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ブル()サマ
城郭拾集物語I 北海道五稜郭
五稜郭
函館奉行所
土方歳三



 五稜郭(ごりょうかく)と言えば真っ先に星形五角形の堡塁(ほうるい)を思い浮かべる人も多いのだろう。
 そしてなんといっても幕末戊辰戦争(ぼしんせんそう)終焉を象徴する城である。
 この珍しい形状は全国的にも非常に珍しく、もともとは十六世紀のヨーロッパで考え出されたそうだが、西洋の城塞都市(じょうさいとし)の形がなぜ日本にあるのか? 五稜郭が完成したのは元治元年(一八六四)だが、建設が幕府に認められたのは安政元年(一八五五)末である。ペリーが来航して日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)が締結(嘉永七年(一八五四)三月)され下田と箱館(函館)が外国に開かれたとはいえ、鎖国が終わってまだ一年くらいしか経っていない。情報の流入がそれほど早かったとは考えづらいし、でなければ城を設計した武田斐三郎(あやさぶろう)にその知識があったものか? 彼は蘭学者である。
 否、そうでない──。
 安政二年(一八五五)六月頃からフランス軍艦が箱館湾にたびたび入港しては、箱館奉行に対して病人の上陸と養生(ようじょう)許可を要請していた。このときはまだフランスとの国交はなかったが、箱館奉行は人道的見地から幕府の了承を得ることなくこれを許可し、実行寺に病人と医師や看病人などを受け入れていたと言う。箱館は、国籍を問わず負傷兵を受け入れ手当てを施した赤十字精神発祥の地でもある。
 このときのフランス軍艦というのはシビル号、ウィルジニー号、コンスタンチーヌ号の三艘だが、特にコンスタンチーヌ号の時は六十五日間に及ぶ期間に渡り停泊し、その間、武田斐三郎は同艦の副艦長からパリ郊外にある城塞都市の絵図を示されたのだと言う。それが星型をした西洋の城塞都市だった──なるほど星形の尖った部分に鉄砲や大砲を配備すれば、どこを攻めても隙のない鉄壁の守りが出来る発想は当時の日本にはなかっただろう。
 その中心部に建つのが箱館奉行所である。
 開港当時の奉行所は箱館山の麓にあった。現在は山頂の展望台から見る夜景が有名な山である。そこは見晴らしが良く箱館の港と町が一望できた。ところが外国船の出入りが頻繁になると、見晴らしの良さは返って防衛上の欠点になり、しかも箱館港から五里四方を外国人の遊歩地としたため箱館山の背後から攻撃される心配も生じていた。そこで現在五稜郭がある地点へ移転されたというわけである。そこは港から約三キロメートルほど離れていたので海からの大砲の攻撃も避けられ、市中からそれほど離れてもいない。そして移転と同時に海岸防備として弁天岬台場(べんてんみさきだいば)もつくられた。
 筆者が五稜郭に行ったのは十一月も終り頃、北海道ではすでに雪が積もっていた。
 五稜郭タワーに登って雪に覆われたその白い五芒星(ごぼうせい)を上空から眺めていると、ふと、脇から何やら強い存在感を感じた。威圧にも似たその方向に目を移してみれば、そこにはブロンズ像となった土方歳三(ひじかたとしぞう)が椅子に座っているではないか! そしてほのかに笑みを浮かべて筆者にこう語り掛けるのである。
 「敗けると判っていながら、オレが最果ての蝦夷(えぞ)にまで追い詰められてなお、新政府の連中と戦った理由(わけ)が解かるかい? 男気とか意地とか近藤さんのこととか──そんな単純な事ばかりじゃないよ。まあ、解かってくれとは言わねえが、おめえさんに書けるもんなら書いてみな……」
 今回の物語は、そのとき土方さんから託された一つの約束である。



 慶応二年(一八六七)十二月八日、シャルル・シャノワーヌを団長としたフランス軍事顧問団の中にジュール・ブリュネという男がいた。船が横浜港に着岸したとき、彼は出迎えた在日フランス公使レオン・ロッシュと握手を交わすと、
 「自由の精神は我がフランスからその光を放つ──フランスに栄光あれ」
 と、遠くフランスのある方角に最敬礼して言った。
 文久元年(一八六二)に徳川幕府が派遣した遣欧使節団がフランのナポレオン三世と謁見して以来、幕府とフランスは急速に関係を縮める。幕府は優秀なフランス人技術者を日本に招き、横須賀や横浜に造船所や製鉄所の建設を開始し、フランス語伝習所を設けてその関係を深めていた。
 ところがこの頃の幕府というのは第二次長州征討に失敗し、軍隊の近代化は急務であった。そこで幕府はフランスから七〇〇万ドルに及ぶ資金融資と武器を購入し、砲兵、歩兵、騎兵の陸軍軍事養成を依頼すると、皇帝ナポレオン三世は開国したばかりの日本との関係を更に強めるためにフランスでも指折りの十五名の軍人で構成した対日軍事顧問団の派遣を決定した。ブリュネはその副団長を務めるのである。
 彼は一八三八年、フランス東部のアルザス地方、オー=ラン県ベルフォールで生まれた。父は、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン一世)失脚後の復古王政の下で働く、騎兵連隊付きの獣医であった。
 当時のフランスはナポレオン一世による第一帝政が崩壊し、一八三〇年の七月革命によって革命以前の王政が再び布かれていた。政治を安定させるため七月王政が利用したのは、かつてのナポレオン時代を追慕する民衆感情である。ナポレオンが着工したまま未完成だったエトワール広場の凱旋門を完成させ、ナポレオンの遺骸をセント・ヘレナ島からパリに帰還させたのもそのためだった。こうして民衆の間にボナパルティズム≠ニいう信仰とも言うべきものが定着し最高潮に達する。やがてボナパルティズム≠ヘフランスのみならずヨーロッパ全土へと広がり、ドイツのハイネやゲーテ、イギリスのカーライルなどにも大きな影響を与える。
 ところが産業革命期とも重なるこの時代のフランスは、資本主義の土台が築かれ経済を発展させた反面、著しい貧富の格差を生み、多くの民衆は貧困に喘ぐ悲惨な生活を余儀なくされていた。そのため社会は犯罪にまみれ、民衆の不満はナポレオンの帝政時代への憧憬(しょうけい)と、プロレタリアートによる社会主義への期待を目覚めさせ、やがて蜂起した民衆は一八四八年二月、国王ルイ・フィリップをロンドンへ追放してしまう。この二月革命が勃発したのがブリュネが十歳のときだった。
 その後しばらくの間フランスは第二共和政を()くが、同年六月に行なわれた憲法制定国民議会の補欠選挙に四県から選出されたのがルイ・ナポレオン・ボナパルトであった。後のナポレオン三世である。ところが当時ルイはロンドンに亡命中で、フランスに対して野心を持っていないことをアピールするため当選を辞退した。その行為がボナパルト家に同情を集める結果を招き、追放令が解除されるに到ると、九月に行なわれた補欠選挙に再度立候補し、またもや議員に選出された。今度はこれを受諾したルイはパリに帰還し、十一月に制定された第二共和政憲法の下で、十二月に大統領選挙が行なわれることになった。
 ルイ・ナポレオンはこの大統領選挙に立候補する。それはフランスにおける共和制と、自由と、民主主義国家の定着を意味するはずだった。ところが選挙に圧勝したルイ・ナポレオンは、大統領の再選を禁じている憲法をクーデターにより改正し、あろうことか独裁政権を樹立してナポレオン三世を名乗ったのだった。その有り様は、良いか悪いかは別にして、ナポレオン一世が皇帝に就任した時と重なりフランス国民は熱狂した。まさに共和制と帝政とは紙一重であり、ひとつ間違えば民衆を苦しめる強権政権にもなり得たはずだった。かの文豪ビクトル・ユゴーなどは、
 「農民よ、皇帝といえども二人いるのだ。偉大な皇帝と卑小な皇帝、光輝な皇帝と破廉恥な皇帝、大ナポレオンと小ナポレオンとがね!」
 「この甥は偉そうに伯父である皇帝の真似をしているだけなのに。ああ、なんということだ。あの広大無辺なナポレオンの光輝を消し去るには、甥のやったようなひどい汚辱の行為が必要だったのだ!」
 と痛烈に批判する。
 ともあれ、民衆の目にはナポレオン三世の出現はナポレオン一世の再来と映った。現にルイ・ナポレオン自身も伯父の跡を継いだという自覚と共に、その理想を実現しようとしていたのである。あらゆる党派をまとめ、その利益を平等たらしめようともしたし、国民一致による政治的統合を実現し、経済と社会の発展と国際関係の安定をはかろうと試みた。彼にとっては自らがボナパルティズム≠フ真の体現者であり、伯父をも凌駕しようとする野心もあったに相違ない。
 そして、ナポレオン一世がフランス革命の自由主義思想を広めた英雄としてヨーロッパ諸国に定着していた頃の、この第二帝政時代のフランスこそ、当時の幕府が頼りとしていた国だった。
 ブリュネの青年期は、この第二帝政時代とともにある。彼は理工科学を修めた後、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を卒業し、第三砲兵連隊の陸軍砲兵少尉となってメキシコに出征して功績をおさめると、国からレジオンドヌール勲章を授与され近衛砲兵連隊砲兵中尉に栄転した軍人エリートなのである。そしてブリュネの精神的支柱となっていたのもまたボナパルティズム≠ナあった。幕府はこのブリュネ大尉に対し三五〇ドルの給料を支給することを約束した(ちなみに団長のシャノワーヌは五〇〇ドル)。
 来日したブリュネらフランス軍事顧問団は、横浜の丘陵地帯に居留することになり、さっそく翌日から大田村伝習所で幕府が急ごしらえで作った伝習隊に軍事訓練を開始する。



