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燎原ケ叒
> (四)上田藩の姫君
(四)上田藩の姫君
良山
(
りょう ざん
)
改め
直虎
(
なお とら
)
が藩主になって、最初にやったことは
挨拶
(
あい さつ
)
回りである。
大江戸の町は、京都を発った
和宮
(
かずのみや
)
様がご到着されるのは今日か
明日
(
あ す
)
かと落ち着かない中、
僅
(
わず
)
か一万石の大名の藩主の誕生などに関心を示す者などない。
向こう
三軒両隣
(
さん げん りょう どなり
)
、武家屋敷が立ち並ぶ亀戸周辺を直虎は、まず須坂藩下屋敷西隣りの井上
筑後守
(
ちく ごの かみ
)
下総
(
しも うさ
)
高岡藩
(
たか おか はん
)
下屋敷から本多
隠岐守
(
い きの かみ
)
近江
(
おう み
)
膳所藩
(
ぜ ぜ はん
)
下屋敷へ、続いて南の旗本
秋月金次郎
(
あき づき きん じ ろう
)
の屋敷に松浦
豊後守
(
ぶん ごの かみ
)
平戸新田藩
(
ひら ど しん でん はん
)
下屋敷へ、須坂藩屋敷すぐ東の天神橋を渡って加藤
遠江守
(
とおとうみのかみ
)
伊予大洲藩
(
い よ おお ず はん
)
下屋敷、そのほか近所付き合いのある家々を回って、
江戸家老
(
え ど が ろう
)
駒澤式左衛門
(
こま ざわ しき ざ え もん
)
を
伴
(
ともな
)
ってからは、須坂藩と関係の深い諸藩の上屋敷を
廻
(
まわ
)
ろうと、なんとも目まぐるしい日々である。これが何万石の大名であれば、向こうの方から大層な
進物
(
しん もつ
)
を持って祝賀の挨拶に訪れるのだろうが、一万石の小国大名ではそうもいかない。十五日の登城の日には、運が良ければ将軍に拝謁した後、老中や御三家、御三卿などの屋敷も回る予定だ。
将軍に拝謁といっても直武から聞いた話しでは、従五位以下の外様大名の身分では、同等の他藩の者と同列に、広い部屋の一番下座に平伏しているだけで、はるか彼方にお座りになられる将軍様など
見れる
わけではないと教えられた。拝謁≠ナなく見れる≠ニいうのは、下級大名にして正直な表現だったろう。
その日式左衛門と、上田藩松平家の
族親
(
ぞく しん
)
にも挨拶しておこうと馬にまたがった二人は、東部浅草
茅町
(
かや ちょう
)
にある上田藩
中屋敷
(
なか や しき
)
を目指した。多い時は上方も含め五つも屋敷を持っていた上田藩は、深川扇橋にも下屋敷を持っており、そこまで気を回さねばならないのは、須坂藩にとってけっしておろそかにできない藩の一つだったからだ。
上田藩譜代五万三千石──
石高
(
こく だか
)
からいえば格が違う両藩だが、もともと自領も地理的に
近隣
(
きん りん
)
で、特にその関係を深めたのは
天保
(
てん ぽう
)
の
大飢饉
(
だい き きん
)
以降であった。どこの藩も作物が穫れず
飢
(
う
)
えに苦んでいたのは上田藩も例外でない。そんな中、隣国の松代藩が、領内からの
米穀
(
べい こく
)
の流出を防ぐため『
穀留
(
こく どめ
)
』政策を行う。上田藩は
越後
(
えち ご
)
高田へ米を買いに行こうとしたが、それができない状況に
陥
(
おちい
)
った。というのは、上田の地から越後へ行くには松代藩の領地を横切らなければならず、行くに行けずにほとほと困り果てた。そのとき道を開いたのが須坂藩だった。
水内郡豊野
(
み のち ぐん とよ の
)
より
