> 於北のまつ
於北のまつ
城郭拾集物語F 長野真田屋敷と真田氏本城
御北の松
真田氏居館跡
真田御屋敷から見た四阿山



 信州信濃は戦国以前より細かな国人衆(こく にん しゅう)割拠(かっ きょ)の国である。
 室町前期には足利将軍から信濃国守護に任命された小笠原長秀による統治が始まるかに思えたが、その就任直後、反発した村上氏を中心とした中北信(ちゅう ほく しん)(地理的に信州の中央部と北側に位置する地元の呼び名)の細かな国人衆が決起した。その中に小県(ちいさがた)の真田氏も実田≠フ名で見える。そして応永七年(一四〇〇)の大塔合戦(おお とう がっ せん)に大敗した長秀は京都に逃げ帰ったという経緯がある。
 後世において鮮烈なほどの名を残す真田三代の異彩も、このときはまだ長野県と群馬県の県境に位置する四阿山(あず まや さん)の麓に、わずか一つばかりの集落を領する程度の小さな土豪に過ぎなかった。その名が厳然と歴史に浮上するのは戦国時代、かの武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の合戦∴ネ降である。
 川中島の合戦は一言で言ってしまえば国人衆が割拠する北信濃地方の奪い合いと言ってよい。善光寺平に広がる領土は十万石の価値があるとされ、山々に囲まれた甲斐国だけでは石高にしてせいぜい二十五万石、武田氏が勢力を奮いはじめた当時でも四十万石程度と言われる信玄にとっては非常に魅力的な土地だった。ちなみに武田氏の領地配分は貫高制(かん だか せい)で行なわれるが、そのやり方は真田氏にも受け継がれている。一方、越後国の上杉謙信にとっての北信濃は自領に隣接した安全保障の重要地であり、一人でも多くの国人衆を傘下におさめておきたいという構図があった。
 そもそも真田の血筋は真田郷(さな だの ごう)近隣の豪族海野氏の血を引いているとされ、さらに遡れば古くより東信濃を支配していた滋野三家(じ の さん け)に結びつくと言う。
 滋野三家──すなわち海野氏の血を引く真田家と、鷹を操り呪術や加持祈祷を行ってきた禰津家、そして三つ目の望月家は信濃望月家と吾妻望月家の二つあり、甲賀流忍者の家元である甲賀望月家と深く結びつく。戦国の過程の中で海野氏と信濃望月氏は滅亡するが、この滋野三家こそ戦国を彩る真田忍者#ュ祥と関わりがないとはいったい誰が言えるだろうか。
 真田家初代幸隆の名が歴史の舞台に登場するのは天文十年(一五四一)五月に起こった海野平(うんのたいら)の戦いである。甲斐を統一した信玄の父武田信虎が、信濃の豪族村上義清や諏訪頼重などと結んで小県へ侵攻したのだ。この戦いで大敗を喫した幸隆は、真田郷を村上氏に奪われた上、上野国の箕輪城主長野業正のもとへと逃げ延びた。一緒に戦った海野氏宗家は滅亡し、禰津氏(元直)と矢沢氏(幸隆の弟矢沢頼網)は降伏して武田家傘下となり辛くも本領に復帰した。
 ところが信虎が帰国した途端、信玄は父親を駿河へ追放してしまうと家督を継承し、すかさず関東管領上杉憲政(うえ すぎ のり まさ)と和睦して諏訪頼重を滅ぼしてしまった。そこから信玄による本格的な佐久・小県侵攻が開始される。
 幸隆が武田家に召し抱えられたのはこの頃で、一説には、信玄の側室で武田勝頼の母となる諏訪御料人は禰津元直の娘であり、『甲陽軍鑑』にかく(隠)れなきびじん(美人)≠ニ記されるほどの美貌の持ち主で、信玄はその美しさに目がくらんだものか? 幸綱が武田家臣団に加わることができたのは禰津氏の推挙があったからだともされる。ついでに言えば禰津常安の妻は信玄の妹なのだ。いずれにせよここから真田と武田の深い結びつきが始まるわけである。
 今回の物語で焦点を当てる人物は、この真田家初代幸隆の長男であり、海野平(うんのたいら)の戦いよりさかのぼること四年の天文六年(一五三七)にこの世に生を受けた真田信綱である。彼は真田昌幸の兄であり、真田幸村の伯父に当たる人物である。



 禰津神平(ね づ しん ぺい)という男がいた。
 彼は禰津常安(じょう あん)とは双子の弟の方であり、ときたま瓜二つの兄弟そろって幻術の真似ごとをして武田家臣団を驚かせていたので信玄も大のお気に入りで、それは後に兄常安の方は信玄の妹を娶り、弟の神平の方は信玄と諏訪御料人との間に生まれた娘を嫁にするほどだった。二人は真田信綱とは年も近く、幼少の頃よりよく遊んだ竹馬の友だが、常安とは同じ継嗣である自覚が妙な闘争心や見栄を生んで細かなところでかちあっていたから、信綱にすればどちらかと言うと弟の神平の方が何かと馬が合ったものだった。
 武田軍にはこの当時から三ツ者(みつのもの)≠るいはスッパ≠ニ呼ばれる優れた忍者集団が存在していたが、その養成を受けるようになった神平があるとき信綱にこんなことを言った。
 「源太郎(信綱の幼名)よ、今後作るなら城でなく寺社を作るがよいぞ」
 「寺社だと? なぜじゃ?」
 「これからの戦は情報戦じゃ。情報を制した者が天下を取るからだ」
 「いったい寺社と情報と──どんな関係があるのか?」
 「山伏さ。寺社に山伏を住まわせるのさ。山伏たちは全国を巡るから様々な情報を持ち帰る。わが家は昔から呪術や加持祈祷を行ってきたから分かるのだが、彼らの人脈は半端ないぞ。信玄公はその情報を巧みに操り天下を狙っておる。真田の山家(やま が)神社にも多くの山伏たちが訪れるじゃろう? そいつを利用し、寺社を増やして増員するのだ。信玄公の構想はそれだけでない、吾妻の望月家には最近甲賀望月家から千代女(ち よ め)様という巫女(み こ)が嫁いで来たそうじゃ。どうもその女を使い、くノ一の三ツ者集団を養成する修練所を作ろうとしているご様子だ」
 くノ一≠ニは漢字の女≠フ隠語である。武田家の中ではこの言葉は既に存在していた。
 「女スッパか……? そんなものが戦の役に立つか?」
 「だからこれからの戦は頭脳戦じゃと言っておろう。いくらバカ力を持つ巨漢だったとしても、目の前にとてつもない美人が現れてみよ。股間がうずいてイチコロさ。あの信玄公とて伯母上の美貌にメロメロなのじゃ」
 「なるほど、武力でなく調略(ちょう りゃく)で戦況を動かすわけか!」
 現に真田家が行った寺社の建設や再建に視点を置けば、天文十六年(一五四七)の幸隆が『種月庵』という住職のいない小寺を『真田山種月院長谷寺』として創建したのを皮切りに、永禄二年(一五五九)には真田郷に『廣山寺』を創建したり、永禄五年(一五六二)には信綱が『四阿山(あづまやさん)奥宮社殿』を修造したり、その三年後の永禄八年(一五六五)には幸隆が別の場所に『廣山寺』を創立したり、元亀三年(一五七二)には『廣山寺』を『元十輪寺』と号して移転させ、これら寺院の門前町を城下町として作り上げたりする。さらにその三年後の天正三年(一五七五)には信綱が横尾に『大拍山打越寺』の再興をしたり、永禄八年(一五七五)には幸隆の弟矢沢綱頼が『良泉寺』を再興したり、天正十六年(一五八八)には昌幸が父幸隆の菩提のために『長谷寺』に諸堂を完備したり、文禄三年(一五九四)には昌幸が『信綱寺』を建立したりと、真田一族が寺社に掛ける情熱は気なしか至極多いように感じる。この背景に山伏の存在──つまり忍びの者の存在があったとしてもけっして不自然でない。
 禰津神平が信玄より甲陽流忍術の家元を任されるのは二人のこの会話より少し後の話だが、その筋の仕事──つまり忍び働きのノウハウはこのとき既に信綱にも備わっていた。その資質が彼の弟昌幸にもあったのを見ると、父幸隆が息子たちに与えた天性だと言ってもよい。
 加えて信綱には調略の才だけでなく、武勇においても人並み外れた才覚が認められた。
 天文十七年(一五四八)から始まった武田信玄による村上義清攻めでは、幸隆は右の脇備えとして参戦するが、初戦の上田原の合戦においては敗れたものの、翌十八年にはまだ十三歳の信綱が初陣を果たし、小岩嶽城(こ いわ たけ じょう)を攻めた時など一番槍の名を挙げたばかりか、敵将阿保宗左衛門(あ ぼ そう ざ え もん)の首を取るといった武功を挙げ、褒賞として信玄より国俊の太刀を賜った。しかし埴科を領する村上義清は思いのほか強く、更に翌年の天文十九年に再び砥石城の村上義清を攻めるが失敗し、砥石崩れ≠ニ呼ばれるこの戦いで武田勢は千人にも及ぶ将兵を失った。
 ところが──
 更にこの翌年の天文二十年五月に至って、戦闘が行われた気配もなくこの砥石城が突然武田の手に落ちるのである。その背景にあったものこそ真田幸隆による調略で、村上方の埴科(はに しな)国人衆清野氏と寺尾氏を見事寝返らせたのであった。
 これにより真田郷を奪還した真田氏は、村上方の横尾氏と曲尾氏の領地も手中に収め、信玄から諏訪形等の地までも保証される。砥石城は、横尾・曲尾を経て善光寺平に続く絶好の戦略要地であり、ここに川中島に通じる北信濃への道が拓かれたと言ってよい。
 そして真田郷に念願の真田屋敷が建てられる。



