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(十)直武の死と風雲の世
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 息せき切って江戸にいた真木万之助(ま き まん の すけ)が須坂にやって来たのは八月半ばのことだった。
 「直武様がお亡くなりになられました!」
 と涙をためて言った言葉が陣屋に衝撃(しょう げき)を走らせた。
 「いったいどうしたことじゃ!」
 直虎は信じられないといったふうに声を挙げた。
 「ずっと病に伏しておられましたが、八月に入って容体が急変し、七日に息をお引き取りになりました……」
 万之助はその場にうずくまって慟哭(どう こく)した。
 まだ三十三歳である。働き盛りの年代だというのに、人の人生とはなんと無常であることか。昨年六月、江戸に戻った時の兄の憔悴(しょう ずい)した顔を思い浮かべながら、そこまで体を病んでいたかと、また、もう少し何かしてあげられることはなかったかと、直虎は今更のように後悔した。
 「殿、いかがいたしましょう? 一刻も早く江戸へ向かわれた方が──」
 本政が言った。
 「そうしたいが、金がない……」
 家の私情に藩の公金を使うなど、家臣がいいと言っても直虎にはできず、今ほど金がないことを情けないと痛感したことはない。
 近親者の死に際しては、通常、五代将軍徳川綱吉が定めた『服忌令(ぶっ き りょう)』に従い、()(ふく)すべき期間が定められている。それによれば兄弟姉妹の死に際しては二十日間の()≠ノ服≠含めて九十日間は喪に服さなければならず、期間中は極力外出は控え、(まつ)りごとや神事は行えない。それ以前に退府の期間中に江戸に昇るとなるといちいち幕府にお伺いを立てて許可を得なければならず、それには時間もかかるし、江戸に行ったからといって屋敷内にずっと(こも)っているほど(ひま)でない。
 「兄上が喜ぶことは何だと思う? 江戸には行けぬが、せめてここ須坂の地で、兄上が喜ぶことをやって差し上げたい……」
 直虎は一人ごちると暫く腕を組んで考えた。やがて、兄が喜ぶことといったら藩の存続と財政難の克服(こく ふく)しか思いつかない彼は、脇で同じように落胆している本政に向かって、
 「陣屋内の(よろい)(かぶと)、全て売り払え。(やり)や刀もじゃ。できるだけ高く買い取ってくれる商人を探して金に換えろ」
 と命じた。本政は何を血迷ったかと主君の顔を見つめた。
 「おっしゃる意味がわかりませんが……」
 「言葉の通りじゃ。兄上は金に困って命を縮めた。あんな骨董品(こっ とう ひん)をいつまでも大事に持っているからいかんのじゃ。須坂藩はどこの藩よりも先んじて軍備を西洋化して新しい時代に備える。最先端の軍備をもって兄上の供養(く よう)としたい」
 「こ、骨董品……? し、しかし、武器がなければ有事(ゆう じ)となったとき戦えません。西洋化するといっても西洋の武器を買い揃えるのに一体いくらかかるとお思いですか!」
 「知らん」
 「無責任な。いくら殿の下知(げ ち)とはいえ、そんな無謀(む ぼう)なことはできません!」
 本政は反駁(はん ばく)したが、直虎は言いなだめるように諭した。
 「論語の温故知新≠ニいう言葉を知っておるか?」
 「無論、(ふる)きを(たず)ねて新しきを知る──つまり、古きものから新しい知識を得ることです。古き物は大切にせねばなりません」
 「その通りじゃ、一般論ではな。ところが亀田鴬谷先生の和魂漢才の英知ではこう読む。新しきを知りて(ふる)きを(あたた)めよ=A新しいものをどんどん吸収しつつ古き日本の精神は常に心に置けと。よく聞け。須坂藩はいま存亡の危機に(ひん)しておる。しかしお前をはじめ家臣たちは、まだ心のどこかでなんとかなるだろうと思うておる。それこそ一凶じゃ」
 今にも泣き出しそうな眼の奥で、ぼうっと音をたてて何かが燃えだした。
 「こういう時は守りに入ったら負ける。西洋化すると申したら断じて成す! 史記にもこうある水を背にして陣すれば絶地(ぜっ ち)となる(背水陳爲絶地)=B孫子(そん し)もこう言うておるぞ兵は死地において初めて生きる(陷之死地然後生)≠ニ。今はその覚悟をする時なのだ! 兄上は自らの死をもってわしにこの覚悟をくれたのじゃ」
