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羅刹(ら せつ)と天女
城郭拾集物語K 出羽国(山形)米沢城
米沢城
上杉鷹山
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 慶長三年(一五九八)、越後から会津へと移封された上杉景勝もこの道を通っただろうかと思いを馳せながら、ゴールデンウィークだと言うのにやけに車通りの少ない峠道を米沢城へと向かう筆者は、関ケ原で敗れたことにより僅か三〇万石に減封されたにかかわらず、家臣をリストラしなかったという美談を残す米沢藩のことを考えていた。
 時の米沢城主は直江兼続(なお え かね つぐ)──。
 一二〇万石が三〇万石だから給料が七十五パーセントカットされたことになる。現代の常識で考えれば人員を削減しない限りこの会社は確実に倒産であろう。上杉家は名将謙信以来、家臣たちとは様々な苦難を乗り越えた水魚の交わりだったことを思えば、命が尽きるまでお家と命運を共にしようとする気持ちは分からないでないが、主君も主君なら家臣も家臣である。
 おかげで米沢藩はその後二〇〇年もの間、財政困窮状態に陥った──。
 そもそも米沢城が最初に築かれたのは鎌倉時代のことである。
 室町時代に入り伊達氏がこの地を治めると米沢は城下町として成立していき、やがて戦国に入って伊達政宗もこの城と深く関わり、蒲生氏郷、上杉景勝へと支配者を替え、明治維新まで米沢藩上杉氏の居城として続く。その間、寛文四年(一六六四)には三代上杉綱勝の急死で末期養子として迎えられた綱憲(つな のり)により藩は存続するが、石高はさらに十五万石へと減封される。このときもまた藩士の解雇は行わず財政はますます逼迫するも、下級藩士に半農生活をさせるなどして困窮をしのいできた。
 ──堀をめぐらせたその縄張りはほぼ真四角。石垣が少なく土塁を多用した質素な城は財政逼迫の証しとも言われるが、もともと上杉氏の本拠地として伝統的な造りだとも言う。現在は城と言うより神社になっており、松が岬神社を背に堀を渡した正面参道を進めば左側に上杉謙信の祠堂(し どう)跡、やがて上杉鷹山(うえ すぎ よう ざん)の立像が迎えてくれる。

 なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり

 これはあまりに有名な鷹山(よう ざん)の言葉である。数え三十五歳で隠居した際、子の顕孝に贈った歌とされ、ほかにも、
 『受けつぎて國のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母』
 は、明和四年(一七六七)四月、十七歳にして藩主となった日に詠んだとされる。
 いずれも彼の不屈の信念が伝わってくる名言であるが、かつてアメリカのケネディ大統領が、
 「あなたが最も尊敬する日本人は誰か?」
 と問われたとき、迷わずに、
 「上杉鷹山である」
 と答えた逸話はその魅力を伝えるに十分すぎる。
 上杉鷹山が藩主になる前の八代重定のとき、米沢藩は領地を幕府に返上しようと真剣に考えるほどの危機的財政難に陥っていた。加えて、天明二年からおよそ六年にわたって発生した『天明の大飢饉』は、東北地方を中心にあまたの餓死者を出し、もはや慢性化した財政難を脱するのは不可能に思われた。
 このとき登場したのが上杉鷹山だった。
 彼は困窮した藩の財政を単に再建したばかりでなく、徹底した倹約を勧めて自らも世子の時のまま生涯その仕切料(藩主報酬)を上げることはなかった。そして『籍田(せき でん)の礼』を実施し、農を重んじ自らが(くわ)を取って田畑を耕し、雨が降らなければ山に登って雨請いもした。
 また、経済再建のために商人に学び、養蚕、製糸、織物、製塩、製陶などの産業の開発に取り組み、あるいは『興譲館(こう じょう かん)』を創設して人材育成に尽力したほか、貧しい家には出生手当金やおむつを支給したり、十五歳以下の子どもが五人以上いる家に養育手当金を支給したり、毎年九十歳以上の老人を城に招いて敬老会を開く。
 今でこそ当たり前のように言う福祉政策を、江戸時代にして次々と実現していくのである。
 もっともその成果が目に見えて顕われるようになったのは彼が晩年になってからのことだが、彼の行なった数々の政策は江戸時代においてひときわ眩しい光彩を放つ。
 この世に菩薩≠ニいうものが本当に存在するのなら、上杉鷹山はきっとそれであろうと思えてしまう。我が身のことなど顧みず、目の前で苦しむ他人をけっして見過ごすことのできない性格と言うべきか気質と言うべきか──いずれにせよ彼の振る舞いは彼の周りにいる者たちを感化せずにはいられなかったろう。そしてその影響力は、彼のもっとも近くにいた者にもっとも強く働いたに違いないと考えた筆者は、一人の女性に焦点を当てることにした。
 今回はこの上杉鷹山を支えた側室於(こと)の方((とよ)の方・浄鏡院(じょう きょう いん))の物語である。



 上杉鷹山(うえ すぎ よう ざん)の実父は日向国(ひ むかの くに)高鍋藩主秋月種美(あき づき たね みつ)と言う。
 彼は筑前国秋月藩主黒田長貞(くろ だ なが さだ)の娘春姫との間に生まれた次男坊で、文武を好み、藩士や子弟の遊学を奨励して人材を求め、軍備や民政においてその才を発揮した人物である。
 「国家の至宝は人材にあり」
 という信条のもと、特に人事に力を入れた政治を行なう姿を、鷹山は十六歳まで間近で見ていた。
 一方、実母は春姫と言う。
 彼女の母(鷹山の祖母で名を豊姫(瑞耀院(ずい よう いん)))は米沢藩四代藩主上杉綱憲(うえ すぎ つな のり)の娘だったこともあり、当時男子のなかった米沢藩八代藩主上杉重定(しげ さだ)を心配して、その娘の幸姫(よし ひめ)と鷹山との縁組を勧め、米沢藩の養嗣子として鷹山を江戸の米沢藩桜田藩邸に移して世子にさせた。ちなみに米沢藩の上屋敷が桜田屋敷と呼ばれたのは、江戸城桜田門の近くにあったためである。このとき鷹山十歳、幸姫(よし ひめ)はまだ八才の童女であった。
 鷹山十三のときに師事した細井平洲(ほそ い へい しゅう)は尾張の折衷学者であるが、この生涯の師との出会いが彼の人格を決定づけたと言って良い。平洲の説いた折衷学とは、つまり古学、朱子学、陽明学などの長所を集約した学問であるが、農民育ちの師が唱える説はどこまでいっても弱者の味方であった──。
 世子だった頃の鷹山の人間性を表わすこんなエピソードが残っている。
 ある日、江戸の桜田屋敷で馬を乗りならしていると、初めて米沢から江戸に登った何某(なに がし)という下級藩士が、勝手が分からず敷地内を迷っているうち馬見所近くに紛れ込んでしまった。
 「きさま、ここをどこだと思っておる! 世子鷹山様の御前であるぞ!」
 驚いた藩士は慌てて向かいの小屋の垣に身を潜めたが、そのうち尿意をもよおしどうしても我慢できなくなった。やむなく垣の陰でこっそり用を足すのだが、それを見つけた別の藩士が、
 「何をしやるか!」
 と怒鳴って彼を捕まえた。不始末を知った鷹山はその藩士をかえりみるが、このとき言った言葉が、
 「その者が何をした? 乗馬に夢中で小便をする姿など見る暇もなかったわい」
 だった。
 結局罰する理由があいまいになって、不始末を犯した藩士の名も聞かないまま事は終わった。
 藩主となって初めて米沢入りした時もそうだった。通常ならば米沢城に入る際は一里手前の関根から馬に乗るのが慣例だったが、その日はあいにく吹雪いていた。すると、
 「駕籠かきもさぞ寒かろう」
 と労わって、駕籠を使わず手前の大沢の宿から馬に乗り、吹雪きに打たれて颯爽と入城したという逸話である。
 また、ある家臣が鷹山に精進の朝餉を勧めた時の話。
 椀の中の芋に一片の魚の(うろこ)がついていた。殿様に対する粗相は厳罰の対象であるのは江戸時代の常だが、鱗に気付かなかった家臣は勧めた後で青ざめた。ところが鷹山はこっそり芋を裏返して鱗を隠し、何事もなかったように朝餉を食べ終えた。
 またある時は法会(ほう え)の際、ある家臣が誤って法会に使う炭とは違う炭を出してしまった。それを見た側近が厳しく不敬を責めたが、当の鷹山は、
 「この炭はどこの家で作られたものか? どんな火で作られたものか?」
 と話をはぐらかし、あえて罪を(とが)めようとはしなかった──。
 家臣のミスに対してどこまでも寛容な鷹山であり、その根幹には、
 「自分のして欲しいことを、先に他人に対してすべきである」
 とした師細井平洲(ほそ い へい しゅう)の『先施の心』があったに違いない。
 その一方で、鷹山が米沢藩主になるとき細井平洲(ほそ い へい しゅう)はこう教えた。
 「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」
 つまり、何を成すにも『勇気』が必要であると──社会的弱者を救い守るには、時に権力を有した特権階級を厳しく弾劾しなければならないと言うのであった。
 こうして鷹山は、明和四年(一七六七)四月二十一日、上杉家の家督を継ぎ米沢藩の藩主となる。



