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暗闇の布陣
はしいろ☆まんぢう作品  

 八王子城の布陣は腹さえ決れば電光石火の如くであった。
 深沢山山頂の本丸に氏照正室の比佐と側室豊が産んだ嫡子藤菊丸を隠すと、それを城代の横地監物吉信と大石信濃守照基の守りで固め、その下の「小宮曲輪」と「中の曲輪」と「松木曲輪」は優将中山勘解由家範と狩野飛騨守一庵らが守り、そして山城の麓に向かって「金子曲輪」「山下曲輪」「近藤曲輪」と、それぞれ勇猛果敢で知られる近藤出羽守綱秀や金子三郎右衛門家重らに固く守らせることにして、城山川を挟んだ山の尾根伝い、見張りの役割を担う「太鼓曲輪」には、機転の利く平山左衛門尉綱景が付くことに決まった。山城の曲輪というのは本丸までの急峻な細道に作られた人の立ち入れる平坦な部分を言い、屋敷が建つ曲輪もあれば、櫓や倉庫が置かれた曲輪もある。いずれにせよ土塁で高く盛られた上などにも設けられ、攻撃に適した場所である。そこに石弓などの罠を仕込む作業が急ピッチで進められ、翌日にはでき得る限りの準備を整えた。
 大手門から太鼓曲輪の山裾を城山川に沿って進めば、右手前方に川を渡す曳き橋がある。その下は城山川を堰き止めて作った天然の水堀、橋を渡れば御主殿の敷地内に通じるが、曳き橋さえ落としてしまえば敵は御主殿内には入って来れない落とし橋の作りになっている。それは逆に言えば完全なる孤立を意味し、まさに背水の陣の構えで戦いに臨む計画なのだ。
 「曳き橋より火の手が挙がったら戦闘開始の合図だ!」
 そう申し合わせると、おのおのは持ち場に散った。六月二十二日の事である。

 敵に城の意向を伝える使者の役目を言い使ったのは平井無辺であった。上杉将兵の藤田信吉(用土源信)や大道寺政繁とも旧知であることからその重要な任を託された。趣意は開城勧告の使者を殺害してしまったことへの謝罪と、領民の命は助けるという条件を受け入れてくれるなら開城もやぶさかでない旨の伝達である。もちろんこれは奇襲を隠すため、敵の油断を誘う策であるが、もともと開城を望んでいた彼は、敵を欺くに適任とされたのである。
 無辺は書状を懐にしまうと、馬に乗って御主殿を出るところであった。
 「無辺様!」
 呼び止めたのは菖蒲である。無辺は厳しい表情をほころばせて「おお、百合か」と馬を止めた。
 「こんなことになってすまなんだ。暇を与えるゆえ、もう館を出るがよい。お前はもともとここの人間ではないからの。もう会うこともなかろう」
 「城の外は危険です。おやめください」
 「そういうわけにはいかん。使者を仰せつかった。そうじゃ、藤田信吉に会うてくるぞ。なにか伝えおくことはあるか?」
 無辺は百合が藤田信吉(用土源信)にゆかりのある者だということを思い出した。
 「源信様はいま、先鋒を仰せつかり、川口の館(現・調井神社)におられます」
 無辺は首を傾げた。
 「なぜ百合がそんなことを知っておる?」
 「兄上が私のことをひどく心配しており、頼って行くようにと便りをくれたのです」
 「そうであったか。兄は今どこじゃ? 商売は繁盛しておるようか?」
 「兄上はいま、忍城下です」
 「なに、忍城に? あちらも秀吉軍に包囲されて大変な様子じゃ。巻き込まれなければよいがなぁ……。ではさらばじゃ」
 無辺は馬の横腹を蹴った。
 「無辺様!」
 「なんじゃ?」
 「どうか戦をくい止めて下さいませ!」
 それは菖蒲の本心だった。無辺は馬上で振り向いて、ひとつニコリと笑うとそのまま曳き橋を渡って行った。

