> (六)切腹の沙汰
(六)切腹の沙汰
 国家老野口源兵衛らの処分を決めるため、野口亘理とその周りの家臣を省いた重臣たちが、連日密かに直虎のもとに集まった。要右衛門の報告によれば、密書を受けた丸山次郎本政が指揮を執り、綿内村の堀内教助が罪状を調査し、ひそかに一派の者達を捕えたと言う。その罪状を挙げれば、

一、藩のためといって強制労働・年貢以外の雑税などを課した。
一、町家を取り潰して貸し家を建て、耕地をならして新道を拓くため高掛人足を使い、農事の季節も無視して使役した。
一、自分に媚びる者を藩士に取り立て、多人数になると家臣の扶持給を引いたため、その多くが困窮し文武が廃れた。
一、御用金を多くとるため町役人・取締りに多く取り立て、百姓に苗字帯刀などの特権を認めたため賄賂が横行した。
一、勝手に芝宮神社を拡張し、美麗な新宅を建て、陣屋を広げ馬場を作った。
一、嘉永三年以来奢侈にふけり、下役人の姦曲を助けて栄華を極め、特に追分出張のとき上をも恐れず先払いの足軽をさし出し、臣下にあるまじき振舞いをした。

 ──などで、係った人物の名を挙げればその重臣の数三十三名にのぼり、野口源兵衛らを確信犯と断定した直虎は、その娘婿である野口亘理を即時国許へ護送し、十二月十五日付で野口らに仕置きすることを申し渡すと、その入れ替えに丸山次郎本政を家老に据えて、政務首脳体制を刷新してしまった。野口らにしてみれば青天の霹靂で、まさに電光石火の早業である。
 そこまでは何の迷いもなく断行した直虎だったが、その罪状の処分を決める段階に至って、はたと仕事の手が止まってしまった。特に重罪と見なした四人に対して、家臣たちは口を揃えて「斬首じゃ、切腹じゃ」と言い立てる。すなわちその四人とは、家老、中老ら野口源兵衛、河野連、野口亘理、広沢善兵衛であるが、いざその決断を下せとなると、簡単に人の命など奪えるものでない。藩主になる前殿は優しすぎる∞同情や優しさは一凶となり時に大きな禍根を残す″と忠告した中島宇三郎の深い皺を思い浮かべて、
 「あいつが言ったのはこの事か──」
 直虎は一人ごちて、暫く考えてこう言った。
 「藩籍剥奪、永久追放でどうじゃ?」
 「生温い!」と要右衛門は畳を叩いた。続いて式左衛門、万之助らが、
 「それでは領民に対しても、今後の政治運営においても示しがつきませんぞ」
 「極悪の四人が、それ以下の者と同じ対処ではおかしいではございませんか」
 「藩を追放したところで、別の場所で同じような事をしでかすに決まっている」
 と波風のように追い立てた。困った直虎は、
 「では無期懲役とし、一生牢につないでおこう」
 「殿!」
 家臣たちは叱責するように口を揃える。
 「お主ら気が合うのぉ……」
 直虎は「こんな時ばかり」と呆れた苦笑いを浮かべ、いたたまれず、
 「二、三日考えさせてくれ……ちと雪隠へ」
 ボソッと呟きその場を立ち去った。
 直虎にとって斬首だけはあり得なかった。どんな理由を並べ立てても、それは人殺しに違いなく、特に国が行う殺人行為は、民に対してそれを容認しているようなものである。人命軽視につながる行為は国としては絶対にすべきでない。
 となると無期懲役を極刑と位置づけるしかないが、それでは家臣たちから大反発を喰らうのである。もっとも江戸における罪人に対する一般論からしても、あるいは過去の幕府の判決を考慮しても、彼らの言い分は理解できる。死をもって償うという考え方からすれば、
 「やはり切腹が妥当か──」
 と思わざるを得ない。しかし死ぬことで本当に罪が償えるかと言えば、生きていてこそ罪を償う機会が与えられるわけであり、かといって無期懲役で一生牢獄に押し込んでしまえばその機会を奪うのと同じだ。罪人とはいえ生きていれば天が与えたるであろう使命とか天命とかいうものを持っているかも知れない。それを神や仏でない凡夫の智慧で図れるはずもない。
 であるなら一生監視付きの自由生活を与えるのが妥当か?