 川中島の合戦における幸隆・信綱父子の調略活動は見事と言うよりほかない。ところがあくまで秘密裏に進められる工作のため、その全容と真相が歴史に綴られることはほとんどないと言ってよいだろう。後世に生きる者たちは、その歴史的事象から憶測するより仕方なく、ここに歴史のロマンを知るのだろう。こと忍者の存在こそがその最たるものである。
 天文二十二年(一五五三)から永禄七年(一五六四)までのおよそ十二年に渡って繰り広げられた武田信玄と上杉謙信による戦いは、一般的に第一次から第五次までの五回行なわれたとされているが、最初のその衝突点は、まさに調略により砥石城を追われた村上義清が籠る葛尾(かつ らお)城(現坂城町)が舞台である。
 合戦直前の真田氏を取り巻く信濃の勢力分布は、北を埴科の村上義清の勢力が抑え、西は松本から勢力を伸ばし諏訪にまで侵攻していた信濃国守護の小笠原長時とに挟まれた格好である。それらの勢力に敵対する信玄は、小県の弱小真田を信濃先方衆と位置づけ、佐久と小県両郡へ出兵を開始した。そして塩尻峠の戦いでは小笠原氏の駆逐に成功した信玄は、松本一帯を制圧することに成功していた。
 四月、武田軍は葛尾城に猛攻撃を開始した。ところがさすがの村上義清も、『上田原の合戦』や『砥石崩れ』の時のようにはいかなかった。というのは、葛尾城を戸倉方面から支える屋代氏や雨宮氏や塩崎氏といった国人衆が、ことごとく幸隆の調略によって村上方を離反したからである。背後からも攻撃を受ける形になった葛尾城はあえなく自落。葛尾城を落とした武田軍は、すかさずその支城である『荒砥(あら と)城』にも猛攻を加え陥落させると、村上義清は命からがら上杉謙信を頼って越後へと落ち延びた。これがいわゆる川中島の合戦のきっかけというわけである。
 信玄はそのまま善光寺平へと軍を進めた。ところがそこへ電光石火の如く現れた上杉勢と衝突し、更級八幡の戦い(現千曲市八幡地区)を繰り広げるが、これに敗れた信玄はいったん兵を引く。葛尾城と荒砥城は上杉方が奪取し、再び村上義清が入城することになる。
 ところが七月に入って再び信玄の侵攻が開始され、諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を落とした。義清は再び城を捨て越後へと逃れ、信玄は上田の最北端に位置する塩田城で布陣を固めたものの、それ以上兵を進めることはなかった。ここまでがいわゆる第一次合戦の流れである。
 第二次合戦はこれより二年後の弘治元年(一五五五)に起こるが、この間信玄は今川義元と北条氏康との間で甲相駿三国同盟を結び背後を固めることを忘れない。そして幸隆の更なる功績は、上杉の勢力の強い善光寺平の有力な国人衆の一人、栗田寛安の調略を成功させたことである。そしてこの栗田寛安を籠城させた旭山城こそが、第二次合戦の行方を左右することになる。
 北上した信玄と南下した謙信は、善光寺平を東西に流れる犀川を挟んで睨み合っていた。そして栗田寛安の旭山城は善光寺の西南西、戸隠への玄関口にあたる孤立してそびえる旭山の頂にあり、謙信を背後から睨んでいた。この旭山城こそ謙信にとって脅威だったのである。というのは、栗田氏は代々戸隠神社の別当職を務める家柄だったので、この城への援軍や援助物資は尽きることはなく、もっと疑い深く見つめれば、戸隠神社と武田とは山伏三ツ者を通して深くつながっているはずで、例え防御主体の詰めの小さな山城とはいえ難攻不落と言えたからである。
 謙信は戸隠と旭山城への道を遮断する必要があった。と、すかさず善光寺の東側にある横山城に入り、続いて旭山城を一望できる葛山(かつら やま)城を改修して陣を移動させると、次いで葛山城の後方に大峰(おお みね)城を築いたのだった。これにて旭山城は完全に死に城になってしまったのである。
 これにはさすがの信玄も舌を巻く。あるいは謙信と直接対決しても歯が立たないことを悟ったものか。
 こうして膠着状態を保ったまま二〇〇日という月日が過ぎ去った。そして最終的に第二次合戦は、今川義元の仲介をもって両軍撤退という形で幕を閉じる。



