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肥後の虎
はしいろ☆まんぢう作品  

 小田原での忍び仕事を終えて、京の三条大橋袂の煮売屋吉兆≠ノ戻ったお銀は、そこに逗留していた服部才之進の姿を見て「才ちゃんいたのかい?」と言いながら、行商の旅支度からいつもの賄い女中の普段着に着替えた。才之進は相変わらず表情ひとつ変えず、「小田原の方はどうであった?」と低い抑揚のない声で聞く。
 「北条の負けさ。関白の大軍相手に勝てるわけがないよ。それより小太郎ちゃんに会ったよ」
 「なに? 小太郎に?」
 才之進は気になる心を隠すように呟いた。
 「なんか突然“俺は北条に付く!”なんて言っちゃってさ、それっきり会ってないけど、どうせどこかで肩を落としているよ」
 才之進は小馬鹿にするような笑みを左の口元に浮かべた。
 「才ちゃんの方はどうしたんだい? 肥後の加藤清正んとこじゃなかったの?」
 「京で仕事だ。高麗からの国使の様子を探るよう清正様から仰せつかった」
 「そうだってねぇ、噂では聞いたけど朝鮮国使はいま京か……。暫くここを空けただけで、地獄耳のお銀も形無しだね──。で、いつまでいるんだい?」
 「さあな? 国使が帰るまでといったところだ──」
 無表情な彼の言葉に、お銀は呆れたように笑った。
 加藤清正は小田原には行かなかった。天正十六年に肥後十九万五千石の大名へと大出世を遂げた彼は、任地に赴いてより隣国小西行長の南肥後で発生した天草衆の反乱を鎮圧させると、その報告のため秀吉のいる大坂へ登った。大坂には彼を育てた母伊都もいたので、彼女に会う目的もあったのだろう。折しも秀吉は北条討伐の準備の最中で、状況によっては出陣の覚悟もしていたが、
 「お前は肥後におれ」
 と秀吉から軽くあしらわれた。その言葉の裏には平定したばかりの九州に不穏な動きが起こらぬよう見張っておれという意味があるが、更にその先の唐入りのための準備をしておけという含みもあった。清正はすぐにその心を酌み、従うが、そこから肥後における治水事業をはじめ、千葉城と隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に新しい城郭を築きはじめる。それが現在の熊本の礎となった。
 事実、清正が赴任する以前の肥後は有力な大名がおらず、小さな国人衆が無数に割拠する時代が続いていた。北条征伐の前、九州征討を終えた秀吉から統治を任された佐々成政は、彼の政策に反発する国人衆の一斉蜂起により失脚していた。その流れの中で清正は、農業振興のための治水に関わる土木工事を推し進め、特に農閑期には男女を問わず徴用し、しかも給金を支払らったと言うから、土着の民もみな喜んで協力したのだった。
 それは川の流れを変える壮大な計画で、熊本城の築城に際しては内堀と外堀を備えるために、また、下流の方では流路を分けたり堰を作ったり、また氾濫がなくなるようにと、その一大河川改修事業により、肥後は広大な穀倉地帯や畑作地帯をも生むのである。
 その他、商業政策としては田麦を特産化して南蛮貿易に参入したり、秀吉の唐入りに備えては、敵の侵入を防ぐため、国境の近くや要地に支城を設けて重臣を城主に当て、所領を認め、独自の軍事経営さえも認める“備”という制度を確立したり、細かな事では、罪や粗相を三度起こすと切腹を申し付けるといったいわゆる現代で言うところの“三振法”も取り入れるような、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる勇ましい武将にして、それらの者と一線を画す政治家でもあった。
 「隈本」を「熊本」と改称したのも彼で、慶長十一年(一六〇六)に完成した城を眺めながら、
 「“隅本”より“熊本”の方が勇ましかろう」
