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八王子城の悲劇
はしいろ☆まんぢう作品  

 近藤曲輪が落ちると、豊臣軍は堰を切ったように城内になだれ込んだ。本丸がある山の方面へ向かう兵と御主殿へと向かう兵とが二分し、御主殿へ向かった兵は焼け落ちた曳き橋の袂で躊躇するものの、後ろから暴風雨の水路の激流の如く押し寄せた兵が、やがて破裂した水道管のように列を乱せば、清らかな城山川を堰き止めて作られた淵を泳いで渡り切る。水堀さえ渡ってしまえばもう御主殿はすぐそこだが、高く積み上げられた土塁を登るには何人もの兵が協力し合う。転げ落ちながらもそれでも数が数だけに、やがて一人二人と這い上がる。
 一方、月夜峰の本陣で騒ぎを聞きつけた上杉景勝も、大軍を率いて出羽山の尾根を進撃し、上ノ山から太鼓曲輪に押し寄せた。太鼓曲輪は城山川南側に盛られた土塁の尾根伝いに細長く伸びた曲輪で、敵の侵入を防ぐために五メートルから十メートルの堀切があった。守備をするのは平山綱景だが、もともと見張り専用の曲輪であるから少人数の上に腕利きの武将もいない。堀切なども時間稼ぎの役割を果たすだけで、やはりそこも数の力で押され雑作もなく壊滅させられると、景勝はそのまま御主殿のある方へと嵐のように進軍を続けた。
 その太鼓曲輪、闇夜の残り火の中に、夜風にさらされた幾人もの死体が残る。すると、その中の一人が指をピクリと動かして息を吹き返した。お祓い四郎兵である。彼は血だらけでボロボロになった衣服の泥を払ってヨロヨロと立ち上がると、己の使命を思い出したかのように命尽きるまで陣貝を吹き続けるのだった。

 あちこちでうなり響くその音は衰えることはない──。
 しかし御主殿を守る兵は僅かなものである。その中に笛彦兵衛と狭間隼人の姿もあった。あとは鍬や鎌を刀や槍に持ち替えた領民の男たちで、何人かの女たちも混ざっている。近藤綱秀の末娘布衣姫は、既に命を落とした父のことも知らされぬまま、覚悟を決めた美しい表情を恍惚とさせ、焼け落ちた曳き橋の小さくなった炎を見つめていた。
 楼閣に身を潜めている女たちはみな恐怖におののき、身体をブルブルと震わせ身を寄せ合い、小さな子を持つ母などは、子を強く抱きしめたまま念仏や題目を唱えていた。そんな中にふと鳴り出したのは美しい和琴の音である。アンネが皆を勇気づけようと、その張り詰めた弦をはじいたのだった。
 「子らよ、怖くはないぞ、泣くでない。私の腹にも子があるが、泣いてはおらぬぞ、我を見よ」
 と、アンネは母性の笑みを湛えて、ひたぶるに弾き続ける。
 その音色が外を守護する者の耳にも届いた。
 やがて御主殿最後の砦となる虎口門が打ち壊され、冠木門も破られると、そこから二人、三人、ついには怒涛のように豊臣兵が侵入して来て、弓兵は館めがけて容赦なく火矢を放った。
 「させるな!」
 八王子兵がどっと豊臣兵に攻め入れば、たちまち御主殿周辺は竜騰虎闘の大混乱に陥った。ところが衆は寡に敵せず、みるみる数を減らしていけば、それにはたまらず御主殿広間や会所に立て籠っていた女、子供、年寄りどもも、みな我先にと逃げ出して、ついに建物の障子に火が燃え移れば、大奥の楼閣の者たちも悲鳴を挙げて飛び出した。
 阿鼻叫喚の地獄とはまさにこのことを言うのであろう。武器も持たない逃げ惑う女子供を、豊臣兵は手心なく斬りつける。唯一の逃げ道であった御主殿の滝に通じる門前は前古未曾有のパニック状態。門を出た急な細い坂道を転げ落ちては、次々に滝の中に身を投げた。
