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燎原ケ叒
> (七)
呆
(
ほう
)
けもの
利
(
き
)
けもの
(七)
呆
(
ほう
)
けもの
利
(
き
)
けもの
東京都台東区三ノ輪に『
大関横丁
(
おお ぜき よこ ちょう
)
』と呼ばれる一角がある。
江戸時代、その付近に
下野国
(
しもつけのくに
)
黒羽藩
(
くろ ばね はん
)
大関家
(
おお せき け
)
の下屋敷があったことからそう呼ばれるようになったと伝わるが、そこの第十五代藩主
大関増裕
(
おお せき ます ひろ
)
は、直虎の母
静
(
しず
)
の兄である
西尾忠宝
(
にし お ただ とみ
)
の実の子で、大関家の養子となって家を継いだ。つまり直虎とは
従兄弟
(
い と こ
)
関係になる。
『大関横丁由来の碑』に刻まれた文には、「黒羽藩第十一代藩主
大関増業
(
おお せき ます なり
)
は、
智徳兼備
(
ち とく けん び
)
の
英傑
(
えい けつ
)
にして藩政を教育で行い、自ら一千余巻の書を著した。特に著書『
止戈枢要
(
しかすうよう
)
』は科学的
編纂法
(
へん さん ほう
)
による構想が雄大で内容が充実しており、世界に誇るべき
不朽
(
ふ きゅう
)
の名著と云われる。在職十三年の後この
箕輪
(
みの わ
)
の別邸に住み、歌道や茶道等に精通して
人心救済
(
じん しん きゅう さい
)
のため筆を振るったが、弘化二年(一八四五)六十五歳の生涯を終った」とある。
増業
(
ます なり
)
が十一代だから直虎の従兄弟
増裕
(
ます ひろ
)
はその四代後の藩主ということになるが、どういうわけか
増業
(
ます なり
)
以降彼も含め、代々そのほとんどが養子によって家をつないできた家系でもある。特に
増裕
(
ます ひろ
)
の養父
増徳
(
ます よし
)
(十四代藩主)は、安政三年(一八五六)に
末期養子
(
まつ ご よう し
)
として家督を相続した経緯があり、十二代藩主
増儀
(
ます のり
)
の娘
於鉱
(
お こう
)
(十三代
増昭
(
ます あきら
)
の妹)を正室とした。末期養子というのは、
嗣子
(
し し
)
のない当主が事故や急病などで急死した場合、家の断絶を防ぐため緊急に縁組された養子のことで、そうせざるを得なかったのは、十三代藩主
増昭
(
ます あきら
)
が二十三歳の若さで急死したためである。
この
増昭
(
ます あきら
)
だけが唯一実子による家督相続だった点も気になるが、十四代藩主となった
増徳
(
ます よし
)
は、その四年後
於鉱
(
お こう
)
と離婚してしまうのだ。よほど仲が悪かったか、あるいは継室がいるところを見るとそちらとの愛を貫こうとしたものか、いずれにせよこの行動に対して家臣たちが「藩主による御家の乗っ取りだ!」と騒ぎ出した。家老たちはその騒動を抑えきれず文久元年(一八六一)一月、
増徳
(
ます よし
)
を座敷牢に監禁してしまった──そんな経過から直虎の母
静
(
しず
)
の実兄西尾忠宝の第二子だった
西尾忠徳
(
にし お ただ のり
)
が、形の上では
於鉱
(
お こう
)
を正室とし、実質は十二代
増儀
(
ます のり
)
の長女
待子
(
まち こ
)
の方を妻として養子に迎えられ、
大関増裕
(
おお せき ます ひろ
)