 莅戸九郎兵衛善政(のぞ き く ろ べ え よし まさ)という腹心の家臣がいる。
 彼は二〇〇石取りの中級家臣だが、鷹山が家督を継いだ時に小姓に抜擢され、明和六年(一七六九)に町奉行に昇進した。時に三十四歳。
 徹骨(てっ こつ)(ひん)≠ニは彼のための言葉で、生来不正を嫌い、その気質は鷹山からも厚い信頼を寄せられていた。
 町奉行に昇進したとき鮮魚を送られた彼は、それを門前の木に吊るして人目にさらしたと言う。賄賂(わい ろ)が公然と行われていた悪習を正そうと贈られた物品について誰がいつ、何を贈ったかを克明に記載し、それ以降、賄賂をなくすことに成功した。
 これは晩年の逸話だが、知人が彼の家に訪れて話が弾んだ。陽も傾いて夕飯時になったとき、家人が、
 「米がない」
 と目で知らせたのを受け、次の狂歌を詠んだ。
 『米びつを覗き(莅戸(のぞき))てみれば米はなし明日から何を()らうべ(九郎兵衛(く ろ べ え))かな』
 そう笑って着ていた羽織を脱いで米塩(べい えん)()に換えた。
 その困窮ぶりは目に余り、床のない家の土間で寝ているという話を聞いた鷹山(よう ざん)は、病気が悪化するのを心配して家に床を拵えさせたという逸話が残っている。
 もう一人、竹俣当綱(たけの また まさ つな)美作(みまさか)という家臣も鷹山が藩主になった時に江戸家老となった。
 彼は一、〇〇〇石取りの上士階級で、民政家であり産業にも明るかったため、莅戸(のぞき)九郎兵衛,黒崎恭右衛門、木村丈八らと共に重役に抜擢されたが、ややナルシストな一面を持っていた。
 もとは前藩主の上杉重定の信任を得て藩の実権を握るようになったのだが、上役をも容赦しない専制的な政治を行なっていた森平右衛門利真と激しく対立し、ついには密謀を企て森を刺殺するという経歴を持っていた。
 ともあれ若干十七歳の鷹山の藩主としての船出は、旧臣を一掃したまったく新しい顔ぶれだったのである。
 鷹山(よう ざん)は矢継ぎ早に改革を打ち出した。その決意は、
 『受けつぎて国のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母』
 の歌の中に見て取れる。四月に藩主となり八月には上杉家の祖神である春日明神に、

 文武の道を怠らぬこと
 民の父母の和歌に託した心構えを第一にすること
 質素倹約を忘れぬこと

 など、自らを律する誓詞を奉納したかと思えば、九月には米沢の鏡守社である白子明神に、
 「連年、国家が衰弱し、民人は皆うろたえております。よって大倹約を行い、米沢の繫栄を復興いたします! どうか私に力を!」
 と誓詞を奉納した。そして江戸在勤の家臣を集めてこう宣言するのである。
 「このまま滅ぶのを待つより、君臣が身を粉にして大倹約を執り行うならば、もしもにも中興あるやもと思い立った。さすれば今日の難儀を乗り越え、当家が末永く続くと心得て、各人心を一つにして心力を尽くそうではありませんか!」
 これが大倹約令発布の言葉であった。
 当然、戸惑いもあれば賛同の声も出た。どちらかと言えば前者の方が多かったに相違ない。ところが鷹山は、自ら率先して倹約を実行する。それまで一、五〇〇両と定められていた年間の仕切料(藩主報酬)を約七分の一の二〇九両と決め、衣服や食事、交際費の一切をこれで賄い、日常は一汁一菜、衣服は農民同様の木綿、さらには奥女中の数も五〇人から一挙に九人に減らす人件費の削減を実行した。
 案の定と言うべきか、これに対して大反発が巻き起こる。どこの馬の骨かも判らない突然現れた若僧が、中堅家臣をいきなり重役に登用したり、士風(し ふう)刷新や農政改革、あるいは開墾の奨励や文教政策などの全く新しい徹底した倹約・改革令を打ち出したものだから、これが国許に伝わると古いしきたりを重んじる古参の老臣たちの不満が爆発した。
 鷹山が米沢に初入部を果たした時にその事件は勃発する。
 藩主の初入部に際しては豪華な宴を催して祝うのが通例だったのを、鷹山はそれを拒んで赤飯と酒だけの倹約を徹底させた。そればかりでない──竹俣当綱(たけの また まさ つな)莅戸(のぞき)九郎兵衛らに大倹約令を強行し、細井平洲を米沢に招いて推し進めたから、古参の重臣たちは藩の体制を根底から覆す政策に大反発。安永二年(一七七三)六月二十七日、奉行の千坂高敦と色部照長、江戸家老須田満主、更には侍頭の長尾景明と清野祐秀と芋川正令と平林正在ら重臣七名が米沢城に乗り込んで前代未聞の藩主に対する直談判騒動が起こった。
 「殿は他家から家督を相続してまだ間もない。あまりに筋違いな事が多く賞罰が明確でありません!」
 「左様(さ よう)! 一汁一菜、綿衣着用おおいに結構! しかしそんなことは小事に過ぎません!」
 「いま米沢の政治は奉行の竹俣当綱(たけの また まさ つな)の独壇場、改革政治と言っても竹俣一派が独占しています。これは、かつての森平右衛門の側近政治の二の舞に過ぎない!」
 「左様! 大倹令、大検令と声を張り上げているだけで、何の成果も挙げてないではないですか!」
 「細井平洲を米沢に招脾するなど、それこそ意味のない無駄な出費。改革政治などただ藩政の混乱を招くだけだ!」
 「そのとおり! 昔からの質素律儀な越後風の旧法に戻すのが急務でござる!」
 そして一同声を揃えて、
 「即刻改革の中心人物、竹俣当綱を罷免し一味(いち み)を除くべきでございます!」
 と叫んだ。困り果てた鷹山は、
 「このような大事は大殿様(前藩主重定)にもよくよく相談して決めたい」
 と返答したが、七人は即刻の下知(げ ち)を迫ってその場に座り込み梃子(て こ)でも動こうとしない。
 次間(つぎのま)でその様子を見ていた近習の佐藤文四郎は、遂に見兼ねて隠居の前藩主重定を呼んできて、
 「なんたる騒ぎ! 養子とはいえ我が子に無礼であるぞ! 恥を知れ!」
 重定の一喝でようやく七名の重臣たちは帰っていった。
 この事態に対する米沢藩の対応は厳しかった。鷹山はじめ重定も加わり二日にわたる協議の末、徒党を組んで騒ぎを起こしたことや、藩主に対して暴言を吐いた点が重く問題視され、須田満主と芋川正令は切腹、他の五名は隠居のうえ閉門に処されることになる。このとき鷹山は、直訴した者たちを必死に擁護しようとしただろうが、重定がそれを許さなかったに違いない。
 さらにこの後、儒学者藁科立沢という男が黒幕として浮かび上がり、彼もまた斬首に処された。
 ともあれあの寛容な上杉鷹山にして鬼のように容赦のない断罪は後にも先にもこの一度きりである。
 健全な社会を構築するには厳格な裁きも必要であるということもあるだろうが、むしろこの一件があったからこそ後の政策が容易に進められたと言ってよい。
 しかしどこまでも慎み深い鷹山は、これより後も、裁許で死刑が執行される日はもちろん、それが軽い刑罰であっても刑が執行される日は、ご飯を食べるのを控え、菜物もわざとまずい物を食し、しかも少しずつ口に運んで食べたと言う。
 これがいわゆる『七家騒動』と言われる米沢藩のお家騒動であるが、そんな騒ぎを横目にすました表情でお茶をたてる一人の女があった。鷹山の側室於琴(お こと)の方≠ナある。



 於琴(お こと)の方(お豊)は明和七年(一七七〇)六月十四日に鷹山の側室に迎えられた。
 彼女は第四代米沢藩主上杉綱憲の六男、上杉勝延の三女で、鷹山より十歳年上のいわゆる(あね)さん女房である。れっきとした上杉家の血を引く女性だから正室に迎えられてもけっしておかしくなかったが、その理由は後述するにつれて理解できるだろう。
 勝延には男子がなく、於琴は三人姉妹の末っ子である。
 名門上杉家の家系に生まれたからには元来歌道をたしなみ書もよくし、その名のとおり(そう)の琴も弾いたので、どこの武家に嫁いでもけっして恥ずかしくない教育は受けていた。そのため気位も人一倍強い。
 ところが窮乏する米沢藩のことを思う時、心のどこかで「嫁になどゆけないだろう」と深窓にむなしく過ごすうち、娘盛りは()うに過ぎ、
 「鷹山公の御部屋へ下し参らせ」
 と年寄衆が勧めてきたとき三十路(みそじ)を目前にひかえていた。
 「お部屋……?」
 於琴は首を傾げた。
 このとき既に江戸で正妻を迎えていた鷹山の、彼女の家柄からして側室になれとも妾として仕えよとも言えない年寄衆は、御部屋≠ニいう言葉で本意を(にご)したのである。
 「実はその……」
 と言いにくそうに年寄が話すには、江戸はともかく米沢に鷹山公がいる時は、殿の世話をする者がない。御奥へ入って身の周りの面倒を見て欲しいのだと言う。つまりそれは、藩主が米沢に帰藩中の間だけの妻にどうか? という勧めであった。
 このとき於琴の脳裏に渦巻いたのは、歴代米沢藩主の妻となった女たちの不運とも言える境遇だった。
 思えば上杉家の家祖である上杉謙信からして生涯妻帯しなかった。彼は二十代の頃に上野国の敵将平井城主千葉采女の娘伊勢姫と一度恋に落ちたが、家臣の猛烈な反対にあって二人は引き裂かれ、そののち伊勢姫は出家してほどなく自害したという逸話が伝わる。
 米沢初代藩主上杉景勝は謙信の養子である。
 その正室は武田信玄の娘菊姫だが、子がないまま病死してしまい、景勝が米沢に移ってから側室として迎えた四辻公遠の娘桂岩院(けいがんいん)は、二代藩主となる定勝をもうけるが、出産後三ヶ月あまりでこの世を去った。
 第二代藩主上杉定勝の正妻は鍋島勝茂の娘市姫であるが、男子がなく、三代藩主上杉綱勝(つなかつ)の実母は側室(近衛家家司斉藤本盛娘生善院)との間に生まれた庶子(しょ し)(側室の子)である。
 綱勝(つなかつ)は幕府の斡旋で保科正之の長女媛姫を正室に迎えた。ところが媛姫は十九の若さで死去してしまい、続いて四辻公理娘富姫を継室に迎えたが、嗣子がないうちに、綱勝はあろうことか世嗣(せい し)の指名をしないまま二十六の若さで急死した。
 謙信以来、世嗣の指名をせずに当主を失うのは上杉家の宿業か──?
 本来ならば無嗣子断絶となるところだが、綱勝の妹富子が嫁いでいた高家の吉良三之助が末期養子として認められ、辛くも家名断絶を免れた。それが四代藩主上杉綱憲(つなのり)であり、於琴の祖父である。
 このとき米沢藩の知行は三十万石から十五万石に減らされた。これによりただでさえ逼迫していた財政難に拍車がかかったのである。
 綱憲(つなのり)は紀州藩徳川光貞(徳川吉宗の実父)の娘栄姫(えいひめ)を正室にしたが、結局五代藩主(吉憲(よしのり))になったのは側室茨木氏(清寿院)であり、於琴の実父上杉勝延もまた、樫田氏娘於磯との間に生まれた庶子なのだ。
 そればかりでない──、
 六代藩主上杉宗憲(むねのり)、七代藩主上杉宗房(むねふさ)、八代藩主上杉重定(しげさだ)と、みなことごとく吉憲(よしのり)の庶子であり、しかもいずれも短命あるいは隠居して、今は鷹山へと引き継がれたのである。
 これらの事実は於琴の婚姻を躊躇させ、婚期を遅らせてきた大きな理由付けの一つであり、
 「上杉家は呪われている──」
 というのが於琴の不安だった。しかしその一方では、
 「代々上杉家は庶子によって繋がれてきた。あるいはこれは側室としての使命やもしれぬ……」
 との思いもあって、
 「承知しました──」
 於琴は御部屋≠フ勧めに承諾したのである。
 しかしそれは、半分虚ろな世界の一つの現象にも過ぎなかった。本心を言えば、
 どうでもよい──
 のである。いまさら婚姻など滑稽千万でもあった。子も持たず、残りの人生をこのまま奥の部屋で大人しく過ごす道もあったが、駕籠の中の鳥として老いるより少しでも別の世界に身を投じる方がましだとも思った。お家≠ニか殿様≠ニか体裁≠ニか、そんなものは全部立て前で、今の無気力な生活から抜け出せるなら、例え相手が第六天の魔王だろうと承諾したかも知れない。相手など問題でない。
 そう、すべて自分のためなのだ──。
 そう考えると果てしなく自分が賤しく思え、この心は羅刹(ら せつ)と同じではないかとも思えた。
 羅刹(ら せつ)──
 それは全身が真っ黒、髪の毛は真っ赤な地獄の怪物。仏教では人をたぶらかし、人の血肉を喰らうと言う。そしてその悪鬼に捕らわれた男は醜悪で、女はきわめて美麗だとされる──。
 そうだ、私は羅刹(ら せつ)になって、僅かばかりの自由を手に入れるのだ──。
 於琴はその表情を怪しいほどに美しく輝かせた。



