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(十四)フランス革命〜パリ民衆の春と冬
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 ペリー来航以来、日本は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア……といった欧米諸国の産業技術や思想・文化が怒涛の如く国内になだれ込み、その行く末の舵取りに大混乱をきたしていたが、およそ徳川幕府が興って以来、西洋の中ではオランダとのみ国交を保ってきた日本のそれら国々に対する認識は至って稚拙であった。と言うよりあまりに無知でありすぎた。欧米諸国の内情などには見向きする余裕もなく、ただただ科学技術の脅威に驚嘆し、国の分別もなしに「西洋、西洋」とバカの一つ覚えのように叫んでいるのだ。
 そこで、ここからは暫し筆者の世界史の学習に付き合っていただこう。無論、読み飛ばしてもらっていっこうにかまわない。が、明治維新への道すじを洞察するに当たって、世界各国の革命や戦争や内乱の動向を知ることは、これから綴るこの小説で起こる日本のそれを深く認識し、際立たせることができると信じている。この小説の中で、日本が化け物のように西洋≠ニ言っている国々は、この時代において全く完全でなく、むしろ日本と同じで、深い深い迷宮に迷い込んだ子どものように、母親の乳房を求めて泣きじゃくりながらもがいているようでもある──。
 まずはフランスを中心としたヨーロッパ諸国である。
 日本が未曽有の大革命を果たさんとしているこの十九世紀半ばは、世界的に見ても革命に継ぐ革命の大混乱の時代と言える。西暦を軸として世界史を見るならば、いわば一八〇〇年前後は十八歳の悩み多き青春期にも似ている。別の言い方をすれば、地球上に誕生した人類の秩序立った進化の過程で形成された王政という名の野に、どこからともなく燃え始めた炎が、瞬く間に燃え広がる燎原にも例えられようか。小説で進行中の一八六三年(文久三年)は、あのフランス革命においてルイ十六世と王妃マリー・アントワネットが断頭台の露と消えてより七十年しか経っていない。この七十年を長いと見るか短いと見るかはその尺度にもよるが、人の一生を八十年、否、近年で言うところの百年とするならば、少なくともこの歴史的出来事は、一人の人間が一生の中のニュースをライブで知ることのできるごく短いスパンと言うべきだろう。
 それまでの世界の国家というものは、ヨーロッパに限らずその多くは国王の支配によって成り立っている。日本でいえば天皇に当たる。フランス革命の偉業は、その国王支配の国が権力を持たない民衆の力によって覆された点にあり、その意味から、フランスの首都パリは民衆革命の都である。
 日本の幕末革命(ここではあえてそう呼ぶが)を理解するには長州藩の動向を見れば分かると前述したように、十九世紀の世界史はフランスの動向を見れば理解が早い。
 フランス革命以前のこの国は、著しい身分階層が存在していた。すなわち頂点に国王を置き、その下をピラミッド式に第一身分が聖職者、第二身分が貴族、そして第三身分が市民と農民といった構図である。そして聖職者と貴族には免税という特権が与えられており、特筆すべきは、人口の比率でいえばわずか二パーセントほどのこの特権身分の人たちを、残りの九八パーセントの平民が支えていた事である。一言で平民といっても、その中身は富裕層(地主や大商人)と農民・市民などで構成されており、さらに農民・市民といっても、中産階級と下層階級(小作人や都市労働者)とに区別され、その財産に応じて課税額が決められていた。そして、この下層階級と呼ばれる人たちが、人口のおよそ九〇パーセントをも占めていたから、ピラミッド型と言うより朝顔の花を逆さに伏せて置いた形に近いだろう。この極度に不均衡なバランスの上に社会が成り立っており、いわゆるこれがアンシャン・レジーム(旧制度)である。
 アンシャン・レジームの下、特権階級者たる貴族と聖職者は堕落しきっていた。特権を傘に、市民・農民から自由と財産をしぼり取れるだけ搾取し、その利で贅沢な暮しと享楽三昧の日常を過ごしていた。第一身分の聖職者に至っては、特に高位の者たちの中には人を教え導くことなど忘れ、神の名のもとに、その裏では教会の権威をかざし、欲望のまま酒色に溺れ──聖職者の堕落ほど質の悪いものはない。
