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落情らくじょう
はしいろ☆まんぢう作品  

 八王子城が落城したとき炎の中に、キラキラと燃える金色の着物の片袖が飛んでいくのが見えたと言う。後にその片袖は氏照の側室豊の方の召しもので、小田原の氏照を慕って舞っていったのだと伝えられるが、菖蒲が豊の燃える着物を持って走る様はまさにそれだった。
 御主殿の滝から左手に落ちた曳き橋を見た彼女は、そのまま大手門を出て門前広場を駆けた。燃える着物の炎が尾を引いた光景は流星さながらで、その後ろを猪助が韋駄天が如く追った。
 猪助も速いが菖蒲も速い──
 このあたりは氏照家臣の屋敷が立ち並ぶ根小屋と呼ばれる場所だが、菖蒲はその屋敷の路傍に置かれた荷車を足掛かりに、ひょいと屋根の上に飛び乗り、燃え尽きようとしていた着物の炎を叩き消し、かろうじて燃え残った片袖を抱えて再び走った。
 一方、残り三人の風魔に取り囲まれた小太郎は、敵の攻撃をかわしながらなんとか足にからまる鎖を解いた。早く猪助を抑えなければ菖蒲が殺られるという焦りから躍起になるが、なんとも手ごわくなかなかその状況を脱する隙を与えてくれない。既に煙玉は尽きたし、下手な忍び道具も通用する相手でない。何か利用できるものはないかと周囲に意識を張り巡らせば、一人の風魔の近くの木の枝に、二、三匹の蛇がとぐろを巻いているのを見つけた。これ幸いとばかりに、
 「お主、その木から少し離れた方が良いと思うがの」
 小太郎の不意な言葉に乗せられまいと、男は何も答えず身構えたままだったが、
 「見たところマムシじゃ。わしにやられる前にそいつにやられるぞ」
 蛇は蝮でなく毒を持たない青大将だったが、現にこの城周辺には蝮がよく出ることをその男は知っていた。蛇と聞いて恐れる人の多いことを利用した小太郎の心理作戦だが、案の定、男は横目で木に目線をやれば、僅かにギョッとした気を発して隙を作った。それが狙い目で、小太郎の手から飛び出した八方手裏剣は男の腕に突き刺さり、刀を落としたのを合図に残りの二人の風魔が同時に小太郎に斬りかかる。それを右手の太刀と左腕の鎖帷子で受け止めた小太郎は、片方の男の体を足掛かりに木の上に飛び乗った。と思えば枝の蛇を投げつけ、その隙に猪助の後を追い始めたのだった。
 御主殿の滝から大手門につながる上の道に出、二人の風魔が追って来るのを確認した小太郎は、門の少し手前で撒菱をばら撒いて門をくぐった。細かな遁術だが優秀な忍者はそうしたことを忘れない。門をくぐる直前というのは足元より障害となる門の方へ目がいくもので、思惑通り二人の風魔の足裏深くに撒菱が突き刺さり勢いよく転げた。目をみはるような不可思議な忍術といっても、実はこうした小さな遁術の積み重ねで、その点小太郎の方が一枚上手だったと言えよう。
 そのとき菖蒲は城から半里ばかり下ったところの明観寺の境内で猪助に追い込まれた。走り続けても体力の差でいずれ追い付かれ、城下を熟知する猪助からは逃れられまいと判断した彼女は、右手に見えた寺に咄嗟に飛び込んだのだ。
 菖蒲は肩で息をしながら合口を引き抜いて身構え、猪助も背の刀を抜いてじりりと詰め寄った。
 「女狐め──甲山と通じていたな?」
 眉間から声を出しているかのような猪助からはプラズマのような殺気がほとばしっている。菖蒲は呼吸を整えながら、身に迫りくる死の恐怖と戦っていた。
 その時である。
 どこからともなく季節外れのトンボが飛んで来たかと思うと、一直線に猪助の背中に噛みついた。猪助はチクリとした痛みを感じて振り向けば、そこに黒装束の一人の男が立っている。
 「蜻蛉!」
 思わず菖蒲が叫んだのは、飛猿と一緒に忍城へ行ったはずの彼の姿を認めたからだ。となれば今飛んで来たトンボは蜻蛉型の手裏剣で、突き刺さった先には毒が塗ってあるに相違ない。甲賀のそれは鳥兜と毒空木と毒芹などを調合した特に殺傷力の強いものなので、普通の人間であれば四半時もしないうちに身体に異変が生じ、泡を吹いてやがては死に至るはずである。菖蒲は窮地を脱する光明を見出した。
