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燎原ケ叒
> (五)
土屋坊
(
ど や ぼう
)
村の
民蔵
(
たみ ぞう
)
(五)
土屋坊
(
ど や ぼう
)
村の
民蔵
(
たみ ぞう
)
藩主交代の報は間もなく本領須坂にも伝えられ、その
噂
(
うわさ
)
がわずか一万石の領内に広がるのにさほどの時間は必要としなかった。時の国家老は
野口源兵衛
(
の ぐち げん べ え
)
はじめ
河野連
(
こう の むらじ
)
らで、
「直武様が家督を譲るとは意外だったなあ?
直虎
(
なお とら
)
ってあの良山お坊ちゃんだろ?」
「なあに、あの
直武
(
なお たけ
)
様の弟だからたいしたことないよ。今まで通りやればいいさ」
と、そんな
陰口
(
かげ ぐち
)
をたたいた。
もともと野口は越後村松藩から養子に来た野心家で、はじめは茶の相手として直格に仕えていたが、直武が藩主になるとすかさずその近くにすり寄り、顔色をうかがって細かな気を配ったものだからひどく気に入られ、時の家老丸山舎人が引責退隠したのを機に家老に抜擢された抜け目のない男であった。家老になるや否や藩中の硬骨漢と言われていた河野連を配下にしようと、独身の河野に藩中のおたかという娘を介して妻にさせ、その恩顧をもって同志に加えてしまうと、次に目の上の瘤だった駒澤勇左衛門に対してあらぬ罪をでっちあげ、彼を家老の座から引きずり降ろし政権を掌握してしまう。そして河野を中老に据えると、続いて江戸家老中野仁右衛門まで退けて自分の娘婿である
亘理
(
わた り
)
をその職に就け、如実にその本性を顕したのだった。いまや藩政は野口源兵衛の
独壇場
(
どく だん じょう
)
であり、彼の息のかかった者たちで政治を仕切り、新たな藩政改革を名目に、やりたい放題の手法で財を集めていたのである。
その一つに
貸金会所
(
かし きん かい しょ
)
の設置がある。領民へ金の貸し付けをし、その資金は年貢のほかに
御用金
(
ご よう きん
)
として強制的に領民に割り当て、しかも納める金額に応じて
名字帯刀
(
みょう じ たい とう
)
の許可や町や村役人等への採用や昇格を野放図に認める
横暴
(
おう ぼう
)
なものだったから、
巷
(
ちまた
)
では
賄賂
(
わい ろ
)
が
横行
(
おう こう
)
し、過重な負担を
強
(
し
)
いられた領民は
塗炭
(
と たん
)
の苦しみを味わっていた。貸金会所では毎日のように、
「なんだ、またお前か! 返せるあてのない
奴
(
やつ
)
に貸す金なんぞない! 利子だけでも払ったら少しは相談に乗ってやる。仕事の
邪魔
(
じゃ ま
)
だ、さっさと出てけ!」
高利貸しでなくこれは役人の
科白
(
せりふ
)
である。利子といっても現代でいえば
悪徳
(
あく とく
)
金融
(
きん ゆう
)
業者どころでない。それでもお金を借りに来た男は
粘
(
ねば
)
っていると、中から数人の
強面
(
こわ おもて
)
の役人が出て来て
殴
(
なぐ
)
る
蹴
(
け
)
るの暴行を加える。そのくせ身なりが少しでも
まし
な者が訪れれば、
「ようこそいらっしゃいました! 今日はどんなご相談で?」
と、
掌
(
てのひら
)
を返したニコニコ顔で迎え入れる──金の有る無しで人の価値を見極める役人の体質は今も昔も変わっていない。
須坂藩領
綿内村
(
わた うち むら
)
、
千曲川
(
ち くま がわ
)
を
挟
(
はさ
)
んだ飛び地に
土屋坊村
(
ど や ぼう むら
)
と呼ばれる集落があった。もともとは須坂藩第一の
石高
(
こく だか
)
を誇った綿内村の一部の人間が、千曲川を渡った対岸に土地を
拓
(
ひら
)
いて一つの村として独立したものだが、綿内村から分村した以上、須坂藩の
管轄
(
かん かつ
)
に違いない。
