面長(おも なが)な貴公子で、
 「江川太郎左衛門英敏と申します。図書頭様から何でしょう?」
 と対座し、直虎も名乗って頭を下げて、懐から書状を差し出すと、英敏はその場でさらりと黙読し始めた。
 坦庵から家督を継いで今年で七年目になる英敏は、父の事業の全てを引き継ぎ完成へと導いた敏腕(びん わん)である。一端は閉門となった韮山塾(にら やま じゅく)を再開させ、習練場は多くの門下や、小銃や大砲術を学ぶ幕臣たちで賑わい、そこで学んだ人数は延べで三千人とも言われる。幕府からは鉄砲方という職務を任されていたため、昨年の五月には同門の鉄砲組を率いて日本初のイギリス公使館になっていた東禅寺の警備にも加わり、公使ラザフォード・オールコックの守衛も任されていた。同所ではオールコック付き通訳が門前で殺害されるとか、攘夷派水戸藩浪士によって寺が襲撃されるなどの死傷事件が発生しており、まさに時代の最先端で任に当たる彼の双眸(そう ぼう)からは、死と隣り合わせの物を射るような光を放っていた。
 「返書をしたためるので暫しお待ち願えませんか?」
 と英敏が言った。
 「ならばその間、習練場を見学してもかまいませんか?」
 「どうぞお好きに。興味がおありですか?」
 「拙者(せっ しゃ)(わず)か一万石の信州須坂は堀家の当主ですが、藩の軍備を西洋化しようと思っております」
 「それはけっこう」
 英敏はひとつ笑んで客間を出て行った。それを見送った直虎は屋敷を出、すぐ隣の習練場へ向かって歩いていると、
 「片井(かた い)先生、横浜から荷が届きましたぞ!」
 と声が聞こえた。見れば二人の門人らしき(さむらい)が、離れの建物に三、四尺ほどの細長い二つの木箱を運び込んでいる。直虎が気を止めたのは片井≠ニいう名に覚えがあったからで、近くに寄って「中身は何か?」と愛嬌(あい きょう)笑いで聞くと、
 「さあな? 片井先生のことだから、どうせ西洋のライフル銃とかじゃないか? きっと研究のための標本さ」
 「あの年でよくやるよ。まだ自分の方が西洋より優れていると思ってんだから」
 二人の侍は交互に言って笑い合うと、
 「誰が年だって?」
 離れの中からしわがれた大声がした。
 「こういう話ばかり耳が()えるよ」
 二人はうつけたように屋敷を立ち去った。
 「おおっ、来たか!」
 姿を現したのは傘寿(さん じゅ)にもならんとするよぼよぼの(じい)さんで、重そうな木箱を屋内に運び込もうとする動作に職人気質(しょくにんかたぎ)頑固(がん こ)さが垣間(かい ま)見えた。
 「手伝いましょう」
 直虎は近寄って一緒に荷の運び込みを手伝い、鍜治場(か じ ば)のような暗い部屋に入った。辺りを見回せば鉄の(かたまり)や細かい環貫(かん ぬき)やくの字に曲がった金具、ヤットコ(ばさみ)鉄刀鎚(てっ とう づち)などの道具類がところ狭しと置いてあり、格子戸(こう し ど)から差し込む日の光は強烈な火薬の匂いを漂わせた。
 「荷の中身はいったい何ですか?」
 「これか?」
 爺さんは「何だと思う?」と言いたげに鉄梃(かな てこ)で木箱の(ふた)を開けようとしたが、
 「おっと、どこの誰だか知らん(やつ)に教えるわけにいかん」
 と手を止めて、(しわ)だらけの乾燥した茶色い肌に、目だけ爛々(らん らん)と輝かせて直虎を睨んだ。
 「怪しい者ではございません。小笠原図書頭様の使いで江川様のところに来ました。習練場を見学させていただこうと屋敷を出たところ、この荷が運び込まれるのを見かけたもので」
 「唐津藩の使いか?」
 「そんなところです。もっとも私は唐津藩ではなく信州須坂藩ですが」
 「須坂……?」
 「ご存知ですか?」
 「わしも軽井沢出の松代藩士だからな」
 爺さんは同州の仲間に会った喜びからか、(わず)かに口許をほころばせ、
 「攘夷派の間者ではなさそうじゃな。わしのすることは幕府の機密だ。他言無用じゃぞ」
 そう言って木箱を空けると「これかぁ」と呟いて、目を更に輝かせながら中から新品のライフル銃を取り出した。
 「メリケン製のヘネル連発銃じゃ。十六連発らしい」
 独り言のように呟くと、細いネジ廻しを手にしておもむろに分解し始めた。
 「な、何をするんです? 輸入したばかりの新品じゃないのですか?」