 言い出したら聞かない頑固(がん こ)なところは先々代の直格(なお ただ)と同じだと思いながら、意見を言ったところで聞き入れてはもらえないと(あきら)めた本政は、
 「やれやれ、本当に死地にならねばよいですが……」
 と、嫌味(いや み)を垂れながら深いため息を落とした。
 「本政──」
 直虎はすまなそうに赤らんだ両眼で彼を見つめた。
 「死ぬるときは須坂を(まくら)に共に死のうぞ」
 本政の両目が(にわ)かに(うる)み、「はい!」と応えた言葉は涙でかすれた。
 万之助が江戸へ戻るのとすれ違いに、江戸家老の駒澤式左衛門から矢継(や つぎ)ぎ早に(ふみ)が届く。
 最初の一通は八月十九日付で、その内容は小笠原図書頭長行(お がさ わら ず しょの かみ なが みち)様から軍資金が届いたとあり、更には「足りなければ相談してほしいとの有難(あり がた)きお言葉うんぬん」というもので、読んだ瞬間小躍(こ おど)りした直虎は、すぐさま本政を呼んで「ほれみろ」と言わんばかりに、
 「腹を決めればこうして見えぬ力が働くものじゃ」
 と、さも自慢げに手紙を見せつけた。まるで(きつね)にでもつままれたような顔の本政は、「殿おっ!」と涙をためて、直虎の手をきつく握りしめた。更に手紙には、つい最近奏者番(そう じゃ ばん)になったばかりの長行が、とんとん拍子(びょう し)若年寄(わか どし より)に昇格したことが(つづ)られており、「なんとも頭の切れる義人(ぎ じん)で、いずれ老中(ろう じゅう)になる日も近いのでは」と九鬼隆義(く き たか よし)と同様のことを書いて文を結んでいた。現にそれから間もなく、ひと月も経たない九月十一日、その言葉の通りに小笠原長行は老中格(ろう じゅう かく)へのスピード出世を成し遂げる。持つべきものは友であると、直虎は身の福運(ふく うん)に感謝した。
 二通目が来たのはそれから数日後の事だった。今度は幕府の様子を伝えた内容である。
 八月二十一日に武蔵国橘樹郡生麦村(むさしのくにたちばなぐんなまぬぎむら)(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩士(さつ ま はん し)がイギリス人を殺傷した事件の報告である。いわゆる『生麦事件(なま むぎ じ けん)』であるが、それを受けて幕府役人が大騒ぎしているとつづる。事の経緯(けい い)はこうである。
 薩摩藩の実質的な中心人物である島津久光(しま づ ひさ みつ)勅書(ちょく しょ)を持って、幕府に幕政改革を訴えるため七〇〇の軍勢を引き連れ江戸に入ったのは、ちょうど直虎が帰藩の準備をしていた頃だった。その後一行が京都へ帰る途中、生麦村に差しかかった時、東海道で乗馬を楽しんでいた四人のイギリス人と鉢合(はち あ)わせた。
 先頭の薩摩藩士は身振り手振りで「馬を降りて道を(ゆず)れ」と説明したが、イギリス人たちは日本のしきたりなど知らないから、そのまま行列の中央を逆行して進んだ。ところが久光の乗る駕籠(か ご)とすれ違おうとしたとき、供回(とも まわ)りの者が何か叫んだ。イギリス人たちは慌てて、それに驚いた馬が右往左往(う おう さ おう)したものだから、突然数人の藩士がイギリス人に()りかかったのだ。死者一名、重傷者二名の惨事である。
 これまで攘夷(じょう い)殺傷事件はなかったわけでない。しかしいずれも攘夷論者による個人的な行為であったのに対し、今回の場合、大名、すなわち幕府による行為だとイギリス側が解釈したところに重大な意味があった。やがてこの事件は賠償金(ばい しょう きん)をめぐって国際問題へと発展していく。
 幕臣の多くは久光に対して、おおむね「薩摩は幕府を困らせるためにわざと外国人を怒らせたのだ」と言っており、「幕府はイギリスを怖れているようだ」とは式左衛門の洞察(どう さつ)である。しかし東海道筋の民たちは「さすがは薩州さま」と歓呼(かん こ)して久光の行列を迎えたと言う。
