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(十七)ストレート・タイガー
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 大番頭(おおばんがしら)になって数日後、幕府は府内見回りの強化を命じた。
 『例え諸藩の藩士であっても市中での宿泊を禁じ、必ず藩邸内に泊まることとする』
 軍事を司る大番はともかく、これは書院番頭(しょいんばんがしら)小姓組頭(こしょうくみがしら)、更には小普請組(こぶしんぐみ)が支配する全ての組織に通達されたもので、諸藩や町民に対して身元不明者の雇用や宿泊を禁じた。
 これは京都における著しい治安の悪化を受けたものでもあるが、江戸においても浪士による殺傷事件が多発し始めていたためだった。
 先月、京都で起こった世に言う『八月十八日の政変』と呼ばれるクーデターにより、会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派の諸大名と公卿が連携して、朝議において攘夷親征の延期を強行採決すると、軍事力によって長州藩をその担当する堺町御門警備から強制排除して尊攘派を一掃してしまった。これにより長州藩と攘夷派公卿たちは京都から追放されたわけだが、政変の前日の十七日には大和国で、反幕府勢力尊皇攘夷派浪士集団『天誅組(てんちゅうぐみ)』が決起して過激な行動を始めており、こちらも幕府軍一、四〇〇の兵力をもって鎮圧させられていた。いわゆる『天誅組の変』であるが、これらによって攘夷派の幕府に対する怨恨が沸騰し、京都のそれとは明らかに温度差はあるものの、殺伐(さつ ばつ)とした空気は江戸にまで流れ込んでいる。
 それにしても南八丁堀の須坂屋敷は俄かに人の出入りが激しくなった。
 八丁堀が同心の町ということもあるだろうが、もともと大番頭は十二組ある大番一組の頭で、一人の大番頭は四人の大番頭を従え四十六人の大番衆(おおばんしゅう)をまとめる。更に一組につき大番頭与力というのが十騎(騎馬に乗るわけでないがそう数える)と、大番頭同心というのが二十人いる。更にその下には無数の岡っ引きのような者が存在しており、それぞれの役に付くための石高や俸禄、あるいは細かなしきたりが決められていて、たいていの者は上役への印象を良くするため、月々や時候の挨拶、事あるごとに見舞いやらお祝いやら持って来て、つまらない気遣いを欠かさない。大番頭ともなれば一層激しさを増すというわけだ。
 何食わぬ顔で(そで)の下を持って来る者や、中には奉行所で扱われるべき町人同士のいざこざとか夫婦喧嘩の始末まで、江戸の町人の中には奉行所と番頭の区別もない者もいて、屋敷に訪れたからには無下にできない直虎は、賄賂(わい ろ)については厳しく叱り、お悩み相談についてはいちいち話を聞いてやり、
 「殿、こんな事を繰り返していたら、お体がいくつあっても足りませんぞ」
 とは、式左衛門の最近の口癖である。
 目先のことばかりでない。軍事頭となったからには世の中の不穏な動きに堪えず目を光らせ、大事に発展する前にその芽を摘み取らなければならない。さしずめ気がかりなのは水戸藩や長州藩をはじめとした攘夷浪士たちの暗躍で、直虎は柘植角二宗固を呼び寄せ、
 「水戸浪士をはじめとした攘夷派の動きを監視せよ」
 と命じた。彼ら伊賀者は独自の情報網を持っている。それはつまり内部事情が外部に漏れる可能性を秘めた諸刃の剣というわけだが、直虎は親しみを込めて彼を「角さん」と呼ぶ。要右衛門などは二言目には「伊賀者なぞ」と敬遠するから藩政会議には寄せないながらも、その人間性の本質は信用していた。宗固もそれを承知の上で仕官しているが、いざという時は血筋を優先するか忠義を優先するかは天にしか判るまい。
