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(十三)パンなるもの
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 文久三年(一八六三)になって小笠原長行からの返事がはたと途絶えた。江戸の駒澤式左衛門に調べさせても「上洛したようだ」との報告があるだけで、それからの動きが杳として知れない。
 昨年四月に講武所奉行に任じられた従兄弟の大関増裕(おおせきますひろ)は、翌五月には新設された海陸両軍兵制所の主宰に任命されるといったスピード昇格を成し遂げ、同所御用取調掛の小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)や勝海舟ら十二名を従え幕府の軍備強化に尽力するようになっていた。直虎が退府してからも、親衛軍の設置や歩・騎・砲三兵科の養成と編成、あるいは全国海軍を六つに分けた総計三七〇隻の大中小軍艦を建造するといった壮大な計画も企画した。
 そんな増裕からの情報も吸い上げながら、できる範囲で蘭学に基づいたオランダ式の軍備体制を整えようとはしているが、肝心のライフル銃も西洋式の大砲もなければ、本による知識だけではたかが知れていた。春も過ぎてようやく届いた小林要右衛門からの文には、進展どころか、
 「(にわ)かにイギリスが不穏な動きを見せている」
 と、先行き不透明な内容が記されており、
 「いったい何がどうなっておる……?」
 隔靴掻痒(かっかそうよう)の直虎は近頃富みに落ち着かない。突然の参勤交代緩和の改革命令があったと思えば立て続けに生麦事件である。更には徳川家茂が何百年ぶりかの将軍家上洛を果たしたと思えばイギリスの不穏な動き──真相を知るに知れないもどかしさのまま、突然何を思ったか陣屋内の台所に入り込んだ。と、そこにいた女中たちをつかまえて、にべもない笑顔で(ひつ)や棚に収めてある小麦粉や砂糖や塩、あるいは油や(こざけ)といった食材を取り出し、釜戸に置いた焼き鍋をみつめて楽し気に雑談をはじめたのだった。
 そこへ顔を出したのが丸山本政、「殿、今日はどこかと思いましたらこんな所で油を売っておられましたか」と、いつもの嫌味気な口調で渋面をつくった。
 「不妻の料理手習いでございますか? 二葉屋百助が参りましたぞ」
 二葉屋百助は陣屋近く中町に店を構える須坂藩御用達の菓子職人である。
 「来たか、はよ通せ! これからお三どんの手も借りながらパンを作ろうと思う。西洋の兵糧食(ひょうろうしょく)じゃ。長崎のパン職人秘蔵の製法らしいが、百助なら作れるかもしれぬと思い呼びつけたのじゃ」
 直虎は手にしたメモ書きが埋蔵金が記された地図でもあるかのように本政にそっと見せた。そこには以前芝新銭座(しば しん せん ざ)の大小砲習練場に行ったとき、江川英敏(ひで とし)からもらったパンの製法が記されている。
 「パンだか兵糧丸だか知りませんが、あまり陣屋内をうろつかないで下さい。最近女どもが妙にそわそわしております」
 「小言はいいから早よ百助をここへ連れて参れ。聞きたい事がたんとある」
 こうして台所に姿を現した百助は、このとき(よわい)数え四十(しじゅう)の菓子屋『二葉堂』の二代目である。
 もともと『二葉堂』は初代長治郎が十四の時、江戸に登って本所亀井戸にあった菓子の老舗『亀屋』に奉公したのが始まりとされる。長治郎はそこで弟弟子と二人で菓子づくりの修行に励むが、やがて店主が没すると、その技術と働きぶりに感心を示したのが須坂藩第九代藩主直皓だった。奇しくも店の近くに須坂藩邸下屋敷があったのだ。
 「その方、生まれはどこじゃ?」
 「信州は松代藩領、東福寺村でございます」
 同国の菓子職人というのが縁となり長治郎はますます直皓に気に入られ、藩邸御用達を仰せつかるとともに『二葉屋』の屋号を賜った。そればかりでない──亀井戸の店を弟弟子に託すと、直皓の下向に従って須坂に移り、須坂藩御用達の御菓子司(おかしのつかさ)となって中町に暖簾(のれん)を掲げたのであった。