 北信濃の国人衆たちは軒並み上杉寄りだったことは事実である。
 その中にあって、真田幸隆の調略活動はいや増して重要な意味を持っていた。
 調略≠ニいう言葉を聞けば、敵を寝返らせるためには手段を選ばず、利害を背景にして陰謀∞騙し合い∞悪巧み∞横暴∞挑発∞密謀∞企て≠ネどの悪いイメージが連想されるが、真田家の行うそれはけっしてそればかりが全てではない。当然川中島の合戦のような戦闘状態だから、「本家とうまくいっていない」とか「軍役が多い」とか「相続が少ない」とか「当主が気に入らない」といった国人衆の不満につけ込むケースは多かったに違いない。つけ込む≠ニいう言葉はあまりよくないかも知れないが、そうした不満に耳を傾け、同苦して別の道を指し示すところに真田の調略術は大成され、お家芸と言えるほどまでになったのではないかと考える。戦国という特殊な世情であったがゆえに、真田のそれは表裏比興(ひょうりひきょう)の者≠ニ揶揄されたが、これが現代であったなら細かなところにまで手が届くお悩み相談所≠ニして業をなし得たであろう。
 信玄が北信濃を制するためには、どうしても一人でも多くの当地国人衆の調略を実らせなければならなかった。そして可能性のある城の名を挙げて、真田領内ではこんな言葉が合言葉のように囁かれた。
 「一に春山(はる やま)、二に尼巌(あまかざり)、三に春山(はる やま)……」
 これは北信濃で堅固を誇った『一に春山、二に尼巌(あまかざり)、三に鞍骨(くら ほね)』という言葉の三番目をもじったもので、一と三に二回うたわれている春山≠ニいうのは上高井(須坂方面・現長野市綿内)にある綿内井上氏の春山城のことである。尼巌≠ニいうのは松代周辺の東条氏の尼巌城だが、ここに名の挙がっている城というのは、これまでに現地に放たれたスッパと呼ばれる者たちにより、寝返る可能性のあるなにかしらの問題を抱えている国人衆だった。特に春山城の井上左衛門尉(さえもんのじょう)は、隣に領地を構える本家井上氏の当主達満とは犬猿の仲で、調略するに容易い筆頭に挙げられていたのである。
 この城を落とせるかどうかが今後の上杉との合戦においていかに重要であるかを思う時、幸隆は一層慎重になるのであった。
 「春山城を落とすに(調略するのに)、誰が適任か……?」
 可能性が高いとはいえ、これは敵陣に潜入するこの上ない危険な仕事なのである。ひとつ人選を間違えば戦局を左右するどころか信玄を危機に陥れる可能性も孕んでいるのだ。幸隆が考えをめぐらせていると、そこに信綱と昌幸が部屋に入って来てこう言った。
 「わたくしにお任せ下さい!」
 このとき信綱は水も滴る凛々しき二十歳の青年、三男の昌幸はまだ九歳の少年だった。二人の間には昌輝という次男もいたが、彼はこのころ信玄付の小姓に出されて真田屋敷にはいない。
 幸隆は昌幸を一瞥して「お前にはまだ早い」と軽くあしらい笑むと、信綱に目線を移して一段と厳しい口調でこう聞いた。
 「お前は(かたき)を愛せるか?」
 信綱は意外な言葉に表情ひとつ変えずにどう返答したらよいかを考えた。幸隆は続けた。
 「敵がどんなに憎かろうが、恨めしかろうが、その相手に惚れることができるかと聞いておる」
 信綱はまだ何も答えなかった。
 「調略とは仇に惚れることじゃ。そしてその仇に誠実を尽くすことじゃ。お前にできるか?」
 信綱は「なんだ、そんなことか」と言うように、
 「父より、そして母より愛してご覧にいれましょう」
 と答えた。その言葉には、「例え親子の縁を切ったとしても」という意味を含んでいるのを幸隆は感じた。そして幸隆はにんまり笑むと、「行け、お前に任せた」と小さく言った。
 「わたしもお供いたします!」
 喰ってかかるようにそう申し出たのは昌幸である。彼は十もはなれたその兄を、心の底からひどく尊敬している。その真剣な様子に幸隆は渋々承諾したのであった。
 しかし信綱にとっては調略の初仕事、心配を拭えない父は山家神社に修験者を同行させたいと願い出た。武田家にとって修験者とはつまり三ツ者(みつのもの)を指す
 こうして数日後、白装束の山伏姿をした一人の男が真田屋敷にやって来た。
 男は信綱と昌幸の前に居直ると、慇懃に頭を下げて、
 「上州三ツ者吾妻衆(じょう しゅう み つの もの あが つま しゅう)伊与久采女(い よ く うね め)と申します。以後お見知りおきいたします」
 と、山伏には不似合いの長い髪の毛で顔を隠したままかすれるような声で言った。
 「おお、わざわざ上州より四阿山(あずまやさん)を越えて参ったか。ご苦労である。そうかしこまらずともよい、面を見せよ」
 信綱はその得体の知れない修験者を興味深々と見つめた。
 信州と上州にまたがる標高二、三五四メートルの四阿山は、信州側では四阿山≠ニ表記する者が多いが、上州側では吾妻山(あづまやさん)≠ニ表記するのが多かった。おまけに吾嬬≠ニ書かせたり、読みもあづまや≠セったりあずま≠セったりあがつま≠セったり、山≠熈さん≠ニ読ませたりやま≠ニ読ませたりと、同じものをさし示すのに幾通りもの表現の仕方がある。これは意図的なもので、敵を欺いたり攪乱させたりするに都合のよい三ツ者の知恵とも言えた。この意味においては『真田の逆さ言葉』というのがある。人を誘っておきながら「行か」と言ったり「やら」と言って、その本意は「行きましょう」「やりましょう」という意味を持つ否定して肯定する言い方である。これは方言にもなって現在なお信州の東北信地方に残っているが、戦国時代当時は敵を混乱させるために意図的に使われたとする説がある。同様の方言が武田の甲府にもあるそうで、もっと言えば、この敵を欺く方言が北信地方にも色濃く残っている事実を考えると、ひょっとしたら川中島の合戦当時、実際に真田の三ツ者が調略の際、盛んに使用していたのかも知れない。これは筆者の予測ではあるが、真田昌幸・幸村父子が蟄居していた和歌山の九度山周辺や、幸村の大坂の陣で活動した大坂、京都などでもこの『真田の逆さ言葉』が残っている可能性がある。いずれにせよ三ツ者同士でのみ通じる隠語も当時は数多く存在していたことだろう。
 頭を挙げて髪の毛を後ろに払いのけた修験者を見て信綱は驚いた。その顔は男のものとは思えないほど白く美しく、白装束でなく着物を着ていたら女と言っても疑う者はないだろう。しかも礼の仕草や手の動かし方だけ見ても、その動きは女のように柔らかく、その身のこなしは女のように優美だった。
 信綱はしばしその容姿に見とれていたが、やがて、
 「伊与久采女(い よ く うね め)か。采女と申すからには朝廷にお仕えする天子様の身の回りの世話などした女官と何か関係がある家柄か?」
 と聞いた。確かに采女≠ニいえば昔から容姿端麗かつ高い教養を持つ豪族の娘に限られていた。そしてその美貌は天皇のみが手を触れることが許された高貴な存在だった。古くは『日本書紀』にも「采女の面貌端麗、形容温雅」と記されており、『万葉集』にも「采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたずらに吹く」と歌われるほど男の憧れをそそる存在なのだ。年も若いのか老いているのかも想像できないほどの伊与久の美しさは、信綱にそう勘違いさせるに十分だった。
 「いいえ、宗家伊与久弾正(い よ く だん じょう)上野国(こうずけのくに)新田(にっ た)後裔(こう えい)由良(ゆ ら)氏(横瀬氏)に仕えております。天皇に仕える采女≠ニは関係ございません。ただ、舞踊を少々たしなんでおります」
 この男、信濃先方衆の真田の要請に応じて吾妻衆に加わり、出浦昌相や祢津潜龍斎といった武田家三ツ者の下で働き、後の信玄や豊臣秀吉による北条攻めにおいては、名胡桃、沼田、利根、松井田、安中、榛東などの地で諜報活動をする真田家臣として活躍することになる。
 「舞踊であるか? 興味深い。ちと踊って見せよ」
 「お見せするほどのものではございません。当家に伝わる舞踊は舞踊であって舞踊ではありませぬ。その実はたかが透波(すっぱ)躰術(たい じゅつ)の部類にございます
 そうは言え三ツ者の家に伝わる舞踊である。そのたおやかな動きの中には武の精髄が隠されているに相違ない。伊与久家では代々家の女にその兵法が伝承されており、これを手弱女振(たおやめぶり)と呼んでいた。まさにくノ一≠フ技が伝承されていたのであった。
 「いずれお見せすることもございましょう」
 こうして信綱と昌幸はすっかり修験者と同じ服装に着替えると、本物の山伏である伊与久の三人は、小県から春山城のある北信濃は上高井の地を目指す。常人なら北国街道を使うはずが、山歩きがしみついている伊与久にしてみれば菅平の峠を越えるのが常識のようで、彼の後を小走りに追いかける信綱と昌幸は目的の地へと潜入したのであった。



 春山城は千曲川と犀川が合流するところの東南、現在の長野市綿内に存在した綿内井上氏の山城である。そこは江戸時代までは須坂藩領ということになるが、さらに遡った戦国時代の国人衆が支配していた頃は、現須坂市と長野市綿内までの千曲川東部一帯を広く支配する井上氏の所領であった。
 もっと古くは平安時代にまでさかのぼり、清和源氏多田満仲の子源頼信という男が、長元元年(一〇二八)に関東で起こった乱を平定して東国に勢力をのばしたとき、二男の源頼季が信濃に封を得、嫡男満実とともに高井郡井上に来てその地名をもって井上氏の祖となったのが始まりとされる。以後その辺りを統括する米持氏、高梨氏、須田氏といった国人衆は、もとを正せばみな同族であるという。中でも須田氏こそ鎌倉時代に須田郷と大岩郷とに分裂したと伝わるが、川中島の合戦当初はその全てが上杉方であった。
 そして第二次合戦の際、上杉謙信が陣屋として使ったのが春山城なのである。
 山の各所に湧水が湧いていたこともあり、そのうえ春山の地形を上空から見れば蹄鉄(てい てつ)のようにくぼんだ場所は兵を潜めるに都合よく、信玄の旭山城を死に城にするため築いた葛山城と大峰城からは、犀川・千曲川をはさんで対面に位置する地理的条件は作戦の伝令をする狼煙(のろし)を挙げるにも格好の場所だった。
 ところが所詮は田舎の小さな山城、そのせいで春山城は上杉勢の兵でごった返し、その対応力の限界を軽く越えた。綿内郷の村人の女たちが総出で対処するも、村の食料はすぐに底をつき、おまけに物見遊山でもするように異国の土を踏んだ兵達は「風呂だ」「食い物だ」「酒を出せ」とわがもの顔に振る舞ったものだから、困り果てた城主井上左衛門尉は、本家の井上達満に物資供給をしてくれと泣きついた。
 ところがこの井上氏の本家と分家、以前から土地をめぐる問題から確執が激しく、いざこざの絶えない関係が続いていたのだった。分家左衛門尉の若穂綿内の地は本家の井上氏にとっての主要な穀倉地であり、そこを任せた以上なにかと細かな注文をつけては困らせていたのである。達満は「ざまあみろ」とでも言うように、
 「そりゃたいへんだ。その辺に生えてる草でも喰わせ、肥溜めの風呂にでも入れておけ」
 と、冗談にもならない捨て台詞を吐いたものだから、怒り狂った左衛門尉は井上城の門を叩き壊して戻ったのだった。
 そんな日々が続くこと二〇〇日近く、その間左衛門尉が大切にしていた盆栽は兵達に割られるし、土足で屋敷内を歩き回るは、極めつけは娘の北姫に目を付けた一人の兵が、身分もわきまえず彼女に言い寄ったものだから、堪忍袋の緒が切れた左衛門尉は、「もうやってられん!」と上杉軍に著しい憎悪を抱くようになったのだった。そして第二次合戦が終わって上杉の兵達が立ち去ると、「また戦いが始まったらいかんせん。もうあんな目にあうのは御免だ!」と、ついに「隠居する!」と言い出すが、彼の嫡子新左衛門はまだ幼く、「そんなことをしたら綿内の領地を本家に奪われますぞ!」とさんざん家臣たちに反対されて、押すに押せず引くに引けずのどうにも身動きがとれない苦悩に苛まれていたのだった──そんな噂を嗅ぎつけたのが以前からこの辺りの土地に住みつかせていた幸隆の放ったスッパである。
 やがて菅平の峠道を下った信綱ら三人は、栃倉から八町、井上を通って綿内に入り、春山城近くの真言の寺を見つけると、何食わぬ顔で境内に入り込んだ。
 山伏は真言密教との結びつきが深い。それはそのまま忍術とも深く関わっている。伊与久にしてみれば真言の寺はある意味我が家同然で、そこに入れば必ず一人や二人の知り合いがいるものだった。そんなふうにして武田の三ツ者は、全国各地に深いネットワークを築いてきたのである。
 「采女(うねめ)ではないか!」
 寺の中から声を掛けたのは、袈裟を掛けた黒い虚無僧装束の割腹のいい四十くらいの髭面の男で、伊与久は裸足のまま駆け寄って来る彼を「この寺の住職だ」と信綱に紹介した。そして近寄り伊与久の手を握る住職には、
 「真田様の嫡子信綱様と弟君の昌幸様だ」
 と言うと、その凛々しい顔つきの信綱に感心しきりの住職は、そのまま三人を寺の中へと招き入れた。