 否──一人の人間が改心するということは一時的にはあったとしても、その生命の次元から改めるのは至極困難であり、それ以前に、重罪を犯した人間を監視付きとはいえ市井に解き放ったのでは民が不安がって国の安定は図れない。
 「どうしたものか──」
 直虎は藩主の責任の重さとかじ取りの難しさを深く感じた。そしてようやく切腹やむなし≠ニいう結論を導き出そうとしたとき、「それでも」と思って切腹について改めて考え直してみることにした──掘直虎という人物を描こうとする時、彼にとってこの切腹≠ニはいかなるものかを理解することは、けっして避けて通れない難問であろう。
 切腹≠ニは腹≠切≠驍ニ書くが、実際歴史を紐解くと、腹を切るという自死行為が定型化したのは江戸以降で、以前は腹ばかりでなく喉や胸などを刺す場合も多く、それらを含めた自死行為もすべからく意は同じと考える。それは日本独自のものと思われがちだが、中国においては紀元前から記録が残り、日本ではまだ弥生時代に、それは忠≠竍義≠尽くした行為として民衆の心をとらえ、称賛を得てきた。この民衆に支持されてきたという点が肝で、でなければ何千年もの間、語り伝えられることはなかったろうし、その意味から言えば、それらの自死行為は肉体を滅ぼした後なお、その精神は生き続けたと言ってよい。
 そうしたとき彼が真っ先にすることは、中国における切腹事例を調べることだった。
 『呂氏春秋』が編纂されたのは紀元前二三八年の中国戦国時代末期にあたり、仲冬が紀した『弘演納肝』の故事は、そこから更に時代を遡る。
 古代中国春秋時代、衛の国に弘演という家臣がいた。あるとき主君の懿公が異民族に襲われ、肉を食べられ肝だけ残して殺害される。その遺体を見た弘演は天を仰いで嘆き悲しみ、自分の腹を割いてその肝をつかみ出し、懿公の肝を自分の腹中に納めて果てたという。後世の人々はその忠勇を讃え、この故事は後の『漢詩外伝』などでも取り扱われ、かなり後の時代になるが日本の『太平記』や、日蓮の書の中にもその記述がたびたび見られる。
 また司馬遷によって書き上げられた『史記』は、紀元前九一年頃に成立したとされる。司馬遷は匈奴に降参した友人を弁護したため武帝の怒りを買い、宮刑に処せられてなお執筆の手を止めなかった筆聖である。
 その『刺客列伝二十六』に登場する聶政という男は、人を殺して復讐を避け、老いた母と未婚の栄という姉を伴って斉の国に身を隠し、屠殺業をして密かに生計を立てていた。一方、韓の国の重臣厳仲子は、宰相侠累と仲たがいし、亡命して諸国遊行の身であった。
 ある日、「聶政という勇敢な男がある」という噂を聞いた厳仲子は彼の家に訪れた。やがて酒を飲み交わす仲になるものの、厳仲子は宰相への復讐の思いは告げず、そのまま親しい関係を続ける。
 あるとき厳仲子は、聶政の母の長寿を祝い黄金百鎰(一鎰は二十四両)という大金を贈るが、聶政はそれを拒む。このとき厳仲子は「自分は仇を持つ身である」ことを告げ協力を要請するが、聶政は「老母の存命の限りはこの身を他人に委ねるような事はできない」と断ると、厳仲子はお金を置いて立ち去った。
 それから数年後、聶政の母は世を去り、姉の栄も嫁ぐ。一人残された聶政は、「私のような田舎者に車駕を枉げて交友を結んでくれた厳仲子は、誰よりも私の事を知ってくれていた」と、己を知る者のために衛の濮陽へ向かう。再会した厳仲子は喜び「宰相侠累を討ちたい」旨を告げた。
 聶政は多勢で事を為す危険を案じ、剣を杖に単身韓に乗り込み、たちどころに厳仲子の仇である侠累を斬り捨て、更に数十人の衛兵を撃殺して目的を遂げると、自らの顔の皮を剥ぎ、目玉をえぐり、腹を割いて息絶えたのだった。
 話は続く。
 韓は罪悪人の身元を突き止めようと、その屍骸を市場にさらし、千金の賞金を懸けて触れを出したが、いつまでたってもその身元を知る者は現れなかった。
