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大音楽会
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(三)壁の向こう側
連日残業である。
愛は独り皓々と灯りの点いた4年敬組の教室にこもり、ようやく今日終えた国語の単元テストの採点をしながら、深いため息を落とした。明日の授業では答え合わせの復習をし、早々に次の単元に進まなければどんどん遅れていくばかりである。この仕事が終わったら、新しい単元への導入と進め方について考えなければいけないのに、手にした赤いペン先は遅々として進まない。城柳に言われた事がショックで、余計なことばかり頭の中を巡って、どうにも手につかないのである。
教師用のデスクの上に置いたピンクの水筒のお茶を口に含んだ時、ふと、東側の隣の教室から大きな物音がした。まだ現在ほど少子化が騒がれていない頃、この小学校には敬組、愛組のほかにもう一つ信組という学級があった。近年では児童数の減少で愛組すら作れない学年もあるが、そうして使われなくなった空き教室は、相談室とか自習室として特定の教師の管理下にないただの空き部屋と化している。
物音がした東側の教室は、現在社会科の授業で活用されることを意図した郷土資料室になっており、そこには地域の住民たちから寄贈された大昔の農機具やら機織り機やら、ボロボロの幟やら提灯やら、中には古文書のような書物もいくつか展示されていた。その歴史的な価値についてはとんと不明であるが、中でも子ども達の目を引いたのは江戸時代に使われていたとされるお殿様が乗るような実物の輿で、装飾などはほとんど真っ黒になってはいたが、日本の歴史を感じさせるには十分な代物ではある。物音は確かにその郷土資料室から確かに聞こえたのだ。
愛はドキリと目を丸くした。
「鈴木先生かしら?」
しかし鈴木先生の4年愛組の教室は西側にあり、しかも彼は「今日は用事があるから」と言って既に帰宅したはずだった。
ひょっとしたら家に帰らない子どもが潜んでいることも考えられたし、最悪の場合は泥棒が忍び込んでいることも想像できた。愛はそろりそろりと立ち上がって敬組の教室を出ると、隣の郷土資料室の扉を恐る恐る開けた。中は真っ暗──。
「誰かいますか〜? 誰もいませんか〜? 電気点けますよ〜?」
愛は入り口近くに据え付けられている教室の電気スイッチを押した。蛍光灯がカチカチッと音を立てて室内を明るくすると、果たして中には誰もいない。
「気のせい……?」
ほっと胸をなで下ろして電気を消そうとした刹那、
「ほっといて下さい!」
大きな声に仰天した愛は、「キャッ!」と悲鳴を挙げて廊下に尻餅をついた。すぐに職員室へ助けを求めに走ろうとしたが、驚愕のあまり腰が抜けてしまったようで動けない。そして咄嗟に出た言葉が「ごめんなさい!」だった。
「桜田先生……」と力のない声で、狭い輿の中で体育座りをしてこちらを見ていたのは赤坂ジョニー先生だった。愛は激しい心臓の鼓動が落ち着くのを待って彼の所へ近づこうとしたが、どうにも腰に力が入らずに暫くそのままの格好でいるしかない。その様子を不審に思ったジョニー先生は、「どうしました?」ときまり悪そうに聞いた。
「こ、腰が……」
本当なら自分の方が慰めてほしかったジョニー先生だったが、あまりに桜田先生が気の毒だったので、もう少し独りでいたかったところを天の岩戸から天照大神が姿を現わすように、輿の中からのっそり出てきて、愛の体を引き起し「大丈夫ですか?」と郷土資料室にある椅子に座らせた。
