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(二)吹奏楽部とPTAコーラス


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 放課後といえば北校舎の二階にある多目的教室からは、いつも吹奏楽部の奏でるトロンボーンとかトランペット、あるいはホルンとかユーフォニューム、クラリネットやサックスの高い突拍子もない音や、チューバの低い音や小太鼓など、思い思いの音を出して騒々しいと思われる時間が暫く続く。本来なら音楽室で行われるべき吹奏楽部の練習であるが、この小学校の建設当初からの設計ミスか、音楽室は職員室の真上に作られたものだから、午後の職員会議の日などうるさくて仕方がない。そこでいつからか彼らの練習場所は、職員室から離れたそこへ追いやられたのである。
 吹奏楽部は、音楽関係の有志によるクラブ活動であるから、本来音楽教師がその顧問を務めるところであるが、蛍ヶ丘小学校の場合少し違っていた。というのも二年前に音楽科の城柳鉄子先生が赴任して来た際、
 「吹奏楽は教育課程外活動であるから、音楽専科だからといって私が顧問を務める義務はない」
 と言って、かたくなに拒んだことによる。困った学校側は代わりの先生を当たったわけだが、そのとき自ら手を挙げたのが赤坂ジョニー先生だった。彼は無類の音楽好きだったが、彼を知る教師達は例外なく首を傾げた。学期末の打ち上げや学校行事のご苦労さん会等、先生同士で飲みに行く機会も多くあったが、二次会でカラオケのあるスナックに行けば、マイクを握ったまま放さないのが彼であり、それだけならまだしも、決定的に音楽指導者には向いていないと思わせたのは彼が音痴であることだった。
 心配になった烏山校長は、
 「赤坂先生は理科のご専門ですが……」
 と言いかけたが、端からやる気満々のジョニー先生は「お任せ下さい!」と丸め込んでしまったのである。とはいえ他に音楽指導などできる者もないから、以来彼が蛍ヶ丘小学校吹奏楽部の顧問ということになった。
 そればかりでない。学校運営においてはPTA活動も大きな役割を担う。いわゆる保護者(Parent)と教職員(Teacher)からなる団体(Association)という意味の頭文字をとった組織であるが、その活動の一つにPTAコーラスが存在した。校内音楽会を目指して保護者の有志が集まり、当日は子ども達と同等にステージ上で練習の成果を発表する。しかも蛍ヶ丘小学校のある須坂市を含む小布施町と高山村を包括する須高地区と称される地域では、毎年恒例で郡市PTA音楽祭というPTA主催の極めて特殊な催しが行われているものだから、各小中学校の力の入れようも相当なものだったのだ。例年だと一学期が始まり間もない五月の中旬ごろから月に一、二回の練習を重ね、本番まであと二週間と迫れば、練習のペースは更に増えた。
 そのPTAコーラスの指導においても、城柳鉄子先生は吹奏楽同様の理由で簡単に断った。そのとき再び手を挙げたのが赤坂ジョニー先生であり、彼はそこでも顧問におさまった。
 背が高く欧米人の風貌をした彼は、瞬く間に若いお母さん方の人気の的となったが、音楽指導の実力の方は甚だ怪しいものである。
 音痴ではあるが、無類の音楽好きというのは本当のようで、ただし好みのジャンルを問えば、迷わず歌謡曲とかアニソンと答えただろう。昨年度のPTA主催の送別会などでは、PTAコーラスのお母さん方に誘われるまま二次会にも参加していたが、そこで気持ちよさそうに歌ったのが北島三郎で、欧米人の容姿をした音をはずした彼の演歌は、若いママさん達を大喜びさせていた。その程度ならまだかわいいが、今年度の吹奏楽部の課題曲として選んだのも「いきものがかり」と「AKB48」の楽曲で、子ども達からは大きな支持を集めているが、教師の立場からすれば、そのうちパンクとかロックンロールとか言い出して、教育の領域を逸するのではないかとひやひやしながら見守っていた。
 案の定、この日の職員会議で、校内音楽会で吹奏楽部が演奏する曲目が「ガッチャマン」と「ルパン三世のテーマ」に決まったと報告されたとき、年配の教師陣からはいよいよ疑問の声が挙がりはじめたのである。ガッチャマンとは1970年代に放送されたテレビアニメのことで、当然その頃といえば今の子ども達どころかジョニー先生もまだ生まれていない。古参の職員たちは、
 誰も知らない昔のアニメソングを取り扱う意味はどこにあるのか?
 個人的な趣味を教育の現場に持ち込むのはどうか?
