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(十一)七両と二分
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 直虎がいつもの町人姿でお糸の家に着いた時、彼女はちょうど仕上がったばかりの生糸を詰め込んだ背負子を背負って、あばら家を出るところであった。ところが薄化粧を施し、口に紅を乗せたその表情は、一瞬あの土で汚れた彼女とは別人でないかと見まごうた。
 「お出かけか?」
 「あら良ちゃん、ごめんなさい。これから取り引きに出るところなの」
 お糸は「今日は相手をしてられない」と言うように、慌ただしく草鞋の紐を結んだ。取り引きに出るのに化粧とは、糸もやはり女かと、すっかり糸師の手に変形している白い甲に、彼はそこはかとない美しさを見た。
 「どこまで行くのだ?」
 「善光寺さん。いつも納品の時期になると、上田の生糸商人が近くまで来るの。だからその周辺の糸師さんが集まって取り引きが行われるんだ」
 「領内の糸商人とは取り引きしないのか?」
 「須坂は糸仲間の世話人が仕切っているし、仲間内で生糸を作っているわ。その方が安くできるし、わざわざうちから高価な生糸なんか買わない」
 「それにしても随分な量だね。いったいどれくらいあるのかな?」
 直虎は背負子いっぱいの生糸の塊を見て聞いた。
 「これで一貫くらいかな? 着物三、四反分?」
 「いくらで売れるんだい?」
 「七両ばかり。もうちょっと上げてくれって言うんだけど、なかなか……でも私は腕がいいって評判なのよ」
 七両と聞いて直虎は少し安いなと思った。方義は生糸一貫の元値は八、九両で、外国はそれを十五両で買うと言っていたのに、あるいは須坂という片田舎ではそれが相場なのかもしれないが、商業に疎い彼は、「余剰は全部上田藩領の取り分というわけか」と思うと、何だか騙されているような気になる。
 糸は「父ちゃん、夜には帰るから!」と、家の中で寝ている父に向かって言うと、そのまま「また来てね」と言い残し、香の薫りを漂わせて彼の前を通り過ぎた。
 「お糸ちゃん──」
 直虎は糸を呼び止めた。
 「その生糸を全部わしに譲ってもらえんか?」
 「ダメよ。これを売らなきゃ生活できない」
 お糸は軽い冗談と受け止めて取り合いもせず歩き出した。直虎はその後ろを追いかける。
 「ただでとは言わん。十五両で譲ってくれ」
 お糸は足を止めて突然笑い出した。
 「織物屋でも始めるつもり? それにしたって仕入れで十五両じゃ大赤字じゃない! だいいち良ちゃん、そんなお金持ってるの?」
 笑いしま再び歩きはじめた糸の隣を、直虎は同じ歩調で連れ添った。なるほど彼女の言い分はもっともで、十五両で仕入れて織物四反作り、仮に一反百(もんめ)で売ったとしても全く割に合わない。一瞬にしてそんな損得の計算をしてしまう彼女の商才に驚かされながら、生糸とはそれほど価値のあるものかと初めて知った思いである。それ以前に、生糸一貫七両で売るなら、せいぜい八、九両で買い取って、残りの六、七両を儲けにしてしまえばいいのに、当の直虎にはそういう発想が出てこない。その点無欲というか商売下手というか、彼は兄直武に劣らないほどのお人好しなのだ。
 金は天下のまわりもの──
 直虎に限らず当時の士族には少なからずそういう考えがある。自らは稼がず、全て年貢や税金で生活できてしまう彼らは、金の出入りの調節が全てで、ゼロから価値を生み出し、金銭を獲得する術など生まれた時から持ち合わせていない。そのくせ武士たる誇りは高く、苦しい時は、耐え忍ぶところに美徳を見出してきた。
 ところが天保の大飢饉以来、三十年近くも財政難が続いてくると、さすがに高楊枝をくわえて見栄を張っているわけにいかなくなった。いまはちょうどその過渡期で、時を合わせるように西洋の功利主義とか実利主義とか合理主義とかいう新しい思想が怒涛のようになだれ込み、否が応でも変わらざるを得ない状況を、幕臣の中で彼ほど強く感じていた者はないかも知れない。
 「そんなこと言わずに頼むよ」
 お糸はふっと立ち止まり、「はい」と言って右手を差し出した。いますぐその十五両をよこせと言うのである。
 「いまはないが明日には届ける」