 と言ったのがきっかけであるとの逸話も残る。
 そして清正は、彼の旗印にも象徴されるように、非常に熱心な法華経の信奉者であった。その生涯において、題目の「妙」「法」「蓮」「華」「経」の五字を冠した寺を全国に五つ建立したとされ、その一つ、二十五歳の時に父の菩提を弔うために大坂に建てた本妙寺は、後にわざわざ肥後の城下に移すといったことまでした。
 彼の信心は母伊都の影響であり、母は清正が生れる前から題目を唱えていた。父は戦で足を負傷し、武士から刀鍛冶に転身した加藤清忠という男だが、物心つく前に他界したので母一人子一人の貧しい少年期を送る。しかし顔も知らない父のために寺を建立するくらいである。伊都の家庭教育は、「父親があってお前がいるのだ」といった“親”の徳を最大限に伝えていたに相違ない。そして生活苦に負けない母の力強い生き方を見て、おそらく信仰に目覚めていったのであろう。
 伊都は清正を近くの妙延寺に通わせ、住職の円享院日順から学問を習わせる。彼にとって日順は“師”に当たる人物と言えよう。また、豊臣秀吉とは母同士が親戚関係であったようで、そんな縁から十くらいの年から近江長浜城の城主になった当時羽柴秀吉の小姓として仕え、以来その将来を嘱望されながら、秀吉子飼いの武将として大きく成長していく。清正の生涯は秀吉という“主”に対する忠誠の人生でもある。
 戦に出れば常に題目を口ずさみ、手柄を立てれば法華経の功徳力と感謝する純粋な信心で、年を追うごとに信仰を深めていった。
 晩年の彼の座右の銘は『履道応乾』──。“履道”とは道を踏むことで、“乾”は“天”とか“君”とか“父”を表すので“応乾”とは天や主君に応じるという意味になる。彼の言う“道”とは法華信仰の道なので、要約すれば法華経を信じ天命に応じ主君に応えるとでも訳そうか。いずれにせよそこには信仰を通した深い人間哲学が浮かび上がる。
 だから主君秀吉が「唐入り」と言えば、疑うこともせずに突き進むのが加藤清正と言う男であった。その秀吉から、いま世界を凌駕するポルトガル、スペインの話を聞かされる。彼らは宣教師を巧みに使い、海外諸国を植民地化してあの強かな青い目で世界を征服しようと目論んでいる──。彼らの最終目的は広大な明国で、いま我らが何もしなければ、近い将来日本も彼らの属国に落ち、ついには明国への尖兵としていいように使われるに相違ない。ならばその前に、我らが先に唐入りし、ポルトガル、スペインに対抗しうる東洋の大帝国を建設する必要があるのだ──と。現にこの時期秀吉は、朝鮮に限らず琉球、インド、フィリピンなどの東南アジア諸国にも服従を促す威嚇的な国書を送っている。
 その野望ともとれる構想は、極東の国に生まれ、世界に目覚めた者の使命にも聞こえた。
 清正にとっては伴天連の教えなど外道である。外道とは仏法に説かれる人間生命の三世観(過去世・現世・未来世のこと、すなわち生命は永遠であること)すら説いていない下等な教えである。そんなものを世界宗教にさせるわけにはいかない。これは主君の言う通りにしなければ大変な事になる──すなわち唐入りこそが天の生業に従うことになるのだと納得していた。そしていま京に来ている朝鮮通信使の動向こそが、これから清正自身がどう動けばよいかの鍵を握っていたわけである。
 そんな重要な意味を持つとはつゆ知らず、服部才之進は加藤清正直筆の親書によって、通信使が宿泊する大徳寺に世話役人の一人として潜入しており、日がな一日することもない暇を持て余し、たまに新しい情報を得るために、こうして吉兆に現れるという訳であった。
 「関白はいったいいつになったら帰って来る?」
 待ちくたびれているのは使節団だけでなく才之進も同じで、お銀は、
 「小田原城が落ちたあと、奥羽の方へ行っちまったからね。まだかかるんじゃないか?」
 と他人ごとのように教えた。