 さて、調略の算段を終えた信綱と昌幸と伊与久の三人は、住職に連れられすぐ近くの井上左衛門尉の居館へ踏み込んだ。もとより地元の寺の住職が連れて来た者達だから、綿内井上氏の家臣たちに疑う者など一人もない。左衛門尉とて例外でなかった。
 座敷に姿を見せた左衛門尉は、やつれた顔で疲れ果てたように、
 「蓮台寺の住職がいったい何の用じゃ?」
 と言った。
 「今日は面白き者が当寺に参りましたので、ぜひ左衛門尉様にお目にかけようと連れて参りました。お噂では最近とみにお疲れのご様子、ここはひとつ気晴らしになればと思いまして……」
 住職は山伏姿からすっかり大道芸人のような派手な衣装に着替えた伊与久采女(い よ く うね め)を紹介した。
 「面白き者だと? いったい誰じゃ?」
 「当代一の踊り子にございます」
 「住職、当代一は言い過ぎでございます。わたくし、全国をめぐる旅芸人女形(おんながた)采女尉(うねめのじょう)と申します」
 伊与久は住職のいつもの大風呂敷を否定してそう名乗った。
 「ほおっ、女かと思ったら男であったか!」
 左衛門尉はおよそ旅芸人一座が何か楽しい催しを見せてくれるのかと期待して笑った。そして、
 「して、そのほかの二人は? 一座のお仲間か?」
 と少し警戒の色を表して続けた。見れば信綱は腰の刀を左に置いて普段通りの侍姿をしており、昌幸の方は農民の子どものようなボロをまとっていた。旅芸人と侍と農民の子とは何とも妙な組み合わせである。しかしその妙な組み合わせがより楽し気で不可思議な雰囲気を醸し出していた。
 「それは後ほど……」
 住職はそう言うと、すかさず、
 「さっそくこの者の踊りをお目にかけたいのですがお囃子(はや し)が欲しいところでございます。当代一とは申せ、さすがに音楽がないところでは踊りにくいものでございます。左衛門尉様の一人娘の於北姫はお琴を習っておりましたな。嫡男の新左衛門様も確か笛をお吹きになりました。太鼓があればなおよろしい、この昌公(まさ こう)が叩きましょう。是が非にも──」
 昌公≠ニは昌幸のことである。このような場面では士分・僧侶などの身分は関係ない。
 「そいつは面白そうじゃ!」となって、座敷に招き入れられた於北姫はこのとき花もほころぶ十七歳。その美しさに信綱は瞠目(どう もく)した。その目と於北の目が合って、二人の間に二人にしか分からない特別な感情が宿ったことは、例えお釈迦さまでも気づかなかっただろう。
 そして笛を持って入ってきた新左衛門は昌幸とは二、三年上の少年で、用意された鼓を渡された昌幸は二人の横に座って、そこに琴と笛と鼓の即席の囃子方(はや し かた)ができあがった。 
 於北の奏でる優雅な琴の音に、新左衛門の吹く笛が彩りを加え、昌幸の叩く鼓は命の鼓動を与えた。その音楽に乗って踊る伊与久の舞いは、時に激しく時にたおやかに、ある時は一丈ちかく飛び跳ねたと思えば次の瞬間畳に沈んで、それはあたかも天の羽衣(はごろも)をまとった天女が舞い降りたようである。
 「これが手弱女振(たおやめぶり)か──
 唖然とそれを見つめる信綱は、その動きに一切の隙がないことを認めた。仮にいまこの瞬間太刀を握って斬り込んだとしても、その勢いは舞いの流れの波に巻き込まれて、逆に襲った者の首がかき斬られたことだろう。そんな脅威を覚えつつ、彼の視線は琴を奏でる於北の姿をとらえていた。
 「いやぁ、見事、見事! あっぱれじゃ!」
 左衛門尉は手を叩いて大喜び。
 「お礼の印におもてなししたいところであるが、生憎、先般の戦で当方の蔵には何も残っておらぬ。こんなものしかないが勘弁してくれ」
 と、なけなしの金で買った地元の酒を振る舞うのだった。左衛門尉は住職が連れて来た得体の知れない者たちに完全に心を許したのである。そのとき、
 「ときに──」
 突然声を挙げたのは信綱だった。それまでその場にいるだけで、いったい何をしに来たのか分からない存在だった彼が、ここで突然表に踊り出たのである。そんな意表をつきながら、相手の心によもや∞あるいは≠思わせる、これが真田のお家芸とも言えた。
 笑みを浮かべたままの左衛門尉は信綱に目を向けた。
 「昨年の戦の際はたいへんだったそうですねぇ?」
 「そりゃもう。大きな声では言えんが、上杉の奴らめ、うちの所領をさんざん荒らした挙句、礼のひとつも言わんで帰っていきおった」
 「心痛お察し致します。しかし困ったものですなぁ。この戦、いったいいつまで続きましょうや?」
 「あなたもやはり上杉方で?」
 「いやあ、なんと申しましょうか? 実はどちらに付こうか迷っているところでございます。私の知りあいで埴科に領を持つ土豪がおりましてな、以前は村上様に従っていたのですがご存知のとおり武田の軍勢にやられまして、今はすっかり武田の方へ鞍替えしております」
 信綱はにべもない笑みを浮かべた。
 「埴科ですか……あちらはこちらより一層深刻でしょうな。で、その武田へ鞍替えしたお知り合いはなんと申しております?」
 「よかった──と」
 「よかった?」
 左衛門尉は「そんなうまい話があるか」と声を挙げて笑った。
 「あなたも埴科ですか? いっそ武田方についてはいかがかな?」
 「いいえ小県(ちいさがた)です」
 左衛門尉は「小県?」と呟いて言葉を止めた。小県といえば埴科よりなお武田に近いところの所領である。そんな場所でいまなお「どちらにつこうか迷っている」とは、上杉に相当所縁の深い家柄か、さもなくば……、と考える隙を与える間もなく。
 「申し遅れました。実は私、小県は真田幸隆が嫡男、真田信綱と申します。以後お見知りおきを」
 信綱はそう言って左衛門尉の懐に飛び込んだのだった。
 「なにっ? 先ほどどちらにつこうか迷っておる≠ニ申したばかり。真田といえば筋金入りの武田ではないか、拙者を謀ったか!」
 左衛門尉は床の間の太刀に手をかけた。脇にいた於北姫が「父上、おやめください!」という悲鳴に似た声を挙げた。
 「申し訳ございませぬ!」と、信綱は畳に頭を擦り付けて陳謝した。当然このとき、仮に左衛門尉が太刀を引き抜いたとしても、伊与久と住職は信綱を死守する用意はできている。信綱は続けた。
 「実は武田信玄公より左衛門尉様への書状をお預かりしております。いつお渡ししようかと迷い続けておりましたが、さきほど上杉の話になりましたもので、ついつい言いそびれ、あのような嘘を口走ってしまった次第。どうかお許しください」
 信玄直参の真田の嫡男に頭を下げられてしまえば、家柄としてはかなり格下の左衛門尉はたとえ上杉方だったとしても刀を抜くことなどできなかった。それより、まだ二十歳の青年の凛々しい姿と、誤りを誤りと認める誠実さに、彼の上杉に対する憎悪は武田への憧れへと変わっていった。左衛門尉は太刀を床の間に戻し、ため息を落としながら前いた場所に胡坐をかいた。
 「謝るのはこちらの方かも知れぬ。ついつい日頃の苛立ちから取り乱してしもうた。お家の血とは恐ろしいものじゃ。心は上杉を嫌っても、体は武田を嫌うとは……。この過ちでどれだけ歴史が作られてきたことやら……どうれ、信玄公から預かったという書状を見せてみよ」
 「いまのお言葉、大感激にございます。恐れながらこの真田左衛門尉信綱、同じ官途(かん と)を名乗る井上様に心底惚れ申した!」
 信綱は懐からその書状を取り出し差し出した。
 『綿内領の井上左衛門尉清政に対し隠居を許し、三五〇貫文を進ずる 武田信玄』
 左衛門尉はわが目を疑った。彼が密かに隠居を願っていたのを信玄はいったいどこで知り得たものか。そのうえ三五〇貫文という大金を惜しげもなく進呈するとはいったいどういう男なのか?
 左衛門尉の心は大きく揺れた。こうした知行のやり取りは当時から石高で行われるのが普通だが、信玄はそれをお金で支払うというのである。石高はそのまま領地の広さであるが、信玄が提示した金額は、綿内領と匹敵する価値があったのだ。つまり「金を担保に領地を保障する」と言うのである。信綱は言葉を足した。
 「信玄公は井上様が陣列に加わることを強く望んでおられます。もしお心を定めるならば、さらに御嫡男に対して二〇〇貫文の上乗せもやぶさかでないと申しております」
 その言葉はつまり、戦が終わった暁には本家の領土まで与えるということを意味した。
 「こんなうまい話があったものか……」
 左衛門尉は腕を組んで考えた。そして言った。
 「武田が勝つという保証がどこにある?」
 「武田には私がおります!」
 間髪入れない信綱の言葉は左衛門尉に笑いを誘った。
 「さすがは真田の倅、小気味よいわ!」
 完全に心をつかんだ信綱は更に続ける。
 「それに──ここだけの話ですぞ……」
 と、周囲を気にする素振りを見せた後、耳打ちするような小声で仕入れたばかりの上杉方の重要機密を漏らしたのだった。
 「どうやら上杉謙信公は隠居して出家なさるそうです。このところの家臣同士の争いや国許の紛争調停やらでよほどお疲れだったご様子。近々高野山の方へ移るとか移らないとか……」
 左衛門尉は「まさか?」というような表情を見せた。しかし彼は実際の上杉兵の横暴な振る舞いをその目で見ていたので「さもあろう」と疑いはしない。
 「その話、まことか?」
 これは信綱自身たったいまさっき住職から聞いたばかり。越後で情報収集していた三ツ者が、小県に向かう途中に立ち寄った綿内の寺で伝えた最新の情報なのである。実を言うなら、謙信を困らせていた自領のお家騒動や国衆の紛争といったことも、三ツ者がその種を蒔いた張本人なのだ。
 「この話承知いたした! しかしさきほど話した通り現在当方の蔵は空っぽ。しかも上杉寄りの郷土の中で、戦準備をせよと申しても土台無理な話。ここに書かれた三五〇貫文、いったいいつ、どのような方法で拙者が受け取れることになるのかな?」
 「約束の金はすぐにでも支払います。しかしその前に、井上様が武田を裏切らないという証しが必要でございます。そうでなければ私が信玄公に罰せられます」
 「いったいどうすればよい? 当方にはご覧の通り証しとなるほどの財産もござらん。血判書でも書けばよいか?」
 信綱は左衛門尉の隣に座る於北姫を見つめて言った。
 「そちらの姫を私の妻に下さいませ」
 このときの左衛門尉のうろたえ様は、酒を飲みながら後ろで見ていた伊与久も住職も笑いをこらえるのにやっとだった。彼にとって於北姫は目に入れても痛くない一人娘で、上杉兵がこの城にとどまっていたとき彼女に言い寄ったという一人の兵は、彼の憤りに触れて斬り殺されてしまっていたのだ。ところが信綱はひどく真面目な口調で、
 「さきほど私は井上様に惚れたと申しましたが、そこの姫様にはもっと惚れてしまいました。必ずや、幸せにしてご覧にいれましょう!」
 断りの理由が見つからない左衛門尉は、苦し紛れにこう言った。
 「そうは申せ、これは当人の気持ちも聞かなければならんだろう。もしこの()が拒みましたらどうか諦めていただき、他のものをご所望ください」
 「よかろう」
 と信綱は潔い男であった。
 「於北や、御仁はこう申されるがどうする? お断りしようか?」
 このとき於北姫の視線はすでに信綱の熱い視線の虜となっていたのである。頬を赤く染めた於北は迷う様子もなく、
 「おおせのままに」
 と恥ずかしそうに答えたのであった。
 こうして綿内井上の於北姫は、真田の御屋敷へと嫁いだ。



