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(十五)樅木(もみのき)叒木(じゃくぼく)
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 鎖国時代の沈黙を破って日本に上陸してきたペリーはアメリカ人である。なので当時のアメリカの様子も少し詳しく覗いておきたい。
 幕末期のアメリカは南北戦争(一八六一〜六五年)の真っ最中である。
 そもそもアメリカ合衆国という国はイギリスの人達が移り住んだ植民地であり、その歴史は大航海時代、コロンブスが大陸を発見した十六世紀にまでさかのぼる。悲しいかな、それまでずっとアメリカ大陸で生き、生活してきた原住民たちの歴史はほとんど語られることはない。
 国家として成立したのはそれより二世紀後のことで、独立戦争を経、一七七六年七月四日の『独立宣言』をもって建国とした。だから日本の幕末期は、誕生してまだ一〇〇年にも満たない未成熟の国であったと言ってよい。逆に言えば生まれたての真新しい国家は、新しもの好きの日本人にとっては特に魅力的な存在だったろう。
 十九世紀初期のアメリカは、大陸の東側にある十三州の領土のみ持つ小さな国だった。そして未開拓の地である西部をフロンティア(辺境)と呼び、これ以後マニフェストディスティニー(明白な天命)の名のもとに、対先住民の迫害を伴いながら西側への領土拡大を推し進めていた。フロンティア精神≠ニいう言葉はここからきたものだが、彼らは太平洋に接するカリフォルニアまで行きつくと大きな金鉱を発見し、十九世紀中ごろから空前のゴールドラッシュが始まるわけである。
 十九世紀初頭に話しを戻す。
 ヨーロッパにおけるナポレオンの出現で、彼が出した大陸封鎖令に対抗してイギリスは海上封鎖を実施しヨーロッパへの物流を止めた。これによりアメリカの通商は妨害され、イギリスとの間で戦争が始まる。これによってアメリカは経済的自立を余儀なくされたが、その結果、白人による民主主義が大いに発達し、時の大統領ジャクソンは人民に普通選挙権を与えた。ただし対象はあくまで白人男性だけで、黒人とインディアン、そして女性などには目もくれない。しかも先住民を強制的にアメリカ大陸の中央を縦に流れるミシシッピ川以西の荒地へと移住させる政策を行う。民主主義といっても当時はこの程度で、黒人に対する奴隷制度は既にできあがっていた。
 一言でアメリカといっても北側と南側とではその体質に大きな違いがあった。
 北側は資本主義的な商工業が中心だったので保護貿易を望み、南側はイギリスに輸出するための綿花プランテーションの農業が中心だったので自由貿易を望んだ。綿花プランテーションといっても実質的な働き手は黒人たちで、奴隷制に対する考え方も北と南で真っ二つに割れていた。無論南は奴隷制に賛成で、北は奴隷を解放してその労力を工場にあてたいねらいがあった。
 一八二〇年、ミズーリ協定により、北緯三六度三〇分を境に、北側を自由州>氛氓ツまり奴隷を使わない州と、南側を奴隷州>氛氓ツまり奴隷を使ってもよい州とに分け、その人口を同数にするといった規定が制定される。ところがカンザス・ネブラスカ法の制定(一八五四)により人口の均衡が崩れると、奴隷州は拡大され、ここに奴隷制反対運動が巻き起こる。これが十九世紀のアメリカの運動を象徴するものである。
 共和党が結成されたのはこの時である。アメリカで現在なお続く共和党と民主党という政党の構図は、理念不在でカメレオンのように名を変える現代日本の政党と違い、実はこの当時から続く長い歴史があるわけだが、この奴隷制度の賛否をめぐってアメリカ人同士が殺し合う内戦へと突入していく。
 ここに登場したのが一八六〇年の大統領選挙に当選したエイブラハム・リンカーンで、彼はこう言った。
 「私が大統領になったからには、黒人奴隷制度を廃止し、彼らに自由を与えるだろう!」
