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二十六夜待ちの月光
城郭拾集物語E 長野松本城
松本城
太鼓門
歴代城主



 松本城の魅力は、なんといってもその天守の姿の美しさだろう。
 このたび筆者が訪れた際も、平日にも関わらず、外国人──こと西洋人の多さには目を見張る。およそ美に対する感性というものは、洋の東西の垣根を超えるものか。
 城の周囲を巡って歩けば、角度によって異なる景色の中に、趣を変えて空にそびえる天守の荘厳さ。訪れたのは梅が咲き始めた初春の候であるが、夏には夏の、秋には秋の、そして冬には冬の、それぞれの表情を思い浮かべるだけで胸がわくわくする。
 筆者は長野県に住んでいることから、この城には過去に何度か訪れたことがあるが、以前は、単に国宝≠ニいう冠に釣られて来ただけで、本音を言えば、その魅力を感じるようになったのはごく最近のことである。というのは、歴史が古いことも北アルプスに抱かれた名勝であることも理解できたが、あまりに有名であるに関わらず、その実、歴史の表舞台に立ったことがなく、城主も入れ替わり立ち替わり交代していることなど、その歴史的存在の価値が、いまひとつ解せずにのめり込むことができなかったのだ。
 現存する天守閣は、文禄二年(一五九三)に石川数正と石川康長父子が建設に着手し、完成したのはその翌年とされており、総堀、三の丸、外堀、二の丸、内堀の、その中心にある本丸に、天守閣は大天守と乾小天守を渡櫓で連結し、辰巳附櫓を複合した平城で、月見櫓は江戸時代に入ってからの建築であるが、本来は秀吉派の大名が、江戸の家康を監視するための城として、甲府城、高島城、上田城、小諸城、沼田城と共に配置された江戸包囲網の一つとも言われている。
 松本城≠ニ名付けられたのは天守建設より十数年さかのぼる城主が小笠原貞慶の時だった。そもそも城の起こりを探れば、これより更に一世紀近く遡り、永正元年(一五〇四)に小笠原氏の支族であった島立右近貞永が、この地に深志城を築いたのが最初と伝えられる。
 その後、戦国時代に入り、武田信玄が深志城を落として北信濃支配の拠点としてから、織田信長が勢力を強めると、木曾義昌が支配したり、信長が没するとその混乱に乗じて小笠原貞慶が城主となったり、更に豊臣秀吉の世になれば、秀吉は小笠原秀政を下総国へ移して石川数正を八万石の城主として松本に封じた。
 ここまでの城主の移り変わりを知っただけでも、島立貞永(小笠原氏系)から、武田信玄、木曾義昌、小笠原氏(貞慶・秀政)、石川数正・康長親子と、めまぐるしいほどの交代を繰り返している。
 城主となった石川数正・康長親子は、文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵(文禄の役)で九州へ出陣するが、数正が陣中で没した後は、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の合戦で東軍に属した石川康長は、上田城を攻めて大敗を喫する。そして慶長十八年(一六一三)、石川康長は大久保長安事件に連座した疑いがかけられ改易させられてしまうと、城主は再び小笠原氏の手に戻るが、元和元年(一六一五)大阪夏の陣で小笠原秀政、忠脩父子が戦死してしまうと、一旦は小笠原秀政の次男忠真が家督を継ぐものの、間もなく元和三年(一六一七)、忠真は明石へ移封され、代って戸田松平康長が上野国高崎より入封する。
 なるほど綴っていても混乱するのだから、予備知識もなく松本城へ行ったなら、家に帰ってから整理しようと諦めて、ひとまずはお城の情緒に浸るのを優先してしまうに違いない。しかし今回は、この戸田康長にまつわる物語だから、ここまでの流れは忘れてしまって一向にかまわない──。
 松本に入封した当時、戸田松平康長は五十五歳。徳川家康のお膝元三河国は渥美半島一帯を支配した、十五代続く戸田氏の出である。


 
 戸田康長は幼名を虎千代と言い、戸田家十五代当主重貞の弟、忠重の長男として、永禄五年(一五六二)にこの世に生を受けた。二歳のとき、徳川家康が三河平定をする一連の戦いのひとつ吉田城の戦いで、当主重貞が戦死し、当主には子がなかったため、戸田家は継承者を失う形になっていた。
 虎千代が六歳になったときのことである。
 「どうも困った……」
 徳川家康が岡崎城に大勢の家臣を集めて言うには、
 「わしには五つになる妹があるが、顔に大きな痣があり、見るに堪えない醜さで気の毒でならぬ。これでは嫁のもらい手もおらぬと、行く末が心配でならぬのじゃ……」
 五歳の家康の妹というのは、彼の実母於大の方が産んだ異父の女子のことで、名を松姫と言った。於大の方は、最初松平広忠に嫁いだが、天文十一年(一五四二)に岡崎城で家康を出産した後、時の政情の犠牲となって離婚させられ、久松俊勝と再婚して三男三女を儲けたが、松姫はそのうちの一人で、家康の養妹というわけである。
 「これ松姫や、わざわざ皆が集まってくれているのだから、恥ずかしがらずに姿を見せよ」
