> 葛之葉(くず の は)
葛之葉(くず の は)
城郭拾集物語H 新潟高田城
シンボルの三重櫓
松平忠輝が造った本丸への極楽橋
本丸のジオラマ



 高田城は全国有数の敷地面積を誇る巨大城郭である。
 その広さは外堀を含めると六〇ヘクタールを優に越えるというから江戸城、大坂城に次ぐ規模である。
 筆者が訪れたのは菜の花の咲く春四月だが、冬は全国でも指折りの豪雪地帯である。なぜ越後の雪深い場所にこれほど巨大な城郭が築かれたのか? 北陸・西東北から江戸へ向かう交通の要衝地であることを知れば、その意図はおのずと想像できる──。
 天下統一を果たしてからも徳川家康にとって金澤の前田家や米沢の上杉家などは不審因子に違いない。この両家は豊臣秀吉の五大老だったことや、関ケ原でも西軍に組した武将との親交も深い。関ケ原以降徳川の配下にはなっていたものの、その存在は家康にとってけっして油断できないものだったろう。特に所領百数十万石を有する前田家は脅威のほか何者でない。その石高は徳川家を除けば日本最大で、家康と逆の立場である時の藩主前田利常(としつね)などは、徳川の目を怖れ、豊臣恩顧の大名達が改易されるとその様子をさぐらせ、常に自分は無能だと思わせる演出に余念がなかったと言う。
 それでも家康は前田家を信用しなかったろうし、また、万が一を考えるのは天下人として当然だ。特に大坂の陣を目前に控えた築城当時は、全国の武将たちの忠誠を見極める必要があった。家康が行なった天下普請には、そんな思惑も働いていたに違いない。
 もともと越後には上杉謙信の春日山城(かすがやまじょう)が存在したが、慶長三年(一五九八)上杉景勝(かげかつ)が会津に転封(てんぽう)されると、替わって入封(にゅうほう)した堀氏は関川を挟んだ東側に福嶋城を築城した(慶長十二年)。関ケ原を経、もはや太平となった世に春日山城のような山城の必要性がなくなったともされるが、北側を日本海、東西を保倉川と関川とに囲まれたその城は、まさに護るにおいては鉄壁と言って良かったかも知れない。
 ところが慶長十五年、堀氏が御家取り潰しとなる。
 そこで家康は、六男松平忠輝(まつだいらただてる)を信州川中島から移して七十五万石の福嶋城主としたわけだが、かの地は毎年雨期になると関川や保倉川が決って氾濫する場所であり、おまけに防備が堅い分攻めるには不利な城だから、例えば前田家が江戸に侵攻した場合、関川が邪魔になってその機能を果たせない。「海の音がうるさくてよく眠れなかった」と言う者もいるが、四年経って城主忠輝は、福嶋城を廃して高田の菩提ケ原(ぼだいがはら)へ新城を築いて移る。福嶋城は築城よりわずか五年ばかり存在した幻の城となった。

 忠輝が築いた平城高田城には二つの特徴がある。
 一つは天守閣が建築されなかった点、二つは石垣がなく全体を土塁(どるい)でめぐらしている点である。その理由として豊臣家との決戦を間近に控え、完成を急ぐ必要があったから≠ニパンフの説明にあるが、「果たしてそれだけか?」と考えてしまう筆者の(へき)は想像力を掻き立てる──。
 驚くのはその築城に要した時間である。
 慶長十九年三月十五日に着工して同じ年の七月上旬には一応の完成を見たというからわずか四ヶ月。築城に名を連ねた武将の名を挙げれば、縄張(なわば)りをはじめ陣頭指揮を執ったのが仙台城主伊達政宗(だてまさむね)、普請奉行に尾張名護屋城でも奉行を務めた滝川忠征(たきがわただゆき)と、伊東政世(いとうまさよ)山城忠久(やましろただひさ)などはあまり聞かない名であるが、そのほか金沢城主前田利長(まえだとしなが)利常(としつね))、奥州盛岡城主南部利直(なんぶとしなお)、若松城主蒲生忠郷(がもうたださと)、出羽山形城主最上家親(もがみいえちか)、米沢城主上杉景勝(うえすぎかげかつ)、秋田城主佐竹義宣(さたけよしのぶ)、信州小諸城主仙石秀久(せんごくひでひさ)、松代城主真田信之(さなだのぶゆき)、松本城主小笠原秀政(おがさわらひでまさ)、甲斐谷村城主鳥居成次(とりいなりつぐ)、越後村上城主村上忠勝(むらかみただつぐ)、新発田城主溝口宣勝(みぞぐちのぶかつ)の大名たちが関わった。気になるのはその殆どが外様大名で、しかも前田利長と上杉景勝などは、城の地理的にも家康に最も牽制される側の者である。
 高田城築城の背景には、一つに『加賀の前田家、出羽の上杉家に対抗するため』、二つに『諸大名に天下普請を命じ経済的圧迫を加えようとした』、三つに『佐渡金山の支配を強化するため』とか言われるが、当然それも含めて家康には別の思惑もあったと見える。それは、豊臣家を滅亡させるための大坂の陣を目前にした彼にとって、関ケ原で生き残った残党の存在が何より怖い──つまり、『不審因子に徒党を組ませる動きをさせないため』、『天下普請を通して不審因子の忠誠を確認するため』、そして『六男松平忠輝(まつだいらただてる)を使って不審因子を押さえ込む』ということだ。
 突貫工事の天下普請はわずかの間に関川(せきがわ)の流れを変え大きな外堀を作ってしまう。その幅は広い場所で約一三〇メートル、さらに内堀の内側を高さ十メートルの土塁で囲み、その全周は一、〇〇〇メートルに及んだと言う。
 そして筆者はこの急ピッチで進められた工事に別の疑問を持つ。
 「高田城は忠誠を示す参加大名の団結の賜物(たまもの)なのか? それとも本当に突貫工事のやっつけ仕事≠セったのか?」
 と。
 エジプトのピラミッドが五千年経た現在なおその形が保たれるのは、絶対権力に服する奴隷(どれい)によるものでなく、自由な農民たちと選ばれた技術者たちの使命感≠ノよるものだとしたら、高田城はそのどちらだろうかと――。
 城を象徴する(らぐら)は築城当初は二重だったそうだ。そして寛文地震のあと三重に建てなおされ、その後時代が流れ明治の火災で本丸御殿を含めて焼失してしまったが、平成五年(一九九三)、多くの市民の要望に応える形で『上越市発足二十周年記念事業』として再建されたのだそうだ。
 往時は、外堀の内側の地形を上空から見ると法螺貝(ほらがい)に似ていたことから螺城(らじょう)とも呼ばれ、旭日が昇るように輝くという意味で高陽城(こうようじょう)と呼ばれることもあるそうだ。
 本丸に入るには内堀に架かる極楽橋を渡り、蹴出門(けだしもん)をくぐって枡形(ますがた)に進む。そこを右に曲がって本城御門をくぐれば左に二条城とも見まごう本丸御殿が現れた。そこに初代城主松平忠輝は住んでいた──。
 ここが今回の物語の舞台である。