布野
(
ふ の
)
の渡しを通して須坂藩領を経由し、
仁礼村
(
に れ むら
)
より
菅平
(
すが だいら
)
を通って
長村
(
おさ むら
)
、
本原
(
もと はら
)
、
神科
(
かみ しな
)
の道順で輸送を可能にしたのだ。いわば須坂藩は貸しをつくる形になって、松平家という名門と石高の差による
偏見
(
へん けん
)
を薄めたのである。この時の上田藩主が
松平伊賀守忠固
(
まつ だいら い がの かみ ただ かた
)
で、須坂藩主は直虎の父
直格
(
なお ただ
)
だった。
その後、松平忠固は老中に
抜擢
(
ばっ てき
)
された。嘉永元年(一八四八)十月のことである。そしてその五年後に起こる黒船来航事件で、彼はまさに幕内闘争の混乱の渦の中に巻き込まれていく。
ペリーの開国要求に対し、幕内の意見は
攘夷派
(
じょう い は
)
と
開国派
(
かい こく は
)
とに真っ二つに割れた。
海防参与
(
かい ぼう さん よ
)
に任じられ
水戸学
(
み と がく
)
の見地から
夷敵
(
い てき
)
を打ち払うべきと主張する水戸藩
徳川斉昭
(
とく がわ なり あき
)
と、文明の力をひっさげたアメリカを敵にするのは得策でないとする
穏便
(
おん びん
)
、開国派である。
開国派の中でも
忠固
(
ただ かた
)
のそれは、二世紀以上続いた鎖国制度の国の住人にしてよくぞ思いついたと言うべき先進的な開国論だった。それは単なる開国でなく、「積極的に海外と交易を成すべき」とするものだったから、
真逆
(
ま ぎゃく
)
の立場の徳川
斉昭
(
なり あき
)
との対立が深まった。しかし事態の
収拾
(
しゅう しゅう
)
を
迫
(
せま
)
られた
老中首座
(
ろう じゅう しゅ ざ
)
の
阿部正弘
(
あ べ まさ ひろ
)
は、やがて斉昭の圧力に
屈
(
くっ
)
し忠固を
更迭
(
こう てつ
)
してしまう。
ところが忠固はここで終わらなかった──幕内で孤立を深めた阿部正弘は、開国派の
堀田正睦
(
ほっ た まさ よし
)
を老中に起用し、更には老中首座の地位まで彼に
譲
(
ゆず
)
って間もなく在任中に死去してしまうと、老中首座になった堀田
正睦
(
まさ よし
)
は、再び忠固を老中に復帰させ、日米修好通商条約締結に
臨
(
のぞ
)
んだのだ。
その最中に浮上してきたのが将軍後継者問題である。十三代将軍
徳川家定
(
とく がわ いえ さだ
)
には
嫡子
(
ちゃく し
)
がおらず、その病気が悪化したためだった。
井伊直弼
(
い い なお すけ
)
ら
南紀派
(
なん き は
)
は
紀州
(
き しゅう
)
藩主徳川
慶福
(
よし とみ
)
(後の徳川
家茂
(
いえ もち
)
)を推薦し、
島津斉彬
(
しま づ なり あきら
)
や徳川
斉昭
(
なり あき
)
ら
一橋派
(
ひとつ ばし は
)
は
一橋慶喜
(
ひとつ ばし よし のぶ
)
(後の徳川慶喜)を
推
(
お
)
して争った。その間、条約締結においては、
孝明天皇
(
こう めい てん のう
)
の
勅許
(
ちょっ きょ
)
を得るか得ないかの問題になっていた。得てしてこの頃の日本の政治情勢に目を向けるとき、一般的に後継者問題の方に意識がいってしまうが、この後の日本の方句を決定づける海外との関係の舵取りにこそ重大な意味があったと言える。
忠固
(
ただ かた
)
は、
「勅許どうこうでなく、一刻も早く調印すべきだ」