 「菖蒲さん、やはりまだ八王子におられましたか。飛猿さんが“どうも気になる”と心配され、こうして私を遣わせました。間に合ってよかった」
 「あなどるな。こいつは風魔一の使い手だ!」
 言うより早く、猪助の切先は菖蒲の心臓めがけてロケット花火のように走った。それをかろうじて交わした彼女だが、勢いに押されて倒れ込むと、すかさず今度は蜻蛉が猪助の背中に斬りかかった。その剣を難なくはじき返した猪助は縦に横にと刀を振り、すばしっこい蜻蛉の身体を追い回せば、その一振り一振りが彼の黒装束を切り裂くのが見て取れた。
 「だめだ、格が違う──」
 菖蒲はそう思いつつ「早く毒が回れ……」と念じたが、見る見る追い込まれた蜻蛉は、猪助の刃によって咽喉を掻き切られて果てたのだった。
 「蜻蛉!」
 と叫んで、菖蒲は倒れた彼のところへ駆け寄ろうとしたが、テレポーテーションでもしたかのような猪助は彼女の行く手を遮った。もはや涙を飲むより仕方ない。こうとなっては蜻蛉の分まで自分が生き延び、故郷甲賀で彼の帰りを待つ女房子供に、彼の最期を伝える使命を帯びた。あとは毒が回るまでの時間稼ぎをすることしか思いつかない菖蒲は、
 「私を斬るか? 斬るならば斬れ!」と猪助を睨んだ。
 「言われなくともそうするさ」と猪助が刀を振り上げたとき、
 「最後にいい思いをさせてやろうと思ったが残念だ」
 菖蒲は最後の賭けに出た。
 そこで問答無用の刀を振り下ろしてしまえばいいのに、「その手には乗らぬ──」と言ってしまうところが、猪助が五代目風魔小太郎になれなかった性がある。どうも彼には非情になりきれない忍びとしての甘さがあるようだと言っていた小太郎の言葉を思い出した菖蒲は、
 「甲山小太郎のことだ」
 と俄かに妖艶な笑みを浮かべ、襟元を僅かに下げて艶めかしいうなじをのぞかせたのである。普通の男なら生唾のひとつも飲み込むところだが、果たして猪助は乗って来るだろうか──?
 「なんだ──? どうせ最後だ、聞くだけ聞いてやろう」
 猪助の険しい表情に変化は見られなかったが、菖蒲は「かかったな」と思った。
 「さっき小太郎が言っておったが、燃える御主殿に来る前、あいつは高山右近に会ったと言った。前田利家に同行している武将だが、もともとあいつは右近に仕えていたのじゃ。というからにはお前が実行した利家襲撃作戦に小太郎も加わったということになるが、私の話を聞いてなにか思い当たる節があろう?」
 猪助は表情に面妖な色を作った。あるもないも利家を斬ろうとしたまさにその直前に、突然小太郎が邪魔をして千載一遇の機を逃してしまったのだ。その失敗により八王子城は無残に落ちた。その雪辱を思い出すだけで猪助は気が狂いそうになるほど腹わたが煮えくり返る。そして、あのとき小太郎が「急に利家を守らねばならない事情ができた」と言った言葉が、自分を背き、高山右近の命令に従ったものだと知ったとき、小太郎に対する憎悪は再び炎のごとく燃え上がり、顔を真っ赤にさせた。
 菖蒲は自分が右近の妹であることは言わない。憎悪が自分に向くことを避けたからである。ここは猪助の憎しみの感情をすべて小太郎へ向けておく必要があったのだ。菖蒲は続けた。
 「やはりな。利家を仕損じたのは小太郎が邪魔だてをしたからであろう」
 挑発を誘うような笑いに「黙れ!」と猪助は再び刀を振り上げた。
 「待て、早まるな! まだ話は終わっておらぬ」
 菖蒲はゆっくりと続ける。
 「実はこの戦が終わったら、私は小太郎と夫婦になる約束をしている」