 この事件のもう一つの大きな意味は、安政の大獄(たい ごく)により師吉田松陰(よし だ しょう いん)を幕府によって斬首(ざん しゅ)された当時尊王攘夷(そん のう じょう い)思想の長州藩の若き志士たちのほとばしるような燃える情熱を呼び覚ましたことである。
 「薩摩は生麦に()いて夷人(い じん)斬殺(ざん さつ)し、先に攘夷(じょう い)()を挙げてしまった!」
 といきり立ったのがこの時二十三歳の吉田松陰門下高杉晋作(たか すぎ しん さく)である。同年十二月、久坂玄瑞(く さか げん ずい)をはじめとした十二人の同志を伴って、自藩に内緒で品川御殿山(ご てん やま)に幕府が建設中の英国公使館を焼き打ちする。その後京都に上った久坂玄瑞は、見事な手腕で朝廷工作(ちょう てい こう さく)を繰り返し、幕府権威を大きく失墜(しっ つい)させる行動に出るのである。
 無論そんな先のことまで読めない直虎だが、(いや)な胸騒ぎを感じずにいられない。
 更に三通目はそれから二十日くらいして(うるう)八月十五日付と同月二十二日付の二度に渡って、これもまた重大な内容で、一つ目は「参勤交代の制度が緩和(かん わ)された」とあり、
 『方今(ほう こん)宇内(う ない)()形勢一変いたし(そうろう)(つき)……参勤(さん きん)()年割(とし わり)在府(ざい ふ)()日数御緩(お ゆる)メ……』
 と、幕府方針の布告(ふ こく)の写しが綴られていた。直虎は目を疑った。そして二つ目はその具体的な内容と、新たな参勤順を記した文面である。
 これらを要約すると──
 「まさに天下の形勢が一変した」という書き出しにはじまり、臨海藩(りん かい はん)は海軍振興を進め、そうでない藩も国威伸長(こく い しん ちょう)のため富国強兵(ふ こく きょう へい)を進めることを(うなが)した上で、各藩の財政の負担を軽減するため、これまで隔年(かく ねん)だった参勤交代を三年に一度に改め、江戸在留(ざい りゅう)期間も一〇〇日と大幅に縮めるとした、江戸幕府が始まってより続いてきた参勤交代の仕組みを変えるという寝耳(ね みみ)に水のお(たっ)しである。
 更に詳しく言えば、御三家と溜間詰(たまりの ま づめ)大名(江戸城内黒書院(くろ しょ いん)溜間に席のある大名)は三年のうち一年、その他の大名は例外もあるが、三年のうち約百日の在府となり、多くの大名は、一年を春(十二月〜四月)、夏(三月〜七月)、秋(六月〜十月)、冬(九月〜十二月)の四つに区切って、それを三年間で全十二期に分けたいずれか一期のみ在府すればよいこととなったのである。ちなみにそれでいくと、須坂藩は来年(文久三年)の冬が参府の期間であった。
 その他、必要な場合は嫡子(ちゃく し)が参府するのは自由で、定府(じょう ふ)大名については願い届けによって御暇(お ひま)が下される。また、それまで常時江戸に住まわねばならなかった妻子に対しても帰国が許可され、江戸屋敷の家臣も極力(きょく りょく)減らすようにと『心得(こころ え)』が示された。実質的には江戸にいる必要のない者は全員国許(くに もと)に帰りなさいとの意味である。更には年始などの重要儀礼以外における献上(けん じょう)や贈答品の慣習なども全て廃止とされた。要は江戸における大名の無駄な負担を軽減し、その分、国許の軍備を進め、しかるべき時に備えようとする幕府の思惑(おも わく)があった。
 横浜で刊行されていた英字新聞『ジャパン・ヘラルド(洋暦十月二十五日)』によれば、
 『この一週間に革命が行われた。静かにデモ一つ無く国の基本構造が変わったのだ』
 と証言しており、国家の骨組みを変える大改革に対し、何の騒ぎも起こさず受け入れる日本人の性質は、外国人の目になんとも不思議に映っただろう。
 とはいえ、こうも立て続けに重要な事が重なり、一つは幕府制度の根本的な変革であると、流石(さすが)の直虎も「いま江戸で何が起こっているのだ?」と居ても立ってもいられなくなる。