 天正二十年(一五九二)一月、江戸城にひとつの産声があがった。
 出産の苦しみに耐えた茶阿局(ちゃあのつぼね)は、美しい両目に涙をためて、
 「まあ、なんて可愛い男の子……」
 と呟いて、泣き叫ぶ赤子を産婆から抱き寄せると、在りし日のことを思って大粒の雫を落した。
 彼女は徳川家康の側室で、もともとは遠江国(とおとうみのくに)にある金谷村の鋳物師(いものし)の後妻で、於八(おはち)という名の幼い娘を持っていた。ところが生まれつきの美貌から、その容姿に惚れた村の代官に夫を殺害されてしまい、幼い娘の手を引いて、命からがら逃れついたのが鷹狩をする家康の前だった。
 「どうした? そんなに血相を変えて」
 「追われております! どうかお助け下さいまし!」
 事情を聞いた家康はすぐさま村の代官を捕えるが、その美貌に今度は家康の目がくらんだ。そのまま浜松城に連れ帰り、以来側室としてしまったのである。
 ところが、生まれたばかりの赤子の顔を見て家康はこう言った。
 「なんと色黒い赤子じゃ。目じりが吊りあがって恐ろしい(そう)をしておる。気味が悪い、捨ててしまえ!」
 茶阿局の身分が低かったためか、あるいは豊臣秀吉も嫡男鶴松が産まれた時に「強い子に育つように」と願いを込めて行なった捨て子の儀式(安育祈願)≠ニ同じことをしたものか、産まれたばかりの子を寺の門前に捨て、側近の本多正信に拾わせた。
 辰年に生まれたので幼名を辰千代(たつちよ)と名付けられたその赤子こそ後の忠輝で、以来家康の六男として生きることになる。こののち下野国(しもつけのくに)の栃木城主だった皆川広照(みながわひろてる)に預けられ養育された。
 ところで家康には十一人の男子がいる。物語のこの時点では忠輝を含めて六人だが、長男信康(のぶやす)は武田氏との内通の疑いをかけられ切腹しており、次男秀康(ひでやす)は豊臣秀吉の養子となっていたので、実質的には四人ということになる。そして三男秀忠(ひでただ)は後に二代将軍になる子であり、四男忠吉(ただよし)は家康の家臣井伊直政の娘婿になるが慶長十二年(一六〇七)には病死し、生来病弱だった五男信吉(のぶよし)も、慶長八年(一六〇三)わずか二十一歳にして夭逝(ようせい)する。
 ところが家康はどういうわけか忠輝に対して冷淡で、翌年茶阿局(ちゃあのつぼね)との間に生まれた七男松千代の方を可愛がり、生後間もないにかかわらず長沢松平家を相続させて深谷一万石の藩主とした。
 忠輝が七歳になったときに家康が言った言葉がこうである。
 「なんとも恐ろしい面魂(つらだましい)じゃ。腹を切った信康の幼い頃にそっくりじゃ……」
 彼の顔に嫡男信康を見い出したのである。ところが、
 「鬼っ子め!」
 と言ったその言葉に忠輝は深く傷ついた。
 しかし家康は、慶長四年(一五九九)に弟の松千代が六歳で早世してしまうと、その後嗣(こうし)に忠輝を選び十一歳で元服させ、慶長八年(一六〇三)二月、十四万石の城主として信濃国川中島の待城(まつしろ)に移封したのだった。
 このとき御附家老(おつきがろう)となったのが幼少より忠輝を養育してきた皆川広照であるが、忠輝の粗暴な性格にとんと手を焼いていた。幼い頃は「お(んま)になれ!」と言っては四つん這いにさせて背中で暴れ、少し成長したかと思えば「剣術の稽古はいやじゃ、鷹狩に参る」、「甘い茶菓子を持って参れ、さもなくば打ち首じゃ」と聞き訳がなかったり()(まま)放題で、広照ら家臣はたびたび諌言(かんげん)するも、最後はいつも「わしは公方様(くぼうさま)御子(おこ)である!」と権力をかざす始末。父に冷たくあしらわれていた分そうした態度に現れたものか、困り果てた広照は家康に相談すると、
 「それほど粗暴か。そちの手に余るなら、お前の他に別の御附家老(おつきがろう)を付けよう。これからも苦労をかけるが、褒美に信濃国飯山城を与える」
 と、思わぬ昇格に広照は喜んだが、その後忠輝の御附家老に就いたのが、家康腹心の大久保長安(おおくぼちょうあん)だった。この男との出会いが忠輝に絶大な影響を及ぼすことになる。

 大久保長安というこの男──
 もともとは猿楽師(さるがくし)の次男で武田信玄に仕えていた。生来経理と人を束ねる才があったようで、武田領においては金山開発や税務なども担っていたようだが、信玄亡き後はその子勝頼に仕え、長篠の戦いで武田氏が滅ぶと三河国に移り住み家康の家臣となった。
 天正十年六月、本能寺で信長が死去すると甲斐は家康の所領となる。そこで甲斐の内政再建を命じられた長安は、釜無川や笛吹川の堤防復旧をはじめ新田開発や金山採掘などにも尽力し、わずか数年で甲斐の再建を見事に果たす。
 その後の功績もあり、関東代官頭に任じられ家康直轄領の経理差配(さはい)の一切を任された長安は、天正十九年(一五九一)には武蔵国八王子に八、〇〇〇石の所領を与えられた。すると八王子宿に陣屋を置き、次いで八王子十八人代官を置いて宿場の建設を進め、さらには浅川の氾濫を防ぐための土手まで築いた。その他にも武蔵の治安維持と国境警備の重要さから旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心≠創設し、これは間もなく八王子千人同心≠ニなって幕末まで続くことになる。いわゆる長安は侠客(きょうきゃく)(かしら)にも似ていた。
 関ヶ原の戦いの後も、大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役と活躍の場を広げ、徳川四奉行の補佐において甲斐奉行、石見奉行、美濃代官と、家康からの信任は非常に篤かった。
 特に忠輝の御附家老に任じられた慶長八年のこの頃は彼にとっても絶頂期で、破格の従五位下石見守に叙任されたほか、佐渡奉行や勘定奉行にも任じられ、幕府老中にも列せられた。この数年後には伊豆奉行にも任じられ──早い話が、家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切の奉行職を兼務していたのである。その権勢は天下の総代官≠ニ称されるほど強大で、八王子の所領に加えて家康直轄領の一五〇万石の実質的な国土交通と財政の支配者と言ってよかった。
 とにかくその性格といったら豪放磊落(ごうほうらいらく)なうえ考えることも雄大豪壮(ゆうだいごうそう)で、そこに側女(そばめ)を七〇人から八〇人も抱える無類の女好きときたからもはや常人でない。そのくせ計算においては恐ろしく精妙巧緻(せいみょうこうち)だから、青少年を手玉にとるくらいわけない話なのだ。
 このとき忠輝十二歳。長安は彼の粗暴な態度を見つけては、
 「もっとやれ、もっとやれ、忠輝様にも次期将軍になる資格があるのでございますから、どうせ暴れるなら、いっそのこと天下をひっくり返す気概(きがい)でやりなされ!」
 と(あお)り立てた。そう言われると、家臣たちの困る顔が楽しみで荒くれたり粗野な態度をとっていた忠輝はつまらない。どうすれば長安を困らせることができるだろうかと、逆に学問に打ち込んでみたり、笛の稽古をしてみたり、家康の兵法指南役だった奥山休賀斎(おくやまきゅうがさい)の奥山神影流道場に通って武術や兵法に傾倒してみたり、本来至極(しごく)真面目で利発な性分が開化した。
 慶長十年(一六〇五)、将軍職が兄秀忠に譲られたとき、
 「おい長安、お前はオレに次期将軍になる資格があると申したが、兄が徳川家当主を継いで征夷大将軍になってしまったではないか! もはやオレなど不要の長物だ」
 と言ったことがある。長安は平然として、
 「なにを仰せになられます。昨日の襤褸(つづれ)今日の(にしき)と申します。合従連衡(がっしょうれんこう)ということもございましょう。明日の事など誰にも分からないのですよ。これはけっして口外無用に願いますが、私の見るところ秀忠様は世をまとめる(うつわ)ではございません。大御所様(家康)もそれをきちんと見抜いておられます」
 「なんと申した? なれば父上がオレにする冷たい仕打ちはいったいどう説明するのか?」
 「大御所様のお考えは私などには計りかねますが、おそらくもっと強くなれ≠ニ言っているのでございます。でなければこの私を御附家老(おつきがろう)になどさせません」
 「な、なんと──」
 言われてみれば、忠輝には父家康の数々の冷たい仕打ちの中に、たまに愛≠フようなものを感じることがあったのだ。長安は続けた。
 「忠輝様には忠輝様の付き合うに相応しい人物というのがございます。ここはひとつ、一人の大物大名をご紹介いたしましょう。きっと大御所様もお喜びになられますぞ」
 紹介≠ニは縁組のことである。とにかく長安は人脈も半端ない。彼の子供たちは石川康長や池田輝政の娘と結婚していたり、長女もまた服部半蔵の次男正重に嫁いでいた。そして長安がこのとき忠輝と引き合わせたのが、石高六十二万石の仙台藩主伊達政宗が、愛姫(めごひめ)との結婚十五年目にして初めて授かった待望の嫡出子(ちゃくしゅつし)五郎八姫(いろはひめ)だった。時に忠輝十五歳、五郎八姫(いろはひめ)は十二歳の冬である。
 「五郎八(ごろはち)とは勇ましい名であるの?」
 化粧をしてませて見せようとしているが、その幼さを隠しきれない美しい姫に忠輝はそう聞いた。
 「父上は男の子が欲しかったようで、生まれた私に男の子の名しか考えてなかったと申します。その名がごろはち≠ナ、私が女と知って慌てて五郎八≠ニ書いていろは≠ニ読ませることにしたのだと聞いております」
 「せっかちな父であるな」
 「わたくしに似て……」
 五郎八姫(いろはひめ)はポッと頬を赤らめた。
 愛らしい丸みのある輪郭に、整った両目はいつも穏やかな笑みを浮かべ、小さな鼻立ちの下に桜を思わせるような唇──夢心地の若い忠輝は、一生この娘と添い遂げようと決意を新たにしたのであった。