 弘治三年(一五五七)に再開される第三次川中島の合戦までに、真田幸隆は春山城の綿内井上氏の他に、埴科郡方面の鞍骨城の清野氏と、松代北部寺尾城の寺尾氏の調略にも成功した。これによって真田の郷から峠を越えて松代方面に抜けるルートが完成され、千曲川沿いを北上すれば川中島や犀川を通ることなく越後方面への進出が可能となった。
 ところが幸隆の調略術をもってして、どうにも落ちない者がいた。先の歌にもうたわれていた松代の尼巌(あまかざり)城主東条信広である。この城は三方が切り立った崖に囲まれ、攻め口としては尾根伝いの一箇所だけの要害堅固な城だった。幸隆とて多くの犠牲をはらうような武力行使は避けたかったし、できることなら調略によって落としたいところであった。ところが信玄は、第二次合戦の謙信との和睦の盟約を破って、
 「何をしておる! さっさと攻め落とせ!」
 と催促しきり。そう(げき)を飛ばすのには理由があった。謙信が突然隠居を宣言し、本拠地春日山城をはなれ高野山へと出家したのである。信玄に言わせれば「わしは謙信と約したのだ。その謙信が国を放棄し捨てたのだから、約束はなかったのと同じだ」という屁理屈である。「おめおめと逃げずに出て来い!」と言うわけだった。
 信玄にそう言われてしまえば実力行使しかない幸隆は、ただちに放火作戦を実行して瞬く間に尼巌(あまかざり)城を落城させた。
 そして季節は冬──。信玄は雪に阻まれて謙信が信濃へ入って来れないのを知っている。そうなってはもう武田勢のやりたい放題だった。譜代馬場信房を深志城から呼び寄せ、国人衆西条氏の居城に牧野島城を築城して葛山城を猛攻の末落とすと、松代を手中に収めた幸隆・信綱父子は千曲川沿いを北上して島津氏の長沼城、大倉城を立て続けに落とし、調略活動は善光寺北部から越後との国境深くまで容赦なく推し進め、次々と武田方に引き込んでしまうのだった。そして奥信濃の豪族高梨政頼の上杉方の要衝でもある飯山城への攻撃を開始したのが春まじかのことである。
 越後に戻った謙信は激怒した。
 「信玄め、和睦を反故(ほ ご)にしおったな!」
 雪解けを待って直ちに出撃。絵も言われぬ早さで飯山城を救援すると、そのまま島津氏の長沼城を奪い返し、善光寺平の横山城に陣を布くと信玄に奪われた葛山城を再び奪い返した。
 「やつがそのつもりならこちらも反故だ!」
 謙信は第二次の和睦条件で破却した旭山城を再興して本陣を移すと、そこを拠点に電光石火の如く次々と城を奪い返す。ついには海津城を破壊し、松代の香坂城も放火といった手段を用いて城下町ごと焼き払ってしまった。しかしこの謙信にして堅城尼巌(あまかざり)城は落とすことができなかったのである。
 ここまで巻き返した謙信は、やがて飯山城へ兵を撤退させ次の信玄の出方を待つことにした。
 せっかく飯山城を攻め込むところまで駒を進めた信玄だったが、これほどの謙信の強さを目の当たりにしては、さすがに次に打つ手はそうやすやすとは見つからない。迂闊には手を出せない信玄は、深志城から越後に抜ける糸魚(いと い)川ルートを押えて越後の警戒を引き出しつつ、善光寺平を支配する策を模索するより仕方ない。
 ここまでが第三次川中島の合戦の経緯である。