 「そんなこと言って──また顔も見せずに江戸に行かれたら大損だわ!」
 糸は再び歩き出した。
 「どうしても須坂の生糸が必要なんじゃ」
 「だから、どうして? 訳も話さずいきなりくれなんて言われても納得できないでしょ? この手塩にかけて育てたかわいい生糸ちゃん達の嫁ぎ先はもう決まっているのぉ!」
 「そこをなんとか」と迫ったところで、糸はついに怒り出した。もともと癇癪を起すような女でない。ところがその口調は厳しく、初めて見るきつい目つきに直虎ははたと尻込んだ。糸にしてみれば良ちゃん≠フ関心が、自分でなく生糸に向いていることが許せない。いつか自分にくれた七度返しの雑俳を思い出し、「あんな恋文を渡しておいて、何も言わずに江戸へ行ってしまうなんて」と十歳の頃の秘密の出来事を思い出し、更に嫁入りの年頃も過ぎてしまった今の今まで、何の音沙汰もなく突然姿を現して、挙句に自分のことなどお構いなしに「生糸を譲ってくれ」はないだろう。
 「ずっと待っていたの!」
 と、糸は逃げるように駆け出した。
 意味が飲み込めない直虎は、慌てて後ろを追いかけた。
 「須坂のために必要なんじゃ」
 「意味不明! お殿様にでも頼まれた?」
 ふと「それじゃ──」と直虎は手を打った。
 「実はそうなんじゃ。殿がお召し物を新調するとかで、それも須坂産の生糸でこしらえたいと、いま家臣たちが手を尽くしているところなのだ」
 「殿様なんて呑気なものね!」
 「ばかっ! そんな言葉が殿の耳に聞こえたら首が飛ぶぞ!」と直虎は少し脅してやった。
 「いいわ、譲ったげる!」
 「そうか!」と商談成立の握手を交わそうとした時、
 「でも一つだけ条件があります」
 引き眉でいっそう美しく感じる糸の眼は真剣だった。
 「なんじゃ、申してみよ。殿にご相談して可能ならば何でもしよう」
 糸は少し戸惑って、やがて意を決したようにこうつぶやいた。
 「お嫁にもらって……」
 「誰を? おお、この生糸か」
 「ちがう! 私に決ってるじゃない!」
 「誰にじゃ?」
 「良ちゃんよ!」
 我が耳を疑った直虎は、糸の眼光に言葉の真実を見てとって、暫く呆然自失してうろたえた。その様子から、彼の心に自分が棲んでいないことを悟ったお糸は俄かに笑い出し、
 「冗談よ、本気にした?」
 と、ため息まじりに背負った背負子を足元に置いた。所詮かなわぬ思いであることは彼女自身知っていた──下級とはいえ士族と農民とは一緒になれない世の常だ。そんなことは分かっていたはずなのに……
 「七両と二分でいいよ……」
 俯き涙をこらえながらそう言い残し、糸は足早に立ち去った。
 この年、国内の生糸輸出量は横浜開港以来ピークに達した。須坂産の生糸も飛ぶように売れ、山城屋八右衛門とか原田屋新兵衛といった儲けがしらも出始めた。それに伴って生糸業に参入する商家も急増し、職を糸師に鞍替えする民も以前の三倍以上に膨れあがったわけだった。ところがこれよりわずか後、質の高い生糸の貿易競争が激化し、その価格がみるみる高騰するのは翌文久三年のこと。生糸輸出の好況も束の間、一方で世情を騒がす尊王攘夷運動が激烈化すると、外国との交易を阻止する動きが強まった。幕府は江戸廻送令を厳格に実施する布告をし、事実上の海外貿易を禁止して生糸の横浜への出荷を厳しく取り締まる。その結果、生糸の価格は暴落し、蚕糸業全体が大打撃を受けることになる。
 「殿、話が違います! 廻送令は緩和されると申したではありませんか?」
 本政は目くじらを立てた。
 「そう怒らずともよい。こういうこともある。しかし幕府とて、外国の圧力にどこまで耐えられるかな?」
 直虎の鋭い視線は、遠い未来を見据えているようだった。
 話を文久二年に戻す──。
 武器商人を探している要右衛門の方は、年が暮れようとしても帰って来る気配すらない。路銀はすっかり使い果たしているはずで、尽きたら江戸屋敷で調達せよと伝えてあるが、江戸家老式左衛門のところにはいまだ姿を見せないと言う。直虎は陣屋にしんしんと降り積もる雪を眺めて、どんより曇った天を仰いだ。