 これは『文久の改革』のうちの一つで、その背景には薩摩藩の島津久光が江戸に入ったことが大きく影響している。というのも、江戸に入る前久光は京都において、幕府に無断で公家(く げ)と接触し、安政の大獄の処分者の赦免(しゃ めん)復権(ふっ けん)越前藩(えち ぜん はん)松平慶永(まつ だいら よし なが)大老(たい ろう)就任、一橋慶喜(ひとつ ばし よし のぶ)を将軍後見(こう けん)とすること、そして過激派尊攘浪士(そん じょう ろう し)を取り締まることなどを綴った建白書(けん ぱく しょ)を天皇に提出しており、それとほぼ同じ内容の勅書(ちょく しょ)を得た上で幕府と交渉に臨んでいた。地方の一大名の改革案に、幕府は混乱するものの、勅命(ちょく めい)≠フ名のもとに結局その大部分を受け入れざるを得なかったという側面がある。いずれにせよそれまで長い間、朝廷の介在(かい ざい)しない政治を行っていた幕府が、朝廷を意識しなければ政治が行えないほど権威が落ちていたという一つの証しと言える。
 改革の中身はこの参勤交代の緩和の他、人事においては将軍家茂の補佐役として一橋慶喜の起用と松平慶永のとってつけたような政事総裁職(せい じ そう さい しょく)任命、また、京都における尊王攘夷過激派によって(いちじる)しく悪化した治安(ち あん)を取り締まるため京都守護職(きょう と しゅ ご しょく)を新設し、そこに会津藩主松平容保を起用するというものである。
 「江戸での動きがとれなくなる──」
 そう咄嗟(とっ さ)に判断した直虎は、要右衛門と北村方義(きた むら ほう ぎ)を呼んで密かに一つの命を下した。
 「横浜へ行け」
 「横浜……? して、またどうして?」
 「西洋の武器を扱う武器商人を探せ。見つけたら最新のライフル銃を百(ちょう)ばかりと大筒一門注文してすぐに取り寄せるよう話をつけろ。もう一つ、生糸貿易の西洋事情を探り、生糸を欲しがっている外国商人を探せ。いま海外貿易は、幕府の江戸廻送令≠フ縛りを受けて横浜への直送はできないことになっている。しかしそれを無視して海外と直接取引をしている糸師も多いはずだ。横浜在所の生糸を扱う問屋を調べて来い──」
 江戸廻送令≠ニは万延元年(一八六〇)三月に幕府が公布した海外貿易に関わる取り決めである。正確には五品江戸廻送令≠ニいうが、五品とは茶・水油・雑穀・蝋・呉服で、それまで市場に出回る諸国の産物は、一度江戸に送られ幕府指定の問屋を経てから江戸市内と各地に売られていたが、安政六年(一八五九)の横浜開港後、大量の生糸が直接横浜へ運ばれたため、江戸の生糸問屋はほとんど品薄となり諸物価の高騰を招いた。そこで幕府は海外輸出品の横浜直送を禁じ、すべて江戸問屋へ回送させ、そこで検査して荷主に買い受けるよう命じた。その結果、輸出生糸の買いあさりが進み、買入れ価格も開港前の二倍に跳ね上がる。
 直虎は続けた。
 「廻送令≠ヘ自由貿易を望む海外商人と売り込み商人たちの反感の種だ。いずれ緩和されるだろう。いまのうちに外国商人と直接つながっておき、緩和されたらいち早く横浜直送体制を可能にするのじゃ。よいか、今後の須坂藩の命運を左右する重要な任務だ。目的を達するまでは帰って来るな」
 二人の目付きが変わった。そして直虎は先日鎧甲(よろい かぶと)を売って得たうちの一〇〇両を二人に手渡し、「頼んだぞ」といつもの柔和(にゅう わ)な笑顔を見せた。

 さて、ここいらで、この頃の京都の様子を綴っておこう。
 幕末の流れを知るには京都における長州藩の動きに注目するのが理解しやすい。なぜ京都かといえば、そこに天皇がいるからで、まさに幕末のゴタゴタの(すじ)は、この朝廷の争奪劇(そう だつ げき)でもあり、長州藩のそれは、やがて討幕への潮流を作る最大の(いん)となるからだ。
 時の天皇は孝明天皇(こう めい てん のう)であり、もともと攘夷思想を持っていた。そして京都における時の政局は、薩摩藩が主導する公武合体派(こう ぶ がっ たい は)と、長州藩が主導する尊王攘夷派とに大きく二分されていたという構図がある。そもそも公武合体と尊王攘夷とは相反(あい はん)するものではないが、事の本質は幕府が開国まっしぐらなのに対し天皇は攘夷思想といった水と油を、公武合体という言葉で一つの物にまとめようとしたところに無理があった。その点、長州藩の尊王攘夷というのは天皇寄りの考え方だから、朝廷にも受け入れられやすく、京都の町を大腕を振って闊歩(かっ ぽ)することができたのである。