 「あほう! 壊さなくて仕組みが解るか」
 この爺さん、名を片井京助、(いみな)直徹(なおあきら)という砲術家であり発明家である。
 天保十四年(一八四三)、ペリーの部下が所持するホール式元込(もと ご)め銃からヒントを得、世界に先駆け四連発の雷管式(らい かん しき)ドンドル銃を製作した男である。その特徴は点火方法にあり、火縄銃を改良した傍装雷火式(ぼうそうらいかしき)≠ヘ当時としては先進的で、火縄銃の三倍の速射能力があったという。西洋の銃は火縄式から火打ち式(燧式(すい しき))を経て雷管式へという発明経過をたどるが、京助のそれは燧式(すい しき)を飛び越えて雷管式に至ったものだ。雷管式と言っても一つ一つの弾丸(だん がん)薬莢(やっ きょう)を取り付ける形でなく、火薬玉(か やく だま)を一粒ずつ火皿(ひ ざら)の中に落として撃鉄(げき てつ)で点火させる傍装(ぼう そう)と呼ばれる仕組みで、火縄銃を進化させたこの方式なら騎乗からもあるいは雨天の時でも使用可能という代物(しろ もの)であった。
 ところが幕府はその余りに強力な性能を恐れ、秘密裏(ひ みつ り)にしたまま厳重に管理した。しかし諸外国が迫りくる国難に際し、見過ごすことができなかった京助の息子佐野三郎が「大儀に反す」と脱藩までして時の老中阿部正弘(あ べ まさ ひろ)にその銃を持ち込んだおかげで、幕府は松代藩に銃の献上を求め公開されるに至ったという経緯がある。
 直虎はそんなことより片井≠ニいう姓が気になった。というのは以前須坂藩で砲術指南役(し なん やく)として雇っていたのが片井伝助(でん すけ)という同姓の男だったからだ。
 「伝助という名の兄弟、もしくは親戚はおりますか?」
 「伝助……? さて、いたような気もしないではないが、なんせこの年になると忘れることの方が多くて困る。だいたいわしは片井家といっても養子じゃから、家についてはそれほど詳しくない」
 そう言いつつ研究に傾ける頭脳は明晰(めい せき)で、分解する部品を見つめながら「なるほど、こういう仕組みか」といちいち呟く。
 天明五年(一七八五)に信州軽井沢の農民柳沢伝五郎の子として生まれた京助は、佐久郡八満村の鍛冶師(か じ し)片井宗造の養子となって松代に移住した後、藩主真田家の御用鉄砲鍛冶(ご よう てっ ぽう か じ)となって佐久間象山に仕えた。そこで一分間に十発撃てるという『早打鉄砲(はや うち てっ ぽう)』を考案し才能を開花させた彼は、江川坦庵(たん なん)の門に入って洋式砲術を学ぶ機会を与えられるが、雷管式四連発銃はその時の作である。他にも神槍銃(しん そう じゅう)とかスプリング式空気銃なども製作し、直徹流(ちょくてつりゅう)を名乗って砲術道場まで創った。
 もっとも京助の養父片井宗造といえば佐久でも大きな家だから同姓の分家も多かろうが、須坂の砲術指南役の片井伝助は上州の生まれだったことを思い出した。それは父直格が藩主だった頃の話で、直虎はまだ生まれておらず、須坂藩士たちの笑い話として語り継がれているものである。
 ペリー来航の翌年、大砲を量産するため朝廷が五畿七道(ご き しち どう)の諸国司に太政官符(だいじょうかんぷ)『諸国寺院の梵鐘(ぼんしょう)を以って大砲小銃鋳造(ちゅうぞう)に応じる事』を発し、これを受けた幕府が諸藩に対して『毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)勅諚(ちょくじょう)』、つまり寺院梵鐘の供出を布告したのが安政年間始め。ところが須坂藩ではそれより三十年も前の文政年間に、領内の各寺院の梵鐘を献じさせ、八門の大砲を鋳造したというのだ。佐久間象山が西洋式の大砲を鋳造するより更に数十年前である。
 その時の砲術指南役が片井伝助で、その頃の大砲の弾丸といえば球状が常識だったのを、直格(なおただ)が、
 「火矢(ひ や)は細長いからまっすぐ飛ぶのであろう。弾丸も長細くしてみてはどうか?」
 という言葉を受けて、長弾(ちょう だん)を作って実験することになった。成功すれば城を焼き落とす攻城砲の原型とも言うべきもので、果たして発砲実験当日、須坂陣屋近く鎌田山(かま た やま)の山麓に(まき)三〇〇()を積み置いて、いざ発火してみれば、
 ドンッ!