 鷹山が、江戸は米沢藩桜田屋敷で幸姫(よしひめ)を正妻に迎え入れたのは明和六年(一七六九)八月のことである。
 このとき鷹山十九歳、妻となった幸姫は鬼もほころぶ十七歳で、その光景は誰が見ても幸福そうな、お似合いの夫婦の誕生──のように見えた。
 前述したが幸姫(よし ひめ)は前藩主重定(しげ さだ)の二女で、生母は正室豊姫(徳川宗勝の娘)であった。
 最初祖母からその縁談を聞かされたとき、鷹山は、
 「断われないな」
 と直感した。というのも祖母瑞耀院(ずい よう いん)は米沢第四代藩主上杉綱憲(うえ すぎ つな のり)の長女であり、米沢の当主となるからにはその縁は断ち切れない。彼の覚悟はいや増して硬く決めたに相違ない。
 ところが白無垢姿の幸姫(よし ひめ)は、十七というのに思いのほか小柄で、その身の丈は七、八歳の童女のようで、
 「米沢藩当主、上杉鷹山と申します。末長く仲(むつ)まじゅう過ごしたいと思います」
 と挨拶した時も、あらぬ方向へ視線を向けて「あじゃ!」と奇声を発したかと思えば、次に膳の上に乗せられた鯛の姿焼きに目を移し、
 「おさかな!」
 と天真爛漫な無邪気さで笑った。
 この時はお付きの数人の女中が慌てて幸姫(よし ひめ)を制したが、彼女が生来虚弱で心身未発達の障害者であるのを鷹山は婚礼で初めて知ったのである。
 「大殿様(重定)もひどい仕打ちをしたものだ。実の娘とはいえ、発育不全の童女同然では子をお作りになるどころの話ではございませんぞ」
 とは、竹俣(たけのまた)をはじめとした鷹山側近の家臣たちの率直な思いであり、
 「大殿様はこのことをご存じなのか?」
 といつも不平を口にした。
 ところが重定の方は幸姫(よし ひめ)がそんなこととは露ほども知らない。大名の生活がいかなるものかなど現代の一般人には知る由もないが、同じ屋敷内にあっても、あるいは上屋敷と下屋敷とで夫婦別々に暮らしていたのかも知れないが、父親と言っても娘と会うことなどほとんどなく、幸姫十五の時に重定は隠居して米沢に帰ってしまった。無論、婚礼に参列することもなく、何不自由なくすくすくと成長した幸姫(よし ひめ)は、鷹山に大切にされ幸せな日々を送っていると信じている。
 それを知ってか知らずか当の鷹山は、暇な時間を見つけては幸姫(よし ひめ)を相手に、「今日は雛人形じゃ」「明日はでんでん太鼓じゃ」と、まるで赤子をあやすように一緒に遊び、小さな身体を抱き上げては「高い、高い」と天井に腕を伸ばし、顔をつねられては「痛たたた!」と言って笑い合い、
 「御坊はおん馬でござる。姫様、背中にお乗りください」
 と言ってはお馬ごっこをしてはしゃぎあった。
 そんな様子を見ていると、周りは一層切なくなるもので、幸姫(よし ひめ)の側付きの女中たちや彼女専属の御用人山吉四郎左衛門という男などは密かに隠れて涙していたが、見兼ねた莅戸(のぞき)九郎兵衛(く ろ べ え)はあるとき意を決してこう進言した。
 「大殿様に苦言の一言も伝えるべきではないでしょうか? 殿ができぬと(おっしゃ)るのであれば、拙者が替わりに米沢へ行き申し上げて参りましょう! 切腹になり申しても本望にございます!」
 すると鷹山はいつにない厳しい目付きに変えて、
 「いらぬことはせんでよい」
 と低い声で言った。
 「し、しかし……」
 「しかしもへったくれもないわい。わしがせんでよいと申しておるのだ。余計な事はするな」
 またあるときは竹俣当綱(たけの また まさ つな)が、
 「せめて御側室をお迎え下さい」
 と進言した。
 家臣が心配するのも当然だった。万が一にも藩主が嗣子を定めずに急死すれば藩は取り潰しになる幕府の制度。上杉家はその苦い危機を経験していたし、そうでなくとも当時の大名はみな何人かの側室を置くのが普通なのである。
 ところが鷹山は、これまた「必要ない!」と不機嫌を露わにして、
 「論語に(けん)(けん)として(いろ)()えよ≠ニ言うではないか」
 と諭す。
 これは孔子の弟子である子夏の言葉で、このあと『事父母能竭其力、事君能致其身、与朋友交言而有信、雖曰未学、吾必謂之学矣』と続く。つまり、賢い人とは、愛する人と同じように、父母には力を尽くし、主君には身を尽くし、朋友には誠を尽くすものであり、例え未学であってもそれができる人は万事を学んだと同じであると。つまり逆を言えば、一人の人を愛することが賢さだと言いたい。
 しかしそう言いながらも、鷹山は心で「違う──」と自分に反問した。
 「そうでない──」
 そうしている間にも、幸姫(よし ひめ)は玩具と戯れ、「あそぼ」と言っては鷹山の手を取った。
 「幸姫(よし ひめ)のこの澄んだ(まなこ)を見てみよ。この喧騒の世にあって何の穢れも知らぬ美しい目をしておる。救われているのはわしの方で真の賢人は幸姫(よし ひめ)の方じゃ」
 と呟いた。
 少なくともその姫は、鷹山に対して微塵の疑惑を抱くことなく、寸分の隙もない信頼の温情を寄せているのだ。
 確かに幸姫(よし ひめ)は正室だ。その役割をまっとうすることができないのも誰の目にも明らかだ。それは日本の近世の概念においては致命的な欠陥であり、どんな理由をつけても見過ごすわけにいかない現実でもあった。鷹山はそれを知りつつも江戸屋敷にけっして側室を置こうとはしなかった。もしそれをしたならば、幸姫(よし ひめ)に対するぬぐえない裏切りであり、天から与えられた贈り物を汚すような気がしていた。
 それ以前に彼女に対して男が女に抱くような恋愛感情など涌くはずがなかった。
 否そうでない。
 鷹山は彼女を人間として深く尊敬していたのである。
 己が一国を治める力のない主君ならば、彼女は菩薩であり仏に見えた。彼女の微笑みは先が見えない藩の行く末を指し示す唯一の希望だったのだ。
 「殿! 米沢の未来をお考え下さい!」
 当綱(まさ つな)の怒声に驚いた幸姫(よし ひめ)は、まるで雷にでも撃たれたような顔をしてワンと泣き出した。
 「これ当綱(まさ つな)、いきなりでかい声を出すでない! 姫が驚いてしまわれたではないか」
 鷹山は幸姫(よし ひめ)を抱き寄せて「よしよし」と頭を撫でてあやしつけた。
 「どこにこれほどまで純粋な娘がおると言うか! 幸姫(よし ひめ)はわしの前に舞い降りた天女なのじゃ……」
 呆れ果てて部屋を出ようとした当綱(まさ つな)を鷹山は呼び止めた。
 「ちと待て。わしがこれから言うことをよくよく肝に命じよ──幸姫(よし ひめ)のことは絶対に他言無用だ。大殿様にも米沢の者たちにもじゃ!」
 当綱(まさ つな)は怪訝そうに「はい」と答えた。