 忠輝の実母茶阿局(ちゃあのつぼね)の実兄は石田三成の家臣である。
 その息子の山田隼人正勝(やまだはやとのかみかつしげ)は三成の長女を妻にしており、関ヶ原の後生き延びて、哀れに感じた茶阿局はこの甥っ子を忠輝の家老に取り立てていた。あわせて前亡夫との二人の息子も忠輝の小姓として召し出し、娘婿となっていた花井吉成(はないよしなり)までも家老に取り立てたのだが、その存在を嫌った古参の山田勝重という家臣が同僚の松平清直を味方につけ、さらには皆川広照を担いで忠輝を引き合いに出して陥れようと結託した。わざわざ家康のいる駿府(すんぷ)にまで赴き、
 「忠輝様の素行が一向に改まりません」
 と訴えた。家康が、
 「伊達政宗の娘を(めと)ってから心を入れ替えたように品行方正になったと聞くが、どういうことか?」
 と聞き返すと、山田勝重は「実は──」と言ってから、茶阿局(ちゃあのつぼね)の娘婿花井吉成が家老になってからというもの、忠輝を思い通りにそそのかして家中を乱しているとまことしやかに口述した。その話を静かに聞き終えた家康は「真相を確かめて処分を決める」と言って川中島から忠輝を呼び寄せ真意を(ただ)した。すると忠輝は、
 「妄言を申しているの山田らの方でございます。私もまだまだ未熟ゆえ、相変わらず粗暴な振る舞いをしてしまうことがあったかも知れませんが、それが原因で家中が乱れているようなことは決してございません。母上の娘婿もよく尽くしております。もしかような疑いがかけられているとしたら、それは山田らが思い通りにならない不満、政務を牛耳(ぎゅうじ)っている証拠ではありませんか」
 家康は忠輝をじっと見つめ、何も言わずに目線を皆川広照に移してこう言った。
 「お前は幼少より忠輝を見て来て一体なにを授けた? 御付家老失格じゃ!」
 そう怒鳴ると改易を言い渡し、真偽も確かめずに山田の口車に乗せられた格好の松平清直には減封を、そして全ての首謀者と断じられた山田勝重には切腹という厳しい処分を言い渡したのだった。

 こんな事件を経て間もなくの慶長十五年(一六一〇)(うるう)二月、突然忠輝に越後国福嶋藩(高田藩)への移封(い ほう)が命じられた。実に川中島十四万石と合わせ三十万石の加増である。忠輝は改易された堀忠俊(ほりただとし)の福嶋城へと移り、川中島領は花井吉成が待城(まつしろ)城代となって、先の事件で減封された松平清直は五千石で復帰した。
 忠輝と五郎八姫(いろはひめ)は新天地の北に広がる春の海を見ていた。
 山桜が咲き始めているというのにその風は冷たく、岸辺に群れるカモメを見つめて五郎八姫はぽつんと呟いた。
 「なぜだろう? お江戸で見た海はどこか温かく感じたのに、ここの海は春だというのに冷たく見える」
 「波が荒いせいだろう。北から吹く風は大陸の寒気を運んでくるから冷たいのだ」
 忠輝がそう応えると、そこへ、どこからともなく白い子狐(こぎつね)が現れて、カモメを狙って身をかがめているのをみつけた。その様子に五郎八姫は何か思い出したように別の話をしはじめた。
 「幼き日、まだ私が京都にいたころ、摂津国(せっつのくに)に伝わる信太妻(しのだづま)のお話を母から語り聞いたことがございます。悲しい白狐(しろぎつね)のお話でございました──」
 それは平安時代、村上天皇治政の世──
 摂津国に安倍保名(あべのやすな)という一人の男がいた。ある日、信太(しのだ)の森に入った際、野狐の生き肝を得ようとする狩人に追われた白狐を助けたが、その代償に大怪我をしてしまう。すると傷で苦しむ保名のもとへ葛之葉(くずのは)≠ニ名乗る若い女がやってきて、甲斐々々(かいがい)しく手当をして保名を家まで送りとどけると、そのまま介抱するうちにいつしか恋仲となり、やがて二人の間に童子丸(どうじまる)という子が生まれ、三人の家族は幸せな日々を過ごすのであった。
 六年目のある秋の日のことである。
 葛之葉(くずのは)は、庭に咲く美しい菊にすっかり心を奪われていた。すると自分が狐であることを忘れ、うっかり尻尾を出してしまっていたのだ。それを見てしまったのが童子丸。正体を知られた葛之葉(くずのは)は、「ともに暮らすのもこれまで」と、次の一首を残して信太の森へと立ち去った──。
 その歌を、冷たい海を見ながら五郎八姫は悲しそうに口ずさむ。
 「恋しくば、尋ね来て見よ和泉なる、信太の森のうらみ葛の葉……」
 ──保名と童子丸は母を求めて信太の森を彷徨(さまよ)った。そして森の奥深く来たとき、ようやく二人を見つめる一匹の白狐が涙をこぼしているのを見たのである。
 「葛之葉かい? その姿では童子丸が怖がるよ。もとの姿になっておくれ」
 と保名が言った。すると白狐は傍らの池に自分の姿を映したと思うと、たちまち葛之葉に姿を変じた。
 「わたしはこの森に住む白狐です、命を助けられた恩に報いるため、今までお仕えさせていただきましたが、ひとたび狐と知られた以上、もはや人間の世界にはもどれません……」
 そう言いながらとりすがる童子丸を諭して、形見にはくめん∞はくじゃ∞はくじゃく∞ききん≠ニいう三千世界を見、鳥畜類の言葉を聞き、人の病気の原因を知り、世上の運気を知る不思議な四品を残して再び狐の姿となって森の奥へと消えていった。
 この童子丸こそ、やがて陰陽道の始祖となる安倍晴明(あべのせいめい)だということである──。
 「おいで……」
 五郎八姫はしゃがんで白い子狐を手招いた。すると子狐は、逃げる様子もなくいそいそと彼女の近くに寄ってきて、その手に抱かれたのである。
 「まあ、なんてかわいい子狐でしょう!」
 忠輝は狐を見てぎょっと驚いた。右目が白濁して見開いたままだったのだ。失明しているに相違あるまい。ところが五郎八姫は「父上とおんなじ!」と怖がる様子もなく、むしろ「父上の化身じゃ!」と喜んで、葛之葉(くずのは)≠ニいう名前を付けてしまうと、福嶋城に連れて帰ってすっかり友達にしてしまった。
 思えば妻の義理の父親である伊達政宗とは、祝言の時に会って以来一度もゆっくり話をしたことがないと忠輝は思った。
 あの頃の政宗は、諸大名との交際しきりで様々な情報収集に忙しい。付き合いのための贈答品に心を砕き、ド派手な酒宴、歌会、茶会、能見物を催して世間を「あっ!」と驚かせたり、豪華∞絢爛(けんらん)∞見栄∞(いき)≠ネどを意味する伊達≠ニいう言葉が使われ出したのもこの頃からで、死に装束で秀吉に面会したという話も有名だった。(ちまた)では、すざまじい意気をもって周囲を圧倒する事を伊達をする≠ニか伊達る≠ニ言っては持てはやしているのだ。
 「父は右目が見えない分だけ、人の心が見えるのだと申しておりました」
 あるとき五郎八姫(いろはひめ)がこう言った。
 「なるほど!」と忠輝は思う。障害を持つ人間というのは、不自由なその部分を補おうとして、生きるために超越した別の機能を異常なほど発達させるものか。ひょっとしたら見えない右目で世間の民衆感情というものを敏感に読み取り、すべき行動を的確に判断しているのかも知れない。
 この頃の政宗は世界≠ニいうものに目覚めていた。
 慶長十四年(一六〇九)九月、上総国岩和田村沖でスペイン船サン・フランシスコ号が難破し村人はその救援に努めたが、それから二年後の慶長十六年六月、スペイン国王からの返礼と日本埋蔵の金銀の調査を兼ねて浦賀にやってきたのがセバスティアン・ビスカイノという男である。彼は家康と謁見し日本沿岸の測量の許可を得た後、十一月には仙台に来て政宗と会う。そして他の地域の測量を終え帰国しようとするのだが、暴風雨が襲い、大破した船は航海不能となって再び浦賀に戻ったのだった。ピスカイノは幕府に船の建造を申し入れるが受け入れられることはなく、このとき名乗りを挙げたのが伊達政宗というわけだった。
 二人の間でどのような会話がなされたかは知らぬが、政宗の視野が日本から世界に広がったことは間違いないだろう。仙台藩はビスカイノのためにサン・ファン・バウティスタ号≠造船し、海外貿易を名目に家康から承認を得ると、慶長十八年(一六一三)九月、家臣支倉常長(はせくらつねなが)ら一八〇余名をヨーロッパへと派遣する。いわゆるこれが慶長遣欧使節団である。
 「伊達政宗という人間ともう一度会って、ゆっくり話がしてみたい──」
 忠輝は、美しい五郎八姫の姿からは想像できない巨大な政宗像を想い描いては、一日も早く会ってみたいと胸を膨らませた。
 ところが、その政宗と引き合わせてくれた大久保長安は、最近すこぶる体調が悪い。
 医者に言わせれば中風(ちゅうぶ)と言うが、家康などは心配して自ら調合したという烏犀円(うさいえん)という薬を飲んではいるが、その病状は悪化するばかり。そのうち身体を動かすこともできなくなって、あれほど多く抱えていた代官職も次々と罷免されていく。人の栄華とは崩れる時は、浜辺の砂の城のように儚く消えゆくものか。このころは全国で採掘されていた金銀の量も激減しており、長安がこのときもっとも愛していた妻も若くしてこの世を去った。
 そして慶長十八年(一六一三)四月二十五日、大久保長安は六十九歳で没する。その遺言は、
 「わしの遺体は黄金の(ひつぎ)に入れ、葬儀は華麗に行なえ」
 だった。その派手好きさは政宗にも似て、二人は非常に気が合ったと思ゆ。
 しかし長安が死んで間もなく、生前の不正貯蓄が大問題となった。長安の子たちは幕府の調査を拒否したために、同年、嫡男、次男、そして三男から七男までの息子たちには切腹の沙汰が下され、縁戚関係にある諸大名もまた改易されるなどの厳しい処分を与えられたのである。
 秀忠に家督が譲られてより、世の政治は二元体制のもと行なわれていた。もちろん家康の権限は何より強いものではあったが、基本的には秀忠は徳川家直轄領と譜代大名を統治し、家康の方は主に外様大名との折衝を担当していた。だから長安の親族たちの処分は秀忠が下したもので、
 「なんとも兄は身内に厳しいのぉ……」
 と、忠輝はぼやいた。



