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利家、絶体絶命
はしいろ☆まんぢう作品  

 関白秀吉の大勘気を喰らった前田利家は、八王子城下犬目の陣所に宿営していた。ここを立つとき利家は、お礼に兜を置いていったことから甲神社となり、その周辺を甲ノ原と呼ぶようになって現在に伝わる場所である。
 つい先ほど、用土源信からの使者が「八王子城が開城の検討をしている」旨を伝えると、再度開城勧告の書状をしたためて使者に託した利家は、一層憂患の表情を浮かべて外に出、
 「力攻めで落とせと言われてものう……」
 と、ため息を落として、八王子城のある方角の空を眺めた。
 ──すると、闇夜の中にぼんやりとではあるが、薄いオレンジ色の光が目に飛び込んだ。「火事か?」と思えば、遠くの方で法螺貝の音が鳴り響き、なにやら佳からぬ予感が胸を覆う。
 「何事じゃ?」
 「はっ、ただいま調べに走らせます!」
 「遅い!火の手が挙がって陣貝が鳴っておるのじゃ。これは小競り合いの騒ぎではないぞ、すぐ馬を用意せい!」
 と慌てて甲冑を身に纏い、支度をしている最中にも、
 「八王子軍奇襲!」
 「大道寺政繁隊出撃!」
 「難波田憲次隊、木呂子友則隊同じく出撃!」
 「山本家基様討ち死に!」
 と次々と急報が飛び込んできた。蒼白になった利家は「出陣じゃ!」と大声を張り上げると、数十名の家臣を従え、馬にまたがって犬目の陣所を飛び出した。

 そのとき城の入り口で近藤綱秀が守りを固める近藤曲輪は大騒然となっていた。近藤曲輪はもともと綱秀の屋敷が建っている場所であるが、そこに今は百名近くの守り手が鉄砲を握っており、風魔党の挑発に乗って猪突猛進して飛び込んだ豊臣兵は、瞬く間にその伏兵に討ち取られ、闇夜の中にばったばったと倒れていく。曲輪には篝火ひとつ炊いてなく、少し遠くで燃える曳き橋の炎の明かりだけが城の存在を教えているだけで、進撃する兵達が握る松明は、皮肉にも敵に自分の居場所を示すだけの目印になっていた。その上、霧が立ち込め足元も見えないために、倒れた兵に躓いた者は、後から押し寄せる兵達の障害となって転倒の連鎖反応を導けば、櫓の上からその塊めがけて、弓矢が夕立のように放たれた。
 「引けっ!」
 と退却命令が飛び交えば、細い道では退く兵と進撃する兵とがぶつかり合って、右往左往するところを上から容赦なく石弓や熱湯が降ってくる。この攻撃で先鋒の大道寺政繁隊は数百人もの兵をあっと言う間に失うことになる。
 「下手に飛び出せばやられるぞ!」
 と、そこからしばらく鉄砲の打ち合いが始まった。すると山下曲輪の櫓の上に松明を持った一人の男が姿を現わし、
 「我こそは北条氏照様が家臣、近藤出羽守綱秀である! 見事この首とって関白秀吉にご覧ぜあられよ!」
 と叫ぶ。これまた挑発に乗った豊臣兵は、遠くて当たるはずのない鉄砲をバンバン撃ち込み、無駄に弾を使うだけ。
 その近藤綱秀には十七になる布衣という名の美しい末の姫がいた。美しいながらも気丈な性格を持つ布衣姫は、普段から薙刀の稽古を怠ることなく、この時も御主殿を守り抜こうと、襷、鉢巻を撒いて薙刀を抱え、おびえる女、子供たちを鼓舞して回っている。

 ちょうどその頃、前田利家出撃の報を待つ猪助を頭とした利家襲撃部隊は、息を潜めて宗関寺で待機していた。そこへ、
 「藤田信吉の陣所がもぬけのからだ! 鉄砲を放った時には既に誰もいなかった!」
 と伝えに来たは組の組員がいた。藤田信吉といえば平井無辺が使者として向かった場所だ。猪助は一抹の不安を覚えたが、いまさらどうこうできるわけでない。