 婚儀からわずか二ケ月後、そんな幸姫(よし ひめ)を江戸に置いて鷹山が米沢に初入部を果たしたときに、幸姫(よし ひめ)の障害のことは知らずとも、やはり同じことを心配する国許の年寄が、彼の許に送り込んだのが於琴というわけである。もとより側室を持つ気など毛頭ない鷹山だが、目を合わせるたびにことごとく同じ事を、しかも何度も重ねた挙句に、最後は、
 「なにも御側室にと申しているのではありません。単に殿の御部屋の世話係ですから、どうぞお気遣いなく」
 と本意を濁されてしまえば、もはや断わる理由もなくなった。
 こうして彼の部屋に姿を現わした於琴と名乗る年上の女性は、どことなし虚ろな目をして、言葉少なに淡々と身の周りの世話をするようになったのである。
 それにしても着物に焚き込ませた香のにおいが鼻につく。
 しかもその身のこなしが妖艶で、たまに流し見る視線には魔性の美しさが隠れていた。加えて、その表情に僅かでも微笑みを浮かべようものなら、例え浮世之介(うき よ の すけ)(『井原西鶴『好色一代男』の主人公』)でなくとものろけてしまうに違いない──その魅力は、言うなれば幸姫(よし ひめ)と真逆と言えた。
 鷹山とて男である。ついにたまりかねて、
 「於琴さん、たいへんに申し訳ないが、そのお香のにおいはなんとかなりませんかな?」
 と言いにくそうに聞いた。
 「お嫌いでございますか? それとも倹約でございますか?」
 倹約と言えば、彼女が御部屋≠ニしてここに輿入れする際も、鷹山は奥御殿の普請(ふ しん)をやめさせた。その年は日照り続きで作物の不作が心配され、苦しむ百姓のために寺院で雨乞祭を行なう等して手を尽くしたが、雨が降る兆候がまったく見られなかったからだ。
 「かような時に、どうして奥向(おく むかい)の普請などできようか」
 鷹山にとっては民心を思っての言葉が、於琴にとっては冷たすぎた。
 「どうせ私など、お江戸の姫様の補欠にすぎないのだ」
 そう思った途端、急に僅かばかり抱いた異性への情熱も冷め、単なるお手伝いに徹しようと決め込んだ。
 美しい於琴の問いに鷹山はうろたえた。江戸の桜田屋敷にいる時は幸姫(よし ひめ)のお守りに明け暮れていたと言えば語弊があるが、少なくも女≠ニいう生き物に対して免疫がつくはずもなかった。
 「いや、そういうわけでないが、多少においがきつくて気が散ってならぬ……。それから食事であるが、朝は粥二膳と香の物が少しばかりあればよい。昼と夕は一汁一菜に干し魚があればよいから、殿だからと特別な気を使う必要はない。そういたせ」
 「かしこまりました──」
 於琴は別段気を悪くする様子もなく無表情のまま返事をすると、次の日からは言い付け通りに従った。
 それにしても米沢に入ってからというもの鷹山はことのほか忙しい。(よい)はともかく日昼といえば城にいることなどほとんどなく、
 「民の苦労を知らねばならぬ」
 と言っては農家の耕作の様子を見に出掛けたり、家臣に鉄砲を持たせて鳥打ちや野遊と称しては度々野に出、狩りに興じているかと思えば近くの民家に入り込み、休憩を装って農民から様々な話を聞くのが常だった。こと日照りや雨が続けばますますじっとしておられず、
 「おい、田畑の視察にゆくぞ」
 と取り付く島もない。
 こんなこともあった。あるとき城の北門に一人の老婆がやって来て「台所はどこですか?」と聞く。理由を問えば、
 「お約束した刈納餅(かりあげもち)(稲刈りの祝の餅)をこさえたので献上したいのです」
 としゃがれた声で答えた。そこで台所の場所を教え、老婆は各御門を(とどこお)りなく通って御台所に出たのだが、福田餅(ふく で もち)刈納餅(かりあげもち)を丸めたもの)一つと大豆の粉一包みを添えて差し出すと、そこでも理由を聞かれたので、
 「かくかくしかじか……」
 と各御門で答えたことと同じ説明を繰り返した。対応した家臣は怪しいと思って鷹山に伝えると、
 「さては殊勝(しゅ しょう)である。急いでそれを持って来い」
 と命令し、届いた刈納餅(かりあげもち)を手に取って、その老婆に飯や酒に加えて金子まで渡して厚く謝礼して帰した。不思議に思った家臣が「なぜそこまでするのか?」と理由を尋ねると、
 「先日、野に出ていた時、もう陽が沈むというのに老婆が忙しく稲の取入れをしているから、わしは家中の諸士の振りをして稲を運び、取り入れを手伝ったのだ。この稲は何の米か?≠ニ聞くともち米だ≠ニ答えたので、こんなに手伝いをしたからにはさぞや刈上げ餅も貰えるだろうな≠ニ冗談を言ったのじゃ」
 と答えて笑った。
 そのほかにも、あちこちの村の老姫が、自分で紡いで娘に織らせ、あるいは嫁に織らせたと言っては木綿の布を献上したり、代官所を通じて献上された品は記録が追いつけない程で、そのたび「老婆の真心がこもっていて嬉しい」と言っては、自分の召し物にするよう言い付けるのだった。
 またあるときは、
 「長寿にあやからせ給え」
 と言って、養父重定へ献じられる事もあった。
 そんなことで忙しく、於琴とはろくに話もしない。さもしい朝餉を食べたと思えばいなくなり、疲れ切って帰ったと思えば足についた泥を自分でぬぐい、一匹のメザシの付いた夕餉を食せば、あとは行灯の油がなくなるまで書物に読みふけっていた。
 それが当たり前になったある日のこと──、
 鷹山が出先から持ち帰ったのは小さな一つの泥人形だった。見れば色鮮やかに着色され、その顔といったらなんともユーモラスで可愛げのある表情をした雛人形である。
 「まあ、きれい! どこで手に入れたのでございますか?」
 思わず於琴は嬉しそうに声を挙げた。
 「これか? これは清左衛門が(こし)えた人形じゃ」
 家臣の一人相良清左衛門厚忠は、(かま)を築いて自邸裏でとれる粘土を使って食器や人形造りに余念がない。彼の邸宅にふらりと立ち寄った際、ふとした拍子に見つけた物らしい。
 「床の間に飾っておきましょう!」
 殿の御部屋≠ニなってより、暫く忘れていた笑顔を浮かべた於琴が、その雛人形を鷹山の手から取ろうとしたとき、
 「そりゃダメだ。これは幸姫(よし ひめ)への土産(みやげ)じゃ」
 そう言った鷹山は、大切そうに風呂敷に包み込んでしまった。
 不意に鈍器で頭を叩かれた衝撃の火花が、彼女の心に眠っていた何かに飛び火した。このときである──嫉妬の炎がめらめらと燃え上がったのは。
 「幸姫(よし ひめ)──」
 まだ一度も見たことのない光り輝く美貌を放つ美女の幻影に、於琴は翻弄した。
 そうこうしているうちに参勤の時を迎え、つつがなく鷹山を城から送り出した彼女のところに、縁談を強く勧めた年寄が寄ってきて、
 「どうかな? お子はできそうかな?」
 と澄まして聞いた。
 すると感情というものを表に出さない於琴にしては珍しく、むっ≠ニした表情を一つ残して何も言わずに奥御殿へと歩き出した。
 「お待ち下さい。御部屋勤めを勧めた者としてひどく気になるところでございます。米沢藩の将来にも関わります。予兆があるやなしや、この(じい)にだけこっそりお教えください」
 於琴は立ち止まり、振り向きもせずに吐き捨てるようにこう呟いた。
 「殿はお江戸の姫君が余程お好きなようでございます。この私とは夜伽(よ とぎ)を過ごすどころか、指一本触れようとはなさいませんでした……」
 年寄は愕然として言葉を失った。