 やがて噂が姉の栄の耳に届き、厳仲子が弟の知己であったことに「もしや?」と思った彼女は韓の都へ向かい、死体が弟であるのを確認すると、
 「この男は聶政といって私の弟です!」
 と告げた。死体の見物人たちは「そんなことを言えばあなたも同罪だ」と諫めたが、彼女はきっぱりとこう言い切った。
 「厳仲子様は弟の人物を見込み、身分も財産も関係なく弟と交際いたしました。弟はその恩義に報いたのでございます。士は己を知る者のために死すと言います。私が罰を恐れて、どうして賢弟の名を世に埋もれさせることができましょうか!」
 と、三度天を呼ばわり、弟の傍らで自害して果てたのだった。
 この話は瞬く間に国中に広まり、人々は「この一件は聶政ひとりが成したものでなく、その姉もまた烈女だ」と、二人に称賛の涙を流したという。
 また、『旧唐書』は西暦六一八年の唐の成立から九〇七年の滅亡までを記したもので、日本では飛鳥時代から平安時代にかけての書で、『列伝第一三七』に登場する安金蔵は、太常工人という身分の男である。
 則天武后が即位し、子の容宗が皇嗣と決ってより、誰も容宗に近付くことができなかったが、安金蔵ら太常工人だけは側に仕えることができた。
 あるとき「容宗が謀反を企てている」との流言が立ち、則天武后は事実の糾明を行わせたところ、容宋に仕える者達は捕えられ、みな拷聞に耐えきれず虚偽の自白をしてしまう。ところが安金蔵ただ一人は容疑を否認し、
 「私の言葉を信じないのであれば、心臓を切り裂いて皇嗣の無実を証明して下さい」
 と叫び、刀を引き抜き自らその胸腹を切り裂いた。
 話を聞いた則天武后は、急いで安金蔵を宮中に運び入れ、医者に命じて五臓を体内に収め縫合し、薬を塗らせた。すると翌日、彼は息を吹き返し、則天武后はこう言う。
 「我が子は己の無実を証明できぬが、お前の忠義がそれを証明している」
 と。そして直ちに糾聞を中止させ、容宗は難を免れた。安金蔵は自分の身体を割いて死のうとすることで赤誠を示し、主人を守ったのである。
 弘演と安金蔵の話は忠≠フ手本として、また聶政と栄の話は義≠フ手本として後世に語り継がれるわけだが、これら中国の自死行為はやがて日本に伝わり、武士に特化した日本独自の死に方として根付いていく。『忠臣蔵』の集団自決などはその象徴ともいえようが、文献上日本でもっとも古いものは九八八年(永延二年)の藤原保輔の切腹である。
 藤原保輔は官僚だが盗賊としての名を残す。寛和元年(九八五)に傷害事件を起こしてから、身近な官僚を襲撃したり強盗を繰り返した挙句に捕らえられるが、その際、自らの腹部を刀で割いて自害を図り、翌日獄中で没したというものだ。
 これは一見忠≠竍義≠ニは違うもののように見えるが、腹を裂いて内臓をえぐり出したというから、形の上では前述の弘演や聶政、安金蔵のそれと全く同じである。藤原保輔の自死行為の背景を探ってみると、捕らわれる少し前、彼の父藤原致忠が捕まり監禁されている。その直後、彼は剃髪して出家した事実から察するに、けっして単なる悪篤心から犯罪を働いていたわけではなさそうだ。己の死をもって贖えるものがあるとすれば、それ相応の怨恨なり無念があるはずで、そこにはきっと己自身の生き方に対する何かがあったと見える。現にこれ以降、無念を晴らすための無念腹≠ニいう、切腹における一つの動機が生まれた。
 もっとも『史記』などには、思惑や信念を果たせず自殺する諸侯の話があるから日本独自のものとは言えないが、『平家物語』や『太平記』などに書かれる自刃つまり切腹の描写には、なにか特別な感情が込められている。
 戦国時代に入ると一層顕著だ。有名どこを列挙するだけでも織田信長、武田義信、朝倉義景、浅井長政、松平信康、武田勝頼、清水宗治、柴田勝家、北条氏政──武士という特別階級における切腹の例を見つけるに雑作もない。