 そんな折、大関泰次郎が相変わらず能天気な(つら)を下げて屋敷にのこのこやって来た。
 「アニキ、一杯ひっかけに行きませんか?」
 太陽はまだ真上にある時分。
 「少し見ないうちにずいぶん凛々しくなったじゃないか」
 昨年正月に初めて大関増裕に紹介され、講武所奉行に昇進した増裕の挨拶回りに伴って路上でばったり会った時より、泰次郎とは妓楼のおいらんとのつまらないのろけ話の相談などに乗ってやっていたものだ。
 あるときは鉄砲洲の夕霧とかいう女郎に惚れて、その女の取り合いで大工のなにがしという男に追われて須坂藩邸に転げ込んで来たこともあるが、翌日には懲りずに別の女の尻を追い回す始末。そのうち退府となってしまってからは手紙のやりとりもなかったが、このたび参勤してからは忙しさに追われ、実に一年と何カ月振りかの再会であった。
 「増っさんは元気にしておるか?」
 直虎は大関増裕のことをそう呼ぶ。
 「開口一番、義父(ちち)の話はないでしょう。義父(ちち)身体を壊して国許へ帰りました
 「えっ? いつ?」
 「今年の三月だったかな?」
 泰次郎の話によればそれは仮病であるらしい。講武所勤めが始まってから幕府海軍にも関わるようになり、更には将軍上洛の折には旗奉行や槍奉行を仰せつかって忙しさに輪をかけた。それでも最初は「誉れだ」と嬉しそうに働いていたが、立て続けに歩兵奉行やら歩兵頭やら騎兵頭やらを統括するよう命が下っては、軍役多重でさすがの増裕も青ざめた。それを心配した家老たちは、慌てて病気を理由に帰藩させたのだと泰次郎は他人ごとのように話した。
 「それならばよいが。藩主が不在なのに跡取りのお前さんがこんなところにいてよいのか?」
 「屋敷にいたってすることなんかありませんからね。それよりアニキ、飲みに行きましょうや!」
 泰次郎はお家のことなどどこ吹く風の呑気さでへなへなと笑う。
 「真っ昼間っから酒はなかろう。それにわしはこれから市中の見回りだ」
 「柳橋にウメ子っていう馴染みの芸者ができましてね、ぜひアニキに紹介したいんだ」
 大関泰次郎の遊興ぶりは江戸でも評判なのだ。昨日は吉原、今日は芳町・柳橋・品川と、行く先々でサダやらリンやらトシやら芸者をはべらせ、しまいには武家の娘にまで手を出して、遊び盛りの年頃とはいえその体たらくには大関家の者たちもほとほと手を焼いた。ついにその遊蕩癖を抑えつけようと縁組話を決めたわけだが、祝言を挙げる前に増裕が国許へ帰ってしまったため、話は宙に浮いたまま相も変わらず屋敷を抜け出しては遊び惚けているわけだった。
 「縁談のお相手は誰じゃ?」
 「鍋島直与(なべ しま なお とも)とかいう大名の娘で(つな)と言うのですが、まだ十一、二歳の子供ですよ。お守りなんてまっぴらです」
 そう言う泰次郎とてまだ十四の小童(こわっぱ)なのだ。
 それにしても鍋島直与といえばオランダかぶれの蘭癖大名(らんぺきだいみょう)で有名である。肥前佐賀藩の三支藩のひとつ蓮池藩(はすいけはん)五万二千石の家であるから一万八千石の黒羽藩にとってはけっして悪い話でない。その娘を嫁にしようとは西洋通の大関増裕にして佳い相手を見つけたというべきだろう。
 「早く家の者を安心させよ」
 「兄貴の方こそ嫁をとったらどうなの? おいらにばっか言わないで」
 直虎に結婚する気がないのを知っていて、これがなかなか一筋縄ではいかない大関家の放蕩息子のいつもの逃げ口上なのだ。それも承知のうえで何食わぬ顔で直虎は更生を促す。
 「柳橋もいいが、ちと使いを頼まれてくれぬか? ほれ、以前話した薬研堀の鵜飼玉川のところへ行って写真鏡を買ってきて欲しいのだ。わしも一緒に行きたいが、なんせ忙しくて時間が取れん」