 慶長十九年(一六一四)初め、幕府より忠輝に高田城築城の命が下った。そして新しい城の縄張りを決めるのに選任されたのが五郎八姫の父伊達政宗である。
 「父上が来られるのですか!」
 白狐の葛之葉を抱いて、五郎八姫は小躍りして喜んだ。こうして春三月、政宗は越後に入る。ちょうど昨年の秋、仙台から慶長遣欧使節団の航海を見送って間もなくのことである。

 家康はなにより豊臣秀頼の存在を怖れていた。
 少し前までは豊臣家との融和を図っていたが、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の即位に際して上洛した際、将軍秀忠の娘である千姫を輿入れさせた秀頼と初めて会った時、その神々しいまでの容姿に目を奪われたのだ。このとき秀頼十七歳、
 「まさに天下を治むるに相応しい資質を備えておる──これほどの威光が我が息子の一人にでもあったなら……」
 家康の羨望(せんぼう)は恐怖へと変わった。
 その会見の後、浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、前田利長といった豊臣家恩顧の武将たちは次々とこの世を去り、豊臣家は一層孤立を深めていたが、家康はそこで安心するのでなく、豊臣家を滅亡させる好機と捉えた。戦国最後の戦を起こす機会を虎視眈々と狙っていたのだ。
 その一方では天下普請の大義名分のもと、全国の築城計画は着々と進められている。東海道の押さえとした膳所城(ぜぜじょう)を皮切りに、伏見城、二条城、彦根城、篠山城、亀山城、北ノ庄城、そして名古屋城の再建、造営や江戸城、駿府城、姫路城、上野城などの大改修と、全国の諸大名を動員させて盤石な国造りを目指す。忠輝の高田城もその一つである。
 ところが高田城と同時期に工事が進められた名古屋城普請において、家康は豊臣家にも動員を命じたが、秀頼の母淀殿(よどどの)はこれに応じなかった。そして家康の豊臣攻めを決定的なものにしたのは、かねてより豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿の完成を間近に控え、この年の四月に鋳造された梵鐘(ぼんしょう)が設置され、あとは家康の承認を得て開眼供養の日を待つだけだったところ、梵鐘に刻まれた『国()()』『君()()楽』という文字に対して家康が、
 「家康の名を切り、豊臣は君として(この)むとはけしからん!」
 と言い出した。目的達成のためにはこんな些細なことまで口実にする家康なのである。
 高田城の築城工事は、まさに徳川家と豊臣家が見えない水面下でそんな激しい攻防を繰り広げていた最中に行なわれている。
 建築予定地の高田の菩提ケ原(ぼだいがはら)に立って政宗(まさむね)は忠輝に言った。
 「なあんにもないところであるなぁ……。婿殿(むこどの)には何が見えますかな?」
 「私にはきらびやかにそびえ立つ天守が見えます」
 「ほう、しかしそれは、たかだか数万石の大名の台詞(せりふ)だな。越後国高田は七十五万石を有するのだから、もっと大きなものが見えはせぬか?」
 「では義父上(ちちうえ)には何がお見えになるというのです?」
 政宗はニッと笑んで、
 「海の向こうのエスパーニャが見える──」
 と言って続けた。
 「エスパーニャには江戸城の何倍もあるとんがり帽子の建物がいくつも建ち並んでいると言うわい。その国の人間はわしの国の三郡から切り出してもまだ足らぬ木材で(こしら)えた大きな船で、大海原を自由に行き来しておるのだ。世界にはわしの知らない国がまだまだあるらしい。仙台じゃ高田じゃと言ってる場合でないぞ。どうも宣教師どもの住む国は、この国より文明が進んでいるようじゃ。わしは世界の富を手に入れたい。空言(そらごと)と思うかい?」
 「いいえ、左様な国があるなら私もぜひ行きたいものです」
 政宗は「あはは」と笑い出した。
 「わしくらいの年になると、もう天下などどうでもよくなってしまったわい。この国のことは若いもんに任せて世界と貿易がしたいのだ」
 「貿易ですか……」
 「どうも大御所様(おおごしょさま)は宣教師の連中を嫌っているようだが、やつらから奪い取れるものは山ほどあるぞ。どうじゃ、将軍になってそういう国を創ってみぬか?」
 「えっ?」と漏らして忠輝は黙り込んだ。政宗はさらに続ける。
 「どうも秀忠様はケツの穴が小さくて困る。細々(こまごま)と自国の事ばかりにご執心の様子でまるで全体が見えておらぬ。しかしそういう人間ほど権力を握ると手がつけられん。いずれ身内だろうと腹心の友だろうと容赦なく粛清(しゅくせい)をはじめるぞ。油断するな──そうなれば、婿殿が大久保長安殿のご子息を護れなかったように、わしとてどうしようもできんからな」
 このとき二十三歳の忠輝にはその本意がよく解らなかった。