と主張した。その背景には、少しでも早くアメリカと条約を結んでしまわなければ、飛ぶ鳥の勢いでアジア諸国を
植民地化
(
しょく みん ち か
)
するイギリスが、いつ日本を襲ってくるか分からないという強い危機感があった。その結果として、
勅許不要
(
ちょっ きょ ふ よう
)
の立場をとらざるを得なかったのだ。
対して
要勅許
(
よう ちょっ きょ
)
を唱える堀田
正睦
(
まさ よし
)
は天皇のいる京都へ向かうが、帰りを待っていられない忠固は、同じ開国派の
近江彦根
(
おう み ひこ ね
)
藩主井伊直弼を
大老
(
たい ろう
)
にしようと動き出す。そして勅許獲得に失敗した正睦が江戸に戻り、将軍家定に「
松平春嶽
(
まつ だいら しゅん がく
)
を大老にして対処したい」
旨
(
むね
)
を述べると、家定は「大老は井伊直弼しかいない」と発言したため、
急遽
(
きゅう きょ
)
直弼を大老とする動きが強まり、安政五年(一八五八)四月二十三日、井伊直弼は大老に就任する。
直弼
(
なお すけ
)
は
忠固
(
ただ かた
)
の言い分も理解できたが、
勅許
(
ちょっ きょ
)
なしの条約調印には反対だった。ところがアメリカが即時調印を要求してきたため、交渉の引き延ばしも限界に達した直弼は、勅許を得られないまま六月十九日、日米修好通商条約に調印した。
それから間もなく直弼は、
無勅許調印
(
む ちょっ きょ ちょう いん
)
の責任を堀田正睦と松平忠固に
被
(
かぶ
)
せ、二人を老中から
罷免
(
ひ めん
)
してしまう。これがいわゆる安政の
大獄
(
たい ごく
)
の始まりとなった。
そして忠固は翌年(安政六年)九月、突然四十八歳の生涯を閉じる──。その
遺訓
(
い くん
)
は、
「交易は世界の
通道
(
つう どう
)
である。
皇国
(
こう こく
)
の前途は交易によって栄えさせなければならない。
世論
(
せ ろん
)
は
囂々
(
ごう ごう
)
としているが、交易の通道ができるのは道理である。皆はその方法を話し合え」
だった。実にこの松平忠固こそ開国派の旗手であり、その中心人物だったと言わざるを得ない。直虎もそんな彼とは何度か会っており、開国の必要性を強く感じていた。
忠固の死後、上田藩主を継いだのは当時まだ数えで十歳の子、
忠礼
(
ただ なり
)
だった。あれから二年、数え二十六歳で藩主になった身の上を考える時、直虎は人の
境遇
(
きょう ぐう
)
の様々なことを思う。
上田藩中屋敷の門をくぐって
馬屋
(
ま や
)
に馬を置き、直虎と式左衛門の二人は
母屋
(
おも や
)
の玄関に向かって歩いていくと、そこに
艶
(
あで
)
やかな装飾に
彩
(
いろど
)
られた
駕籠
(
か ご
)
が
一挺
(
いっ ちょう
)
、
脇
(
わき
)
で
駕籠引
(
か ご ひ
)
きの家臣らしき二人の男が
跪
(
ひざまず
)
いている。
「どなたかお出かけか?」
直虎と式左衛門は顔を見合わせると、駕籠の中から、
「えぇぃ、
松野
(
まつ の
)
はまだか! お
尻
(
しり
)
から根っこが生えてしまうっ!」
若い女の声がした。「尻から根が生える」とは若い女性にしては
品
(
ひん
)
がなさすぎる。直虎と式左衛門はまた顔を見合わせて笑った。見れば、駕籠横面の
物見
(
もの み
)
簾
(
すだれ
)
は巻き上げられており、幼さを残す十五歳くらいの美しい娘が、待ちくたびれた
苛立
(
いら だ
)
ちの表情で、天井から釣り下がる体を支える
紐
(
ひも