 笛彦兵衛も倒れ、狭間隼人も大きな手傷を負って息も絶え絶え。布衣姫も女ながらによく奮戦したが、とうとう深手を負って燃える館の片隅に座り込んで天を仰いだ。
 「きれい……」
 彼女が見たのは満点の星空とも見まごうオレンジ色の無数の火の粉である。彼女は最後の力をふり絞ってヨロヨロと立ち上がると、おぼつかない足取りで父を探しに前線を離脱した。
 燃える楼閣、炎の中に、たった一人残って琴を弾き続けるアンネの姿があった。やがて壁が音をたてて崩れ、弦もプツリと切れた時、彼女の目の前に現れたのは背に矢が突き刺さり、這いつくばって手を伸ばす血まみれの狭間隼人である。
 「隼人!」
 アンネはその身体にしがみつき、ドクドクと流れ出る血をふき取るが、もはや愛する夫は虫の息──隼人はアンネの手を力なく握りしめ、
 「逃げよう……」
 かすれる声でかすかに笑った。
 次の瞬間、楼閣の屋根は崩れ落ち、二人は炎の中に消えた。

 どこをどう歩いて来たのか分からない──布衣姫が力も尽きて身を横たえたのは、御霊谷と呼ばれる地区を流れる川のほとりだった。父の守る近藤曲輪にたどり着いたことまでは覚えているが、既に戦いが終わり、死体だけが風に吹かれる静けさを見た時記憶が途切れた。どうやら朦朧とした意識のまま、夢遊病者のような彼女の姿を横目に見る、戦いに乗り遅れ雑談などしている豊臣兵がたむろする大手門前広場を横切り、太鼓曲輪の尾根を越えてここまで来たものらしい。布衣は急に喉の渇きを覚え、川の水をすくおうと手を伸ばした。ところが淀みに映る己の顔を見て言葉を失った。城下を歩けば男たちはみな振り返るその美しい顔が、焼きただれて見るも無残に膨れあがっている。はだけた肩も胸も真っ赤に焼けただれ、ふためと見れぬ醜い姿となっていたのである。
 そこに通りかかったのが菖蒲救出のため、御主殿に向かって走って来た小太郎である。
 「おい娘、御主殿はどうなっておる?」
 ところが娘は背を向けたまま何も答えない。小太郎は不審に思って肩に手を置けば、
 「見ないで!」
 布衣は発狂したごとくに叫んだ。そのとき小太郎は彼女の焼けただれた横顔を見た。そのことで、御主殿がただならぬ事態になっていることを知り、再び疾風のように駆け出した。それから間もなく布衣姫は、その川に身を投じたと伝わる。

 御主殿の火の手は豊のいる側室の間にも刻一刻と迫っていた。さすがの菖蒲も気が急いて、
 「お笛様、お逃げください」
 いつにない厳しい口調で豊を見つめた。
 「皆はどうした?」
 「すでに館を出たものと」
 「藤菊丸はどこじゃ?」
 「比佐様とご一緒に本丸の方に」
 「困ったのう……」
 豊はそう言って遠くを見ると、
 「わらわが館を離れてしまったら、氏照様が帰った時に心配するのではないか? それにしても熱い──」
 豊は羽織った氏照からもらったと言う艶やかな西陣染めの振袖を脱ぐと、その上に愛笛雲丸を置いて扇子を仰いだ。
 「百合は熱くないのか? 難であればそちだけでも外に出て参ってよいぞ」
 「そういうわけにはいきませぬ。私はお笛様の侍女でございます」
 「強がりを申すな。さきほどから額に汗が出ているではないか──」
 そう言って自分の袖口で汗を拭きとると、
 「仕方がない、では一緒に外の空気を浴びに参るか?」
 「はい」
 菖蒲は豊の腕を引っ張るように、速足で御主殿の外に出た。思った通り建物の虎口側は大きな炎に包まれて、大奥の方に猛然と燃え広がってくる。
 「おぉ、やっぱり外は気持ちがよいの!」
 ひんやりとした空気が首筋の熱を奪い、豊が気持ちよさそうに深呼吸したとき、二人は数人の豊臣兵に取り囲まれた。菖蒲は咄嗟に懐の合口を引き抜いた。