 さて、こちらは風魔党は組の屯所宗関寺である。夜の帳が降り、俄かに集合した六、七十人の忍び装束の組員達は、猪助を取り巻いておのおの動きの最終確認をしていた。普段より組員が多いのは、小田原からい組の精鋭メンバーを呼び寄せたからで、みな猪助の片腕として働いている者達ばかりだから、実質、風魔党最強の忍び集団と言えた。
 「曳き橋に火の手が挙がった時が戦闘開始の合図じゃ」
 と猪助が言う。夜襲作戦の全容はこうである。
 火の手が挙がるのを確認したら、各曲輪から陣貝が鳴り響く手筈である。その音を聞いて慌てた豊臣軍の各陣所にはそれぞれ数人のは組の組員を潜ませておき、一斉射撃で敵をあぶり出す。そうしたら深追いはせずに城に向かって走り、敵を八王子城の入口にある近藤曲輪までおびき寄せるのだ。そこに鉄砲隊を潜ませておき、できるだけ引き付けたところで片っ端から討ち取り、あらかじめ仕込んでおいた石弓や落とし穴を使って殲滅せしむ──。
 深夜で視界が悪いという条件は同じだが、「ならば土地勘や地形を知り尽くした我らが圧倒的に有利である」と猪助は確信を込めて言った。
 「騒ぎを受けて必ず前田利家は現れる。それを待ち伏せ一気に襲撃して首をとる!よいか!」
 「おうっ!」
 暗闇に男たちの不気味な声が響いた。
 ただしこの作戦には最初から大きな欠点がある。兵数の少なさだ。長引けば長引いた分だけ不利になるのは明らかで、こちらが優勢なうちに利家を討つことができなければ「この戦は負ける」と猪助は断言する。まさに一瞬の時を逃すことのできない一髪千鈞を引く計画なのだ。
 猪助はその最も重要な利家襲撃部隊に加える十人の名を挙げた。絶対に失敗の許されない部隊であるから、い組の者が中心だったが、そこには組組長の半助が加わり、あとは、
 「甲山、お前も加われ」
 と厳しい目つきで言った。
 「わしは御主殿の守護に回りたい」
 「なにぃ?」
 「いつぞや殺しに忍んだ百合という侍女を助けてやりたい。罪滅ぼしじゃ」
 「ずいぶんとその女にこだわるな? 利家の首を取れば戦は終わる。敵は御主殿まで到達せぬ」
 猪助は不審の眼で小太郎を睨んだ。
 「相分かった──」と小太郎は仕方なく答えた。

 そのころ使者として城を出た平井無辺は、川口の館に陣を張る用土源信のところにいる。ところが彼の心には一つの蟠りが生じていた。それは城を出る時に百合が、兄からの便りの話をしたことによる。道中、前田軍の兵らしき者達に「どこへ行く?」と尋問を受け、そのたび事情を説明することになったが、いま城下は豊臣の兵があちこちに見え、考えてみれば城への道はすべて遮断されている。外部から城に便りなど届くはずがないのだ。用土源信が川口に陣を構えたのもここ一日、二日の間であるはずで、そのとき既に城下は豊臣軍に占拠されていたはずだから、源信の居場所を百合が知り得るはずがない。
 「なぜ知っていた?」
 蟠りの正体はそれである。不審が不審を呼ぶと、彼女が城に現れた日にまで記憶が遡り、いかにも不自然な面だけが際立つ。そして、あのとき風魔党の猪助も「話が出来すぎていて怪しい」と言っていたことを思い出すと、無辺の顔は蒼白になった。
 「もしや──豊臣の間者か──?」
 無辺は源信に城からの伝達事項を忠実に伝えると、
 「百合という娘を知っておるか? お主の兄、藤田重連殿の小姓をやっていた男の妹だ。年は二十歳程かの?」
 と聞いてみた。すると源信は「はて?」と首を傾げた。
 「上野国の仁山田にある小野屋という紬屋で奉公していたと聞く。お主もそこにたびたび越後の魚を贈っていたのではないのか?」
 「ますます分からんぞ……第一、仁山田に知り合いなどおらぬし、兄貴が小姓を雇っていたなどという話も聞いたことがない……」
 「やはり──」と無辺は百合が間者であることを確信した。
 となると、別れ際に彼女が「戦をくい止めてほしい」と言った言葉は意味が逆で、「早く戦をやれ」ということになる。しかし奇襲をすることは評定で決定したことであるし、自分は開城の意思があると敵の油断を導くために来たわけで──、百合が戦をさせようとする意図が理解できない。彼の頭は混乱した。
 一方源信の方は、覚えのない女の名が出てきたことの背景に、真田の思惑が働いていることに勘づいて「話を合わせておくべきだった」と後悔していた。二人は互いの腹の内を探り合いながら次の言葉を見つけた。
 「久し振りに会ったのじゃ、酒でも飲むか?」
 と源信は近くの男に命じてどぶろくを用意させた。
 「我らの寄居の郷(鉢形)もいまや関白殿下のものだ。小田原城とてじき落ちる。無駄な抵抗をして多くの命を失うより、城を明け渡した方が利口だとは思わぬか? 時代というのは変わるものじゃ。変化変化の連続じゃ。わしはつくづく思う、兄が身内の手によって殺され、流れ行きついたところが上杉よ。お主が坂東武者でございと威張っていられるのは、たまたまここにずっと居ることができたからであって、ひとたび場所や環境が変われば、人はそれに順応して生きていかねばならん。ひとつ問うが、お主は何のために奉行をしておる? 氏照のためか?国のためか?己のためか?」
 源信は盃に酒を注ぎながら言った。
 「わしは源信殿とは真逆じゃ。ここに居ることができたればこそ、ここに恩義を尽くすのじゃ。それが人の道と心得る」
 「では問うが、人の道とは何じゃ? 意地を通して命を落とすことか? 実はわしは戦が嫌いじゃ。だから調略をもって城を落とすことを覚えてきた。そして上杉景勝公も前田利家公も極力血を流さぬようにここまで進んできたのだ。ここ八王子でもできれば無駄な血は流したくないと思っておるだろう。帰って横地殿に伝えよ、一刻も早く城を明け渡せと」
 「戦をしたくないのはわしとて同じ──」
 と無辺が呟いたとき、百合が「戦をくい止めてほしい」と言った心は、間者という立場を越えて、一人の人間としての本心の言葉ではなかったかと思い直した。国は支配している者のためにあるのではない。そこに住む民のためにあるのだ。不作の年も、年貢の取り立てが厳しい時も、たとえ明日食べる飯がなくても、まったく希望を見いだせない日々が続こうとも、それでももがきながら生きようとする民が、どうして国のためになら死んでもよいと考えるものか。もしそんな民がいたとすれば、それは権力という圧力に扇動されているか、時の教育に洗脳されているだけなのだ。
 「やはり戦などしてはいかんのう……」
 と無辺は己の本心を吐露した。
 「どうした? 急に深刻な顔をして?」
 源信は無辺の変化に気づいてそう言った。無辺は思い悩んだ表情のまま、
 「これを言ったらわしは子々孫々、末代まで裏切り者の烙印を押されることになる」
 と呟いた。
 「しかし言わねば領民を殺すことになるだろう。真の坂東武者とは単に勇ましい武将のことではなく、領民のために生き、尽くす官僚武士のことではあるまいか?」
 無辺は城の決定を裏切ることはできても、自分を裏切ることはできなかった。
 「間に合うだろうか?」
 「なんじゃ、申せ」
 無辺は奇襲作戦の秘密を打ち明け、その作戦が決行されてしまう前に、作戦中止の指示を出すよう城代横地監物に訴える行動に出る決意をしたのだった。
 「まだ間に合う! 急げ!」
 無辺は八王子城築城の際、自らも縄張りをした普請奉行でもある。城の構造に関しては他の誰よりも詳しい。上杉兵を率いた用土源信は、その彼の案内で、城の者にもあまり知られていない城の北西にある搦め手口から山頂の本丸へ通ずる裏道を走った。

