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(十六)大番頭(おお ばん がしら)
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 文久三年(一八六三)九月──。
 堀直虎にいよいよ参勤の時がやって来た。
 退府在藩の間、江戸留守居の駒澤式左衛門からマメに送られてきた書状からは、せいぜい江戸市中の出来事が知れるくらいで、いま日本という国と世界との間で何が起こっているかといったグローバルな情勢などは想像に任せるしかなく、唯一その手掛かりとなるはずの横浜に向かわせた小林要右衛門季定(すえ さだ)は、いまだ戻らずその消息も気がかりなままだった。
 「はよ江戸へ参るぞ!」
 はやる気持ちを抑えながら参勤の準備を整えた直虎は、九月を待たずに須坂を出立し、予定どおり五日歩いて江戸に到着した。その足で城へ登ったところが、ばったり出くわしたのが陸奥(む つ)下手渡(しも て ど)藩主立花出雲守(いずものかみ)種恭(たね ゆき)という男である。
 「ようクラ内蔵頭(くらのかみ))さん、今は江戸か?」
 覚えのある声に振り向けば、直虎も思わず「イズ出雲守(いずものかみ))さん」と返す二人は、内蔵(く ら)さん・(いず)さん≠ニ呼び合う旧知の仲なのだ。無論種恭(たね ゆき)が直虎のことを内蔵(く ら)さん≠ニ呼ぶのは内蔵頭(くらのかみ)≠名乗るようになってからだが、年も全く同じこの二人の出会いは幼少の頃にまで遡る──。
 須坂藩九代藩主は直晧(なお てる)である。
 実はこの直晧(なお てる)、筑後三池(み いけ)藩五代藩主立花長燕(なが ひろ)の七男で、嗣子のない八代直郷(なお さと)の養子となって天明年間に堀家の家督を継いだ。そして直虎の実父・第十一代藩主直格(なお ただ)はその直晧(なお てる)の実子なのである。そればかりでない。二十九歳の若さで卒した直格の実兄・十代藩主直興(なお おき)の妻・寛寿院は、三池藩六代藩主立花出雲守種周(たね ちか)の娘であり、これまた立花家から嫁いだ人間なのだ。いわば直虎の身体には立花家の血が半分以上流れているというわけである。
 寛寿院の実父・立花種周(たね ちか)というのは種恭(たね ゆき)の祖父に当たる人物である。早い話が直虎から見て立花種恭(たね ゆき)は、父の兄嫁の甥っ子に当たり、もっと分かりやすく言えば、天保七年(一八三六)という同じ年に、種恭(たね ゆき)は直虎より四ケ月早く生まれた親戚同士なのである。
 そんな繋がりから子どもの時分からよく遊んだものだが、立花家が下手渡(しも て ど)藩と言ったり三池藩と言ったりするのは、この家がたどったやや複雑な道のりがあるからだ。
 江戸の初め、立花家は五千石の旗本だったが、後に筑後国三池郡に五千石の加増をされて一万石の三池藩を立藩したのが始まりである。ところが六代藩主立花種周(寛寿院の父)が若年寄となって寛政の改革に関わった時に、大奥の改革闘争をめぐって敗北したことにより、その子である七代種善(たね よし)(寛寿院の兄)は陸奥国下手渡に左遷されてしまう。よって種善(たね よし)が下手渡藩の初代藩主となったが、その子である二代目藩主種温(たね はる)には娘しかなく、父種善(たね よし)の弟種道(たね みち)(寛寿院の兄)の長男・種恭(たね ゆき)を養子として迎えたという経緯である。