 賤ヶ岳の戦い≠ノおける柴田勝家のそれは、豊臣秀吉に追い詰められ、落ち行く北ノ庄城の天守閣九段目に登った彼は、継室であった織田信長の妹お市を道連れに、
 「わしの腹を切り割く様を見て後学のために役立てよ!」
 と雄叫びを挙げ、妻子とその侍女たちを一突きにした後、自らの腹を十文字に割いたという壮絶なものだった。そして苦しみ喘ぎながら家臣の一人を呼び寄せ介錯させると、それに続いて八十余名もの者が後を追って殉死したと言う。捕虜となる恥辱を避け、お家に対する忠義や己の信念を示すための意味合いが込められているのだろう。
 豊臣秀吉が得意とした兵糧攻めにおいて見られる切腹には、また別の意味が含まれる。『三木の干し殺し』と呼ばれる『三木合戦』は、織田信長による播磨平定の際、秀吉が三木城主別所長治に対して行った兵糧攻めである。天正六年(一五七八)、東播磨一帯から集まった約七千五百が城に結集し、一年十ヶ月に渡って篭城戦が繰り広げられた。しかし結局食料が尽き、成す術を失った別所長治は、切腹をもって城兵を助命するという条件を飲んで自らの腹を切った。また天正八年(一五八〇)の『鳥取の飢え殺し』と呼ばれる『鳥取城攻略戦』においても、秀吉は吉川経家を相手に同じ兵糧攻めを行い、城中を飢餓状態に追い込む。追い込まれた城の者は人肉まで喰らう地獄のような有り様だったと伝わるが、この凄惨たる状況に耐え切れず、吉川経家は自決と引き換えに開城したのだった。経家は、
 武士の取り伝えたる梓弓かえるやもとの栖なるらん
 との辞世を残し、その死に様を哀れなる義士≠ニ讃えた秀吉は涙を流したと言う。
 そして天正十年(一五八二)、高松城を攻めた際切腹した清水宗治の潔さは、秀吉に強い感銘を与えたとされる。それは毛利征討、世に言う備中高松城水攻めである。
 本能寺の変で織田信長死去の報を知った秀吉は、一刻も早く片を付けなければならない状況に陥った。そこで使者を送って和平交渉を行うが、その条件が「高松城主清水宗治の命と引き換えに城兵を助命する」というものだった。水没した城での籠城は限界に達し、ついに宗治は城兵の命を救うため、小舟で秀吉の陣に近づき舟上で舞を舞い、切腹の道を選ぶ。
 この三件の兵糧攻めにおける城主の切腹には、それまでとは異なる特別な意味が際立っている。それは城兵の命と引き換えに城主自らが腹を切ったこと──つまり、それまでの切腹は身分が下の者が上の者に対して行っていたのが、上の者が下の者のために腹を切った点である。日本古来の武士の約束事は、戦にあっては主君が死ねば全てが決着する。つまり乱世における領主の切腹≠ニは、領民を巻き込んでそれ以上犠牲者を増さないための、平和的でもっとも確実な究極の解決策になり得たということである。これこそ和の国日本≠フ精神風土が、長い時間をかけてたどりついた一つの産物と言ってよいだろう。
 日本固有の概念とか命の傾向のことを、直虎は叒≠ニか秀気≠ニ名付けていたが、自己犠牲の精神がそれではないかと、ふと、脳裏に閃いた。
 民のために腹を切る>氛
 この長たるものの一つの死に方は、長たる者の責任として、また覚悟として後の世に継承されるべきであろう。
 清水宗治の切腹は、その作法があまりに見事であった事から、秀吉は「武士の鑑」とまで絶賛し、以降、切腹が名誉ある行為であるという認識が定着したとも言われる。豊臣秀次や千利休に対して秀吉は切腹の沙汰を下し、徳川家康もまた、関ヶ原の敗者の中でも古田織部や細川興秋などには切腹による処罰を命じた。
 それら切腹行為の中で、直虎が特に着目したのは浅井長政だった。