 もともと長州藩も公武合体の開国論を()し進めていたが、それを主導していた同藩の要職にあった長井雅楽(なが い う た)が、この年の一月に起こった坂下門外(さか した もん がい)の変を契機(けい き)失脚(しっ きゃく)したのを機に、故吉田松陰の門下や息のかかった者たちの台頭(たい とう)により、尊王攘夷の気運が一気に高まり、それを藩論としたという経緯がある。天皇側近の攘夷派の公卿(く げ)達を味方に付け、征夷大将軍職(せい い たい しょう ぐん しょく)にある徳川家茂に対し、幕府命令として攘夷決行を発令させようと、ほぼ強引といってよいほどの策をめぐらし躍起(やっ き)になった。西洋文明の脅威(きょう い)に対して、あまりに無知であったと言わざるを得ない。
 幕府にとっては苦しい立場であった。そもそも『征夷大将軍』とは本来()≠フ征討(せい とう)に際して天皇から任命された将軍であるから夷敵(い てき)(はら)うのが使命のはずが、朝廷側から見れば勅許(ちょっ きょ)なしの開国路線を突き進んでいたからだ。
 「将軍を江戸から引きずり出し、天子様(てん し さま)(もと)にひざまずかせよ!」
 これが時の長州藩の要求であり、九月、長州と行動を共にする急進派の公卿(く きょう)三条実美(さん じょう さね とみ)勅使(ちょく し)となって江戸に向かい、幕府に攘夷決行とともに将軍上洛(じょう らく)を強く迫った。
 これに対し、幕府は約束はしたものの、内部の意見対立は激しかった。何よりの問題は京都の政情不安(せい じょう ふ あん)である。京都では若い情熱をたぎらせた尊王攘夷派の過激志士たちが問答無用に暴れまわっており、そこへ行くということは襲撃(しゅう げき)されに行くと言っても言い過ぎでない。あとは予算の問題で、将軍が上洛するのにかかる費用が当時一五〇万両だったというからただ事でない。加えて街道筋に在する諸藩の普請負担(ふ しん ふ たん)が大きすぎるということだった。しかし若干(じゃっ かん)十七歳の将軍家茂はまだ若く、そんな政治的な思惑以前に一つの蟠りがあった。天皇家の和宮を嫁にもらっておきながら、一度も天皇と直接会って挨拶をしていないことである。家茂とは政治の最高権力者でありながら、極めて民衆寄りな、そうした繊細な配慮のできる男なのである。そして、
 「この上洛によって朝幕(ちょう ばく)関係が円満になるならば、巨額の費用も惜しむに足らず」
 と、期限を定めた条件付きでついに英断し、実に第三代将軍徳川家光以来、二二九年振りの将軍上洛が決定したのである。
 それに伴って、老中格に昇進した小笠原長行は上坂を命じられ、勝海舟らと一足先に幕府艦蟠竜丸(ばん りゅう まる)で海路大坂へと向かう──。

 横浜に走った北村方義が朗報を持ち返ったのは間もなくのことだった。
 「生糸を欲しがる外国商人を見つけました! 先方もえらく乗り気です!」
 と、その声はおのずと高ぶった。
 「御苦労であった。意外と早かったな。要右衛門はどうした?」
 「彼はまだ武器商を探しております。向こうで私が生糸、彼が武器商を担当しようとなりまして、彼の方はもう少し時間がかかりそうです」
 「そうか、で?」
 「ロイス・ブーレとエドアール・シュミットというフランス商人です──そしてリヨンの町から来たというベルテンジーという男と合って話をしました」
 「言葉はどうした?」
 「横浜表の出店に須坂に縁故のある男を見つけまして──」
 安政六年(一八五九)に横浜港が開港して以来、横浜には外国人居留地が作られジャーディン・マセソン商会やデント商会といった商社の進出が始まっていた。イギリスやアメリカに遅れてフランスも例外でなく、その最初の商人としてガルニエという名が残る。その時すでに生糸貿易は始まっており、この文久二年(一八六二)という年には、パリのレミ・シュミット社のブーレとエドゥアールが、居留地内に絹製糸工場を設けて操業を開始したばかりで、二人は一攫千金を求める商人だった。加えてフランスのリヨンからも絹買付人が来日しており、横浜の波止場はちょうど世界への窓口として機能しはじめた時分。方義は続けた。