 それにしても暇である。
 江戸での生活はなにかと金がかかる。ちょいと出歩いただけで一両、二両の金など羽根が生えたように飛んでいくし、屋敷内でじっとしていながら和漢の本でも読んでいたほうが余程利口である。
 江戸にいるときの鷹山は、用のない時は書物を読みふけっているほかは、桜田藩邸の御座の間に入っては幸姫(よし ひめ)と遊んでいるのが常だった。彼女の気を引くために折り紙で鶴の折り方を覚えたり、裁縫まで習って布で人形を作ったりして、笑う彼女は買い与える高価な調度品や玩具より鷹山の手作りをひどく好んだ。
 その日は雛人形と戯れる幸姫(よし ひめ)に温かな眼差しを送っていたが、頭の中では米沢の天候が気がかりで仕方ない。単に農作物の事だけでない。藩の財政はもちろん、社会制度の構築や、差し当たっては人材の育成のため藩校の設置の必要性も考えながら、すぐにでも手をつけなければならない事が山ほどあった。なのに江戸にいてはそれらが遅々として進まない。
 「はよ米沢に戻らねば……」
 そんな思いとは裏腹に、
 「殿、たまには鷹狩りなどいかがでしょうか? 毎日お部屋に籠りきりではお身体に障りましょう」
 そう声を掛けたのは莅戸(のぞき)九郎兵衛で、幸姫(よし ひめ)とにらめっこをしている鷹山を、見ない素振りで江戸の名所の賑わいぶりを伝えた。
 「わしはよいからお前たちだけで行って参れ。平六や容助など久しく外出届けも聞かない。時節をはずしてはもったいない。今日は天気もよいのでさぞ楽しかろう、行って参れ、行って参れ」
 「そうはおっしゃいますが、殿がかようでは仕える家臣も遠慮するのが道理。殿が御屋敷にいらっしゃるのに、家臣だけあちこち遊び歩いては分別がないと人様に笑われます」
 「そんなことは気にするな。そういえば明日、米沢から何人か来ると申したな。酒迎えに重箱を遣わすから楽しむがよい」
 と、このような有様で、「皆が帰ってからの話を聞く方が見るより面白い」と言って聞かない。
 ついに気の毒に思った年寄衆は、「人情に貴賎は関係ない」と入れ込んで、
 「やれ養生のため」
 「やれ野遊に出かけますように」
 「やれ、ここの花、かしこの月……」
 と勧めたが、当の鷹山は、
 「年寄共の申すことは正しい、なるほどその通りだ、よくぞ申した!」
 と言うばかりで、やはり一向に出かける気配を示さない。中には「幸姫(よし ひめ)様をひとり屋敷に残してご自分だけ出掛けることに気が引けているのだろう」と言う者もいたが、よくよく理由を問い詰めれば、けっこうお喋り好きな殿様で、
 「わしが出歩けば股旅(またたび)三度笠(さん ど がさ)というわけにはいくまい。二本道具に何十人もの供を行列させることになる。お忍びという手もあるが、何かあったら申し訳が立たん。かといって近習ばかりを召し連れて行けば先立ちの者が許さないし、刀を持たないわけにもいかないだろう。さて、仮に現地に着いたとしよう。花を見、月を眺めて楽しくないことはなかろうが、嘆かわしいことにわしなど酒が飲めないのでお前たちの酒盛りを眺めているだけだ。弁当の後は、近くには茶屋もないし、早く帰りたいと思っても、九郎兵衛などは盃を抱えて酒もたけなわ、帰ろうにも帰れない。わしがそろそろ≠ニ申してもまだ食事が済んでいない者がある≠ニかまだ酒が行き渡っていない≠ニか言われれば、ただ柱に寄り掛かって煙草を飲むより仕方ない。実を申せば退屈も少しあるのだ」
 進言した莅戸(のぞき)九郎兵衛は自分を出汁に使われてたじたじである。さらには、
 「養生とは言うが、往復二、三里の歩きは養生になる者もいるだろうが、歩き慣れないわしなど疲れしか残らない。野遊は供廻りの大きな負担になるし、遊んでばかりいるようだと名を汚してもつまらない」
 と、もっともな理由を整然と語った。
 「ならば木太刀(き だ ち)を取ったり、馬に乗るなどしてお体を使えば、そのような気遣いはないでしょう?」
 と、せめて外に出ることを勧めれば、
 「それはよい考えじゃ!」
 と鷹山は手を打った。
 「皆がそれほどに申すのを全く聞き入れないというのもいかがかと思う」
 と前置きして一つの願いを伝えた。
 それは、乗馬自体は度々楽しんでいたが、なんせ小さい方の馬場は狭く、広い方の馬場はいろいろな細かな規則が定められていて藩主であってもなかなか使うことができなかった。そこで板塀を立てかけ一方を内庭のようにし、周りからも見えないようにして欲しいと言う。そうすれば近習たちの負担も省け、朝でも晩でも乗りたい時に馬に乗れると言うのであった。
 「これは楽しみじゃ。よい運動にもなるしのぉ……」
 鷹山の願いを聞いた九郎兵衛は勇んで年寄衆に伝えた。大喜びの年寄衆もすぐに作事奉行へ指示したが、数日もしないうちに鷹山に呼ばれた九郎兵衛が聞いた言葉は、
 「いろいろ考えたが板塀を立てるのは誤りだ。どれほどの費用がかかるか?」
 だった。
 「板を立てるだけですので三、四両もあれば足りましょう。ついでに砂も敷き渡そうと考えております」
 と答えると、
 「やはりこの考えは誤りだ。むかし文帝は、百金の出費は中人十家の収穫に当ると言って止めたという故事があるがどう思うか? いわんや年来、家中では知行の半分を藩が取り上げる状況である。三、四両もの金をわしの(なぐさ)(ごと)には費やすことがあってはならない」
 と、結局この計画も取りやめになった。
 いくら財政危機とはいえ、なんともケチな殿様にも見えるが、前藩主が隠居した時などはその隠居所として重定の意のまま贅を尽くして奇器珍宝を取り揃えた荘厳な『南山館』を建設したり、隠居後も華美な生活を続ける重定に対してそれを認め孝養を尽くしたり、後に南山館が焼失した際も二万両もの再建費を捻出したりと、使うべきところには金を惜しまない一面も持っている。その一つに、
 「おい、行列を整えよ」
 と突然言った時は、
 「さすがの殿もいよいよ重い腰をあげて外出のご決意をされた」
 と家臣一同喜んだものだが、米沢藩の威信を掛けたような本行列を組んで出掛けた先は、師の細井平洲が住むみすぼらしい寓居(ぐう きょ)であった。近くの長屋に住む者たちは「何事が起こったか!」と驚嘆して、暫くは野次馬の人だかりが消えなかったほどである。
 実は天候不良による国許の農作物や制度秩序の不備などの心配から、幕府に暇をもらい米沢に帰ることにした鷹山は、以前より藩校設立の必要性について細井平洲に相談を持ちかけていたこともあり、
 「なにとぞ先生に米沢へ御足労(ご そく ろう)いただき、御指導いただけませんか?」
 と、深々と頭を下げて懇願したのである。
 その熱い情熱に平洲は感激し、快く米沢行きを承諾したのであった。



 細井平洲が初めて米沢に招聘(しょう へい)されたのは明和八年(一七七一)の五月のことである。
 その目的は、藩校設立についての具体的な相談にあり、彼が滞在する間、鷹山は暇さえあれば師の寝居を訪れ教えを乞い、白子馬場御殿の松桜館(興譲館の前身)に招いては講義を願い、その中で何人もの家臣を門弟に送ることもできた。
 そして「教えていただくばかりでは申し訳ない」と、あるときは領内の大平滝へ連れていき数十丈の滝の下で泳いだり、網でマスを採ったりして清遊させ、またあるときは日本海側の名勝松島まで旅行させたりと、鷹山自身休む暇もないほど忙しく動いていたのである。
 その一方では予想どおりの旱魃(かん ばつ)が深刻で、梅雨(つ ゆ)だというのに全く雨が降らない。
 「このままでは米沢が干上(ひ あが)がってしまうわい」
 と、脇で掃除や炊事に余念なく働く於琴に気を掛ける様子もなく独りでぼやく。
 自分に寸分の気がないと知りながら、その様子があまりに不憫(ふ びん)な於琴は、
 「それほどご心配なら雨乞(あま ご)いでもされてはいかがですか?」
 と提案した。困った時は神にでも仏にでもすがるより仕方ない。
 「それじゃ! 良いことを申した!」
 鷹山は嬉しそうに手を叩いた。
 こうしてこの年の六月五日の早朝、竹俣当綱(たけの また まさ つな)色部照長(いろ べ てる なが)を引き連れ、愛宕山(あたごやま)の林泉寺の上杉謙信を祀る御堂へと雨乞い祈願に向かった。
 「お待ち下さい、何も食べずに祈願なさるおつもりですか? これを──」
 と於琴が持たせてくれたのは彼より早く起きて(こしら)えたむすびである。こうして御堂の前に座り込んだ鷹山は、「南無釈迦牟尼仏(な む しゃ か む に ぶつ)」と念じた後、一心不乱に『般若経(はん にゃ きょう)』やら『大悲心陀羅尼(だい ひ しん だ ら に)』やら『普勧坐禅義(ふ かん ざ ぜん ぎ)』やら『法華経(ほ け きょう)』やらを読みだした。するとどうだろう? 昼までにはまだ間がある頃になって、空から恵みの雨が降り出した。人の一念は天気くらい変えれるものだ。
 その雨は一晩降り続いたと言うが、これにより枯れ死寸での農作物は生き返り、農民たちは大喜びしたと伝わる。とはいえ、その年が豊作だったとはとても言えない──。
 鷹山の改革は立て続けに行なわれた。
 まず、地方に郷村頭取(ごう そん とう どり)と郡奉行を設置し藩の奉行と兼任させ、郷村には教導出役(きょう どう しゅつ やく)を設置し領民の生活と農業の指導に当たらせたり、世襲制(せ しゅう せい)による大官職を廃止し原則一代限りとする大胆なものである。そのほかにも家臣を江戸屋敷に派遣して農業技術を伝えたり、自らは領内の開拓地を回り、精蝋所(せい ろう じょ)青苧蔵(あお そ ぐら)(うるし)苗畑(なえ はた)などを視察して見聞を広めるのであった。
 彼の改革政治の第一は農政の確立にある。
 安永元年(一七七二)三月、農耕が政治の根本であることを示すため『籍田(せき でん)の礼』を執り行う。これは藩主自らが(すき)(くわ)を持って田畑を耕す農耕儀式で、もともとは中国の周や漢の時代に行なわれた天子親耕(てん し しん こう)の制度に習ったとされる。藩主の姿を見た家臣らは大いに感動し、やがて労働奉仕の意欲を奮い立たせる契機となる。その様子を目にした細井平洲は、
 「もったいなくも汚泥に足をけがし、鋤鍬を取ったそのお心を察するに余りある。稀代(き だい)の美事であり六十余州の手本となるべし」
 と絶賛した。
 ところがこれより少し前、江戸から大火の報せが届いた。上屋敷桜田藩邸と麻布の下屋敷がことごとく類焼したというのである。その近辺に居を構えていた平洲は自宅の安否を気遣かって、『籍田の礼』を見届けたあと急きょ江戸へと帰って行った。
 米沢藩も苦しい財政の中で江戸の両藩邸を再建しなければと身分に関係なく手伝いに加わり、(みの)を着、笠をかぶり深い山中に入って良木を伐り出し江戸へ運ぶ。それだけでなく、城内外にわたる普請や本丸、二の丸、三の丸の堀の()を取ったり、あるいは新田をおこし、荒地を開き、(つつみ)を築き、橋を架け、川を除いて道を作ったり、米沢は活気に充ちた。その働きを(かたじけな)く思う鷹山は、折々にその作業現場に足を運んでは感謝と激励の言葉を伝えて作業者を労わり、酒を振る舞ったりしたものだった。
 そんな矢継ぎ早に行なわれる改革の中で勃発(ぼっ ぱつ)したのが『七家騒動』である。これについては先に述べてあるので改めて書くことはしないが、その一件が解決した後も手を休めることはしなかった。
 財政政策として、勝手掛(かっ て ががり)と用掛を設置し、さらには財政状況を記録した『会計一円帳』を家臣たちに開示した。無論財政難続きの米沢藩だから帳簿など真っ赤な赤字であるが、毎月の初めにはその月の予算と決算を割り振り、高額な出費については総会を開き、あるときは家臣たちを集め、
 「とりあえず二千両欲しい」
 と投げかけた。するとそれについての議論が始まり、家臣たち自らが藩の財政について考え、協議する習慣を身につけさせようとした。つまり鷹山流の人材育成である。
 そんなこんなで気付けば数年が過ぎ去った。
 毎日こんな調子だから一日が終わって屋敷に戻れば、どうっと疲れが襲ってきてすぐに眠りに落ちてしまう。相変わらず於琴とはろくに話もしないのだ。
 そんな日々が続けば於琴の方もただの女中に入ったのだと諦めて、「こういうものだ」と今は江戸の幸姫(よし ひめ)の存在も気にならないが、翌安永三年(一七七四)三月の終わり、参勤で江戸へ向かうなにやら嬉しそうに微笑む鷹山を前にしたとき、再び江戸の姫に対する嫉妬がむらむらと込み上げた。
 鷹山が去ったあと、縁談を勧めた年寄が意味深(い み しん)な笑顔を浮かべて、
 「お子はできそうかな?」
 とまた同じことを聞いた。勧めた手前、気になって仕方ないのだ。
 於琴はまたむっ≠ニした表情を作って、
 「いまだ指一本触れられておりません」
 「指一本……?」
 年寄は肩を落してため息を吐いた。