 更には再び藩庁を三池に移し、三池藩は再興されて種恭(たね ゆき)は三池藩最後の藩主ということになるわけだが、それはこれより後、戊辰戦争の頃の話である。
 直虎は以前に比べ眼光が鋭くなった種恭(たね ゆき)の表情に一驚しながら、
 「たったいまさっき江戸に着いたところだ」
 といつもの愛嬌で言った。
 「公方(くぼう)様上洛や、長州や薩州の風聞を耳にしながらも須坂から出るに出られず、浦島太郎になっているのではと気をもんでおったわい。イズさんはいま大番頭(おおばんがしら)だったかな? 不穏な世の中で全くおちおちしてられんなぁ」
 大番頭とは幕職の一つである。
 いわゆる五番方と言って幕府軍事を司る大番(おおばん)書院番(しょいんばん)新番(しんばん)小姓組(こしょうぐみ)小十人(こじゅうにん)のうち大番のまとめ役で、書院番・新番・小姓組・小十人の四番は若年寄の管轄であるのに対し、大番頭は老中直属の組織で全部で十二組ある。何年かに一度は京都か大坂に出張する上方勤番があり、江戸における主な職務としては江戸城二の丸・西の丸の警備と府内巡邏(じゅん ら)がある。つまり幕府軍事機関の最高責任者というわけで、有事となれば将軍の先手として真っ先に出陣する任を帯びた。そのため町奉行や大目付より格が高く、騎馬による登城も許された特別な職務である。
 「そのことだ……」
 種恭(たね ゆき)は周囲に人けがないのを見計らって、直虎の耳元に顔を寄せた。
 「実は先ほど、小生、若年寄への昇進を告げられた。しかも上様の側近だ」
 「それはめでたい!」
 思わず大きな声を挙げた直虎の口を種恭は慌てて押さえた。
 「内蔵(く ら)さんも解かるだろう、当家もたかだか一万石の小藩だ。やっかみも多い。いずれ幕内に知れることになろうが、あまり騒ぎたてられたくない」
 直虎はどんどん先に出世していく同僚を羨むように、「やはり浦島太郎になっていた」と心で思った。種恭(たね ゆき)は続けた。
 「で、相談なのだが、大番頭のわしの後任に誰か適任はないかと聞かれ、はて、どうしたものか≠ニ頭を悩ませていたところだ。ここで会ったのもなにかの因縁だ。内蔵(く ら)さんを推挙してよいか?」
 直虎は「ううっ」と言葉を詰まらせた。
 歴代の須坂藩主では五代直英(なお ひで)、六代直寛(なお ひろ)、九代直晧(なお てる)の時に大番頭を歴任しているからここで承諾したとしても堀家では直虎が初めてというわけでない。特に直晧が大番頭を勤めた時は、武州大宮宿近くの八貫野(はち かん の)(いのしし)狩りを催した十一代将軍徳川家斉(いえ なり)のお供をし、大勢の組武者を預かって引率したという武勇伝が堀家で語り継がれているほどだが、俄かに大番頭になって欲しいと請われても、すぐには肯けない事情があった。
 「お気持ちは嬉しいが、恥ずかしい話、いま須坂藩は()るか()るかの財政難からようやく抜け出しつつある大事な時でな。仮に大番頭になったとして、いきなり上方勤番を仰せつけられた日には、たちまち窮乏状態に逆戻りじゃ。今回は遠慮しておくよ」
 「心配なさるな。それ相応の御役料が支給されるから財政の足しになろう。上方勤番がイヤならその旨伝えおくから是非受けてくれ」
 「困ったなあ……本当を申せばそれだけではないのじゃ……」
