> 文禄(ぶん ろく)渦潮(うず しお)
文禄(ぶん ろく)渦潮(うず しお)
城郭拾集物語J 瀬戸内海(愛媛)能島城
朝鮮出兵 文禄の役

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 筆者が今治市『村上水軍博物館』脇の潮流体験船乗り場に着いた時、すでにその日の営業時間は終わっていて、泣く々々手を伸ばせば届きそうな霞む大気に浮かぶ能島を眺めたのである。
 伊予国は連日耐えがたい猛暑であった。真夏の陽ざしは瀬戸内の海を熱し、その水蒸気によって湿度を異常なほど上げているものか? 信州の山育ちにはずいぶん身体にこたえる環境である。
 能島城は、 周囲わずか一キロにも及ばない地図で探すのも困難な小さな能島と、それに隣接する鯛崎島(たいさきじま)とで構成される。南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海を支配した村上水軍のこの城は、干満時に生じる激しい潮流で敵の接近を防ぐ。激しい渦潮に護られた堅固な拠点は海の関所として、瀬戸内海を行き来する船の海道の要衝であり、そこに住む民は、海上の水先案内や安全保障を担いながら生計を立てていたと言う。特に南北朝時代には瀬戸内海の制海権を独占し、荘園からの年貢などを輸送する船舶の警護や駄別料(課税)を取り立てその利を得ていた。
 言うなれば日本の海賊──
 ひとたび戦が起こった時などは、例え敵であってもその船に乗る女・子供はけっして殺さず、島に連れ帰って養子にしたり、あるいは妻に迎えたりしたのは、掠奪とか乱暴でなく、海賊としての慈悲に似た誇りであろうか。海に生きる種族の特質とも言うべきある種の士道とも言えようか。
 現在その名を轟かせる村上水軍は、伊予の能島(の しま)来島(くる しま)、そして備後の因島(いんのしま)に主筋の三家があったが、中でも能島村上水軍の本拠地が今回の物語の起点である。

 戦国時代の能島城主は村上武吉──、彼がまだ若い時が村上水軍最盛期の頃である。
 ところが戦国の世における村上三家は、周囲の複雑な力関係の中で生きていかねばならなかった。毛利家の所領に近い因島村上家は毛利元就に臣従し、伊予に近い来島村上家は伊予湯築城主河野家に臣従し、位置的にその中間地点にある能島村上家は、伊予国(愛媛県)の河野家との友好関係を保ちつつ独立という立場をとっていた。
 しかし毛利元就の勢力が強大になるにつれ河野家が衰退すると、能島村上家は毛利水軍の一翼を担うこととなり、一五七六年の織田信長傘下の九鬼義隆との第一次木津川口の戦いでは、毛利家に加担して戦国の騒乱に巻き込まれていく。
 そして能島城は瀬戸内海における城としての終焉を迎える。
 天正十三年(一五八五)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が四国攻めを行なおうとした際、能島城主村上武吉は秀吉に従うことはなく、そのため小早川隆景の激しい攻撃を受けることとなった。
 海と渦潮に守られた難攻不落の能島城を小早川隆景はいかにして落したか?
 それは瀬戸内の強風を利用した放火作戦──麦藁を積み込んだ何百という舟を潮流に乗せて火を放ったのだ。わずか周囲一キロほどの小さな島である。その炎はまたたくまに建物に燃え広がり、島全体が火に飲み込まれて能島城は陥落したと言われる。
 その後、豊臣秀吉が天下を統一すると、村上武吉はいったん豊臣水軍に加わる形となるが、一五八八年に秀吉が発した海賊廃止令に伴い収入源を断たれ、島を離れた以後能島城は廃城となった。その遺構は手つかずのまま現在に残される。
 今回取り上げるのは村上武吉の次男村上景親(かげ ちか)という男である。
 というのも、筆者が『村上水軍博物館』で目にした『朝鮮貴族姉妹像』に描かれた大陸の衣装を身にまとった二人の娘が、屈託のない表情で筆者に微笑みかけていたからである。
 そこにあった説明を読めば、
 『村上景親が慶長の役で出陣した際、李王朝からもらった姫の一人と伝わる肖像画』
 と記されていたが、世にいう豊臣秀吉の朝鮮出兵で大陸から連れ帰ったのは、その殆どが拉致同然に捕えた捕虜のはずが、その微笑みに怨恨のような感情は感じられない。第一、捕虜ともあろう人間の絵が残っていること自体不思議である。