 ちょうどその頃、オランダ留学を終え、幕府が発注した軍艦『開陽丸』に乗船して帰途の大海原に揺られる男がいた。名を榎本武揚(えのもとたけあき)と言う。
 天保七年(一八三六)、江戸下谷(したや)(現台東区)の御徒町(おかちまち)で生まれ、父は十七歳のとき江戸に出て伊能忠敬の弟子となり九州の測量にも同行した人物と伝わる。
 榎本武揚十五歳の時、神田湯島(かんだゆしま)昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に入学するもその成績は振るわず、その後は箱館奉行堀利熙(ほりとしひろ)の従者となって蝦夷地(えぞち)の箱館へ赴任し国境設定の調査で樺太(からふと)巡回にも同行した。二十一歳で昌平坂学問所に再入学した彼は、時の大目付役のコネ(○○)に預かって長崎海軍伝習所に入学するが、そのとき出会ったのが勝海舟である。そして伝習所から江戸に戻り、新しく開設された築地軍艦操練所の教授に抜擢されたのが安政五年(一八五八)のことだった。
 文久元年(一八六一)、幕府はオランダに軍艦建造を依頼するが、その監督を兼ねた留学生を派遣することになった。それに選抜されたのが榎本で、翌年六月、オランダ船に乗って品川沖から長崎経由でオランダへ向けて出府した。時に二十七歳の彼が、このときに体験した出来事は、彼にとって大きな転機となったであろう。
 風もなく波静かな船旅に、榎本の意気は天を衝くばかりに前途洋々としていた。ところがインド洋にかかって、ジャワ海の北東にさしかかった時である。船が暴風雨に襲われたちまち海中の暗礁に乗り上げた。嵐はますます激しくなり、山のような怒涛で今にも転覆する恐怖にとらわれていた暗夜、ふと見れば、オランダ人の船長が乗組員と共にボートで本船から逃げ去っていくという信じられない光景を見たのである。榎本ら留学生一行は、船長のない難波船に取り残されて、もはや海底に葬られるのを待つばかりだった。
 喉の渇きと飢えの苦しみに耐え、やがて地獄に垂れ下がってきた細い一本の蜘蛛の糸のように、遠くに一隻の船影を見たのは三日後の事だった。彼らは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)として白布を振って救援を求めた。それはイギリスの商船で、先方も難波船と知って近づいてきたから「助かった!」と留学生一行は抱き合って喜ぶが、近くまで来たイギリス船は遭難者が白人でないのを見て取ると、そのまま船首を返して去ってしまったのである。その落胆といったらいかばかりか。
 しかしその翌日、再び留学生一行を襲って来たのは嵐でなく今度は黒人の海賊船だった。生き延びるに必死の榎本は、咄嗟に日本刀を振りかざして海賊船に斬り込んだ。
 「命が惜しくば我らを島に送り届けよ!」
 逆に脅迫して付近の小島に上陸したのだった。
 そこはプロレパルという無人島。炎熱の太陽と毒虫に苦しめられて四日間、ようやく黒人の先導でジャワ島のバタビヤへ辿り着く。滞在中は、見たこともないパイナップルやバナナ、マンゴーなどの珍しい果実をたらふく食べたものだから、全員腹をこわしてひどい下痢になり、一行が列を作って頻繁に便所へ通う様子にホテルのオランダ婦人たちは窓から顔を出して笑い転げた。
 「何が可笑しい、べらんめえ!」
 榎本は日本語で大喝して拳を突き出したと言う。
 それから間もなく一行は、オランダ政府の好意によって便船を得てヨーロッパへと向かう。そうしてアフリカの南端喜望峰(きぼうほう)をめぐり、セントヘレナ島へ上陸してナポレオン一世の墓に詣でる機会を得た。
 このとき榎本の中で何かが目覚めた。その蓋世(がいせい)の英雄の墓の前から容易に立ちあがらずに、むくむくと込み上げる感慨のまま、次の漢詩を詠んだ。

 長林(ちょうりん)烟雨(えんう)鎖孤栖(こせいをとざす) 末路(まつろの)英雄意(えいゆうのい)伝迷(つたえまよう)
 今日(こんにち)弔来人(ちょうらいのひとを)不見(みず) 覇王(はおう)樹畔(じゅはん)列王鳴(れつおうめいす)

 セントヘレナ島は別名をロングウッド島と言うらしい。榎本はそれを長林≠ニ訳した。つまり、
 「セントヘレナは霧のような雨が降り、孤独の住処を鎖で繋いでいる。英雄の真実の心はいったい何なのか? 今となっては弔来する者もなく、覇王の樹や畔に列王の涙の声が聞こえるようだ」
 彼はあふれ出しそうな涙をおさえてナポレオン≠ニいう人物の存在を深く偲んだのである。このとき、彼の心にもボナパルティズム≠ェ芽吹いたものか。ナポレオンの勇姿は榎本にとって理想となり、目指すべき到達点として焼き付いた。偉大なものとの出会いは、小人を偉大へと導く。偉大な人が偉大な仕事をするのでなく、偉大な目標を持つから人は偉大になれるのだ!
 このあと榎本ら一行は目的地のオランダの首府アムステルダムにようやく到着するが、留学中の彼はオランダ語をはじめ機関学の研究に没頭し、そのほか船舶運用術、砲術、化学、国際法など学びながら、ときおり建造中の開陽丸の進捗を見に行ったり、デンマークとオーストリアとが戦争をしていると聞けば自ら望んで弾丸雨飛の戦線を馳駆(ちく)したり、見聞きする西洋文明の全てを吸収しようと力を尽くす。そのあいまを見つけてはナポレオンの哲学を学ぶのだった。
 こうしてオランダに留まること足掛け六年、開陽丸の竣成と共に、これに乗って帰国する。
 彼が江戸に戻ったのは慶応三年(一八六七)五月。以降、開陽丸艦長に任ぜられ、そして軍艦頭取、軍艦奉行と累進し、ついには従五位下の和泉守(いずみのかみ)へと叙任される。



 さて、榎本が日本に帰った頃、京都の西本願寺にいる土方歳三は新選組の屯所のことで頭を痛めていた。
 というのは元治元年(一八六四)七月の池田屋事件以来、新選組の評判がうなぎ登りに上がり、当時四十名程度だった隊士の数が二百名を越えるほどの大所帯となり、昨年(元治二年)五月に屯所を壬生(みぶ)の私邸から西本願寺に移したものの、その境内で行なわれる軍事演習で寺や周辺住民のことなどおかまいなしに二門の大砲を派手にぶっ放していたものだから、あるときその轟音で本堂の屋根瓦が崩れ落ちた。日頃から何かと血生臭い物騒な話も絶えなかったし、組織内の抗争も頻繁だった。つい最近も伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の新選組離党をめぐって、ひと騒動あったばかりなのだ。加えて、厳しい仏道修行を積む僧侶らの横目には隊士たちの勇ましい振る舞いがあまりに粗暴で、おまけに精進料理中心の寺の境内でぞんざいに肉を食われた日には、さすがの寺側も黙っていなかった。
 「いい加減にしてください! 訓練もよろしいが、どこか別の場所でやってくれませんか!」
 ついに寺の住職に退去を迫られ、
 「はて、どうしたものか……?」
 と、今年初めの長州征討に失敗した幕府と、それに連なる新選組の行く末を案じながら、鬼の副長≠ニ言われる彼に似合わぬため息を落とすのである。
 彼自らが中心となって定めた『新選組軍中法度』の中にも、「昼夜に限らず急変これ有候とも決して騒動致すべからず心静かに……云々」とある。この中の「騒動致すべからず」の言葉がひっかかる。もともと隊士の統率を図るための『局中法度』や『軍中法度』だが、この隊規は土方を表現するに最も正確にして的確と思うので記しておく。

『局中法度』
一、士道ニ背キ間敷事(まじきこと)
一、局ヲ脱スルヲ不許(ゆるさず)
一、勝手ニ金策致不可(いたすべからず)
一、勝手ニ訴訟取扱不可(とりあつかうべからず)
一、私ノ闘争ヲ不許(ゆるさず)