 直虎は手招きで種恭(たね ゆき)の顔を寄せ、「他言無用だが守れるか?」「無論」と短い約束を交わすと、
 「実はいま、武器がない──」
 と囁いた。
 「……? とは?」
 「金に困って(やり)も刀も(よろい)(かぶと)火縄銃(ひ なわ じゅう)も、あるもの全て売り払ってしまったのじゃ」
 「それじゃ今……?」
 「須坂藩は丸裸同然じゃ。武装できない大番頭など聞いたことがあるか?」
 「ない──。では、(いくさ)が起こったら先鋒どころの話でないな。と云うより、国許で百姓一揆でも起こったらどうするつもりじゃ!」
 「国が滅びてしまうなぁ……?」
 直虎は他人ごとのように笑った。
 「よくもまあ呑気に……これから先の算段はあるのかい?」
 「西洋の武器を買い揃えようと、今、横浜に部下を送って武器商人を探させているところだ」
 種恭は気の毒そうな表情で見つめ返した。
 「参勤したばかりで知らんかもしれんが、横浜はいま鎖港じゃ賠償金じゃという騒ぎが一段落したばかりで、武器弾薬の取り引きに関しては外国(あちら)さんも神経質になっているぞ。鹿児島事件(薩英戦争)においても、先日エゲレスのニール代理公使との交渉が始まったようだが問題は山積みだ。そう簡単にはいかんと思うぞ」
 「そうなのかい? それで要右衛門はいまだ戻らぬか……」
 初耳だと言わんばかりに口をポカンと開けた直虎に、種恭は同情の色を隠せない。
 「その能天気さが羨ましいよ。まあ、そこがクラさんの好いところでもあるが……仕方ない、大番頭は別を当たるとするよ」
 と、その日はそれで別れたものである。

 十五日の将軍拝謁の登城日となって、再び江戸城へ登った直虎は控えの柳之間に入った。
 三年に一度に改められた参勤交代緩和の影響だろう、柳之間は以前のような賑わいはなく、集まった大名たちは言葉少なに拝謁までの時間を待っていた。そのなか部屋の隅に、一人読書にふける同年代の凛々しい顔つきの男がいる。以前も見かけたことがあるが、他の大名との交わりを嫌い独りを好む様子から、声もかけずにやり過ごしていたものだった。
 「何をお読みですかな?」
 独りでいる者に声をかけたくなってしまう性分なのだろう、直虎は男の脇に寄って腰を下ろした。男は顔を挙げ不思議そうに見つめ返す。
 「最近出た蘭学書の翻訳本です。まあ医学書ですのであまり役立ちそうにありませんが。貴殿は?」
 「申し遅れました。拙者、信州須坂藩(ほり)内蔵頭(くらのかみ)直虎(なお とら)と申します。以後お見知りおきを」
 男は直虎の言葉に慇懃(いん ぎん)に頭を下げると、自らを山内(やま うち)摂津守(せっつのかみ)豊福(とよ よし)と名乗った。これがよもや生涯の朋友との出会いになるとは神ならぬ身では知る由もない。
 土佐新田藩第五代藩主──土佐山内藩の支藩で領地を持たず、そのため参勤交代がない江戸詰めの定府大名である。石高一万三千石を本藩より分与され安永年間に立藩したもので、藩邸が麻布古川町にあることから麻布藩あるいは麻布山内氏などとも呼ばれる男である。
 豊福が藩主になったのは安政三年(一八五六)六月で、藩主経験としては直虎より五年ほど先輩になり、江戸での仕事は「既に隠居の土佐宗家山内容堂様の補佐役として、専ら国事に関わることです」と、キリリとした目つきを細めて慣れない笑みを浮かべた。
 生まれを問えば天保七年(一八三六)五月十日。同じ小藩同士の特別な親近感を覚えずにいられない。