 明けて文久三年(一八六三)は、徳川幕府が崩壊へと静かに動き始めた年である。この年の五月には長州藩が諸外国を相手に下関戦争を、七月には薩摩藩が薩英戦争を立て続けに引き起こす。すなわち地方の一大名が、幕府を盾にして勝手に諸外国を相手に動き出したのである。これについては後に記すことになると思うが、まずは順を追って進めなければなるまい。その発端となったのが、開国路線をひた走って来た幕府が京都において、長州藩の策謀により一転して攘夷路線への切り替えを余儀なくされたことにある。
 三月十一日──
 徳川幕府第十四代将軍徳川家茂は上洛して二条城に入った。そしてそこから、長州藩尊王攘夷派による画策が現実のものとなっていく。将軍の上洛を待っていたかのように、孝明天皇による賀茂神社(か も じん じゃ)行幸(ぎょう こう)がお膳立(ぜん だ)てされていたのだ。
 賀茂神社は下鴨神社と上加茂神社の総称で、下鴨神社は賀茂氏の祖神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とその娘である玉依媛命(たまよりひめのみこと)を祀ったもので、上加茂神社は賀茂川の川上から流れてきた丹塗(に ぬ)りの矢によって身ごもった玉依姫命(たまよりひめのみこと)の子である別雷神命(わけいかづちのみこと)を祀ったものだから、行幸の表面上の意味は、天皇家と将軍家、つまり家茂と和宮の世が末永く続くことを祈願するものであるが、策謀の真意は、将軍が天皇に従ったという事実を作ることであった。つまり、今は天皇統治の世であることを満天下に示し、幕府権威の失墜(しっ つい)(ねら)った長州藩の画策である。幕府とはいえ徳川とは一つの巨大なお家にすぎない。日本という国はそんなお家の集まりで構成された、いわば徳川家はその元締めというだけなのだ。本来日本は天皇統治の国なのだから、夷敵に対してすべき使命を果たせないお家などもはや必要としない。日本という国の舵取りは、いまや「天子様中心の国家体制の許で行われるべき」とするこれが長州尊王攘夷派の思想的筋である。その策謀に家茂はまんまとはめられたわけだ。
 その日沿道は、歴史的光景をひと目見ようと、数日前から京につめかけた人々でぎっしりうめつくされ、中には神仏でも拝むように柏手(かしわ で)を打つ者もいたという。
 長州藩の要求は、幕府に攘夷方針を打ち出させることである。しかしすでに開国を果たし後戻りできない幕府にとっては、いまさら攘夷決行の命など下せるはずがなかった。激しい圧力に耐えながら帰東の約束である三月二十二日を待つが、そうはさせない尊王攘夷派はいつまでたっても帰東の勅許を与えず、続いて四月十一日には、今度は石清水行幸(いわ し みず ぎょう こう)を行うと言い出した。
 そしてこの行幸にこそ長州藩の真のねらいがあった。というのは石清水八幡宮は古くより源氏の武神として戦いの神様として信仰を集めている神社で、つまり石清水八幡宮は攘夷の象徴であり、すなわち石清水行幸(いわ し みず ぎょう こう)イコール攘夷祈願(じょう い き がん)というわけである。
 幕府側は何とかそれを阻止(そ し)しようと、「過激派の公卿が長州浪人と結託(けっ たく)し、行幸中の将軍を殺害する計画がある」という流言を広める姑息(こ そく)な手段まで考えた。それを理由に行幸中止を申し入れるが、長州藩の大反発を食らってあえなく失敗に終わる。そして迎えた行幸当日、絶体絶命の幕府が苦し紛れにとった行動は仮病(け びょう)作戦≠セった。
 「将軍家茂公は風邪(か ぜ)で動けぬ。申し訳ないが供奉(ぐ ぶ)を辞退いたす」
 と前日になって言う。「ならば代理人を立てよ」とまくし立てられ、やむなく行幸に参列したのが将軍後見職(こう けん しょく)一橋慶喜(ひとつ ばし よし のぶ)だった。ところが攘夷祈願を済ませた天皇が攘夷の節刀(せっ とう)≠将軍に授ける段になって、
 「腹が痛いっ!」
 と、これまた慶喜は仮病を使って応じることはなかった。
 怒った尊王攘夷派は将軍に攘夷実行の命令を出させるため、あの手この手を使って執拗に圧力を加えるが、将軍もいつまでも京都にいられない事情があった。というのも、前年起こった薩摩藩による生麦事件の賠償(ばい しょう)問題で、返答の次第によってはイギリスが江戸を攻撃するといった危機的な状況に置かれていたからである。イギリス軍艦の砲口は江戸の町に向けられ、今すぐにでも攻撃が開始できると威嚇し、浦賀の住人たちは家財道具一切を運び出して保土ヶ谷へ避難したほどである。