『軍中法度』
一、役所を堅く相守り、式法を乱すべからず、進退組頭の下知に従うべき事
一、敵味方強弱の批判、一切停止の事
一、昼夜に限らず急変これ有候(ありそうらえ)とも、決して騒動致すべからず心静かに身を堅め下知を待つべき事
一、組頭討死に及び候時、その組衆その場に於いて戦死を遂ぐべし。もし臆病を構えその虎口逃来る輩これ有るにおいては斬罪微罪その品に随ってこれを申渡すべく候、予て覚悟未練の働きこれ無き様、相たしなむべき事
一、烈しき虎口に於いて、組頭の外、死骸引退く事をなさず、終始その場を逃げず忠義を(ぬき)んずべき事

 この一字一句に対して土方歳三自身ものすごくストイックなのだ。自分に厳しい分隊士に対しても容赦しなかった。現にそのために粛清された隊士も大勢いるのだ。
 『決して騒動致すべからず──』
 だからと言って軍事演習を取り止めるわけにいかないし、かといって京都守護職会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)の耳に苦情があがって迷惑をかけるわけには絶対いかない。
 「住職、そうは申せ私らも幕府のお役目を担っているのだ。いったいどうすればよろしいか?」
 「うーん」と唸りながら土方は住職に言った。すると渋々住職は、
 「場所だけでも見つけていただけませんか? さすれば建物、引っ越しにかかる費用は一切西本願寺で持たせていただきますから……」
 と答えた。長年御仏(みほとけ)に仕える住職は、表面上はけっして弱味を見せない鬼の土方≠フ険しい表情の中に、人間味通う温かさをすっかり見抜いているのだった。
 「さようか!」
 こうして新選組は慶応三年(一八六七)六月、西本願寺からほど近い不動堂村に新たな屯所を建て移転していく。
 そしてちょうど同じ頃、文久三年以来の京都における新選組の働きが幕府に認められ、松平容保(まつだいらかたもり)の申し立てにより隊士一統は幕府直参に取り立てられた。このとき与えられた土方歳三の御役名は見廻組肝煎格(みまわりぐみきもいりかく)≠ナある。局長の近藤勇(こんどういさみ)は見廻組支配頭格(しはいがしらかく)≠ナ、旗本の御目見(おめみえ)以上≠フ格も授かり、将軍拝謁を許される身分となった。
 新しい屯所の広さは一町四方あまり。四方を高塀で囲み、表門、玄関、長屋に使者の間から長廊下まで、近藤や土方ら幹部の居間はもちろん、平隊士の部屋や客間や馬屋があって、物見櫓や中間小者部屋まであり、大風呂には三十人が一度に入れたと言う。それは大名屋敷にも匹敵する構えで、隊士の出入りは町をたいそう賑わせた。
 朝から始まる調練に、大砲の音が鳴り響けば近所から見物にやって来る者もある。幕府が軍制をフランス式に統一したのを受けて、新選組もオランダ式からフランス式の調練を行なうことになったのである。そんなもの珍しさも相まって、物見の町人たちの好奇心を煽ったのであろう。
 隊士たちの中には、調練が終わると町に繰り出す者もいた。そしてうろうろするうちに親しくなった家に寄っては茶や食事を馳走になる。おまけに花街島原も歩いてすぐのところなので、古参の隊士にしてみれば馴染みの芸妓のところに通ったり、最初に屯所が置かれた壬生に帰ったも同然だった。あるいはこの頃の新選組が、結成以来もっとも華やかな日々を謳歌していたかも知れない。
 しかしこの新居での生活は、僅か半年くらいしか続かなかった。
 この年の十月に『大政奉還』が成されたと思うと、十二月九日には『王政復古』の政変が起こり、新選組は京都から伏見へと追い出されていくことになる。



 榎本がオランダから江戸に着いた頃、ブリュネはシャノワーヌ団長と共にフランス公使団に伴なって大坂にいた将軍徳川慶喜を表敬訪問した。
 そこでフランス軍事使節団の日本における軍事組織計画の合意を見ると、いったん彼は横浜に戻り、六月に入って騎兵教育担当のオーギュスタン・デシャルム中尉を伴なって江戸に移った。砲兵隊と騎兵隊の訓練をするには横浜より江戸の方が有利な訓練場があって都合よく、九月には横浜の残りの伝習隊も江戸に合流させ、更にその組織を歩兵一、五〇〇人、騎兵三〇〇人、砲兵二五〇人に拡大し、最終的には軍全体として一万二、〇〇〇人の兵と五〇〇人の将校の規模で構成させる計画なのである。
 ブリュネが江戸に移ってすぐの慶応三年(一八六七)六月五日には、同じく江戸に移された部隊、つまり歩兵大隊と二門の大砲、そして騎兵隊による江戸城の周りを行進するパレードが盛大に執り行われた。先頭を務める軍服姿の三人の男はラッパを高らかに吹き鳴らし、その後を笠をかぶった二人の士官が馬に乗り、その身なりは筒袖(つつそで)段袋(だんぶくろ)、足にはブーツを履いて、上にレキション羽織を羽織って刀を高くかざして続く。さらに駄馬(だば)を引く歩兵が延々続き、沿道は驚愕を隠せない市井の人だかりができていた。
 その光景をサラサラと、洋画紙にスケッチする青い目の男が人混みに紛れていた──彼こそブリュネで、まだ写真が一般的でない当時、顧問団の中では優れた画才を活かして記録係的な役割も担っているというわけだった。
 実はブリュネは来日して間もなくの頃より江戸に入って、市中の探索を兼ねて城や周辺の地形、あるいは町の庶民の生活の様子や文化などを気ままにスケッチして回っていたのである。幕府は大手門にほど近いところの屋敷を彼らに提供したので、そこを拠点に彼らの生活は至って快適だった。だからブリュネは好きな時に屋敷を出ては、見たこともない異国情緒に支配された摩訶不思議な大江戸の町の息づかいを肌で感じていたのである。そして瞬く間に日本≠ニいう国の魅力に取りつかれ、我を忘れてスケッチに没頭するのであった。
 「もし──ブルネさま……?」
 彼のスケッチの手を止めたのは一人の町娘だった。
 「オトミ、サン!」
 思わずブリュネはたどたどしい日本語の声を上げた。
 それは前回江戸に来ていた十二月の寒い日だった。外に出れば吐く息は白く、それでも町の様子を探索しようとぶらぶら街中を歩いていると、瀬戸物を扱う商人の店の前だったか一人の町娘が店番をしているのを見かけた。ブリュネはたちまちその娘が身にまとっていた艶やかな着物の美しさに目を奪われ、
 「チョット、イイデスカ?」
 そう言って娘の手を引き近くにあった大きな石の上に座らせると、カバンの中から水彩絵の具を取り出して、かじかむ手をさすりながらサラサラとスケッチを始めた。そうして小一時間ばかりフランス語と日本語のちぐはぐな会話を繰り返しながら『江戸の商人の娘』と題する一枚の絵を描き上げた──。
 ブリュネに話し掛けてきた娘は、そのとき名をトミ≠ニ名乗った女性に違いない。
 「まあ、お上手!」
 この日以来、二人はたびたび会うようになり、ブリュネは異国での孤独の寂しさを埋めるように、またトミは異邦人への憧れを追い求めるように、やがて二人は恋に落ち、ついには一緒に暮らす関係になったのである。
 ところが二人の幸せな生活は長くは続かなかった──二百五十年近く続いた泰平の世に、突然政変が巻き起こったのだ。
 慶応三年十月十五日、徳川慶喜が突如として政権を天皇に返上(『大政奉還』)したかと思うと、十二月九日には『大政復古の大号令』によって天皇の名のもと慶喜が政治の舞台から排除されたのだ。京都を追われ大阪城に入った慶喜は十二日、黒書院にフランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロイセン、オランダの各国公使を集め、
 「諸外国との外交権限は、引き続き朝廷ではなく私が掌握する」
 と宣言し、外国勢力の介入を視野に入れた防衛策を講じるのであった。
 ところが江戸では、慶喜失脚を待っていたかのように、薩摩藩浪士が強盗、放火などのいわゆる御用盗(ごようとう)事件(テロ)を連日のように引き起こし、江戸市民の不安を煽り立てた。ついに幕府は十二月二十五日、薩摩藩邸の焼き討ちを決定するのである。
 いよいよブリュネ達が一年以上に渡って育成してきた伝習隊をはじめとしたフランス式幕府兵出陣の時を迎えたわけである。ブリュネはその陣頭指揮を執って見事江戸の薩摩藩を壊滅せしめたのだが、この際逃亡をはかった薩摩藩士が同国藩船『翔凰丸』に飛び乗ったのを見て、ブリュネも榎本武揚が艦長を務める『開陽丸』に乗り込むと、
 「アノ船ヲ追跡シロ!」
 と、そのまま大坂までやって来た。まさか別れの言葉もないままそんな事態になっていようとは知る由もないトミは、哀れそのまま江戸に取り残されたわけだった。
 大坂湾に入った開陽丸は、そのまま兵庫港に停泊中の富士山丸、蟠竜丸、翔鶴丸、順動丸などの幕府艦と共に大坂警備に就くが、年が明けて一月二日、港を出港する薩摩艦『平運丸』に空砲で停船を命じたところ、平運丸はこれに応じなかったものだから実弾砲撃を開始した。ところがその翌日、薩摩藩が猛烈に抗議したので、それに対して、
 「国際法に則った正当な砲撃である!」
 と突っぱねたのは榎本ではなくブリュネであった。皮肉にもこの出来事が直接的な引き金となって鳥羽・伏見の戦いが勃発したのだった。しかし蒸気機関四〇〇馬力、射程距離が三、九〇〇メートルとも言われる当時最先端のクルップ砲を十八門も装備した開陽丸の強いのなんの──阿波沖では薩摩藩の軍艦を次々砲撃して海では幕府が圧倒的な勝利を得たのである。ところが陸の方では鳥羽と伏見で衝突した幕府軍はあえなく敗れ、その報を知ったブリュネと榎本は慶喜に会うため開陽丸を降り大坂城へ向かうが、既にそこに慶喜の姿はなく、
 「公方様は江戸へ向かわれた──」
 という信じられない現実を伝えられたのである。二人が港へ取って返した時には開陽丸は夢幻の如く消えていて、あろうことか慶喜が副艦長澤太郎左衛門に命じて大坂を出航したことは後で知らされた。いずれにせよブリュネと榎本は置き去りにされたわけである。
 仕方なく、大坂城に残された金十八万両と、書類や重要什器、刀剣類などを富士山丸に積み込んだ二人は、慶喜が江戸に到着した一月十二日に大坂を出航する。
 ようやく江戸に戻ったブリュネにトミは言った。
 「ブルネさま……いったいどこに行ってたのよ!」
 髭もそらず何日も風呂にも入っていない彼の身体に彼女は抱きついて涙を流した。しかしこのとき虚ろなブリュネの視線は、どこか遠くの方を漠然と見つめていた。