 「そなた達は何者じゃ?」
 豊はいつもの口調で社交辞令のように言ったが、何も答えないので、
 「豊臣の兵にございます」
 菖蒲は小声で教え、続けざまに「逃げます」と言って豊の手を引っ張った。
 「まて、部屋に着物と笛を置いたままじゃ。取りに戻らねば」
 菖蒲は困った。豊を炎の中へ行かせるわけにはいかないし、今にも襲い掛かろうとしている兵を前に、まさか豊ひとり残して自分が取りに戻るわけにもいかない。躊躇した菖蒲に一人の兵が襲い掛かった。菖蒲はその刃をはじこうと合口を振り上げたとき、敵の刃をかわしたのは雷のごとく現れた小太郎だった。
 「何をしていた! 遅いぞ!」
 「すまぬ、ちと野暮な仕事に使われた。そういえば右近に会ったぞ」
 「兄上に──?」
 菖蒲は少し驚いた表情をしたが、
 「そんなことよりお笛の方様を頼む!」
 と言うと、燃え広がる炎の中へ飛び込んだ。
 「おい菖蒲!どこへゆく!」
 その隙に豊臣兵が一斉に小太郎を襲った。それらを名状しがたい早さで斬り捨てた小太郎だったが、気づけば周りには何十人もの兵が集まって来ているではないか。
 「こりゃキリがないわい。菖蒲め、どこ行った……」
 そのとき菖蒲は炎の中を、豊の振袖と雲丸を握って側室の間を飛び出たところ──戻ったときには豊をかばいながら小太郎が猛戦奮闘している最中で、彼女が来たのを確認した小太郎は、
 「目と鼻と口をおさえろ。最後の一つじゃ!」
 と言って敵の足元に煙玉を投げつけた。濛々と煙が噴き出す中、三人はなんとか窮地を脱したが、御主殿の敷地内はどこもかしこも豊臣兵だらけでもはや逃げ道などない。その上そろそろ東の空も明るみはじめ、ますます見つかりやすい状況が生まれていた。すると菖蒲が「こっちじゃ」と二人を誘導して走る。それは彼女と連携をとるため、甲賀の蜻蛉が密かに引いた御主殿内で最も人目が付かない道筋で、掘立物から石灯籠へ、石灯籠から溝へ、溝から塀へと移動して、蜻蛉が空けた塀の穴を潜り抜ければ御主殿の外に抜け出せた。ところが三人が出た場所は、幾百もの屍が横たわり、血の色で真っ赤に染まった御主殿の滝だった。
 「見てはいけません!」
 思わず菖蒲は豊の眼前に立って視界を遮った。しかし既に遅く、豊は腰が砕けたように膝を落として、
 「これはいったい何の有様じゃ? わらわはいったい何を見ておる?」
 放心状態となってもう何も喋べらなかった。
 「追手が来る。早くここを去らねば危険じゃ」
 小太郎が言ったので、菖蒲は豊の体を抱き上げた時である。どこからともなく飛んで来た矢が豊の胸に突き刺さった。豊は「うっ」と呻って血を吐いた。続けざまに数本の矢が飛んで来て、小太郎はそれを刀ではじき飛ばしたが、睨んだときには射手は頭を引っ込めてしまった。豊は自分の血を見て我に返った様子で、
 「百合……ひょっとしてわらわも死ぬのか?」
 意識が遠のいているのだろう、その言葉には覇気がない。
 「そんなことはございません!早くここから逃げましょう!」
 しかしもう呼吸さえ困難と見え、菖蒲の襟元を力の限り掴んで最期の言葉を口ずさむ。
 「百合、ひとつ頼みがあるが聞いてくれぬか?」
 「なんなりと──」
 「この着物と雲丸を氏照様に届けてくれ……」
 豊は息を引き取った。幼少より感情を持つなと教えられた菖蒲の瞳から、幾筋もの露がこぼれ落ちたのを小太郎は見た。
 その時である。先ほど弓を射って頭を隠した数人の豊臣の射手が、突然御主殿の崖を転げ落ちて来たのだった。射手がいた所に目をやれば、そこには数人の黒い人影が立っている。風魔の残党を引き連れた猪助に相違ない。
