> (十二)采薇(さい び)
(十二)采薇(さい び)
歴史・時代小説 検索エンジン 奇譚・古事記
 須坂藩の藩校『立成館』は中町にある。
 建坪三十八坪ほどの茅葺(かや ぶ)き平屋建ての質素なものだが、それでも五十人ほど収容できる大広間では、藩士の子弟たちに教育が施された。そこには儒官一人に助教授四、五人のほか茶童が二人ほどおり、通う学徒たちは朝四ツ半時(午前八時頃)といえば音読を取り入れた読書をし、午後は日によって講義や研究発表、詩文会や算術などの学習をするよう時間割が決められていた。須坂藩江戸屋敷にも『五教館』という藩校があり、同等の教育が行われている。
 藩政改革以来、直虎は教育の重要性を思い知らされた。しかもあの時は、本来、人格を磨くための教育が悪用されたのである。よほど頭にきたので、
 『最近、文武両道を怠る者がおるようだがもってのほかじゃ! 士族たる者、学ばなければ武士を名乗る資格などない! 今後、学ばぬ者は取り調べのうえ減俸することもあるゆえ心せい!』
 と、きつく触れを出したほどである。
 藩政改革のとき、関わった官僚の断罪と合わせて、道徳を乱した心学を教えた『教倫舎』を廃止してしまったが、心学の全てが悪かったかといえばそうでもない。『教倫舎』では二と七の付く日、つまり二の付く日は学徒の友人知人が集い、また七の付く日は講話が開かれ、そこは武士や農民や町民の分け隔てなく、たとえ女性であっても参加が許され、儒学書『礼記(らい き)』の「男女七歳にして席を同じうせず」の教えであろうか、男女は(すだれ)で仕切って隔ててはいたものの、領民に対して開かれた教育が行われていた。直虎は、そんな良き伝統は残していかなければいけないと思う。
 藩校に限らず寺子屋に目を向けてみても、須坂藩内の各村々には複数存在しており、そこで師匠を務める者は士族ではなく僧侶や農民、あるいは医者などが九割以上を占めるというのも須坂藩の特徴であった。そして寺子屋では読み書きや商業上の一般知識を教えたが、中でも特筆すべきは、井上、仁礼、八町の三カ村においては、当時にして女性の師匠が存在していた事実である。いわば須坂藩はこの当時にして民間主導型の教育体制が既にできあがっていた教育大国と言っても過言でないだろう。
 その日──
 『立成館』では、なぜか町人姿の直虎が、自らが弁士となって狭い部屋にあふれんばかりの聴衆を前に講話を説いていた。
 「なぜわしはこんな所でこんな事をしておる?」
 腑に落ちない状況に内心首を傾げながらも、その論舌は次第に流暢になり、北村方義や中島淡水ら同校の教授陣をはじめ家老の丸山本政まで顔を揃えて、ついには受講者全員の感心と感動がどよめき拍手喝采が沸き起こった。藩主になる以前、私塾を開こうと考えてはみたが、まさかこのような形で実現するとは思ってもない直虎は、開け放たれた障子戸の外から差し込む晩春のうららかな陽光を見つめ言葉を次いだ。
 「そんなわけで今朝ワラビをたんと採って来たから帰りに好きなだけ持ち帰ってくれたまえ。まあある分しかないが」
 そうして縁側に置いてある(わらび)が山ほど入った頭陀袋(ずだぶくろ)を指差した。
 ──今朝目が覚めて、家臣たちの目を盗んでいつものように陣屋を出たのは吉向焼の窯跡を見ておこうとふいに思い立ったことによる。父直格の発案により兄の直武が作った須坂吉向焼の釜工場であるが、閉鎖されてより小田切辰之助が吉向の門人を抱えてひっそりと須坂焼きというお庭焼きで日常品を焼いているとは聞いていたが、実際現場に赴いたことはなく、一度見ておかねばと思いつつ、過去を振り返っても仕方がないとの思いもあって、いつも後回しにしてきたものだ。今朝に限ってそのことが無性に気になり、思い立ったらどうにも行かずには気がおさまらなくなったのだ。
 どこかで(にわとり)()いていた。
 町人姿の着流しに着替えた彼は、丁髷(ちょんまげ)隠しに手拭いで頬被りをし、早朝の冴えた空気の中に飛び出せば、どこからともなく雉鳩(きじ ばと)の声も聞こえた。