 江戸に戻った徳川慶喜は、それからすぐにフランス軍事顧問団のシャノワーヌ団長とブリュネ大尉、そしてデシャルム中尉とデュ・ブスケ中尉を江戸城に呼び助言を求めた。つまり彼らは慶喜と直接接触できた最初の外国人なのである。ちょうど時を同じくしてフランス公使レオン・ロッシュも、次々と江戸に入港するアメリカ、プロイセン、イタリア、オランダに対して幕府を支援するよう様々な政策を講じていたが、結局慶喜は、天皇を抱え込んだ反乱軍を新政府軍と容認するしかなく、慶応四年一月二十五日に上野の寛永寺に謹慎してしまうと、英米蘭伊普仏の六ケ国は戊辰戦争に対する局外中立を宣言した。それを受けてレオン・ロッシュは辞任を表明し、間もなく日本を後にした。慶喜を失ったこの時点で、フランス軍事顧問団のミッションは継続不能となり、全員横浜に引き揚げたのだった。
 四月十一日、幕府は江戸城を新政府軍に引き渡し、このとき徳川幕府は完全に消え去った──。
 しかし滅びゆく者の側に立つ者の感情というのはそれを許すはずがない。歴史は常に、新しい時代を切り開く者と滅びゆく者との対局する思念が激しくぶつかり合うところに作られるものなのだ。つまり歴史とは、その時を生きる人間の不可解な感情によって織りなす壮大なドラマである。
 このとき海軍副総裁だった榎本は、事実上の幕府海軍のトップであったが、勝海舟が執った無条件降伏という判断に納得いかなかった。しかし勝は榎本より更に上の役職であるため、それを口にすることができなかったが、殊、江戸城明け渡しと同時に、降伏条件の一つとして勝海舟が、
 「今すぐに、幕府軍艦の全てを朝廷に引き渡しなさい」
 と言った言葉に榎本は思わず喰いついた。
 「勝先生、何をおっしゃいます! これらの船は全部徳川家が買ったものです。天皇の衣を着た狐どもに引き渡たさねばならん道理がどこにあるのですか!」
 「戦争に敗けたからさ。言う通りにしなよ」
 「お言葉ですが、今日は波風が強いので、引き渡しは明日に延期されたい」
 そう言い放って、榎本はその夜、艦隊を卒いて館山港に逃れた。しかしその翌日も、
 「徳川家の領地禄高が決まるまで、軍艦の引き渡しは延期されたい」
 という意味の嘆願書を海軍に提出したので、狼狽した旧幕府側は勝海舟を遣わして大久保利通との斡旋を試みた。結果、旧幕府艦八隻の内、富士山丸以下四艦は朝廷に納め、開陽丸、回天丸、蟠竜丸、陽春丸の四艦はそのまま徳川氏に保有させることとして一応の落着を見たのだった。榎本は江戸に戻って勝と会った。
 「おいおい榎本、あんまり駄々をこねてわしを困らせるな」
 「勝先生は本当にこの国を新政府の手に渡して良いとお思いですか? あんな奴らに政治を行なわせたら、もはやこの世に道義というものが消え失せます!」
 「無理が通れば道理も義も引っ込んじまうのさ。儒学に染まったお前たちに分かりやすく言うなら、それが天命というものさ」
 「天命がなんだと言うのです! ヨーロッパ全土を統一しようとしたかのナポレオンは、自由と平等と友愛の名の下にフランスを世界有数の国家にしたではありませんか!」
 「ナポレオン……? おお、そうか、君はフランスかぶれだったね。なら聞くが、お前さんならいったいどうすると言うのかね?」
 榎本は言葉を詰まらせた。しかし暫く考えてこう答えた。
 「亀之助様をお連れし、箱館に行こうかと……。そして蝦夷に、徳川家による真に民主的な新しい徳川国を建国してはと思います」
 亀之助(後の徳川家達)とは、慶喜が上野の寛永寺に謹慎中、次期徳川宗家の跡継ぎに決められ、新政府から承認も得ていた男である。男といってもこのときはまだ五歳の童子で、勝は腹を抱えて笑い出した。
 「まあ、言うのはただ(○○)だが、新政府に知れたら即打ち首だな。ここだけの話にしておいてやるから、悪いことは言わねえ、お前さんは館山に屯集している者を鎮撫して、常陸の多賀へ脱走している者らも降参させるよう尽力せい」
 「おそらく館山の彼らも、そして江戸に留まっている彰義隊の連中もけっして降伏することはないと思われます。これは天命でなく徳川の血なのです。もう誰にも止めることはできないでしょうね」
 榎本は脅迫めいた言葉を残して勝のもとを去った。案の定、それから一月も経たないうちに彰義隊が蜂起し、上野戦争(慶応四年五月十五日)が勃発する。しかし新政府軍はそれをたちどころに鎮圧した。
 するとその残党たちは、次々と榎本の開陽丸に助けを求めて逃れ隠れた。巷では榎本が仙台藩や米沢藩とも内通しているとの噂も立って、近日中に開陽丸で駿府に送られる予定の田安亀之助輸送のこともあり、「脱走するのではないか? 官軍に知れたら大変だ」と、旧幕府内では中老に説得に行ってもらおうという話まで持ちあがっていた。そして間もなく亀之助の出発の日取りも決まった時、いやな予感を拭えない勝は、榎本に対し、
 「その後の進退はいかがか? 妙な気を起こすんじゃないよ。軽挙してはならん。お前さんがしなければならない仕事を忠実に尽力せよ」
 との使いを送った。それに対して彼から届いた書状には、なんとも穏やかな文面が綴られていたので、勝は盛んに噂されている脱走の意志がないのを知って胸を撫でおろしたものだった。それでも念を押して「くれぐれも田安殿を無事に駿府まで送り届けるように」と、再三言い渡すのであった。
 こうして八月九日、田安亀之助は開陽丸に乗って江戸から駿府へ出発した。