 「捨ておけ」と言ったとき、
 「利家が犬目の陣所を出たぞ!」
 と息せき切って報告に飛び込んだのは、は組組長の半助だった。
 「ゆくぞっ!」
 猪助は勢いよく立ち上がると、先陣きって馬に飛び乗り、城に押し寄せる豊臣兵には目もくれず、利家が向かって来る陣営めがけて逆方向に一直線に突き進んだ。その後ろを疾風のごとく追いかける風魔騎馬隊の最後尾には、なにやら乗らない顔付の小太郎がいた。
 果たして利家本陣の騎馬隊と襲撃隊が鉢合わせしたのはそれからすぐのことである。将を取り巻いて進み来る騎馬隊の旗指物がことごとく前田家家紋の加賀梅鉢だったのと、将と思われる男の鎧兜がひときわ豪華できらびやかだったのですぐにそれと知れた。それでも真田昌幸のときの失敗があるから、馬上から目を皿のようにしてその具足を睨みつければ、並の大名などには真似できるべくもない金小札白絲素懸威胴丸に相違ない。
 「あやつじゃ!」
 猪助は雷鳴のように叫んで利家を守りながら進軍する騎馬兵の中に突っ込んだ。途端に利家の陣列は乱れ、落馬する者や馬上から槍を振り回す者などで、大混戦劇が始まった。
 利家を守る兵は百人以上に膨らんでいたろうか、それを僅か十人たらずで襲撃したのである。所詮勝ち目などない──と思われたところが、闇の中で目が利き騎馬を使いこなす忍び集団は、自分の馬から敵の馬へと飛び乗って、馬上の兵の首を掻き切り、馬から落ちた者は相手の馬の脚を斬って落馬させ、すかさず刃を突き刺し、再び馬に飛び乗ったと思えば、騎馬の横側にしがみつく恰好で馬の体を盾にして乗りこなす見事な馬術で、あれよあれよと言う間にその数を減らしていった。
 中でもひと回り身体の大きな猪助の殺陣はそれに輪をかけて鮮やかで、その動きに寸分の無駄もない。いつかい組の誰かが言っていた通り、忍び刀を持たせれば飛ぶ蠅を斬り、騎馬にまたがれば天を駆け、鉄砲を持たせれば一丁先の雀を落とすと比喩された技は、まさに歴代の風魔小太郎の誰より勝っていると言っても過言でないだろう。彼の横を駆け抜ける騎馬兵は、どこを斬られたのか分からないまま落馬し、遠くで背後から襲われそうな味方を見れば、鞍に据えつけた鉄砲を抜いてその敵を一撃で撃ち倒し、槍を掴んで兵もろとも投げ飛ばす怪力を見せたかと思えば、突然馬上から消えて五人の歩兵を同時に斬り捨てる芸当もやってのけた。
 「こりゃ風魔が勝つぞ?」
 騎馬戦が不得手な小太郎は馬から降りて、自分の所に寄って来た兵だけを相手にしながら、他人事のようにその光景を眺めていたが、やがて、十数人の騎馬兵が護衛する利家に、じりりと詰め寄った猪助の姿を見た。
 「利家の親衛隊じゃ。あいつらは猪助とてそう簡単には殺れまい」
 馬上の猪助は奪った槍を一振り二振りして、気合とともに先頭の兵に突き刺せば、バランスを崩した馬が隣の馬を巻き込んで倒れた。すると周りで戦う数人の風魔忍者が放った手裏剣が、ことごとく兵が乗る馬の脚に突き刺さって倒れ、利家も馬を失った。将を射んと欲すればまず馬を射よとはまさにこのことで、騎馬戦術法を熟知している風魔の見事な連携プレーだ。
 猪助は馬を飛び降りて、槍を捨て忍び刀に持ち替えた。すかさず親衛隊の一人が斬りかかったが、次の瞬間目も留まらぬ速さで倒れ込むと、続く一人も一回、二回と太刀と太刀との火花を飛ばしたものの、やはり同じように倒れて息絶えた。
 猪助の周りではその戦いの邪魔立てはさせまいと、い組の連中が円を描くような陣を作って激しい奮戦をしている。その激闘の中で、やがては組の半助が斬られ、次に二、三のい組の男も手傷を負って戦闘から離脱した。