 説明には更にこうあった。
 『上の娘は景親の側室に、下の娘は家臣水沼の妻となったと伝わっている』
 と──。
 日本が犯した朝鮮蹂躙(じゅう りん)の中に咲いた二つの可憐な花。そう信じることがせめてもの救いにはならぬだろうかと思うのだ。



 村上三郎兵衛景親(かげちか)は永禄元年(一五五八)、能島城主村上武吉の次男としてこの世に生を受けた。村上水軍最盛期の頃であったことは前述した。
 小さな島の周りには三〇〇とも四〇〇とも思われるおびただしい数の舟が係留され、能島は国内有数の大漁港のようにも見えた。これらの舟は当然漁にも使われるが、その多くは瀬戸内海を行き来する船舶の水先案内や警護を頼まれたり、通行の駄別料を徴収するために用いられている。山に山賊が出るように、無法地帯の海上にも海賊が出るのも必然で、不法者が出没するたび能島に通報が来ては、海上保安の役割を担って出動するというわけだ。
 そんな海の男たちの中で景親は育った。
 その気性は渦潮のように激しく、心の奥は(なぎ)の如く穏やかで、波が複雑な紋を作りつつも自然の摂理にどこまでも従順なように、その性格は人が人たる不道徳を嫌った。瀬戸内海が人格を(あらわ)したとしたら、景親はまさにそれだった。
 戦国の様相が深まるにつれ、彼に初陣の時が訪れたのは二十歳の時。それは毛利輝元と織田方の尼子勝久との間で行われた播磨の上月城の戦い≠ナある。景親は兄の元吉と共に毛利方の水軍として戦うが、このとき父から授かった横笛は、なにか事あるごとに吹いては心の(けが)れを洗ったものである。
 織田信長が死ぬと毛利と秀吉は和睦(わ ぼく)する。
 このときはどっちつかずの態度を保っていた村上武吉だったが、秀吉が四国征伐に乗り出すとそれに反発して追討されそうになるも、その後は毛利支配の元で秀吉に従う形となる。このころ宣教師ガスパール・コエリョの要請を受けて瀬戸内海上交通の安全保障を請け負っていたのを見ると、まだまだ海上での勢力は健在だった。
 秀吉が九州出兵を起こすと、村上武吉は毛利元就の三男小早川隆景に従い従軍した。それに伴なって景親もまた安芸の竹原に赴く。この際、村上家の家督は嫡男元吉に譲られた。
 天正十五年(一五八七)、景親は小早川家の家老に抜擢され筑前と筑後に六〇〇〇石を与えられ、同じ年、河野家の家臣平岡通倚(ひら おか みち より)の妹と結婚する。時に景親二十九歳のことである。
 「当家とは古い付き合いだが、まあ、よろしく頼む」
 「海のことはよく知りませんが、港港にあまりお妾などおつくり遊ばすな」
 「心配か?」
 「そうではありませんが、面倒な話は嫌いでございます」
 景親はニッと笑んで、
 「そのときは其方にも会わせよう」
 と、これが祝言で交わした言葉であった。
 ところがその翌年、村上家は突如として海運の業を断たれた。兵農分離を推し進める秀吉が刀狩り令≠ニ同時に海賊停止令≠発令したのである。これは農民同様、海民に対しても武装解除を強いた秀吉の農海民に対する警戒と恐れとも言えるが、これによって村上家は職を失った。
 しかし南北朝以来、ずっと瀬戸内海を支配してきた村上家としては唯々諾々(い い だく だく)と従うわけにもいかず、暫くはこれを無視していたが、それを知った秀吉は、
 「謀反だ! すぐさま大坂に呼び寄せよ!」
 と騒ぎ立てた。慌てた村上元吉は上洛して弁明するが、これ以降、武吉と元吉は、景親のいる筑前へと追いやられる形となった。
 九州を平定した秀吉天下統一の勢いはもはや誰にも止めることはできなかった。秀吉が最後の標的として小田原攻めに乗り出すと、かつての村上水軍もまた毛利水軍の一翼として兵員や兵糧の輸送を担いつつ、北条との戦闘に加わるより仕方ない。
 このときすでに秀吉の野望は拡大している──北条氏を制圧して矢継ぎ早に目を向けたのは海を渡ったところの(みん)国である。
 その背景には宣教師を世界中に派遣している神聖ローマ帝国や、スペイン、ポルトガルといったヨーロッパ諸国が世界を凌駕(りょう が)していた脅威があったかも知れない。世界史の時代の潮流は大航海の()最中(さ なか)なのである。