 さて、横浜に引き揚げたフランス軍事顧問団である。
 ちょうどこの頃団長のシャノワーヌ大尉は別の任務で日本を離れ、顧問団は副団長だったブリュネに一任されていた。その間給金の支払いは途絶え、新政府も「直ちに日本から立ち去れ」と、もはや彼らの必要性を望んではいなかった。そしてロッシュに替わって赴任したマキシミリアン・ウートレーフランス公使は、ついに彼らの解任を決定する。顧問団のメンバーは順次本国へと帰されることになった。
 ブリュネは榎本の同朋松平正親に次のような手紙を送った。
 『我が祖国皇帝ナポレオン三世は、ヨーロッパの科学や文明を日本に広めるために私たちを派遣しました。しかし新政府は若者の育成において、もはや私達フランス将校に期待していません。しかし私は私たちの義務の遂行が適切に果たされることを望んでいます』
 このときブリュネの心には、敗北の将徳川慶喜に誓った軍隊支援の計画に対する忠誠とも言うべき感情が成熟していた。慶喜に初めて大坂で謁見した際、彼はその将軍の姿をスケッチに残し、意図はよく知れなかったが一振りの日本刀を与えられたのだ。そのズシリとした重みの感触がいまだ手に残るブリュネは、ウートレー公使にその思いのたけをぶつけた。
 「私は何のために日本に送られて来たのですか! ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(ナポレオン一世)だったらきっとこう言うに違いありません。進め!≠ニ──」
 「何が言いたい? 今の皇帝陛下様が何をお考えだったかは知らぬが、蛮人の住む蛮国に我らフランスの誇りを植え付ける必要などない。お前は全権大使のわしの命令に従うのみだ、本国に帰れ」
 ブリュネは何を訴えても理解してもらえることはないと判断して意を決した。
 その夜、横浜のイタリア公使館の新築祝いで催された仮装舞踏会に招かれていたブリュネは、これまで苦楽を共にしてきたアンドレ・カズヌーヴ伍長と申し合わせ、日本武士の扮装をして参加した。二人は何気ない顔で、披露された芝居を鑑賞していたが、そのあとりワルツを踊る次第になって、参加者入り乱れるどさくさに紛れ、密かに公使館を脱走したのである。
 二人は旧幕府軍艦『神速丸』に飛び乗り品川沖へ──そこで待っていたのは旧幕府艦隊と、開陽丸に乗って彼らを待ち受けていた榎本武揚だった。
 榎本は、彰義隊の残党に頼られ、また奥羽越列藩同盟が官軍に抗して立ったのを知ると、もはや意を決するしかなかった。密かにブリュネと密通を交わし、安田亀之助を駿府に送り届けた後、こうして品川沖で落ち合う約束を交わしていたのだった。
 ブリュネとカズヌーヴは開陽丸に移動した。そしてブリュネは船室にこもってシャノワーヌ団長へ訣別の手紙を書くためペンを握った。
 『相談もせずにすみません。しかし辞任のご報告をさせていただくことを光栄に思います。私はフランス将校としてでなく、私自身の名で奥羽越列藩同盟と命運を共にいたします。責任はすべて私が負います。あなたにだけ告白しますが、イギリスに対する祖国フランスの政策は間違っていたのでしょうか? そして私達の軍事派遣は無意味だったのでしょうか? いいえ、私はそうは思いません。将軍慶喜公とその友人である伝習隊は私のアドバイスを必要とし、私に賭けると言ってくれました。私は日本人の一人としてこの国の友のために働きたい。決意は変わりません。彼らとこの国で死ぬか、さもなくばフランスの大義に奉仕することを誓います。カズヌーヴを連れて行くことをお許し下さい。』
 そしてフランス皇帝ナポレオン三世から賜った十字架を握りしめ、机に新しい便箋を広げた。
 『私は陛下の命により日本へ派遣され、陛下の政策の正当性を証明するため尽力して参りました。しかし革命により軍事顧問団は帰国せざるを得ない状況となりましたが、私一人だけは日本に残り、日本で唯一の親仏派である奥羽越列藩同盟に参加して、これまで作り上げてきた成果を示したいと考えます。教え子である約一、〇〇〇人の同志がいれば、奥羽越列藩同盟軍合わせて五万もの兵を指揮することが可能です。反勢力軍との戦いは苦戦を強いられることになるでしょう。陛下の大切な顧問団の皆を巻き込むわけにはいきません。私は辞表を残して立ち去るべきなのです。
 いまアメリカやイギリスは、反勢力に力を貸していることを陛下にお伝えしなければなりません。私は皇帝陛下より授かったこの十字架に誓い、これまで同様フランスの思想を広めるため、私に残された時間の全てをこの国に費やそうと思います。ご理解ください。
 陛下の下僕たる忠臣ジュール・ブリュネ砲兵大尉より』
 それはどうしてもナポレオン三世に伝えたかった彼なりの祖国への絶対的な忠誠の証しだった。
 ブリュネは榎本の手を握りしめてこう言った。
 「蝦夷に行き、あなたが日本のナポレオン・ボナパルトになるのです! 私が支えます」
 榎本は、その憧れの名前の響きに武者震いを覚えた。このとき既に榎本のもとに結集していた反新政府勢力は、若年寄だった永井尚志や陸軍奉行並だった松平正親をはじめ、彰義隊の残党や遊撃隊の面々、その数二千余名にまで膨らんでいた。旗艦は榎本の乗る戦艦『開陽丸』、以下『回天丸』、『蟠竜丸』、『千代田形丸』の軍艦三隻を従えて、更に『咸臨丸』、『長鯨丸』、『神速丸』、『美賀保丸』は兵を乗せる運送船だが、合計八隻の艦隊は紛れもない榎本艦隊≠セったのである。
 そして慶応四年(一八六八)八月十九日の深夜、榎本艦隊は箱館を目指して江戸を離れた。
 ところが途中暴風雨が艦隊を襲い、美賀保丸と咸臨丸の二隻を失う。開陽丸も損傷し、八月末に何とか仙台港に到着して修理を行うが、そこに一隻の英国商船が追い付いた。甲板から手を振るのはアルテュール・フォルタン軍曹、ジャン・マルラン軍曹、フランソワ・ブッフィエ軍曹の三人で、
 「水臭いぞ、ブリュネ大尉!」
 彼らは皆フランス軍事顧問団で同じ釜の飯を食ったブリュネの友で、彼の脱走を知り、申し合わせてイタリア商人ジャーコモ・ファルファラに頼んで英国商船ガウチョ号をチャーターして追いかけて来たのであった。ブリュネと命運を共にしようというわけだ。
 「お前らも相当なバカだな!」
 ブリュネが言った。
 「なあに、お前ほどじゃないさ!」
 こうしてカズヌーヴも含めて五人のフランス人は、榎本と共に新政府軍に対抗するため立ちあがった。



 元号が明治≠ノ改元されたのは一八六八年十月二十三日(旧暦では九月八日)のことである。この小説では旧暦のまま物語を進める。
 江戸城が無血開城した後、旧幕府軍と新政府軍の戦いはどんどん北上していった。そして新政府軍は白河城と二本松城を落として会津へと向かい、会津藩は鶴ケ城(若松城)に籠城して世に言う会津戦争を繰り広げたが、九月二十二日にはついに降参して、会津藩をはじめとした奥羽越列藩同盟の残党兵は、陸続と仙台にいた榎本武揚のもとへと結集してきた。その数およそ二、五〇〇、中に新選組(甲陽鎮撫隊)の長土方歳三の顔もあった。
 新選組は鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、甲斐国に向かって甲州勝沼の戦いでも敗れた。流山で再起を図る最中、土方とは生まれ故郷を同じくし、京都においても行動を共にし、これまでずっと一緒に戦って来た近藤勇は捕縛され、土方は江戸へ向かって勝海舟らに必死に助命を嘆願するも叶わず、竹馬の友であり、同じ夢を語り、志を同じくし、同じ誇りを抱いた盟友は斬首された。鬼の頬に涙が伝ったのは、後にも先にもこの時ただ一度きりだった。
 何のための戦いか──?
 京都で晒し首にされた近藤のことを思うと、胸が切り裂かれる苦しみに苛まれたが、彼にはもう進むしか道は残されていなかった。
 失意のまま、その後、大鳥圭介率いる幕府軍と合流し、江戸無血開城が成立すると、新選組を含む旧幕府軍の参謀に選任された彼は、がむしゃらに「進め!進め!」と兵を鼓舞して宇都宮城を陥落させた。もとより命などないものと信じて戦ってはいたが、次の壬生の戦いに敗れ、宇都宮の再戦の際、小銃弾で足の指を負傷した時、(いのち)の向こう側にある魂の解放を見た気がした。
 治療のため会津に護送され、療養生活を送りながら鶴ケ城近くの天寧寺に近藤の墓を建立した。手を合わせた時、彼の中に不可思議な境地が開けたのだった。
 誰のためでもない──。オレはこの命の果てにある自由を手に入れたいなのか──。
 それまで抱えていた重い荷物が、このときすうっと全部消えた感じがして、なんだか無性に嬉しくなったのだった。
 怖いものなど何もなくなった──それは京都で新選組を率いていたときも同じだったが、あのときのそれとは明らかに何かが違っていた。
 もはや旧幕府軍が勝とうと新政府が勝とうと彼には関係のない事だった。