 陣屋内母屋の藩主の部屋(公の間)から庭園を挟んで反対側の笹藪(ささ やぶ)をかいくぐって進めば、非常門から陣屋の外に出られる。それは万が一の避難や逃亡用の秘密の通路であるが、今となっては家臣の目を免れ陣屋の外に出るための都合のよい抜け道である。
 直虎は門の鍵を開けて陣屋の外に出た。
 すると眼前にそびえるのは標高四九〇メートルの鎌田山(かま た やま)という小さな里山で、須坂陣屋の後方を守るようにしてあるこの山を、地元の人間はかんだ山≠ニ呼んでいる。吉向焼の窯跡はその山の反対側、坂田山とのくぼみのような場所にあるが、山頂に登れば眼下に須坂藩領を一望でき、遠く千曲川のきらめきや北の松川、南の百々川(ど ど がわ)の扇状地形、松代藩の領地も手に取るようにして掌握できた。西の北信五岳の山々とその左遥か遠くには万年雪で輝く飛驒山脈も眺望でき、目的地へはその山頂経由で行く手もあるが、急峻な登り坂は撃剣所や柔術場の体力増強の稽古に使われるくらいで、よほど気が向かない限り登る気にはなれない。大抵は山裾を左回りに行くのが一般的だ。
 途中、一人の青年と出会う。
 「よう信敏(のぶ とし)、久し振りじゃなあ。こんな早くに何をしておる?」
 早朝の心地よい大気の中、信敏と呼ばれた男は腰に頭陀袋(ず だ ぶくろ)をさげており、山裾の茂みの中で山菜でも採っている様子。最初直虎の声に不審な表情を見せたが、それが見覚えのある顔であることを認めると、みるみる表情を変えて足元に駆け寄りひざまずいた。
 「りょ、良山様──いえ、今は直虎様ですね! 殿こそそんな恰好で、しかもこんな早朝におひとりで……」
 「元気そうだな? 父には帰藩の前、無理を言って江戸に来てもらい政務を手伝ってもらっていたが、お前とは十年ぶりか?」
 「そんなになりましょうか?」
 信敏は恐縮した表情で顔をあげた。
 「あの直武様が身罷(み まか)られたと聞いた時は驚きました……しかし直虎様ならこの須坂を一層盛り立ててくれましょうな。そうだ、また当家で殿をおもてなししたいのでいつでも遠慮なくお運びください」
 「松茸尽くしの膳か? そりゃよい! ──だが、残念だが非常の課物は禁止じゃ。たくあんでよい」
 「接待が課物になりますか?」
 信敏はお堅い方だと笑った。彼の父は田中新十郎信秀、通称田中主水という田中家五代目当主で、この三月、江戸藩邸の庶務仕事をするため急きょ江戸に昇った勘定方である。家は代々主に穀物を扱う商人で、初代田中新八は小山村上新田(現須坂市穀町)で穀物の他、菜種油や煙草、綿や酒造業などの商いで巨万の富を得、近年は江戸は日本橋通り室町にまで店を進出させて不動産業を営むと聞く。
 もともと初代新八は仁礼村出の次男坊だったが、母を亡くして十六歳の時に須坂の豪家牧七郎右エ門の家で奉公をはじめ、享保十八年(一七三三)に独立を果たした。以来二代目からは新十郎を襲名し、ものを大切にする心≠家訓としたその財力は須坂藩をもしのぐと言われ、御用達商人として藩の窮乏に際してはその都度献金を惜しまなかった。その功績から名字帯刀を免除され、三代目新十郎信厚の代には士分まで与えられるという未曽有の大出世を遂げた家である。
 厳然たる身分制度が存在した江戸時代にあって、この商人から武士への転身は稀有ともいえるが、もともと一万石という小規模な藩では、身分にこだわり過ぎると藩政に弊害をもたらすこともたびたびあったのだろう、須坂藩にそのような寛容な気風が培われたのもある意味必然だったかも知れない。
 現在の五代目当主田中主水は齢六十の壮年であるが、その矍鑠(かく しゃく)たる風貌は勘定方としての貫禄も助けて須坂藩内の重鎮として一目(いち もく)二目(ふた もく)も置かれる存在である。いずれ六代目新十郎を襲名するはずの信敏はこのとき二十五歳、同年代の直虎とは旧知でよく囲碁や将棋などして遊んだものだった。信敏は直虎を懐かしそうに見つめながら、
 「母が好きなわらび餅≠(こさ)えようと思いまして、(わらび)を採っております」