 地面を揺るがすものすごい爆発音とともに火矢が放たれた。瞬転、薪はことごとく打ち砕かれて、めらめらと炎をあげ、見事実験を成功させたのである。
 ところがその事が幕府に聞こえてしまった。「謀反(む ほん)の疑いあり」と、江戸詰めの藩士が早馬で国許の陣屋に馳せ付けて言うには、
 「殿、何てことをしてくれたのですか! 御家断絶(お いえ だん ぜつ)、領地没収の沙汰(さ た)が下されてしまいます!」
 涙ながらに訴えた。時の国家老は丸山巨宰司(まる やま こ さい し)で、
 「慌てるな。徳川様のためにやったことである。話せばわかる」
 と泰然(たい ぜん)として驚かず、出府して幕府に申し開きをして事なきを得たというエピソードである。
 そんな話を気のない様子で笑いながら、
 「得てして技術というのは飽くなき欲求と戦争が産み出すものさ。この十六連発の銃も、いまメリケンで起こっている内戦の産物なのだ」
 と京助が言った。アメリカの内戦とはちょうど一年ほど前に開戦された南北戦争のことである。そして作業の手を動かしつつ何かを発見したように、
 「なるほど、ここが弾倉(だん そう)か──」
 ひとりごちた。それは十六連発の仕組みで、ライフル銃の特徴である長い銃身の下にもう一つ同じ太さの円筒(えん とう)があり、その部分が弾倉になっていて十六発の弾丸を縦に装填(そう てん)可能にし、スプリングで一発ずつ薬室(やく しつ)に送り込む構造をしきりに感心した。
 直虎は無性にその銃が欲しくなった。
 須坂藩内でも西洋化に取り組み始めたとはいえ、藩主一人が口でいくら西洋化を唱えても、決意は行動と物で示さなければ誰にも信用してもらえない。この西洋の最新式の銃でそれを示せば、半ば西洋化を冗談半分に捉えている家臣たちを本気にさせることができるのではなかろうか──同時にここに来る途中に会った大関増裕の西洋風の姿が脳裏に浮かんだ。
 「ところで二丁ありますが、二つとも分解するおつもりですか?」
 「一つは一橋慶喜(ひとつ ばし よし のぶ)様のお買い上げじゃ」
 「一橋様の?」
 「日本にこの二つしかない最強兵器じゃ。そんじょそこらで手に入れられるモノでない」
 「もう一つは?」
 「原理が分ったら破棄じゃ。わしがこれ以上のモノを発明してやる」
 「ならば私に譲ってください!」
 京助は直虎を見つめて哄笑した。
 「本体が百五十両、弾丸百発十両、占めて百六十両。払えるか?」
 直虎はぐいっと生唾(なま つば)を飲み込んだ。今の自分にそんな金などあろうはずがない。おまけに六月は参勤交代帰藩の月なのでその出費もかさむ。
 「分り申した。一カ月待って下さい。必ず用意いたします」
 「うむ。その頃にはこのライフル銃も用済みじゃ。精度を上げて新品以上の物にして組み立てておくさ」
 と、商談が成立したところで、
 「こんな所にいらしたか。内蔵頭(くらのかみ)様、主人がお探しです。返書を渡したいと」
 と英敏(ひで とし)の側近がやって来た。直虎は京助に頭を下げてまた会うことを約して戻った。
 返書を受け取った直虎は、英敏から更に『パン製法書』なる書き付けをもらった。パンは西洋の軍事携帯食でもあり、長期保存がきき、日本の兵糧丸(ひょうろうがん)より味がよく手軽に扱える優れものだと、
 「これも手前の父、江川坦庵が長崎のパン職人より学んだ秘蔵のもので、今後の軍事食の常識となるであろう。西洋化にお役立てください」
 と言った。この後直虎は、二度と再び彼と会うことはなかった。この年の十二月、江川英敏は二十四歳の若さで病死する。

 それにしても忙しい。