 三月十五日から着工された高田城の縄張りは伊達政宗の担当である。天然の地形と川の流れを利用しながら関川、青田川、儀明川(ぎみょうがわ)の流路を変え、東北、北陸、信濃などから集められた十三名の大名たちに従えられた一万人にも及ぶ人足で大工事は急ピッチで進められた。たまに疲れを癒すために戻る福嶋城ではいつも五郎八姫が待っていて、日本海で猟れた海の幸で盛大にもてなすのである。
 「婿殿とは仲良うしておるようじゃな?」
 世界を語る政宗も、こと自分の娘のこととなると、その幸せは重大問題のようである。
 「はい。少し気の荒いところもございますが、わたくしにはとても優しく接して下さいます。わたくしの事より父上の方はどうなのですか? 母上(愛姫(めごひめ))は息災でしょうか?」
 あのあどけなかった五郎八姫が、父の心配をするほどまでに成長したかと思うと、政宗は急に笑い出した。
 「(めご)はずっと江戸じゃ。手紙でも書いて慰めねばならんな──それよりその(きつね)は何じゃ?」
 政宗は娘に抱かれた白狐を珍しそうに手に抱いた。
 「飼っているのでございます。葛之葉(くずのは)と申します」
 政宗は左目でじっと白狐の同じ左目を見つめて「片目が潰れておるのぉ」と呟いた。そして次に首に吊り下げられたネックレスに目を移し、
 「これは(めご)から譲り受けた十字架ではないか?」
 と聞いた。
 「はい。大御所様がキリシタン禁教令を出したと殿(忠輝)から聞きました。へんに疑われるのも不本意ですので葛之葉の首につけております」
 「賢明だな。前田家に(かくま)われていた高山右近(たかやまうこん)も家族と共に金沢を発ち、亡命の旅に出たそうじゃ。大御所様はキリシタンを目の敵にしているようだから、くれぐれも気を付けるのじゃ」
 高山右近といえばキリシタン大名の筆頭に挙げられる人物である。豊臣秀吉からの信頼も厚く一時は播磨国(はりまのくに)高槻(たかつき)に六万石を与えられたこともあったが、秀吉からバテレン追放令が出されると、領地と財産のすべてを捨て信仰の道を選んだほどの男で、この年の二月まで前田家に匿われていた。権力者にとっては信仰に生きる人間ほど恐ろしいものはない。この時期の家康にはこうした不審因子を完全に排除する必要があったのだろう。
 さて、築城に関わる大名たちは、家康に違背の意志がないのを示すため総力を挙げ、また競うようにして作業に取り組む。城郭の西側には土木職人や大工職人が住む町が形成され、内堀を本丸へ渡す太鼓橋(たいこばし)も造られ、城を象徴する二重櫓が完成し、その作業がほぼ完了したのは同じ年の七月五日のことである。その間わずか四ケ月、まさに電光石火の早業であった。
 家康はその完成を待っていたかのように、方広寺の鐘銘(しょうめい)をめぐる問題で豊臣秀頼の断罪を決定した。そして全国の大名に大坂への出陣の命令を下す。その意味から高田城築城は、家康が打った戦国最後の布石と言える。
 「大御所様からの出陣命令じゃわい。ろくな石垣もないしまだ天守もないが、福嶋の城下町をそのままこちらに持って来て、佐渡の金銀輸送のための北陸街道と、信濃へ通じる北国街道を整備すれば立派な城下町の完成だ! ここまでできていればあとはなんとかなるだろう──五郎八姫をよろしく頼むよ」
 政宗は忠輝にそう言うと、慌ただしく高田を去って行った。



 慶長十九年(一六一四)秋──風雲は急を告げていた。
 家康の言いがかりとも言える秀頼征伐の決定に、豊臣家は秀吉が遺した莫大な金銀を使って旧恩のある全国の大名や浪人衆を集めて召し抱えたが、その援軍要請に応える者は数えるほどしかなかった。それでも明石全登(あかしたけのり)や後藤又兵衛、真田幸村や長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、毛利勝永のほか塙直之(ばんなおゆき)や大谷吉治などが集まって、およそ十万の陣容を整えた。彼らの中には豊臣家の再興を願い、討ち死に覚悟で忠義を尽くそうとする者もあったが、そのほとんどは関ヶ原の後に御家取り潰しなどの()き目にあい徳川への復讐を考える者や、戦乱に乗じて一旗上げようとする者たちによる寄せ集めの烏合(うごう)集団に違いない。士気だけは異常なほど高いがその分統制がとれず、急な陣立てに混乱していた。
 これに対して家康は十月十一日、自ら軍の指揮を執って駿府を出た。幕府側の動員兵力は約二十万、大坂冬の陣は数の上では敗けるはずのない戦だったのである。
 このとき福島正則や黒田長政、加藤嘉明などは江戸城に留め置きとされ、家康は端から豊臣恩顧の大名を信用していない。そして忠輝もまた江戸の留守居を命じられるが、これは江戸で不穏な動きが生じるのを監視するためと考えられる。しかし高田を天下の城下町にするためにやらねばならない事は山積みだった。
 城を東に配置して、西に家臣団の屋敷を構え、北は奥州道、南は信州街道、そして西は加賀街道を引きこんで、町は南北に走る北国街道に沿って作り、西の端には寺町を形成する。さらに町の街路はT字、L字、鍵型(かぎがた)、食い違い十字路などを駆使し、見通しのきかない屈曲した作りは敵の侵入と城の防御には最適である。その中心部はほとんどが福嶋城下にあった小町、紺屋町、田端町、春日町、直江町、善光寺町、長門町、中屋敷町を移す予定で、寄大工町や大鋸町(おおがまち)は城下町建設当初から、諸国から集められた大工職人などが移り住んだ場所である。
 そんなこんなで時間を割かれ、結局忠輝の出発はかなり遅れてしまうのだった──。