 と言った。
 「わらび餅とはずいぶん手間がかかるであろう?」
 彼の母であり主水の妻である古宇(こ う)の品格ある姿を思い浮かべて、直虎は「親孝行じゃな」と感心の笑みを浮かべた。わらび餅の原料となる蕨粉は、その根から取れるデンプンを乾燥させて作るが、手間がかかる割に抽出される量は微々たるもので、
 「一人で作るのか? 嫁はどうした?」
 「嫁ですか──まだまだそのような身分ではありません。私の心配より殿の方こそ早く奥を迎え、世継ぎをお産みになりませんと」
 すかさず切り返す頭の回転の早さを小気味よく思う。
 「阿呆、忙しくてそれどころでないわい。胸をチクリと刺すようなことを」
 直虎は窯跡に行こうとしていたことなどすっかり忘れ、「ではわしはお浸しでも作って食おうかな」と一緒に蕨採りに夢中になってしまったのだった。
 信敏は家から別の頭陀袋を持って来て、坂田山の方まで足を延ばしてひとたび山に入れば、ワラビのほかにゼンマイやコゴミ、タラの芽やウド、セリなど、そこは山菜の宝庫。二人で競うように春の山の恵みを集めていると、瞬く間に二つの頭陀袋はいっぱいになって、太陽の光は真上から降り注いだ。
 「今日はこんなところでしょうか?」
 と、汗を拭いた信敏の言葉に、二人は袋いっぱいの蕨と山菜を見つめながら「こんなにたくさん……どうしよう?」と顔を見合わせた。
 「そうだ、私はこれから立成館に行くのですが、来た人たちに分けて帰ってもらいましょう」
 信敏の提案を聞けば、今日の立成館では一般講話が行われ、「北村方義先生の講義が聞けるから殿も一緒にどうか?」と、心待ちにしたはずんだ口調で付け加える。
 「わしは遠慮しておくさ。突然藩主が顔など見せたらみな大慌てだ」
 と言いつつ、日常のありのままの藩校の様子を見ておきたいとも思いながら、見つかったときの本政の怖い顔を思い浮かべた。
 「その格好なら誰も殿だとは気付きませんよ。後ろの方で静かにしていれば」
 「そうか?」と、戸惑いながら手を引かれるままやってきたところが、
 「と、殿ぉ──!」
 案の定驚愕したのは論語を講じている真っ最中の北村方義である。部屋の後方、手拭いで頬被りをしている不審な男が直虎だと気付いた瞬間、方義はたちまち言葉をつかえ、論語に出て来る人名を間違えるわ年代を間違えるわで、ついに中断して続きを中島淡水に任せると、急いで町人姿の直虎を藩主詰め所に連れ込んだ。
 「殿! 陣屋を抜け出してまたお忍びですか!」
 「そんな目くじらを立てずともよい。陣屋におっても暇でしかたない」
 「本政様が領内の案件の承認を得ようと公の間に行っても、いつも殿はいらっしゃらないと嘆いておりましたぞ」
 「あそこにおっても花押を記すだけじゃ。目をつむっても書けるようになってしまったわい」
 「またお(たわむ)れを……こちらだって突然来られては困ります。準備というものが!」
 「かまうな、後ろの方で静かにしておる」
 「そうはいきません。殿がお見えになるなら、それ相応の対応を示すのも教育です!」
 「わしがおるとやりにくいのであろう? 正直に申せ」
 「殿! そういう問題ではありません!」
 方義の狼狽ぶりを見て直虎はにべもない愛嬌笑いを浮かべた。
 「いますぐ本政様を呼んで来ますので、それまでここでじっとしてお待ち下さい!」
 方義はひどい剣幕で立成館を飛び出した。
 ところが本政を連れて戻ったところが、どういう経緯か中島淡水に替わって今度は直虎が講義をしているではないか。部屋の後ろにいた淡水に「いったいどうなっておる?」と問い質せば、淡水の講義に不満を持った受講者が「今日は北村先生の講話だから来たのに話が違う」と騒ぎ出し、挙句に収拾がつかなくなった場をおさめようと詰め所にいた殿に相談したところ、
 「わしがやる!」
 ということになったらしい。どうも直虎にはやりたがり屋の(へき)があるようだ。方義と本政は「やれやれ」と顔を見合わせた。