 そんな通信使のご機嫌をとるため、聚楽城の留守居の役人たちは、彼らを京都の物見に連れ出すこともしばしばだった。秀吉からは「わしの力を見せつけておけ」との命もあり、関白秀吉の圧倒的な権威権力と財力の威厳で、到底敵う相手でないことを朝鮮の者達に知らしめよと言うわけである。
 その日は大徳寺から西に半里ばかりの所にある鹿苑寺に訪れた一行は、池に映し出されて黄金に輝く楼閣に目を見張る。
 「これも豊臣殿の所有物か?」
 「秀吉様は天下人であられる。愚門である。もともとは寺院だがな」
 案内役を仰せつかった大徳寺の僧侶はそう説明した。
 「寺院と申すのは仏教の建物であろう? 仏教ではこうも贅沢な建築様式を認めているのか?」
 李氏朝鮮では儒教が国教であるため仏教は弾圧されており、僧は都に入ることさえできなかった。そして礼を重んじ、華美や贅沢を嫌う精神が尊ばれたため、建物全体に金を使うなど考えられないことなのだ。しかし、いま一大ブームを巻き起こしている茶の湯の世界では、その朝鮮文化の素朴さや静けさが、返って日本古来の精神ともいえる“侘び寂びの心”に共鳴して、朝鮮産の茶器が異常な高値で取引されている。
 「この建物が豪華なのは、おそらく御仏への供養の心からでしょう。豪華なのはこの建物ばかりではありません。秀吉様が建てられた聚楽城を見れば、もっと驚きましょうな。ここに来られる途中、大坂城に寄られたのではありませんかな? 聚楽城はあの城に勝るとも劣らないきらびやかなものでございます」
 案内役の僧は誇らしげに笑った。
 使節団一行の護衛を務める中に軍官の黄進という見事な髭をたくわえた男がいた。軍官らしく気性が荒く、何かにつけて日本に戦争の意思ありとの難癖をつけようとその糸口を探っていたが、その男が不愉快そうに、
 「どうも気に入らん、“仁”欠くも甚だしい! 我らに喧嘩を売っているのか!」
 と突然叫んだ。“仁”とは儒教の根幹を為す“相手を思いやること”である。つまり質素を美徳とする儒教の国の使者を迎えるのに、絢爛豪華な建築物ばかりを見て回るのは何の当てつけかと怒っている。その剣幕に慌てたのは、通訳を兼ねて彼らと行動を共にしていた景轍玄蘇である。
 「黄進殿、悪気はございません。これは単なる物見遊山。御一行を喜ばせるために趣向を凝らしているのでございます。どうかお気を悪くしないでください」
 「いや、腹が立った! 我らに対する侮辱は我が国王の辱め。この案内人を斬ってやる!」
 といきなり刀を抜いた。それには副使の金誠一が差し止めた。日本による朝鮮侵攻の意思の真偽を確かめるための使節が、現地で騒動を起こして戦争を導いたでは後世にどんな酷評を記されるか分かったものでない。
 「慎め!」
 と遮ったとき、黄進の前に一人の男が進み出て、「なんだ、貴様?」と黄進の朝鮮語の意味を知るはずもない男は、暇を持て余していたといった態度で、
 「拙者、加藤肥後守清正が家臣で服部才之進と申す。貴公は戦がお望みか?」
 と無表情に言った。その物見に同行していた服部才之進である。彼にしてみれば、付き添いというひどく暇な仕事の上に、朝鮮の軍人らしき男がいきなり刀を引き抜いたとこに対して俄かに血が躍ったこともあるのだろうが、主君清正がどことなし唐入りを急いでいるような気配も感じてもおり、どうせ戦になるならば遅かれ早かれ同じだといった妙な忠義心が働いた末の行動だった。しゃしゃり出て来た意図が分からない玄蘇は通訳を拒んだが、黄進がしきりに「何と言っておる?」と聞くので、「加藤清正という侍の家臣で服部才之進と申しております」とだけ訳して髭面の顔色を窺った。
 「一介の付添人の分際で無礼であろう。いったい何の用か?」という黄進の言葉を、玄蘇がそのまま訳して伝えると、