 その後も猪助は利家の親衛隊を一人二人と斬り捨てたが、次に出て来た男はただ者でなかった。体格は猪助と同じくらいだが、その目付き、その構えからは殺気というより洗練されたそよ風のような気が漂っている。
 「富田重政と申す。お相手仕ろう」
 富田重政といえば中条流(冨田流)創始者冨田九郎左衛門長家の三代目、天下に名を馳せた剣豪である。猪助は俄かに目つきを変えた。
 「どうする猪助──」
 と小太郎が目を凝らした時、倒れ込んだままの恰好で脚を掴む一人の男がいた。
 「なんじゃい、うるさいのう」とその手を振り払おうと蹴り返したところが、小太郎はその男の顔を見て驚愕した。
 「う、右近──高山右近殿ではござらんか! どうしてこんなところにおる?」
 「それは私の台詞じゃ……」
 右近は落馬して腰を痛めているようで、苦しそうに小太郎の襟元を握って身体を起こした。
 「偵察に出ると申して金沢を出たきり、一向に戻ってこないもので随分と心配したのであるぞ。いったいどこで何をしていたのですか?それにその恰好──まさか、この襲撃集団の仲間になっていたのですか?」
 小太郎は猪助と富田重政の勝負の行方を見届けたいのに、まったく間の悪い登場である。ところが小太郎にはないがしろにできない訳があった。
 「そういえば、兄上に報告しなければいけないことがあるのじゃ」
 “兄上”と呼ばれたことに右近は首を傾げた。
 「実は……その……なんじゃ……菖蒲と夫婦になることにした──」
 この状況でそれはなかろう。右近は暫く言葉を失ったが、やがて我に返って、
 「そんなことより又左衞門殿(前田利家)を助けてやって下さい。彼にはこの命を捧げても報い得ない恩義があるのです」
 と小太郎の手を握って頼み込む。命を捧げても報えない恩義とは、右近が伴天連追放令で追われている際、利家に匿われたことを言っているのであろう。小太郎にとっては菖蒲の兄から結婚の許しを得たいところであったが、
 「うむ──仕方がない、わかった」
 と頷くと、激しい戦闘状態の渦中へムササビのように飛んで行き、今にも斬りかかろうとしていた猪助の前に立ちはだかった。
 「なんだ甲山、どけ!」
 「猪助、すまぬが急に利家を守らねばならぬ事情ができた」
 「つまらんことを言うとお前もろとも斬り捨てるぞ!」
 猪助は容赦なく小太郎を斬りつけたが、そのひと突きひと振りを巧みにかわした小太郎は、ひらりと後方に飛び退いて、富田重政に向かって小声で「鼻と口を押えて利家を連れて逃げよ」と告げると、懐から団子ほどの大きさの黒い塊を取り出して、猪助の足元に向かって投げつけた。すると“ボウッ”という音をたてて破裂したかと思うと、凄まじいばかりの煙を吐き出し、視界零パーセントの暗黒の世界を作り出した。そればかりでない、ようやく煙がおさまってきたかと思えば、先ほどまで猛烈な戦闘を繰り広げていた周辺の兵やい組の者達までも、おのおのしきりにくしゃみをしたり、鼻を垂らして目を真っ赤にさせて、涙をボロボロ流して戦いどころでない。
 いわゆるそれが伊賀に伝わる煙玉の威力であった。硝石を細かく砕いてすりつぶし、そこに砂糖を加えて混ぜるのが基本だが、更に山椒や胡椒、唐辛子や山葵などを大量に含ませて団子状に丸める。それを破裂させると煙と共に、周囲に飛散した刺激物が目や鼻を強く刺激して敵の戦闘力を極端に奪う。
 だがそのへん猪助はさすがで、小太郎が煙玉を取り出した時にはすぐにそれと知った。呼吸を止めて目や鼻を覆っていたからその被害は免れた。しかし煙が次第に消えていった時には、前田利家は既に逃走を始めていて、もはや残った風魔の手勢だけではそれを追いかける余力は残っていなかった。