 須坂に限らず各地の城下町に銘菓が数多く残るのには理由がある。それは武家社会と深く関わる茶の湯に菓子はつきものだったからである。特に江戸時代は大名の献上品としても用いられ、菓子づくりの競い合いが銘菓誕生の土壌になったと言ってよい。
 百助は文政七年(一八二四)に須坂で生まれた。
 もの心つく前から菓子の魅力に取りつかれた彼は、成長とともに天性の菓子職人としての腕を開花させ、『鳴門巻』とか『中華饅頭』といった独自の名菓を編み出した。『中華饅頭』はいわゆるどら焼き≠ニ見ゆるが、十二代直武が将軍家に献上したそれは、時の徳川家慶の舌をもうならせ褒賞を頂戴したほどで、その名は江戸でも評判となった。これを機に『二葉屋』から『二葉堂』に屋号を改めたのが嘉永六年(一八五三)のこと、以来直皓から賜った二葉屋を自らの姓としている。
 「これじゃ」と直虎はパンの製法が記された書き付けを百助に手渡した。
 『差し渡し二寸強(約六センチ強)の大きさにいたし、厚さ三分(約一センチ)にて、焼なべに油を引き、狐色に焼き申し候。
一、パンの法 西洋人兵糧
  麦粉 百六十匁(約六〇〇グラム)
  砂糖 四十匁(約一五〇グラム)
  玉子 五つ
 右の三味を水にて粉ね、焼なべにて焼く。
一、別の法
  麦粉 百六十匁
  (こざけ) 五勺
  これらは饅頭のもとに相成り候品に、砂糖 二十匁
一、また別の法
  麦粉 百六十匁
  醴 五勺
  水 適量
 右のもの、いずれも製方が容易でなく宜しからず。ある村では麦粉を水にて粉ね、図の如くまるめ押して平らにし、温灰で焼く。塩けを忖度(そん たく)候えば程よく塩水にて練る。この法一番手軽で実用的である。また、麦粉の替わりに小麦粉でもよい。』
 「どうじゃ? 作れそうか?」
 百助は暫く書き付けを見つめてから次のように言った。
 「材料を見たところカステイラ≠ゥと思いましたが、砂糖と玉子が少なく焼き方も違います。どちらかといえばビスコイト≠ノ近い気もしますが、まずはこのパンなるものを食した時の殿のご感想をお聞かせください」
 当時の製法つまりレシピなど写真もない上かくの如き大雑把なものである。実物を見て食し、あれこれ試作を重ねて作るより仕方ない。ところが、
 「実はわしも食ったことも見たことさえない」
 百助は唖然と口を開いた。
 「──だからお前を呼んだのじゃ」
 「食したことも見たこともない物を作れと仰せられても……こりゃ困りましたなぁ」
 すると二人の様子を見ていた女中の一人が口をはさんだ。
 「ひょっとしたら具のない甘いおやき≠ンたいなものではないでしょうか?」
 また別の一人が、
 「それはダメよ。長期保存をするなら、おやきのように水分が多くてはいけません。きっとカチコチに焼いてしまわなければ保存には向きません」
 さらにまた別の女中が、
 「しかしここには温灰(ぬく はい)≠ニありますから、ゆっくりと焼けばカチコチにはならないのかも知れませんよ」
 と、女たちの会話が始まった。パンは西洋人の日常食でもあり、極度に専門的な知識に寄るよりも、日常生活の達人であるこうした女性たちの会話の中にこそ重要なヒントが潜んでいると考えている直虎は、女中たちを眺めてにんまり笑んだ。
 「パンというものは長期保存がきく西洋の軍事携帯食じゃ。兵糧丸よりもずっとうまいと言う。どうじゃ、そなた達も喰ってみたいだろう? もしうまくできたら褒美をとらそう!」
 困り顔の百助を差し置き「きゃっ!」と女中たちは大いに沸いて、やる気満々で釜戸に薪をくべたり水を運んで来たりと俄かに台所が動き出した。
 ──さて話は変わるが、そのころ一橋慶喜の命を受けた小笠原長行は、生麦事件賠償金問題解決のため京都、大坂から海路江戸に向かっていた。その命令とは、長州藩の画策により攘夷決行を余儀なくされた幕府の、立場上の筋を通すため、それまで推し進めてきた開国路線を一八〇度翻し、
 「生麦事件の賠償金支払いを拒絶(きょ ぜつ)し、横浜鎖港(さ こう)を実現しろ!」
 既に外国に開いた横浜港を封鎖せよという全くの無理難題だった。老中格並びに外国御用掛(がい こく ご よう がかり)になったばかりで何の経験もない小笠原長行は、いきなり国の命運を左右する重大な使命を担わされたわけだった。