ところがその辺りの地籍では、毎年頭を悩ます大きな災難があった。大雨や台風による洪水被害である。地形的にいえば少し上流は千曲川と
犀川
(
さい がわ
)
の合流地点であり、二つの大きな川の勢いは、少し下ったところで
僅
(
わず
)
かに綿内側へ
蛇行
(
だ こう
)
していたため、水かさが増すと
容赦
(
よう しゃ
)
なく土屋坊へ流れ込んだ。安政六年(一八五九)五月に起こった洪水はその
最
(
さい
)
たるもので、それまで築いていた
土堤
(
ど てい
)
は
大破
(
たい は
)
し、村は
壊滅的
(
かい めつ てき
)
な被害を
被
(
こうむ
)
ったのである。土堤の修復と延長は急務であったが、綿内村に相談しても、
「そんな所に村を作ったのがいけないのだ。自分たちでなんとかしろ」
と、
分村
(
ぶん そん
)
以来の感情的な
隔壁
(
かく へき
)
から取り合ってももらえず、拡張計画が隣の松代藩領の
大豆島
(
ま め じま
)
地籍にかかっていたことから松代藩の福島村へも願い出たが、
「
馴
(
な
)
れ合いでそんなことはできん」
と
拒絶
(
きょ ぜつ
)
されてしまった。その対応に納得がいかない土屋坊村は、福島村を
寺社奉行
(
じ しゃ ぶ ぎょう
)
に
訴
(
うった
)
え出たが、そこに幕府が加わったことで、工事の
目処
(
め ど
)
もたたないまま話はますますこじれていった。いわゆる役所のたらい回しに似たものである。当然その出来事は家老野口源兵衛も知っていたはずで、明治初期のデータによると、綿内村の石高が二、五〇〇石に対して土屋坊村は
僅
(
わず
)
か一六五石、
「
年貢
(
ねん ぐ
)
もろくに納めん村など
抛
(
ほう
)
っておけ。そのうち幕府がなんとかしてくれるわ」
と、
高見
(
たか み
)
の
見物
(
けん ぶつ
)
でもするように何の救いの手も差し延べなかった。作物の不作も重なり、ついに生活の苦しみから逃れるため、土屋坊村の男たちが次々と村から逃げ出す事態にまで発展していく。
土屋坊村で
百姓代
(
ひゃく しょう だい
)
を務めていた
民蔵
(
たみ ぞう
)
は、これまでも再三にわたり須坂藩へ『水防の事』で
嘆願
(
たん がん
)
をしてきた。ところが綿内村やその他の村は
賄賂
(
わい ろ
)
を送って藩の対応を受けてきたが、それも額によって命令の内容がその都度変わるといった
杜撰
(
ず さん
)
なもので、それでも百世帯ほどの土屋坊村の民たちは必死にお金を
工面
(
く めん
)
しようとしたが、
銭
(
ぜに
)
の
匂
(
にお
)
いで態度を
翻
(
ひるがえ
)
す
風見鶏
(
かざ み どり
)
のような役人を動かすことなどできなかった。
その日も須坂藩の
陣屋
(
じん や
)
に
赴
(
おもむ
)
き、何とか願いを聞き入れてもらおうと、朝から門前で粘った民蔵だったが、結局担当の役人にすら会うことができないまま、日が暮れた街道を
提灯
(
ちょうちん
)
も持たずに土屋坊に戻った。季節はすっかり冬である。
寒々
(
さむ ざむ
)
とした星空の下、今年も不作で荒れ果てた耕地を見ながら、
「
苛政
(
か せい
)
は
虎
(
とら
)
よりも
猛
(
たけ
)
し……か」
寺小屋
(
てら ご や
)
で覚えた
故事
(
こ じ
)
を口ずさんで深いため息を落とす。
このままでは村が滅亡してしまう―――
そう思ったとき、陣屋からの帰り道、「お殿様が替わったらしいぞ」という町民の噂話が聞こえたのを思い出した。そっと耳を傾ければ、「新しい殿様の名は直虎」といい、「
四書
(
し しょ
)
にあるような
大覚殿
(
だい かく でん
)
をお世話なさった立派な方らしい」という声が聞こえた。およそ故事の虎≠ゥら連想したのだろうが、民蔵はふと、「苛政に挑むために虎を名乗ったのではなかろうか」と思い始めた。その
閃
(
ひらめ
)
きは、村をなんとか救いたいという切実な思いから、強い思い込みとなって心を支配した。