 それに反発したのが奴隷制賛成の南部の人たちである。アメリカからの独立を宣言し、リッチモンドに都を置いたアメリカ連合国≠建国する。こうして南北戦争(一八六一〜六五年)が勃発する。まさにこの時期が幕末だ。
 発端は南軍のサウスカロライナ州のチャールストンの港にあったサムター要塞への砲撃だった。慌てたリンカーンは、北部の支持者を集めるためにホームステッド法≠制定し、西部の開拓農民の支持を集めることに成功する。そして、まさに本小説で現在進行中の一八六三年(文久三)一月、奴隷解放宣言を布告し、戦争の大義名分を表明したのだった。黒人奴隷の人たちは狂喜乱舞。激化した南北戦争は最大の激戦と言われるゲティスバーグの戦い(一八六三)を迎える。
 そしてリンカーンは勝利し叫んだ。
 「人民の、人民による、人民のための政治を、地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意しよう!」
 と。一八六五年、リッチモンドは陥落し、南北戦争は北軍の勝利をもって幕を閉じる。しかしリンカーンは、その完全勝利を見ることなく銃弾に倒れることになる。暗殺だった。彼は奴隷制度廃止後のアメリカの発展を見ることはなかった。
 この奴隷解放によって、果たして本当に黒人は差別されなくなったかといえば、それはまた別の話をしなければならないのは悲しいことである。この根強い黒人差別問題の真の黎明を迎えるには、さらに二十世紀半ばのマーティン・ルーサー・キングの登場を待たなければならない。ここに人間の持つ宿業というべきものを見る。それ以前に──ここではあえて主義≠ナなく魂≠ニいう言葉を使うが、白人至上魂≠フ根っことはいったい何か?
 その後のアメリカは、北部主導で商工業が発達し、資本主義の発展は第二次産業革命を生み出した。結果、十九世紀後半のアメリカには世界各国からの移民が急増し、加えて大陸横断鉄道の開通(一八六九年五月)によって国内市場が統一され、十九世末にはついにイギリスを抜いて世界第一位の工業国へと発展する。

 次にロシアを見てみよう。
 当時のロシアは南下政策をとっていた。
 ヨーロッパ東部からアジア大陸北部にかかる広大な土地を有するこの国は、当時世界第一の国家と言われるイギリスのような産業革命を目指し、広大な耕地で安く収穫できる良質の麦を外国に売って資金を蓄えようと目論んだ。ところがロシアには海がない。あるにはあるが北側のそれは冬になると凍り、船が出せずに収穫したばかりの新鮮な麦を輸出することができなかった。そこで南へ進出し、海を手に入れようとしたわけである。
 最初に目指したのは黒海から地中海に出るルートであった。そのためギリシア独立戦争(一八二一〜二九年)、第一次エジプト・トルコ戦争(一八三一〜三三年)、第二次エジプト・トルコ戦争(一八三九〜四〇年)などに介入するが、ヨーロッパ諸国の利害関係や政治的意図からいずれも失敗に終わる。
 諦めきれないロシアが次に狙ったのはバルカン半島経由で地中海に出るルートであった。そこでオスマン帝国を相手に引き起こしたのがクリミア戦争(一八五三〜五六年)である。ところがオスマン帝国はイギリス・フランス・サルテーニャの連合軍で、所詮ロシア単独で勝てる戦争でない。
 時の皇帝はアレクサンドル二世。国力の弱さを痛感した彼は、農奴に自由を与えて国力を高めようと農奴解放令(一八六一)を発布した。ところがその結果、人民主義思想の動きが思いのほか盛り上がり、逆に粛清を強めたアレクサンドル二世だったが、最期は暗殺(一八八一)され、やがてはテロリズムの横行へと思わぬ方向へ発展するのである。
 その後もロシアの南下政策は継続されるが、結果的には実現されることはなく、やがてロシアの目はアジア方面へ向けられていく。しかしそれはこの小説の舞台より少しあと、二十世紀に入ってからの話である。

