> 第1章 > 宿敵対決
宿敵対決
歴史・時代小説 検索エンジン
はしいろ☆まんぢう作品  






 「動いたぞ!」
 その一報をもたらしたのは鼠であった。ついに真田昌幸が、虎ケ岡城への攻撃を開始したと言いながら「城を見張っていた別の“め組”の組員が知らせに来たので間違いない」と息を弾ませた。虎ケ岡城を守っているのは矢那瀬大学という男である。いずれにせよ兵力はほとんど出払っているため、城に残っている者など僅かな数だ。無駄な抵抗はせずに城を明け渡すだろうことは既に計算尽くで、
 「出撃じゃ!」
 猪助は叫ぶと、風魔党の男たちは疾風のように拠点を飛び出し末野へ向かう。
 小太郎も自分の動きは明確だった。虎ケ岡城が攻撃されたとあれば、勝つことを達観視しているはずの飛猿なら、そのときすでに次の標的である花園城の偵察に出ているはずだと踏んでおり、彼もまた馬を走らせ花園を目指す。鉢形城下からだと一里にも満たない距離だから馬の脚なら僅かなものだ。
 猪助の話によれば花園城主は藤田政邦という男で、鉢形城代を兼任しているため今は城主不在らしい。「そんな城ならわし一人でも落とせるわい」と小太郎は豪語したが、相手が飛猿とあればそうもいくまい。どんな手を使って倒すか、そのときの状況を見ながら臨機応変に戦わなければ、何をしてくるか分からない相手である。
 「今日は刀も忍び道具も持っているし、前のようにはさせぬ!」
 と、勝つ気満々の小太郎は、やがて花園城が築かれている小高い山の麓の諏訪神社に到着した。周辺には猫の子一匹いる気配もなく、戦前の妙に静まり返った空気を吸い込んだ小太郎はそのまま馬を降りて大きな吐息を吐くと、軽快な足取りで神社の石段を駆け上がった。
 と──、
 「待っていたぞ、太郎次郎の倅!」
 空の方から声がした。聞き覚えのある、それは飛猿に違いない。小太郎は空を見上げた。
 「どこじゃ、赤猿──姿を見せよ!」
 新緑の若葉が芽吹き始めた木々の間から、空の淡い青が覗いて見える。この木の上のどこかに飛猿が潜んでいると思えた。
 「北条に寝返ったそうじゃないか?」
 「どちらに付こうがわしの勝手じゃ! お前らに有益な情報は、菖蒲を通じて流してやっているはずじゃ!」
 「それが解らぬ。北条に付いたお主がどうして敵に情報を流す? 魂胆は何じゃ!」
 「なりゆきじゃ」
 と、空にばかり気をやっていた小太郎は、足元の土に生き物の気配を感じて、「土遁の術か?」と思い直した。
 “土遁の術”とは“土”の利を活かした“遁術”の一種である。遁術──すなわち忍者の術とは、身を守り逃げるために発達してきた特殊技能で、本来は攻撃を目的としたものでない。ところが飛猿ほどの使い手になると、相手を惑わす大きな戦闘術になり得た。その基本は“五大”つまり「地」「水」「火」「風」「空」にあり、“五大術”とも“五薀術”とも“五輪術”とも“五常術”とも“五方術”とも“五智術”とも“五時術”とも言われる。その中で「地」の利を用いた術をいわゆる“土遁の術”と呼び、一般的には土に穴を掘り何日も潜み隠れる技を言う。同じように水中に潜み隠れる技を“水遁の術”と言うが、中には水上を歩いて見せたり、たっぷりと胃に含んだ水を口から吐き出して相手を威嚇するような技もあり、「水」の利を用いた技はひっくるめて“水遁の術”と呼ぶ。だから“火遁の術”と言えば「火」の利を用いた技のことであるから、油を飲んで口から火を噴いて見せたり、煙幕を炊いて霧に隠れたり、もっと言えば鉄砲術や砲術、あるいは狼煙を挙げることなども“火遁の術”に属しているわけだ。また“風遁の術”とは「風」の流れを読み、その勢いや特性を利用した技で、風魔党の幻術のように麻酔の香りを風に乗せるのもその内に入るだろうし、中には人の吐く息を利用した術もある。噂では季節風や台風などを利用して敵陣に攻め込んだという話も聞く。そして“空遁の術”は空を飛んで見せたり、宙に浮いて見せたり、あるいは鳥を操ったり雨を降らせてみたり、「空」の利を用いた技は小太郎の憧れの術でもあった。中でも雷を自在に操る“雷槌落とし”は生涯を懸けて習得したい技であり、父の甲山太郎次郎はこれができた。父曰く、