 一説では、天明三年(一七八三)の浅間山の大噴火による噴煙が北半球を覆い、これが世界的な不作を招いてフランス革命の因になったと言う。哀れを留めるのはいつの世も貧乏人で、重税にあえぐ彼らの主食はライ麦や大麦、あるいはハダカ麦がほとんど全てで、特に貧しい農民などは、馬小屋で雨風をしのぎ、靴や靴下はおろか木靴さえ履けない者で満ちており、かのヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』に登場するような無数のジャン・バルジャンやファンティーヌを生み出していた。もっともあの物語はナポレオン失脚後のフランスが舞台だが、貧困庶民が社会に苦しめられる意味においては世の中の様相に大きな違いはないはずだ。
 ところが、こうした社会問題を打開するのに、時の国王ルイ十六世はあまりに無能だった。下層民の苦しみなどどこ吹く風の無慈悲さで、王宮を中心とした王侯貴族の豪奢な生活はとどまるところを知らず、王妃マリー・アントワネットの享楽とその浪費振りは、現代にまで語り継がれるほどである。
 そんな王侯貴族の様相を批判するように、このころヨーロッパでは自由と平等、基本的人権や抵抗権を主張する啓蒙思想が広がりつつあった。ドイツの思想家ジャン=ジャック・ルソーは、
 『……国家におけるあらゆることを決定するものは、この人民の意志であり、国王とか大臣はいわばその使用人にすぎない。解放された人民はいわば社会の中の自然人″であり、もともと自由であり平等でなければならない……(人間不平等起源論)』
 と唱えた。この影響を強く受けた北アメリカに渡ったイギリス人は、一七七六年にアメリカ合衆国の独立を成功(アメリカ独立宣言)させ、貧困に苦しむフランスの民衆の不満は頂点に達していたのであった。
 同時に、イギリスより遅れて産業革命の緒についたばかりのフランスは、植民地戦争で敗北したり、アメリカの独立戦争を支援したり、あるいはヨーロッパ内の戦争に積極的に参戦したりと、とにかくお金がなかった。
 時のフランス政府は、この財政難を打開すべく苦肉の策として、免税の特権を持つ聖職者と貴族たちに対して税金を課そうとしたが、案の定特権階級者はこれを拒み、その反抗がヴェルサイユ宮殿に『三部会』を召集させる因を作った。一七八九年五月のことである。
 この三部会というのは、第一身分の代表約三百名と第二身分の代表約三百名、そして第三身分の代表約六百名によって構成されていた。ところが社会体制に大きな不満を持つ第三身分の議院たちは、自ら『国民議会(アサンブレ・ナショナール)』を作って憲法制定を目指して動き出す。驚いた国王は軍事力をもってこれを押さえ込もうとするが、このときすでに機は熟していた。七月十四日、これまで虐げ続けられてきたパリ市民たちが遂に立ちあがったのだった。
 「国王などいらぬ! 自由と平等を我らの手に!」
 バスティーユ監獄は、革命派の政治犯が収容されているうえ武器弾薬の保管所だった。権力の足枷を解き放ったパリの市民たちがここをめがけて一斉になだれ込んだのだ。つまりこれが世に言うバスティーユ監獄襲撃事件──フランス革命の勃発だった。
 この暴動は思わぬ方向へ飛び火した。農民たちは、導火線でつながれたダイナマイトのように次々と各地で反乱を引き起こし、瞬く間にフランス全土へと波及したのだ。もはや国王に対する不満は、首都パリだけにとどまらず、国全体を覆い尽くす不満であったのだ。
 ところが農民たちには自由や平等といった大義名分などなく、単にやりどころのない生活の怒りを暴発させていた。これと似た状況が日本でも起こるが、慌てた革命派の議会は農民を鎮めるために、八月、聖職者と貴族の封建的特権の廃止を宣言し、人権宣言を取りあげて自由と平等の原理を明示する。革命には大義名分が必要なのである。
 穀物価格の高騰を受け、パリの経済は危機的状態にあった。十月に入って初め、次に暴発したのはパリの女性たちだった。雨の中、国王のいるベルサイユ宮殿までの二〇キロの道のりをデモ行進し、国王一家をパリに引きずり出した。これは『ベルサイユ行進』と呼ばれるが、世の女性たちを怒らせることほど恐ろしい事はない。
 政府を掌握した国民議会は、一七九一年に入って人民主権と一院制の立憲王政を敷く憲法を制定するが、フランスから国外に逃れた亡命貴族たちによる反革命の動きに呼応して、オーストリアやプロシャなどの周辺諸外国が動き出す。そのような中、六月には国王一家がパリを脱出しようと企てるが東部国境で捕えられ失敗に終わり、ルイ十六世に対する国民感情は甚だしく失墜して共和主義への期待が一段と高まる結果を招いた。一度権威を失墜させた権力は、かくも脆く崩れ落ちるものか?十月に入り、新しく発足した立法議会は、穏健な共和主義者であったブリッソーやコンドルセなどに率いられたジロンド党を政界に進出させ、オーストリアとプロシャに宣戦布告した。

 Allons enfants de la Patrie,(行こう 祖国の子らよ)
 Le jour de gloire est arrivé !(栄光の日が来た!)