 「わしも丙申(へい しん)(天保七年)八月十六日じゃ」
 と、直虎は同い年生まれの立花種恭(たね ゆき)の顔を思い浮かべて「天保七年組じゃな……」と小さくひとりごちた。そして徳川幕府への恩顧の思いや、藩の現状や抱える問題など話すうち、すっかり意気投合してしまった。
 「ところで堀殿はこたびの長州と薩州の諸外国相手の干戈をどう思われますかな?」
 豊福はひどく真面目な顔付で聞いた。
 「恥ずかしながらつい先日参府したばかりで、詳しい経緯がいまひとつ飲み込めておりません。しかしながら、どれほどの軍備を整えていたか知りませんが、西洋を相手によく戦争を起こせたものだと、その無謀さには敬服するより仕方ありませんな。戦争などしなくて済むならそれが一番よろしい」
 「左様に思われますか……」
 「西洋に対して諸藩の軍備は赤子同然。徳川諸藩に急務なのは、西洋諸国が攻むるに手を出せないほどの軍備や文明の力を示すことだと思っております。こたびの参勤交代の緩和も、参勤にかかる無駄金をそちらへ回すための策だと心得ております──」
 「なるほど。参勤交代もなく、宗家の援助のみで成り立つ当家にはあまり関係ないように思われますが、堀殿は何をもって文明となさるおつもりか?」
 「さしあたっては西洋化ですな。古来より日本は大陸文明を柱に据えて独自の文化・文明を形成してきた国と存じます。そしていま、海の向こうから西洋という未知の文明が渡ってきたのなら、それを柱に据えて新たな日本文明を作っていくのが自然かと」
 「新たな日本文明ですか……いったいどのような国になるのでしょうな?」
 「ところで、横浜の一件についてご存知のことをお教え願えませんか?」
 直虎は先日種恭(たね ゆき)から聞いた話がひどく気になっている。
 「上洛された上様が開国方針を反故(ほ ご)にし、攘夷方針への転換を打ち出した件ですかな? なんとも無茶なことをすると思いましたが、天子様のお考えならやむを得ないかも知れません。暴発して上方の役人に抗議の出兵をした時はどうなるかと思いましたが、しかし小笠原様のお気持ちもよく理解できます。御切腹を免れ、今は謹慎中と聞きおよんでおりますが、江戸の幕臣はみな小笠原様びいきですよ。英国は、今度は上方の港の早期開港を要求しているようですが、はてさて難しい舵取りを強いられそうですなぁ」
 聞きたい事とは少し違う返答が返って来たが、小笠原長行の名が出たことで、資金援助のお礼やら出兵に協力できなかった詫びやらで、早いうちに見舞いに顔を出さなければいけないと思う直虎である。
 そこへ一人の役人が柳之間に姿を現し、
 「堀内蔵頭はおられるか?」
 と声を挙げた。
 「わしであるが、何か?」
 「ちと御用部屋(ご よう べ や)に参られよ。ご老中様たちがお呼びだ」
 御用部屋といえば老中や若年寄たちの詰め所である。それは本丸表の奥にあり、座敷内に囲炉裏があるのは、灰に火箸で密談ができるようにするためと噂に聞く。
 直虎は「何事か?」と首を傾げ、一礼して豊福と別れた。
 「内蔵頭殿をお連れして参りました」
 御用部屋の廊下で役人がそう告げると、中から「入られよ」と声がした。
 襖が開き部屋には老中や若年寄の面々──その中につい先日若年寄に昇進した立花種恭(たね ゆき)の顔もあった。視線がぶつかった瞬間、彼の目が「すまぬ」と言ったのは気のせいか?