を名乗ってこの年の十月、家督を継いだというわけだった。
年齢は直虎より二つほど年下だが、予てからのお家事情の心配から養子を迎える手を尽くしていたところ、
「ついに見つけた」
と養嫡子を連れて、正月の挨拶がてら須坂藩下屋敷の叔母のところへお披露目にやってきた。母からは、
「正月くらい顔を出しなさい。直武は病気療養中で
父様
(
ちち さま
)
だけでは心配だから」
との伝言を受けていた直虎だったが、藩政改革の残務も忙しい中、年頭といえばどうしてもはずせない須坂藩にとって重要な行事があった。蜂須賀家
阿淡
(
あ たん
)
二ケ国二十五万七千右の大守が、毎年
駕
(
が
)
を
枉
(
ま
)
げて須坂藩邸までわざわざ祝賀を述べに来るのである。
石高でいったら二十五倍、なぜそのような奇妙なことが行われているかといえば、その発端は戦国末期にまでさかのぼる。
須坂藩主初代直重は、豊臣家臣だった父の内命によって徳川秀忠に仕えていた。関ヶ原の戦いを経、元和元年(一六一五)の大坂夏の陣に際し、秀忠家臣土井利勝の軍に属した直重は、先鋒として天王寺表に突き進み城将毛利勝永軍と戦った。このとき同じ徳川方の一将だったのが蜂須賀彦右衛門家政で、一番槍を競って直重は自ら矛を執り憤激した末ついに敵将を討ち取ったのだった。他の将兵も力戦して兜首三級を得たのだが、蜂須賀軍は城兵に切り崩されて手柄を挙げられずに敗走し始めた。するとそれに乗じて敵が押し寄せ、蜂須賀家の丸に万字(卍)≠フ軍旗を奪って城中に戻ろうとする者があった。敵に軍旗を奪われることは武将にとって最大の屈辱である。蜂須賀家政は驚いて、
「すぐに取り返せ!」
と雄叫びを挙げたが、もはや意気消沈の蜂須賀軍にそんな勢いは残っていなかった。
その時、その光景を見るなり汗馬を馳せて、城門際でその旗を奪い返したのが直重だった。その大胆で知略に富んだ勇ましい姿は、蜂須賀家政はもとよりそこにいた者の耳目を驚かせた。はるか遠くで見ていた徳川家康も例外でなく、
「あれは誰なるや?」
と問えば、近くにいた秀忠の小姓が、
「堀大学直重にございます」
と答える。それがきっかけで直重は軍中において初めて家康と御目見えし、さらに凱旋の後、軍賞として四千五十石余りを与えられたのである。
そして軍旗を家政に返しに行った時、
「こたびの働き、感謝の言葉もありません。よろしければ当家の紋を自由にお使いください。軍功の印です」
と、当主自ら頭を下げて礼を尽くしたのである。それを機に須坂藩は蜂須賀家と同じ丸に万字≠家紋に用いるようになった。更に蜂須賀家政は礼の上に礼を尽くす。間もなく黄金に彩られた大鎧に赤地の皮胴七子塗のヌメ皮着せ、細かな装飾を施した相引の緒がついた鎧一式が直重のもとに届けられ、そこにはことごとく丸に万字≠フ紋が刻まれていた。そして丸に万字の鎧は堀家の家宝となった。
ところが二代目直升の代になり、
「蜂須賀家と同紋とはおこがましくなかろうか? 先方が気の毒じゃ」
と言って、もともと亀甲花菱≠セった堀家の家紋の亀甲≠、丸に万字≠フ丸≠ノ変え、亀甲万字≠堀の家紋と改めた。以来それが須坂藩の紋となって今に至る。
そればかりでない──蜂須賀家政の義心は更なる上に、
『蜂須賀家よりは子々孫々廉略にすべからず』
との一書を書き残したために、毎年年始めになると、蜂須賀家の藩主、家老が堀家に訪れて新年を祝い、両家の間ではそんな慣習が息づいたのだった。