 この頃の直虎は、小笠原長行の屋敷通いの他、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(翌年より開成所と改名)にも盛んに通い始めた。蘭学を中心に洋学を教える昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)と並ぶ幕府の教育機関だが、そこの教授手伝いである杉田玄端(げんたん)に師事して蘭学を学ぶようになった。彼は杉田玄白の義理の孫になるが、実父は尾張藩医を務めた權頭信a(ごんどうしんびん)という男で、もともと医術を好み、やがて幕府お抱え医師も務める。一方で、嘉永四年(一八五一)に完成させた『地学正宗図(まさむねず)』は幕末最高の世界地理知識書とも言われ、その世界観は吉田松陰や橋本左内にも影響を与えたとされる。
 ともあれ夜以外はほとんど上屋敷に姿のない藩主の多忙さに、いよいよ家臣たちが心配を募らせた。
 「殿はまた今日もお出かけか?」と、真木万之助は小林要右衛門をつかまえて半分呆れ顔。
 「もう少し武芸の方に心血を注いでほしいものじゃ」と、要右衛門はいつもの愚痴を漏らした。
 「それもそうだが少し働き過ぎじゃ。藩邸にいる時も毎日横文字ばかり読んでおられる。あんなふうに昼夜わかたず勉強をしていたらお体がいくつあっても足りぬぞ」
 そこに中野五郎太夫が口を挟む。
 「拙者もそれを心配している。あの調子ではいつかご病気になられてしまうぞい」
 交互に相槌(あい づち)を打ったところを見ると、みな思っていることは同じだった。少し考えて、
 「何か保養になることをお勧めしようではないか」
 と提案したのは万之助。ところが当の直虎は旅行は嫌い、囲碁(い ご)将棋(しょう ぎ)もやらない、学問のほかに好きなものなどあるのかと、三人はほとほと困り果てた。
 そこへもう一人の家臣竹中清之丞(せい の じょう)が「なんの話じゃ?」とやって来た。
 「殿のお体のことを心配していたのだ。なにか保養になることはないか?」
 清之丞は(ひらめ)いて、とっておきの妙案があるとばかりに三人の(こうべ)を集めた。比較的頭の堅い家臣団の中では、機転の利いた発想のできる男なのだ。
 「そりゃ腰元女(こし もと おんな)を雇うに限るぞ。殿とて男じゃ、お疲れのとき我々が無粋(ぶ すい)な顔で(とお)一辺倒(いっぺんとう)の声をかけるより、美しい腰元女中(じょちゅう)に『少し御休息(ごきゅうそく)遊ばせ』とか物柔らかに言わせてみよ。(じゅう)()(ごう)を制すと申す、きっと絶大な効き目があるに違いない」
 「なるほど! ここはどうもそれに限る」と、清之丞の発案に皆感心しながら手を打った。
 しかし腰元を雇うといっても金がかかる。藩の財政はいまだ厳しく、公金を使うわけにはいかないし、四人の有り金を出し合ったところで腰元に支払う一月分の給金さえ満たせない。そこで他の家臣たちの手も借りて、あの手この手の資金作りに奔走することになった。
 須坂藩では月に何度か執政会議が開かれる。どこの藩でも行っているものだが、そこには家老、中老、藩主側用人(そば よう にん)や各部署の組頭が集まって、重要な執務が話し合われるわけだが、やっとの思いで二百両ばかりを集めた四人は、次の会議でその話を持ち出そうと算段した。藩主直虎が退府で国許に帰る期限も迫った頃のことである。
 彼らは主君直虎の性格をよく知っていた。下手(へ た)に進言しようものなら叱責(しっ せき)を買うどころか、ますます思惑(おも わく)とは逆の行動をとりだす少しつむじ曲がりなところがあるし、「ならば全員同時に進言しよう」と団結し、いよいよその機会を得た。