 部屋に入った直虎は畳に平伏した。
 「その方が堀内蔵頭か?」
 老中の一人がそう聞いた。
 「左様にございます」
 「面を挙げよ。本日より大番頭の職務を与える」
 直虎は耳を疑った。「どういうことか?」と横目で種恭(たね ゆき)に視線を送れば、彼は再び「許せ」と目だけで答えた。
 「(おそ)れながら──そのような大役、とても私には勤まりかねます。なにとぞご容赦を!」
 「謙遜するな。そこもとの話は耳にしておる。相当の切れ者だとな。四書五経を(そら)んじ、藩の軍事力強化にも尽力しておるそうじゃないか。密かに英学を学んでおることもな」
 と言ったのは老中の一人、井上河内守(かわちのかみ)正直である。
 年は直虎と同じくらいだろう、遠江(とおとおみ)浜松藩の二代藩主で、外国御用取扱役(がいこくごようとりあつかいやく)を兼務し、横浜におけるイギリスとの鎖港・賠償金問題で尽力しているうちの一人である。つい先日も横浜鎖港問題を提議するため、築地の軍艦操練所へ赴き、アメリカ代理公使ブリュインやオランダ総領事フォン・ボルスブルックらと会見してきたばかりで、西洋に通じた人材を咽喉から手が出るほど欲しがっている。
 直虎は自分のことを彼に話したのは「小笠原様か」と咄嗟に思った。現に生麦事件賠償交渉の際、長行と井上は協力してあの窮地を乗り切ったという噂を聞いていた。
 「心して励め」
 有無を言わさぬ命令で受け入れざるを得なくなった直虎は、その日の将軍拝謁の儀が済むと、中雀門(ちゅう じゃく もん)の前で種恭(たね ゆき)の職務が終わるのを待った。やがて陽も暮れかけた頃、
 「いやあクラさん、すまん、すまん」
 と、大番頭就任を喜ぶような満面の笑みを浮かべた種恭(たね ゆき)がやって来た。
 「イズさん、ヒドイじゃないか。どうして止めてくれなんだ」
 「申し訳ない。しかし誤解してくれるな、クラさんの名を出したのはわしではなく井上様だ。どこで知ったかクラさんがひどくお気に入りの様子で、どうしてもと聞かん。お主の事情も承知していたが、端から適任と思っていたのでなぁ」
 直虎は愛想のないため息を落とした。
 「そんな気の抜けたような顔をするな。戦などそうそう起こるものでない。上方勤番の件は上言しておいたから、おそらく井上様支配の大番頭になるはずだ。なあに番頭(ばん がしら)とか目付(め つけ)とか奉行(ぶ ぎょう)といったって、あんなもんみんな尊称で役名とは言い難い。気軽に受ければいいさ」
 「そうは申してもなぁ……」
 「どうじゃ? 久し振りに角打(かく う)ちでも。募る愚痴を聞いてやる」
 角打ち≠ニはちょいと一杯ひっかけよう≠ニいう意味である。種恭(たね ゆき)は右手で(ます)を口許に運ぶ振りをした。二人は下級役人の姿に変じると、お忍びで近くの料亭に足を運んだ。

 幕内クーデターとも言える率兵事件を引き起こした謹慎中の小笠原長行の屋敷へ、直虎が見舞いに顔を出したのはそれから間もなくのことである。
 謹慎と一言で言ってもこの当時は差控(さし ひかえ)″とも言って様々な形がある。これは武士や僧侶など社会的身分の高い者たちに科せられた処罰であるが、基本的に屋敷の門や窓を固く閉ざされ、出仕や外出が禁じられる。普通逼塞(ひっ そく)″と言えば三十日間もしくは五十日間は昼間の出入りが許されず、閉門(へい もん)″と言えば五十日間もしくは一〇〇日間、昼夜ともに屋敷の出入りが禁じられた上に見張りがつけられた。さらに蟄居(ちっ きょ)″と言えばもっと重く、その刑期の期限さえ告げられないまま屋敷の一室に閉じ込められ、時には死ぬまで続くこともあった終身刑のようなものである。
 いずれにしろ武士にとっては不名誉なことだが、長行は別段落ち込む様子もなく素直に再会を喜んで久方ぶりの来客を客間に招き入れたのだった。
 それにしても不思議な空間である。畳敷きの座敷の中央には大きなテーブルが置かれてあり、その周りには日本では珍しい西洋の椅子がある。室内を四顧すれば、飾り棚に置かれたステンドグラスのオブジェや英国国旗をあしらった置物は英国(あちらさん)からの頂き物だろう、その隣にはいくつかのワイングラスが飾ってあった。