「新しい御殿様なら、我々の願いをお聞き入れくださるかもしれん!」
その翌日、彼は村の
衆
(
しゅう
)
を集めてこう告げた。
「江戸に行こうと思う……直虎様に会って来る」
村の衆は力なくどよめいた。
「
直談判
(
じか だん ぱん
)
する気か? そんなことをしたら打ち首だぞ!」
「ここで
飢
(
う
)
え死にを待つより、その方が
まし
だ。それともやはり
離散
(
り さん
)
するか?」
離散の話は以前から出ていたが、何もない荒野を開拓し、ゼロから作り上げてきた村に対する愛着はみな同じで、離散したとて行く宛などない彼らは民蔵の決意に希望を
託
(
たく
)
すよりなかった。民蔵は、着の身着のまま
遥
(
はる
)
か江戸へ向かって旅立ったのだった。
そのころ直虎は住まいを
上屋敷
(
かみ や しき
)
へ移した。それは与力や同心の組屋敷が立ち並ぶ八丁堀の南にある。
堀の長さが隅田川との合流地点より八丁(約873m)あったことからそう呼ばれるようになった地籍だが、秋は東を流れる楓川は美しい紅葉に彩られ、それと対照をなすように春は桜が咲き乱れる八丁堀川は俗に桜川とも呼ばれ、その川の南側二つ目の路地沿い、東に近江
膳所藩
(
ぜ ぜ はん
)
上屋敷、西に彦根藩蔵屋敷に挟まれた二千五百坪ほどの敷地内に屋敷は立つ。
藩主になったからには上屋敷で政務を執る習いだが、
国元
(
くに もと
)
の過去の帳簿など見て財政難の原因を探るにはこちらでなければ都合が悪い。
直武から引き継いだ職務は江戸城の御門警備で、毎月一日、十五日、二十八日と
五節句
(
ご せっ く
)
の日は将軍と
拝謁
(
はい えつ
)
するため江戸城へ登ることになる。つい先日
登城
(
と じょう
)
した際は、城内では右も左も分からないだろうと、藩主としてはひと月先輩の親戚、
大関肥後守増裕
(
おお ぜき ひ ごの かみ ます ひろ
)
を
伴
(
ともな
)
った。彼は
下野国
(
しもつけのくに
)
黒羽藩
(
くろ ばね はん
)
一万八千石の
養嫡子
(
よう ちゃく し
)
として十五代藩主になったばかりの数歳年下の
実直誠実
(
じっ ちょく せい じつ
)
な男であるが、お家の事情がやや複雑で、「どこかによい養子候補はおらぬか」と、しきりに聞いて探していたが、それについては後述することになるだろう。その隣で直虎は、得意の
愛嬌
(
あい きょう
)
を振りまいて何人かの友人ができた。ちなみに十一月十五日のその日は、
和宮
(
かずのみや
)
様
が無事に
九段
(
く だん
)
の清水邸に入ったとの噂を聞いた。
十二月に入って初旬のことだった。
御門番
(
ご もん ばん
)
の仕事を終えて上屋敷に戻ったところ、門の前でみすぼらしい農民姿の若い男が
怪
(
あや
)
しげな様子でうろうろしている。
「何をしておる?」
直虎護衛の小林要右衛門が不審そうに身元を尋ねると、男は振り返り、
「須坂藩の江戸藩邸というのはこちらでございましょうか?」
とおどおどした様子で言った。民蔵に相違ない。およそ花の大江戸にある藩邸というくらいだから
度肝
(
ど ぎも
)
を抜く大きなきらびやかな屋敷を想像していたのだろうか、案外こじんまりとした門構えの屋敷に
面妖
(
めん よう
)
そうな表情をつくった。
「
左様
(
さ よう
)
だが、なんの用だ?」
もう一人の護衛の
真木万之助
(
ま き まん の すけ
)
が近寄った。彼はもともと
河内国
(
かわ ちの くに
)
の
郷士
(
ごう し
)
で堀家に出仕するようになった
江戸定府
(
え ど じょう ふ
)
の家臣である。民蔵は恐縮して、
「新しく御
殿様
(
との さま
)
になられた直虎様にお願いの
儀
(
ぎ
)
がございまして須坂より参上いたしました」
と一口に告げた。
「直虎はわしだが」
直虎は前に進み出て、土で汚れた顔にギラギラと光る充血した彼の
眼
(
まなこ
)
を見てとった。