 江戸に行っても鷹山の頭の中は莫大な借金の返済と、凶作による飢餓の心配ばかり。二十万両とも言われる借金を返済する目処など立つはずがなかった。
 その間、幸姫(よし ひめ)の相手をして遊ぶほかは、細井平洲を訪ねたり、商人三谷家の父子を桜田邸に招いて借金の相談をしたりと、悶々(もん もん)とした気持ちは晴れることがない。飢餓を(うれ)いてお金を借り入れ、米沢の北寺町に五棟の備籾蔵(そなえ もみ ぐら)を建てさせたが、身体は江戸に置きながら心は常に米沢にあった。
 参勤後退の期日を迎えるとすぐに米沢に戻り、休む間もなく再び領内の改革に没頭するのだ。
 「江戸の暮しはいかがでございましたか?」
 於琴の言葉の裏側には幸姫(よし ひめ)がいる。しかしそんな事は少しも気付かない鷹山である。
 そして──
 夏も過ぎ、十五夜の月が夜空に浮かぶ涼しげな宵だった。
 床の間に飾り付けた秋の七草にも気付かずいつものように静かに夕餉を食べていた鷹山が、一汁一菜のこだわりから申し訳なさそうに作られた小さな団子を口に運んだ時、
 「(そう)(こと)でも(そう)じましょうか?」
 と於琴が言った。
 鷹山は怪訝(け げん)そうに彼女の顔を見つめた。
 「今宵は中秋の名月でございます。そのくらいの贅沢は許されるのではございませんか?」
 「そうか──どうりで縁側の戸が開いて、外が妙に明るいわけだ」
 そう言って丸い月を眺めた鷹山は少し恥ずかしそうに続けた。
 「どうも忙しすぎて心に余裕がなくて困る。実はな、最近あちこち顔を出す度に、誰もが口を揃えたように子はまだか? まだか?≠ニ問うのでそのことを考えていたのだ。けっして悪気はないのだろうが、子がないのが途方もなくいけないことのように思えてしまう。一国の主というのは、子を拵えなければならないものか? 於琴さんはどう思いますかな?」
 突然の問いに於琴はうろたえた。
 「さて、どうでございましょう……」
 「於琴さんはここに来てからというもの非常によく働いてくれますから何も申すことなどないのですが、御部屋、御部屋≠ニ呼ばれて久しいが、御部屋≠ニはいったい何です?」
 「それは──」
 と於琴は言葉を詰まらせた。
 最初に期待していた側室として子を生むという夢というか使命感も、彼の幸姫(よし ひめ)への思いを知ったあの日に嫉妬と憎悪に変わったものの、今は心通わずもこうして毎日幸姫(よし ひめ)よりずっと近い場所で彼の世話をしている事実を思う時、いつしか別にこだわる必要もないし、正妻は正室として居てよいではないかと思えてしまう。しかし改めて考えるとまた、いまだ自分を女として見てくれない不満が湧いてきて、いつもその葛藤にさいなまれるのだ。それは女の(さが)であり、思えばもう三十路(み そ じ)も半ばなのだ。
 「子とはどのようにしたらできるのか?」
 鷹山の口から漏れたその科白(セリフ)は、あるいは月天子の悪戯(いた ずら)だったかも知れない。しかし何も知らない少年のようなひどく真面目な顔だった。
 「御戯れを……わたくしとて存じませぬ」
 いきなり鷹山は於琴の身体を押し倒した。
 「おやめください……江戸ではお若い姫様のお肌に触れておいでのくせに……」
 咄嗟の出来事に身体は拒んだものの、心の底ではまだ経験したことのない期待が目覚めた。
 「幸姫(よし ひめ)か……。あれは天女じゃ」
 「天女……? では、わたくしは──?」
 口にふさがれ、それはもう言葉にはならなかった。
 夜だというのに庭に咲く撫子(なでし こ)女郎花(おみなえし)桔梗(き きょう)の花に、妙に明るい光が注いでいた。涼やかな宵風に虫の()がやけに騒がしく、蟋蟀(こおろぎ)だろうか鈴虫(すずむし)だろうか螽斯(きりぎりす)だろうか、永遠の時を刻んでいるように鳴いていた。そして、池の水面に映る真ん丸な月が、急に飛び跳ねた鯉の水しぶきにボチャッと音をたてて波紋を作った時、於琴の胎内に熱い液体が飛び散った。その瞬間、
 「江戸の姫に追い付いた──、私は殿に認められたのだ──」
 そんな妙な感情が、彼女を果てしない幸福感で包み込んだ。

 その晩から間もなくのこと、鷹山は(うるし)(くわ)(こうぞ)を植えて米沢の特産物とすることを発表し、また、領内で産出された火打ち石を江戸に送って扇子(せん す)(ふで)(すみ)(すずり)などを製造して、さらには紙漉(かみ す)きの生産を始め、殖産興業(しょく さん こう ぎょう)の発展に乗り出した。しかもその構想が半端でない。植樹はそれぞれ一〇〇万本というから苗木や植え立て等にかかる費用も膨大である。かねてより人脈を結んできた江戸の御用商人三谷家からお金を借り受け、とりわけ中でも米沢産の青苧(あお そ)を使った縮織(ちぢみ おり)(米沢織)の生産は、越後の縮織(ちぢみ おり)師と職工を米沢に招いての新規事業である。
 於琴は、幸姫(よし ひめ)との差をつけるのは今! とばかりに、農民の妻女で(かいこ)の飼育に巧みな者を探し、お付き女中として雇って養蚕の指南を受け始めた。自らが家中の女子の絹織物の師匠となって軌道に乗せ、鷹山に気に入られようと躍起(やっ き)だった。
 「於琴さん、養蚕を学び始めたそうですね。大いに結構、どんどんお励みください」
 鷹山の激励に於琴は頬を染めた。
 身体に経験したことのない違和感を感じたのはこのころである。急に吐き気をもよおし、それがつわり≠ニいうものであることを知る。