 そして最後は、当時世界第一位の富める国イギリスである。
 ちなみに本小説で進行中の一八六三年(文久三)には、すでに世界初の地下鉄がロンドンで開業している──。
 イギリスは産業革命の本家本元である。
 十八世紀後半から始まった産業革命は、イギリスに多くの産業資本家を生み出すが、十九世紀は自由貿易の熱望が作り出した時代とも言える。世界を股に富を求める商人たちの追い風になったのが東インド会社の中国貿易の独占廃止(一八三三)と航海法の廃止(一八四九)だった。この自由貿易主義の完成をもって力を強めたイギリスの商社や貿易商は、インドや中国などアジアとの貿易が自由にできるようになり、この動きは一八四〇年のアヘン戦争や一八五七年のセポイの乱などを引き起こす種となった。自由というのは戦争を招く悪魔かも知れない。
 産業資本家が台頭すると、都市に人口が集中する。すると人口の減った地域の中に腐敗選挙区を発生させた。そこで政府は腐敗選挙区を廃し、産業資本家に選挙権を付与したが、その際選挙権が与えられなかった労働者たちはチャーティスト運動≠展開して選挙権を求めた。そしてこれが実現したのが一八六七年のこと──。
 民主主義の根本原理は実に普通選挙にある。この選挙権の獲得の歴史こそ近代国家構築へのカギだったわけだ。世界初の普通選挙がフランス革命期にあったそれだとすれば、日本はおよそ一世紀ほど遅れたことになる。日本における最初の普通選挙は明治二十二年(一八八九)の大日本帝国憲法及び衆議院議員選挙法で定められるもので、選挙権とは言っても、直接国税十五円以上納める二十五歳以上の男子に限られたものだが。
 欧米がこの一世紀の間に普通選挙権の獲得を目指して闘争している時、日本はどうかと言えば、天皇の権威の奪い合いをしているのである。これは言い得て妙である。大規模な革命や維新という騒乱が西と東でほぼ同時に起こっているというのに、獲得しようとしている対象が、片や民衆の権利であり、片や天皇(国王)の権威なのである。叒≠ニいうものを追求し、定義づけしようとしている筆者には見逃せない事象なのだ──。
 とまれこうしてイギリスは大航海時代より遅れて二、三世紀、名実ともに世界一の国家へとのし上がったわけである。
 この期間に王座に君臨したのがヴィクトリア女王である。彼女は一八三七年に即位し、十九世紀末まで在位した。そしてこの時代をヴィクトリア時代≠ニ言う。
 欧米諸国やアジアやアフリカに自由貿易主義を拡大し、安い部材を仕入れて世界をあっと驚かすハイテクな工業製品を生産しては海外に高く売り付ける。イギリスは世界の工場≠ニも言われ、イギリスのルールが世界のルールだと言わんばかりにその黄金期を極めたろう。また首都ロンドンで世界初となる万国博覧会(一八五一)を開催し、その強大な国力を世界に見せつけた。
 ヴィクトリア女王──
 得てして女性の力が強い時代は平和と言えるかも知れない。日本においては光明皇后が即位していた時に天平文化が花開き、紫式部や清少納言ら女性文化が開化した平安時代も平和であった。
 パクス・ブリタニカ──圧倒的な工業力と軍事力をもってこの時期のイギリスを、人はイギリスの平和≠ニ呼んだ。
 とはいえもう一方では宗教問題も存在していた。もともとイングランドはプロテスタントの国である。ところが併合するアイルランドにはカトリック教徒が多く、この異なる宗派の統合に苦労を重ねている。一八二九年に施行されたカトリック教徒解放法により宗教的自由が認められ多少は緩和されたように思われるが、アイルランドとの問題は、この後二十一世紀に至った今なお尾を引く根深い問題であることを記しておかなければなるまい。
 ともあれ、フランスからはじまり、ヨーロッパ大陸諸国、アメリカ、ロシア、イギリスと、欧米の十九世紀を覗いてきたが、それらの国々に共通する規範は何であったかと問えば、それは紛れもなくキリスト教であり、彼らの心の奥の無意識の領域は、常にキリスト教によって支配されていたに相違ない。その意味からいえば、彼らはキリストの奴隷であった。徳川時代は、そのキリストを根こそぎ排除してきたというわけである。