 琵琶湖周辺の北近江を治めていた長政は、武力で統治していたというより徳≠フ力で統治していたという色合いが強い。というのは、もともと琵琶湖周辺は食が豊富で、その自治体制は、領地を奪い合い勝利者が統治するというより、惣村≠ニ呼ばれる小さな村の集合体で形成されていたからだ。戦国時代当初は六角氏の傘下にあったが、戦上手の長政は野良田の戦いで鮮やかな勝利を収め、いつしか推されて領主となり、やがて六角氏の力を封じてしまう。その手法は命令を下して周辺惣村を武力で押えるというものでなく、横の連携で国をまとめあげる、ある意味共和制国家とも言える形である。
 その頃、東で勢力を強めていたのが隣国の斎藤氏だった。このとき、尾張の織田信長から一つの提案がもたらされる。
 「妹のお市を嫁にどうか」
 と。つまり北近江と尾張が同盟を結び、斎藤氏の美濃を挟み撃ちにするあからさまな政略結婚である。長政は斎藤氏の脅威を封じるためその申し出を飲んだ。
 ところが美濃を攻略した信長は、長政を同盟相手としてではなく配下に置いた傲慢さで天下布武≠旗印に天下統一に動き出す。更には長政と同盟関係にあった越前朝倉義景を攻撃するのだった。それがもとで両者の関係に亀裂が生じる。察するに、長政の信念は天下布武とは真逆の統治偃武≠ニもいえるもので、武力によらない平和で豊かな自領にするのが目的で、天下統一があるとしたら、その延長にこそ実現させるべきといった理想があったのではなかろうか。
 信長と敵対関係になったこの時点で、嫁のお市は信長の許へ帰されるのが戦国の習いだが、彼女は長政の許にとどまり、茶々(豊臣秀吉側室淀)やお江(徳川秀忠正室)といった後の歴史に絶大な影響を及ぼす姫たちを産む。そして長政もまた、妻お市を愛し娘を愛した。
 しかし兵力の差は歴然だった。破竹の勢いで侵攻する信長にとても勝てる見込みのない長政だったが、そこで奇跡が起こる。彼の徳≠フ力に呼応して、本願寺の僧侶たちが立ち上がり、更には朝倉軍や延暦寺の一向宗徒らも加わったのだ。信長に対抗し得る勢力に膨れあがった長政連合軍は、ついに信長軍を押し返すのだ。
 焦った信長はここで一計を案じる。そこが信長の憎いほどの才能とも言えるだろう、こともあろうに朝廷工作を行う。時の将軍足利義昭を利用して天皇に和睦調停を依頼し、勅命≠フ名の下に講和を成立させてしまう。まさにこの策は、幕末にあっては長州藩や薩摩藩が主導したそれと同じやり方と言えるが、日本という国の不思議は、国において天皇は絶対的存在≠ナあり続けてきたことだ。勅命≠ニあらば長政とて従わないわけにいかない。
 ところが──
 講和した直後、信長は京都からの北近江への道をちゃっかり寸断してしまうと、あの残忍無比な惨事として歴史に残る『比叡山焼き討ち』を決行し、長政を完全に孤立させてしまった。更には信長にとって東の脅威であった武田信玄が没すると、三万の軍勢で一気に北近江を攻め込み、長政の本拠地小谷城を取り囲む。
 命運尽きた長政のもとに降伏を勧める使者が何人も来たが、彼はそれを断り、天正元年(一五七三)秋、切腹して二十九年の生涯を閉じる。その直前、愛するお市と茶々、初、江の三人の娘を密かに城外へ逃がした──いわば長政の生涯は、信長の裏切りに翻弄され続けた一生であり、その切腹は、
 「信長よ! それがお前の人の道か!」
 という叫びでもあった。
 直虎は彼の生き方を尊敬の眼で拝す。和をもって国をつくろうとした点、家族を愛し武士の戦いに家族を巻き込まなかった点、天皇にはけっして逆らわなかった点、そして自らの腹を切って最後まで敵に抵抗した点──得体不明瞭な日本人たる者の性を感じつつ、やがて彼の思考は、江戸に入ってからの切腹の歴史を紐解きはじめた。
 まずは江戸初期。