 家康は松姫を家臣たちに紹介しようと名を呼ぶが、
 「ヤじゃ!」
 広間の襖の向こうで無邪気な幼子の声がするだけで、姫は一向に姿を見せない。
 「痣を気にして人前に出るのが嫌なのだな……」
 家康はそう独りごちると立ちあがり、襖を開けて乳母に抱かれる松姫の小さな身体を軽々と持ち上げて、家臣たちの前に居直らせた。ところがわんと泣き叫んだ松姫は、着物の袖で顔を覆い隠したまま、涙をこぼして顔を見せようとはしなかった。
 「困った姫じゃ。こんな妹だが、誰か嫁にもらってくれる者はおらぬか? もし男子を授かった暁には、十万石を下賜しようじゃないか」
 ところが集まった家臣たちはみな壮年で、若くても二十歳を過ぎた者が数名いるばかり。さすがに主君の頼みでも、顔の痣はどうあれ僅か五歳の童女を突然嫁にどうかと聞かれても、子を産める年齢に達するまでの歳月を考えれば、例え十万石という餌を吊るされても、俄かには承諾する者はなかった。
 家康は「さもあろうなあ」という顔をして、広間をくまなく見渡した。すると、後の方に大人に交じって小さな子供がいることに気が付いた。父に言われるまま家康のもとに参じた虎千代であった。
 虎千代は、周囲の大人たちの大きな体で視界を遮られ、正面の娘を一目見ようとちょこんと頭を上げた。その些細な様子を見逃すはずがない家康は、その子どもが、顔を伏せる松姫の姿をとらえてにこっと笑んだのを見た。そして、
 「そこの小僧、名を申せ」
 と問いかけた。
 幼い割に、主従の関係をきちんと理解し、その振る舞いをすっかり身に付けている虎千代は、
 「恐れながら──戸田重貞の名代として馳せ参じました戸田虎千代と申します」
 まだ六歳の、その立派な受け答えに、周囲の家臣たちは感嘆の声をもらした。
 戸田≠ニ聞いて家康は、吉田城の戦いで命を落とした家臣の血筋であることはすぐ知った。本来ならば招集された際は亡き重貞の弟である忠重が参ずるべきところ、まだ年端もいかない童を使わせるとは、戸田家はこの小僧を主君に目通りさせ、戸田家の後継にさせたい意図を示していることを察した。
 「虎千代、いま松姫を見て笑ったのはなぜか?」
 「みめよいおなごと思ったからにございます」
 「顔も見せない姫を、何故みめよいと思ったか?」
 不思議に思った家康はそう聞いた。すると虎千代も不思議そうな顔をして、
 「殿の妹君におわせられる姫でございます。殿は何ゆえ醜いと申すのでしょう?」
 まだ小童のくせに、その小気味よい返答に家康は声を挙げて笑い出した。
 「ならばそのほう、この松姫を嫁にもらってくれるか?」
 「仰せのままに──」
 虎千代は、まるでそうするのが当たり前のように答えたので、それまで涙に伏せっていた松姫は、思わず泣き止みきょとんとした顔を挙げた。その小さな顔の、右目から頬にかけてある大きな痣は、家康の言うとおり女性にとっては致命的な欠陥で、その苦悩を背負って生きなければならないまだ幼い姫には、あまりに重い宿命に違いない。
 ところが虎千代は、そんなことは歯牙にもかけない様子で、
 「やはりみめよいお姫様でございます。この虎千代は、天下の果報者にございます」
 と言った。心からそう思ったのか、あるいは主君の望みに無条件に応えることが武士の道だという教育でも受けていたのか、はたまた結婚の意味が分かっていないのか、いずれにせよ家康は、松姫の顔の大きな痣と虎千代の顔を交互に見つめて再び笑った。
 「近こう寄って松姫の隣に座れ」
 「はっ!」と虎千代は立ちあがり、はばかりながら前に進み出て、言われる通りに松姫の隣にちょこんと座る。家康は喜んで、
 「皆も聞いたであろう。今日よりこの二人は許嫁じゃ。虎千代が元服したら、早々に松姫を嫁がせようと思うが、戸田家の当主は先の吉田城の戦いで戦死して不在じゃ。そこでこの虎千代に家督を継がせようと思うがどうか」
 こうして戸田家の存続が認められ、虎千代と松姫は夫婦になることが決まった。



 戸田家の居城は三河国は渥美郡にある二連木城である。
 もとより戸田宗家の祖である戸田宗光が築いた城であるが、今川氏と他の勢力争いの間で取ったり取られたりを繰り返してきた。
 永禄三年(一五六〇)、今川義元が織田信長に討たれると、今川の人質にとられていた家康は岡崎城で独立して三河平定に乗り出した。そのころ二連木の城主だったのが虎千代の叔父である戸田重貞だが、彼は吉田城に母親を人質に取られていたこともあり今川方に属していた。徳川の家臣になったのは、永禄七年(一五六四)、家康が吉田城を攻め始めた際、城内にいた重貞が相手を油断させた隙に母親を長持に隠して救い出し、城に火を放った功績を挙げた時からで、その後重貞は戦火の犠牲となるが、二連木城はそのまま虎千代が継いだというわけである。
 虎千代が十二歳になったとき、
 「そろそろ元服してはどうか?」
 と、家康からお声がかかった。元服とはすなわち松姫との結婚を意味する。
 「元服の儀はわしが直々見届ける故、浜松に来い。ついでに松姫との婚儀を執り行う」
 このとき家康は浜松城にある。虎千代は二連木城に姫を迎える準備を進めさせると、自分は家臣を引き連れ浜松へと向かう。時に天正二年(一五七四)のことである。