 五度におよぶ川中島合戦の中でも特に信玄と謙信の直接対決を見た永禄四年(一五六一)九月の八幡原の戦いは壮絶を極める。それに先立って両者は城をめぐって緻密な戦術を張り巡らせ、武田軍は先の戦で焼き払われた香坂城の跡地に海津城の築城を急いだ。
 この城を設計したのが武田家直参の軍師山本勘助だと言われる。
 三方を山に囲まれ、北西を流れる千曲川は天然の水堀となり、当時は山側に大きく蛇行していた。その川の向こう側がすぐ川中島である。山々には尼飾城や鞍骨城といった堅城が外郭を成し、裏山から峠を越えれば真田本城と繋がっていた。しかも町全体が適度な広さで、海津城はまさに自然の作り出した要塞だった。この城は後の松代城の前身である。
 ただ、一つだけ欠点があったとすれば、守りが堅い分、大部隊を率いて川中島に打って出るような場面が生じた場合、千曲川を渡らなければならないという点である。これはある意味致命的とも言えた。
 永禄二年(一五五九)は永禄の飢饉が発生し、甲斐国は大規模な水害にみまわれる。それとほぼ時を同じくして信玄は入道(にゅう どう)し、それに伴って幸隆と禰津常安も頭を丸めた。入道≠ニは神仏救済への道に入ることで出家≠ニは若干意味合いが違う。出家≠ヘ読んで字の如く家を出て仏門の寺に入ることだから完全に世俗から離れることを言う。だから謙信の場合は高野山に入ったわけだから出家≠ニいうことになるが、信玄の場合は入道≠ナある。ただし謙信は間もなく還俗(げん ぞく)したから結果的には入道≠ナあろう。
 第三次川中島合戦が終わってからの三年間で、時代は少しずつ変わりはじめていた。
 永禄三年(一五六〇)五月、桶狭間(おけ はざ ま)の戦いで信玄の盟友だった今川義元が織田信長に討たれた。義元の死は駿河、遠江、三河の三カ国の均衡の崩壊を意味した。これによって今川から独立した徳川家康が尾張の信長と同盟を結んだとなれば、信玄とてその動向に無関心でいられるはずがない。そのうえ翌永禄四年(一五六一)(うるう)三月に関東管領(かん とう かん れい)に就任した上杉謙信は関東に出兵し、北条氏康配下の関東諸城を攻略しながら周辺の国人衆を次々と傘下におさめはじめたから信玄にしてみれば気が気でない。謙信の軍勢は十万にも膨らみ、ついには北条討伐の号令を発して相模まで侵入し、氏康の居城小田原を包囲したのである。
 こうなればもはや信玄の侵攻方針は、北から南へと転換せざるを得ない。北条氏康と同盟を結んでいた信玄は、謙信を関東より撤退させるため、越後国境近く奥信濃の割ケ嶽(わり が たけ)城を攻落したのだった。
 「おのれ信玄! 私のおらぬ間に卑怯ではないか!」
 越後に取って返した謙信は、急いで川中島合戦への準備に掛かり、出陣して割ケ嶽城を奪い返すと、そのまま川中島は善光寺方面へと進軍した。
 このとき信玄にとって北信濃は、もはや目的でなく手段と化した。これが世に言う川中島の合戦クライマックスへの道ゆきである。



 川中島へ向かう信玄は、途中小県(ちいさがた)の真田屋敷に立ち寄った。
 四阿山から流れる神川の扇状地、屋敷の四方を囲んだ土塁は周囲五二〇メートル余あり、その北面は大沢川の天然の堀と、他の三方にも堀が巡らされていた。南側の大手門、北側の搦手門(からめてもん)南東には東門があって、北西の(うまや)からは遠く飛騨山脈が眺望できる。土塁の内側は東西に分かれた二段の曲輪(くるわ)になっていて、幸隆と信綱によって造られた屋敷は東の曲輪にある。
 このとき信綱の妻於北姫は於北之方(お きた の かた)と呼ばれ、三、四歳になる与右衛門と、生まれたばかりの信興(のぶ おき)の二人の子どもを抱いていた。
 「玉のように可愛い子であるの。どうれ、こっちによこせ」
 信玄は於北之方から赤子を奪うように抱きとると、赤子はつんざく声で泣き出した。
 「お屋形様のお(ひげ)が痛いのでございます」
 於北之方は信玄から再び赤子を抱き寄せ、瞬く間に泣き止ませてしまった。このとき彼女は信玄の膝元に置かれていた軍配団扇(ぐん ばい うち わ)の、柄の房の紐が切れそうになっているのを見た。すると、
 「お屋形様、軍議でございます」
 呼びに来た信綱に連れられて、信玄は軍配を置き忘れて部屋を出ていった。
 軍議に顔を突き合わせたのは幸隆・信綱父子はもとより、武田信繁、山本勘助をはじめとした後に武田二十四将に数えられる優兵(つわもの)ぞろいの面々、軍師山本勘助が戦略作戦の主導を握っていた。
 「こたびはおそらく海津城の攻防をめぐる戦になるでしょう。お屋形様はそこに陣を布き指揮をお執りください」
 「となると、敵はどこに布陣するか?」と誰かが言った。
 「妻女山(さい じょ さん)でしょう。あそこからですと海津城はもちろん、川中島平全貌を見下ろすことができます。しかし心配はいりません、あの城は絶対に落とせません」
 そんな話を信玄は何も言わずに、目を閉じたままじっと聞いていた。軍議は夜遅くにまで及んだ。
 寝所に戻った信玄は、枕もとに置かれた軍配団扇を手にして首を傾げた。
 「はて? ()(ふさ)が切れそうになっていたはずだが、誰かがなおしてくれたかな?」
 見れば軍配の柄と房をつないでいた紐が、動物の革紐に換わっている。それが於北之方の仕業であったと知るのは、翌日、武田兵が真田屋敷を出る時だった。
 大手門まで見送りに出た於北之方は、信綱に近寄って、
 「御無事で」
 と小さく言った。
 「留守が多くて済まぬが、家の事よろしく頼む」
 「ご心配には及びません。私は信綱様のお帰りを信じて、いつまでもお待ちしております」
 「うむ、待っておれ」
 そこへ信玄が寄って来て、
 「軍配の房をなおしてくれたのはそなたか?」
 と於北之方に聞いた。
 「はい。切れそうになっておりましたので、差し出がましいかとも思いましたが直させていただきました。願掛けをした望月の(こま)革紐(かわ ひも)をきつく結んでおきましたので、きっとご武運が降りかかりましょう」
 「さて相手は謙信じゃ。そう容易く勝たせてはくれまい。そなたの祈りは誠かな?」
 「きっと──」
 信玄は高笑いをすると、信綱に「佳き妻じゃ」と言って騎馬にまたがった。



 川中島の合戦の甲斐と越後の国境は犀川である。
 真田屋敷を発った武田軍は、一路そこを目指して行軍した。
 一方、割ケ嶽城を奪取した謙信は、北国街道筋を進軍して、横山城や旭山城に予備兵を置きながら、長沼城を陥落させて千曲川を渡ると、そのまま峠から松代方面に侵入した。その頃すでに信玄は海津城にあり、謙信は勘助の予想通り海津城の大手門をかすめるように通過すると、妻女山に布陣したのであった。
 武田軍二万に対して上杉軍一万三千、数の上では武田軍が有利とも言えた。ところが想像を越えるほどの上杉の兵数を見て、信綱は「これは籠城戦になるかもしれぬ」と思った。
 両軍は対峙したまま数日が過ぎた。嵐の前の静けさとはこのことだろう、秋晴れの空のした刈り採られ棒掛けの稲には赤トンボが舞い、千曲川と犀川が落ち合う河川敷の周辺ではススキ咲く野に遊ぶ童の声が聞こえ、そして夜は色なき風が星空をかすめていた。苛立ちはじめた武田兵たちは落ちつかないが、信玄は依然黙ったまま。
 そうして九月九日の深夜になって時は動く。
 武田軍は軍勢を二手に分けて、別働隊を謙信のいる妻女山の麓に待機させ、夜明けを待って一斉攻撃を仕掛け、驚いた謙信が山を下ったところを平地に布陣した本隊で殲滅させようというのである。これが世に言う『啄木鳥(きつつき)戦法』──啄木鳥が(くちばし)で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうのに似ていることからそう名付けられた。武田軍別働隊は夜闇に紛れて移動を開始した。
 ところが──
 夜明けとともに別動隊が目にしたものは、すでにもぬけの殻となっていた謙信の陣所であった。軍略の天才謙信は、信玄のこの策を見抜いていたのである。
 この辺りの朝晩の寒暖差は激しく、陽の光が大地に届くころは辺り一面川霧に覆われ、隣にいる人間も見えないほどの悪環境は信玄も謙信も同じであった。
 しかし謙信の方が一枚上手(うわ て)だったのは、武田の別動隊が移動している頃すでに、上杉の本陣は物音ひとつ立てずに妻女山を下り、千曲川を渡って八幡原で待ちかまえる武田本陣の眼前に陣を張ったのだ。三ツ者を抱える信玄にしてそのことには全く気付かなかった。
 夜が明けても立ち込める霧のため一寸先は闇だった。ところが次第に霧が晴れ、ようやく周囲が見えるようになった八幡原(はち まん ぱら)で信玄が見たものは、世にも恐ろしい現実だった。そこにはいるはずのない上杉一万三千の兵が銃口を向けて構えていたのである。
 世に言う謙信の『車懸りの陣』は、敵陣枢軸を強行突破し、総大将を討ち取って逃げる命がけの作戦である。逆に言えば謙信にはこの手しか残されていなかった。ひとつ遅れれば側面から別動隊が襲ってくるはずであったし、ぐずぐずしてはいられない。
 「撃てぃ!」
 上杉軍の鉄砲隊は武田本陣めがけて集中砲火を浴びせ、進路を確保できそうなところで弓矢を放ち、大きく拡張させたら長鑓隊が突き進み、集団を散り々々に分裂させながら本体は前進する。この射撃と移動を繰り返して謙信は信玄との距離を縮めた。
 「ゆけいっ! すすめぃっ! 敵中突破じゃ! 狙うは信玄が首ひとつ!」
 このとき武田勢は鶴が翼を広げたような陣形『鶴翼(かく よく)の陣』で迎え撃ったとされるが、人の塊の中に閃光のような一筋の集団が突っ込んでくるのだから、守りはそのような形にならざるを得なかったのである。
 武田勢は押しまくられ、ついに信玄と謙信は真正面でまみえた。
 「やっと()えたな!」と白覆面の謙信が叫んだ。
 「おう!」と信玄が応えた。
 謙信は馬上から最初の一の太刀を信玄めがけて打ち込んだ。しかし信玄は手にした軍配でそれを難なく払いのけた。このとき二人の表情に、僅かな笑みが浮かんだのは気のせいか?
 謙信は二の太刀を振り下ろしたが、これまた信玄は軍配で払った。
 「なかなかやるではないか」
 「ふん、そんなへなちょこ刀で斬られてたまるか!」
 謙信は三の太刀を振り下ろす──。
 そうして三太刀(み た ち)、七太刀と──、謙信の振り下ろす刀はその都度確実に信玄の首をとらえたはずだったが、蝶の如く舞う信玄の軍配団扇は、その都度鋭く光った刃をはねのけるのだった。
 そこへ血眼の原虎吉という信玄家臣が駆けつけて、「謙信討ち取ったり!」と叫んで鎗を突いた。ところが謙信はそれをさらりとはじきとばし、
 「勝負はお預けじゃ!」
 そう叫ぶと、来た方向とは反対方向へ向かって立ち去った。
 原虎吉は千載一遇のチャンスを逃した悔しさで、近くにあった大きな岩を力任せに貫いた。人の一念とはなんとすざまじいものか。この岩は執念の石≠ニして今も古戦場に残る。
 このときの様子を『甲陽軍鑑(こう よう ぐん かん)』はこう綴る。
 「謙信の切っ先は外れたが三太刀切りつける。信玄は軍配団扇で受け止めた。あとで見たところ団扇に八ヵ所の刀傷があった」と。
 また『甲越信戦録』にはこうある。
 「信玄は軍配団扇ではっしと受け止める。また切りつけるを受け止め、たたみかけて九太刀である。七太刀は軍配団扇で受け止めたが、二太刀は受けはずして肩先に傷を受けた」と。
 いずれにせよ信玄は九死に一生を得た。そして生々しい刀傷のついた軍配を見つめて、於北之方のことを思い出していた。
 この戦いで武田家の主要な武将が何人も討ち死にしたが、山本勘助もその一人である。辛くも生き残った信綱は、帰って於北之方を抱きしめた。