 「次は唐入(から い)り≠カゃ!」
 と秀吉は叫んだ。
 年が明けて(天正十九年)一月に入ると俄かに遠征準備を開始する。朝鮮へ出兵し、明国へ通ずる道の確保、つまり朝鮮半島を掌握しようとしたのである。そして瞬く間にその拠点として肥前国に巨大な名護屋城を築きあげると、翌天正二十年(一五九二)一月には、 総勢三十万とも言われる錚々(そう そう)たる日本の武将たちを召集したのである。
 村上景親は兄の元吉と共に毛利輝元が加わる六番隊に組み込まれ、毛利家臣吉川広家(きっ かわ ひろ いえ)に従って朝鮮に渡海することになった。広家は後に碧蹄館(へき てい かん)の戦い≠ノおいて戦功を挙げ日本槍柱七本(に ほん そう ちゅう しち ほん)≠フ一人に数えられる人物である。



 天正二十年(一五九二)四月、その戦いの火ぶたは切って落とされた。
 宇喜多秀家を総大将とする秀吉軍の朝鮮侵攻はまさに電光石火、十二日に一番隊として釜山(プ サン)に上陸した宗義智(そう よし とし)小西行長(こ にし ゆき なが)(またた)く間に釜山(プ サン)周辺を鎮圧すると、十五日にはその北側数キロの地点にあった東萊城(トン ネ)を落す。すると十七日に釜山(プ サン)に上陸した加藤清正(か とう きよ まさ)筆頭の二番隊と黒田長政(くろ だ なが まさ)筆頭の三番隊、そして森吉成(もり よし なり)筆頭の四番隊が加わって、首都漢城府(ハン ソン ブ)を目指して北上しながら次々と城を落し、たちまち慶尚道(キョン サン どう)を制圧してしまった。
 朝鮮側の犠牲者はその数を知らず、その勢いに恐れをなした時の李氏朝鮮王『宣祖(ソン ジョ)』は、血相を変えて漢城府(ハン ソン ブ)を捨てて逃げ出した。
 こうなっては秀吉軍の独擅場(どく せん じょう)である。
 小西行長は忠清道(チュン チョン ド)を突っ切り首都のある京畿道(キョン ギ ド)に突入した勢いのまま、王のいない漢城府を占領する。日付を聞けば五月二日、釜山(プ サン)上陸からわずか二十一日足らずで李氏朝鮮の首都を陥落させてしまったのである。
 この朝鮮側の弱さを一言で言うなら「戦う意思がなかった」と言うべきだろう。
 朝鮮は実にこれまで数百年の間、戦争というものを経験しない平和な国であり、「まさか戦争など起こるはずがない」と信じ切っていた。対して日本は戦国動乱の真っ最中、しかも戦いに明け暮れた末に国家を統一した最強の武将豊臣秀吉が指揮を執ったのである。朝鮮にとってはまさに不意打ちであり、逆に日本にとっては赤子を相手にするようなものだった。そのうえ儒教の国である朝鮮は身分の差が著しく、上層階級に対する下級層の民の不満も甚だしかった。その日頃の鬱憤(うっ ぷん)はある意味日本軍を助ける働きをし、ルイス・フロイスなどは、
 『朝鮮の民は恐怖も不安もなく、自ら進んで日本の兵士らに食物を配布し、手招きで必要な物資はないかと訊ねる有様で、逆に日本人の方が面食らっていた』
 と記すほどだった。その証拠に宣祖(ソン ジョ)が逃避した際などは、民は国を見捨てた王を悲しみ、中には王に向かって石を投げつける者や、王に対する礼法を守らないばかりか、王のいなくなった漢城府(ハン ソン ブ)ではあちこちで火の手が上がり、京城を荒らして金品財宝を掠奪する者や、王室が飼育している家畜を盗む者もあったと言うから、ある意味秀吉の朝鮮侵攻の序盤は、朝鮮の下級庶民達の日頃の鬱憤の代償だったとも言える。
 村上景親が従軍する六番隊は、六月に入って釜山(プ サン)東萊(トン ネ)近辺に集結中だった。
 もとより船の扱いに長けた景親と元吉に与えられた任務は、戦においては最も重要と言うべき最前線への食料、物資の運搬である。毛利輝元は二人を呼び寄せると、
 「これよりわしは星州(ソン ジュ)に布陣することになったから食料、物資を運んでおけ。その後、開寧(ケン ニョン)に進んで五番隊と合流する」
 と言った。
 「星州(ソン ジュ)……?」
 景親と元吉は顔を見合わせた。初めて足を踏み入れた異国の地で、大雑把(おお ざっ ぱ)に記された地図はあるものの右も左も分からないのである。