 そうして虎千代と再会した松姫は、このとき十歳の年になっていて、あれほど大きく気になった痣も、目を凝らしても分からないほど小さくなっており、これが五歳の時に痣を気にして泣いていた子とは、まるで別人と見まごう可愛いらしい女の子に成長していた。虎千代は「これがわが妻になる女子か」と、瞠目して見とれたのも無理はなかった。
 家康が言った。
 「松姫と夫婦になるからには松平≠名乗ることを許す。加えて元服の祝いに、家康≠フ康≠フ字を授けよう。今日よりお前は松平康重≠カゃ!」
 虎千代は恐縮して平伏したが、戸田≠松平≠ニ改めるからには、自分が戸田松平家≠フ始祖となるわけだ。そう考えると、前当主の重貞と父忠重の重≠フ字を系字とするよりも、康≠ノは別の新たな字を添えたいと思った。
 「怖れながら──名は康重でなく康長≠名乗りとうございます」
 家康は、彼がまだ六歳だったあの時と同じ不思議そうな顔をつくった。
 「その心は?」
 「家康様のもとで末長くお仕えする所存にございます」
 康長の決意を小気味よく思った家康は、松姫に「どうか?」と聞いた。すると松姫は、少し照れながらこう答えた。
 「虎千代様は、顔の痣を気にして卑下する幼いわたくしをみめよい≠ニ言って下さいました。あの時わたくしは思ったのです。ああ、この方は、けっして人を見た目だけでは判断しない真の目を持つお方なのだ≠ニ。わたくしは虎千代様のお嫁さんにしていただきたいと思いました。顔は女子の命でございます──以来私は顔の痣を消そうと、お月様にお願いし、鳩麦が良いと聞けば探して塗り、菊の花が良いと聞けば育てて塗り、蜂蜜が良いと聞けば蜜蜂を飼って痣に塗りました。そのおかげか、今ではこんなに痣が目立たなくなりました。虎千代様が松平であろうとなかろうと、康重様だろうと康長様だろうと、わたくしには問題ではないのです」
 祝言の席で、家康は似合いのカップルの誕生に寿いだ。松姫は夫となった男の将来を思って、二人が出会ったときに言った家康の言葉に念を押した。
 「兄上様は、よもやお忘れではございませんか?」
 「はて、なんじゃったかな?」
 「もし男子を授かったら、虎千代様に十万石を下さるというお約束です」
 「おお、よく覚えておったな。無論、約束は守ろう」
 こうして松姫は、戸田松平康長の妻として二連木城に迎えられた。



 二人が初めての正月を迎え、その月の二十六日目を数えた日、
 「今日は三石三斗三升三合三勺のお米を炊かなければいけませんね」
 と松姫が言った。康長が首を傾げて「なぜか?」と尋ねると、
 「今晩は二十六夜ではありませんか?」
 と、松姫はさも不思議そうな顔をして答える。
 これは月待信仰の一つで、松姫の育った家では、毎年正月二十六日は三石三斗三升三合三勺の米を炊き、夜中の丑四つ時(午前三時ころ)に昇る二十六夜の細い上弦の月を待ち、炊いた米や餅を供えて無病息災、福徳円満を祈るのだそうだ。これを「二十六夜待ち」と言って、本来なら、海の水平線から顔を出した二十六夜の月の姿は、まるで金色に輝く椀の舟のようで、ほんの一瞬だけ、その舟の上に観音菩薩と勢至菩薩を脇侍に従えた如来の姿が見えるのだと松姫は教えた。、康長にとっては知らなかったことで、
 「それを拝むと幸運を導くのです。わたくしは痣を消したくて毎年お祈りいたしました」
 と、戸田松平家では以来松姫によって毎年行う行事となった。
 そんな健気な祈りの甲斐あってか、松姫の顔の痣は年を重ねるごとにすっかり消えて、やがて仲睦まじい二人は第一子を授かった。それは玉のような男の子、名を虎松≠ニ命名した康長十八歳、松姫十七歳の、天正八年(一五八〇)のことである。
 「さっそく兄上様に報告してお約束を果たしていただきましょう」
 と松姫は言ったが、
 「人には身の程に合った領分というものがある。私なぞまだまだ十万石など恐れ多いことだ。それに何一つ手柄を立てておらぬではないか。いきなり十万石など賜れば、やっかみも多いし嫉妬も買おう。家康様とてそれくらいのことはお考えになられているに相違あるまい。慌てずとも、年相応に増やしていただこうではないか」
 この頃は一万石はおろか、米数百石たらずのわずかな知行で、
 「まあ、なんてお人の好いこと……」
 松姫は夫の無欲なのに呆れたが、そんなところを愛する自分もいたのである。
 その年が明けて間もなく、家康から康長に出陣命令が下された。「遠江国の高天神城に兵を出せ」と言うのだ。これが彼にとっての初陣となった。
 武運を祈りながらも心配を隠せない松姫は、いざというときのために錦の巾着袋に三合三勺の米を入れて康長に手渡した。
 「これは?」
 「お米です。もし万が一、敵に追われ食べるものがなくなった時、これで命をつないでください──」
 康長は妻の心が嬉しくも、この袋を開ける時は、自分の命が尽きる時だと覚悟して、懐にしまって二連木城を出て行った。
 当時高天神城は武田勝頼の手中にあった。