 世に語り継がれる川中島の合戦だが、第五次に至っては単なる睨み合いで終わってしまうためここでは深く触れない。この後の信玄の野望は関東方面へと移り、小田原攻めへと転換していく。
 さしあたって上州侵攻の任を受けた真田氏は、永禄六年(一五六三)の岩櫃城(いわ びつ じょう)攻略を皮切りに、嵩山城(たか やま じょう)箕輪城(みの わ じょう)白井城(しろ い じょう)といった上杉氏や北条氏の息のかかった城を次々と落とし、永禄十二年(一五六九)の『三増峠(み ませ とうげ)の戦い』では、信綱は弟の昌輝とともに参戦し、殿(しんがり)を務めて戦功を挙げた。
 幸隆が隠居して信綱が家督を継いだのはこの頃(永禄十年)、三十一歳の時である。その間信綱の弟昌幸は立派な青年に成長し、長男信幸と次男幸村をもうけた。そして並行するように、富田郷(とみ たの ごう)左ヱ門や来福寺左京(らい ふく じ さ きょう)といった三ツ者らによって、本格的な真田忍者の養成が始まったとされる。禰津神平もそのうちの一人である。
 ある日彼が真田屋敷にやって来て信綱にこう言った。
 「お屋形様より甲陽流(こう よう りゅう)家元を預かったぞ」
 「そりゃめでたい!」
 甲陽流とは、真田郷を中心として甲州、上州の修験者や地侍(ぢ ざむらい)の中で伝えられたいわゆる忍術──と言ってしまえば奇特な感じを受けるかもしれないが、要するに日常的な作法や身のこなし等を体系化したものの総称である。先に登場した伊与久采女(うねめ)などもそうだが、割田氏などの吾妻衆(あが つま しゅう)や、馬場氏、山県氏、曲渕氏、守屋氏といった甲州諸家が後までその継承を守っていくことになる。禰津神平はそれら武田三ツ者の総責任者を任されたのだった。
 「めでたいかどうかは知らんが、お屋形様はいよいよ駿河(する が)から遠江(とおとうみ)三河(み かわ)の方へ進出する腹積もりじゃ。西上作戦じゃ。忙しくなるぞ」
 「あのへんは今川の勢力が強かったところじゃ。松平元康(徳川家康)など怯えて尾張の織田と同盟を結んだそうじゃないか。まあ織田にせよ松平にせよお屋形様の敵ではない。問題は相模(さがみ)の北条じゃ」
 「それがじゃ……」
 と、神平は信綱の耳を口許に引っ張ってきて、「どうも北条氏康(うじ やす)が死んだらしい」と(ささや)いた。
 「なんだと!?」
 そこへ「いらっしゃい、おじさん!」と幼い声で現れたのは、今年七つになる信綱の娘清音(きよ ね)である。後に昌幸の長男信幸の、最初の正室となる娘であるが、信玄がこの屋敷に立ち寄って以来、信光という男子と清音を産んだ於北之方は、今ではもう三男一女の母なのだ。その於北之方が清音を追いかけて現れた。
 「あら神平さん、いったい何の内緒話ですか?」
 「いやいや、於北之方様は最近ますますお美しくなったという話じゃ」
 そんなおべっかを言ったと思うと、
 「じゃあな」
 神平は風のように立ち去った。
 「まあ、なんてお忙しいお方かしら。また戦が始まるのですか?」
 於北之方が心配そうに信綱に聞いた。
 「さて、どうかな……?」
 「あなたはいつもそう言って、私の前を過ぎて行くのね。女はいつも待つばかり……なんて不公平なんでしょう?」
 於北之方は屋敷内曲輪の隅の方に生えている何本かの杉の木を見つめてそう言った。過ぎる夫≠ニ杉≠ェ重なったのである。そして無邪気に遊ぶ清音に視線を移して「あの子も女ね」と呟いた。
 元亀三年、信玄は遠江(静岡県西部)の三方ヶ原の戦いで、松平(徳川)織田の連合軍と戦い圧勝をおさめた。ところが翌年の元亀四年(一五七三)四月、この戦国最強と言われた甲斐の虎武田信玄は、三方ヶ原からの西上作戦の途上、志半ばで突然この世を去ったのだ。享年五十三際の生涯である。遺言により三年間はその死が公表されることはなかったが、武田家の家督は勝頼へと相続されたのだった。
 この年、年号が天正(てん しょう)に改元され、織田信長は室町足利幕府を滅ぼした。そしてさらにこの翌年の五月には、信綱の父幸隆が死去したのである。享年六十二歳、その菩提は真田長谷寺に葬られた。