 自分自身に生き切ればいい──。

 それは近藤が土方に託した最後の望みかも知れない。
 会津戦争が壮絶を極めた頃、土方は援軍を求めて単身出羽国は庄内藩に向かう。しかし庄内藩とて新政府軍との攻防で援軍どころでない。それからひと月ほど続いた会津戦争は会津藩の降伏で終結し、続いて庄内藩も米沢藩もそれに準じた。行き場を失った土方が、敗戦兵の歩みにつられて進んだ場所が仙台だった。そこに榎本武揚がいたというわけである。
 同じく仙台に逃れてきた桑名藩主松平定敬と大鳥圭介らも乗せた榎本艦隊は、旧幕府が仙台藩に貸与していた『太江丸』と『鳳凰丸』を加え蝦夷地へと向かう。その途中、海賊に奪われていた元幕府船『千秋丸』まで拿捕したから、奥羽越列藩同盟が崩壊したとはいえ、大艦隊に成長した榎本艦隊は旧幕府軍にとって希望の光彩を放っていた。
 明治元年(一八六八)十月二十日、榎本艦隊は箱館から北に十里ほどに位置する鷲ノ木に到着した。
 蝦夷は吹雪である。このとき既に五稜郭は新政府のものになっている。上陸した旧幕府軍は隊を分け、一つを箱館方面に進軍させ五稜郭を目指した。
 鷲ノ木に到着して最初に行なったことは、箱館在留の各国領事に声明書を提出することだった。そのLes Kerais exiles de Toukugawa(徳川脱藩家臣)≠ニ署名された文章はブリュネが書いたもので、そこには、
 「蝦夷は徳川の新たな領地となるでしょう。そして必ずミカドはそれをお認めになるでしょう。我々は祖国で生きる権利があり、その権利を武器に我々は蝦夷地を守る覚悟のある公戦団体です。もしここで戦争が起こっても、あなた方ヨーロッパ代表者と我々は、十ケ月前に大坂で交わされた中立条約を保つでしょう。」
 とある。榎本たちの目的は、あくまで『蝦夷地(えぞち)徳川家永久御預(おあずかり)』だった。
 五稜郭を目指した部隊は、途中、箱館府軍や松前藩軍と交戦するが、いずれも戦い慣れている旧幕府軍の敵ではなく、恐れをなした箱館府知事は青森へと逃げ去り、護る者が誰もない五稜郭を容易に占拠してしまう。次いでその翌日には、土方歳三を指揮官にした七〇〇人あまりの兵で松前城へ侵攻し、海と陸からの攻撃で城を落し、ほぼ同時に江差も制圧して、瞬く間に蝦夷地全域を手中に治めてしまったのである。
 ところがその夜、江差港にあった開陽丸が激しい風波に遭って座礁し、おまけに救援に駆け付けた神速丸も荒波に引き込まれ、当時日本で最強だった戦艦開陽丸は、かくもあっけなく海の藻屑と消えてしまった。その落胆は想像するに難くない。
 しかし彼らに落ち込んでいる暇などなかった。

 五稜郭から南西へ約六キロのところに弁天台場がある。五稜郭が建てられたとき、海の防衛として箱館港を睨む目的で造られた海の砦だが、そこの入口のアーチ型の門といえば、よく本土から兵達の家族などが陣中見舞いに来た際の待ち合わせ場所にもなっていた。当時のことだから観光に来る者など皆無だから、本土から箱館港に降り立つ民間人といえば、ほとんどが外国商船に便乗する商業関係者であるが、その日は珍しく一人の町人姿の人間を連れて来た。しかもまだ二十歳を少し越えたくらいの女で、その顔色は何か大きな心配事を抱えているように青く険しく、女は桟橋に降りると、道を訊ねているのだろう何人かの働く男たちに声をかけながら、やがて弁天台場のアーチ門のところまでやってきた。
 「ブルネ大尉はどこですか? 会わせてください……」
 女は門を守衛する一人の兵にそう言った。兵は旧幕府軍を取りまとめているブリュネの名を知る変哲もない町娘に驚きながら「何の用か?」と聞き返した。
 「妻でございます──」
 兵は態度を翻して敬礼すると、彼女を馬に乗せて五稜郭へと導いた。女はブリュネが江戸に残したトミに相違ない。
 五稜郭の御役所内は、蝦夷における新政府構築についての論議の真っ最中で、数日後に行なう予定の宣言式典をどうするかで白熱した言い合いが建物の外にまで聞こえていた。徳川家から蝦夷地開拓の許可がおりたので、一日も早く行政体制を整える必要があったのだ。トミを連れた兵も中の緊迫感を肌で感じると、さすがに扉を叩きづらい様子で、
 「もうじき休憩時間になると思います。それまでここでお待ち下さい」
 と、近くの待ち合いにトミを案内すると、自分は任務へと戻ってしまった。中から声が響いた。
 「ですから、今回の宣言は建国宣言なのです! 入札(いれふだ)によって我々の大統領を選出するわけですから、れっきとした共和国なのです!」
 熱弁を奮うのはブリュネで、二年も日本にいればすっかり日本語も板についたものだった──そう、彼らが来日してもうちょうど二年になるのだ。
 「大尉の言うフランス式の政治も分からないでないが、我らの目的はしっかりとした政治組織をつくり、いずれ徳川様をお迎えすることなのです。大尉のおっしゃる大統領というのは徳川様でなければならない」
 と異を唱えるのは松平正親。どうも政治体制の根幹に関わるところで西洋思想と日本思想がぶつかっているようだった。ブリュネは続けた。
 「どうか私たちを信じて下さい。共和制というのは我が祖国フランスが、幾千幾万の名もない民衆が革命の末ようやく手に入れた人類の英知なのです! 政治とか国というのは、自由と平等と友愛の上に成立させるべきものなのです。ナポレオン一世がそれを証明し、フランスに自由をもたらしました。君主制はすでに世界の潮流が求めていません!」
 バンっ!
 ブリュネの演説を遮って、机を叩いて立ちあがったのは土方歳三だった。シンと静まり返った会場の視線が一斉に彼に集中した。
 「ちょっと一服──」
 そう言い残すと、土方は参集者の目も(はばから)らず会議室を出た。
 そうして外に出た土方は、大きな背伸びをして待ち合いの舎に入った。そこにいたのがトミで、二人は目を合わせると、小さくお辞儀をし合った。
 「ひょっとして江戸からか?」
 トミの容姿が江戸の薫りを運んでいる。箱館ではとんと見かけぬ都会の色が漂っていた。
 「へえ……」
 土方は久しぶりに聞く江戸訛りの返事に笑みを漏らした。
 「誰に会いに来たのだ?」
 「ブルネさまでございます……」
 その意外な人物の名を挙げる青ざめた応えに、土方はただ事でない事情をすぐに察した。
 「やつなら会議中だ。あの調子だといつまで待っても終わらんぞ」
 そう言って湯呑みに茶を注いで煙管(きせる)を吸い出す。
 「どうやって箱館まで来たのだ?」
 「オロシアの船に乗って参りました──」
 世間話をするうちに、彼女がここにいる理由がおぼろげながら見えてきた。名をトミと名乗るこの女は、江戸でブリュネと出会い同棲生活をしていたようだ。ところが突然愛する男が姿を消し、探し求めて横浜は大田村の旧幕府軍事伝習所に辿り着いたと言う。しかしブリュネは既に箱館へ向かった後で、そこで知り合ったフランス商人ファーブルという男の斡旋を得て、ようやく箱館行きのロシア船を見つけてはるばるやって来たのだと話した。
 「まったく国家を論ずる男が一人の女の面倒すら見れないなんて笑止千万、ついて来い──」
 土方は女の手をとると、荒い足取りで御役所に入り会議中の扉を勢いよく開いた。
 「ブリュネ大尉、客人だぜ」
 ブリュネはトミに気付くと、急に弁舌の言葉を止めて、
 「少し休憩しましょう」
 と言って会議を中断すると、つかつかと彼女に寄って来て、そのまま彼にあてがわれた個室に入って堅く扉を閉めてしまった。二人の関係がどうも気になる土方は、扉に耳をそばだてて、すっかり中の会話を聞いてしまう。
 「何しに来たのか?」
 「久しぶりにお会いできたというのに、何しに≠ヘないでしょ──」
 「こっちは忙しいのだ。悪いがこうしてオトミさんと話をしている時間さえ惜しいのだ。訪ねてきた要件を言いなさい」
 トミは暫く悲しそうに俯いていたが、やがて意を決したように、
 「赤ちゃんが生まれたの……」
 と小さく言った。ところが次にブリュネの口から出た言葉は、彼女にとってあまりに冷淡で残酷だった。
 「それで?」
 トミは耳を疑った。それでも続けて何か言ってくれるだろうと暫く待ったが、結局彼からは子どもに対する言葉は何もなく、
 「落ちついたら手紙を書くから、オトミさんは横浜で待っていなさい」
 そう告げて立ちあがった。
 「待って!」とトミはブリュネの腕を掴んだ。
 「聞き分けのないことを言わないでおくれ。今は君と話している時間がないんだ」
 「お金がないの──子どもが生まれる少し前におとっつぁんが死んでしまって──」
 「それで困って私のところへ来たわけか。よく船に乗れたね?」
 「伝習所にいたファーブルさんが貸してくれました」
 「子どもはどうした?」
 「おかっつぁんに見てもらっています──」
 ブリュネは机から便箋を取り出し、万年筆でフランス語の文章をサラサラ書き終えると、最後に朱印を押して、
 「あいにく今は私も金がない。入ったら百両ばかり送るから、子どもとお母さんと横浜で待っていなさい。この書面をアメリカ領事でもイギリス領事にでも持って行って見せるといい。君を横浜まで届けてくれるだろうから」
 そう言って扉を開けて部屋を出ようとした。そこには土方が立っていて、目のやり場に困った様子で「いろいろありますなァ……」と誤魔化した。
 「会議を再開します。会議室に戻ってください」
 「はるばる江戸からやって来たというのにあまりにぞんざいじゃないですか? これが友愛の国フランスの礼儀ですかい? 会議に出たって難しい話はオレには解からないから、せめておトミさんを港まで送り届けますよ」
 「自由にしてください」
 ブリュネはそう言って会議室へ戻っていった。
 港までの道すがら、終始トミは無口である。部隊の規律や戦場での戦いぶりにおいてはどこまでも厳格で鬼≠ニ呼ばれた土方は、その外見も男前だから京都ではずいぶんたくさんの女と付き合ってきたものだった。けれど泣かせたことは一度もなく、それが男の甲斐性だとも思っていた。だからブリュネのトミに対する態度には腹も立ち、そんな男が論ずる国家論など例え真実であっても信じたくなかった。
 「やつから金を取ろうったって無駄だぜ。オレもそうだが今はやつも文無しさ」
 歩きながら土方は一人で話し続けた。
 「結局、軍人でございと威張っていたって、市民から税金を取らなきゃやっていけないのだからね。なんでも新しく創る国では農民、町人はもちろん、寺社の縁日祭礼の物売りや見世物の売上から、それに賭博まで管理して、あげくは女郎からも法外な金をふんだくろうってんだから聞いて呆れらぁ。共和国だかなんだか知らねえが、そんな市民の血涙を絞るようなことまでして金をまきあげようとする国が長く続くとは思えねえ。なあ、おトミさんよ、言っちゃ悪いがあちらさんはお前さんなどあまり気にかけてない様子だ。生まれた赤ん坊は可哀相だが、悪いこたあ言わねえ、別れた方が身のためだと思うぜ」
 トミは一度静かに笑んだきり、やがて箱館を離れて行った。