 ところが城の争奪戦をめぐって前年十月、家康は五千の軍勢で城を囲んで兵糧攻めを行った。城を守っていた武田軍の将は今川義元の旧臣岡部元信で、武田勝頼の援軍を待ち望んで堪えていたが、ついに勝頼出陣の噂が流れると、これに応じて織田信長の子信忠が尾張国の清洲城に入ったのだった。
 信長は、勝頼が救援に来ないのを見越して、家康に「高天神城の降伏を許すな」と命じた。
 結局勝頼の援軍は来ず、家康に包囲された高天神城は餓死者が続出し、三月の末、ついに城から討って出た武田軍は、待ち受けていた徳川軍に惨敗する。
 この戦いで初陣の康長もいくつかの手柄を挙げ、以降、武田勝頼は衰亡の道をたどることになる。
 この二年後、翌天正十年(一五八二)に織田信長が没すると、豊臣秀吉は天下取りに動き出した。
 三法師を擁立した秀吉に対し、家康は織田家中の実権を握ろうとした織田信雄に味方して、天正十二年(一五八四)、小牧・長久手の戦いが勃発した。康長は徳川四天王の一人酒井忠次に従軍することになり、この時も松姫は、錦の巾着袋に三合三勺の米を入れて康長に手渡した。
 「初陣の際はこの袋の米を食べずに済んだ。これはお前の祈りの詰まったお守り袋だと思っておる。こたびもこの米は食べずに戻るさ」
 「ご武運をお祈りしております」
 松姫は康長の手を握りしめて見送った。
 小牧・長久手の戦いは、織田軍に与するはずの織田譜代の家臣池田恒興が、突如、秀吉に寝返って犬山城を占拠したことに始まる。ちょうどその日(三月十三日)清洲城に入った家康は、これに対抗するため一万四千の兵を率いて小牧山城に駆けつけた。小牧山城は織田信雄にとっての要所であったからだ。
 十六日、鬼武蔵≠フ異名を取つ森長可が池田恒興と協同して、小牧山城を落とそうと城の西方に陣を敷くと、その動きを察知した家康は、酒井忠次と松平家忠ら五千の兵を羽黒へ向け、翌早朝、森長可に奇襲攻撃を仕掛けた。
 酒井忠次の先鋒隊は、押し寄せる森長可勢に苦戦するも、側面からの松平家忠鉄砲隊の加勢によって盛り返し、その敵が後退する様子を見て康長が叫んだ。
 「今じゃ! 行け!」
 その号令に酒井勢二千が一斉に押し寄せたものだから、慌てふためいた敵の中には敗走と勘違いする者が続出し、森長可の軍勢を大混乱に陥れた。敵将には逃げられたが大勝利の初戦であった。
 その報告を大坂で聞いた秀吉は、同月二十一日に三万の兵を率いて大坂城を出立し、二十七日には犬山に着陣して暫くは双方にらみ合いの膠着状態が続くが、四月六日になって池田恒興、森長可らの秀吉軍の四将が、家康の本拠地岡崎城を攻める作戦に出る。そして岡崎城に至る長久手城で、世に言う長久手の戦いが起こった。
 徳川勢四千五百に対して豊臣勢八千──、最初は一進一退でどちらが勝つとも知れぬ接戦を繰り広げたが、森長可が井伊直政の鉄砲隊に討たれると、戦局は一気に徳川優勢へと傾いた。その後、池田恒興も討死し、戦いは家康の大勝利で終わる。直接衝突はなかったものの、この戦いで失った兵の数は、豊臣勢約二千五百、織田・徳川勢約五百九十とされ、合戦では家康に勝てないことを悟った秀吉は、所領安堵≠条件に織田信雄と講和したため、大義名分を失った家康は兵を引き上げた。
 ところが、その後家康は、豊臣政権を樹立した秀吉に従うことになるのであった。
 小牧・長久手の戦いが行われていた頃、二連木城の松姫は重い病に倒れた。
 戦いから戻った康長は驚いて、「いま戻ったよ」と白い手を握りしめると、戦場での自分の働きを誇らしげに伝え、「わしも元気に働いたのだ。お前も早く良くなれ」と励ました。
 ところが松姫は布団に身体を横たえたまま、小さく笑うのがやっとのようで、
 「それはよろしきことにございます。今わたくしに話して下さったご武功を、そのまま兄上様にお話し下さい。兄上もさぞお歓びになるでしょう」
 コンコンと咳をしながら力なく言う。康長はいつもの自分を見せて元気づけようと、
 「いや、まだまだじゃ。武功というのは人が申すものだ。自らが吹聴するのは甚だ見苦しい」
 「またそんなことを──。どうやらわたくしが在命のうちは、十万石の殿のお姿を見ることはできないようですね……」
 「何を申す! 共に白髪の生えるまで生き、同じ景色を見ようではないか」
 松姫は何も言わずに、やがて息を引き取った。
 涙にむせぶ康長は、その棺の中に、三合三勺の米を入れた錦の巾着袋を置いて葬った。



 天正十八年(一五九〇)、小田原征伐に動き出した秀吉に家康も従軍すると、康長は徳川軍に従って武蔵方面へ進撃した。軍は相模国玉縄城や江戸城などの北条支城を次々に陥落させると二手に分かれ、康長は同じ徳川家臣の内藤家長らと共に下総国方面に向かった。そして五月、
 「松平康長殿は臼井城を落としてくれたまえ」
 と、一千の兵を預かり、その重要任務を受けたのである。
 臼井城といえば、その生涯でたった二度しか負けたことがないと言われる上杉謙信が、その二度のうちの一つを勝ち取っている城である。もっとも時の城主は千葉氏から原氏に代わっていたが、前城主原胤栄はこの直前に死去しており、嫡男胤義は北条氏の人質となっていたため、城代として城にいたのは原邦房であった。