 では日本はどうだろう? この小説は十九世紀半ばの日本を綴ろうとしているわけだがら、ここに至るまでの経緯を見ておかなければなるまい。しかし二世紀半にわたる江戸時代は戦争のない至って平和な時代だから、それ以前に目を向ける必要がある。
 現在世界は、イエス・キリストの生誕を基準とした西暦≠ニいう紀年法で歴史を刻んでいるが、日本にはこれとは別に神武天皇即位紀元(じん む てん のう そく い き げん)≠ニいうのがある。別名神武紀元(じん む き げん)=A簡単に言えば皇紀≠ワたは天皇歴≠セが、これは『日本書紀』の記述に基づき、初代神武天皇が即位した年を元年とする。これでいけば現在この小説が進行中の一八六三年(文久三年)は二五二三年で、西暦より六六〇年長い。
 フランス革命の時も革命暦という新しい紀年法が生まれたが、カトリック教会との和解の目的もあり、ナポレオンが皇帝となって二年後、僅か十二年あまりで廃止された。また仏教にも仏滅紀元≠ェあるが、これは釈迦が入滅した年を元年としており、仏教国によって一年の違いがあるから紀元前五四四年もしくは前五四三年がその始まりとされる。ただし仏教の年の数え方というのは、あくまで民衆の主観に重きを置くので、日照りの年が三年続けばそれを一年と刻んでしまう場合もあるし、年に二回の洪水が続けばそれを二年と刻んでしまうような非常に曖昧なものだから正確性はかなり欠いていると考えられる。それにつけても驚くのは、天皇歴はこれらの紀年法より長い歴史を持っているということで、その意味から言えば日本は世界一古い歴史を持つ国家と言える。
 この長い歴史のおおよそ前の半分は、親政あるいは摂関政治・院政の時代である。ところが平安時代末期に源頼朝が出現すると、天皇、朝廷に変わって武家が政治を行うようになった。しかしこれは頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉に幕府を開いて実権を握っただけであって、天皇がなくなったわけでない。そして以降幕末までのおよそ七百年に迫る長い歳月を、いわゆる武家政権によって政治が行なわれてきたわけだ。
 その間、欧米諸国のような民衆革命が全くなかったわけでない。室町時代に加賀国で起こった一向一揆(一四七〇年代)なぞは、一揆勢が守護の富樫(と がし)氏を追放して戦国時代までのおよそ百年近くに亘って共和国的自治体制を維持したという例がある(加賀一向一揆)。しかしこれは日本国を覆すほどの規模でない。が、たった一度だけ、再び日本がその政治体制を根底から変わろうとした時期を認めることができる。それは源頼朝によって打ち立てられた鎌倉幕府滅亡期、南北朝時代のはじめ、つまり北条氏の武家政権の力が弱まって、討幕の流れから天皇が再び政権を取り戻すところの話である。
 それは後醍醐(ご だい ご)天皇の時代──。
 このとき鎌倉幕府の力は弱まっていた。二度にわたる元寇の恩賞不足や貨幣経済の浸透によって、幕府体制を支えていた御家人制が崩壊しつつあったり、当時悪党≠ニ呼ばれる新興勢力の出現による寺社からの強い訴えに対する対応も後手々々で、それらに対する改革に消極的だった幕府は、加えて霜月騒動(しも つき そう どう)(一二八五・弘安八年)、平禅門(へい ぜん もん)の乱(一二九三・正応六年)、嘉元(か げん)の乱(一三〇五・嘉元三年)といった内紛も相次ぎ疲弊(ひ へい)は加速していた。こうした諸問題を抱えながら幕府第十四代執権に就いた北条高時(ほう じょう たか とき)(一三一六〜一三二六在職)は、『太平記』によれば政治を顧みず闘犬(とう けん)田楽(でん がく)などの遊びにふける暴君≠セった(※一説には病弱と)。