 十一月十九日、陣を張った家康は攻撃を開始し、三十日には徳川二十万の軍勢が大坂城を完全に包囲した。もはや秀頼の命運も尽きていたが、そこで奇跡を起こしたのが真田幸村である。世に知られる真田丸の戦い≠ヘ、徳川方二万近くの兵を相手に幸村五、〇〇〇ばかりの兵が完全勝利した伝説となった合戦だ。この戦いで徳川方は一万以上の兵を失ったと伝えられる。
 まさかの番狂わせに家康は焦った。総攻撃を提案する秀忠に、
 「侮ってはならん! 戦わずして勝つ事を考えよ!」
 と叱責して、降伏を促しつつときたま(とき)の声を挙げたり鉄砲を放っては威嚇を続け、やがて和議交渉が暗礁に乗り上げると、一斉砲撃を開始した。このとき使われた大砲というのが西洋より取り寄せたばかりの世界最先端のものも含まれていたから、その弾丸の飛距離は想像を越えていた。武装した三、四人の女房を従え兵達の鼓舞に奔走していた淀殿だったが、そのうちの一発が大坂城の天守を貫くと、その威力に恐れおののいた。
 「和議じゃ! 和議じゃ!」
 こうして、豊臣側は「本丸を残し二の丸、三の丸を破壊。惣構(そうがまえ)の南堀、西堀、東堀を埋めること。」「淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田長益(おだながます)より人質を出すこと。」を条件とし、徳川側は「秀頼の身の安全と本領の安堵。」「城中の諸士については不問とする。」ことを条件として和議が成立する。
 この戦における伊達政宗は、一八、〇〇〇の兵を率いて大和口に布陣したが、特に戦功を挙げることはなく、和議のあとの堀を埋める工事に従事しただけだった。
 家康と秀忠は大坂を離れた──。
 ところが徳川軍が去った直後から、大坂方は二の丸や三の丸の堀を再び掘り起こし、城門や櫓の修復をはじめたものだから、和睦条件の違約に対し、家康は秀頼に「浪人の解雇」か「豊臣家の大和または伊勢への移封」を要求するが、豊臣家はこれを二つとも拒否したために、ついに最終決戦が勃発する。これが世に言う『大坂夏の陣』である。
 この戦いには忠輝も参陣することになった。
 四月二十二日、京都の二条城に終結した徳川方は、約十五万の兵を京都から京街道を南下する河内方面軍と、奈良から西進する大和方面軍との二手に分けて攻撃することを決めた。伊達政宗は一万五、〇〇〇の兵を率いて大和方面軍四番手として、また松平忠輝は大和方面軍総大将として政宗の後方に布陣することになる。
 これに対して本丸の堀しか残されていない大坂勢は野戦で迎え撃つしか手がない。もはや勝ち目のない戦況に武器を投げ出し大坂城を去る者や、和議による解雇もあって、豊臣方の戦力は七万程度しか残っていなかった。
 将軍徳川秀忠は、この戦でなんとか戦功を挙げ、父家康に認めてもらおうといきりたっていた。というのは冬の陣の際に大失態を演じていたからである。『関ヶ原』での遅参の悪夢は彼を追い詰めていた。
 「今回は絶対に遅刻できない!」
 という強い思いは逆に進軍を急がせた。ところが彼の率いる兵の数は六万にもおよぶ大軍、急ぐあまりに兵士たちが付いて行けず、家康のところに到着した時には兵達が疲弊しきって、おまけに武器、弾薬も置き去りだったのだ。
 「ばっかもん! お前ひとり来てなんとする! 兵が疲れ切っていたら(いくさ)にもならん!」
 と家康の大激怒を買ったのだ。
 話はそこで終らない。今回も急いで大坂に向かうわけだが、中に主君秀忠に遅れをとった旗本長坂信時という男が、急ぐあまりに近江守山あたりで忠輝の軍列を追い越した。当時の軍法では乗り打ち(馬などに乗ったまま大名などの前を通り過ぎること)は下乗(げじょう)の礼≠欠いたとして切り捨て御免なのだ。
 「おい、待て!」
 忠輝は男の行く手を遮ってさし止めた。
 「急いでおります! お許し下さいませ!」
 「いや、ならん──」
 忠輝も元来気が短い。「無礼討ちじゃ!」とその場で斬り捨てたのだった。
 そんなことがあったものだから秀忠はますます機嫌が悪い。二条城での軍議の最中も終始イライラしてその鬱憤(うっぷん)が家臣の者たちにも降りかかる。たまたま外にいた忠輝の家臣が世間話のつもりで秀忠の家臣に、
 「どのような布陣になりますかな?」
 と話しかけた時、
 「こたびは忠輝の出る幕などない。お前らはその辺で川遊びでもしておれ」
 と横柄(おうへい)な態度で応えたものだから、忠輝の家臣はかっと頭に血をのぼらせた。もともと短気な忠輝を主君としている上に、戦の前とあってはただでさえ血の気も多い。
 「愚弄(ぐろう)するか! 曲がりなりにも大御所様のお子である忠輝様に、川遊びでもしておれとは聞き捨てならん!」
 いきなり腰の刀を引き抜いて、ばさりと秀忠の家臣を斬り捨ててしまった。二条城は大騒ぎ。それを聞きつけた家康は「内輪喧嘩(うちわげんか)もたいがいにせい! 沙汰は戦が終ったら言い渡す」と言って、そのときはこれで終った話である。
 ところがそれを聞いて伊達政宗も笑いながら忠輝に同じような事を言った。
 「この戦は戦う前からすでに決着がついておる。婿殿は川遊びでもしていればよろしい。なんならわしの手柄を半分婿殿に差し上げてもいいわい」
 と哄笑するものだから、忠輝はすっかり戦意を失った。
 そして決戦の火ぶたが切って落された五月六日早朝──。
 まず、徳川方の河内方面軍に対して豊臣方の後藤又兵衛が攻撃を開始して討ち死にする。豊臣勢はいったん誉田(ほんだ)まで兵を退くが、その後方を衝こうとした伊達政宗は一番いやな相手真田幸村と激突した。幸村五千の兵に政宗一万五千の兵はじりじり押され、ついには道明寺まで押し戻された。
 このとき疾風の如く忠輝の軍勢が現われ──れば良かったのだが、戦意喪失の当の本人は言われた通りに近くの河原で水遊びをしていた。
 「殿っお! たいへんでございます、伊達勢(だてぜい)が押されております!」
 「なんだとぉ!」
 慌てて具足を身に着け出陣するも、すでに戦いは終っていて、
 「いやあ、面目ない!」
 と政宗は頭を掻いて笑って言ったが、忠輝は遅参の将≠ニいう拭えない汚名を背負うことになってしまった。
 この日は豊臣方の木村重成も戦死、長宗我部盛親も敗退し、豊臣勢は大坂城近郊に追い詰めらた状態のまま徳川優勢で日が暮れた。真田幸村は茶臼山に本陣を布き、決着の五月七日を迎える──その戦いは様々に語り継がれているところなのでここではあえて触れない。
 勝利した家康はこの年の七月、『応仁の乱』以来一五〇年近くにわたって続いた戦国の世に終止符を打ち、名実ともに天下平定の元和偃武(げんなえんぶ)≠打ち立てた。



 大坂の陣が終ると忠輝はそそくさと国許に帰った。遅参≠ニいう汚名に後ろ指を指されることにも屈辱を感じていたし、なにより高田城下ではやらねばならないことが山ほどあった。ところが朝廷に戦勝報告をする家康は、忠輝を共に参内(さんだい)させようと言い出した。この時彼は既に大坂にいない。居残りの家臣が早馬で報せに来ると蒼白になって、
 「病気で動けんと伝えよ!」
 と急ぎ返すが、秀忠の家臣斬り捨て≠ノ戦場遅参=Aさらには参内命令辞退≠ニ三拍子揃っては家康が激怒するのも無理はなかった。
 「以後二度と会わん!」
 勘当(かんどう)とも言える厳しい処分を言い渡されて、忠輝は愕然と肩を落す。
 しかし高田城下に響く槌音(つちおと)は俄かに彼を元気づけ、五郎八(いろは)の手を取っては城を飛び出した。そこには健気に生きる庶民たちの息づかいがあり、
 「この者たちが城を支えてくれているのだ──」
 と思うと忠輝の目頭は熱くなる。
 ある日のことである。大手門を出た馬出しの辻に大勢の人だかりを見つけた。
 「なにごとか?」
 と顔を見合わせた忠輝と五郎八がそろりそろりと近づけば、群衆の視線の先では数人の瞽女(ごぜ)が三味線を奏で、楽しそうな瞽女唄(ごぜうた)を唄っているではないか。
 「面白そう! 見て行きましょうよ!」
 と五郎八が言うので、二人は腰を下ろしてすっかりその芸に見入ってしまったのだった。

♪なんぼ狐の子じゃとても 腹は十月(とつき)の仮の宿
 御身(おんみ)保名(やすな)の種じゃもの あとの仕入れは(はは)さんと
 皆人々に褒められなば 母は陰にて喜ぶぞえ
 必ず必ず別れても 母はそなたの影身に添い 行く末長く守るぞえ
 とは言うものの振り捨てて これがなんと帰らりょう
 名残り惜しいや可愛やな 離れがたないこち寄れと
 膝に抱き上げ抱きしめ 顔つくづくと打ちながめ
 これのう可愛や童子丸(どうじまる) これ今生(こんじょう)暇乞(いとまご)い……

 「これ知ってる……」
 と五郎八(いろは)が言った。聞けば信太妻(しのだづま)の物語≠セと教える。忠輝は五郎八が飼う片目の白狐葛之葉(くずのは)≠思い出す。
 瞽女(ごぜ)は女の盲人芸能者のことで盲御前(めくらごぜん)≠ニも言った。一方男のそれは座頭(ざとう)≠ニ呼ばれ、江戸時代は一つの立派な職業として幕府から公認されており、彼女らは全国を巡る旅芸人として生計を立てる。どういうわけか越後の瞽女(ごぜ)は昭和中期まで継承されたほど盛んで、それほど越後には盲人女性が多かったものか。降り積もる雪の強い光が眼から光を奪うのだとも言われるが、このとき忠輝が目にした瞽女(ごぜ)たちは、高田城下の形成に伴なって移り住んできたものと思われた。
 盲人芸能といえば『平家物語』の琵琶法師(びわほうし)≠ェ有名だが、古くは平安時代仁明天皇(にんみょうてんのう)(在位期間天長十年(八三三)〜嘉祥三年(八五〇))の頃にまでさかのぼる。その第四皇子である人康親王(さねやすしんのう)は若くして失明し、そのため出家して隠遁(いんとん)生活を送った。その際同じ盲人たちを集め琵琶や管絃(かんげん)、詩歌を教えたと言う。その死後、側に仕えていた盲人に検校(けんぎょう)と呼ばれる盲人の役職が与えられ、これが後に盲官の最高位として定着した。琵琶法師は検校≠ニか別当(べっとう)≠ニか勾当(こうとう)≠ニか座頭(ざとう)≠ニか呼ばれるが、これらはみな役職の名で、鎌倉の頃から当道座(とうどうざ)≠ニ言われる自治的な互助組織が作られるようになり、それは江戸時代に入ると寺社奉行の管轄下で引き継がれる。つまり座頭(ざとう)≠フ『座』もいわゆる職能組合のことで、江戸幕府は障害者を保護するため排他的で独占的な職種を容認することでその経済的自立を図ろうとしたのである。女性の盲人においては瞽女(ごぜ)座≠ェ存在し、彼ら彼女らの仕事は旅芸人や演奏家などにとどまらず、按摩(あんま)鍼灸(しんきゅう)などにも職種を広げることになる。
 演奏が終ると忠輝は手を叩いて称嘆(しょうたん)した。そして城から鍋などを持って来させると、煮物を作って囲んで談笑したばかりか、彼女たちが旅先で知った情報を提供してもらうかわりに屋敷を与え、高田城下に住まわせるのだった。