 「刀を抜いておいて何の用かはなかろう? 我が国においては刀は魂である。その魂を抜いたからにはそれなりの覚悟がおありと察し、僭上ながら出て参った。その案内役の僧は武器を持っておらぬ。そんな者を斬ったところで何の自慢にもならぬぞ。貴公も軍人なら拙者を斬って名を挙げよ。拙者は伊賀国随一の忍びの者だ。まあ、斬れればの話だが──」
 あるいは才之進は異国の使節に対してこれが言いたかったのかも知れない。それには玄蘇も通訳に困って、すかさず、
 「引っ込んでいなさい。さもなければ関白殿下から加藤清正公に厳重注意が下るぞ」
 と脅した。「それは困る」と才之進が目を泳がせたのは、博多での謹慎処分以来、それを挽回する機会を逸するわけにはいかなかったからだ。ふと、玄蘇はあることをひらめいたように続けた。
 「それとも──其方まこと伊賀者であるなら、ここで忍術とやらをやって見せよ」
 と才之進に注文すると、黄進に対しては次のように伝えた。
 「この者、伊賀の忍者でございまして、ぜひとも黄進殿に忍術というものをご披露したいと申しております。両国友好の場を血で汚すのもどうかと思います。ここはこの男に免じてどうかお気をお鎮め下さいませんか?」
 「NINJA?」
 黄進は才之進の顔を興味津々と見つめた。平和な時代が数百年続いている朝鮮にとって、諜報者など無用の長物である。「そんな者がいるのか?」と、金誠一も黄允吉も「ぜひ見てみたい!」と手を叩く。
 「術は見世物ではない!」と才之進は閉口したが、加藤清正を盾に出されてはもはややって見せるより仕方ない。妙な忠義心から出た行動は、思わぬ方へと動いていった。
 才之進は「ちっ!」と舌打ちをすると、近くの松の木の枝にひょいと飛び乗り、上方の太い枝に懐から取り出した細い縄の片方の端をくくり付けたと思うと、もう一方の端を握って木から飛び降り、金閣寺の建物めがけて一直線に駆け出した。金閣寺への手前は池である。誰もが池に飛び込んで泳ぐのか?と思いきや、才之進はやや上半身を起こした姿勢に変化させると、その勢いのまま水上を走ったのである。
 それには一行も驚きの歓声を挙げた──。
 それは水蜘蛛などの道具を使った水上歩行というものなどでない。水遁の術の一つ水上疾走術である。実は原理は簡単で、水を踏んだ片足が沈まないうちに次の足を踏み出すことの繰り返しだけなのだ。彼らに言わせれば足の裏全体を水面と平行に叩くようにして、素早く次の足を同じように進ませるのがコツで、後は“気”の使い方をコントロールするらしい。これは川や海のように波の立つ水面では少し難しく、特に波のない池であるのが都合良く、どういう原理か季節でいえば冬場の冷たい水の方が走りやすいのだと言う。とはいえ尋常の人間にはなかなかできるものでない。今は水上を優雅に走る才之進も、昔はよく小太郎と競い合ったものだが、どうもこの術に関しては小太郎に勝てたことがない。
 水上疾走に呆気にとられていると、才之進は金閣寺の外廊から屋根の上に飛び乗った。そしててっぺんの鳳凰が飾られる台のところに、握ったもう一方の縄の端をピンと張って手際よく縛り付けると、今度は懐から鉤の手を取り出し縄に引っ掛け、ロープウェーのように滑り降りた。
 それはまさに空を飛ぶ怪鳥のようで、これまた一行は驚愕のあまり言葉を失った。
 やがて才之進は綱から飛び降り、夢幻でも見たかのような黄進の前に再び立った。あれよあれよと言う間の一瞬の出来事である。
 「水遁の術からの空遁の術をご覧いただいた。そして最後は土遁の術じゃ──」
 才之進はそう言ったと思うと、次の瞬間くるりと身体を一、二回転させると、足先で周囲の土を巻き上げ砂煙の霧を発生させた。気付けば霞んだ大気の中に、彼の姿は消えている。
 使節団の者達も日本の者達も拍手喝采を送るのも忘れて、ポカンと口を開けたまま言葉も出ない。ただ書状官の許筬だけはその不可思議な光景を深く脳裏に焼き付けた。後に彼が執筆する『洪吉童伝』は、ひょっとしたら服部才之進がモデルだったかも知れない。