 猪助は一発必中の時を逃した。
 怒髪天を突く形相で渾身の力を込めて忍び刀を振り下ろせば、太さ二、三尺ある丸太とて一刀両断するはずだった。ところがそれを頭上で受け止めた小太郎の刀は、猪助の刀を真っ二つに砕いてしまった。
 「ほう、流石名刀正宗じゃ」
 小太郎は刃こぼれ一つしていないその刀を見て驚いた。
 「退却じゃあ!」
 猪助は小太郎の顔を睨み付けると、残された数人の風魔党を引き連れて鳥のように去った。

 そのころ近藤曲輪は大道寺政繁隊の執拗な攻撃によって徐々に押されていた。兵数も少なければ武器弾薬も底をつき始めていたのである。
 「風魔衆の猪助はまだか?」
 と山下曲輪の近藤綱秀は焦燥の色を隠せなかったが、ついに鉄砲の弾が切れると自ら槍を握って櫓を飛び出した。それを合図に両陣営入り乱れの接近戦となるが、多勢に無勢、決死の奮闘虚しく綱秀は山下曲輪の土となる。
 「本丸目指して進めぃ!」
 大道寺政繁は標高四六六メートルの急峻な八王子城を登りはじめた。

 城代に奇襲作戦中止を訴え出ようとした平井無辺は、あるかないか分からないような獣道を登ってついに本丸守護のために作られた一つ「小宮曲輪」に出た。しかしそのとき既に曳き橋には火が放たれ、奇襲作戦の火ぶたは切って落とされていた。麓の方からは激しい鉄砲の打ち合いの音が聞こえている。
 「小宮曲輪」を守っていたのは中山勘解由家範である。八条流馬術の達人で槍の名手でもある彼はこのとき四十三歳であった。茂みの中から突然現れた無辺の姿に驚くと、次々と現れる上杉兵の多さに慌てながらも手にした槍を身構えた。
 「取り急ぎ監物様に訴えたき義があり申す!」
 無辺は叫んだ。
 「よもや裏切ったか!その後ろの兵は何じゃ!」
 見れば細い獣道、曲輪まで上がって来れない上杉兵達は、つかえて鈴なりの列となって下方まで延びていた。その列を伝ってバケツリレーのように、ちょうど用土源信の手元に届いたのは使者が預かって来た前田利家の書状である。源信はその書状を広げて前に進み出、
 「残念ながらお主らの奇襲は失敗じゃ。この通りたったいま、前田利家様から開城勧告の書状が届いたわ。その方らの要求を受け入れ、そなたらの命も助けたいと申しておる。即刻抵抗を中止させよ!」
 このとき源信は、利家が辛くも襲撃を回避したことを知らない。しかしタイミングがタイミングだけに、てっきりそう思い込んだ。書状を受け取った勘解由の体は、読み進めるうちにわなわなと震え出す。そして、
 「もはやこれまでか──だがこの期に及んで敵のお情けを頂戴するわけにはいかぬ。私は北条家の武士である」
 そう言い残してその場に正座し甲冑を脱ぎ捨てると、腹部を開いて短剣を突き刺した。その一部始終を曲輪の建物の中から覗いていた勘解由の妻は、後を追うように自刃する。
 監物のいる本丸へ向かおうとした無辺らの前に、今度は、死に際に最後のひと花を咲かせようと老臣狩野飛騨守一庵が立ちはだかった。彼はいわゆる宿老で、現代の議会でいえば議長に当たる重鎮でもある。そこに、
 「ただいま近藤曲輪が落ち、敵が金子曲輪に侵入してきました!」
 という報が飛び込んだものだから一庵の闘志に一層大きな火が点いた。「中の曲輪」と「松木曲輪」の兵達を、無辺と源信が登って来た「小宮曲輪」に集中させて、茂みの中の細い獣道に向かって一斉射撃をしたものだから、行き場のない上杉兵達は山の斜面を転げ落ちた。
 こうして一庵は奮闘するも、麓の方から攻め寄せる豊臣兵が、金子曲輪を落としてここに到達するのは、もう時間の問題だった。