 これは意外な展開だ。てっきり小太郎へ激しい憎悪を向けさせたと思いきや、その小太郎と自分が結婚すると言う。「なに?」と猪助の目付きがまた変わった。その変化の中には、小太郎がしきりに百合という侍女にこだわっていた理由が理解できたということもあるだろうが、もう一方に、いま目の前に立っている美しい女が、けっして許すことのできない男の妻になることに対する嫉妬と羨望が入り混じっていることも見てとれた。
 「やはりこやつも男だ──」と、菖蒲は猪助の心の動きをとらえたことを確信した。
 「お前は小太郎が憎くはないか?」
 「言うな! お主を斬ったら次はあいつだ!」
 「それよりもっと面白いことをせぬか? 小太郎に最大の屈辱を味あわせるという──。私とてまだ死にとうはない。そこで相談をしたいのだが──」
 「最大の屈辱……? 命と引き換えにわしと手を組もうとでも言うか?」
 猪助は警戒しながらも菖蒲の目を暫くじっと見つめた。その目の中には、それまで猪助自身が出会ってきた数々の女忍者と同じ、目的のためなら手段を選ばぬしたたかな怪しい光が宿っている。猪助は彼女の相談とやらを聞くだけ聞いてみようと思った。
 一方菖蒲は、表情ひとつ変えずに猪助の目を見つめ返していたが、内心では「早よ毒が回れ!」と必死に念じていた。どうもこの男、免疫があるのかそれとも余程体が鈍いのか、でなければ蜻蛉の放った手裏剣に毒が塗っていなかったか、それとも刺さりが浅かったか、一向に毒が利く様子が見えないことに、焦りを表情に出すまいと必死に努めた。
 「小気味よいくノ一の目じゃ。なんじゃ、申せ──」
 猪助が言った。ついに菖蒲はくノ一としての最後の手段を持ち出すより仕方ない。
 「私は小太郎の妻となる。しかしまだ一度も男女の契りを交わしたことはない。あいつは私の最初の男となろう。しかし、妻になるはずの女が別の男に犯されたとあればどうじゃ。小太郎にとってお前が最大の屈辱となろう。どうだ? この穢れなき身体、小太郎より先に抱いてみたいと思わぬか?」
 猪助はニヤリと微笑んだ。
 「なかなか面白い相談だ──だがくノ一の言葉は信用できぬ。信じて欲しくばまずはその小刀を鞘に納めてこっちに渡してもらおう」
 菖蒲は言われるとおりにした。すると猪助も刀を背の鞘に納め、その細い女の身体をぐいと抱き寄せ、菖蒲の華奢な顎を大きな指で掴んで口元に引き寄せた。見つめれば見つめるほど美しい女だ──。
 ところが刹那、男の欲情に満ちた目が、何かに驚くような目つきに変わった。ようやく毒が利いてきたものか、身体の異変に気付いた猪助は、先ほど斬り捨てた男が最初に投げた手裏剣に毒が塗ってあったことを悟ると、これまでの埒もない会話が、毒が回るまでの単なる時間稼ぎであることを知ったのだった。
 「何が塗ってあった?」
 「なんの話しじゃ?」
 「とぼけるな。さっきお前の仲間が放った手裏剣じゃ!何の毒じゃ!」
 「知らぬ」
 「知らぬわけがなかろう!」
 猪助は背中の刀を引き抜き、今度こそ菖蒲を斬らんと見がまえた。
 「私を斬れば解毒の法を失うぞ」
 菖蒲が静かに言ったとき、猪助は体の不調を覚えながらも不敵な笑みを浮かべた。
 「生憎だが、わしら風魔の頭衆の忍びに毒は通用せぬ。幼き頃より微量の毒を含ませた飯を食わされ抗体ができておる」
 とはいえ苦しそうな目付きからすれば、甲賀の毒の方が風魔のそれよりやや勝っていたのだろう。その時──、
 「待て猪助!」
 彼の背後で聞き覚えのある叫び声がした。小太郎である。ようやく菖蒲を見つけて現れたのだ。猪助はすかさず切先を菖蒲の咽喉元に突き付け、人質をとるようにして面を向けた。
 「ほう、い組のあの連中から逃れて来るとは、貴様もとんだ喰わせ者だな!」
 小太郎はすぐに「いつもの猪助ではない」と察した。余裕がなく、切羽詰まった眼は、すぐにでも菖蒲を殺そうと血走っている。小太郎はこれまでにない危機感を覚えずにいられない。
 「猪助わかった! なんでもするから菖蒲を離せ!」
 「もう遅いわっ!」