 正面の床の間に、亀田鴬谷が書いた『皇漢二学』の書が飾られる前に置かれた文机に正座して講話に没頭する直虎の論調は、いよいよ油がのっていた。
 「ワラビの話題が出たので史記≠フ『伯夷列伝(はく い れつ でん)』の話をしようか。知っている者?」
 誰の手も挙がらないのを見て直虎はニヤリと笑んで、
 「古代中国の殷王朝(いん おう ちょう)は、暴君と名高い紂王(ちゅう おう)が治めていた国である──」
 と得意げに話しはじめた。江戸遊学の際、酒を交わしながらたびたび漢学を論じ合ったことのある方義は、こうなってはもう誰も止められないことを知っている。
 史記=w伯夷列伝』は、紀元前千年も昔の中国殷王朝末期の伯夷と叔斉(しゅく せい)の史実である。
 殷という国に紂という王がいた。紂王はことのほか弁が立ち、素手で猛獣を倒すほどの剛腕の持ち主で、見識も広く行動も敏捷であることに加え莫大な財を蓄えていた。珍しい犬や馬や野獣飛鳥を庭に放ち、世の中の珍しい物品を集めて宮室を満たし、そのうえ悪知恵を働かす才に優れていたので、家臣から(いさ)めを受けても反対にやり込め、また悪事を善事と言い飾ることができる口達者でもあった。彼はその能力を誇り、毎日酒に溺れ女にたわむれ、妲己(だっ き)という名の妻を愛して彼女の言うことなら何でも聞き入れ暴政を奮っていた。
 その様子に怨望した諸侯の中にやがて背く者が現れると、紂王はその罪に対して炮烙(ほう らく)≠ニいう刑罰を科した。それは銅の柱に油を塗り、下で炭火を燃やして罪人にその上を渡らせ処刑する惨いものである。
 その紂王の三公(天子を補佐する最高官職)に西伯(さい はく)九侯(きゅう こう)鄂侯(がく こう)の三人がいた。このうちの九侯には美しい娘があり、その美貌を気に入った紂王は彼女を宮室に入れるが、娘は彼に従わなかったため紂王は怒って娘を殺し、父親の九侯も塩漬けの肉にしてしまう。それを鄂侯が能弁に厳しく諌めると、今度は鄂侯を(ほしにく)にしてしまったのだった。
 この話を聞いた西伯はひそかに嘆息した。するとその様子を紂王に告げ口する者がいて、西伯は羑里(ゆう り)という僻地へ流罪されてしまう。すると西伯の下臣たちは主君を助けようと、紂王の好きな美人や奇物や善馬を探して献上すると、紂王は大いに喜んで西伯を許し、西伯はそのうえ自分の領地の一部を献上して炮烙の刑≠廃止するよう請うて紂王はこれを許したのだった。しかし殷の民心はすでに紂王からはなれ、諸侯は次第に西伯の住む周という国に帰服するようになっていく。
 一方、孤竹(こ ちく)という国の主君の子に伯夷と叔斉という二人の賢人がいた。
 父は末弟の叔斉を後継にしたいと思っていたが、父が死ぬと、叔斉は兄の伯夷に家督を譲ろうとした。ところが伯夷は父の命に背くと言ってこれを受けず、ついに国を逃れると、叔斉もまた主君に立つことを承諾せず、兄を追って国を出てしまった。
 こうして伯夷と叔斉は、よく老人を労わり養うと聞く西伯を頼って周に行くが、このときすでに西伯は没し、後継の太子は自らを武王(ぶ おう)と称して大軍を集め、父西伯の位牌を車にかざして殷の紂王討伐のための挙兵をしたところであった。
 このとき伯夷と叔斉は武王の乗った馬をひかえ止め、こう諫言(かん げん)する。
 『亡父の葬儀も行わぬうちに戦争を起こすのは孝≠ニ言えましょうか? 臣下の身で主君を討つことが仁≠ニ言えましょうか!』
 武王の近衛兵(このえへい)たちが二人を捕えて殺そうとしたとき、軍師太公望(たいこうぼう)が、
 『これは義人である!』
 と一喝して二人を助けてその場をおさめた。
 伯夷と叔斉の諌言を聞かなかった武王は、間もなく周軍に参戦する八百の諸侯を引き連れ東の殷へ進軍していく。その道中、紂王に不満を持った勇士たちが陸続と集まり、最終的に武王の兵力は三千余りにまで膨れ上がった。とはいえ、対する紂王の兵力は実に七十万に及んでいた。
 「どっちが勝ったと思う?」
 直虎は聞き入る聴衆の顔を意地悪そうに見回した。