 時代というものは何の前触れもなく、時折突然大きく動く時がある。このときのそれは、それまで最強を誇った騎馬戦法に対する、新兵器を駆使した鉄砲戦法の挑戦であり、(いくさ)の様相を根底から変える大事件であった。
 信玄の急死によって武田氏の西上作戦が頓挫(とん ざ)したころ、『天下布武(てん か ふ ぶ)』を旗印に掲げた織田信長は、京都を掌握して天下人≠ニしての名乗りを上げた。一方、三河の徳川家康(松平元康)は、駿河(する が)遠江(とおとうみ)からの武田軍の撤兵に乗じて三河・遠江の失地回復に努めると、長篠城に奥平信昌を置き、武田氏の侵入に備えて警戒を深めたのである。
 信玄の後を継いだ勝頼が、遠江と三河を再び掌握すべく反撃を開始したのが天正三年(一五七五)五月、大軍を率いて長篠城を包囲した。ここに勃発したのが世に言う『長篠(なが しの)の戦い』である。この戦いに真田氏は、当主信綱は二〇〇基の騎馬、次男昌輝は五〇基の騎馬が与えられ、三男昌幸は大将勝頼の旗持ち衆として参陣することになった。
 信綱が真田屋敷を出るとき、
 「どうかご無事で。お帰りをお待ちしています」
 於北之方はいつものようにそう言って彼を見送った。その傍らで母の腰に抱きかかるようにしていた清音(きよ ね)は今年で十になるが、
 「父上様、早く帰って来てくださいね」
 と無邪気な表情で付け足すのだった。信綱は優しく笑んで、
 「うむ──」
 あまりに短い、これが夫婦と娘の最後の言葉になってしまうとは──。武田の大軍一万五千に対して、長篠城の守備兵はわずか五〇〇人程度、いったい誰が負けると思っただろう。
 武田の猛攻撃に長篠城はなんとか耐え忍んでいたが、やがて兵糧が尽き、落城必至に追い込まれたのは当然と言えた。すると十四日の夜になって長篠城の奥平信昌は岡崎城の家康へ援軍要請の密使を放つが、実はこの信昌、一度は徳川方から武田方に組したものの、再び徳川方に寝返ったという(いわ)く付きの男である。
 放たれた密使が、武田の厳重な警戒網を突破してたどり着いた岡崎城には、既に信長の援軍三万と、家康の手勢八〇〇〇が用意されており、長篠へ出撃する準備がすっかり整っていたと言う。
 「明日にも援軍を送ろう」
 信長からのこの朗報を聞いた密使は「一刻も早く伝えなければ」と、闇夜の中を取って返す。その途中のことだった。
 「ずいぶん急いでおるな」
 闇の中から現れたのは、傍らに伊与久采女(うねめ)を従えた禰津神平である。武田三ツ者の活躍の場は当時いたるところにある。難なく密使を捕えた禰津神平は、男を勝頼の前へ(ひざまず)かせた。
 「こんな夜中に岡崎方面から何用だ?」
 ところがこの男も腹が座っていた。臆すこともなく、
 「長篠城の使いだ。残念だがじきに織田と徳川の援軍が参る。観念しろ!」
 と、正直に自分の正体を明かしたのだった。その豪胆さに勝頼は「わはは」と声を挙げて感心し、駆け引きを行なうことを思いついた。
 「命は助けてやる。しかし、今すぐお前を城まで連れて行くかわりに、その場で『援軍は来ない。諦めて早く城を明け渡せ』と叫べ。さすればお前が望む所領も与えてやろう」
 と持ちかけた。すると密使は素直に承諾したのだった。
 「神平、手柄じゃのお。幸先(さい さき)がよいわい」
 この様子を近くで見て、禰津の肩を叩いたのは信綱で、一緒にいた伊与久は軽く信綱に目礼した。
 「月直(つき なお)もこたびの戦に参陣しているそうじゃないか」
 月直というのは禰津の嫡子の名である。神平は少し照れくさそうに頭を掻いた。
 ところが──、長篠城の前に引き出された密使が叫んだ言葉は、
 「あと二、三日で数万の援軍が到着する! それまで必ず持ちこたえるのだ!」
 だった。
 驚き逆上した勝頼は、その場で密使を斬首してしまったが、この決死の覚悟の言葉で、落城寸前の長篠城は起死回生の息を吹き返し、ありったけの士気を奮い立たせたのだった。そして援軍が到着するまでの二日間を見事に耐え抜く。
 十八日──、長篠城に到着した信長・家康連合軍は、城の手前設楽原に着陣した。そして三日後の天正三年(一五七五)五月二十一日、織田信長の鉄砲隊は歴史に刻む栄光を残して、それまでの常識を根底から覆したのである。無敵を誇った武田騎馬軍はその鉄砲を前に成す術を知らない。
 赤備えの信綱は右手に青江貞次の太刀を握り、馬場信春や昌輝らとともに総大将部隊の右翼を担い、主力となって前田利家や福島平左衛門尉が守備する織田勢陣営に進み迫まり、連合軍の馬止めの(さく)を次々なぎ倒して奮戦したが、織田鉄砲隊が構える一斉射撃を受けて、敵兵十六人を討ち取ったところで戦場の露と消えた。享年三十九歳だったと伝わる。
 この戦いにおける武田軍の犠牲は一万とも言われ、真田氏の血筋においても当主信綱をはじめ弟の昌輝、生母河原氏の河原宮内助正吉と河原新十郎正忠、さらには幸綱の弟真田隆永の孫にあたる常田図所助永則や、そして滋野一族からは神平の嫡子禰津月直、望月家当主望月信永などが討ち死にした。
 信綱の首は、身に着けていた陣羽織に包まれて、近習の北沢最蔵と白川勘解由の手によって甲斐に持ち帰えられたと言う。その後二人は、主君信綱の後を追って殉死した。
 敗戦の将勝頼は、わずか数百名の手勢に守られながら、命からがら信濃は高遠城にまで後退し、これより後の真田氏の行く末は、信綱の弟真田昌幸に託されることになる。



 「母上様、父上様のお帰りがずいぶんと遅いですね。いったいいつになったら戻られるのですか?」
 年が明けて春、真田屋敷の縁側で、沈みゆく夕陽を眺めながら清音(きよ ね)は母にそう聞いた。
 「そうねぇ……いったいいつになるのでしょうねぇ?」
 「明日? あさって? しあさって?」
 「そうねぇ……」
 於北之方は心ここにあらずの表情で、遠くの方をぼんやり眺めて応えた。
 確か信綱がこの屋敷を出たのは昨年の今頃、それから何の音沙汰もないままいまだ戻らず、長篠での武田の敗戦の噂は聞こえてきたものの、夫の消息は(よう)として知れない。きっと生きているに違いないと信じつつも、過ぎ去っていく月日は女の力で一俵の(たわら)を転がすように重いのだ。
 於北之方は曲輪の隅の方に林立する杉の木を見つけて、ふと思い立ったように清音に言った。
 「そうだ、いいこと考えた! お庭に松を植えましょう!」
 「まつ……?」
 清音は突然なんのことかと首を傾げて母の横顔を見つめた。
 「杉はいつもこの母の前を過ぎていくお父上様に似ているの。そして松は、このお屋敷でいつでもお父上様を待つ母なのじゃ」
 「ふーん……」
 そうして寺の鐘が鳴ったとき、屋敷の大手門から二人の男が入って来るのを認めた。於北之方は、そのうちの一人が昌幸であると知れて目を見開いた。もう一人の方は伊与久采女(うねめ)に違いなく、その女性のような顔つきと華奢な体はなにやら底知れない悲しみを背負っていた。
 「マー坊おじちゃん!」
 清音が嬉しそうに立ちあがり、二人の男の方へ駆けていく。父や母が日頃から昌幸のことをそう呼んでいたのだ。昌幸は清音を抱き上げると、そのまま於北之方の前まで来て膝をついた。そして目に涙を溜めて、手にした風呂敷包みの中から血に染まった陣羽織を取り出したのだった。
 「姉上、兄上様が──」
 「言うな!」
 於北之方は次の言葉を聞くのが怖くて、思わず声を張り上げ差し止めた。
 隣にいた伊与久も一粒の涙を落したまま何も言わない。
 「ねえ、どうしたの?」
 清音が空気の異常を感じてそう聞いた。そして、
 「父上様はどこ?」
 寂しそうな声の中には、少女は少女なりに状況を察したふうの色が混じっていた。
 暫く無言の時が流れ、どこかで啼く鳥のさえずりが聞こえていたが、やがて於北之方は静寂を突き破るようにこう言った。
 「みなで舞いでも舞おうかのう?」
 いまにもあふれ落ちそうな涙は夕焼けの色を映していたが、それを静かに拭き取った彼女は、立ちあがり、縁側の引き戸を全て引き払った。奥は大広間、そこは一瞬にして能舞台のような空間を作った。そして奥の部屋から琴と鼓を持ち出すと、鼓の方を昌幸に渡して、
 「伊与久さん、踊ってくれませんか?」
 と、血染めの陣羽織を彼に着させたのであった。
 黄昏の西の空は東の方から攻めてくる紺に支配されながら、赤や紫や黄色が押しつぶされる苦しみの光を放っていた。そして於北之方は、琴の前に端座して、一本の弦を弾いた。
 彼女の奏でる琴は、永遠の闇の中へと吸い込まれるように、怖ろしいほどの美しい音色を産み、叩くごとに涙が飛び散る昌幸の鼓の鼓動は、明日への命をつないでいるようだった。
 伊与久はその音楽の中で一心不乱に手弱女振(たおやめぶり)舞を踊り始めると、その楽し気な様子に釣られて、清音もまた舞台に躍り出て、思うがままに跳ねたり回ったり手を叩いたりしてケラケラと笑った。
 踊りながら伊与久が清音に聞いた。
 「踊りを習ってみるか?」
 「うん! 習う!」
 空はすっかり闇夜に覆われたが、その宴はいつまでも続いた。

 こののち天正八年(一五八〇)、信綱の正室於北之方は死去したと伝わる。雪の降る冬二月、彼女の植えた松の葉はそれでも青々とした色をたたえる。
 今も真田の御屋敷には、於北之方が植えた一本の松が立っている。杉と一緒に永遠の愛を残して。

 二〇二〇年十一月十一日
(2019・02・18 真田御屋敷公園より拾集)