 言ったと思うと、猪助の太刀は菖蒲の柔らかな胸を貫いた。彼女の着物がみるみる血に染まっていくのがはっきり分かった。小太郎の瞳孔は壺のように見開かれ、「菖蒲っ!」と叫んだ時には猪助はその場を立ち去ろうと走り出す──。
 ところが激情した小太郎の速さといったらない。ツバメか獲物を狙うカワセミのように猪助に追いつくと、闘争本能をむきだしにして風に乱れた柳のように太刀をぶんぶん振り回す。一見滅茶苦茶だがその刃の動きには寸分の無駄もないことは戦う猪助が身で知った。
 これにはさすがの猪助もたまらない。おまけに毒の回った身体ではかわすのがやっとで、ついに小太郎の刃が猪助の片腕を斬り落とすと、猪助は腕から吹き出る血しぶきを目潰し替わりにして、狂ったように襲い来る小太郎の目に吹きかけた。それによって小太郎は視界を失い、その隙に猪助は姿を消した。
 「どこじゃ猪助!出てこい!」
 余力のままに狂気の太刀を振り回す彼の背後で、
 「小太郎……」
 という菖蒲の呻きに似た声が聞こえた。小太郎は「はっ!」と我に返り、猪助の血でかすれる視界の中に、倒れたままの菖蒲の姿を見つけた。咄嗟に駆け寄り身体を抱き上げ、
 「菖蒲!死ぬな!」
 と、いつか彼女が自分にしてくれた止血をしようと、彼女の懐にあるはずの用土家の家紋の入った薬入れの印籠を探したが、菖蒲はその動作を差し止めるように彼の手を握った。
 「もうよい……」
 その手には三寸ほどの大きさの銀で作られたマリア像が握られていた。おそらくお守りのように片時も離さず持っていたものに相違ないが、小太郎は初めて目にするそれに、彼女が死を受け入れようとしているのを感じ取った。
 「菖蒲! だめだ! 死んではいかん!」
 「お前と会えて、楽しかった……」
 小太郎はその手を強く握り返した。すると安らかな表情で微笑んだ菖蒲は、遠のく意識を引き戻すように、
 「小太郎──私の最後の望みを聞いてくれるか?」
 「なんじゃ!」
 菖蒲は力なく懐から豊の方の愛笛雲丸を取り出すと、
 「この笛とそこの着物を北条氏照に届けてはもらえぬか──」
 「こんなときに他人の心配などしておる場合か!」
 「主君を持たぬお前には分からぬ……頼む……それと……」
 「わかった! もういい体力がもたん、何もしゃべるな!」
 「松井田に蓮という名の童女がおる。お前と夫婦になったら三人で暮らそうと考えていた……」
 「菖蒲、しっかりしろ!」
 「あぁぁぁ……よい気持ちじゃ……」
 菖蒲の瞳から生気が消えた──その瞬間、頭の中で何かが切れたようなキーンという甲高い音が耳鳴りのように鳴り響けば、思考は何かの光源の世界に抛り込まれたように真っ白になった小太郎は、無造作にその亡骸が自分の身体と一つになれ!とばかりに抱きしめた──。
 とめどなくこぼれ落ちる涙と、彼女の血が作った赤い水たまりに、気付けば雲間から漏れた朝の陽が差し込んでいる。すると、
 「小太郎──」
 その陽光が彼の名を呼んだ気がした。見上げれば一筋の光の中に、まばゆいばかりの天使が昇天していく姿を彼は見た。
 「テレジア……」
 小太郎は涙を拭いた。

 八王子城落城の悲劇の有様が小田原に伝わると、北条家の士気は著しく低下した。こと城主であった氏照の落胆は床を叩いて号泣したほどで、それまで強硬派の旗印でもあったその男の悲しみの姿は、彼自身の威信をも失墜させる。
 そして間もない天正十八年(一五九〇)七月五日、北条氏政と氏直親子は降伏し、天下の名城と謳われた小田原城はついに開城するに至る。 当主氏直は家康の娘婿だった縁もあり一命は助されるも流罪、 氏政は切腹を命ぜられそれより四日後に自らの命を絶つ。そして氏照も同様、

 天地の清き中より生まれきてもとのすみかに帰るべらなり

 という辞世を残してこの世を去った。享年五十一とも四十六とも言われる。ここに北条早雲以来五代に渡って関東に栄えた北条氏は滅亡した。
 ついに天下を完全統一した豊臣秀吉は、次なる戦国の舞台への扉を開くのだった。

     【第一章 終わり】