 「そりゃ殷の紂王に決ってます。二百倍以上の軍勢に勝てる道理などありません」
 田中信敏の思い通りにはまった答えにニンマリ笑んだ直虎は、
 「ハズレじゃ。勝ったのは周の武王の方じゃ」
 と、さも嬉しそうに「なぜだかわかるか?」と問いを重ねた。聴衆は黙り込んだ。
 「周の武王の軍は数は少ないながら異体同心(い たい どう しん)で死に物狂いだったのじゃ。一方殷の紂王の軍はかねてからの暴政に愛想をつかして忠心もなく、数は多けれど同体異心(どう たい い しん)烏合(う ごう)(しゅう)だった。中には武器を逆さに持って戦った者もおると史記にある。戦の勝ち負けとは数だけでは図れんものだ」
 言いたいことを得意そうに言った直虎は更に続けた。
 敗れた紂王は宝玉で飾った着物を着て逃げたが、ついに火の中に飛びこんで死んだ。武王は紂王の首を白旗の上にかけ、妻の妲己を殺す。かくして周の武王は王となった──。
 「さて、わしが言いたいのはここからじゃ。周の武王に諫言した伯夷と叔斉はその後どうしたかという話じゃ。一見、殷の紂王は暴君なのだから、それを倒した周の武王は英雄と讃えられてしかるべきだが、二人はその武王に諫言した上、その後は首陽山(しゅ よう ざん)という山に隠棲し、周の俸禄で生活するのを(いさぎよ)しとせず、ただ首陽山に生える(わらび)だけを食べて餓死するのを待ったと言うのじゃ。なぜだろう?」
 直虎は「これが分ったら孔子でなくとも論語が書ける」と冗談を言いながら、後方で聴講する北村方義と丸山本政に紙と筆を用意させると、さらさらと一つの詩を書きあらわした。

 登彼西山兮。采其薇矣。(首陽山に登り、蕨を採って暮らした)
 以暴易暴兮。不知其非矣。(武王は暴力を除くために暴力を用いたが人はその非を知らない)
 神農虞夏忽焉沒兮。(神農(しん のう)舜帝(しゅん てい)禹王(う おう)の世はもうない)
 吾適安歸矣。(私はどこへ身を寄せればよいのか)
 吁嗟徂兮。命之衰矣。(ああ、行こう。命も衰えた)

 「これは伯夷と叔斉の『采薇(さい び)の歌』という辞世である。神農とは中国神話に登場する建国の聖人三皇の一人で、虞夏(ぐ か)は舜帝と禹王のことで、舜帝は五帝最後の聖人、禹王は三皇五帝に続く理想の統治者である。それらが没=Aつまり真の義人はもうこの世にはいないという意味だが、重要なのはこの前、暴を(もっ)て暴に()え、その()を知らず≠ニ言っているところじゃ。伯夷と叔斉は、殷の紂王に対する民心の不満に応えようとする武王の正義心∴ネ前に、孝≠ニ仁≠(そな)えない武王の行動に納得していない。暴に暴を以て≠ニ断言し、それを(はじ)≠ニまでしている点なのだ。それを孔子は『伯夷・叔斉は人の旧悪を思わず、人を恨むことがなかった』そして『彼らは仁を求めて仁を得た。また何を恨むことがあろう』として、二人を仁人・聖人・賢人として数えるが、史記を書いた司馬遷(し ば せん)の方は、『采薇の歌』を読む限り二人に恨みの心がなかったかといえば首を傾げざるを得ないとしているのじゃ。つまり『天は善行を行う者に善の報いを与える』という人間として信じたい迷信に対して天道是邪非邪(てん どう ぜ か ひ か)>氛氓ツまり『天は常に善人の味方をするとは限らない』という問いを出発点として、あの一大叙事詩『史記列伝』をつづり始めるというわけじゃ」
 直虎の口調はひどくご機嫌だった。
 「ちなみに水戸藩の徳川光圀(みつ くに)公は十八の頃にこれを読み、自分と兄松平頼重公を伯夷と叔斉に重ね、それまでの行動を改めて以後学問に目覚めたということじゃ」
 直虎は聴衆の顔を見まわし、
 「わしの講義はこれで終いじゃ。そうそう帰りにワラビを忘れずに持っていってくれたまえ、首陽山のワラビではないが、今日の講義を聞いたからには、さしずめ坂田山は首陽山だ」
 直虎はひとりで笑っていたが、会場はシンと静まり返ったままだった。驚くのは誰も飽きた顔をしていないことで、それどころか目をらんらんと輝かせまだ聞きたいと言わんばかりだ。方義はまた別の話が始まったら日が暮れてしまうと、慌てて前に出て「では本日の会日(かい じつ)はこれで終いです!」と言いかけたが、