彼が真っ暗なこの部屋に一人でいたのは、「この郷土資料室にいると妙に心が落ち着くのだ」という理由からだった。気分が滅入った時など、たまにこの部屋に来ては展示物を眺めるのだと言いながら、千歯扱きや足踏み式の脱穀機や唐箕と呼ばれる穀類の選別機など、展示してあるいくつかの農機具の使い方を楽しそうに説明した。理科の先生だというのにその知識が専門的なことに驚かされるが、それ以前に欧米人の容姿をして日本の歴史を語るミスマッチに滑稽さが漂っている。
「赤坂先生は理科の先生ですよね。社会科の先生になればよかったのに」
「それは違います、この農具の仕組みを見て下さい。実によくできている。このカムとクランクの仕組みなどそのまま理科の教材になります」
ジョニー先生は教育の持論を語り始める。今の学校教育は局部的な知識を身に付けることばかりに一生懸命で、全体の大切さを教えようとしない。算数だったら数のことばかり、国語だったら言葉のことばかり、理科と社会にしても然り、図工も音楽も体育も、その分野のことばかりに固執して、子ども達は得た知識が生活の中でどのように役立っているのか知らないまま大人になってしまう。でも実際生きるということは、この農機具のように、あらゆる分野の知識の結晶として生活の中で活かされなければいけないのだ。
「それが知恵だと思うんだ―――」
しかし社会全体が知識偏重主義に陥っていて、何でもかんでもマニュアル、マニュアルと言って、形さえ作ってしまえば全体が機能すると思い込んでいる。そうして形成されたがんじがらめのシステム社会では、知恵重視の大切さに気づいても実現しようにも不可能なのだ。
「やがて人間は心を失い、人類の未来は絶望的になるだろう―――」
とジョニー先生は熱く語った。
愛はやりかけの採点をしなければと、刻々と過ぎていく時間を気にしながら、
「じゃ、私、仕事がありますから」
と、動けるようになった腰をさすりながら立ち上がった時、再びジョニー先生は、
「ぼかあ間違ってるのだろうか?」
と、いきなり愛の腕を掴んで引き留めた。
「ぼくは個人的な趣味趣向を子ども達に押し付けてなんかいないんだ! 僕は心躍り、愉快になり、子ども達が演奏して元気になるような、僕が純粋に良いと思った曲を勧めただけなのに、それが教育に対する冒涜になるのかい? 桜田先生、教えてくれ!」
ジョニー先生が独りで暗い郷土資料室の古い輿の中にこもっていた本当の理由はこれだった。職員会で野際先生に言われた心無い一言に、滅茶苦茶落ち込んでいたのだ。どおりで城柳先生を見送ったときにすれ違った彼は元気がなかったわけで、見かけによらず繊細な心の持ち主なのだと、愛は気の毒そうにその俯きがちな表情を見つめた。
「そういう強い思いを持って決めたのなら、絶対まちがっていないと思います。子ども達にはきっと伝わるはずですよ」
「どうしてそんなことが言えるんだい? 桜田先生に僕の気持なんかわからないよ……」
ジョニー先生は目に涙をためて叫んだ。
「なぜガッチャマンがいけないのだ? なぜルパン三世がいけないのだ? いっそベートーベンでもやればいいって言うのか!」
ベートーベンと聞いて、愛は昼間、城柳先生に音楽会で第九をやりたいと言って断られた事を思い出した。すると「ちょっと待って」と、4年敬組の教室から昼間訳したシラーの「アン・ディ・フロイデ」の日本語訳を書いた紙を持って来てジョニー先生に見せた。
『喜びよ! 麗しき火花の閃光よ! エーリュシオンの乙女たちよ!
僕らは炎に酔いしれながら、あなたのいる聖地へ至ろう!
人類の歴史が分断してきたものを、あなたの不思議な法力は再び結びつけるのだ!