 直虎は「これだけあれば足りるだろう」と言って、懐から十両ほどの金を取り出すと泰次郎に渡した。
 「ずいぶんと金回りが良くなりましたね。前はそば一杯おごるにも渋っていたのに」
 「金は天下の回りものじゃ。こういう時もある」
 直虎は市中巡回の準備を始めた。
 「買った写真鏡で柳橋のウメ子姉さんを写してもいいかい? アニキに見せてやるよ」
 「かまわんが、壊すなよ」
 喜び勇んで屋敷を飛び出す泰次郎は、やはりまだまだ子供である。その後姿を直虎は微笑ましそうに見送った。
 ところが夕刻になって巡回を終えて帰って来ると、座敷でひとりごろりと寝転がる泰次郎の姿。
 「写真鏡はどうした?」
 泰次郎は直虎を見るなり、
 「何がこれだけあれば足りる≠ナすか! 写真鏡一台で家が一軒買えるそうですヨ。おかげでボクは赤っ恥をかきました」
 「そ、そんなにするのか──最新式の西洋銃器が買えてしまうな……」
 法外な値段に驚きながら、直虎は普段着に着替えはじめた。写真機を手にする日はもう少し先の話のようだ。
 「気を取り直して今日はこの十両で飲みに行きましょう」
 そう泰次郎が言ったとき、突然ガタガタっと大きな物音がした。すでに閉門したはずの門を激しく叩く音──警戒の色を深めた中野五郎太夫と竹中清之丞が腰に刀を備えて庭に飛び出すと、俄かに玄関が騒がしい。
 「夜分、何用じゃ?」
 「わしじゃ、要右衛門じゃ!」
 驚いた二人は急いで錠前をはずすと、そこに無精ひげを生やした懐かしい男が顔をのぞかせた。
 「要右衛門さんではないか!」
 「いやはや、あやうく浪人と間違われるところだったわい。江戸も随分と警備が厳しくなったなあ」
 五郎太夫と清之丞は、風呂もろくに入っていない異臭に鼻をつまんで「さもあろう」と顔を見合わせた。要右衛門は事情もろくに説明せず、「殿はおられるか?」とそのままずかずかと藩邸に上がり込んだ。
 「要右衛門にございます。ただいま戻りましてございます!」
 公の間の「なに?」という直虎の歓声に、隣の政務室にいた式左衛門は耳をそばだてた。
 「帰ったか! 入れ! ずいぶん心配したのだぞ! いったいどこで何をしておった?」
 直虎はやつれた彼の顔を見て抱きかかえるような哀れみの声を挙げた。
 「お人払いを──」
 血走った目付きがとなりの泰次郎を睨みつけた。その形相は行燈の薄明りで深い影をつくり、暗いオレンジの血色と起伏の黒に不気味な不精髭を浮かび上がらせている。
 「すまぬが大事な話だ。泰次郎君は席を外してもらおう」
 鬼のような赤目とドスのきいた低い声で威嚇したから、落ち武者の亡霊でも見たかのような顔をした泰次郎はたじろいだ。
 「かまわぬ。泰次郎もいずれ黒羽藩を背負って立つ身だ。見聞を広げるのもよかろう」
 直虎は泰次郎を脇に座らせ「続けよ」と言った。
 「……軽々しく他言するでないぞ」
 いまにも喰いついてきそうな声に、額に冷や汗をにじませた泰次郎は震え上がった。
 「ついに武器商人を見つけ出してございます。公使館に出入りするローダという名のエゲレス人です。我々日本人を見下すような高慢ちきな野郎ですが、あれくらいのへそ曲がりでないとどうにも交渉が進みませんでした。どうも西洋諸国は口裏を合わせたように日本人には武器を売るなと通達しているようです」
 横浜開港以来、攘夷派による外国人襲撃事件は後を絶たない。イギリス公使館が置かれた芝高輪東禅寺は攘夷浪士にたびたび襲撃されているし、昨年(文久二年)の生麦事件を皮切りに十二月には品川御殿山に建築中の竣工目前のイギリス公使館が長州攘夷派によって焼失し、今年に入ってからは下関戦争と薩英戦争が立て続けに起こる。個人レベルの外国人とのいざこざを挙げても、フランス人と日本商人の貸金をめぐる傷害事件、アメリカ人拉致事件、四〇〇名の浪人による横浜港内の異国船焼き払いと外国人斬殺を企てた横浜襲撃未遂事件。横浜ではつい先日もフランス陸軍少尉アンリ・カミュという男が襲撃され斬殺されたばかりなのだ。つまり外国人にとって心胆寒からしむる事件が相次いでいるというわけである。