 「甲山、どこに参る?」
 「どこへゆこうとわしの勝手じゃ!」
 「邪魔だてしておいて、生きて戻れるとでも思ったか」
 「おお、すまなんだ。しかしあれにはいろいろ事情があったのじゃ」
 猪助はカモシカのように御主殿の崖を下ると小太郎の前に毅然と立った。そして豊の亡骸を抱く菖蒲を睨み、
 「最初からお笛の方様をそうするつもりでいたな!」
 「違う!」と叫んだ菖蒲に、猪助はいきなり斬りかかる。その懐に飛び込んで猪助の大きな体を抑えつけた小太郎は、
 「菖蒲、逃げろ!」
 と叫んだ。ところが、菖蒲が豊の着物と笛を掴んで立ち上がったところを、今度は別の風魔の男が火車剣を放った。火車剣とは中心に火薬を仕込んだ手裏剣で、導火線に着火して投げると攻撃物を爆破し引火を導く。菖蒲は手にした着物を煽るようにして火車剣をはじいて包み込むと、次の瞬間破裂して着物の裾がメラメラと燃え出した。その身のこなしで彼女を完全にくノ一と見切った猪助は、
 「アヤメとは誰じゃ!」
 鬼のように叫ぶと、菖蒲は裾が燃える着物の襟を、頭にかぶるようにして走り出した。
 「逃がすな!追え!」
 五、六人の風魔の男たちは菖蒲の後を追いかけた。そうはさせまいと懐から取り出して放った小太郎の小苦無は、二人の風魔の足に突き刺さって倒れ、どのように移動したのか小太郎は、残りの四人の風魔の行く手に立ちふさがった。が、その隙に、小太郎の抑えつけから自由になった猪助は、すかさず菖蒲を追い始めたのだった。
 「まずい!」と思った小太郎は、すぐに猪助を追おうとしたが、風魔の一人が投げ込んだ鎖鎌の鎖が足にからまり、転倒して逆に四人に囲まれた。
 「逃げよ!菖蒲!」
 次の瞬間、彼を襲った鎖鎌の刃が二の腕を斬った。反射的に正宗を引き抜き襲った男の経脈を斬り返したが、取り囲む風魔の残党は先の利家襲撃に加わっていたい組の強者たちで、小太郎といえどもそうやすやす倒せる相手ではない──。

 そのころ、本丸目指して激しい銃撃戦の末金子曲輪を破った豊臣軍先鋒隊は、用土源信率いる上杉隊を寄せ付けずに奮戦している狩野一庵の曲輪に津波のように押し寄せた。そうなったらひとたまりもない、あえなく一庵の命も潰える。
 本丸、山頂曲輪の大石照基は、城代の横地監物に言った。
 「もはや再起の時を待つより仕方ございません。ここは私が食い止めますので、その間に檜原城へお逃げ下さい!」
 檜原城は北条家に重く用いられた土豪平山氏重の居城で、秀吉の北条攻めにおいても最後まで抵抗した城の一つである。この後も八王子の敗残兵を収容して籠城することになるが、このときはまだ落ちておらず、監物らにとっては最後の望みだったのだ。平井無辺がもたらした利家の書状はすでに監物の手に届いており、彼は比佐と藤菊丸の顔を見つめて言った。
 「前田利家はお方様と子の命は救うと言っておりますが、いかがしましょう?共に参りましょうか?」
 とはいえ、女子供の足が共ではすぐに見つかり捕らえられるのは目に見えていた。比佐は目を閉じて答えた。
 「氏照の城が落ちて細君が生き延びたとあらば、末代までの笑い者となりましょう。かくなる上は自害するよりほかありません。介錯をお願いします」
 世に言う坂東武者とは、こうした女性の潔い性質に支えられていたのかも知れない。比佐と藤菊丸は八王子城の本丸で果て、横地監物は山伝いに敗走するのであった。その時間稼ぎに大石照基は獅子奮迅の闘いを見せるが、間もなく城の守備兵達はことごとく討ちとられ、城は落ちた。
 東の空に太陽が昇り始めた時分のことである。