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雷神の門
> 第1章 > 奴婢の娘
奴婢の娘
はしいろ☆まんぢう作品
峠を越えて最初の村で、とりあえず二人は衣服を手に入れた。衣服といっても奴婢が着るような、目の粗い麻でできた薄汚れた白のパジ赤古里だが、ふんどし一丁姿では寒い上に人目も気になるからないよりましだ。胃袋におさめた二十粒ほどの銀貨も野糞をして取り戻したが、奪われた路銀のことを思うと悔やんでも悔やみきれなかった。
忠清道の中心として栄える忠州まで、普通の人の足なら三日ほどで着くところを、孫六を背負う末蔵は六日かけてようやく到着するのであった。
「分院窯のある広州まではあとどのくらいかかるのかのう?」
末蔵は半分やけくそになって、背中の孫六にこう嘆く。
「漢城府の手前だから、あと五日といったところかな? でもこの速さだから十日はくだらんだろう。ほれ、もうちと早く歩け、歩け―――」
口ばかり達者で、自ら歩こうとしない孫六の態度に頭にきた末蔵は彼を抛り投げた。
「いたたたた……こら、何をする! 老人を労わらぬ狼藉者は朝鮮を追い出すぞ!」
「この助兵衛じじいめ、老人が聞いて呆れるわい!」
と、そこに突如として女の泣き叫ぶ声がした。
何事かと目をやれば、一軒のあばら家から、まだ年端もいかない十五、六の薄汚れた小娘を強引に連れ出す、道袍や中致莫を着た官人らしき数人の男たちが出て来た。その後を追いかけるように白い赤古里を着たこれも汚れた中年の女が飛び出して、何か叫びながら官人の足にしがみつく。すると別の官人が容赦なくその女を蹴りつけた。
「オンマ!オンマ!」
と泣き叫ぶ小娘の様子はやはり尋常でない。官人も大声で何か怒鳴っているが、中年の女は同じ言葉をわめいて頭を下げるだけで、道行く者は見て見ぬ振りをして通り過ぎるだけだった。
「何をもめておる?」
末蔵は孫六に聞いた。孫六は先ほどの官人の大声から、すっかり事の概要を掴んでいる。
「紅い衣を着た男がおるじゃろ?あいつは両班じゃ。どうも屋敷の屋根の修繕をしたらしい。その修繕費を払わなければならないので娘を連れて行くと言っておるな。この娘なら容姿が良いから高く売れるとさ」
「家の修繕費のためにあの娘を売るつもりなのか?」
「あの母親と娘はおそらく白丁だろう。あの両班の所有物だからどうにもならんよ。さあ、行こう、触らぬ神に祟りなしじゃ……」
孫六が歩き出したとき、更に甲高い娘の悲鳴が鳴り響いた。官人の一人が刀を抜いて、母親の首を斬りつけたのだ。おそらくあの様子では即死だろう、娘は両班の腕を振り切り母親の背中にしがみついて「オンマ!」と泣き叫ぶ。
「白丁を殺しても罪にはならぬ。可哀想なことだ……」
そう呟く孫六の脇を、風のように駆け抜けたのは末蔵であった。
「バカっ! やめろっ!」
と言った時には、体当たりで両班を突き飛ばし、末蔵は娘を守るような格好で構えている。突然なにが起こったか分からない官人達も、おのおの刀や護身用の武器を手にして身構えた。
「あの馬鹿め! 厄介を起こしやがって」と孫六は迷惑そうに騒ぎの方へ寄って行った。
末蔵は泣き叫ぶ娘に「よいか、逃げるぞ!」と言った。そこへやって来た孫六が、
「いやはや、すみませんねえ、こいつはアホな倭国の男で、この国の習いを全くわきまえません。娘は返しますのでどうかご勘弁を」
と朝鮮語で弁解したところが、着ていた服が悪かった。完全に白丁と誤解された孫六は、刀を持った一人に頭をかち割られて激しく血しぶきをあげ倒れた。
驚いた末蔵は「孫六爺!」と叫んだが遅く、既に孫六は息耐えた。末蔵は刀を持った男をキッと睨みつけると、刀を振り下ろすより早く懐に飛び込んで頭突きをかませば、男は後方へ吹っ飛んで、その隙に娘の手を強引に掴んだと思うと、そのまま韋駄天の如く逃げ出した。両班の男は真っ赤な顔で激怒して、