その日は藩を挙げて万端準備を整え、家宝の丸に万字の鎧を祀って酒宴を催す。忙しい時にはなんとも面倒な堅苦しい式典であるが、そんな義理堅い話が直虎は嫌いでない。
さて、蜂須賀家一行を見送った直虎は、母の伝言を思い出して下屋敷へ向かった。そこにいたのが、
「大関泰次郎と申します。以後お見知りおきを」
家人の前で顔見せしたのはまだ十二歳ほどの少年で、周囲をきょろきょろしながら、別段かしこまった素振りも見せず、どちらかと言えば厚顔な態度で名乗った。およそ若さに裏打ちされた怖いもの知らずのうつけ者か、突然義理の
従甥
(
いとこ おい
)
となったいたずら小僧のような様子に「昔のわしを見ているようだ」と直虎は心の中で笑んだ。
実父は
常陸
(
ひたち
)
府中
(
ふ ちゅう
)
藩主
松平頼説
(
まつ だいら より ひさ
)
の五男
谷衛滋
(
たに もり しげ
)
の
庶子
(
しょ し
)
だと
増裕
(
ます ひろ
)
は紹介したが、酒が振る舞われた途端、給仕に出入りする直虎の妹である緑と房をつかまえ酌をさせると、
「可愛い、可愛い、嫁に来ぬか?」
と口説き始める始末。これには静も増裕も戸惑って、ただただ笑って場を繕うしかない。
「ときに
従叔父上
(
おじうえ
)
様は須坂藩の藩主と聞きましたが、嫁はどのお女中でございますか?」
泰次郎は直虎に目配せして聞いた。
「なぜかな?」
「さすがに殿の室に手を出してはまずかろうと思いまして」
と泰次郎は粗略に笑った。別に悪気があって言ったのではあるまいが、父の直格は気分を害して勢いよく立ち上がると、「仕事がある」と荒々しく部屋を出てしまった。
「いやぁ、申し訳ござらん。まだ礼儀も作法も知らないようだ。若すぎて精力の方があり余っているのです。早く嫁を見つけてやらねばなりませんな!」と
増裕
(
ます ひろ
)
は赤面して頭を掻いたが、
「面白いことを言うのぉ。藩主になったばかりで嫁どころでないわい」
直虎は不快な表情ひとつせず、呵々大笑して彼の脇に移動し酒を勧めた。
「今日より泰次郎≠ニ呼ばせてもらうぞ。錦絵の春画ばかり見ていそうな顔をしておるのぉ」
「分かりますか?」
その
臆面
(
おく めん
)
もない即答に「正直なやつだ」と直虎は腹を抱えて笑った。
「
写真鏡
(
しゃ しん きょう
)
というものを知っておるか?」
「写真鏡……? なんでございます?」
「読んで字のごとく
真
(
まこと
)
を写し撮る鏡じゃ。見た物そのままを紙に写す西洋の機械だ」
一八三九年にフランスの画家により発明された写真機が日本に入ってきたのは一八四三年のことである。もっともそれはオランダより持ち込まれた銀板写真機で、国内産で最初の撮影に成功するまでには更に十四年の歳月を必要とした。佐久間象山も安政の初めにはすでにカメラを持っていたとされ、松代に蟄居中はその研究に没頭して自作の写真機まで作り上げた。オリン・フリーマンが日本最初の写真館を横浜に開いたのは一八六〇年のことで、文久元年(一八六一)のこの年は、フリーマンより機材を購入した鵜飼玉川という男が、薬研堀(東京都中央区東日本橋辺り)で日本人初の写真館を開いたと噂になった。しかし当時の日本人には絵にしては緻細すぎる表現が受け入れがたく、「魂が抜き取られる」と不気味がって、実物を見た者はまだまだ稀有な時代である。
「それがどうかしましたか?」
泰次郎は興味がないというどころか、口を揃えたように西洋化を語りはじめた世のお偉方たちの説教など聞くのは御免だというように盃の酒を飲み干した。