 Contre nous de la tyrannie,(我らに向かって 暴君の)
 L'étendard sanglant est levé,(血まみれの旗が 掲げられた)
 Entendez-vous dans les campagnes(聞こえるか 戦場の)
 Mugir ces féroces soldats ?(残忍な敵兵の咆哮を?)
 Ils viennent jusque dans vos bras(奴らは汝らの元に来て)
 Égorger vos fils, vos compagnes !(汝らの子と妻の 喉を搔き切る!)

 このとき各地から集められた義勇兵に歌われ出したのが、工兵大尉ルージェ・ド・リールが作ったとされる現在のフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』である。革命は歌を生み、歌は革命児を鼓舞するのだ。
 ところがこの戦いによるフランスに利はなかった。
 戦争指揮に失敗したジロンド党に換わって台頭するのが、急進共和主義者ダントン、マラ、ロベスピエールなどが率いるジャコバン党である。一七九二年八月九日、パリ市政を独占した彼らは、国民衛兵司令長官マンダーを虐殺すると、その翌日には、再び市民が蜂起して王宮を襲撃し、国王一家をタンプル塔におしこめた。さらに九月には立法議会が解消して改めて『国民公会(コンヴァンション・ナショナール)』が召集されるが、このとき行なわれたのが世界で初となる男子の普通選挙であった。
 当初、国民公会はジロンド党とジャコバン党との協調のもとに政策が推し進められたが、徐々にジャコバン党の中でも左翼の『山岳党』と呼ばれる者たちが主導権を握るようになると、ついに国民公会は国王ルイ十六世を裁判にかけ、九三年一月、あの歴史的事件を裁断したのであった。
 国王ルイ十六世の断頭台──
 ここに西ヨーロッパにおいて、およそ三〇〇年あまり続いた絶対王政の歴史に風穴を開け、民衆は共和制国家を打ち立てたのである。
 筆者はこの革命の流れの中に、日本の幕末革命とのいくつかの類似点を見出すが、それは、この小説を読み進める中で読者自身気付くことになるだろう。
 ところが、国王を倒して男性の普通選挙権まで手に入れたフランスが、この後、本当に自由と平等を手にし、理想的な国家を建設できたかといえばけっしてそうではない。皮肉にも彼らが見たものは、絶対王政以前と何も変わらぬ荒廃したままの現実だった。きらびやかな大きな箱をあけてみたら中は空っぽだったわけである。
 九二年九月のヴァルミーの戦いをはじめ各地で好戦するフランス革命軍は、九三年の二月と三月にはイギリス、オランダ、スペインに対しても宣戦を布告する。
 ルイ十六世の処刑によりヨーロッパ諸国の王政国家は顔を蒼白にした。
 「よもや我が国でも同じことが起こるのではないか?」
 ヨーロッパ諸国はその余波が自国に及ぶのを怖れ、反革命勢力と呼応しながら執拗にフランス革命の動向を警戒し、ついにはイギリスの呼びかけで第一回対仏大同盟を結成してこの民衆革命を潰そうと動き出した。
 これに対してジャコバン派は、国内に徴兵制を実施し、全土から三十万とも言われる兵を召集しようとするが、貧しい上に働き手を兵隊に取られてはたまらない農民たちは政府への不満を高め、九三年三月十日、『ヴァンデの反乱』を引き起こして対抗したのだった。この反乱軍には旧貴族や僧侶なども加わったため王党色や宗教色が強く、戦いの際、王党の歩兵は白い軍服を着、共和政府軍の兵士は青い軍服を着ていたことから、王党派を白=A共和派を青≠ニ称した。文聖ヴィクトル・ユゴーの作品に『九十三年』があるが、この小説はまさにこの時を扱った物語であり、この戦いは単に王党派と共和派の争いでなく、その犠牲となった民衆こそに光が当てられる。いずれにせよ、互いに互いの捕虜を虐殺し合う有り様は、憎悪に憎悪を重ね、怨恨に怨恨を重ねる悲劇を生むことになるが、十カ月にわたる内乱の結末は、最終的に共和政府軍の勝利に終わる。