「逃すな!ひっとらえろ!」
と叫ぶと、瞬く間に周囲は捕り物帖さながらの大活劇が始まった。
驚くのは先ほどの騒ぎは見向きもしないで通り過ぎた者達が、まるでゾンビにでもなったように襲ってくる事である。およそ褒美を目当てに両班に加担する中人、常民階級の者達であろう。末蔵はそれを押しのけへし分け、辻を曲がった深い藪の中に娘もろとも逃げ込んだ。
「どこへ行きやがった?」
という朝鮮語が、潜む藪の中に聞こえた。
「この藪の中に紛れたんじゃないか?」
末蔵は息をひそめ、まだ泣き止まない娘の口を押さえ、敵を欺くために咄嗟にコオロギやキリギリスの鳴き真似をした。冷静に考えればこの時季に鳴くはずのない虫だが、そのあまりのリアルさに疑う者はいない。
「虫が鳴いているぞ?」
「人がいれば虫は警戒して静まるはずだ」
「ここにはいない、あっちだ!」
と、なんとかその場を切り抜けたのだった。末蔵はほっと溜息をついた。
「いま動くのは危険だ。暗くなるまでここで待とう」
末蔵は小さな声で言ったが、日本語が通じるはずはない。
娘はひどく怯えている。さもあろう、いきなり両班に連れ去られようとしたばかりか、目の前で母親を殺され、挙句にどこの誰だか分からぬ男に拉致されたのである。恐怖と悲しみと不安の感情がごっちゃになって、気が動転して泣くしかないのだ。
末蔵は孫六に教わった片言の朝鮮語を思い出した。
「ケンチャナヨ?(大丈夫か?)」
すると娘は、泣き腫らした透き通った両目を末蔵に向けた。その怯える瞳からこぼれ落ちる涙の通り道は、痩せた二つの頬を土で真っ黒に汚していた。末蔵はにっこり微笑むと、腰の竹筒に入った水を自分の赤古里の袖にしみ込ませた。
なぜ竹の水筒を持っているかといえば、山賊に襲われ丸裸にされた後、峠道を歩きながら黒曜石や珪質頁岩、あるいはチャートやサヌカイトやガラス質の安山岩などの石を探して、割って刃物の換わりにし、次に竹林を見つけた時に、その竹を切って作ったのである。これも伊賀で習ったサバイバル術だが、水で湿らせた袖を雑巾の換わりにして汚い娘の頬の土を拭き取れば、次第に若さ特有のきめ細かな白い肌を覗かせて、頬に続いて鼻や額や耳などの泥も拭きとってやれば、すっかり綺麗な生娘の顔になった。
末蔵は瞠目した―――。
以前孫六が「婢女は磨けば女になる」と言ったのは本当だと思った。その幼さの残る表情に楊貴妃のような美しさを見たのである。
「密陽……」
と思わず呟いたのは、あの密陽の峠を越える時、ずっと頭の中で鳴っていた密陽アリランに詠われた奴婢の娘のイメージが、たったいまさっき母親を殺され、まさに売られようとしていた目の前のこの美しい娘と重なったからだった。
「水、飲むか?」
「…………イェ(예)」
不思議と言葉が通じた。娘は、末蔵が敵でないことを知り、竹筒の口をそっと唇に添え、その桜のような唇から静かに水を含むと、小さな音をたてて飲み込んだ。すると突然なにかを思い出したように、
「어머니의 곳에 가지 않으면」
と呟いたと思うと、藪の中から飛び出そうと体を起こした。言葉は分からないが、母親のところへ行こうとしているのだとすぐに察した末蔵は慌てて抱き止めた。
「いま出て行ったら捕まって売られてしまうぞ。暗くなるまで待て」
暫く娘は末蔵の腕の中から抜け出そうと暴れていたが、そのうち無理だと諦めると、やがて彼の腕に顔をうずめて再び泣き出した。末蔵はその生娘の細い身体を押さえつけるように抱いたまま、名前も知らないその娘をいつしか“密陽”と呼んでいた。
やがて日が暮れ夜の帳が降りると、藪の中から顔を出した末蔵は密陽に「いくぞ」と言った。密陽は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「母のところへ行くのではないのか? 俺も孫六のことが無念でならぬ」