 最初康長は、小田原城を包囲する総力二十万とも言われる豊臣勢力の威のままに、一斉攻撃を仕掛けて陥落させようとも思ったが、臼井城に立て籠る城兵にも愛する妻や子がいることを思うと、死んだ松姫の顔が脳裏に浮かび、不憫でならなかった。そこで武力による制圧を思い留まり、開城交渉をすることにした。
 五月十日、自らが使者となって単身城内に乗り込むと、城代原邦房は悲愴な顔をして、
 「兄は小田原にいますが、当方も北条に付きたくて付いているわけではありません」
 と言った。康長は、今はすでに豊臣の世であることや、この戦も兵数からいって北条には全く勝ち目がないこと、そして無駄な血は見たくないことを丁寧に語り、
 「実は私には妻がおりましたが、数年前に病で死にました。ところが私は戦に明け暮れ、ろくに相手もしてやれなかったことを悔いております。私が望むのは戦のない天下泰平の世です。世が平和であるなら、君主様は豊臣秀吉様であろうとかまわないと思っています。もし御同意いただけるのなら、お城を開城して降伏していただけませんか?」
 こうして臼井城は難なく落ちた。
 戦において城を落としたとあらば、それ相応の褒美が与えられるのが常であるが、北条征伐における徳川家臣団の働きはあまりにめざましかった。秀吉は敵の不甲斐なさに呆れて、
 「房総諸城の攻略は戦功として認めない」
 と触れたほどで、間もなく同年七月、小田原城は落ち、北条氏は壊滅する。
 家康は、城を落としながら褒美が与えられない康長を可哀想に思い、徳川の関八州への移封に彼を従わせ、武蔵国東方城に一万石を与えた。康長は松姫との思い出が残る二連木城を後にした。
 家臣たちはたびたび「家康様にもっと恩賞を催促したらどうか」と求めたが、
 「自ら恩賞を求めるのは見苦しい。領分は後からついてくる」
 と、康長の答えはいつも同じで取り合おうともしない。家康はそれをきちんと分かっていて、康長と松姫の間に生まれた虎松が、康長が元服した年と同じ十二歳になった文禄元年(一五九二)、二人を江戸城に呼び寄せ虎松を元服させると、
 「母の分まで永く強く生きよ」
 と、永兼≠フ名と越中国則重の刀≠贈った。
 康長はそれだけで満足だったが、一つだけ危惧することがあるとすれば、母に似たのか永兼も病弱なことだった。そんなことも見透かしていたのか、家康は続けた。
 「松姫のことを思い続けてくれるのは嬉しいが、そろそろ喪に服すのは終わりにして、新しい室を迎え入れてはどうか?」
 「それは異なこと──私の妻は生涯松姫様ただお一人でございます。ご心配はありがたきことですが、どうかご勘弁を……」
 「それでは松姫を嫁にとらせたわしの方が申し訳なく思う。正室でなくとも側室を迎えよ」
 こうして康長は二人目の妻を側室に迎え、次男をもうけた。後に二代将軍となる徳川秀忠に初見して忠長と称し、更にのち忠光と名を改め、戸田松平氏の血統をつなぐ子の父となる人物である。
 その後の康長の活躍も目覚ましかった。
 慶長五年(一六〇〇)には関ヶ原の戦いで、水野勝成らと共に大垣城を攻略し、翌年その功で上野国白井城に封じられ、慶長七年(一六〇二)には下総国古河城へ移封された。更に慶長十年(一六〇五)には従五位下丹波守に叙任され、慶長十四年(一六〇九)に京都の伏見城の守衛に当たったあとは、慶長十七年(一六一二)に常陸国笠間城へ移封され、大坂の陣では二度に渡って家康に従軍すると、その功で元和二年(一六一六)、上野国高崎城五万石の領地へ入封する。以前康長自身が松姫に語った年相応の領分≠フ言葉通り、彼女が夢見た十万石へ、あと半分までの大名に成長していく。
 ところがこの年の四月、家康は駿府城においてその生涯を閉じるのだった。
 顧みれば、高崎城に来たとき康長齢五十四歳。その大らかで温厚な人柄は、家康はもとより新将軍となった秀忠からも、また、後に将軍となる家光からも厚い信頼を得て、陸奥国の伊達政宗とも懇意に付き合い、わざわざ夜分に迎え入れては酒食でもてなし、
 「必ず胡坐にて打ちくつろぎ、包み隠す事なくお話の相手をした」
 と伝えられる。
 その一方で、松姫と死に別れてからの三十年という歳月は、次第にその恋慕の情を薄れさせた。
 康長はこの高崎城で若い三人目の妻をとり、三男庸直をもうけたのであった。



 元和三年(一六一七)、高崎に来て一年しか経たないというのに、将軍秀忠が新たな下知を下した。
 「信濃国の松本城へゆけ。石高は七万石に加増する」
 松本城は、豊臣の世にあっては江戸を包囲するための役割だったのが、徳川の世にあっては、北と西の勢力に睨みをきかせる江戸を守るための拠点にかわった。大坂の陣で豊臣を滅ぼしたとはいえ、徳川に反骨心を抱く因子が残っているとも限らないからだ。松本を徳川守護の国として完全に統治し、確たる制度を整えよと秀忠は言う。
 松本に移った康長は、さっそく藩政改革に乗り出した。
 最初に行ったことは、二万石の加増分に見合う家臣団の再編成だった。新たに土着の者を家臣に召し抱え、城下町の建設と合わせて徒士や足軽たちの屋敷を建てて集住させ、藩内を十五の組に分けて新しい行政区画を決めた。また、在地の豪族が多い土地柄から、それまで独自の税収法を用いていたのを廃止して、全て蔵米制に移行して、兵農分離を推進するなど、その改革のスピードにはみな戸惑うばかり。おかげで松本の城下は活気にあふれた。