 と言うのである。ちなみに今年の音楽会でPTAコーラスが歌う予定の曲目も「きゃりーぱみゅぱみゅ」と「EXILE」の楽曲で、年配教師陣は“きゃりーぱみゅぱみゅ”を“きゃりーぱむぱむ”と言ったり“チャリーパミパミ”と言ったり、呂律の回らないみょうちくんな名前に振り回されながら、「モルダウとか大地讃頌とか、子どものお手本になるような、学校で歌うのに相応しい曲がもっとほかにもあるだろう」と付け加えた。
 そんな論議のさ中においても、城柳先生は自分とは無関係だといった様子で、ずっと下を向いたままだった。その様子を見かねて、ついに校長の烏山周一先生は、彼女に発言の場を与えたのだった。
 「城柳先生はどうお考えですか?」
 職員会議に参加することは学校で教師をする者の義務である。さすがに吹奏楽部とPTAコーラスの顧問を断った時のような理由は通用しない。果たしてどんな発言をするのだろうと、先生達の視線が一斉に鉄子に集まった。
 「音楽に垣根を作るのは間違いだと思います。音楽はすべての人間に与えられた権利です。垣根を作るその心こそ、教育者としての資質を問うべきではないでしょうか」
 瞬転、職員室は緊迫した空気を孕んでシンと静まり返った。あまりに正論と思われる意見に皆次の言葉を失ったのだ。単純な桜田愛先生などは、“バカ”と言われた悔しさなど一瞬にして忘れて、その崇高な理念に心酔してしまった。
 それまで赤坂ジョニー先生を批判的に言っていた中心人物の野際勝次郎先生は、ふと巻き返しを図ろうと、「そういう事を言ってるんじゃないんだよ」と反駁した。
 「音楽は万人の権利なんて当前じゃないですか。私達は赤坂先生が個人的な趣味趣向で自分が選曲したものを子ども達に押し付けている疑いがあると言ってるんです。それこそ教育に対する冒涜じゃないかね?」
 教頭そして校長への昇進を密かに目指す野際先生は6学年の学年主任である。やや思い込みが激しいのが欠点で、こうと決めたらそれが間違っていたとしてもなかなか非を認めない。よく政治家の討論にありがちな、論点をはぐらかせ、議論を自分の得意な土俵に持ち込む話術に長けていた。名門大学出のゆわゆるインテリ意識はなんとも始末に負えないものだと、若い先生方は皆思った。ジョニー先生は反論した。
 「僕は個人的な趣味趣向を押し付けたつもりはありません。現にいくつかの曲を提示した上で決定しました。子ども達に聞けば分かります! それにPTAコーラスで歌う曲についても、コーラス委員さんを中心に話し合いで決めました。それをそんな言われ方をしたら誰だって怒りますよ!」
 それに対するベテラン野際先生の言葉はあまりに穏やかだった。
 「ここは協議の場だ。そう感情的になったら話し合いにならないじゃないか。ならば聞きますが、赤坂先生は今、子ども達にいくつかの曲を提示して決めたとおっしゃいましたが、そのいくつかの曲とは何と何と何でしょうか?」
 「それは……」と、ジョニー先生は言葉を詰まらせた。
 「ほれみたまえ、どうせマジンガーZだとかドラゴンボールだとかワンピースだとか言うのだろう。私はそれを言っているのだ」
 ワンピースを引き合いに出されて、今度はまさに音楽会でそれをやろうとしている4年愛組の鈴木豊先生がたまらず声を挙げた。
 「ちょっと待って下さい! ワンピースがなぜいけないのですか? あのアニメのテーマは友情です。子ども達もみんな大好きで、興味、関心を引き出すには最高の題材であり、いま私のクラスでは全員の力を一つにして大成功させようという気運が高まっています。それを否定されたくありません!」
 「なにもそんな事は言ってないよ」と、職員会議はやがて騒然となった。その言い争いの空気に耐えられなくなった桜田愛は根っからの平和主義者だった。思わず、
 「あのお!」
 と叫んで立ち上がった。口々に言い争いをしていた先生方は、突然立ち上がった新米女性教師がいったい何を言い出すのかと、しばし口を開くのをやめて鋭い視線の矢を放った。その威圧感に圧倒された愛は、暫くもじもじしていたが、やがて、
 「なんでもありません……」
 と言って座ってしまった。
 「かまいませんよ桜田先生、なんでもおっしゃってご覧なさい。ここにいる先生方は全員人格者です。あなたを取って食べようなんて思っている人は一人もいませんから」