密陽の手を引いて路地に出た末蔵は、周囲を警戒しながら昼間騒ぎがあった現場へと向かった。町中は忠清道在住の捕盗庁の役人と思われる武装した男達が出歩いており、密陽と末蔵を血眼になって探していた。この様子では既に京畿道へ通じる国境沿いも封鎖されているに違いない。末蔵は建物や雑木林に身を隠しながら密陽の家の前へ近づいたが、そこにも二人ほどの捕卒(警官)が見張っており、死体は既に片付けられていた。
すると密陽が末蔵の手を引き走り出した。連れられて着いた場所が死体置き場である。そこには既に白骨化したものから腐って異臭を放つもの、およそ理由もなく殺された白丁達の墓場に相違ない。その中に無造作に投げ捨てられた孫六の死体を見つけた末蔵は駆け寄って「助けてやれずにすまなんだ」と黙祷して合掌すると、隣には同じく密陽の母親が捨てられており、密陽は死体に抱き着いて号泣した。
「これからどうする?」
末蔵は密陽の肩を叩いて言ったが、密陽は「逃げてもムダよ!」とまた泣いた。不思議なもので、特定の言葉を引き出すような特別な状況もあるのだろうが、彼女の話す朝鮮語が末蔵には解かった。
すると背後が俄かに明るくなったと思うと、松明を手にした五、六人の捕卒が「いたぞ!」とばかりに現れたので、咄嗟に密陽の手を引っ張って逃げ出した末蔵だが、一瞬遅く、二人はその捕り物役人達に取り囲まれた。
「わしらをどうするつもりじゃ!」と末蔵が叫んだ。
捕卒達は聞いたこともない言葉に首を傾げて顔を見合わせたが、やがて「言わずと知れたこと!」と言うように刀を引き抜いて末蔵めがけて襲う。末蔵は観念して密陽をかばって顔を伏せた―――。
そのときだった。
刀を振り下ろす捕卒の腕に、閃光のような矢が突き刺さったのは。捕卒は悲鳴を挙げてうずくまったが、振りむいた末蔵が次に見たのは信じ難い光景だった。忘れもしない聞慶鳥嶺の峠で遭遇したあの山賊達と同じような格好をした盗賊団だったのだ。盗賊団と思ったのは、みな明らかに役人とは思えない服装をしており、かといって賤民のようなみすぼらしい格好をしている訳でなく、何より刀や弓などを手にした二、三十人ほどの男達は、徒党を組んで捕卒達を取り囲んでいたからである。
五、六人の捕卒達は恐れをなしたように後ずさりし、逃げようとしたところを盗賊団に取り押さえられた。盗賊団の中から姿を現したのは、顎髭を蓄えた四十前後の逞しげな男である。しかしその鋭い眼光には何かに情熱を傾ける憎しみにも似た悲しい気配が宿っていた。筆者は朝鮮語が分からないので、ここからはセリフを日本語に翻訳して続けるとしよう。
「私は林巨正の嫡子、林百姓と申す! 白丁の民を苦しめる横暴を見るに見兼ねて参上した!」
その名乗りを聞いた盗賊団は、申し合わせてでもいるかのように、捉えた捕卒達の武器や服を根こそぎ奪い取ると、林百姓と名乗った男の足元にその戦利品を積み上げた。
「さっそくこの品を布に換え、貧しき者達に分け与えるがよい!」
「はいっ!」
と、部下の数人の盗賊はそれらを抱えて闇の中へ消えてしまった。
さて、この林百姓という男であるが、いわゆる義賊と呼ばれる者の類である。日本にも石川五右衛門や鼠小僧次郎吉、近年ではルパン三世という善を成す盗賊がいるように、李氏朝鮮にもそれに当たる英雄がいる。先ほど林百姓は、自分の祖父は林巨正であると名乗ったが、彼こそがその一人である。
林巨正は白丁出身の盗賊で、一五五九年というからこの小説の三十年ほど前、貴族や政府の圧制に苦しむ農民以下の下級層を組織して反乱を巻き起こした英雄である。いわゆるこれが林巨正の乱と言われるものだが、反乱は黄海道を中心に京畿道、平安道、江原道へと拡大したが、やがて官軍の大規模な討伐により鎮圧され、最後は捕らえられて処刑される。