「鈍いやつじゃのう。写真鏡で女子を写してみよ。春画など物足りず二度と見なくなるわい」
泰次郎は俄かに目の色を変えて「本当か?」と直虎を凝視した。
「
一妙開程芳
(
いちみょうかいほどよし
)
も腰を抜かすぞ」
一妙開程芳は春画を描く時のペンネームで、昨年三月に逝去した超売れっ子絵師歌川国芳のことである。
「今はちと金がなくて買えんが、いずれわしは写真鏡を買うつもりじゃ。そしたら泰次郎にも貸してあげてもよいぞ」
直虎にとって彼を手玉に取るのは雑作もない。泰次郎は生唾を飲み込んで「兄貴、まあ飲んで下さい」と態度を翻して、自分の盃をまた飲み干し返盃を繰り返すと、まるで舎弟にでもなったかのように喜んだ。直虎は、また可愛い弟が一人できたようで嬉しい。
もう一人、
九鬼長門守隆義
(
く き なが との かみ たか よし
)
とは正月の
登城
(
と じょう
)
の際、江戸城『
柳
(
やなぎ
)
の
間
(
ま
)
』で知り合った。昨年十二月、
従五位下長門守
(
じゅう ご い げ なが との かみ
)
に
叙任
(
じょ にん
)
された直虎だが、従五位および無官の
外様
(
と ざま
)
大名の
寄合
(
より あい
)
の場となっている『柳の間』は、もっぱら翌月の十一日に行われる予定の将軍
家茂
(
いえ みつ
)
と
和宮
(
かずのみや
)
の祝言の話題でもちきりだった。将軍
拝謁
(
はい えつ
)
までの時間を待っている最中、向こうの方から、
「同じ長門守ですなあ」
と、気さくに声をかけてきたのである。
大名の
苗字
(
みょう じ
)
と下の名の間に「○○の
守
(
かみ
)
」とか「○○の
頭
(
かみ
)
」とか「○○の
介
(
すけ
)
」とかあるのはみな『
武家官位
(
ぶ け かん い
)
』といって将軍から承認されただけの実態のない
肩書
(
かた が
)
きのようなものである。歴代の堀家の当主は
淡路守
(
あわ じの かみ
)
や長門守、あるいは
内蔵頭
(
く らの かみ
)
等を名乗る者が多かったが、兄の直武は長門守を名乗った。そこに朝廷へ何十両ばかりの金を払えば
叙爵
(
じょ しゃく
)
が下り従五位下などの
位
(
くらい
)
が付く──ちなみに位が高いほど金もかかる。
それはさておき武家官位というのはもともとは
律令制度
(
りつ りょう せい ど
)
から生まれてきたものだが、江戸初期に定められた『
禁中並公家諸法度
(
きん ちゅう ならびに く げ しょ はっ と
)
』で「武家の官位はその職の定員外とする」とされて以降、朝廷とは切り離されたいわば単に武士の格式を示すものとなった。六代将軍
家宣
(
いえ のぶ
)
より全ての大名に授けられるようになったため今では記号同然だが、官位で名を呼ぶと
箔が付く
というメリットがあるほか、本名を呼ぶに
憚
(
はばか
)
れるときなど
諱
(
いみな
)
としての役割を果たすので彼らにとっても
重宝
(
ちょう ほう
)
している。しかし「国名」に「守」が付く官位というのは、律令制の国の数が全部で六十八ヶ国であるのに対し、大名の数がこの幕末では二五〇以上もあるから、「
内匠頭
(
たくみのかみ
)
」とか「
図書頭
(
ずしょのかみ
)
」とか「
右京大夫
(
う きょう だ ゆう
)
」などの朝廷の官職名をもらう者も多く出てきてはいるが、おのずと
重複
(
ちょう ふく
)
してしまうのだ。
「ということは