 新しく持筒頭になった男に川井八郎三郎という男がいた。もともとは佐竹氏の家臣だったが、武田信玄がこの辺りを支配した際に松本に住み着いた士族である。体格がよく力も強かったから、病弱だった嫡子永兼の近習を兼ねて雇ったものだった。
 永兼と八郎三郎はよく気が合い、あるとき八郎三郎は永兼に聞いた。
 「永兼様の母君とはどういうお人だったのでございますか?」
 すると、
 「私が五つの時に亡くなったので、その面影しか覚えていません。父上からは公方様の父君、東照宮(家康)様の妹君であったと聞いていますが、正直申しますと、いまひとつ思い至らないのです。ただその優しい手の温かさだけはよく覚えております」
 と答えた。そして、
 「そうだ、一つだけ母と約束した事がございました」
 「お約束──?」
 「もし父上のご在命中に十万石の主になれなければ、私が代わりに成しなさいと。なんでも父と母がご結婚する際、東照宮様がお約束されたのだそうです。もし男子が生まれたら、父上に十万石を下さると。つまり私がその男子というわけですが、ご存知のとおり父上は無欲な方で、領分はその働きについてくるものだと言って聞きません。いわば私は十万石の引換札というわけですが、肝心の東照宮様はもうこの世にはおりません。おまけに長い歳月の中で、父上は、母上の事をお忘れになってしまったようですから……」
 永兼は少し寂しそうに答えた。
 「あと三万石ですか……なあに、殿の事ですから時間の問題でございましょう」
 「私がもっと丈夫な体で生まれればよかったのですが……。私の持病は母上と同じだそうです。皮肉ですが、病がこの胸を蝕むたびに、私は母上を身近に感じるのです」
 「母君のお名前は?」
 「松姫と申します……」
 八郎三郎は目に涙をためて同情した。



 康長が松本城に入って初めての新年を過ごした元和四年(一六一八)の正月二十六日のことだった。
 その夜、本丸御殿の警備当番だった八郎三郎は、城内の者たちが寝静まった夜中、廊下を伝って一部屋ずつ見回ると、玄関を出て提灯を片手に黒門から内堀に沿って本丸を一周し、異状がなければ持筒番所に戻って仮眠をとるといった巡回をする。そしてふた時ばかり経つとまた起き上がり、警備の晩はそんなことを幾度と繰り返す。
 丑四つ時を過ぎた頃、本丸の外回りを終えた彼は、番所に戻ろうと本丸御殿の玄関に戻って提灯の火を消した。南東の太鼓門に目をやれば、屋根の上にやせ細った上弦の月が昇りはじめており、淡い光は冬の寒気を運んできた。
 「さすがに松本の夜は冷えるのぉ……」
 凍える手に白い息を吹きかけ、身体をぶるるとふるわせたとき──、
 誰かが彼の名を呼ぶのが聞こえた。不審に思って振り向くと、そこに緋色の袴を身につけた美しい女性が立っているではないか。
 思わず八郎三郎はその場に立ち尽くし、白い息を吐くのも忘れて見とれた。
 するとその女性が言った。
 「どうか、これを康長にお渡しください」
 殿の名を呼び捨てにするとは、「これは、もしや松姫様ではないか?」と思った八郎三郎は、呆然と女性が差し出す錦の巾着袋を受け取った。そして女性は続けた。
 「しかし、その袋の口は決して開けてはなりません。康長にもそうお伝えください」
 「いったい何が入っているのでございます?」
 「康長に渡せばわかります。それと──」
 仄かな月明かりの中で、金色に輝いて見えた女性の身体がみるみる薄れていく。そして消えゆく御姿と同じようにその透きとおった声も小さくなりながら、彼女は最後の言葉を残した。
 「三石三斗三升三合三勺のお米を炊いて、二十六夜様を祀って祝いなさい。そうすれば松本城はずっと栄えることでしょう。ただしその袋の口だけは──」
 女性は夜の静寂を作って消えた。
 夢か、あるいは幻か──八郎三郎は自分の眼を疑って、何度も目をこすってみたが、受け取った錦の巾着袋は厳然と掌の中にあり、夢心地の気分のままその日は持筒番所に戻ったのだった。
 さて翌日、昨晩の不思議な出来事をさっそく康長に伝えると、康長は驚いたように錦の巾着袋を八郎三郎から受け取った。
 「こ、これは……本当にその女がお前に渡したのか?」
 康長は中身を確認しようと袋の口を開けようとしたので、
 「開けてはなりません──! そう申しておりました」
 血相を変えた八郎三郎に康長は笑い出した。
 「開けたらわしの命が尽きるとでもその女は申したか?」
 このとき康長の脳裏によみがえったのは、初陣のとき以来、出陣といえば「いざという時のために」と松姫が持たせてくれた、これと同じ錦の巾着袋のことである。康長にとってはお守り袋で、だとすれば、いま手にしている袋の中身は三合三勺の米に決っていた。そういえば、この袋の口を開ける時は命が尽きる時だと、いつも自分に言い聞かせていたのを昨日のことのように思い出した。
 「ほかに何か申しておったか?」