驚愕
(
きょう がく
)
して「ご無礼をお許し下さい!」とその場に
跪
(
ひざまず
)
く民蔵は、まさか会う目的の殿様がいきなり目の前に現れるなど思ってない。そのうえ殿様といえば
羅紗
(
ら しゃ
)
の羽織を着ていてしかるべきだとでも思ったのだろうが、突然直虎を名乗った男ときたら、
浅黄木綿
(
あさ ぎ も めん
)
の
羽織
(
は おり
)
に
小倉
(
お ぐら
)
の
木綿袴
(
も めん ばかま
)
、腰に二本の刀は差しているものの、どう見ても少しまともな
庶民
(
しょ みん
)
の出で立ち──冬だというのにどっとあふれ出る
額
(
ひたい
)
の
汗
(
あせ
)
を土にしみ込ませると、その様子に直虎は
柔和
(
にゅう わ
)
な笑みを浮かべた。
「そうかしこまらずともよい。殿様は駕籠に乗って出歩くとでも思ったか? はるばる須坂より参ったと? 須坂の
民
(
たみ
)
の前でこんなことを言うのも難だが、今は財政が厳しく何から何まで
倹約
(
けん やく
)
、倹約じゃ。苦しゅうない、まずは
面
(
おもて
)
をあげよ」
民蔵は身体をガタガタ震わせ、頭を地面にこすりつけたまま
懐
(
ふところ
)
から長旅でボロボロになった
直訴状
(
じき そ じょう
)
を頭の上に差し出した。直虎は無造作にそれを受け取り、表情ひとつ変えずに一読すると、
「長旅、疲れたであろう。まずはゆるりとドブ湯≠ノでも浸かって参れ」
ドブ湯≠ニいうのは八丁堀にある銭湯のことである。元々は同心の足洗い場がいつしか大衆浴場に変わった場所で、ドンブリ入る≠ェドブ湯≠ノなったという謂れがある。民蔵は「ドブに入れられるのか?」と直訴した報いを受け入れるような困惑の表情を作ったが、直虎が屋敷から一人の家臣中野五郎太夫を呼び銭湯へ案内するよう言いつけ、湯から出たら屋敷内の部屋に入れるよう命じたので、「処罰ではなさそうだ」と、安心したように五郎太夫に付いて行ったのだった。
上屋敷公の間に江戸家老駒澤式左衛門と要右衛門を呼び寄せた直虎は、二人の顔を静かにながめた。
「野口
亘理
(
わた り
)
はどうした?」
野口
亘理
(
わた り
)
とはもう一人の江戸家老である。国家老野口源兵衛の娘婿であるが、式左衛門は少し困った顔をして、
「柳橋ではないかと……」
と俯きがちに答えた。
「柳橋? いったい何をしに?」
柳橋といえば隅田川と神田川の合流地点に架かる神田川下流の橋だが、周辺には船宿を中心に待合茶屋や料亭などが軒を連ねる大江戸繁華街の一つである。直虎が顔をしかめる間もなく「どうせ柳橋芸者を買いに行っているのでしょう」と要右衛門が不愉快そうに言った。
「やつはそんな所へ通っておるのか?」
「いつもというわけではないと思いますが……」と同じ家老の醜態に式左衛門は言葉を濁したが、直虎は呆れて「まあ、よい」と、民蔵から受け取った訴状の文面を二人に見せた。
「どう思うか?」
そこに書かれた内容は
土堤
(
ど てい
)
が改修されない
経緯
(
けい い
)
と土屋坊の
窮状
(
きゅう じょう
)
うんぬんだが、これと財政
窮乏
(
きゅう ぼう
)
とにどんな
因果関係
(
いん が かん けい
)
がありそうかと聞いている。
『再三にわたり
水防普請
(
すい ぼう ふ しん
)
を願い出ましたが、なにごとも
賄賂
(
わい ろ
)
のご政治にて、小村で賄賂が少ないため差別され取り合ってもらえず、一村
離散
(
り さん
)
に
瀕
(
ひん
)
してございます──』
現在の
国家老
(
くに が ろう
)
首座は野口源兵衛が務めていることは皆知っており、直虎はこの時点で既にその娘婿である亘理が何らかの関与をしているのではないかと疑っている。でなければ窮乏している藩の財政を考え、柳橋などで遊び惚ける金などあろうはずがない。源兵衛を家老に
抜擢
(
ばっ てき
)
したのは直武であるが、話によれば細かなことまで気の付く切れ者ということだが、
「
賄賂
(