 この年、国民公会は『九三年憲法』を制定し、農民解放や経済統制、軍制改革などの政策を実施するが、それは反革命勢力に対する徹底的な弾圧で、テロ行為による恐怖政治というのが実態だった。そしてこの体制に内部分裂の兆しが見え始めると、過激なエベールや穏和なダントンなどが次々に粛清され、九四年四月には、ついに『山岳派』のロベスピエール一派が完全なる独裁体制をつくり上げた。
 ロベスピエールは純粋すぎるほどの理想家で、その理念は働く庶民による平等な共和国の樹立であった。しかし、純粋な理想家ほど権力を手に入れたとき、自らの正義を実現するために手段を選ばないものか。その非現実的な政策は返って大きな反発を招き寄せ、九四年七月の国民公会において、テルミドールのクーデターによって彼もまた、二十二名の同志と共に断頭台の露と消える。
 テルミドールとは、革命から生まれた紀年法の月の呼び名で熱月≠フことである。革命暦≠るいは市民暦≠ニも言われるそれは、西暦の九月二十二日から十月二十一日までを最初の月とし、ヴァンデミエール(ぶどう月)、ブリュメール(霧月)、フリメール(霜月)、ニヴォーズ(雪月)、プリュヴィヨーズ(雨月)、ヴァントーズ(風月)、ジェルミナール(芽月)、フロレアル(花月)、プレリヤル(草月)、メシドール(収穫月)、テルミドール(熱月)、フリュクティドール(果月)というように一年間を各三十日ずつ十二カ月に分けて月日を刻む。これは一七九三年十月五日に国民公会によって採用されたものだが、フランス革命において、パリの断頭台は延べで一、三七六名もの血を吸い込んだとも言われている。
 九五年に制定された憲法では権力の分割や財産による制限選挙制を復活させたものの、依然経済は低迷したままで、一種の絶望感は人心の中に大きな不安を温存させたまま、長い長い暗闇のトンネルに入り込んだように見えた。
 バスティーユの年に生まれた子どもが十歳になろうとした頃のパリは、革命による異常な興奮状態から解放された一種の享楽ムードが漂っていた。王政の束縛の縄を断ち切り自由を得たはずのパリっ子たちを次に苦しめていたのは清教徒じみたロベスピエールによる専制だったが、熱月(テルミドール)日(一七九四年七月二十七日)に彼が処刑されたクーデター以降、民衆は糸が切れた凧のように攪乱した陽気さを手に入れたのだった。死への恐怖が生への反動となり、革命を成さんがための我慢が保守的な薄弱さへと変わった社会様相は、美食家を生み舞踏会を流行らせ、女たちを化粧で着飾らせ、肌を露出させて町を歩かせるようになった。それに伴って喧嘩や盗みが横行し、パリはさながらスリの町と化した。善良な男たちの気晴らしといえば、裁判所の広場のさらし台にさらされた女泥棒を見に行くことで、それは哀れみや野次馬というわけでなく、スカートの下を覗くのが目的だったと言うから、看守の仕事はスカートをいつも縛っておくといった具合である。
 夜明けの来ない朝はないと理屈で分かっていても、実際苦悩の中に身を置けば日の出の光景など思い浮かべるはずもない。冬は必ず春になると分かっていても、雪が降り続く凍てつく日々の中では桜が咲き乱れる光景など想像できるはずもない。厚い雲で覆われた闇空の下では、希望を見いだせないばかりか、その闇による縁によって人の心は閉塞感に苛まれ、やがて絶望の境地に陥るものだろう。闇は悪心を呼び覚まし、人は刹那の享楽と犯罪を求めて動き出す。当時のパリがそれだった。