 議案は来月に控えた帰藩に関する内容が主で、話し合いが終わったのを見計らい、まず要右衛門が「殿、最近少し働き過ぎではございませんか?」と切り出した。
 それを受けてすかさず万之助が続けた。
 「私たちは殿のお体が心配でなりません。万一ご病気にでもなられたら、それこそ藩の一大事!」
 そこに五郎太夫と清之丞が進み出て、異口同音に同じような内容を申し述べたと思うと、
 「ひとつ進言したき儀がございます!」
 四人口を揃えて平伏した。直虎は上座(かみ ざ)から四つのオツムを見下ろした。
 「なんじゃ、申してみよ」
 すると四人は「そのぉ……」とうそぶいたあと、手はず通りに、
 「若い娘をお一人腰元に召されてはいかがかと!」
 これまた口を揃えて言うものだから、そんな算段があることを知らない家老の駒澤式左衛門(こま ざわ しき ざ え もん)は、
 「突然なにを言い出すか!」
 と顔を蒼白(そう はく)にした。重要案件が話し合われる執政会議の場で、しかも若い腰元を勧める無粋(ぶ すい)な話を殿に直接進言するなど、ひとつ間違えば切腹ものである。つい先の藩政改革においても、柳橋通いの家老野口亘理(わた り)を断罪したばかりなのだ。
 ところが直虎は俄かに笑い出した。
 「腰元じゃと? うむ、なかなかよいことに気づいてくれた。実は心当たりがないではないが、ちと金がかかるのでどうしようかと考えていたところだ」
 悪たれの一つも言われると覚悟していた四人は、意外な展開に顔を見合わせた。
 「だが金がかかるぞ、百六十両ばかり──工面できるかのう? さすればお前たちがびっくりするほどの別嬪(べっ ぴん)をさっそく召し抱えることにしよう」
 四人はすんなり話が通ったことに返って不安が湧いた。しかし会議の後、
 「殿も人の子、どこかに目星(め ぼし)を付けられた女子(おな ご)がいると見える。隅に置けないナア」
 と清之丞が言ったので、「それもそうじゃ」と納得し合った四人であった。
 それから数日して「腰元のお披露目をしたい」との沙汰が出た。
 四人のほか他の家臣が集められた広間にはささやかな酒席が設けられ、やがて登場した直虎はいつにないご機嫌な様子でこう言った。
 「これより我が藩は西洋化に向けて新たな前進を開始する! 今日の(うたげ)は要右衛門はじめ、皆で集めてくれた金の一部で準備したものじゃ。お前たちの金じゃ、遠慮せずにどんどん飲んでくれたまえ」
 お()めに預かった要右衛門と万之助と五郎太夫と清之丞は、出された酒を酌み交わしながら「これで殿のお体も少しは休まるに違いない」と喜び合って、およそ美しいであろう女性の登場を今か今かと待ち受けた。
 ところがいつまで待っても肝心の腰元が出てこない。四人の中では一番気の長い万之助も、さすがに「ハテ? どうしたことか?」としびれを切らせていると、突然、直虎が笑い壷にでも入ったかのように笑い出した。
 「お前たちは何を期待しておる? 腰元ならさっきからずっとここにおるぞ」
 と床の間を指差した。ところが女性などどこにもおらず、かわりに真新しい西洋のライフル銃が一丁、美しい着物をまとって厳かに飾ってあるだけだった。
 「そ、それは何でございます?」
 「見て分らぬか? 今度召し抱えたわしの可愛い腰元じゃ」
 直虎は片井京助から譲り受けた十六連発銃を誇らしげに手にすると、要右衛門はじめ四人に銃口を向けて「バ、バ、バ、バンッ」と茶目(ちゃ め)()たっぷりに撃つ振りをした。
 せっかく集めた二百両という金が、一瞬のうちに今日の宴と銃身が二つ並んだような見慣れない鉄砲に変わってしまったことに気付いた四人は、その衝撃に唖然と口を開いた。