 時の後醍醐天皇には夢があった。
 それは延喜(えん ぎ)天暦(てん りゃく)()≠理想とする国家を構築することだった。延喜、天暦というのは平安時代中期の元号で、前者は第六〇代醍醐(だい ご)天皇の時代、後者は第六二代村上天皇の時代である。ちなみに後醍醐≠フ名は(のち)≠フ醍醐天皇≠フ意味である。
 延喜年間(九〇一〜九二三)の政治はいわゆる親政(天皇自らが行なう政治)で、その間醍醐天皇は数々の業績を収めた。その逸話を『大鏡(おお かがみ)』はこう綴る。
 「雪が降り積もって寒さが一段と厳しい夜、諸国の民はいかに寒からんとて御衣(ぎょ い)を脱す」
 と。いつも民の生活の心配をし、流行り病や天候不順が生ずると、罪人の大赦(たい しゃ)や税金の免除政策を行ない、不作の年は、民の負担を減らすために重陽(ちょう よう)(せち)(九月九日)などの宮中行事を幾度となく中止し、また旱魃(かん ばつ)の時には、民に冷泉院(れい ぜい いん)の池の水を汲むことを許し、その水がなくなると更に神泉院(しん せん いん)の水を汲ませ、ついにはその水もなくなった──とある。そして鴨川(かも がわ)が氾濫すれば、水害を(こうむ)った者を救援し、その年貢や労役を免除した。
 また、天暦年間(九四七〜九五七)の村上天皇は文化振興に秀でていた。自身歌人でもあり、内裏歌合(だいりうたあわせ)催行(さい こう)し、(こと)琵琶(び わ)などに精通し、そのほか『後撰和歌集(ご せん わ か しゅう)』の編さんや、自ら朝儀書『清涼記(せい りょう き)』を書き残す。(みやび)な宮廷平安文化の大絢爛期(だい けん らん き)を開花させた天皇である。
 王朝政治と王朝文化の最盛期を思う時、荒廃した時代の様相とのギャップに愕然とする後醍醐天皇は、密かに討幕′v画を企てた。しかしこの計画が幕府(六波羅探題(ろく はら たん だい))に露見し隠岐島(おきのしま)に流罪され、計画に加わった多くの者も追討された。ところが後醍醐天皇の皇子護良親王(もり よし しん のう)は辛くも幕府の手を逃れ、大和国に潜み抵抗を続ける。そして、
 「もともと伊豆の地方役人に過ぎない北条氏が朝廷を軽んじる横暴を絶対に許してはならない!」
 という令旨(りょう じ)(親王の命令書)を各地に発し、反幕府勢力を結集しようと挙兵する。これに呼応したのが楠木正成(くす のき まさ しげ)である。
 正成(まさ しげ)護良親王(もり よし しん のう)は赤坂城に立てこもった。その兵力わずか五〇〇、そこに二〇万とも三〇万とも言われる幕府軍が一気に攻め寄せた。これが一三三一年の赤坂城の戦い≠ナ、続けて一三三三年、千早城(ち はや じょう)の戦い≠ェ繰り広げられる。この二つは正成にとっては籠城戦(ろう じょう せん)で、この際演じられた奇想天外な数々の奇策は『太平記』に詳しい。そして楠木正成は勝利をおさめ、結果、鎌倉幕府を滅ぼした。
 後醍醐天皇は建武の新政を開始する。夢に描いた天皇による政治の復活だった──。これが、日本がその根底から政治の仕組みを変えた頼朝に次ぐ二度目の革命である。ここではあえて革命と呼ぶ。
 ところがわずか三年程で崩壊の時を迎えることになる。
 ここで筆者は、ナポレオンの栄枯盛衰(えい こ せい すい)を思い浮かべる。アミアンの和約で第二回対仏大同盟を崩したナポレオンは、国民投票において終身統領(しゅう しん とう りょう)にまで上り詰めた(皇帝になる前)。つまり死ぬまであなたはリーダーですよという約束を国民から得たわけである。ところが実際彼の結末はどうだったか? 流刑ではないか──。人が変われば法が刷新され、法が変われば時代も変わる。それは時に英雄を罪人に陥れ、賊軍を官軍に変貌させる。これが歴史の実相であり、時の冷淡さなのだ。
 しかし──である。日本ではフランスでは見られなかった現象が一つだけ残った──と筆者は見ている。それは何か?