)
をじりじりしながら引っ張っている。その顔に見覚えがあった。松平忠固の葬儀に参列した際、
喪服
(
も ふく
)
を着た親族の
女衆
(
おんな しゅう
)
の中にその娘はおり、そのとき彼が目を奪われたのは、彼女の
瞳
(
ひとみ
)
からこぼれるキラリと光る
涙
(
なみだ
)
の輝きを見たからだった。
上田藩の
姫君
(
ひめ ぎみ
)
に
相違
(
そう い
)
ない──。
直虎と式左衛門はその場に
跪
(
ひざまず
)
き、姫君に向かって頭を下げたまま、駕籠が屋敷を出るのを待った。
ところが、母屋の中から「はーい、
只今
(
ただ いま
)
っ」と声がするきり、姫君の待ち人は一向に姿を現さない。ついに
痺
(
しび
)
れを切らせた姫君は、駕籠の
扉
(
とびら
)
を開けて外に飛び出した。
そのとき、
鶴
(
つる
)
が舞った──と直虎は思った。
何がそう思わせたのかは解らなかったが、そのとき彼は確かにその光景を見た。
その
華
(
はな
)
やかさといったら、着物に描かれた何羽もの真っ白な鶴が、
茜色
(
あかね いろ
)
の大空に向かって舞い上がったようで、
寒水仙
(
かん すい せん
)
の咲く庭に吹いた冷たいひとしきりの風は、
仄
(
ほの
)
かな
香
(
こう
)
の
薫
(
かお
)
りを運んだ。
「早くせぬか!
酉
(
とり
)
の
市
(
いち
)
≠ェ終わってしまうではないか!」
「
大丈夫
(
だい じょう ぶ
)
ですよ。
市
(
いち
)
は逃げたりしませんから」
どうやら浅草
鷲神社
(
おおとり じん じゃ
)
で毎年十一月の酉の日に行われる酉の市≠フ
物見遊山
(
もの み ゆ さん
)
に出かけるところらしい。その日は神社に
祀
(
まつ
)
られる
鷲
(
わし
)
に乗った
妙見大菩薩
(
みょう げん だい ぼ さつ
)
が
開帳
(
かい ちょう
)
され、
和宮降嫁
(
かずの みや こう か
)
の祝福ムードも
相
(
あい
)
まって、
鷲在山長国寺
(
じゅ さい さん ちょう こく じ
)
の
境内
(
けい だい
)
は多くの人で
賑
(
にぎ
)
わった。
姫
(
ひめ
)
は一度母屋の中に入り込んだが、すぐに再び姿を現して、腹立たしそうに「おそい、おそい、おそい」を何度も繰り返して
地団太踏
(
じ だん だ ふ
)
んだ。すると、ふと、直虎たちに気付いてこちらを見た。
「何の用じゃ?」
と、
衒
(
てら
)
いもなく
つつつ
……と近くに寄って来たので、直虎は改めて
頭
(
こうべ
)
を
垂
(
た
)
れて、
「失礼しております。私ども須坂藩の者にて、こちらにご挨拶に伺いました」
と伝えた。姫君は首を傾げて、
「何の挨拶じゃ?」
とあどけない表情で聞いた。
「このたび須坂藩の当主となりましたので、そのご挨拶にございます」
「須坂藩……? 聞いたことがないが、いったいどこの国の藩じゃ?」
「信州にございます」
「おお、信州なら知っておるぞ。行ったことはないが、わらわも信州じゃ。仲良くしてやってもよいぞ」
姫君はそんな話はどうでもよいといったふうに「
面
(
おもて
)
を上げてわらわを見よ」と言った。直虎と式左衛門は戸惑いながら顔を上げると、姫君はその場でくるりとひと回りして、
「どうじゃ?」
と、
自慢
(
じ まん
)
げに直虎を見つめた。直虎は突然の意味不明な行動に
躊躇
(
ちゅう ちょ
)
しながらも、その
屈託
(
くっ たく
)
のないキラキラとした瞳に見つめられて顔が赤らむのを覚えた。