 蝦夷に誕生した政府は、結局、徳川家血胤者(けついんしゃ)の派遣を見るまでの措置として、選挙による仮国家を建国することになった。 明治元年十二月十五日、入札(いれふだ)(選挙)によって総裁に榎本武揚が当選、副総裁に松平正親、以下諸役が票数に従って決定した。ここに事実上の蝦夷全島の占有が宣言され、『蝦夷共和国』とも言える独立行政が誕生したのである。
 蝦夷共和国(えぞきょうわこく)──。
 この言葉には歴史学的見地では否定的な見方の方が多いようだが、ブリュネたちフランス人にしてみれば日本史上における確かな共和国≠ナあることに違いはなかった。その理由は、君主制日本において初めて選挙という形をとって作られた政権であり、かつてのフランスが多くの血を流した革命を経て手にした政治体制にも似て、当時日本を取り巻く諸外国もこの言葉を否定しなかったからである。そもそも日本には共和制≠ニいう発想すらなく、この概念自体西洋由来のものである以上、日本にはそれを否定する権利はないのである。双方の言い分はあるにせよ、当時の日本においては画期的な出来事に違いなく、君主制要素と共和制要素とが入り混じった特殊な政治形態であったということだろう。
 ちなみにこの選挙における得票数は、榎本武揚一五六票、松平正親一二〇票、大鳥圭介八六票、土方歳三は七三票だった。



 蝦夷共和国宣言式のあとブリュネは直ちに軍の建て直しにかかった。軍制はフランス式に統一しその再編成を始めたのである。このとき箱館に停泊していたフランス軍艦ミネルバ号から脱走して来たニコルやコラシュらを得てフランス人は全員で十名人になっていた。
 広大な蝦夷地の防備を固めるのは至難の業である。しかも蝦夷共和国の総人数は兵三、〇〇〇人、残りは全て行政に関わる役人で彼らは農民の取り締まりをしていた。三、〇〇〇の兵のうち半分はフランス軍事顧問団が江戸で直接指導した伝習隊だが、残りの半分はオランダ式だったりイギリス式だったりとまちまちで、そこは伝習隊の指導によって統一を図ることにした。特に軍律は不可欠だったので、軍事裁判法典の写しからフランス式軍律の要点を日本語に翻訳し、その写しを四〇〇名で構成した八つの大隊に回覧させ頭に叩き込ませた。
 八つの大隊の指導は、それぞれカズヌーヴ、マルラン、フォルタン、ブッフィエらフランス人が統制し、全軍の軍事指導と任務の改善がすみやかにかつ適切に行われるよう訓練指導用の掲示板を設置した。また、主な訓練場は五稜郭で、マルランが海軍士官だったコラッシュの補佐のもと取り締まった。
 これではまるでフランスの傀儡軍であるが、陸軍全体の総司令官は大鳥圭介で、彼はフランス人から“日本奉行”とからかわれては、いつも、
 「オレにはそんな変な称号は必要ない!」
 と言い返しては「頑固なところはブリュネにそっくりだ」と笑われ、両者の関係は冗談も言い合えるほどの信頼で結ばれていた。
 四つの旅団はそれぞれ八〇〇人で構成され、これはヨーロッパの軍隊に比べれば小規模だったが、ブリュネが見たところ新政府軍と比較すれば大軍隊なので充分戦えると踏んでいた。それぞれの旅団はおよそ次の通りである。

フォルタン旅団(連隊長…欠) 第一大隊長…滝川充太郎、第二大隊長…伊庭八郎
マルラン旅団(連隊長…本田幸七郎) 第一大隊長…大川正次郎、第二大隊長…松岡四郎次郎
カズヌーヴ旅団(連隊長…欠) 第一大隊長…春日左衛門、第二大隊長…星恂太郎
ブッフィエ旅団(連隊長…古屋佐久左衛門) 第一大隊長…永井蠖伸斎、第二大隊長…天野新太郎

 そして総司令長官は土方歳三が務めることになった。
 さらに防衛の配置としては、敵が数ケ所から同時に上陸してきたケースや、一ケ所に集中して上陸してきたケースなど様々に考慮する必要があった。その上でブリュネが最も用心したのは、箱館港と松前港と館浜港と江差港と鷲ノ木港と室蘭港の六つの港である。そこで五稜郭と並んで重要な防衛拠点である箱館港に据えた二〇〇人にはプラディエを指揮官に据えた。そしてマルラン旅団は六〇〇人の兵と共に箱館と有川と大野の境界線を防衛し、フォルタン旅団は四〇〇人の兵と共に鷲ノ木と鹿部と磯谷と川汲を防衛し、カズヌーヴ旅団は六〇〇人の兵と共に松前と福島を防衛し、最後にブッフィエ旅団は四〇〇人の兵と共に江刺とその周辺の防衛担当とした。
 海軍士官コラッシュは五稜郭でブリュネの補佐も務め、ド・ニコールは回天丸に乗船したので、その副官クラトーは他の船に乗船させ、総計二、〇〇〇人の兵は、駐屯地とその周辺の要塞や沿岸地帯、山中の峡谷などに配備することとした。
 五稜郭も当初に比べ強固に修繕されたので護るには二〇〇人もいらない要塞になったので、残りの八〇〇人は大鳥圭介とブリュネがそれぞれ四〇〇人の機動部隊として指揮を務めることにした。
 さらにブリュネは五稜郭周辺に、西の備えとして三稜郭、北の備えとして四稜郭、東の備えとして七稜郭などの砦建設に着手し、その身体は休む間もない。