わい ろ
)
という言葉が気になりますな」
と、やがて式左衛門が答えた。
「そうであろう? 兄も
小銭
(
こ ぜに
)
に困り
朝暮
(
あさ く
)
れの暮らしもつきかね、家中の
扶持
(
ふ ち
)
も六割減らしたと言っておった。
既
(
すで
)
に限界を超え領民に大きな負担をかけていることはその訴状でも明白だ」
「あの者、よほど
切羽詰
(
せっ ぱ つ
)
まっていたのでしょうなぁ。直虎様だからよかったものの、
一介
(
いっ かい
)
の農民が殿に
直訴
(
じき そ
)
など、他藩でしたらその場で打ち首ですぞ」
と要右衛門が続けた。
「これが須坂藩の現実ということでしょう。賄賂でもなんでも金を
徴収
(
ちょう しゅう
)
する仕組みを作らなければもはやどうにもならないのでございましょう」
式左衛門の言葉に直虎は、直武が苦しんでいたのは
これだ
と思った。しかし、だからといって領民に過大な負担をかけて苦しめ、人道をはずすようなことまでして公金を調達するのは、国を治める者としてあってはならないことだと断じて思う。
「発想が逆であろう? 政治というのは民の側に立って国を考えるものじゃ。国を治める者、そして国の政務を司る者が最もしてはならぬことは何だ?」
式左衛門と要右衛門は首を傾げた。
「民心を乱すことじゃ。民衆ほど恐ろしいものはない。民衆が団結して総決起すれば一国などあっという間に滅びてしまう。かといって君主が不要かといえばそうでもない。国を治める者がなければ無法地帯となり、争いの絶えない状態が永遠に続く。大事なのは国の政治と民とが共存することではないか? 国の執政に関わる者たちが民の尊敬に値する振る舞いができるかどうかだ」
直虎は事の
一凶
(
いっ きょう
)
を見透かしたように続ける。
「日本書記にある
仁徳天皇
(
にん とく てん のう
)
の民のかまど≠フ故事を知っておろう。百姓の家に煙が立っていないのを見て天が君主を立てるのは百姓のためである≠ニいうあれじゃ。あれは確か三年間、税を
徴収
(
ちょう しゅう
)
するのをやめたと思ったぞ。すると三年後には百姓に余裕ができ、家々に煙が立つようになって、挙句は天皇を称賛する声で世は満ち溢れたと言う。
大和魂
(
やまとだましい
)
とはそういうものではないか? 『
老子
(
ろう し
)
』にもこう説いてあるぞ」
と紙にすらすらと文字を書きはじめた。
『民之飢、以其上食税之多、是以飢。民之難治、以其上之有為、是以難治。民之輕死、以其求生之厚、是以輕死。夫唯無以生為者、是賢於貴生。』
「民が
飢
(
う
)
えるのは君主の
食税
(
しょく ぜい
)
が多いからである。民を
治
(
おさ
)
めることが難しいのは主君の
作為
(
さく い
)
のせいである。そして民が命を軽んずるのは、豊かな生を求めているからである。ただありのままに生くる者こそ賢く
貴
(
とうと
)
いのである──」
要右衛門と式左衛門はしきりに感心し、主君に
和魂漢才
(
わ こん かん さい
)
の
叡智
(
えい ち
)
をかいま見た。
「まずは真相を確かめることだ」
直虎は、少し前の
財政改革
(
ざい せい かい かく
)
の失敗の責任を負い、家老職を追われた丸山
舎人
(
とねり
)
の息子である
丸山次郎本政にすらすらと
密書
(
みっ しょ
)
をしたためた。ここ何年も須坂へ帰っていない彼は、国許の政治がどのような顔ぶれで行われているかしっかり
掌握
(
しょう あく
)
できていない。その中で丸山家は、九代藩主
直皓
(
なお てる
)
の代より堀家に仕えてきた唯一顔の見える信頼できる家臣であった。
『もしかしたら重臣たちを罰することになるかも知れない。双方の言い分をよく聞き、つまびらかに書き並べ、罪状を聞かせてほしい。よく検討して処分を決めたい。追放する家臣を書状で通達する。直虎 花押 大司(丸山次郎)君へ』
その密書の内容も伝えず直虎は要右衛門に手渡すと、
「今すぐ須坂へ飛べ」