 「はい。三石三斗三升三合三勺の米を炊き、二十六夜を祀って祝えと。さすれば松本城はずっと栄えると──」
 「二十六夜を祀れだと?」
 俄かには信じがたいが、昨晩八郎三郎が見たという女は松姫に相違ない。でなければ、彼女と一緒に過ごした毎年正月二十六日の、宵闇の中で語り明かした十万石の大名になる夢を、彼女も家康もいない今、自分の他にいったい誰が知っていると言うのだろう。昨夜はまさにその正月二十六日だったではないか。
 「達者でいたか? その女はどんな様子であったか?」
 「巫女のような緋色の袴を着ておりました。それはそれは神々しいお姿で、あれはやはり松姫様なのでございましょうか?」
 康長は何も言わなかったが、彼女が死んでからの何十年もの歳月の中で、すっかり忘れていた彼女の願いを思い出していた。
 齢五十も半ばを過ぎ、いまや七万石の松本城主にはなったが、十万石にはまだ三万石足りていない。三石三斗三升三合三勺の三≠フ意味は、その足りない三万石の三≠ナはないかと康長は思った。そして、老いによって気力の衰えているのを案じ、松姫が戒めてくれたのだと感じた。
 昔の自分の満々と充ちた気力を思い出した彼は、今の自分を大いに恥じ、八郎三郎が女から聞いた言葉どおりに、翌月の二十六日から毎月、城の天守閣の最上階の梁の上に、餅と錦の巾着袋を供えて二十六夜を祀るようになった。



 康長には松姫の後妻として迎えた妻と、高崎城で迎えた二人の側室がいる。次男忠光は前者との間で生まれ、三男庸直は後者との間で生まれた子で、後者は高崎城で迎えられた女だったので、家臣たちは城の別称をとって和田の方様と呼んでいた。
 ところがこの和田の方、庸直を授かった時からわが子を当主に据えようと、心に密かな野心を抱いているのであった。このとき松姫と康長の間に生まれた長男で嫡子の永兼は三十九歳、次男忠光は二十一歳、そして庸直はまだ二歳であったが、彼女にとっては上の二人が目の上の瘤で、質の悪いのは、異常なほどの嫉妬心の持ち主であることだった。
 あれから一年ほど過ぎた元和五年(一六一九)──。
 正月二十六日の二十六夜の祀りが終わり、二月、三月、四月、五月と定例の二十六夜の祝いも済んで、六月に入って九日の夜、康長の夜伽の相手をする和田の方は、さりげなくすりよりこう言った。
 「わたくしは淋しゅうございます……」
 「急にどうした? 申してみよ」
 「殿は高崎城にてわたくしを妻に迎え入れてくれましたが、庸直という男子を授かったのに、わたくしを一向に正室としてお認めになろうとされません。それが口惜しゅうてならぬのです……」
 思えば和田の方はまだ二十歳そこそこの若い女である。そう思うのも無理はなかろうと康長は思う。
 「正室になりたいのか?」
 「そうは申しません。ただ、御殿様がいつも懐に大切にしまわれている錦の巾着袋──。それは御殿様が愛した最初の奥様から授かった物なのでしょう?」
 康長は俄かに笑い出す。和田の方が、死んだ松姫に嫉妬していると思ったのだ。
 「左様じゃ。そなたには申し訳なく思うが、松姫は生涯わしの正室じゃ。それは今は亡き徳川家康様に誓ったことなのだ。許せ」
 和田の方は悲しそうな目をつくった。
 「袋の中には何が入っているのでございます?」
 和田の方は庸直の懐にそっと手を伸ばし、彼がいつも大事にしている巾着袋を掴んで言った。それを拒んだ康長は、少し怒ったように、
 「そなたは知らなくてよい」
 和田の方はふくれると、ぷいと背を向けた。
 「仕方ございません。なら正室は諦めますが、あまりわたくしを一人にしないで下さいまし。御殿様は少し働き過ぎでございます。いっそ御隠居なさってずっとわたくしのそばにいて下さいませ。永兼様ももう四十でございましょ? そろそろ家督を譲ってあげないと返って可哀想な気がいたします」
 「ううむ、しかし永兼は病弱だからなあ……心配じゃ」
 「では家督は忠光様に譲ろうとお考えですか?」
 「これ、過ぎたことを申すでない。まるでわしに早く死ねと言っているようではないか」
 「め、滅相もございませぬ」
 和田の方は心中を読まれるのを怖れ言葉を止めた。
 康長は懐の巾着袋を握りしめ、俄かに笑いながら和田の方を抱き寄せた。
 「まあ、それも悪くないかもなあ。人生五十年というほどに、わしは少し長く生きすぎているのかもしれぬ」
 袋の口を開けたら自分の命が途絶えると思い込んでいる彼は、「まだまだやるべき事がある」と思う反面、最近とみに「巾着袋の口を開ければ自分はいつでも死ねるのだ」という老いとの葛藤に苛まれる時がある。康長は和田の方の耳元で、
 「わしを邪魔に思ったら、この巾着袋の口を開けるがよい」
 半分は冗談のつもりで口を滑らせた。
 旧暦の六月は新暦でいえば七月の夏である。ようやく涼しくなった夜風が寝間にも流れ入ると、和田の方は団扇をあおぐ手を止め、康長がすっかり寝息を立てているのを確認すると、自分も横になろうと行燈の灯を吹き消そうとした──その時だった。ふと、康長の枕元に錦の巾着袋が置かれているのが目に飛び込んだ。
 袋の中にはいったい何が入っているのだろう……?