 「何か聞きたいことがありそうだな?」
 直虎が話し足りない様子で言ったので、今度は本政まで出て来て、
 「終いじゃ、終い。皆の者、気を付けて帰りなさい」
 と促した。
 そのとき、四十くらいの農民だか武士だか分からない身なりの一人の男が手を挙げた。直虎は「待ってました」とばかりに指名した。
 「伯夷と叔斉はなぜ首陽山に隠棲(いん せい)してしまったのでしょうか?」
 直虎は男の顔を凝視した。
 「ほう……お前は他に手段があったと思うか? お前ならどうする?」
 「私なら、例え老いても武王に諫言し続けます。どうせワラビだけを食って餓死する身の上なら、その命、少しでも可能性のある方に使いとうございます」
 直虎は小気味よい返答に満足げな笑みを作った。大藩政改革以前の頭の切れる重臣たちは、ことごとく私利私欲に犯され多くの人材を失ったばかりの直虎が、いま一番欲しいのは人材なのだ。彼は男の顔を見つめながら荀子(じゅんし)≠フ『勧学篇』の一節を思い出した。

 蓬生麻中 不扶而自直((よもぎ)(あさ)の中に生えるは(たす)けずして自ずから直す)

 蓬はねじれたり曲がったりして伸びる植物だが、まっすぐに伸びる麻の中では自然とまっすぐ伸びるという意で、逆に(やぶ)の中の(いばら)は雑然と生える草木の影響で煩雑に曲がってしまい、それと人も同じで悪い仲間と交わると悪人になってしまうものである。須坂藩においては二度と繰り返してはならない教訓で、直虎が咽喉(の ど)から手が出るほど欲しいのは道義を裏切らない人物であり、特に藩政を司る人間は全員が麻でなければならないと強く感じていた。そして目の前の男はいま、『史記』や『論語』に記された賢人伯夷・叔斉≠フ二人の行動を本能的に否定して、命の限り主君を諫言すると言ったのだ。
 「その方、名は何と申す?」
 「やへいにございます」
 「姓は何じゃ?」
 「まだ苗字を名乗ることを許されておりません」
 「農人か?」
 「いいえ、何年か前に足軽になりました。これでもお供で江戸に行ったことがございます」
 直虎は不意に思いついた名を彼に与えることにした。
 「では良い名を授けよう、今日より野平野平(の だいら や へい)と名乗るがよい」
 やへいは拍子抜けした顔で「のだいら……?」と呟いて、
 「漢字は野原(の はら)≠フ野≠ノ(たい)ら≠フ平≠ナ良いでしょうか?」
 「そうじゃ。ついでに名のやへい≠ノも同じ漢字を当てるがよい、野平野平(や へい や へい)じゃ」
 そこにいた者達は声を挙げてどっと笑った。ところが直虎はひどく真面目な様子で、我ながら佳い名を思いついたと自慢げだ。見たところ野平は頭の切れそうな顔付きであるし、冗談のような名前の方がこの男にはちょうど良いと思ったのだ。また、その方が親しみが涌いて他の家臣たちとも付き合いやすかろう。
 「ヤヘイ・ヤヘイとは、なんだかいつも息切れしているようですなぁ……」
 また爆笑が起こった。
 「不服か?」
 「め、滅相もございません! 有難く頂戴いたします」
 すると直虎は本政に向かって「武鑑(ぶ かん)はあるか?」と聞いた。武鑑とは大名家の家紋や石高などが記された武家辞典のようなものである。本政は言われるまま懐から武艦のポケットブックともいえる『懐寶(かい ほう)略武鑑』を差し出すと、それを取った直虎は野平に手渡した。
 「そこに記された内容を三日で覚えて来い」
 野平は武鑑をパラパラとめくって「三日ですか?」と聞き直す。
 「三日後に陣屋に来い。試験を行う。もし合格したら、わしのそばで仕えてもらおうと思うが、どうか?」
 野平は突然の成り行きに驚愕したが、
 「やらせてください!」
 と、自信ありげな小気味よい言葉を返したのだった。こうしてその試験に合格した野平野平は、その後直虎の祐筆(ゆう ひつ)へと大出世を遂げる。