貴公
(
き こう
)
も?」
「
拙者
(
せっ しゃ
)
、九鬼長門守隆義と申す。以後、よろしゅう」
と言って、
面長
(
おも なが
)
で
精悍
(
せい かん
)
な顔つきの男は直虎の隣に座った。
九鬼隆義
(
く き たか よし
)
は安政六年(一八五九)十二月、先代藩主の
急逝
(
きゅう せい
)
により
養嗣子
(
よう し し
)
となって跡を継いだ
摂津国三田藩
(
せっ つの くに さん だ はん
)
第十三代の当主である。九鬼家といえば
熊野水軍
(
くま の すい ぐん
)
で有名な
志摩
(
し ま
)
の出で、戦国時代は織田水軍として活躍した
九鬼嘉隆
(
く き よし たか
)
を
祖
(
そ
)
とする。関ヶ原の戦いで嘉隆は豊臣方に付き、子の
守隆
(
もり たか
)
は徳川方に付いて争うが、西軍の敗北により父嘉隆は
自刃
(
じ じん
)
する。家康は守隆に
鳥羽
(
と ば
)
城と志摩領五万六千石を与えたが、更にその息子の代になって
家督
(
か とく
)
争いが
勃発
(
ぼっ ぱつ
)
した。その騒動をおさめるため幕府は、家督を継いだ弟の
久隆
(
ひさ たか
)
に摂津国三田三万六千石を、兄の
隆季
(
たか すえ
)
に
丹波国綾部
(
たん ばの くに あや べ
)
二万石を与え収拾させるが、ここにおいて九鬼氏は二つに分裂することになる。だから
宗家
(
そう け
)
から数えると
隆義
(
たか よし
)
は十四代ということになり、年は直虎より一つ下だが、藩主としては二つ先輩の彼は、優しげな目付きの奥に鋭い
眼光
(
がん こう
)
を隠し、どこか
愛嬌
(
あい きょう
)
のある直虎と並ぶと、なにやら
滑稽
(
こっ けい
)
さを
漂
(
ただよ
)
わせた妙なコンビが成立したように見えた。九鬼はにこやかに笑いながら、
「
派手
(
は で
)
な藩政改革をやったそうですな」
と、興味津々な様子で言った。
「こりゃまたずいぶんと耳が早い。いったいどこで?」
「あちこちで
噂
(
うわさ
)
ですよ。四〇人もの藩政首脳陣を
一掃
(
いっ そう
)
した上に、このご時世、
年貢免除
(
ねん ぐ めん じょ
)
、藩の
貸金
(
かし きん
)
棒引
(
ぼう び
)
き、
御用金
(
ご よう きん
)
・
献金
(
けん きん
)
免除なんて思い切ったことをやりなすった。うちの国でやったら
即
(
そく
)
財政
破綻
(
は たん
)
だ」
「一万石の小藩だからできたのです。おかげで私は
文無
(
もん な
)
しですが」
直虎は空っぽの銭入れを出して振って見せた。
「しかし諸外国が来てより藩政改革は急務。私も何かせにゃいかんと思っているのですが、何をどうしてよいやら? 堀殿は、次は何をなさるおつもりか?」
俄
(
にわ
)
かに九鬼の眼が光ったのを直虎は見た。この男もめまぐるしく変化しつつある時代の中で、危機感にも似た何かを抱いているようだ。直虎は
穏
(
おだ
)
やかな口調で、
「西洋化ですな」
と呼吸をするように答えた。
「西洋化……? と申しますと?」
「さしずめ藩の軍備体制に西洋の方式を取り入れたいと考えています」
「西洋の方式といったら、皆で足並みを
揃
(
そろ
)
えて
戦
(
いくさ
)
をする
隊列型
(
たい れつ がた
)
の
アレ
かい? ライフル銃や西洋の
大筒
(
おお づつ
)
も必要だろう?