 「で、肝心の武器は買えたのか?」
 要右衛門は神妙な表情で続けた。
 「はい。仰せの通りライフル銃一〇〇丁と、新式の大筒一門、注文いたしました」
 「そうか、でかした! で、いつ届く?」
 と歓びの声を挙げたのは、大番頭の任務遂行に不可欠な武器の買い付けに成功した安堵感からか。ところが、
 「それが──」
 と言ったまま、要右衛門は言葉を詰まらせた。
 「どうした?」
 「はあ……、本国に発注して取り寄せなければ物がないとのこと。早くて三、四ケ月──いや、半年から一年くらい見ていた方が良いでしょうな……」
 「ずいぶんかかるな……待つしかないのか──」と、直虎は腕を組んで続けた。
 「それにしても、お前にしてはずいぶん手こずったのではないか?」
 「生麦の賠償問題やら、薩・長の対外戦争の勃発で、西洋諸国(あちら)さんはひどく日本を警戒しています。貿易商人たちはなりを潜め、どうも行く時期が悪かったようですな」
 「ならばいったん戻ってくればよかったのだ。どれだけ心配したか」
 「任務を果たすまで戻るなと言ったのは殿ではありませんか!」
 「そうだったかな?」と、直虎はとぼけたふうに笑った。
 聞きたいことは山ほどあった。
 「交渉は英語ではなかったのか? よくお前の須坂弁が通じたな?」
 すっかり安心した直虎は、いつもの冗談でまた笑う。
 「柘植角二殿のつてで、横浜の伊賀衆を紹介してもらいました」
 「ほう、角さんにか……」
 直虎は表情を変えず「やるな」と心で笑んだ。普段はライバル視しているくせに、いざというときは連携を怠らない家臣たちを頼もしく感じたのだ。
 文久三年のこの当時、横浜にはアメリカ人宣教師を教師とした英語伝習所が既にできている。目聡い伊賀者はすかさずそこへの出入りを開始していると言う。
 「手土産がございます」
 要右衛門は懐からボロボロの本を取り出した。
 「英語の字引(じ びき)にございます。通訳を頼んだ伊賀者から譲り受けました。中浜万次郎が日常会話を記した『英米対話捷径(しょう けい)』なるもので、読みがカタカナで書いてあります。伊賀者自らが調べた単語も種別ごとにびっしり書き込まれてありますので非常に読みづらいのですが……。以前、殿が英学を学びたいと言ったのを思い出しましてな」
 「気がきくのぉ」と直虎は嬉しそうに手に取ってペらぺらとページをめくった。
 「恐れながら、殿のお名前を英語に訳してご覧にいれましょう」
 「面白い──言ってみよ」
 「堀≠ヘ則ちモー(moat)=A直≠ヘまっすぐ≠ノて則ちストレート(straight)=A虎≠ヘ則ちタイガー(tiger)≠ニ申しまするに、モー・ストレート・タイガー≠ニなります」
 「モー・ストレート・タイガー≠ゥ──」
 直虎はひどく気に入った様子で「内蔵頭(くらのかみ)≠ヘどう訳す?」と更に問うた。要右衛門は「俄か仕込みなもんで」と頭を掻いて、直虎の手から字引を拝借すると、
 「蔵≠ヘウェアハウス(warehouse)=A頭≠ヘヘッド(head)≠ニ訳すようですな……」
 「モー・ウェアハウス・ヘッド・ストレート・タイガー=c…? えらく長ったらしいのぉ。ストレート・タイガー≠ナよいわい」
 これ以来直虎は、親しくなろうとする友人に対してそう名乗って自分をアピールするようになる。
 そんな二人のやり取りに立ち会った泰次郎は、自分の放蕩生活とは異次元の世界に衝撃を受けた様子で、やがて口数も少なに須坂藩邸を後にした。