 鷹山は休まない。次なる改革は予てから細井平洲に相談していた藩校の設置である。
 米沢藩には直江兼続が城代の頃より禅林寺に膨大な蔵書が納められ、そこは学問修行の道場になっていて、元禄年間には四代藩主綱憲により学問所が設置されていた。ところが財政が厳しくなるにつれて廃頽(はい たい)し、鷹山が藩主になった頃には実質的に廃絶していた。武芸も重んじる鷹山は、昨年の十月には二の丸長屋を改修して武芸稽古所に改めたが、二月に入ると、莅戸(のぞき)九郎兵衛と吉江輔長(よし え すけ なが)に命じて学問所の具体的な立案と計画に乗り出した。そのような経緯から、この学問所は新設≠ナなく再興≠ニ位置づけたのである。
 これと並行して(にわ)かに浮上したのが継嗣問題だった。
 このとき於琴の胎内には鷹山の子が宿っていたが、争点は前藩主重定の長男勝煕(かつひろ)が継ぐか次男安之助が継ぐかだった。勝煕は庶子の上、すでに鷹山が重定の養子となり藩主になることが決まった後に生まれた子なのでその権限は一度失っており、安之助は同母の庶子ではあったが、幼少より鷹山の側近木村丈八高広が教育(がかり)を務めていた。結果、安之助の方が世子となって喜平次(後の上杉治広(はるひろ))と名を改め、御用兼勤に莅戸(のぞき)九郎兵衛が任命された。安永五年(一七七六)四月十六日のことである。中には於琴が懐妊していることを取り沙汰する者もいたが、鷹山はまだ生まれてもない子を引き合いに出すのもはばかり、それ以上に養父への孝が先んじて、
 「国は私物ではない」
 と言って退けた。於琴もそれに同調するふうを見せたが、内心お人好し過ぎる鷹山のその性格には半分納得していない。
 ともあれ学問所となる建物の落成を見た後すぐに、五月四日、世子喜平次を引き連れその年の参勤交代で鷹山は江戸へ出府した。
 当初から藩校設立の構想を聞き、一度は米沢まで行って相談に乗ったり指導をしてきた細井平洲は、鷹山から学問所が完成したという話を聞いて矢も楯も居られない。
 「名称はすでに考えている、『興譲館(こう じょう かん)』だ!」
 と、鷹山の帰藩を待たずに江戸を飛び出し米沢に向かった。興譲≠ニは「恭遜(きょう そん)の道を繁昌(はん じょう)させる」意であり、儒教の四書の一つ『大学』の一説「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲」から引用されたと言う。
 二度目の平洲を迎えた米沢は学制を制定し、藩校『興譲館』を実質的にスタートさせた。更には百姓、町人に至るまで平洲による講和を実施し、翌年二月までの滞在中で米沢藩内の教育レベルを富に押しあげたのである。
 藩主不在のその一方で、新しい命が誕生した。
 そう、於琴が待望の第一子を産んだのは七月二日のことだった。
 「オギャー!」と産声を挙げた赤子を抱きしめたとき、於琴の心に不埒な優越感があった。
 「これで幸姫(よし ひめ)に勝った──」
 という。それは誰知ることのない側室としての嫉妬が生んだものだった。
 幸姫(よし ひめ)がどれほど美しい女か知らないが、正室が果たせない子を生んだ事実はもはや誰も否定できないのだ。そして、このまま幸姫(よし ひめ)が子を産まなければ、私こそが実質的な上杉家の正妻なのだ──。
 この子どもの誕生により、二人の夫婦仲は琴瑟(きん ひつ)()するが如しとの評判もたち、夫の愛を独り占めしている境遇に、もはや誰人も立ち入ることはできないだろうという自負を抱いた。
 於琴は、顕孝(あき たか)と命名された赤子を於琴は目に入れても痛くないほど可愛がる。
 それにしても毎年のように領内を襲う天候不良や自然災害による被害は、鷹山の叡智を持ってして防ぎ難い。
 米沢に帰った安永六年(一七七七)の六月には、大雨により河川が氾濫し、藩主自ら陣頭指揮を執って現地に赴くほどだった。
 歴史上において彼ほど民の心に寄り添う指導者を筆者は聞いたことがない。領民に施しをするため義倉を建設したり、士分、庶民を問わず九十歳以上の老人を城に迎えて接待したりと、民は彼を菩薩か仏のように敬うのだ。
 そして翌安永七年(一七七八)四月には、第二子となる寛之助が誕生した。
 この年の参勤は、生まれたばかりの赤子の顔を見てから出立するような子煩悩な一面も持つ鷹山であるが、その道中、伊勢参りの帰途に病で苦しむ米沢の領民と出会えば、足軽と夫方(おっと かた)に看病を命じ近くの医師を呼んで治療させるといった、苦しむ領民一人さえけっして見過ごさない彼の振る舞いは変わらない。
 さて──、
 江戸は桜田屋敷に到着した鷹山は、さっそく幸姫(よし ひめ)に顔を見せようと奥の部屋に入った。すると、いつもなら「殿じゃ!」と歓声を上げて飛びついてくるのに、このときは少し様子が違う。座敷の中央にちょこんと正座して、
 「よし≠ヘおこころ≠痛めておる!」
 と大きな声で言う。彼女を正妻に迎えてより九年、鷹山と接することで少しずつではあるがまともな言葉が話せるようになっている幸姫(よし ひめ)の突然の発言に驚いた。
 「御心を痛めているとはどういうことですかな?」
 「縁あって殿に嫁いだが……」
 そこまで言って少し考えて、
 「いまだまくら≠共にすることも叶わない」
 とあどけなく続けた。およそ誰かに「そう言えば殿が喜ぶ」とでも言い含められたのだろう、さらに続けて、
 「どうかそくしつ≠置いてほしい」
 とようやく言い終え、天子のようにニコリと笑った。
 憤激した鷹山は、幸姫(よし ひめ)付き御用人 山吉四郎左衛門をすぐに呼びつけ、
 「姫になんたる事を言わせるのだ!」
 と叱り付けた。四郎左衛門とて他の家臣と話し合い「よかれ」と思ってしたことだろうが、鷹山はけっして許さない。
 「側室なら既に国許におる! いらぬ心配をする暇があるなら論語の一つも覚えよ! それとも江戸詰めで誰か妻同伴で奥に勤めたいと申す者でもいるのか? ならば連れて来い! かような真似を今度したら打ち首じゃ!」
 打ち首は言い過ぎだろうが、四郎左衛門はしどろもどろになって恐縮するばかりだった。
 それにしても──
 「江戸は暇だ……」
 心はいつも米沢の心配事で葛藤しているくせに、江戸ではできることも限られ、その身は平穏過ぎて時間ばかり無駄に過ぎていく。
 やがて(うるう)七月になった。この年は閏月があった。
 「殿あそぼ」と膝にまたがる幸姫(よし ひめ)の最近のお気に入りは(つづみ)を叩いて遊ぶことで、小さな掌でそれを叩けばポン、ポン、ポ、ポーンと心地よい音がした。無垢な心はその音まで清らかにするものか、鷹山は「お上手ですなぁ」と笑いながら、広い庭に咲く(はぎ)の群生を眺めている。
 江戸上屋敷桜田邸では毎年この季節、萩の花の盛りには『萩見の宴』が催された。
 そこには家老から足軽、屋敷に出入りする町人に至るまで、庭のあちこちに茣蓙(ご ざ)を敷き、酒や(さかな)あるいは煙草(たばこ)の火を置いて日頃の苦労をねぎらった。貴賤を問わない催しなので、集まる者はてんでに詩や歌を詠み、発句して楽しむ者や、酔って舞う者、花を摘んでちょんまげにかざしたり、耳を引いて酒を勧める者など、それはそれは賑やかなのだ。今はその準備に家臣たちも忙しい。
 花見の宴の際は障子を押し開げてその様子を眺め、機嫌の良い時は庭に敷かれた茣蓙にまで出て自作の詩歌などを詠む鷹山だが、この日は時々障子を細く開けて眺めるだけで、
 「こんなにのどかであってよいのであろうか?」
 心そこに無しの様子で目を細め、自分だけ楽し気な時間を過ごしていることに引け目を感じたのか、江戸で名高い能役者金剛三郎の熟練の芸を目にしたとき、能の大好きな養父重定がご覧になればさぞかし喜ぶだろうと考えて、二、三人の門弟と共に三郎を米沢に送って気休めとした。
 鷹山の祖母瑞耀院が卒去したのは十一月二十六日のことである。
 彼女がいなければ全く違う人生になっただろう。米沢藩の世子として来たことも、幸姫(よし ひめ)との縁を結んでくれたのも彼女であったことを考えると感謝してもしきれない。
 人の命というものを考えながら、それとは無関係の世界に住む幸姫(よし ひめ)が羨ましくもあり、愛おしくて仕方ない。
 「切れた!」
 と言って持って来たのは叩き過ぎて赤い紐がちぎれてしまった鼓である。己は毎日藩の財政のことや国許の民のことが頭から離れない苦しみの世界でもがいているというのに、彼女は娑婆世界を超越した仏国土に常住しているのではないかと思う。いつかはそのような境地に至りたいと思いながら、
 「殿がなおして進ぜましょう」
 と、日がな一日彼女と遊ぶ。

 そんな幸姫(よし ひめ)のことを於琴は露ほども知らない──。
 参勤が明けて米沢に戻った鷹山は、子どもの養育にも熱心だった。第一子顕孝は数えで四歳になっており、第二子の寛之助もよちよち歩きができるようになっていた。
 「江戸のお暮しはいかがでございましたか?」
 二人の子どもとの再会を喜ぶ鷹山を横目に、彼が江戸から持って来た長持(ながもち)を開けた途端に於琴の顔色が曇った。目に飛び込んできたのは雅な鼓で、そんな物を興じる夫の姿などただの一度も見たことがない彼女は、すぐに江戸の姫の持ち物だと察した。紐が切れているから、およそ修理に持ち帰ったのだろうと理解して、
 「まあ、立派な鼓でございますこと。いつからお習いですか?」
 とうそぶいた。
 「ああ、それか……?」
 鷹山は言葉を濁して寛之助を抱き上げた。
 その光景を恨めしく見つめながら、於琴の脳裏には、正妻の打つ鼓のリズムに合わせて楽し気に舞を踊る夫の姿が鮮明に思い出されていた。



 十月も終わろうとする秋だった。
 相も変わらず領内に出て屋敷に不在の鷹山のために、子守りをしながら夕餉の仕度をしていた時である。釜戸の鍋から煮汁が吹きこぼれたことにとらわれて、寛之助からちょっと目を離したのだ。鍋の蓋を開けて具材をかき混ぜていると、背中でポン≠ニいう甲高い音がした。振り向けば、長持(ながもち)の中から切れた紐がすっかり元通りに直された鼓を見つけた顕孝(あきたか)が、物珍しそうにして叩いて遊び出したのだ。
 於琴はその音が果てしなく不快に感じた。思わず、
 「触るでない! 汚らわしい!」
 と叫んだとき、その声に驚いたか、寛之助が土間と板敷の段差から落ちて、置いてある石段に頭をぶつけて「ギャーッ!」と泣き叫んだ。
 蒼白になった於琴はすぐに寛之助を抱き上げたが、頭から血を出してすでに虫の息。必死の看病に当たったものの寛之助は間もなく息を引き取った。わずか一年と半年ばかりの夭折(よう せつ)だった。
 自責の念に駆られながら、
 「なぜこうなった?」
 と考えた。ところがそのうち、
 「私のせいではない! 幸姫(よし ひめ)だ!」
 と思った。
 あのとき顕孝(あきたか)があの鼓さえ叩かなければこんなことにはならなかったのだ!
 あの女の私への恨みと嫉妬が鼓に宿っていたのだ!
 私でない。あの女が成した悪行だ!
 あの女は夫をたぼらかし、挙句に愛する寛之助の命を奪ったのだ!
 なにが天女だ、修羅ではないか!
 こうして私を苦しめて、今に私をも呪い殺すに相違ない──。
 自分を正当化するための筋違いな勝手な解釈が、彼女の心におぞましいばかりの怨念を産み出した。しかし憎悪を隠した於琴は、何も言わずに大粒の涙を落すばかり──。
 一方、人の命の儚さを目の当たりにした鷹山は、奥歯を噛みしめて涙を飲み込む。それから暫くは、
 「わしが子守りをしていれば……」
 と、何も手がつかない様子だったが、やがて、同じように家族の看病などで休みたくても休めない家臣がいるのではないかと心配して、それまで看病休みの例がなかった事に気付き、家にいる父母妻子が病の時は心置きなく看病ができるとした『家族看病の令』を打ち出した。
 「幸姫(よし ひめ)ならばこんなとき、何も問わずに無垢な眼をしてわしと無邪気に遊ぶだろうか……」
 とぽつんと呟いた鷹山の言葉に、於琴はひどく責められた気がした。
 「やはり上杉家は呪われている……」
 於琴は我が子の死をけっして自分の過失と考えることができない。
 「こちらがやられる前に、私があの女を呪い殺してやろう!」
 於琴は羅刹に魂を奪われた。