 ところが、たった一人だけ、民衆の中から発ち起こった革命の完全成就を信じて疑わない者があった。その人間に灯り続けた希望の光は、深い暗闇にたった一本だけ光る蝋燭の炎のように、やがて激しい閃光となり、ついにはフランス全土に夜明けをもたらす。ナポレオン・ボナパルトである。絶望の様相を呈しながらも、フランスの大衆は心のどこかで真に国家を救う英雄の登場を待ち望んでいたのであった。
 イタリア遠征に始まるナポレオンの進撃は、革命に敵対するマリー・アントワネットの故郷オーストリアを破り、フランスを危機に追い込んでいた第一回対仏大同盟を崩壊せしめた。続くエジプト遠征では、イギリスのインドへの道を封じようと奮戦し、この彼の勇敢な姿に、国民は熱狂して惜しみない称賛の拍手を送ったのである。
 九九年霧月(ブリュメール)十八日──。
 ナポレオンは武力をしてクーデターを敢行し、ここに三執政による執政政府が樹立される。そして彼は叫ぶ。
 「フランス革命は終わった! 我々はその目的を達成したのだ!」
 それは同時に新しい時代の始まりであった。
 ここに筆者は、時代というものは巨大な振り子が大きく振れるように、古いものと新しいものとが均衡を保とうとしながら激しい対立を繰り返しつつも、ゆっくりと、それはそれはゆっくりと前進する様を見る。
 政権を握ったナポレオンが最初にやったことはローマ教皇との和解だった。かつては革命の敵だった聖職者ではあるが、国民の大半がカトリック信仰であることを考えると、その信仰の保護こそ最重要要件だったわけである。続けてイギリスと休戦条約を結び、彼のエジプト遠征によって再結成された第二回対仏大同盟を完全に崩してフランスに平和をもたらした。さらには私有財産の不可侵や契約の自由を規定した『ナポレオン法典』を発布するが、これはフランス革命における成果を保障したもので、これらの政策で国民から絶大な人気を博した彼は、一八〇四年十二月、国民投票によって皇帝に即位する。戴冠式はパリのノートル・ダム寺院で挙行され、ナポレオンは文字通り英雄になった。人々は彼のことをナポレオン一世と呼んだ。
 ナポレオンの皇帝即位は周囲の国々に再び緊張を走らせた。
 イギリス・オーストリア・ロシアが三度目の対仏大同盟を結成すると、ナポレオンはこの挑戦状を受けるように戦闘を開始する。イギリスとのトラファルガーの海戦では敗れたものの、アウステルリッツの戦いではロシアとオーストリアを相手に勝利し、ここでまた第三回対仏大同盟を崩壊せしむ。
 その後もナポレオンは各地へ遠征し、次々とヨーロッパ諸国をフランスの統治下にしてしまう。それはギリシャからアジア諸国にまで勢力を伸ばしたアレキサンダー王の進撃にも似て、さもなければモンゴルのチンギス・カンが中国から東ヨーロッパ全域にまで権力を拡げた勢いさながらに、ついには大陸封鎖令を発して大陸に在するヨーロッパ諸国とイギリスとの貿易や交通を全面的に禁止したのであった。
 当時のイギリスは産業革命によって世界一富める国だった。ナポレオンはこれまで二回イギリスに破れているが、これは科学技術に負けたのかも知れない。彼にとってイギリスは、目の上のコブだったに違いない。
 破竹の勢いで勢力をのばすナポレオンに対し、ヨーロッパ各地では当然反ナポレオン感情が高まった。プロイセン(ドイツ)では農民を解放し、行政機構の改革や営業の自由化を認めて近代化の道を示して対抗し、哲学者フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』と叫んでドイツ民族の誇りを呼び覚ます。またスペインでは、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトを国王に即位させたことに対し、農民がゲリラ戦でこれに抵抗してスペイン反乱(一八〇八年)が起こる。出る杭はいつの世でもどこの国でも打たれるのである。