 「これは億劫の辛労を尽くして一念三千世界に帰命せなできん」
 であるが、その意味がまったく理解できない。また曰く「これは術というより法じゃ」であるが、これまた理解できずに今の年に至った。
 ──これらの“五大術”が基本となって、やがて太陽の光を利用した“日遁の術”や、月を利用した“月遁の術”などが編み出され、更に発達すると、木の性質や形等を活かした“木遁の術”や、金属を利用した“金遁の術”などが生まれ、近年では“分身の術”だの“空蝉の術”だの、あるいは“妖術”だの“幻術”だのと思い思いの術を開発させてきたという経緯がある。忍者と呼ばれる者達はそれぞれ得意分野を持っており、小太郎もそれら全てを使いこなせるわけでないが、その概要と本質はおおよそ掴んでいるつもりである。
 小太郎は生き物の気を感じる土に目をやり小さくほくそ笑むと、腰の正宗をひらりと引き抜き、
 「そこか!」
 と叫びざまに切先を土に突き刺した。刹那、地面が爆発したかのように土の塊が飛び散ったと思うと、中から五、六人の飛猿が姿を現わして小太郎の周りを取り囲んだ。
 小太郎は驚愕した。土遁の術からの分身の術への見事な連携である。しかもその分身の術の見事さは、見まごうばかりの華麗さだった。
 通常“分身の術”といえば、視覚の残像を利用した時間残像や補色残像、あるいは運動残像を利用したものである。時間残像というのは、例えば電球の光は交流の電気で光っているため、六〇ヘルツの場合は実際一秒間に一二〇回点滅しているわけだが、人の目にはチラツキを感じない。それと原理は同じで、今度は同じ場所で撮った立ち位置の違う二枚の写真を、交互に連続して見せると、あたかも同じ人間が二人いるように見えるという原理を使ったものである。しかし人間の動きには限界があり、小太郎が目にしたことのある“時間残像分身術”は、せいぜい上半身のみを二つに見せるだけのもので、左右両方向に激しく動かしている本人の労力を知るとき、滑稽さを越して哀れみさえ覚えたものである。次の“補色残像分身術”というのは小太郎が最も得意とするもので、ある特定の色を暫く見つめた後に、その色を視界から消去すると補色が残像として残るという原理を利用したものである。例えば白装束を纏って暗闇の中に立ち、敵にある一点、例えば目などに注目させておき、ある瞬間白壁の前に移動して自分は姿を消すと、白壁にはあたかも人がいるような残像を残すのだ。そして最後の“運動残像分身術”というのは、暫く一定方向に移動しているものを見つめさせておき、突然その運動を停止させると、それまでと反対方向に動いているように感じる残像術である。例えば電車の窓を流れる景色を見ていた後、電車が停車すると駅が前へ動いていくように感じるのもその原理の一つだ。
 ところがこれらの分身術は、いずれも視覚の癖を利用したものなので曖昧さがあり、個人差もあってあまり実用的でない難点がある。ところが飛猿のそれときたら、分身した姿は五、六人の上に、どれもくっきりと実在しているように見えるではないか。