 天明二年(一七八二)三月、この年参勤のため出府しようとしていた鷹山のもとに、驚くべき訃報が江戸よりもたらされた。幸姫(よし ひめ)が急死したと言うのである。
 「そんなことはない。昨年、江戸を出る時は寂しそうではあったが、元気にわしを送り出してくれたのだぞ。こんなに突然死ぬはずなどないではないか」
 と、最初は信じようとはしなかったが、江戸詰めの幸姫(よし ひめ)ゆかりの家臣が次々と悲愴な顔で状況を伝えに来たり、形見の品が送られて来たりすれば、現実として受け入れるしかなかった。幸姫(よし ひめ)享年三十歳。
 鷹山は滂沱の涙を落し、大倹約の継続中に関わらず、悲しみのなか慇懃に葬儀を執り行うよう命じたのであった。
 かたみとして幸姫の着物が彼女の実父である重定の許に送られて来た時、重定はわが目を疑い愕然としたと言う。着物の身の丈が七、八歳の幼女が着るほどの小さなものだったからだ。それまでずっと年月を経ているにも関わらず子宝が出来ないのは、あるいは鷹山に嫌われているのかと心密かに恨めしく思っていたが、このとき初めて我が娘が発育不全であったことを知り、夫婦生活など思いも寄らないことだったと自分の認識を甚だしく恥じたのである。
 幸姫(よし ひめ)が発育不全で障害を持っていたと知って愕然としたのは於琴も同じであった。否、それはむしろ重定以上だったかも知れない。
 いったいこれはどういうことか?
 最初、その幸姫(よし ひめ)の形見として送られてきた小さな着物を見た時、殿と姫の間には娘が生まれていて、死んだのは幸姫(よし ひめ)でなくその娘ではないかと思ったほどだ。ところが鷹山の口から、
 「幸姫(よし ひめ)は障害を持っていたのじゃ……」
 と聞いたとき、地獄の底に突き落とされた心地がした。
 それまで抱いていた美しいはずの幸姫(よし ひめ)はその全てが幻であり、その幻に向けて嫉妬の炎を燃やしていたのだ。於琴は醜い自分の心に衝撃を受け、幸姫(よし ひめ)の名誉を傷つけまいとして最初から家の者にさえ堅く口を閉ざしていた夫の優しさに顔向けができなかった。
 失意の中、鷹山が、
 「そろそろ隠居しようか……」
 と考え始めたのはこの頃からである。幸姫(よし ひめ)のいない江戸に未練はないし、藩主を続けていれば参勤交代で江戸と米沢を行ったり来たりしなければならない。しかも江戸に行くたび米沢の改革は遅れてしまうのだ。いっそのこと藩主を譲ってずっと米沢に住み、ここに骨を埋めたい。
 それからひと月ほど過ぎた四月十六日、鷹山は江戸に出府した。
 そして間もなく世子喜平次を養子にしようと幕府へ願い出、白金(しろ がね)に彼の邸宅を造営しはじめた。次いで七月一日には喜平次を江戸城に登らせて、九月十九日、時の将軍徳川家治と謁見させて元服式を執り行った。このとき『治』の一字を拝領して喜平次は治広と改名する。
 この後、白金の邸宅が落成すると、十一月二十三日、新藩主上杉治広は尾張藩九代藩主徳川宗睦(むねちか)の養女純姫を迎え正室としたのである。
 これと合わせて鷹山と於琴の第一子顕孝は治広の養子に定められ、まだ六歳だったに関わらず、翌年三月には土佐藩山内豊雍の娘采姫と婚約した。
 ちょうどそんな折り、鷹山の改革推進に大打撃を与える事件が起こる。彼の片腕として大きな働きをしてきた竹俣当綱(たけの また まさ つな)美作(みまさか)が弾劾され隠居させられたのだ。
 話を聞けばその醜態も甚だしい。
 最初は鷹山の忠臣として身を粉にして改革を推進していた者が、権力を握るとこうも人を堕落させてしまうものか。彼の驕奢(きょう しゃ)は日一日と甚だしく、日夜宴遊に耽り、傍若無人な所業が目に余るようになった。ついには村々の巡回に際して醜行(しゅう ぎょう)を極め、旅館に娼妓を連れ込み長夜の宴を張って翌朝になり陽が昇っても窓をふさいで「まだ夜だ!」と言って燭を点して妓女に裸踊りをさせて興じたり、嘘か本当か知らないが、人の妻を奪ってその夫を殺したとの噂が立ってしまえば、いかに功ある重臣といえども許されるわけがなかった。
 竹俣ばかりでない、その連座の責任を追って全く非のない莅戸(のぞき)九郎兵衛までもが自主的に政治の場から退いてしまったのだ。
 おまけに天明の大飢饉で東北地方は大凶作。餓死者が多発する甚大な被害を被ると、さすがの鷹山もどうすることもできなかった。それでも米沢においては凶作に備えた『備籾蔵』や『義倉』を備えていたので被害を最小限で食い止めることができたはずだが、幸姫(よし ひめ)の死を堺に、これまで構築してきたものが音をたてて崩れていくような感覚にとらわれた。
 天明四年六月は霧雨止まず、再びの凶饉(きょう きん)に逢えばもはや米沢も終わりであろう。
 「ただこの上は神明の加護に頼るほかない──」
 鷹山は二夜三日の断食を決意して米沢城内の卸堂に入る。このとき、
 「殿──」
 と声を挙げたのは於琴であった。
 「わたくしもご一緒に……」
 鷹山は静かに頷いた。
 『不識庵』とも呼ばれる卸堂には神格化された藩祖上杉謙信の遺骸そのものが奉安され、そこは、家中の者はみな畏敬を持って恐れている場所である。その脇侍(きょう じ)には左に謙信の守護神毘沙門天(び しゃ もん てん)、右に善光寺如来が祀られる。
 毘沙門天の方は、出陣に際し何日間も読経し続けた上杉謙信があるとき護摩壇(ご ま だん)から足跡が伸びているのを見、その足跡の主が毘沙門天であり戦いに加勢したと言われており、上杉家では特に泥足毘沙門天≠ニ尊称されているものである。また善光寺如来は、五五二年の仏教伝来の際、百済から欽明天皇に献じられた日本最古の仏像とされ、その後信濃国の善光寺に祀られるが、天文二十年(一五五一)の川中島の合戦のとき、戦火を避けるため謙信に奉じられたと伝わっている。
 中央に置かれた謙信の遺骨を正面に、鷹山の祈りは続いた。その後ろでは、於琴がじっと彼の背中を見つめていた。
 鷹山の五穀豊穣の祈りに対して於琴の祈りは少し違っていた。それは、鷹山に向けられた尊敬であり、幸姫(よし ひめ)に疑いを抱いていたことへの懺悔(ざん げ)であり、自分に向けられた卑下(ひ げ)である。
 ところが、羅刹と化した氷のような心が、鷹山の温かな陽光に触れて、少しずつ溶けていくのを感じていた。
 否、ちがう──。
 夫は幸姫(よし ひめ)の名誉を傷つけまいとしてその真実を隠していたわけでなく、本当に、幸姫(よし ひめ)という童のように純心無垢なその人間性を、心の底から尊敬していたのだ。
 隠そうとしていたわけでも、言わなかったわけでもない。
 ただその純然たる人間の本性に触れて、自分もそれになろうとしていただけなのだ。
 そう気付いたとき、於琴の瞳からきれいな一閃の涙がこぼれ落ちた。
 およそ羅刹といえば神通力を持って人を惑わし人を喰う悪鬼とされる。それが後に仏法と出会い、転じて衆生の守護神へと劇的な変化を遂げた諸天善神(しょてんぜんじん)である。法華経(ほ け きょう)陀羅尼品(だ ら に ぼん)には十二天の一つとなり、毘沙門天の眷属(けん ぞく)として仏法守護の役目を担い、手にした利剣で煩悩を断つ。
 私は羅刹──。
 於琴はそう思った。いま鷹山の後で昼夜静座し、わずかながらも米沢のために主君に力を添えているのだ。天地が動き、鬼神が退散しないことなどない。
 すると陰雨はたちまち収まり、少しずつ陽の光が差し初め、この年の秋には稲が実り木も熟したことはなんとも不思議なことであった。



 この翌年の天明五年(一七八五)二月六日、鷹山は家督を治広に譲り、隠居する決意をした。時に三十五歳、まだまだ働き盛りの年である。
 その真意は「自身が進めてきた改革の抵抗勢力による反発と疲労困憊」とも「参勤交代など幕府への普請からの回避」とも、あるいは「重定存命中に先代の実子へ継承するため」とも解釈されるが、やはりもっともなのは、「米沢と共に生き、改革を成就させるため」ではなかったか。
 鷹山は治広に藩主としての心構えを次の三ヶ条の訓戒(『伝国の辞』)を(はなむけ)として贈った。

一、国は先祖から子孫へ伝えられるものであり私物でない。
一、領民は国に属し私物でない。
一、国家人民のための君主であり、君主のための国家人民でない。

 そして米沢城三の丸に隠居所となる『餐霞館(さん か かん)』を建て、藩政の相談役として民を見守りながら余生を送ろうと於琴と共に移り住んだ。なさねばならぬ≠アとはまだまだ山ほど残っている。
 移り行く季節の中で、二人は畳縁に座って庭に植えられた松を眺めていた。すると鷹山は於琴の肩を抱き、静かに次の歌を詠んだ。

 色かへぬ松に契りてけふよりは(なお)幾千代の老がゆくすえ

 それを聞くと於琴は笑んで、

 色かへぬ常磐(ろきわ)の松もかぎりなし君もろともに幾世しげらん

 と歌い返した。その心には、もはや一点の曇りもない。
 思えば改革はまだ半ばにも達していない。しかもこの後、彼に降りかかる試練はまだまだ続く。
 それでも鷹山は前を向く。

 二〇二二年八月七日
(2022・05・06『米沢城(上杉神社)稽照殿(けい しょう でん)』にて拾集)