 「絶対に口を開けてはならぬ」と言われると、開けたくなるのは人の心理というもので、和田の方はそっと袋に手を伸ばし、口の紐をほどいて恐る々々中を覗き込んだ。
 すると、暗い行燈の光に照らされて見えたのは、無数の黒い粒のようなもので、興味本位に掌の上にこぼしてみれば、それは真っ黒に炭化した米粒に違いなかった。
 「なあんだ……炭になった米ではないか」
 という表情を作って袋に戻すと、もとのように口を紐でしばって主人の枕もとに戻し、やがていつものように眠りについた。
 ところが翌朝──、
 「和田姫や、いったいその顔はどうしたのじゃ?」
 康長の声に起こされた和田の方は、鏡に映る自分の顔を見て驚いた。右目から頬にかけて、黒い大きな痣ができていたのである。
 「ひゃっ!」と思わず声を挙げて寝間を飛び出した彼女は、台所の甕に溜めてある井戸水で、ひと夜のうちにできた黒い痣を洗い落そうとしたが、その痣はもう二度と消えることがなかった。
 続けざまに三郎八郎が蒼白になって康長のところに駆けつけて言うには、
 「永兼様が目を覚ましません!」
 驚愕した康長は、着る物もろくに羽織らず急いで永兼の寝所に走って行けば、すでに脈を計っていた侍医が神妙な顔付で、
 「亡くなっております」
 と静かに言った。
 呆然自失の康長は、まるで何かに取りつかれたように寝間に戻って膝を落とせば、目に入った錦の巾着袋の結び目が、以前と違う結び方になっているのに気がついた。
 「さては和田姫め、袋の口を開けたな……」
 康長は、死の報いが自分に顕われず、松姫との子である永兼に顕われたことに納得がいかないまま、それから暫くは何もする気が起こらず、人が変わってしまったように月日を過ごした。
 そして戸田松平家の嫡子は次男忠光になった。



 永兼が死んで四年──人の感情を置き去りにして時は流れる。
 将軍徳川秀忠が十九歳の嫡男家光に将軍職を譲ったのは元和九年(一六二三)のことで、康長はその守役となって江戸に呼ばれ、嫡子忠光も、家光参内の折には守衛として京都へ随行し、戸田松平家に対する徳川家からの信頼は変わらず続いた。
 将軍家と関わる中で、ようやく生きる気力を取り戻した康長は、寛永三年(一六二六)に松本に戻ると、再び藩政改革に乗り出した。領地内の検地を実施し、それに伴い、これまでの郷を廃して小さな行政村をつくりあげるなどの実績を積みはじめたが、あろうことか寛永六年(一六二九)、嫡子だった忠光が三十二歳で非業の死を遂げたのである。
 永兼に続いて忠光まで──巾着袋の口を開けてしまった報いは、この自分の死によって償われるものではなかったのか?
 と康長は思った。すると心に様々な感情が浮かんでは消えた。
 松姫はいったい何を望んでいるのか?
 なぜ不幸を導く巾着袋をわしに渡したのか?
 今わしが受くる苦しみや悲しみは、死ぬそれよりも深いのか?
 ひょっとしたら松姫は、同じそれを知りながら死んで逝ったのか?
 わしに知ってほしくて──?
 失意のまま、寛永九年(一六三二)一月には、今度は君主徳川秀忠が逝去した。
 「人の命とはなんと無常なものか──」
 そして、間もなく康長自らも病床に就く。
 将軍家光はこれを心配し、幕府の侍医を松本まで遣わすが、この年の十二月、康長は松本城で帰らぬ人となる。享年七〇歳──その相は、億劫の辛労を凝縮したようでいて、爽やかで、かつ、何一つ悔いの残さない仏様のような表情だった。それは生涯愛し続けた松姫と、同じ境地に至った満足感だったかもしれない。

 その後、戸田松平家の家督を継いだのは、十六歳の三男庸直だった。
 本来ならば一番喜ぶはずの和田の方は、あの日以来、顔の痣を気にして部屋にずっと引きこもったままで、この頃から戸田松平家では様々な不幸が立て続けに起こるようになった。
 寛永十年(一六三三)四月には、康直は松本から追い出されるように播磨国明石城への移封となり、松本城は越前国大野城より入封してきた松平直政が城主となった。
 明石城に移った康直は、何かに呪われたように間もなく謎の死を遂げた。家督は康長の次男、故忠光の子で、まだ十二歳の光重が継いだが、戸田松平家に降りかかる災難は終わらなかった。城内の奥御殿に夜な夜な妖怪が現れるといった騒動や、婦女が病気にかかり次々に死んでしまったり、さすがに気持ちが悪い家老たちは、巫女を呼んで占わせてみると、
 「家督を継ぐべき者が継いでおらぬ……」
 と、まだ幼さを残す光重の顔をじろりと見て言う。
 「もっと高貴な者がいたはずじゃ」
 家臣たちは「永兼様のことではないか?」と囁き合うと、憑依でもしたかのような巫女が「見えた!」とばかりに語り始めた事は、
 「その者がこう申しておる──我が母は東照宮様の妹君である。かの徳川宗家の門流であるにも関わらず、他の霊と同じ寺に祀るのはなぜか? 我のために祠を建て、別に祀ってもらいたい。されば松平戸田家は末長く栄えよう──」
 これまでの不幸が永兼の祟りだと知った家老たちは、戸田松平氏の祈願所だった明石城内の弥勒院に永兼を祀る社を建立し新宮と名づけると、やがて不幸な出来事は途絶えたと言う。



 康長を始祖とする戸田松平家六代目当主戸田光慈が、志摩国鳥羽城から松本城に入封したのは享保十一年(一七二六)のことだった。
 これは戸田松平家にとっては実に九十三年振りの里帰りとも言うべき慶賀で、光慈は暘谷霊社と名をかえた永兼を祀る社を、明石から松本城の北側に移した。
 翌年一月、本丸御殿が火事で焼失した際も天守が焼けなかったのは、康長の時から始まった二十六夜待ちの習慣が続いていたことと、暘谷霊社で祭った松姫と永兼様のおかげだと言った。以来政庁は二の丸御殿に場を移すが、戸田松平家はその後明治以降まで続いていくことになる。
 今は暘谷霊社も松本神社と名を変え、五社の一つとして存在しているが、松本城では、月々二十六夜の上弦の月が綺麗に昇る夜には、椀型の月舟の上に、松姫と永兼を脇侍に従えた康長の御姿が、ほんの一瞬だけ見える時があるということだ。

 二〇一九年四月九日
(2019・03・27 松本城より拾集)