 「が、一つ宿題を持ち返ってございます。見本を見せろと言われました──そこで急いで戻った次第。すぐに須坂産の特級品を見つけて横浜に戻らねばなりません」
 「特級品……?」
 直虎の脳裏に相森で糸師を営む、土で汚れたお糸の(つや)めいた瞳の色が思い浮かぶ。
 方義の話しによれば、ヨーロッパ全土における(かいこ)の伝染病の大流行により壊滅的な被害を被ったヨーロッパの絹織物産業は、原料不足が深刻な問題になっていると言う。特にフランスでは、一八〇一年に発明されたジャカード織機によって、機械化による大量生産が行われるようになってより、絹織物はナポレオン三世統治下における一大輸出品で、その品質は世界一との評価を受けていた。繊細な織りのリボンは、婦人服のフリル等に使用され、絹織物産業の拠点ともいえるフランスのリヨンの町は、急速な発展を遂げてきたのだ。そんな中、ただでさえ原料となる生糸を輸入に頼っていたものが、(かいこ)の伝染病の大流行により失業者が急増し、民衆の不満が一気に高まった。
 「生糸を欲しがっているのは特にフランスです。彼らが欲しいのは、上質な生糸と病気に強い蚕です」
 と方義は言う。そして、現在フランス人らが好んで買い取っているのは前橋産の生糸であり、上州はじめ以下武蔵、奥州、甲州、越前、町田、美濃、但馬その他の生糸が参入を図ろうとしのぎを削っていると続けた。
 「上田産はどうじゃ?」
 直虎は身を乗り出して聞いた。
 「横浜の生糸問屋も回って来ましたが、小松屋平兵衛、中沢屋五兵衛、糸屋万吉、藤屋善十郎、いずれも大きな店構えをしており、みな口を揃えて信州産を高く評価していました」
 「そうか!」
 思わず打った膝が赤く腫れあがり、直虎は痛そうに暫くさする。
 「で、いくらで売れそうじゃ?」
 「一貫(約三・七五キログラム)十五両が相場だそうです。生糸一貫の元値が八、九両、更に駄賃を差し引いた残りが儲けです。ただしこれは廻送令を無視した場合で、従った場合、江戸の問屋に安値で引き取られた上に検査の手数料として売値の一分五厘を取られます。うまみのある商売とはいえません。これがもし緩和され、外国商人と直接取引ができれば、生糸貿易の主導権を握ることができるでしょう。生糸貿易はまだ始まったばかりです。その時に備えていかに良質の生糸を生産できるかが鍵です!」
 方義も高揚ぎみだが、「しかし──」と少し声を低くした。
 「生糸には太い糸と細い糸があるようで──」
 「太い糸と細い糸? なんじゃ、それは?」
 つまり生糸にはその生産段階で、六粒から七粒の繭を付けて繰ったものと、八粒から十粒ないしそれ以上の繭を付けて繰ったものがあり、前者が細糸、後者が太糸だと教えた。絹織物の生産量減少と価格高騰を余儀なくされたヨーロッパでは、生糸を細くすることによって原料を節約する動きが広がっており、
 「いまの主流は細い糸です。上州産や信州産は細糸で、しかも節がなく丈夫なため、あちらさんは喉から手が出るほど欲しがっております。しかし須坂産の物がどちらか分かりません。私はこれから糸師を回り──」
 「細糸じゃ」
 直虎は以前、糸師のお糸からそのやり方をすっかり教わっていたため、すぐにそれと知れた。方義は不思議そうに直虎の意味深な表情を見つめ返す。
 「なれば話は早い。これから仕入れて──」
 「それには及ばん、わしに心当たりがある。長旅ご苦労、方義君は『大谷の温湯(ぬる ゆ)』にでも浸かって暫し身体を休めるがよい」
 『大谷の温湯』とは現在の須坂温泉のことである。当時地元の人間はみなそう呼んだ。
 「そういうわけにはいきません!」
 方義の表情には、一度引き受けたからには最後までやり遂げるといった強い責任感がにじみ出ていた。それにつけても頭の切れる男だと直虎は感心しきり。僅かの間にヨーロッパの生糸事情をここまで細かに掌握し、売り込みのツボまできちんと押さえて報告して来るのである。こうした忠実で有能な家臣たちに支えられて自分がいることに、直虎は改めて感謝した。
 「これは御下命(ご か めい)じゃ。言う通りにせい!」
 そう叱り付けると、さっそくお糸のところに顔を出そうと立ち上がった──。