 小太郎は「ただの分身術ではない!」と咄嗟に身構えた。次の瞬間、分身した一匹の赤猿が小太郎めがけて襲い掛かった。すかさず手にした太刀を真一文字に振り下ろすと、確かに肉を斬った感触とともに、真っ赤な鮮血が飛び散った。間髪を入れず二匹目が襲い掛かってきた。それも振り下ろした刃を上に翻し右斜め上方に振り上げれば、これまた鮮やかな返り血が柄杓で水を撒いたように小太郎の顔面に降りかかった。
 「違う! こいつは飛猿の分身ではない──本物の生き物だ!」
 そう思う間もなく次々と襲い掛かって来る獣をばっさばっさと斬り捨て、最後の一匹を斬り捨てた時、小太郎は自分が倒した動物がすべて忍び装束を着せられたニホンザルであることを知り愕然とした。彼が分身の術と見立てた技は“口寄せの術”であった。“口寄せ”とは所謂イタコなどの霊媒師が霊魂を呼び寄せることを言うが、忍術の場合、動物を呼び寄せて使役させる事を言う。江戸時代の読本に登場する架空の忍者自来也は大蝦蟇蛙を呼び寄せるが、飛猿は猿を呼び寄せ自在に操ることができた。おそらく“飛猿”の名の所以でもあろう。
 「出て来い、猿回し!」
 そう叫んだ瞬間、上空より小太郎の眼前に舞い降りた黒い影──咄嗟に後方に飛び退いたが、
 「ちと待て!」
 と促したのは飛猿の方だった。
 「こないだの胃液はなしじゃぞ。臭くて三日めしが食えんかった」
 「人をイタチみたいに言うな! 今日こそお前を倒す!」
 「そこじゃ。太郎次郎の倅よ、どうも俺にはそこが分からん」
 「甲山小太郎じゃ、名で呼べ!」
 「ならば小太郎、お主は菖蒲殿の家来になったのであろう? ならばわしらの味方ではないか。拙者には戦う理由が見出せぬ」
 「菖蒲の家来にはなったがお前は敵だ」
 飛猿は「あ〜ぁ可哀そうに……」と言いながら、周辺に散らばるニホンザルの死骸を一カ所に集めると、小太郎の存在を気にかける様子もなく合掌して目を閉じた。
 「隙だらけだぞ。来ぬならこっちからゆくぞ」
 「だからちと待て、大儀名分もなくお主を殺してしまったではなんともすっきりせんし、なにより菖蒲殿に申し訳が立たん。わしとお主が戦わなければならぬ理由が知りたい」
 「簡単だ。日の本一の忍びは一人おればよい」
 「ではなにか? この戦いは日本一を決めるための戦いか? お主は忍びのくせに己の名誉のために術を使うのか?」
 「なにっ!」
 「つまらん、つまらん。どうせ術を使うなら、天下のために使ったらどうか? それ以前に、すでに菖蒲殿に負けているではないか。となると天下一の忍びは菖蒲殿じゃなぁ」
 「菖蒲は女だ、数の内に入らん!」
 「小太郎よ、いつから菖蒲殿を呼び捨てするようになった? 菖蒲殿の生まれをたどれば甲賀五十三家のひとつ高山家の血筋であるぞ。身の程を知れ」
 飛猿にとって五十三家はいわば無条件の上司のような存在である。いくら忍びの腕は達者でも身分の違いには逆らえない。
 「甲賀五十三家? そういえば右近が申しておった。我が甲山家もその昔高山家の分家として派生したそうな。いわばわしと菖蒲は親戚筋じゃ。呼び捨て御免じゃ」
 「なにっ?」
 と、今度は飛猿が声を挙げた。
 「お主、伊賀者でなかったのか? つまらん冗談を言うとただでは済まんぞ」
 「わしが言ったのではない、右近が言ったのじゃ。わしとてこの身に甲賀者の血が流れていたとしたら、なんとも据わりが悪い。だからそう思わんことにしている」
 「ええい、どうもやりづらい。今のは聞かなかったことにする」
 と飛猿は、俄かに湧いてきた小太郎に対する憎悪に似た感情を抑えきれずに、山桜の木にひょいと登ると、仕込んでおいた綱をグイっと引っ張った。すると周辺の雑木の中から小太郎めがけて一斉に弓矢が放たれると、弓矢はことごとく小太郎の体に突き刺さった。ところが、ドサリと音を立てて倒れたのは一本の朽ちた木で、当の小太郎はすでにそこにはいない。