雷管式
(
らい かん しき
)
の
銃
(
じゅう
)
(ゲベール銃)
一挺
(
いっ ちょう
)
だけでも十両はするんじゃないか? こりゃずいぶん金がかかりそうだ」
九鬼は夢物語でも見るように苦笑いを浮かべた。
「そこが問題です。だが、金のあるなしに
縛
(
しば
)
られて生きることほど
窮屈
(
きゅう くつ
)
なことはない」
直虎は
他人事
(
ひ と ごと
)
のように笑った。
「ちと
厠
(
かわや
)
へ参らぬか?」と九鬼が言う。
「拙者、尿意はもよおしておりませんが」
「城内表を出歩くのさ。そうでもしなきゃ格上の大名とお知り合いになれないぞ」
九鬼はそそくさと立ち上がり部屋を出たので、直虎もそれに続いた。すると案の定、
険
(
けわ
)
しい顔つきをした
四十
(
じ じゅう
)
くらいの男とすれ違う。
「これはこれは
図書頭
(
ず しょの かみ
)
様、相変わらず
難
(
むずか
)
しい顔をしておりますな」
九鬼は親し気に話しかけると、図書頭と呼ばれた男は直虎を
一瞥
(
いち べつ
)
して目礼した。九鬼の説明によれば、彼は名を
小笠原長行
(
お がさ わら なが みち
)
といい、
唐津藩
(
から つ はん
)
譜代
(
ふ だい
)
六万石の
世子
(
せい し
)
で
帝鑑之間
(
てい かん の ま
)
詰めの大名であると言う。昨年五月に江戸に来てより図書頭を名乗って幕府の仕事を頼まれているそうで、時代は少し下るが、第二次長州征討の際、北九州は小倉に陣を構え、長州──否幕末の異端児あの高杉晋作と下関で矛先を交えることになる男である。
ちなみに唐津藩は
肥前
(
ひ ぜん
)
にあり、佐賀藩などと並んで幕府
直轄領
(
ちょっ かつ りょう
)
である長崎奉行を助ける役割を
担
(
にな
)
っていた。その特権として長崎貿易を認められていたため、表向きは六万石と称されるが、その
実高
(
じつ だか
)
は二十万石を越えるとも噂される大金持ちである。そのやや複雑な藩内の利害と勢力関係の中で
紆余曲折
(
う よ きょく せつ
)
はあったが、現在の藩主小笠原長国は、
聡明
(
そう めい
)
な二歳年上の長行を養嗣子に迎え、藩の実権を
譲
(
ゆず
)
っていた。そのため世子でありながら幕府の公務に就く機会を得ているのである。
「図書頭様はいずれ
老中
(
ろう じゅう
)
になるお人だ」
と九鬼は言った。何を根拠にそう言ったかその時の直虎には分からなかったが、
生真面目
(
き ま じ め
)
すぎるその
風貌
(
ふう ぼう
)
の中に、「老中とはかくあるべき」という印象を持ったのは確かだった。長行は目をキッと狭めると、
「立ち話でつまらぬことを申すな。老中は幕府が決めることだ」
九鬼はごまかしの
愛想笑
(
あい そ わら
)
いを浮かべてすかさず脇に立つ直虎を紹介した。すると、
「
攘夷
(
じょう い
)
などとは全く
馬鹿
(
ば か
)
げている。そなたはどう思う?」
突然直虎に問いかけた。
「私は
松平忠固
(
まつ だいら ただ かた
)
様の影響を強く受けておりまして、
端
(
はな
)
から開国派です。海外と貿易を成し、一刻も早く藩内の軍備体制を西洋化したいと考えております」
「堀殿は金もないくせにそういうことを簡単に申す男でして──」
九鬼がそう言いかけた時、
「金がないのか? 貸してやってもよいぞ」
と、長行は直虎の双眸の輝きの中に何を見たのか、西洋化のために金を貸すのは当前のことのように言った。直虎にとっては願ってもない言葉である。
「そのかわりに一つ条件がある。
再来月
(
さ らい げつ
)
の頭にはお
暇
(
ひま
)
をいただき、わしは唐津へ戻らねばならん。しかしいかんせんまとめねばならん書類が山積みで間に合いそうもない。手伝ってくれぬか?」
直虎は「私でよろしければ」と頭を下げた。それにしても藩の西洋化にかかる莫大な費用をいとも簡単に「貸す」とはどういう男か。
「では今日からでも手伝いに来てくれ」
長行はそう言い残すと、何事もなかったかのように立ち去った。瓢箪から駒とはこのことで、九鬼とのひょんな出会いから、長行からの資金援助を取り付けたのである。