と命じた。要右衛門はその意味をすぐに察した。もう一人の側近である
柘植宗固
(
つ げ むね かた
)
と一緒に須坂へ下り、現地の
北村方義
(
きた むら ほう ぎ
)
らと連携し、事実確認をして真相を見極め、打てる手を打って直ちに報告せよという事である。
ここに出てきた柘植という男が伊賀国の忍者の血筋であることは前に少し触れたが、彼は直虎が元服してから直属に仕えるようになった古参の庭番である。いわゆる服部半蔵から始まる徳川家における伊賀衆は、寛永年間に麹町御門(半蔵門)周辺から四谷門外の祥山寺周辺の伊賀町に移転させられて以来、諜報業務など不要の泰平の世にあって、すっかり江戸の町民と同化しつつも忍術の継承は密かに行われていた。大名ならそうした諜報業務を専門に司る家臣の一人くらい召し抱えているものだが、目聡い要右衛門などは古くから彼に近づき、伊賀流忍術なるものを習得してやろうとちゃっかりしている。
「それから──」
と直虎は声を潜めた。
「この話は野口
亘理
(
わた り
)
の耳には入れるな。今回の件に関与しているかも知れぬ」
要右衛門は低い声で「はっ!」と応えると音もなく部屋から姿を消した──それが民蔵が銭湯から戻るまでの束の間の時間だった。
その後、「少し国許の様子を聞かせてもらえんか?」と、民蔵にあてがった部屋に直虎が顔を出したのは間もなくのこと。民蔵は驚いて終始かしこまっていたが、その愛嬌のある笑みに緊張をほぐしながら、土屋坊の
惨状
(
さん じょう
)
や役人たちの対応の様子など話して、「明日の朝には国に帰って、今日のことを皆に伝えます」と言った。
「せっかく江戸まで来たのじゃ。少しばかり町を
見聞
(
けん ぶん
)
して帰ったらどうじゃ?」
「それには及びません。お気遣いだけで私にはもったいのうございます」
「なんであれば案内に先ほどの五郎太夫を連れていけ。無粋な顔をしておるが気のいい男であろう?」
「いえいえ、恐れ多きことにございます」と、民蔵は平伏してしまった。
路銀
(
ろ ぎん
)
も持たずに村を飛び出して来たことは、土で汚れたボロボロな身なりですぐ知れる。持ち金などあろうはずもないのに、直虎は余計なことを言ってしまったと後悔した。懐から
銭入
(
ぜに い
)
れを取り出して
覗
(
のぞ
)
いてみれば、藩主ともあろう者が
一朱銀
(
いっ しゅ ぎん
)
一枚と小銭が数枚あるだけで、他人の心配をする前に自分の方が
金欠
(
きん けつ
)
なのだ。文久年間当時でその持ち金を現代の価値に
換算
(
かん さん
)
すれば数千円といったところか。これより後、米の
高騰
(
こう とう
)
で
貨幣価値
(
か へい か ち
)
は
著
(
いちぢる
)
しく低下していく。
直虎は気まずそうに「
見聞
(
けん ぶん
)
の
足
(
た
)
しにせよ」と言って、手にした銭入れを袋ごと民蔵に渡してしまった。民蔵は
拒
(
こば
)
んだが、一度出した物を引っ込めるのも
恰好
(
かっ こう
)
がつかない直虎は、
「
物見遊山
(
もの み ゆ さん
)
も後学のためじゃ。余るか知れんが、もし余ったら国元の皆に何か食わせてやれ」
そう言い残して部屋を出た。ところが案内を仰せつけた中野五郎太夫に翌日の民蔵の様子を聞けば、「
蕎麦
(
そ ば
)
を一杯食っただけで、すぐに国元へ戻りました」ということである。
それから──要右衛門が戻って来たのは、
細雪
(
ささめ ゆき
)
の降る夕暮れ時のことだった。
「たいへんなことになっておりますぞ!」と、旅の疲れを
癒
(
いや
)
しもせず口早に語り出した話によれば、家老野口源兵衛らは、
心学
(
しん がく
)
を利用して
庶民
(
しょ みん
)
からお金を巻き上げていると言う。
心学とは神道、儒教、仏教の合一を基盤とした江戸中期の
石田梅岩
(
いし だ ばい がん
)
を開祖とする学問の一派で、本来その教えは究極的に
正直
(
しょう じき
)
の
徳
(
とく
)