 栄光を極めたナポレオンの没落は、一八一二年のロシア遠征から始まる。
 その発端は、ロシアが大陸封鎖令を破って勝手にイギリスと貿易を再開したことによる。怒ったナポレオンはロシアの首都モスクワへ大軍隊を派遣する。その数六〇万とも言われ、次々とロシア軍を破って進撃するナポレオン軍は、いとも容易くモスクワを占拠したのだった。
 ところがこれこそロシア側の罠で、モスクワの街を焼き払うという焦土作戦にまんまとはめられたわけである。冬を前に、兵糧も尽きたナポレオン軍は窮地に追い込まれ、この戦闘は泥沼の戦いとなる。その結果、六〇万とも言われるナポレオン軍は壊滅状態に陥った。
 力を失ったナポレオンを潰すのは今とばかりに、ヨーロッパ諸国が結束してライプツィヒの戦い(一八一三年)を起こすと、敗れたナポレオンは皇帝を退位させられエルバ島へ流刑された。
 彼がいなくなったフランスがどうなったか──?
 あろうことか、あれほど多くの血の犠牲をはらって推し進められたフランス革命で滅亡したはずのブルボン朝が復活を果たし、まさかのルイ十八世(ルイ十五世の三男)による復古王政が実現するのである(一八一四年)。かの徳川家康は、豊臣家を滅亡させるためには非常かつ冷酷だった。秀吉の子秀頼に微塵の同情も覚えずその息の根を絶ったが、フランス人はルイ十六世の子ルイ・シャルルと娘のマリー・テレーズを幽閉こそするものの殺しはしなかった。もっとも当時六歳だったルイ・シャルルは病死するが、王統の血筋は残したのである。時代を完璧に変えるということは、常に人にあらざる振る舞いが伴うのかも知れない。その点、パリの民衆は王族に対して人の情というものを残したものか。
 フランスの国民は悪夢のような現実に絶望するが、これを知ったナポレオンはエルバ島を脱出し、再びパリに戻って復位を成し遂げる。彼は革命で流された民衆の血の数を知っていただろう。
 これに対して再びヨーロッパ連合軍がフランスに攻めて来て、ナポレオンは彼にとって最期の戦いとなるワーテルローの戦い(一八一五年)に望むが、敗れ、その後は二度と帰れぬセントヘレナ島へ流刑された。栄光と没落、光と影、赤と黒、そして力と悲劇──革命を彩る様々な事象は、悲しくもあり美しくもある。
 ナポレオンの出現がヨーロッパ諸国にもたらしたものは何か?
 それはそれぞれの国においてそれぞれの国民意識というものを芽生えさせたことであろう。スペイン人、ロシア人、ドイツ人……、彼らが彼らと異なる人種のフランス人に支配される矛盾と憤り──そうした人々の国民意識が、この後の時代を形成していく。
 ナポレオンがいなくなったヨーロッパでは、秩序の回復を目指して各国君主らが集まりウィーン会議が開かれた。彼らにとってはフランス革命からナポレオン支配までのおよそ二十年間の出来事は、悪夢でなければ消したい歴史であった。そして、かつての国王が支配していた領土と国家体制を取り戻そうと、自由主義や国民主義を排除する方策について話し合う。こうして決められたヨーロッパの体制をウィーン体制≠ニ言い、ここにおいてドイツ連邦の成立やスイスの永世中立、フランスとスペインはブルボン朝の復活、そしてオランダ国王の成立が議定書で決められたのである。
 するとまた当然のようにウィーン体制に対する反発が起こる。
 ドイツ、イタリア、スペイン、ロシアでは自由を求める運動が。しかしいずれもウィーン体制により鎮圧せられた。その一方で、国民主義(ナショナリズム)に基づく独立運動ではギリシア独立戦争(一八二一〜二九年)を経てロンドン会議(一八三〇)においてギリシアの独立が認められたのを契機に、独立への動きはヨーロッパ諸国の植民地となっていたラテンアメリカの国々へも波及していくことになる。