 そのころ御主殿の曳き橋を守護する数人の兵は、篝火を炊き、橋にべっとりと油を塗る作業を進めていた。一人の兵が柄杓で油を撒きながら、
 「なんだか霧が出てきたぞ」
 と、周囲を見渡して言った。
 「視界が悪ければ悪いほど我らには有利に働くはずじゃ。なんせわしらは目をつむっていたって城下を歩けるからなあ。きっと八王子権現様が微笑んでくれているのさ」
 「平井無辺様がまだ戻られんが……」
 「ひょっとしたら捕虜にされた可能性もある。定刻になっても戻らなかったら、諦めて火を放つしかあるまいな」
 そのとき、どこからともなく悲し気な笛の音が聞こえてきて、兵達は顔を見合わせて微笑み合った。
 「笛彦兵衛と隼人だ……戦の前に師弟の共演とは、粋なことをしてくれるねぇ」
 するとそこに楼閣から漏れる和琴の音が重なって、音楽が華やかなものに変わった。
 「安寧姫が加わったぞ。いや、今は隼人の嫁だから姫ではないな、奥か」
 その音は側室の間にも降り注ぎ、まさに眠ろうと床に就いた豊まで、
 「この音はなんじゃ?」
 と百合を呼び、「わらわも吹きたい」と庭に出て、氏照下賜の『雲丸』を奏で始めた。
 そうなると、太鼓曲輪に控えていた陣太鼓打ちまで軽快なリズムを刻み始め、八王子城内は祭りさながらの愉快な空気に包まれた。陣貝吹き担当のお祓い四郎兵も太鼓曲輪に詰めていたが、当時北条家に加護されていた宝生座が演じる能楽『羽衣』を、見よう見真似で上半身裸になって踊り始めたものだから、そこにいる者達は緊張を忘れて腹を抱えて大笑い。太鼓曲輪を任された平山綱景も、
 「これで豊臣兵も大きな油断をするに違いない」
 と笑いながら眺めていたが、調子に乗ったお祓い四郎兵が、突然手にした陣貝を吹こうとしたものだから、綱景は慌てて差し止めた。
 「ばかもの! 陣貝など吹いたら、戦が始まったと勘違いするではないか!」
 四郎兵はなんの悪びれもなく「へえっ」と頭を掻くと、
 「では次は『花月』をご覧いただきやしょう!」
 と、再びへたくそな舞を踊り始めた。
 その笛と琴と太鼓の音は、これから起こる悲劇をまるで知らないように、いつまでも響いているのであった。