その柔らかな翼が憩う場所で、すべての人々は兄弟となる!』……
「なんだい、これは?」
「ベートーベンの第九。シラーの詩を翻訳してみたの。本当はもっと宗教色が強い部分もあるのだけど、日本人にはちょっと解かりにくいと思って変えてみたんだ」
「これがどうかしたの?」
「実は……」と愛は、翻訳した経緯と城柳に馬鹿にされた昼間の出来事を悔しそうに話し始めた。
「城柳先生がそんなことを? 職員会で“音楽に垣根はない”と言った人の言葉とは思えないな」
「赤坂先生もそう思いますよね?」
愛は共感してくれる人間の出現に、思わず手を握って涙目で彼を見つめた。
その無垢で健気な瞳が、ジョニー先生にとっては穢れなき“エーリュシオンの乙女”に見えた。ギリシア神話に登場するその楽園の名は”エーリュシオン”──フランス語では”シャンゼリゼ”と言う。突然彼の頭の中で、名曲『オー・シャンゼリゼ』が鳴り出した。すると顔を真っ赤に染めて、落ち込んでいたことなどすっかり忘れ、
「僕に任せて下さい。城柳先生を説得してみます!」
と、出まかせを口走ったのだった。
「無理よ。城柳先生、子供たちから何て呼ばれているか知ってる? 鉄仮面よ! なんでか知らないけど心が氷のように冷たいの。私なんか何度”バカ”って言われたか分からない……」
「そいつは許せない! 桜田先生はバカなんかじゃありません、純粋なだけです。ひとつ僕が抗議して、その言葉を撤回させてみせます!」
「もういいの……今回の音楽会は第九は諦めて、全部城柳先生にお任せしようと思います」
「それはいけない、桜田先生のクラスじゃないですか。話せばきっと分かってくれますよ。この詩にもあるじゃないですか、”すべての人々は兄弟”だって!」
と翌日、意気込んで城柳へ交渉に当たったジョニー先生だった。ところが二時間目の休み時間、ガクリと肩を落として暗くなっている彼を見付けた愛は、「どうでした?」と慰めるように声をかけた。
「聞いて下さいよ、桜田先生!」
涙目のジョニー先生が語るにはこうだった──朝の職員会が終わり一時間目は城柳先生もジョニー先生も空き時間だったので、チャンスと思って「お話しがあるのですが」と切り出したのだと言う。するといつもの淡々とした調子で、
「どうして理科の赤坂先生が4年敬組の音楽会の心配をするのですか?」
と息もつかせない早さで返された。言葉に窮したジョニー先生は、知り得る限りのベートーベンのうんちくを述べ始めたが、
「もしかして桜田先生に頼まれた? でなければ桜田先生に気があるの?」
図星のジョニー先生は白い顔をピンクに染めて、水面に口をパクパクさせる鯉のようになってしまった。
「あなたは吹奏楽でルパン三世を練習していればいいじゃない。各クラスの音楽会の指導は私の仕事ですので、余計な口出しはしないで下さる?」
と、あっけなく撃沈されてしまったのだと言う。当然桜田先生に気があるという話までは伝えなかったが、ジョニー先生には最後に言った城柳先生の言葉が気になっていた。
「ひとつ忠告しといてあげる。職場の恋愛はやめておきなさい、特に教職員は。火傷どころではすまなくなるから」
彼女はそう言い残して職員室を出て行ったのだった。
その時の情景を思い浮かべながら、ジョニー先生は愛を見つめてすまなそうにこう言った。
「城柳先生との間に、とても分厚い壁を感じてしまいました。しょせん人間なんて、心に壁を作る動物なんですよ……。城柳先生は音楽に垣根なんかないって言ったけど、もし垣根を持たない人間がいたとしたら、それは神か仏ですよ──」
そうかも知れないと愛も思った。
「すみません、余計なご心配をかけてしまって。第九はもう諦めます……」
そう呟いた愛を叱責するように、
「僕はあきらめないよ!」
弱気だったジョニー先生の口から思いがけない力強い言葉が飛び出した。思わず愛は「えっ?」と声を挙げた。
「僕には産業革命で世界を席巻したイギリス人の誇りがあるのです。こんなことでは諦めません! 僕と一緒に戦いませんか?」
「戦う? って、何と?」
「あらゆる抑圧とですよ! ベートーベンの『第九』は人間生命解放の『歓びの歌』だってことは僕にだって分かる。その喜びを子ども達にも味あわせてあげたいという桜田先生の気持もよーく分かります。それを挑戦もさせないで端から無理だと決めつける了見があるものか。それこそ子どもの可能性の芽を摘み取る教育に対する冒涜じゃないですか?」
「あのお、私、そんなこと言ってませんけど……」
「言わなくても分かります。現実社会、子ども達を取り巻いているのは彼らの可能性を蝕む抑圧ばかりだ。子どもだけじゃない、我々大人だってそうさ。無理な仕事からの抑圧、人間関係の抑圧、権力からの抑圧、法や制度からの抑圧、時間の抑圧──がんじがらめで息が詰まりそうだ。今こそ『第九』を歌う時なんだ!」
ジョニー先生の勢いに押されて、言い出しっぺの愛の方が唖然と「はあ……」と答えたのみだった。
「とりあえず城柳先生を説得する策を考えますので、僕に少し時間をください。それまで桜田先生は、城柳先生に何を聞かれても『第九をやります』の一点張りで踏ん張ってくださいね!」
ちょうど三時間目始業のチャイムが鳴ると、ジョニー先生は鼻歌を歌いながら理科室へと出て行った。
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