「どうじゃ、と聞いておる!」
「どう?……と申しますと?」
「似合うか? 先日京から帰った男どもが、わらわの誕生の祝いに
買
(
こ
)
うてきてくれたのだ。
西陣織
(
にし じん おり
)
じゃ」
なんのことはない、
召
(
め
)
し
物
(
もの
)
を
褒
(
ほ
)
めてもらいたいらしい。その関西訛りが微妙に交じる、
率直
(
そっ ちょく
)
で
腹
(
はら
)
に
一物
(
いち もつ
)
の
微塵
(
み じん
)
もない様子に、直虎は「
可愛
(
か わい
)
い女だ……」と思った。
「よくお似合いにございます」
「そうか? どこが似合う?」
「先ほど姫様が
駕籠
(
か ご
)
を出られたとき、赤く染まった夕暮れに千羽の
鶴
(
つる
)
が舞ったように見えました。その
茜色
(
あかね いろ
)
の着物には鶴が描かれておりましたか。鶴は
君子
(
くん し
)
の
樹
(
き
)
に
棲
(
す
)
むと申します。姫様のお優しいお心が、そのお召し物によって引き立てられているのでございましょう。それに
染
(
そ
)
めの
帯
(
おび
)
は
友禅
(
ゆう ぜん
)
でございますね。
淡
(
あわ
)
い青の
色彩
(
しき さい
)
が、お着物の色と対照をなしてまたお美しい。それも姫様の
御見立
(
お み た
)
てでございますか? とってもよくお似合いです」
式左衛門はよくそんな言葉が
咄嗟
(
とっ さ
)
に出て来るものだと、
呆
(
あき
)
れたように直虎の横顔を見つめた。
「そうか、よく似合うか! その方の
裃
(
かみしも
)
もよう似合っておるぞ。名は何と申す?」
「堀直虎と申します」
「直虎か、
虎
(
とら
)
さんだな。分かった、覚えておこう」
藩主ともあろうお方が虎さん≠ニは、式左衛門は、そのあっけらかんとした乙女に、まんまと一本とられたと心で吹いた。
すると、母屋の玄関から四十過ぎのめかし込んだ女が「
俊
(
しゅん
)
姫様、お待たせしました!」と言いながら出て来た。どうやらその姫の名を
俊
(
しゅん
)
≠ニいうらしい。俊は声のした方に顔を向けると、
「やっと出て来たか。松野、遅いぞ!」
と叫んで、「待ちくたびれてどうかなってしまうかと思った」と、花のように笑った。直虎はその花びらに少し触れてみたくなって、
「大丈夫でございますよ」
と応えた。俊は不思議そうな顔をして「何がじゃ?」と聞いてきたので、
「まだお尻から根は生えていないようでございます」
と言って
愛嬌
(
あい きょう
)
のある笑いを浮かべた。俊はムッとして直虎を
睨
(
にら
)
み、
「キライじゃ……名は忘れることにする」
そう言い残して、駕籠の方へ走って行ってしまった。
松平忠固には何人もの側室がいて九男七女の子をもうけており、そのうちの一人が俊である。子の多くは早世したが、実母は
とし
という名の側室で、現在の上田藩主
忠礼
(
ただ なり
)
は同じ母から生まれた彼女は三つ年上の実の姉になる。老中になる以前の忠固は、大坂城代として三年の間大坂におり、その間
俊
(
しゅん
)
は生まれた。弘化四年(一八四七)十一月十六日のことである。彼女の言葉の中に時々関西訛りが交じるのは大坂育ちの母の影響か。忠固が江戸に戻り老中に任じられてから、まだ数えで二歳だった彼女は、気っ風と人情の花の大江戸で成長したのだった。
直虎が忠固と最後に一度会ったのは、忠固が二度目の老中に就任した頃である。父の
直格
(
なお ただ
)
から「上田の忠固が佐久間象山を
赦免
(