 「変わり身の術……小癪な真似を」
 飛猿は消えた小太郎の気配を探った。
 一方小太郎は、飛猿が登った木からは死角になる松の大木の陰に隠れて、息を潜めて思案した。花園城に着いた途端に猿に襲われ、あらかじめ仕込まれた弓矢に狙われた。これは飛猿が自分がここに来ることを知っていて、既に周到な準備を重ねて待ち受けていたことを意味する。下手に動けば他にどのような罠を仕掛けているか知ったものでない。真っ向勝負をしたのでは俄然不利であることを認めざるを得ない小太郎は、場所を替えて戦わなければ負けることを早くも悟った。かといってむやみに飛び出せば飛猿にチャンスを与えるだけで、「どうも奴とはいつも不利に置かれる機運があるな」と舌を打つ。
 「どうした小太郎! わしが怖くて動けぬか?」
 早くも飛猿は挑発してきた。それに乗って声を挙げれば、自分の居場所を教えることになる。小太郎には敵の出方を待つしかなかった。
 「松の陰に隠れておることは分かっておるぞ。はよ出てこい!」
 居場所を知っていながら次の攻撃を仕掛けてこないのは、ここが安全な場所であるからだと判断した小太郎は、
 「阿呆! その手に乗るか!」
 と声を挙げた。
 「やはり松の陰に隠れておったか」
 「あてずっぽうで言ったのか? 卑怯だぞ猿!」
 「だからお主は青二才と言われるのだ」
 「青二才だと? 誰がそんな事を言った!」
 「わしの周りの者はみ〜んな言っとるわい。幸村様も菖蒲殿も」
 「菖蒲も?」
 会えばつっけんどんだがしおらしい女性の一面を見せる菖蒲が、陰でそんなことを言っていると思ったら無性に腹が立った。なんとか腹の立つことを言い返してやりたい小太郎は、
 「そんなことより、こんな所でわしの相手なんぞしておって良いのか?」
 と言い返した。
 「どういう意味じゃ?」
 「真田安房守はここへは来んぞ! おそらく今頃首をかかれとるわい! 早く戻った方が良いのではないか?」
 「風魔党にか? 阿呆! 昌幸様が風魔ごときにやられるわけがなかろう」
 飛猿は鼻で笑った。
 「どう思おうが勝手だが、風魔の占いでも甲賀が負けるとちゃんと出たわい」
 「占い? おぉ、婆さんに会ったか! 元気にしておったか」
 「元気も元気、性欲も旺盛じゃ。あんたのことも覚えておったぞ」
 「そりゃそうだろう。婆さんの幻術を破ったのはわしが初めてとか言っておったからの。小太郎も見たのか?婆さんの幻術」
 「わしで二人目だそうじゃ」
 「お主も破ったか! なかなかやるではないか」
 「風魔はその幻術を使って安房守を殺るぞ。この情報は菖蒲からもいっていないはずじゃ。わしが鉢形に来てから知り得たものだからな」
 「なぜそれをわしに教える?」
 「もうすでに作戦が決行されたからさ」
 「では、小太郎こそなぜここにおる? その作戦に加えてもらえなかったのか?」
 「わしの任務は赤猿、お前の動きを封じることだ」
 「能天気なやつよのう……婆さんは人の心を覗く。お主がわしらと通じていることはとっくにお見通しのはずじゃ」
 「ではなにか? わしは最初から──」
 「仲間はずれってことだな。風魔党がよそ者に自分たちの戦術の手の内を見せると思うか?」
 小太郎は顔を真っ赤にして「猪助めっ!」と叫んだ。
 「赤猿、こっちからふっかけといて悪いが、この戦い、一時休戦というわけにはゆかぬか?」
 「もとより、わしにはお主と戦う意味が見出せん」
 こうして小太郎と飛猿は、昌幸暗殺計画が実行される末野へと向かう。小太郎は奇しくも飛猿との対決を免れることに成功した。