 そう優しく包み込んだのは烏山校長である。その温かい笑みに勇気を奮い起こした愛は、思いのたけを声を震わせながら一気に述べた。
 「話がすり替わっていると思います。さっき城柳先生は“心”の話をしようとしたのです。なのに皆さんは、方法ややり方の話ばかりしています。もしかしたらそのやり方や方法の中に心があるのかも知れませんが、私はバカなので全然見えないんです……すみません、それだけです」
 そう言うと顔を真っ赤にして俯いた。
 「どうですか?城柳先生、音楽科の立場から何か意見はありますか?」
 烏山校長は再び城柳に振った。
 「いえ、特にありません」
 烏山は悲しそうな目をした。
 「どうでしょうか皆さん、吹奏楽の件につきましては既に赤坂先生に一任した事です。ここは赤坂先生を信頼して温かく見守ろうではありませんか。異議がなければ次の議題に移りますが、よろしいですか?」
 こうしてひと騒動を醸し出したその日の職員会議は終わる。
 城柳はそそくさと帰り自宅を始めたと思うと、誰よりも早く職員室を出た。その姿を見た愛は、慌ててその背中を追いかけ、
 「城柳先生!」
 と呼び止めた。彼女は事務室の壁にある出欠のネームプレートを裏返すところで、
 「なにか用かしら? 忙しいんだけど」
 迷惑そうに振り向いた。別に忙しくなどない。早く帰って横になりたいだけなのだ。すると愛は目をらんらんと輝かせ、
 「私、ものすごく感動しちゃいました、さっきの発言!」
 と言って城柳の手を握ると、彼女はその手を奇異な表情で睨みつけたと思うと、まるで汚物にでも触ってしまったかのように振り払った。愛はそんなことなどおかまいなしに、
 「垣根を作るその心こそ問題だって、本当にその通りだと思います! いじめもそう、垣根を作る心が根本問題だったんですね。まさに教育の神髄です、目から鱗です!」
 「あなた、バカ?」
 城柳はまるで冷めた口調で昼間に言ったのと同じセリフを口にした。しかし楽天的な愛は、それが彼女の社交辞令なのだと思って今度は気にもとめなかった。
 「音楽って深いんですね! 私、てっきり城柳先生って冷たい人かと誤解してました」
 「あんたは手の施しようのないバカだ。あの場面で“どうぞ勝手にやってください”なんて言えるわけないでしょう。私は観念論を言っただけ。どうだっていいのよ」
 「えっ……?」
 愛は太平洋の真ん中を漂うボートの上で、ようやく巡り合った大陸行の船に見放された漂流者のように、呆然と美しすぎる鉄仮面のような顔を見つめた。それは血の通わない鉄の鎧を着たバル=サゴスの神にも似て、恐怖と絶望の底に誘うかと思われた。その悪魔のような女に“バカ”という言葉を、一度ならずも二度、三度までも、まるで呼吸をするように言われたのである。自覚している短所を、他人から指摘される事ほどの屈辱はない。ふいに愛の瞳からまた大粒の涙がこぼれ落ちた。
 「可哀想だから一つだけ忠告しといてあげる」
 愛は地獄の天井から垂れて来たひと筋の蜘蛛の糸を掴む思いで鉄仮面を見つめた。
 「今日、校長は嘘をついた」
 「校長って烏山校長先生のことですか?」
 涙交じりの声は俄かには信じられないといったふうである。愛にとっては教師になって以来、学級経営のことから私生活に至るまで、公私にわたる助言や指導をいただいている尊敬する人物なのだ。その性格は温厚篤実で、その教育に対する情熱は熱く、その打つ手は愛情に満ちて適確だと信じていたからだ。
 「校長はさっき、あなたから意見を引き出すために“ここにいる先生は全員人格者”だと言った。でも人格者などあそこには一人もいなかった。せいぜい騙されないようにすることね」
 「どういうことですか?」
 城柳は何も答えず職員用の下駄箱に向かって歩き出した。
 「教えて下さい!」
 「しつこいわね! 誰も信じるなって言ってるの。教師なんてみんな偽善者、校長はその最たる者。制度やシステムに固められた氷の社会の中で、世渡り上手がやってるの! ああ疲れた、喋りすぎた―――」
 城柳は「さようなら」も「お疲れ様」も言わずに玄関を出て行った。
 取り残された愛の脇を、先ほどの職員会で叩かれ、ひどく落ち込んだ様子のジョニー先生が通り過ぎた。そして涙目の愛を一瞥すると、
 「また泣いてるの? バケツ持ってこようか?」
 と、心そこになしといった沈んだ口調で呟くと、ため息を落として立ち去った。