 それから一月ほど経ったある日の夜、江戸城本丸から火の手があがった。
 直虎は夕餉を済ませ、例の『英米対話捷径』を本台に置いて英学の学習に没頭していた時である。
 「お城の様子が変ですな」
 と知らせに来たのは式左衛門で、やがて「火事だ!」と南八丁堀の同心たちが騒ぎ出したのはそれからすぐのことだった。
 お城の大事とあらば取る物も取りあえず直ちに駆け付けるのが武士の習いである。
 慌てて家臣たちに大八車を用意させ、黒縮緬(くろ ちり めん)の衣服を帯で前結びに着た直虎は、車に掛矢(かけ や)大木槌(おお き づち)鳶口(とび ぐち)や荒縄などを積み込み屋敷を飛び出した。火事の多い江戸では、火の手があがると延焼を防ぐのにそれらの道具を用いて周辺の家屋を手当たりしだい解体する。そのため家の造りも華奢(きゃしゃ)にできている。
 果たして江戸城に到着すると、大手門は城から逃げ出す大奥の女中たちでごった返し、夜闇に紅蓮の光を浮かべる城からは、美しいばかりの火の粉が舞いあがり、炎は本丸から二の丸へと燃え広がっている様子だった。時の鐘が鳴り響き、消し口の屋根に上った火消しの(まとい)が激しく振られ、城内周辺は激しい音を立てて家屋の打ちこわしが行われていた。
 「上様はご無事か?」
 城中から逃げ出して来た役人姿の男をつかまえて聞けば、
 「分からんが、大奥からだと吹上方面へお逃げあそばされただろうな」
 「御台所(みだいどころ)は?」
 「知らんよ! こっちだって逃げるのに精いっぱいだったのだ!」
 役人の男は直虎を振り払うように逃げ去った。
 「殿! 始めますぞ!」
 掛矢(かけ や)を掴んだ要右衛門はじめ直虎の家臣たちは、目の前の建物の解体に取り掛かった。直虎も大木槌(おお き づち)を握り、慣れない手つきで柱を叩く。
 「まったく今年に入って二度目ですぞ」
 真木万之助が壁の木っ端を砕きながら半分呆れたように言った。彼の言う通り今年の六月にも江戸城が火災に見舞われ、西の丸御殿を焼失してその再建もまだ半ばなのだ。
 火事と喧嘩は江戸の花≠ニはよく言ったものだが、どんな災難も(いき)≠ノ代えてしまう江戸っ子の力強さには感心するしかない。
 それにしても多すぎる。大火と呼ばれるものは三年に一度と言われるほどに、江戸城だけでも徳川家康が幕府を築いてから今回を含め二桁の大台に乗ったのだ。明暦三年(一六五七)に焼け落ちた天守閣は、その後再建されることがないまま現在に到る。
 夜五ツ時(午後八時頃)に出火した火災は明け方になってようやく鎮火し、火災の詮議でその全容が次第に明らかにされた。
 火元は添番詰所と医者部屋の境で、類焼範囲は大奥を含めた本丸一帯と二の丸。火事による犠牲者は二十四名。将軍家茂と和宮は一旦吹上の滝見茶屋に避難し、その後、清水邸に引っ越し更にその向かいの田安邸に移ったという噂である。
 そして当日の添番の任務に就いていた者たちはみな町奉行に召喚され、追放あるいは謹慎の処分を言い渡されたのだった。
 職責が上がれば上がるほど重くのしかかる責任に、明日は我が身と思わずにいられない直虎である。
 この時点で江戸城に残っていた建物は、実に二の丸の燃え残った一部と三の丸と吹上、北の丸のみというお粗末な状態だった。以後、幕末まで本丸は再建されることはなく、本丸にあった施設はその後間もなく再建される西之丸仮御殿に集約され、幕府の機能は全て西之丸へ移されることになる。ちなみにその際大奥の女性達も西之丸仮御殿に引っ越すが、その多くは暇を出されて城を出たと言われる。
 この時の徳川幕府には、かつての繁栄を示すほどの城を再現するだけの統括力も財力も、すでに残されてはいなかった。