 松平忠吉や結城秀康に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行するといった奇妙な風潮が起こった。集団の殉死自体は中国にも記録が残るから日本固有のものとは言えない。古代中国では王が死ぬと何千、何万という殉死者があった。しかしそれは君主に殉じるというより、民を養うことができなくなった国のやむを得ない手段だったようで、忠≠フ意味合いが強い日本のものとは異質である。伊達政宗の時は連鎖も含めて二十人、細川忠利の時は十九人、将軍徳川家光の時は老中や側近たちが次々と主君の後を追った。これには四代将軍徳川家綱も困って、『天下殉死御禁断の旨』という厳禁令を出したほどである。
 時代が遡ってしまうが、鎌倉時代の切腹にまつわる話を一つ──。
 法華衆の日蓮の弟子に四条金吾という武士がいる。経文に書かれた通りの法難が身に降りかかり続ける日蓮は、国主を諌暁してついに自らの教義の上で発迹顕本に位置づけられる竜の口の法難に臨む。そこでまさに斬首されようとする時、その場に付き従った四条金吾は日蓮の乗る馬の口にしがみつき、
 「われも腹を切らん!」
 と叫んで日蓮と生死を共にしようとした。結局そのときは、空に巨大な光り物(彗星と思われる)が現れて、死刑執行の役人たちは驚愕のあまり日蓮を斬ることができなかったが、後に日蓮はこの時の金吾に対して、
 「かの弘演が腹をさいて主の懿公が肝を入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり」
 と讃える。法華経の行者として切腹しようとした金吾の覚悟を不思議≠ニまで言って絶賛するのである。
 これは腹を切ろうとした武士としての金吾の切腹行為を讃えたわけでない。釈迦の経典に説かれる法難とまるっきり同じことが身に降りかかる日蓮は、最高無上の経典である法華経を身読したわけだが、その自分と生死を共にすることは、正に法華経の行者の証しであり、つまり最高の法≠ノ殉じようとした金吾の信心に対する称賛である。
 このように、ひとたび仏教に目を移せば、薬王菩薩の過去世である一切衆生喜見菩薩が法を聴き、歓喜して仏を供養するため焼身する話や、釈尊の過去世である雪山童子が、羅刹に化身した帝釈天から半偈を聞くため、その身を食べさせることを約して高い木から身を投げる話、あるいは飢えた虎のために身を捨てる捨身飼虎の説話など、法のために命を使う話がたびたび見られる。それらは命を粗末にするといった次元でなく、民衆を救済するための、人の命を尊ぶからこそ生まれた究極の人間の生き方を示しているように見える。ダイヤモンドがダイヤモンドでしか磨けないように、命も命でしか磨けないことを教えようとしているのかも知れない。
 総じて見るに、切腹とは形の上では死ぬための行為に違いないが、けっして死ぬことを目的にしていないことが歴然としてくる。つまり現代人が言うところの自殺とは全く異質のものである。
 ところが現代人は目に見える事象でしか物事を判断できない生き物に退化──というよりそういう教育をする場が皆無であるから物事の本質が分からない。生の尊厳は強調するが、万人が必ず経験することになる死の尊厳については忌み嫌って見向きもしないのだ。
 切腹についていろいろ論じてきたが、結論として、切腹による自死の背景には忠・義≠尽くす目的や己の信念≠ニか自己存在≠示すため、あるいは領民(民衆)≠フため、あるいは法≠フために命を尽くすといった大目的が必ず存在し、人はそのために命を使うことのできる生き物であると言ってよい。
 畜生たる動物はけっして忠・義・法、信念などのために命を落とすことはない。それはつまり人間であることの証明であり、古来より人は、その人間たる光に称賛の拍手を送ってきたのではなかろうか。
 ではなぜ、この切腹というものが、日本においてのみ根付き、その概念が定着するに至ったか?