 後醍醐天皇の思い描いた延喜(えん ぎ)天暦(てん りゃく)()≠フ如き夢は(つゆ)と消えた。既に武家の勢力は全国に広がっており、時代錯誤の天皇集権政治など誰も望んでいなかったのだ。その不満は地方武士の反乱となって現れ、一三三五年(建武二)には北条氏の生き残り北条時行(ほう じょう とき ゆき)が信濃で挙兵し鎌倉を占拠する。
 このころ急速に力を持ち始めていたのは御家人の代表格でもあった足利尊氏(あし かが たか うじ)である。彼は征夷大将軍の任命を求めたが、もとより武家政権を嫌う後醍醐天皇はこれを退け、尊氏は天皇の勅許を持たぬまま京を発ち、北条時行を潰して鎌倉を奪還した。
 こうした流れの中で、足利尊氏は朝廷に反旗を翻す決心を固め、彼に差し向けられた討伐軍を蹴散(け ち)らし京都に侵入。一度は失敗して九州に逃れるも、武家社会を取り戻そうとする者たちが彼のもとに参集し雪だるま式に膨れ上がった。尊氏はこの大軍を率いて再び京都に迫った。
 このとき尊氏征伐の勅命を受けて応戦したのが楠木正成である。
 一三三六年(建武三)七月、摂津国(せっつのくに)湊川(みなと がわ)の戦いが勃発(ぼっ ぱつ)
 正成を討ち取った尊氏は京都を制圧して後醍醐天皇を廃し、新たに光明天皇を擁立(よう りつ)して室町幕府を成立させた。日本の不思議は、時代の転換期にあって常に天皇を残してきたところにある。天皇を凌ぐ力を手に入れたのだから、自らが国王になってしまえばいいのに、日本に名を残した英雄たちは、誰一人としてそうしようとはしなかった。源頼朝然り、足利尊氏然り、豊臣秀吉然り、そして徳川家康然り……。彼らの心のもっとその奥の無意識の領域に、犯すべからざる存在として常に天皇というものが厳然としてあったのだ。
 それはともあれ、ここで触れておきたいのは尊氏でなく敗戦の将楠木正成の方である。
 彼の旗印は『非理法権天(ひ り ほう けん てん)』──「非(無理)は理(道理)に劣り、理は法に劣り、法は権(権威)に劣り、権は天(天道)に劣る」の意であるが、最後の天≠ヘ正成の生き方と照合した時、天子≠るいは天皇≠ノ置き換えられる。つまり彼の生き方、言い方を借りればその(スピリット)は、『七生報国(しち しょう ほう こく)』──つまり「七(たび)生まれ変わって国に報いる」という言葉に象徴される。国≠ニは即ち天皇≠ナあることを、極東(きょく とう)日出(ひ い)ずる国の住人は疑うことを知らない。
 楠正成は湊川の戦いで討ち死にしたが、彼は討たれる最後の最期まで天皇の忠臣として戦い名を残す。そしてその尊王の情熱は、正成(まさ しげ)正行(まさ なり)の父子の訣別(けつ べつ)≠ニ魂の継承≠フコントラストを映し出した桜井の別れ≠フドラマとなって、江戸時代においては国学の(かがみ)として崇拝され、幕末に至っては時代を動かす原動力となって生き続けるのである。

 さて筆者は、極東の小国日本で起こった幕末という時期を綴るのに、世界各国の革命の動向と日本のそれとを記してきたわけだが、この試みが物語にどういう影響を与えるかといった計算があるわけでない。ただ、日本が列強諸国と言って怖れている国々も、実は日本同様さまざまな問題を抱え、様々な大変革を遂げている真っ最中であったということだけは押さえておきたい。
 十九世紀は革命と暴力の世紀とも言える──産業革命によって手に入れた武器を使い、人類は二十世紀を戦争の世紀に仕立て上げてしまうのだ。そしていま二十一世紀は──。
 本編から離れてここまで長々と見てきた世界的規模の人類の大変革は、人が成したものなのか、はたまた天が成したものなのか。その善とも悪とも見分けの付かない不気味な足音が、刻一刻と直虎の近くに歩み寄っている。