 大坂の陣より半年ばかり過ぎた頃、徳川家康は体調を崩して倒れた。人生五十年と言われていた当時、御年数えで七十五と言えば大層な長生きである。
 高田城にその報せが届くと、まだ雪が残る北国街道を忠輝は馬を走らせ駿府へ向かった。ところがそこにはすでに秀忠がいて、
 「何しに来た。大御所様はお前とは会わん、帰れ!」
 とけんもほろろに、面会謝絶を(こうむ)るのだった。
 「私は兄上に会いに来たのではない。父上にお会いしに来たのだ! 通せ!」
 と食い下がったが、大坂夏の陣での出来事は予てからの兄弟間の確執を深め、その感情は怨恨へと変わっていた。ついに対面が叶わなかった忠輝は、仕方なく駿府城下の禅寺に寓居して、父家康の快復を祈りつつ、これまでの至らなかった行動を反省するうちに、ついに家康は薨去(こうきょ)する。時に元和二年(一六一六)四月十七日巳の刻(午前十時ごろ)のことである。
 寺で座禅を組んでいた忠輝のもとに母茶阿局(ちゃあのつぼね)が来てそのことを伝えた。そして懐に(いだ)いていた風呂敷包みから一節切(ひとよぎり)の縦笛を大切そうに取り出すと、
 「大御所様からでございます……形見にせよと……」
 と言って涙と一緒に手渡した。
 「父上から──?」
 それは乃可勢(のかぜ)の笛で、かつては織田信長が愛し、後に豊臣秀吉の手に渡り、そして家康の手へと伝わった『天下人の笛』と称される名器である。

 野に出てひとたびその笛を吹けば、大地から十万の鎧武者(よろいむしゃ)が湧き()ずる──

 そう伝わる戦国三英傑の秘宝だった。
 「なぜ私に?」
 「それはわたくしにも分かりません……ご自分でお考え下さい──」
 父には生まれた時から軽くあしらわれて来たと思い込んでいた忠輝は、このとき初めて父の大きな愛に触れた気がして、男泣きに涙をこぼした。そして家康の本当の心を探りながら悲し気な音色を響かせるのである。

 将軍秀忠を支えよ──
 お前は外から徳川幕府を監視せよ──
 それでも万一秀忠が偃武(えんぶ)の世を乱す時は、野に出てこの笛を吹くがよい──

 茶阿局(ちゃあのつぼね)はその笛の音に見送られ、やがて静かに禅寺を後にした。こののち髪を下ろし、朝覚院と号す。
 ところがどこで漏れたかその噂が、伊達政宗と結託した松平忠輝の幕府転覆の陰謀話となって、東海道を通って江戸にまで伝わった。それは当時来日していたイギリスの貿易商人リチャード・コックスの日記にも記されるほどで、世の風評というものは、真実を隠して桜前線のように、瞬く間に民の間に面白可笑(おもしろおかし)しく広がるものか。その風聞を耳にした秀忠は、いみじくも十万のキリシタン大名の蜂起(ほうき)を連想して震え上がった。
 忠輝が高田城に戻って七月六日のことである。江戸の将軍秀忠より一つの沙汰が下された。

 改易──伊勢国朝熊(あさま)へ配流──

 忠輝は目を疑った。
 その表向きの理由は、大坂夏の陣において総大将を務めながらも遅参したうえに戦功を挙げなかった事と、朝廷に戦勝の奏上をする際病気を理由に参内しなかった事、そして将軍秀忠の旗本斬殺の責任を負うものであるが、忠輝には秀忠が自分を陥れようとする訳が次から次へと浮かんだ。
 一つは妻の五郎八(いろは)がキリシタンであると疑っていること、一つは大坂の陣での怠戦は豊臣方にキリシタンが多かったための同情心だと誤解されていること、一つは舅の伊達政宗の勢力を怖れていること、一つは幕府内で大きな影響力を持った大久保長安と近しい関係であったこと、一つはその長安の血筋の者と婚姻関係を結んでいること、一つは幕府転覆の噂に警戒していること、一つは乃可勢(のかぜ)の笛を家康から授かったことへの嫉妬……少し考えただけで幕府の基盤を揺るがしかねない不安材料ばかりなのだ。
 忠輝は懐の乃可勢(のかぜ)の笛を握りしめて、
 「甘んじて受け入れるしかあるまい──」
 と眼を閉じた。
 華やかな扇面図(せんめんず)が描かれた襖絵(ふすまえ)に囲まれた薄暗い空間で、五郎八(いろは)は一人泣いていた。淡い紫に赤や黄色をあしらった色艶やかな着物をまとい、もう二十歳を過ぎているというのにその顔はまだ子供のようにあどけなく、膝に抱えた葛之葉の白い毛並みを右手で()でながら、こぼれる涙で濡らした。
 「五郎八(いろは)、入るぞ……」
 開いた襖の間から忠輝が寂しげな顔をのぞかせると、五郎八は慌てて左手で涙を拭い、その手に握られた誰かからの書状をよれよれと濡らす。
 「泣いているのか……?」
 忠輝は自分の悲しみを隠すように優しく聞いた。
 「父上が仙台に戻れと申します。けれど私は殿と離れ離れになるのは嫌でございます……」
 五郎八は忠輝の懐に抱かれた。
 「わしとて不本意じゃ……」
 「いっそ二人で死にましょう──」
 その言葉の中に忠輝は、彼女の死ぬ≠ニいう覚悟の向こう側にあるはずの永遠の楽園の光を見た気がした。しかし、
 「それはできぬ──」
 と小さく言った。
 「わしには父上から託された、どうしても護らねばならぬ約束があるのだからね……」
 そしてすすり泣く彼女のか弱い身体を、一層強く抱きしめた。
 「広間に瞽女(ごぜ)さんを呼んでおる。ほうれ、以前馬出しで見てより気に入っていただろう? 最後の別れの盃を交わそう」
 そうして広間に場所を移せば、部屋の中央に二人分の(ぜん)が用意され、深い森を描いたきらびやかな屏風の前には、老婆とまだ年端もいかない十くらいの二人の瞽女(ごぜ)が、まだ新しい畳に額を押し付けていた。忠輝と五郎八(いろは)はまるで祝言でも挙げるように、やがてゆっくりと膳の前に正座した。
 「始めてくれ──」
 すると老婆の瞽女(ごぜ)は三味線の弦をバチで「ビンッ」と奏で、自己紹介を即興の歌にして唄い始めた。
 「♪今宵(こよい)お城に召し(いだ)されるは、身に余りたる光栄なれど、ただいま一座は全国を旅する巡業なれば、留守居の老婆とこれにおわす見習いのおさと(○○○)がお相手仕ります。三味を弾きたるこの老婆は、今は梅干し婆さんなれど、右大臣織田さま(織田信長)がお隠れになった頃は、鬼もほころぶとは私の事で、旅回りのお宿お宿で蝶よ花よと持てはやされたものでございます。ところが生まれながらにわたしゃ目が見えぬ。だから(おの)が姿をただの一度も見たことがございませぬ──」
 五郎八(いろは)は「ふっ」と吹き出した。忠輝は紅色した蓬菜(ほうらい)(さかずき)を彼女に持たせ、酒を注いで二人で天井を仰いだ。
 「♪さて婆さんの話はこれくらいにして、隣にましますこのおさと(○○○)、生まれは和泉国(いずみのくに)信太村(しのだむら)、五つの時の病にて、光を失ってよりずっと国で(ほう)けておりました──」
 すると、おさと(○○○)と紹介された童女の瞽女(ごぜ)は、抱えた三味線を「ビ、ビンっ」と鳴らし、老婆の唄に加わった。
 「♪我が身を深い闇に置き、六つにして世の無常を悟りなば、いっそ生きてもしょうなしと、父より授かりし小柄(こづか)にて、身を裂いて何度死のうと思ったか──」
 おさと(○○○)は三味の手を休めると、懐から「これがその小柄(こづか)でございます」と言わんばかりにかざして見せて、やがて膝元に静かに置いた。
 「♪そのときどこからか三味の(おと)、その()に誘われ出てみれば、辻にて三味弾く越後瞽女(ごぜ)、見えぬ目よりか涙がぼろぼろこぼれます。それにて私は国を捨て、今は高田の一座に身をやつし、弟子見習いの身分であれど、次の春より巡業のお供をする所存──」
 「♪今宵この二人にて披露させていただきます演目は、おさと(○○○)が国は和泉に伝わる信太妻(しのだづま)=B最後までごゆるりお聞きくださいませ──」
 忠輝と五郎八(いろは)は顔を見合わせた。そして五郎八は膝に抱いた葛之葉の白い毛並みを撫でながら「お前のお話よ」と囁いた。