 再び視点をフランスに戻そう。ナポレオンが失脚し、ブルボン朝を復活させたフランスはその後どのような動きを見せたか、である。
 王政の時代に逆戻りしたという民衆の不安をくすぶらせながら、ルイ十八世の後に王座に即位したのはシャルル十世。彼は絶対王政時代に戻すため自由と平等を抑圧し、王侯貴族の権利を守る動きを強めた反動政治の強化を図った。さらに民衆の意識を政治からそらすために戦争(アルジェリア出兵・一八三〇)を行ない、どさくさに紛れて選挙資格を大幅制限し、言論と出版に対しても統制を強化した。そのあくどいやり方を察知した民衆はまた蜂起する。これが有名な七月革命(一八三〇)である。その主導者は学生や小市民や労働者たち。これによってシャルル十世は失脚し、フランスからの亡命を余儀なくされた。
 七月革命の噂は瞬く間にヨーロッパ各地に伝わった。すると連鎖反応をおこして、ベルギーのオランダからの独立、ロシアからの離脱を求めたポーランド蜂起、ドイツ反乱、イタリア反乱へと自由主義と国民主義の運動は瞬く間に伝播する。その多くは武力で鎮圧させられたが、ウィーン体制の動揺は大きかった。
 そして間もなくフランスのブルボン朝は瓦解し、その後国王に即位したのはルイ・フィリップだった。ところが彼が行った政治は、いわゆるお金持ちしか相手にしないもので、特に、極端に制限された選挙制度は人口のわずか一パーセントの富豪にしか選挙権を与えなかった。この頃ようやく産業革命の途についたフランスの中小産業資本家やその労働者たちは、男性普通選挙を求めて選挙法改正運動を展開するが、ルイ・フィリップはその要求を受け入れようとしなかった。
 このとき、ドイツの思想家マルクスの言葉がパリの労働者や学生や資本家らを奮い立たせた。
 「万国のプロレタリア(労働者たち)よ、団結せよ!」
 こうして起こった暴動が一八四八年の二月革命である。
 これによりルイ・フィリップは失脚し、再びフランスには国王のいない時代が訪れた。そしてこの二月革命がヨーロッパ全体に与えた影響はそれまで以上に絶大だった。
 オーストリアではウィーン体制を支えていたメッテルニヒの失脚を呼び込んだウィーン三月革命が、ドイツでは国王に憲法制定を約束させたベルリン三月革命が、さらにはオーストリアに支配されていたマジャール人(ハンガリー民族運動)やチェック人(ベーメン民族運動)による激しい民族運動が次々と起こり、さらにはイタリア民族運動や、イギリスでは労働者たちが参政権を求めてチャーティスト運動がそれらの刺激を受けて最高潮の盛り上がりを見せた。ここにおいて王政を復活させようとしたウィーン体制は完全に崩壊することになる。
 これらの出来事をまとめて諸国民の春(一八四八年革命)≠ニ呼ばれ、文字通りこの年の季節の春と重なっていた。ところが束の間、この年の六月以降はまた反動化が強まり冬を迎えることになる。
 とまれこの五十年ほどの短い間に、これでもかと言うほどの激しい浮き沈みを経験しながら、民衆が王政を覆す数々の歴史的なシーンが演じられたのである。
 二月革命を経たフランスでは再びの共和制が敷かれた。
 そしてその大統領選挙に当選したのがナポレオン一世の甥に当たるルイ・ナポレオンであった。一八五二年、彼は皇帝に即位するとナポレオン三世を名乗り、フランスにおいて二回目となる帝政体制を確立し、独裁体制を手にした彼はボナパルティズムという統治体制をもってフランスに安定をもたらした。
 日本の幕末期はまさにこの頃と一致する。同時にペリーが来航した一八五三年頃は、クリミア戦争(一八五三〜五六年)、アロー戦争(一八五六〜六〇年)、インドシナ出兵(一八五八〜六七年)などに介在するなど、フランスは対外的にも大きく動き出していた。