 長行が言うには、生麦事件賠償金交渉と横浜鎖港交渉で英国鑑ユーライアス号の艦内で見た西洋の会議室を真似たそうだが、見慣れない調度品や装飾品を珍しそうに眺めながら直虎は、招かれるまま一つの椅子に腰かけた。
 「暫く国許におりましたもので、何のお力にもなれず恐縮至極にございます。謹慎と聞いて心配しておりました」
 「なあに世の喧騒さえ聞こえてこなければ気楽なものさ。それより藩の西洋化は進んでおるか?」
 長行は天気を問う世間話のようにそう聞いた。
 「いやはやどうして……」
 直虎は西洋の武器を購入するため手を尽くしていることや、なかなか道が拓けない現実を吐露したが、それについては英国との交渉で苦しめられた当事者の長行が一番身に染みて理解しているはずで、西洋化を推し進めるのに幕府自体が大きな壁になっていることを嘆くのだった。
 「あの時、もっとうまい手段はなかったかと、いまだに夜も眠れんよ。だがそのおかげで南蛮の公人たちとも随分知り合いができた。怪我の功名とはこのことだ」
 あの時″とは生麦事件賠償金交渉で、幕議に反して独断でイギリスに賠償金を支払った件に違いない。幕府随一の西洋通にして、このとき長行はイギリスのことを南蛮≠ニ言った。その苦笑の奥に、ただでは起きない彼の強かさが隠れていた。
 「そうじゃ、珍しい物が手に入ったのだ」
 長行は思い出したように客間を出たと思うと、間もなく両手に西洋の赤いガラスビンと、菓子置きの盆には拳ほどの茶色い塊を数個のせて持って来た。まだ細君のない彼は「何をするにも全部自分でやるのだ」と笑いながらテーブルの上に無造作に置くと、グラスにワインを注いだ。
 トクトクと注がれる赤い液体がなんとも不気味に見える。
 「これは?」
 「イエス・キリストの血と肉だそうな」
 直虎は神妙な顔付きで生唾を飲み込んだのを見て、長行は急に笑い出した。
 「冗談だ、西洋の酒だ。肉の方はパンだよ」
 「小笠原様ほど冗談が似合わぬ方もおりますまい……」
 「さあ、召しあがるがよい。本当は食す前、南蛮人は胸の前で十字を切って『アーメン』と言うのだが、どうもイエス・キリストに魂を売るようでわしゃ好かん」
 「御法度ですからな」
 そう警戒しながら直虎は赤い液体を口に含んだ。
 それにしても主食であるパンとワインが、イエス・キリストの肉と血であるとはあながち間違ってはおるまい。日常食に主たる神を重ねるほど、西洋人の精神には深くキリスト教が刻み込まれているというわけだ。
 直虎はパンの方に手を伸ばして一口ほおばり、
 「パンとはこれほど柔らかいものでしたか……」
 と、帰藩中に作ったパンなるもの″とは全く違う食感に驚いた。実物を見、口にしたのはこれが初めてなのだ。江川英敏の『パン製法書』に記されていた材料や製法のことなど話しながら、「私が焼いたパンはこんな物ではなかった」としきりに感心するのだった。
 「ヰーストを加えてないからではないか?」
 と長行が教えた。
 「ヰースト?」
 「わしもよく知らんが、パンは特別な菌で膨らませてから焼くらしいぞ。横浜港の日本大通りに外国人の食料品を扱う『お貸し長屋』に『富田屋』というパン屋がある。そこではフランス人に習ったパンを売っているそうだが、今度横浜に行く機会があったら寄ってみるよ」
 「ぜひそのヰーストとやらを入手していただけませんか? しかし謹慎中では行けますまいな」
 「なあに、こっそり部下を偵察に送っているのさ」
 そう約束して、話題は政治情勢へと移っていった。
 いまの長行の心配事は四民が困窮していることにあり、様々な面で穏やかならざる事態が続いていることを危惧しながら、その根本原因が貨幣経済の乱れにあると断じるのだった。
 「一刻も早く安定させなければならない」
 と、貨幣改鋳の急務であることを説き、「近々建白書を進言するつもりだ」と熱っぽく語った。
 自藩のことだけで手一杯の直虎は、日本国全体を考える視野の広さにとまどいながら、進むべき荒野の広さを見すえていた。