 イギリスは、幕府に対して謝罪と十万ポンド(約二十四万両)の賠償金を要求してきており、その返答内容次第では江戸を総攻撃する構えで、横浜湾内にフランス、オランダ、アメリカを集結させて四カ国連合艦隊をして幕府を威嚇していた。しかも賠償金支払い期限を五月三日と定めたから、時間的余裕(よ ゆう)などほとんどないに等しい。
 これに対して江戸の幕議では、一旦は支払い要求に応じようとしたものの、長行が戻って攘夷の勅命を帯びた慶喜の意向を伝えると、再び物議をかもして評議は大混乱に陥った。支払い期日の前日になって延期を願い出た末、最終的に拒否≠決定したのである。
 これにはイギリスも大激怒。艦隊に戦闘準備を命じて横浜の緊張は一気に高まった。要右衛門の書状にはその様子が綿綿と綴られていたのである。
 当時の江戸は一〇〇万人とも言われる世界一の人口を誇った都市なのだ。
 「このまま攻撃が開始されたら、大江戸の町が焦土と化してしまうではないか!」
 もとより長行は開国派である。いくら将軍後見職(こう けん しょく)一橋慶喜の命とはいえ、一夜で攘夷に鞍替(くら が)えできるほど器用でないし納得自体していない。かといって下手な交渉で幕府のお膝元である江戸を火の海にするなど天地が逆さになってもできない相談なのだ。彼の苦悶は果てしなく、江戸の町を守るも燃やすも己の采配(さい はい)一つで決まるという重圧に苦しみながら、もはや正気の沙汰でない。
 そして、ついに支払い拒否≠ニいう幕義決定を無視するしかなくなった長行は、八日になって独断で賠償金の支払いを決断し、海路横浜へ向かってその全額を支払ったのだった。この後、横浜港鎖港をめぐって、幕府とイギリスの交渉は続けられることになるわけだが、長行にとってこの決断は、戦争回避と引き換えに己の政治生命を断つことを意味した。
 これこそ一橋慶喜の計算だったのかも知れない。
 「わしは勅命(ちょく めい)を忠実に守り、再三にわたって賠償金の支払いを禁じたにも関わらず、部下が勝手に支払ってしまったのだ──」
 という思惑(おも わく)をあざやかに達成し、賠償金問題の終結を待つように、ゆっくりと東海道(とう かい どう)を東進していたのである。
 さすがに温和な長行も激怒した。
 「慶喜公はまっこと(ずる)いお方じゃ。わしに責任の全てを押し付けたな!」
 腹をくくった人間というのは時に想像だにしないことをやってのけてしまうものか。長行は、
 「賠償金支払いに至る経緯(けい い)を朝廷に釈明(しゃく めい)し、家茂公を江戸に連れ戻す!」
 と、俄かに幕内クーデターを企てた。
 ベールに包まれた家茂と孝明天皇との個人的関係など知る由もない幕臣たちにとって、将軍家茂は現在朝廷による軟禁状態である。江戸の幕臣達は実行不可能な攘夷を安請(やす う)け合いした慶喜を批判し、その尻拭(しり ぬぐ)いを要求してきた上方駐在(かみ がた ちゅう ざい)の幕閣に対して大きな不信感を募らせた。
 「よもや将軍家茂様の失脚(しっ きゃく)(ねら)っているのではないか?」
 との(うわさ)まで沸き起こって、朝廷を(あやつ)る過激攘夷派の横暴(おう ぼう)とテロの恐怖におびえる上方の幕閣に対して怒りを爆発させた。
 いわば機根は整っていた──。
 長行の呼びかけに呼応したそうした不満を持つ江戸の幕臣達が決起し、その数は瞬く間に膨れ上がって一、六〇〇ものいっぱしの軍隊ができあがったのである。
 「いざ、上方へ参るぞっ!」
 その(つわもの)たちの多くは、密かに芝新銭座(しば しん せん ざ)の大小砲習練場や築地の軍艦操練所で西洋式の調練を受けていた者たちで、その装束は歩兵部隊の完全武装──帰藩中の直虎にその知らせが届く間もない五月二十六日、彼らを幕府海軍の船に分乗(ぶん じょう)させた長行は、いざや大坂へと向かったのだった。
 いわゆるこれが小笠原長行による率兵上京事件(そっ ぺい じょう きょう じ けん)と呼ばれるものである。
 小笠原長行には算段があった。