 その対応に抜擢されたのが、老中格であり外国御用掛(がい こく ご よう がかり)の職にあった小笠原長行だった。
 慶喜は、
 「わしが帰るまで交渉を引き延ばせ。できるならば、賠償金の支払いを拒絶(きょ ぜつ)し、横浜の鎖港(さ こう)を実現しろ!」
 と、今の今まで開国を論じていた者とは思えない科白を吐いた。時間的余裕(よ ゆう)などほとんどない。この期に及んで戦争を回避しつつ、賠償金の支払いを拒絶(きょ ぜつ)し、更には既に開港している港を封鎖するなどお釈迦様でもできるはずがない。重く頭を抱えながら長行(なが みち)は海路横浜へ向かう。
 慶喜にしてみればそうする以外になかったのだろう。将軍を残して自分だけ帰るわけにいかず、攘夷決行問題をうやむやにしたまま将軍を連れ帰ればそれこそ勅命に背くことになり、かといってこれ以上の長居は将軍の命を(ねら)う輩に襲撃される危険性が増すばかり。
 苦渋(く じゅう)の選択を迫られた幕府は、遂に将軍退京の勅許(ちょっ きょ)獲得を条件に、四月二十日、
 攘夷期限五月十日──
 という約束を交わし、諸大名に通達してしまうのだった。
 この決定により、日本──というより長州藩は、下関(しもの せき)において、諸外国を相手に勝てるはずのない戦争の火蓋(ひ ぶた)を切って落とす。そして、攘夷決定を見届けた慶喜は、できることなら関わりたくない生麦事件の賠償金交渉真っ最中の、陸路をゆっくり江戸へと向かう。
 というのは下々(しも じも)の話しで──、
 孝明天皇と謁見(えっ けん)した家茂の二人の関係は、至って穏やかであったと言ってよい。和宮(かずのみや)を江戸に(くだ)らせてから、その実の兄たる天皇に初めて目通りした家茂は、婿として、また男として、ひとつ大きな責任を果たしたことに胸を撫でおろす。この徳川家茂という男、幕末改革派の視点から見れば大悪人のように取られるが、その実際は、歴代の将軍きっての若き人格者であり、日本という国を一つにまとめようと、皇族である一人の妻だけを愛し抜いた誇り高き人間愛を知る人物と見ゆる。
 「和宮は元気にしていますか?」
 「はい、お兄様。手前の大奥にてすこぶる健やかにお過ごしです。つい先日も京の土産物を贈ったところでございます」
 「仲睦(なか むつ)まじいようですね。喜ばしい限りです。ふつつかな妹ですが、これからも末永くよろしくお願いします」
 「もったいないお言葉です。(わたくし)の方こそ」
 「ところで攘夷命令を下したようですが大丈夫ですか? 江戸の方では諸外国との交渉事が増えていると聞きますが、どうか上手に対応して下さい」
 「お兄様のお心遣いに感謝いたします。退京の勅許を頂いたからには、これより私めは大坂へ向かい、船で周辺を視察し攘夷に備えたいと思います。防備等の必要性を(かんが)み、その報告を致してから江戸に戻ろうと存じます」
 「ありがたいことです。よろしくお願いします」
 家茂はその後大坂城へ入り、勝海舟の操る順動丸(じゅん どう まる)に乗船し、兵庫、西宮(にしのみや)沿岸、紀淡海峡(き たん かい きょう)などを視察して再び二条城に入る──それからの経緯(けい い)はまた後ほど綴ることになるだろう。


 さて、江戸の方へ目を移してみよう。
 参勤交代緩和の命が下されてから、諸家の大名妻子や家族の帰藩は、文久二年の冬から翌文久三年春頃にかけて集中した。そのため各国許へ至る街道は大混雑し、宿場の人手も疲労困憊して、幕府はお供の人数を減らすようにとか、関所の複雑な手続きを簡素化するようにとか、そんな細かな命令まで下さなければならないほどである。
 文久三年(一八六三)の三月には、上田藩の妻子家族も信州へ帰藩することとなり、江戸上田藩邸下屋敷は国許からの手伝い人足も加えてその準備に追われていた。
 「なぜそんな片田舎へゆかねばならぬ? わらわは江戸がよい!」
 「公方様のお下知です。仕方ないではありませんか。さっ、早く帯をお締め下さい」
 「イヤじゃ!」
 と駄々をこねているのは上田藩の姫君俊である。華やかで気風の良い江戸の暮らしがすっかり気に入っていると見え、信州の上田へ行くのを拒んでいるのだ。