また洪吉童がいる。
彼は実在の人物ではなく、一六〇七年ごろ許筠という文人によって書かれたハングル文字最古の小説と言われる『洪吉童伝』の主人公である。設定は、貴族の家には生まれるのだが、母親がいわゆる奴婢の女中であったため身分が卑しく、やがて家を捨て“遁甲法”という怪しげな術を覚え、山賊団を束ねて“活貧党”の首領となる。そして貴族や役人達を懲らしめ、奪った金品を貧民に分け与えるのである。自分を捉えに来た刺客を惑わしたり、八人の分身を作ったりする法術は忍者にも似たようなものがあるが、空を飛ぶに至っては孫悟空も真っ青だ。
さらに時代を進めれば張吉山である。
彼は十七世紀後半の実在の人物であるが、面白いのは普段は旅芸人であるが、裏の顔が剣契と言われる賤民達の秘密結社の頭というから“必殺!仕事人”を彷彿とさせる。芸人職は当時は賤民階級であり、やはりこの英雄も最低の身分でありながら権力に立ち向かうという構図は他の二人と同じで、この三人がいわゆる“朝鮮三大盗賊”と言われている。
やがて、林百姓と名乗った男は末蔵を一瞥し、
「命は大切にされよ」
と言い残して立ち去ろうとした。
「お待ちください!」
末蔵は林百姓の足元へ駆けていき、お礼を述べて続けた。
「私の名は百地末蔵と申します。高麗茶碗の作り方を学ぶため、日本から海を渡って参りました。ところが釜山から広州の分院窯に行く途中、賊に襲われ身ぐるみ剥がされ、この町に着いたところで、この娘が身売りされ泣き叫ぶところを見かけました。我慢ならずに助けたところがこの有様です。通訳の爺さんも殺されました。どうか私を広州まで連れて行って下さい!」
無論、言葉が通じるはずもない。林百姓は「誰か、この男が言っている意味が分かる者はおらぬか?」と盗賊団の者達に言ったが、異国語が分かる者などいるはずもない。
林百姓は、今度は密陽に向かって「この男はお前の何だ?」と聞いた。
密陽は末蔵を見つめると、
「母が殺され、私も殺されかけたところを、この男に命を助けられました」
と答えた。
「この男はなぜ、白丁であるお前を助けたのか?」
「分かりません……ただ、この方は朝鮮の民ではありません」
「朝鮮の人間ではないとするとどこの国の者だ? 明国か、それとも倭人か?」
“倭人”という単語に末蔵は反応した。孫六から日本人のことを“ウオジェン”と言う事を学習していたのだ。
「そうだ! 俺は倭人だ! 海を渡ってここに来た!」
林百姓は「倭人?」と呟くと、末蔵の顔をじっと見つめた。朝鮮人にとっては軽蔑する存在ではあっても敬う対象ではない。林百姓は再び密陽に向かってこう言った。
「両班に逆らったとあらばもはや生きてはいけぬぞ。これからどうするつもりだ?」
密陽は何も答えず再び末蔵の顔を見つめた。その瞳がどうすれば良いか聞いていた。
「とりあえず今はこの人に匿ってもらうしかなかろう」
末蔵の言葉を理解したのかは分からないが、密陽は静かに立ち上がると、
「どうか私たちを匿ってください」
と頭を下げた。
こうして末蔵と密陽は、林百姓が率いる盗賊団に伴って南漢江を渡り、およそ京畿道と忠清道と江原道の堺が交差する原州の雉岳山は、人目の届かない山奥のアジトに身を隠すことになったのであった。そこはちょっとした集落になっており、女もいれば子供もいた。なので密陽は林百姓の妻が住む家で預かってもらうことにし、末蔵は一角に小さな家を建ててもらい暫く住むことにしたのだ。ここで朝鮮語を覚え、一刻も早く広州の分院窯へ行かねばならないと考えた。
陶芸家を目指すつもりの末蔵の命運は、こうして思わぬ方向へと導かれていくのであった。
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