 優柔不断な幕府の姿勢に不満を募らせているのは江戸の幕臣たちだけでなく、こうして決起すれば上方の同じ不信感を抱く幕臣たちもこちらになびく──。やがて兵は更に膨れ上がり、あわよくば家茂を京都から救い出し、幕府内クーデターによる幕府主導型の維新の波を起こす可能性を()めた行軍だった。もし成功すれば小笠原長行こそ幕末の英雄となり得たか。
 大阪に上陸した長行は、六月二日の朝には京都の手前枚方(ひら かた)まで行軍した。その報に驚愕(きょう がく)したのが上方の幕閣たちで、慌てて若年寄稲葉正巳(いな ば まさ み)派遣(は けん)して入京()し止めを命じたが、もとより覚悟が決まっているうえ職務上格下の若年寄の言には耳も貸さない長行は、無視して橋本まで兵を進めた。次いで将軍直属の使い番松平甲太郎(まつ だいら こう た ろう)という男がやって来る。
 「しばらくそこにとどまれぃ!」
 「何を申す! こんなところでは宿(やど)もござらん!」
 と、更に伏見(ふし み)(よど)まで進んで、ようやく兵を分宿(ぶん しゅく)させた。
 この事態に朝廷は(ふる)え上がった。
 「すぐに小笠原長行とか申す者を食い止めよ!」
 将軍家茂にそう命じるとともに皇居の護衛を固めると、四日に至って老中首座(ろう じゅう しゅ ざ)水野忠精(みず の ただ きよ)が現地に駆けつけこう告げた。
 「勅命及び台命(たい めい)じゃ! 入京は絶対ならん!」
 再三に渡る説得が繰り返された末、ついに将軍親筆(しん ぴつ)の入京禁止命令が長行に届けられた。
 上方の幕臣たちの賛同を得ようと周旋の手を尽くしていた長行だったが、思いのほかその効果は薄く、もとより将軍を救い出すための決起のはずが、その将軍自らの台命とあらばいくら正義の旗だと言い張っても賊軍以外のなにものでもない。
 終わった──
 長行は愕然と肩を落とし、結局このクーデターは失敗に終わる。
 彼にとって幸いだったのは、それから間もなく将軍家茂が江戸帰東の途についた事だった。幸いだった≠ニいうのは、下々の者たちの目には、軟禁状態の将軍が解放されたのは朝廷が江戸の勢力を恐れたように見えたからである。あるいはそうとも言えた。
 これにより長行は老中格を罷免されたものの切腹は(まぬが)れ、クーデターに随行(ずい こう)した主要官僚も謹慎(きん しん)処分を言い渡されただけで事態は収拾した。罰としては思いのほか軽いと言わざるを得ないが、この朝議による謹慎処分で、長行はしばらく政治の表舞台から姿を消すことになる。
 この率兵上京事件(そっ ぺい じょう きょう じ けん)とほぼ時を同じくし、長州は下関では──
 攘夷決行の幕府命令を得た長州藩は、期日の五月十日を待ってましたとばかりに攘夷戦争(下関戦争)を引き起こす。何も知らずに下関海峡を通りかかったアメリカ商船ベンプローク号に対して、藩兵および浪士軍からなる兵力一、〇〇〇の陣営をもって一斉砲撃を開始したのだ。驚いたのは幕府と通商条約を結んでいるから攻撃されるなど夢にも思っていないベンプローク号の乗組員達で、慌てて周防灘へ逃げ出した。
 続いて二十三日、今度は横浜から長崎へ向かう途中のフランスの通報艦キャンシャン号が二隻目の犠牲となった。このときまだキャンシャン号はベンプローク号が攻撃を受けたことを知らず、これまたふいをつかれて船に損傷をこうむる。フランス側は交渉のため書記官をボートで陸へ向かわせるが、長州側は無防備な彼らに向かって銃撃を加え、フランスは四名の死者を出す。
 更に三日後の二十六日、長崎から横浜へ向かうオランダ東洋艦隊所属のメジューサ号が同様の無差別攻撃を受け、一時間ほどの激しい砲撃戦の末、四名の死者と船体に大きな損傷を受けて周防灘へ逃走した。
 戦闘意識のない商船相手に攘夷を実らせた長州藩は、連続勝利の歓喜に沸いた。
 ところがそれも束の間、欧米側の反撃が牙をむく。