 アメリカはそれまでずっと中立の立場を守って日本の政治情勢の動向を見守っていたが、明治元年の年の瀬も迫ったころ、突如として局外中立を解除し新政府を支持し始めた。
 すると、戊辰戦争が始まる以前に幕府がアメリカに発注していた戦艦『甲鉄丸(こうてつまる)』を新政府軍に引き渡してしまったのだった。
 実はこの船、アメリカ南北戦争当時に南軍がフランスに発注したもので、体当たりを想定して造船された暴れ戦艦だった。船体自体は木造だが重要箇所は五・六インチのぶ厚い鉄板で装甲されている上、船首の水中部分にラム≠ニ呼ばれる長さ六メートルの衝角(しょうかく)を持っていたから、木造船など当てられればひとたまりもない。さらに十三インチのアームストロング砲や、一分間に一八〇発も撃てるガットリング機関砲も装備していたというから、先の嵐で開陽丸を失った榎本にとっては脅威以外のなにものでない。
 その甲鉄丸が箱館に向かったと聞いた日には、すぐにでも対処しなければならない事情が生まれた。
 開陽丸の損失で海戦において劣勢に立った蝦夷共和国軍は、甲鉄丸を奪取する作戦を立てた。これがフランス海軍のニコール少尉発案のアボルダージュ作戦≠ナある。
 回天丸、蟠龍丸、高雄丸の三艦に外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始と同時に日章旗に掲げ直して甲鉄丸に接触させ、船がつながったところで一斉に陸兵が斬り込み舵と機関を占拠するという海賊まがいの作戦である。ことき旗艦の回天丸の艦長は甲賀源吾で、そこには土方歳三も乗っていた。
 ところが──、
 またしても暴風が襲って幡竜丸はあえなく離脱、高雄丸も機関が故障して戦闘不能、回天丸一隻だけが残ったのだ。ここで作戦を立て直すことはできただろうか? 否、作戦の不履行は幕府艦隊に何の手も加えず箱館が不利になるのを指をくわえて傍観するのと同じ行為なのだ。一か八かの賭けに出るしか道は残されていなかった。
 榎本武揚という男は、よほど嵐を呼び寄せる不運の星の下に生まれたと見える。もし彼が晴れ男≠ニ呼ばれる部類の人間であったら、ひょっとしたら歴史はまた別の物語をつづったかも知れない。
 回天丸は単艦突入して甲鉄丸に接舷したが、回天丸は船体の側面に水車が飛び出た外輪船なので横づけできない。艦長甲賀源吾の操船でなんとか甲鉄丸に乗り上げるも、鉄板で装甲された船体が重く喫水線上が舷側一・五メートル程度しかない甲鉄丸の甲板へは、回天丸の甲板からの高低差が大きく非常に移乗しにくかった。陸兵達が戸惑っているうちに甲鉄丸のガットリング機関砲が火を吹いて、乗り移ろうとする者は次々銃弾の餌食となり、甲賀源吾も頭を撃たれて即死した。回天丸は離脱を余儀なくされ、高雄丸も拿捕された。この『宮古湾海戦(みやこわんかいせん)』で蝦夷共和国軍は完全に制海権を失った。そしてニコールも負傷し、同船していたコラッシュも捕虜として江戸に送られた。
 こうなっては共和国軍は総崩れ。明治二年四月六日、新政府軍一万五、〇〇〇の兵が青森を出航すると、三日後には乙部に上陸、その後、新政府艦隊は江差に砲撃を加えてあっという間に占領してしまうと、新政府陸軍の本隊に加わって、海岸沿いの松前口、山越えの木古内口、乙部から大野への二股口、乙部から落部への安野呂口の四つのルートから箱館へ向けて陸路進軍を開始した。四月十七日には松前城からも撤退するしかなくなって、更にその三日後には木古内も占拠された。
 土方歳三は二股口で奮戦するが力及ばず、大鳥圭介と榎本武揚の部隊も有川にて敗走した。
 もはや蝦夷共和国軍の敗北は時間の問題だった。このときブリュネの片腕だったカズヌーヴも負傷して病院に入院していたのだ。
 敗色濃厚となった五月二日──、
 榎本らはこれまで共に戦ったブリュネをはじめとしたフランス兵を集めてこう言った。
 「もはやこれまででしょう。私達は最後まで戦いますが、あなた方は軍事顧問団としてこの国に派遣されて来ただけで、もともとこの国の住人ではありません。これ以上私達のために尽くして命を落すようなことになったら、私達は地獄に落されてなお弁明の余地がありません。どうか、どうか、これが国際的な軍律と思って、祖国フランスへお帰り下さい。今まで、本当にありがとうございました!」
 榎本とそれに連なる兵士たちは、一糸乱れず、ブリュネたちから真っ先に教わった敬礼をして涙を落した。それに応えてブリュネたちもまた、何も言わずに貫禄のある敬礼を返し、教え子たちの潤む目や目をじっと見つめて、やがて陥落寸前の五稜郭を去ることになった。
 黄昏(たそがれ)て、一日の戦いの疲れを癒すこともしないまま、土方歳三は箱館港に突き出した弁天台場に立って、海から吹き寄せる静かな潮風を浴びていた。不思議なもので、昼間はあれほど激しい銃弾の雨の中を駆け回っていたというのに、この時間になると、あのやかましいほどの破裂音は、穏やかな波の音に吸い込まれてしまったように、今は心さえ落ちついてるのだ。
 港を出入りする外国商船は異国情緒を漂わせ、たまに聞こえる汽笛の音は、死と隣り合わせの戦争の現実を忘れさせ、どこか別の世界へと誘った。
 しかし、この戦争ももうじき終わってしまうのだろうかと思うと、土方は少し寂しくもあり、その後の身の振り方など考えることもなく、漠然と近藤勇のことを思って俄かに笑みを浮かべるのだった。
 「何を見ているんだい?」
 後から声をかけたのはブリュネで、どうやら弁天台場に忘れ物を取りに来たところ、海を見つめる彼を見つけたようだった。
 「なあにも見ちゃいませんよ。潮風が懐かしかっただけです」
 土方は、近藤と一緒に生まれ故郷の武蔵国を離れ、浪士隊として京都へ向かう途中の東海道沿いの浜辺で、将来を語り合った遠い昔のことを思い浮かべていたのだ。
 「フランスへ帰るそうですね?」
 「ええ……私の力が及びませんでした。ゴメンナサイ──」
 「謝られたってねぇ──正直言って、オレだって国のことなんざどうだっていいんですよ」
 ブリュネは不思議な顔をして、
 「どういう意味ですか?」
 と聞いた。
 「あんただって言ってたじゃないですか? 共和国だ、自由だ、平等だって。でもこうなっちまったらそんなもんクソの役にも立たねえってことですよ。途方もない夢物語を追いかけるより、今日生きるための金や、赤ん坊の命の方が大事だとは思いませんか? 横浜に戻ったら──おトミさんだったかな? 大事にしてやらねえと、あんたが言ったことが全部ウソになっちまうぜ。必ず会ってやんなよ」
 ブリュネは苦笑いを浮かべた。
 「私はただ、皆さん方を日本という閉鎖的な国から解放してあげたかっただけです。トクガワとかミカドとかシンセイフとか、そんなところで争っていても日本は何も変わりません。自由を求めて何がいけませんか?」
 「自由──?」
 土方は「ふっ」と微笑んだ。
 「オレはもともと自由だぜ。自由なんてもんは手を伸ばして獲得するもんじゃないよ。もともとここにあるもんなんだ」
 土方は自分の胸に手を当てた。
 「この胸の、ずっと奥底にあるんだよ。規律に厳格で、鬼の土方って呼ばれてきたが、オレは他人にも厳しくしてきたが、己に対してはもっと厳しくしてきたつもりさ。だから自由なんて己を律することができないぼんくら≠フたわ言だと思っていたが、最近なんだかその真の正体が見えた気がするんだ。魂の解放の果てにある景色がね。近藤さんも見たのかなァ? その景色を……。まあ、もうじきオレにもはっきり見えるはずさ。そのときは近藤さんに会う時ですがね。ああ、早く逢いてえなあ……」
 土方は再び暗い海を眺めた。ブリュネは何も言わずに立ち去り、やがてフランス艦コエトロゴン号に乗って箱館を脱出して行った──。

 その後、新政府軍は五稜郭への総攻撃を開始した。箱館山から箱館市街を瞬く間に制圧してしまうと、市街を奪還するため、一隊を率いて馬にまたがった土方歳三が閃光のごとく敵陣に斬り込んだ。しかし、次の瞬間放たれた一発の銃弾は、彼の腹部を貫通し、彼は落馬して絶命した。享年三十五歳の初夏だった。
 こうして明治二年五月十八日、五稜郭は開城、武装解除し、幕末最後の戊辰戦争は幕を閉じた。
 その後榎本武揚ら蝦夷共和国首脳陣は、東京辰の口にある軍務官糾問所に投獄される。
 一方、ブリュネもフランスに帰国し厳しい取り調べを受けることになるが、彼がナポレオン三世に送った手紙が新聞に掲載されると、皮肉にもフランス国民からの絶大な支持を受けることになり、その後軍人としての名を挙げて七十三歳まで生きたという。
 その間、戊辰戦争終結よりわずか一年の後、第二帝政時代を築いたナポレオン三世は失脚し、フランスはまた新たな共和制国家が誕生した。
 そしてトミは横浜にいて、もう届くはずもないブリュネへの手紙を、必死で覚えたカタカナで書いているのであった。

 『ブル()サマ……
 アナタ ホント ウソツキアリマス ウソテガミバカリ
 ワタシ ハコタテマテ アリマシタ
 コドモアリマストキニ ナンニモ ワタクシ ハナスアリマセン
 ()チブ シンジョモ アリマセン……』

 二〇二一年五月六日
(2013・11・29 『五稜郭タワー』土方歳三ブロンズ像前にて拾集)