 「♪さればに、アーよりてはこれにまた
 古き文句に候えど ものの哀れを尋ねれば
 むかし信太の森の白狐 変化(へんげ)に葛の葉子別れを
 事細やかには読めねども あらあら読み上げ奉る──」

 忠輝と五郎八は拍手を送ると、(さかずき)の酒を口に含みながら膳に箸をつけて耳を傾けた。

♪母は信太のくれ狐 身の置きどころがないわいの
 どうしょうぞえの童子やと嘆き給えば童子丸(どうじまる)
 たんだ五つの幼子は母の言うこと聞き分けて
 申し上げます母様へ あなたは狐と言わしゃんすが
 狐の腹から生まれたなら 童子も狐でござんしょの
 お前の行かんす信太とやらへ 私も一緒に行きたいと
 言う子の顔が見納めか これがこの世の別れかと
 思い廻せば廻すほど これが泣かずにおらりょうか……

 その物語はどこか忠輝と五郎八(いろは)の境遇と重なった。白狐が変じた妻葛の葉姫は五郎八姫、夫の保名(やすな)と童子丸は忠輝で、いま今生のお別れに、涙をこらえて見つめ合う。思えば二人に子はなかったが、福嶋城の海で拾った葛之葉が、五郎八にとっては我が子のようだった。
 瞽女(ごぜ)の物語が次の段に入ろうとしたときだった──。

♪たちまち千年(こう)ったる白狐と現れて
 天(にわ)かにかき曇り 狐火四方へぱっとあげ……

 五郎八(いろは)の膝に抱えられた葛之葉(くずのは)が、突然七、八尺ほどの高さに飛び跳ねて、五郎八の膝の前の畳に着地したかと思うと、両耳と長い尻尾をピンと立て、おさと(○○○)の方をジッと見つめたまま石になったように動かくなった。そのとき同時に三味線の音も止まり、おさと(○○○)はその気配を感じた五郎八(いろは)の方を見つめて、
 「きれい……」
 と呟いた。忠輝は不思議に思って、
 「おぬし、目が見えぬのではないのか? 五郎八(いろは)の姿が見えるのか?」
 「はい、神々しいまでの御姫様の姿が見えまする。お近くに寄ってもかまいませぬか?」
 五郎八は少し恥ずかしそうに忠輝を見つめ、やがて「かまわぬ。こっちへ来い」と言った。
 おさとは静かに立ちあがると、暗闇で辺りの障害物を探りながら注意深く前へ進むときのように、両手を前にかざして五郎八の方へと歩み寄った。
 「その眩しい胸の十字の首飾りは何でございましょう?」
 おさと(○○○)の言葉に五郎八(いろは)は首を傾げた。十字架のネックレスは今は自分の首になく、葛之葉(くずのは)の首にかかっているのだ。
 すると突然老婆が悲鳴に似たしゃがれ声で、
 「おさと、行ってはならぬキツネじゃ!」
 叫んだと思うと、手探りで彼女が座っていた座布団の前に置かれた小柄(こづか)を掴むと、まるで獲物を狙うムササビの如く五郎八の方に駆け寄ると、そのまま葛之葉の左目を突き刺した。
 飛び散る血しぶきに葛之葉(くずのは)は「ぎゃあ!」という悲鳴をあげて、哀れ完全に光を失った白狐は、部屋を逃げ回り、身体を何度も壁にぶつけながら、やがて騒ぎに驚いた家臣が開けた襖の隙間から外に飛び出して、そのまま二度と帰ることはなかった。
 「何をするか!」
 五郎八(いろは)は気が狂ったように激怒した。しかし老婆はむしろ良い事をしたのだと言うように、
 「あれは和泉国は信太が森に棲む千年生きる白狐、その身野干(やかん)にして冥途(めいど)の遣いじゃ。たびたび人の世に現じて幸いをむさぼり喰うと言う。よもや同郷のおさと(○○○)の匂いを嗅いで、また再び人を騙そうと美しき姫の姿に変化(へんげ)したものに相違ない──」
 「たわごとを申すな!」
 五郎八は「わん」と声をあげ部屋を飛び出した。自分の境遇を受け入れている忠輝は、いまさら怒る気力もなくて、
 「最後の別れが台無しじゃ……」
 口惜しそうにつぶやいて、盃の酒を飲み干した。
 「我ら(めしい)は光を見ることは出来ませんが、その分闇の声を聴くことができるのでございます。今宵の事はお殿様を思ってした事にございますが、もし無礼に値するものであったなら、どうぞこの老婆をお斬り捨て下さいませ。しかしおさと(○○○)は未来ある童女。この老婆の命に免じて、どうか、どうか、命だけはお助け下さいまし──」
 「もうよい、帰れ……」
 こうして何日かの後、五郎八は江戸伊達藩邸より(まか)り越した駕籠(かご)に乗って高田城を去り、忠輝もまた、信濃より護送に来た真田信之と千石忠政のお縄に繋がれ伊勢国は朝熊に送られる。
 その後忠輝は、流罪の身のまま飛騨国高山に預けられ、最後は信濃国諏訪の高島城に幽閉されて、天和三年(一六八三)七月、家康から授かった乃可勢(のかぜ)の笛と五郎八姫と最後の盃を交わした蓬菜(ほうらい)(さかずき)を抱きしめて、九十二年の生涯の幕を閉じた。一方五郎八姫は、離縁させられてから母愛姫の住む江戸に送られるが、その後政宗の仙台城に移り住み、生涯再婚することはなかったと伝わる。



 新潟後家(にいがたごけ) 新発田(しばた)かぼちゃに弥彦山(やひこやま) 小千谷(おぢや)ちぢみに牛蒡三条(ごぼうさんじょう)

 越後名物の歌に誘われて、『水戸黄門記』に描かれた水戸光圀が高田城に訪れた頃、高田はその歴史において最大の繁栄期を迎えていた。城主は忠輝から酒井家次(いえつぐ)忠勝(ただかつ)父子の二代を経、松平忠昌(ただまさ)が二十五万九千石で入った後は、徳川四家と称される家格を持った松平光長が入城し、寛永元年(一六二四)から延宝九年(一六八一)までの五十七年間という長きに亘ってこの城を治めたのである。巷では、

 アーラみごとや高田のお城 城は白壁八ッ棟(やつむね)造り おおきはしらにほうき橋

 と手鞠歌(てまりうた)にも唄われ、その繁栄は江戸さながらだった。
 ところが光長の嫡子が病死したのをきっかけに『越後騒動』と呼ばれるお家騒動が勃発した。これに対して五代将軍徳川綱吉は、高田藩主松平光長を改易する。さらには本丸、二の丸、三の丸をそれぞれ別の藩主に託すのだが、この城の明け渡しにおける松平光長との戦争騒ぎは世間を大きく騒がした。
 結局高田は幕府直轄領となるが、その後再び高田藩が立藩されてからは、先の騒動の最悪のイメージが定着していて、貞享二年(一六八五) 稲葉正通(いなばまさみち)の移封理由は、親戚の若年寄が大老を暗殺した事件の連座であるし、寛保元年(一七四一)の榊原政永(さかきばらまさなが)の時などは、幕府の質素倹約令を無視した父榊原政岑(まさみね)の吉原での豪遊、そして吉原の大夫(たゆう)を身請けしてド派手な行列と祝宴を催したのを咎められたのが原因である。つまり江戸中期以降の高田城は、不始末を犯した大名の左遷先という位置付けのまま幕末を迎える。
 そんな時代の移り変わりを知ってか知らずか、()き手に引かれて褄折笠(つまおりがさ)が峠を越える──。

♪今日は水内(みのち)か明日は安曇(あずみ)か、旅の行く先きゃお宿の主人。
 どうぞ馬屋でも物置でも泊めておくんなさい。
 わしら目が見えぬから気にゃならぬ。
 唄だけ歌えば長居はせぬし、冬は高田へ帰らにゃならぬ。
 コンコン、コンコン……鳴く声は、
 アリャ葛之葉(めしい)の白狐。
 わしらと帰ろか高田のお城へ……。

 二〇二一年四月二十八日
(2021・04・20 高田城『上越市立歴史博物館』にて拾集)