 ベンプローク号が攻撃されたことを知らされたアメリカ戦艦ワイオミング号のデービット・マックドガール艦長は驚き、直ちに報復攻撃を決定して横浜湾を出港した。いよいよ当時の最先端兵器を備えた軍艦のお出ましである。六月一日に下関海峡に入った戦艦ワイオミング号は、港内に停泊する長州藩の軍艦庚申丸と壬戌丸と癸亥丸の三隻に砲撃を加え、たちまち撃沈あるいは大破してしまうと、西洋軍事の脅威を前に何もできない長州藩は、海峡沿いの砲台を奪われ、甚大な被害をこうむった。たった一隻のたった一回の攻撃で、長州海軍は壊滅状態に追い込まれてしまったのである。
 続いて六月五日、今度はフランス艦隊が報復攻撃をかけた。仏東洋艦隊バンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号とタンクレード号の大型艦二隻は、前田と壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加え、陸上戦に持ち込んだかと思うと、あっという間に二つの砲台を占拠した。戦国以来戦いを忘れた長州藩の武士たちは、鎧兜と刀鑓、あとは火縄銃に願掛けするような骨董と化した武器と戦法で、先祖が築いた栄光など何の役にも立たない。フランス兵は大砲を破壊し民家を焼き払い、我がもの顔で暴れ回った挙句、そそくさと撤収してしまう───ここではじめて攘夷を声高に宣揚してきた長州藩は、夷敵の脅威に蒼白となるのだった。幕府にとっては新たな賠償問題が浮上する。
 動乱はそれだけでない。
 生麦事件の賠償問題において、イギリスは薩摩藩に対しても犯人の処罰と二万五千ポンド(約六万両)の賠償金を要求していた。横浜における幕府との交渉が一段落したイギリスは、艦隊を薩摩に派遣し直接交渉をはじめる。七隻のイギリス軍艦が鹿児島湾に入港すると七月二日、イギリス側の薩摩藩船の拿捕(だ ほ)を合図に薩摩藩側はイギリス艦隊への砲撃を開始したのだ。いわゆる薩英戦争である。
 この戦闘によって薩摩は鹿児島城下の約一割を焼失する大きな損害を被るが、イギリス艦隊側も旗艦ユーライアラス号の艦長や副長の戦死や戦艦の損傷が重なる甚大な損害を被り、二日間に亘る戦闘はイギリス艦隊が撤収する形で収束する。そして十月五日、横浜のイギリス公使館において両者は講和に至り、薩摩藩は幕府から借りた六万三、〇〇〇両(約二万五、〇〇〇ポンド)をイギリス側に支払い、もう一つの条件である生麦事件の加害者処罰については逃亡中≠ニしたまま行使されることはなかった。
 これが日本を包囲するかのように取り巻く西洋諸国に対する幕府と、後に討幕を目論む地方雄藩の動きの違いである。
 そんな激動の事件が重なっているとはつゆ知らず、直虎は参勤交代参府の九月をじっと待つ──。
 さて話を戻して須坂陣屋の台所。
 顔を白く染めて小麦粉をこねながら手際の悪さを自ら笑う直虎に、「そこはこうだ、ああだ」と言いながら、パンづくりに夢中の数人の女中たちとはすっかり友達のようになっていた。
 かくしてパンづくりの挑戦は、幾度となく失敗を繰り返し、やがて現代で言うところのホットケーキのようなものが焼き上がり、二葉屋百助も「こんなところでしょうかね?」と言ったので、みな歓声を挙げて手を叩き合った。
 「お殿様、早く食べてみましょう!」
 「そう騒ぐでない。まずは指南役の百助に毒見してもらおう」
 女中たちの視線が一斉に百助にそそがれると、百助は少し照れたように咳ばらいをしてから、
 「菓子は五感で食べる≠烽フです。心鎮めて……」
 と畏まって言った。
 「あら、これは菓子ではございませんわ。パンでございます」
 一人の女中がそう笑ったが、直虎自身たった今焼きあがったばかりの目の前で湯気をあげる食べ物が、パンなのかそうでないのか判断がつかずに首を傾げている。
 「お殿様、褒美をくれるお約束をお忘れになったとは言わせませんよ」
 別の一人がそう言った。
 「嘘など申すものか。さあ遠慮はいらん、欲しい物をなんなり申せ。ただし、これが確たるパンだと証明できたらな」
 女中たちは呆気にとられて顔を見合わせた。
 「誰も見たことがないのに証明なんかできるわけがございません」
 「そりゃ残念じゃ。証明できぬなら褒美はお預けじゃ」
 直虎は呵々大笑して彼女たちを煙にまいてしまうと、百助と台所を出て行った。