その日の午後、九鬼を伴った直虎は、
外桜田永田町
(
がい さくら だ なが た ちょう
)
にある唐津藩上屋敷邸内の
別殿
(
べつ でん
)
にやって来た。そして、部屋に無造作に散らかる書類の山を見て
愕然
(
がく ぜん
)
とした。
「ではさっそく長門守殿──」と長行が言ったので、直虎と九鬼は同時に「はい」と返事をした。
「なんじゃ? 二人とも長門守では紛らわしい。どちらか官位名を変えたらどうか?」
二人は顔を見合わせて、
「ならば堀家の当主は
内蔵頭
(
く らの かみ
)
≠名乗ったこともありますので、私の方がお
伺
(
うかが
)
いを立ててみましょう」
と直虎が言った。長行も「その方がわしの手伝いをする文官らしい」と言ったので、この年から内蔵頭≠ニいうのが直虎の通称となる。
手伝いを始めた彼は、書類の中に『西洋流
町打
(
ちょう うち
)
之事』と書かれたメモのような紙きれを見つけた。町打というのは銃や大砲の射撃発砲を修練することである。それが西洋流とあらば、もはや心をくすぐられずにおれない。「これは?」と聞けば、「西洋流の大砲を作らせて実験しているところだが、なかなかうまくいかないのだ」と長行は隠す様子もなく答えた。
西洋式の大砲については既に十年ほど前、まだペリーが来航する以前、佐久間象山が蘭学書に書かれた原理の見よう見まねで鋳造し、発射実験も成功させていたが、完全というにはほど遠く、命中率も格段に低かった。幕府内でも嘉永六年(一八五三)以来、勅命を受けて国防のため寺の梵鐘を溶かして大砲を鋳造するよう命じる『
毀鐘鋳砲
(
きしょうちゅうほう
)
の
勅諚
(
ちょくじょう
)
』を発令し、開発に取り組んではいるものの、まだまだ端を発したばかり、江戸市中にはそうした洋式砲術を教える兵学者もいたが、その必要性を感じている者は人口の比率でいえば皆無と言ってよい。
「唐津藩ではすでに西洋流の軍備を進めておられるか?」
直虎は思わず声を挙げた。
「何を驚く、遅いくらいじゃ。長州藩の屋敷には連日大砲
操練
(
そう れん
)
の兵士達が盛んに出入りしているそうだ。もっぱら
攘夷
(
じょう い
)
を図っているとの噂だが、そうはさせん」
直虎は大きな
焦
(
あせ
)
りを覚えるとともに
心躍
(
こころ おど
)
った。攘夷とか戦争といったものに対してでない。大きく動き出した時代のうねりにである。
「図書頭様のお知り合いで西洋兵学を教えてくれる者はおりませんか? ぜひご紹介願いたい!」
その勢いに押されて今度は長行の方が驚いた。「なんだ?こやつ」といった表情で見つめ返すが、愛嬌のある笑みの中にほとばしる情熱を見て取った彼は、やがて静かに何人かの名を挙げた。
「
赤松小三郎
(
あか まつ こ さぶ ろう
)
というのがいる。確か上田藩士と思ったが、以前長崎の
海軍伝習所
(
かい ぐん でん しゅう じょ
)
に顔を出したとき、勝海舟と一緒にいた男だ。オランダ人から直接数学や兵学、航海術を学んで、そのときすでにオランダの兵学書を翻訳しておった。聞くところによれば今は家督を継いで国許におるそうじゃ」
その名は直虎も知っている。島田剣術道場で出会った勝海舟の講演の中でも何度か出て来た名だが、彼が須坂のすぐお隣の上田藩士だったとは驚きだ。
「それと──」と長行は続けた。
「洋学を学ぶなら加賀藩士の佐野
鼎
(
かなえ
)
がよかろう。もともとは駿河の郷士の出だが、西洋砲術の腕を買われて前田家の家臣になった男だ。二年前、遣米使節団に随行し、今は遣欧使節として竹内下野守殿と共にエゲレスへ渡航中だったかな? あいつもひときわ目立った西洋通じゃ。将来きっと何かやらかすに違いない」
直虎はその二人の名を記憶した。
奇
(
く
)
しくもこの日、小笠原図書頭長行との出合いによって、西洋化への確かな道筋を描いたのである。そして、
脇
(
わき
)
で話を聞いていた九鬼隆義もまた、なにやら頭上で激しく回転しはじめた世の中の
趨勢
(
すう せい
)
に
煽
(
あお
)
られながら、密かに西洋化への藩政改革を決意していた。
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