≠尊重する
倫理学
(
りん り がく
)
の一種である。須坂藩では第九代藩主
堀直皓
(
ほり なお てる
)
の代に
石門心学
(
せき もん しん がく
)
講舎『
教倫舎
(
きょう りん しゃ
)
』を立ち上げていたが、その後、儒学を基調とする藩校『立成館』を作ったことから、この時すでに藩内の精神的支柱となる学問は二分されていたと言える。
藩の財政に悩む前の国家老丸山舎人が、当時財政改革で高名だった京都
本覚寺
(
ほん がく じ
)
の心学者
石田小右衛門知白斎
(
いし だ しょ う え もん ち はく さい
)
を須坂に招いたのが嘉永三年(一八五〇)のこと。ところが、手紙・贈答・来客をやめ、借り入れ停止・衣服は綿服・参勤交代費を二一〇両に限るなどの五カ年改革『規定書十ヶ条』を定めたところまではよかったが、定期的に領内十三カ村を
巡回
(
じゅん かい
)
して心学を語る中で、表向きは
勤倹節約
(
きん けん せつ やく
)
を説きながらも、その行為は次第に領民から
献金
(
けん きん
)
を強要する悪質な金の取り立てへと変わっていったのだった。その手口は、
『借金あるとて石田の
隠居
(
いん きょ
)
を
小山
(
こ やま
)
へ連れ込み、心学論じて百姓だまして、献金出せとて
大小御免
(
だい しょう ご めん
)
の
裃
(
かみしも
)
くれたり、なんのかのとてむやみに取り立て、心学いうては用金、献金、
無理銭
(
む り ぜに
)
取り立て―――』
とちょぼくれ≠ノ歌われるほどで、そのあまりのひどさに
憤慨
(
ふん がい
)
した領民の感情を押えるため、石田は退任して須坂を去り、丸山舎人も責任を負って辞職したのだ。
このとき藩政を独占した野口源兵衛と
河野連
(
こう の むらじ
)
らは、根強く残ったその風潮を利用しつつ、この項の冒頭で述べた貸金会所の設置や、金額に応じた
名字
(
みょう じ
)
・
帯刀
(
たい とう
)
の許可や町村役人や取締役への昇格等、やりたい放題の暴政をはじめた。財政が
逼迫
(
ひっ ぱく
)
している時にはすべきでない
無駄
(
む だ
)
な土木建設事業もその規模が
半端
(
はん ぱ
)
でない。町家、田畑をつぶしてまで
日滝
(
ひ たき
)
道、
相森
(
おう もり
)
道、
八幡
(
はち まん
)
道の道幅を広げて新しい町を
興
(
おこ
)
して家賃を取り立てるための貸し家を建てたり、
芝宮
(
しば みや
)
神社を
美麗荘厳
(
び れい そう ごん
)
に建て替えたり、陣屋の馬場を拡張したりと、しかもその人足は全て村々に割り当て農繁期も無視して強制労働を強いたから、重税と人手不足に苦しむ農民の中には、生きる希望を失って命を絶つ者も数知れず。
挙句
(
あげ く
)
に要右衛門が見たものは、奪った金で私服を肥やし、陰でドンチャン騒ぎの飲み食いをする堕落しきった役人たちの姿であった。
自分はなけなしの金をそっくり民蔵に与えて
文無
(
もん な
)
しというのに、政治という権力を傘に
脅
(
おど
)
し
騙
(
だま
)
した金で私服を肥やすとはなにごとか!
直虎は
激怒
(
げき ど
)
して
呆
(
あき
)
れ果てた。
「もはや
秩序
(
ちつ じょ
)
もなにもあったものではありません。
民心
(
みん しん
)
は離れ、最悪の状況です」
と、要右衛門は暗い表情をつくった。
直虎の頭に中国の兵法書のひとつ『
呉子
(
ご し
)
』の『
治兵
(
ち へい
)
第三』にある言葉が思い浮かぶ。
用兵之害猶予最大(兵を用うるの害は
猶予
(
ゆう よ
)
最大なり)
戦いを起こすに当たって最大の妨害となるのは、ぐずぐずして事を決しかねることである──。
まだ藩主になって間もない彼が直面した、これが最初の
難題
(
なん だい
)
だった。
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