しゃ めん
)
しようと動いているようだ」と聞いて、じっとしていられなくなったのだ。当時象山は吉田松陰の密航未遂連座の罪で松代に
蟄居中
(
ちっ きょ ちゅう
)
であり、本来なら死罪を言い渡されても仕方なかったところを国元蟄居という軽い罪で
穏便
(
おん びん
)
に処理したのも彼であった。
「象山先生には黒船来航の浦賀で恩がある」と言い張って、その秘密会議に身を置けば、周りには上田藩士の
面々
(
めん めん
)
、
桜井純蔵
(
さくら い じゅん ぞう
)
や
恒川才八郎
(
つね かわ さい はち ろう
)
らの顔があった。
「象山先生の赦免については八方手を尽くしているが、もう一人赦免してやりたい人物がいる。長州藩の
吉田松陰
(
よし だ しょう いん
)
君だ。誰か
萩
(
はぎ
)
に飛んでくれる者はないか?」
そう忠固が言った。吉田松陰と言えば
国禁
(
こっ きん
)
を犯そうとしたいわば直虎の中では
無二
(
む に
)
の同志である。その時も、
「わしが行く!」
と手を挙げたが、「君は?」と問われて「須坂藩の堀良山と申します」と応えれば、「他藩に迷惑はかけれん」とあっさり却下されてしまった。結局その役割は桜井と恒川が任されたようだが、その時、
「茶をお持ちしました」
と
襖
(
ふすま
)
が開き、十歳くらいの女の子が姿を現した。もしかしたらあれは
俊
(
しゅん
)
だったかも知れないと、直虎は今更のように思い出した。
忠固が
逝去
(
せい きょ
)
したとき彼女は数え十三歳の少女だった。その死は暫く公表されずにいたが、やがて病死と発表されて葬儀が終わった。江戸の町では攘夷派の手にかかったのだとの
噂
(
うわさ
)
もたったが、おそらく彼女はその真相を知っているのだろうと直虎は思う。いずれにせよまだ
年端
(
とし は
)
もいかない少女にとっては衝撃的な出来事だったに相違なく、つい昨日まで一緒に遊んでいた幼い弟がいきなり藩主に
祀
(
まつ
)
り上げられたのだから、その大きな生活の変化は、わずか二年という歳月の中で彼女を
気丈
(
き じょう
)
な
乙女
(
おと め
)
に変えたことだろう。
駕籠
(
か ご
)
の
脇
(
わき
)
に立った松野と呼ばれた女は直虎たちの方を見てお
辞儀
(
じ ぎ
)
し、
「誰でございます?」
と俊に尋ねた。
「知らない、忘れたあんな
男
(
ひと
)
──それより、いったい何をしていたのじゃ? 遅すぎるではないか」
「
俊姫様
(
しゅん ひめ さま
)
だけ
左様
(
さ よう
)
な
出
(
い
)
で立ちでは
釣
(
つ
)
り合いがとれません。私もちょっとおめかしを」
「
佳
(
よ
)
き
殿方
(
との がた
)
でも見つけるつもりであろう?」
「まあ、はしたない! 上田藩の姫様の
御付女中
(
お つき じょ ちゅう
)
がみすぼらしい
恰好
(
かっ こう
)
などできません──」
二人は駕籠の前で可愛げな会話をしてから、ようやく俊は駕籠に乗り込んだ。そして松野はその駕籠の脇を歩いて、直虎と式左衛門の前を
会釈
(
え しゃく
)
して通り過ぎる。二人は駕籠が門を出るまで見届けて、
「やれやれ、忠固様にあのようなお
転婆娘
(
てん ば むすめ
)
がいらしたとは。殿はご存じでしたか?」
式左衛門が呆れたふうに言った。
「いや──」
直虎は葬儀の時に見た、俊の輝く涙の色を思い浮かべた。
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