 それは江戸時代以降、罪人を裁く一手段として、司法の場に取り入れられたためではないかと考えた。つまり切腹の概念が公然化したところに日本人の特色があり、日本人にはそれを受け入れる精神的土壌があった。
 裁くといっても、あくまで罪を犯した者自身が自らけじめをつける武士独自の慣習とか慣例を利用したものであるから処刑≠ニいうものとは一線を画す。とはいえ判決であるからには刑罰に違いない日本民族の曖昧さを露骨に示す一つの例とも言えるだろうが、悪しきにつけ直虎は、切腹≠ニいう概念の奥には少なからず叒≠ニいうものが潜んでいるように思えてならない。
 「切腹とは、生と死の境目を限りなく追及したところにある、日本の武士にだけ天が与えた究極の選択肢──」
 そう納得したが、今ではすっかり形骸化していることに一抹の疑問を覚えずにいられない。
 「切腹の機会は、本来他人から与えられるものでなく、究極において自ら選択すべきものであるはずだ。主君はその機会を与えるのみであり、いわば死刑にすべきを救う最期の慈悲なのだ。決断は本人に委ねることになるが、それで家臣たちが納得するのであれば──」
 と、切腹の沙汰を下す覚悟を自分に言い聞かせた。ところが、いざ式左衛門と要右衛門が最終決断を迫りに来た時、
 「ならぬ──」
 直虎はなおも拒んで二人を困らせた。
 「それでは民が納得しません!」と要右衛門は吠えた。
 「お前はわしより民に従うか? 民が腹を切れと申したら切るか!」
 「殿、聞き分けのないことを申さないで下さい」
 「その覚悟もないくせに軽々しく切腹などと申すな! わしは民が腹を切れと申したら切ってみせるぞ! その覚悟が今できたわい!」
 直虎は激怒した口調で二人を公の間から追い出し勢いよく襖を閉じた。そして暫く床の間に向かって目を閉じていたが、やがて密かに家臣のひとり柘植宗固を呼び寄せた。
 「お呼びでございますか」
 宗固は影のように姿を現わした。
 「宗さん、すまんがこれから須坂に飛んでくれ。これから告げることは要右衛門にも式左衛門にもけっして悟られてはならん、よいな」
 と小声で密命を伝えると、宗固は煙のように消えた。それから直虎は墨をすり、さらさらと切腹の沙汰を言い渡す書状を書き付け、
 「これで満足か!」
 式左衛門に投げつけるように手渡したのだった。
 こうして十二月二十九日付で、野口源兵衛、河野連、野口亘理、広沢善兵衛の四人に対し、その厳粛な沙汰を言い渡す。更に、彼らに付き従った者に対して、永久追放二十一名、藩籍剥奪十一名、隠居言い渡し一名等、処罰対象者合計三十九名に最終判決を言い渡し、その役員の総入れ替えとして、要右衛門を郡代席側用人に、北村方義を藩校立成館の教授にするなど、前代未聞の大規模な藩政改革が断行される。
 一方で、直虎本人に直訴した民蔵の処分も話し合われたが、
 「一連の事件のとどのつまりは執事らが邪であったことが全てであろう。民蔵に罪はない。後に同じような事があった時、上に意見を申しやすくするため、お咎めはなしということでどうか?」
 直虎はさあらぬ体で言った。それには家臣たちも納得して、土屋坊村事件の顛末は、その後、紆余曲折はあったものの間もなく収拾の方向へ動いていく。
 切腹の儀式は、年が明けて文久二年(一八六二)正月五日の夜に行われることとなった。ところが直前になって興国寺、普願寺、浄念寺の住職らが助命嘆願を申し出たため、四人は九死に一生を得、藩籍剥奪、永久追放の上、同寺院にお預けの身となる。
 三権分立ではないが、中世から近世の日本では武家・寺社・公家はそれぞれ独立したある種の権力を持っている。特に民事における寺社の権限は強く、それを利用して切腹の沙汰を無効せしめようと柘植宗固を使って住職らに助命の耳打ちをしたわけだが、報告を受けた直虎は、
 「そうか……」
 と呟き、遠くを見つめたきりだった。