 「俊姫様! あまり松野を困らせないで下さい。それとも襦袢(じゅ ばん)のまま参りますか?」
 「意地悪はキライじゃ。そんなに行かせたければ、わらわを行きたいと思わせてみよ」
 俊は「こんな着物はイヤじゃ」と脱ぎ捨てた。松野は困った顔をして「道中その土地々々に美味しい餅や団子がある」と教えれば、「どんな団子じゃ?」と一瞬気を引くことに成功するが、無論上田を発ったのはもう二十年も前のことなので覚えているはずもなく、松野の曖昧な応えに満足しない俊は、「もうよい」と言って襦袢姿のまま庭に飛び出した。そこには帰藩のお供の男たちが長持ちを並べ、自国から応援に来た男達も含め、屋内から奥方や女中たちの荷物を搬出している真っ最中。突然現れた下着姿の俊を見て、全員驚いた様子で平伏した。後を追いかけて来た松野は慌てて着物を羽織らせたが、そんなことはおかまいなしに、
 「お前たちの中で上田へ行ったことのある者はおるか?」
 と、俊は恥じらう様子もなく男たちに聞いたので、松野はその場に膝をついて頭を垂れた。すると中の数人の男が手を挙げた。その者に俊は、
 「上田への道中、ほっぺが落ちるほど美味しい食べ物はあるか?」
 と聞く。すると男の一人が、「浦和宿の(うなぎ)と焼き米が(うも)うございます」と答えた。
 「ほお、ウナギか! 焼き米とはどういうものじゃ?」
 「新名物やき米≠ニいう看板を掲げている茶屋が数軒ございまして、(もみ)のまま米を焼き、それを()いて殻を除くのですが、これが香ばしくてたまりません。拙者などいつも歩きしま食っております」
 「うまそうじゃなぁ! ほかはどうか?」
 「うどんです。たいていどこの茶屋にもございますが、歩き疲れているせいか、どこの宿場のうどんも旨い。そして信州に入ったらなんといっても蕎麦でございましょう。江戸前の蕎麦もよろしいが、信州のものは一味違います」
 「どう違うのじゃ?」
 「蕎麦に深みがございます。本物の蕎麦といいますか、一度食ったらクセになりましょう」
 「そんなに美味いか?」
 「そりゃもう!」
 「ほかはどうじゃ?」
 「あとは饅頭でございましょう。その土地その土地の味があり、拙者は次の宿場にはどんな饅頭があるかと楽しみで、それだけで上田から江戸へ歩き通せてしまいます。中でも高崎宿の饅頭は格別です」
 俊は生唾を飲み込んだ。
 「その方、名は何と申す?」
 「赤松小三郎にございます」
 「サブちゃんだな。よし、覚えておこう。褒美をとらす。今日ここに手伝いに来ている男どもは何人じゃ?」
 「六十名ほどにございます」
 「松野、出前を頼め。六間堀(ろっ けん ぼり)の『松の寿司』から五〇〇文の特上握りを六十人前届けさせよ」
 松野は慌てて目を丸くした。
 「俊姫様、勝手にそのようなことをされては殿に怒られます!」
 「忠礼(ただ なり)など怖くない。五〇〇文の最上級の握り寿司を人数分じゃ、よいな」
 「姫様! 簡単におっしゃいますが、いったいいくらになるとお思いですか!」
 「七両と二分ほどになるかと」
 赤松小三郎が涼しい声で答えた。
 「おぉ、サブちゃんは頭も良いのだな! うむ、気に入った。何か困ったことがあったら申して来い。いつでも相談に乗ってやるぞ」
 俊はそう言うと、道中の食い道楽を思い浮かべて嬉しそうに屋内に戻った。その後を追いかけた松野は、
 「俊姫様、なんて事を! こんな始末では嫁のもらい手がなくなりますよ」
 「お生憎(あい にく)さまじゃ、わらわは嫁に行く気などない。それよりアノ着物を着ていくことにした」
 「ようやく行く気になっていただけましたか」
 「うむ。わらわはお饅頭(まん じゅう)とお蕎麦(そ ば)が食べたくなった。早よ上田へ参ろう! アノ着物を持ってこい」
 「あの着物とはどの着物のことでございましょう?」
 「ほれあれじゃ、(とら)さんが似合うと言うた西陣の鶴のやつじゃ」
 「虎さん……? 虎さんとは誰でございます?」
 「ええい、説明するのが面倒じゃ。早く持って来ないと気が変わってしまうぞ」
 「はい、はい……」
 松野は世話の焼ける姫だと思いながらも、それが楽しい事のように、やがて所望の着物を取ってくると、ようやく着させて駕籠(か ご)に乗せた。