 「東萊(トン ネ)より西に進めば落東江(ナッ ドン ガン)という河があるらしい。その河を上流に進めば着くということだ。とにかくゆけ」
 輝元の情報には距離に関する何もない。釜山(プ サン)から星州(ソン ジュ)まで直線距離にして一〇〇キロはあるだろうか。曲がりくねった川づたいに進めば一五〇キロ近くあったことだろう。二人はとにかく現地の案内人を連れて出発する。
 亀浦(クポ)の船着き場から荷を乗せた何百もの船を率いて落東江(ナッ ドン ガン)を上って行くと、三日目にして茂渓(マウ シー)という場所に着いた。すると案内の者が、
 「ここから星州(ソン ジュ)までは歩きだ。荷を下ろせ」
 と言う。
 「歩いてあとどれくらいか?」と元吉が聞けば、
 「一日だ」と案内人は淡々と答えた。
 「ひとまずここに資材を保管する倉と砦を作りましょう」
 と景親が言った。
 およそ歩いて一日程度の距離の所に城を置くというのは異国で戦う際の鉄則なのだ。既に漢陽(ハ ニャン)に至っている小西行長は、釜山(プ サン)から茂渓(マウ シー)までの間に東萊(トン ネ)梁山(ヤン サン)鵲院(タャゴン)密陽(ミ リャン)玄風(ヒョン ブン)に旅館を築いており、朝鮮に渡った際の本営として城砦の建設を進めていた。さらに茂渓(マウ シー)から漢陽(ハ ニャン)までの区間にもいくつものそれを置いて兵を常駐させており、それは別ルートを進む加藤清正も同じであった。しかも秀吉は、城に常駐する者を都隊長とし、彼らには妻妾を持つことを許してその婦女にも扶持米を与えてよいという特権を与えた。つまり彼らをそこに永住させようという思惑だ。
 それと同じ役割を果たす建物が茂渓(マウ シー)にもあったが、まだまだ城や砦と呼ぶにはあまりにお粗末で、加えて資材、食料を貯蔵する倉がなければ到底輸送の拠点には使えない。
 「ところで今日は何日か?」
 暦もなければ心の余裕もない異国では月日の流れなど分かるはずもないだろうと言いたげに、川のほとりに生い茂る背の低い草の周辺をうるさく飛び回る蚊の多いことに閉口しながら元吉が聞いた。
 「釜山(プ サン)を出たのが五月の下旬ですから、すでに六月に入ったのではないでしょうか?」
 景親は腕に喰いつく一匹の蚊をパチンと潰して答えた。
 秀吉軍にとって最大の問題は兵糧の供給である。戦が長引けば長引くほど不利になるのは必然で、景親の指揮のもと、落東江(ナッ ドン ガン)の河のほとりにその建設は急ピッチで進められる。
 このとき先鋒隊が京城を制圧して既にひと月が経っていたことになる。
 小西行長と加藤清正は、逃げた宣祖(ソン ジョ)を追って更に北上しているに相違ない。
 ところがこのひと月の間で、朝鮮の民の心に大きな異変が生じていたのを知る者はなかった。誰もが一刻も早く征討を終え、一日も早く帰国できるのを信じていたのだ。
 ところが、当初は朝廷への不満から日本人に協力的だった朝鮮の民らだったが、次第に兵糧が尽き現地調達しなければならなくなった日本兵達が、無法地帯同然に各地の現地住民たちの食料を強奪し、婦女暴行などを平気でするようになっていたから堪忍袋(かん にん ぶくろ)()が切れた。
 「自分達の国は自分達の手で守ろう!」
 と、倭兵(わ へい)(日本兵)のいる各所で義勇兵が立ちあがったのである。
 このころ季節はもう夏である。
 「それにしても暑いな……」
 次第に砦らしくなってきた建物を見つめながら吹き出る汗をぬぐう景親を、遠くから見つめる黒い人影があった。
 実は豊臣軍が朝鮮半島の侵攻を開始し、最初に制圧した慶尚道(キョン サン どう)防御の任に当たった男に田見龍(ジョン ヒョン リョン)がいた。彼は陜川(ハプ チョン)の郡守をしていたが、もともと性格が卑しいうえに人望も薄く、また公事も統率できない男だった。自堕落で貪欲な彼を民は嫌い、倭軍(わ ぐん)(朝鮮側の日本軍の呼び名)が攻め寄せた時も彼に協力する民はなく、戦うこともせずに逃げ出した。
 田見龍(ジョン ヒョン リョン)が去った郡の民は一時的には喜ぶが、次第に日本軍の横暴が目に余るようになると、ついに義兵を募って対抗しようと考えた。このとき義兵の将軍に担がれたのが鄭仁弘(ジョン イン ホン)と言う当時五十六歳の陜川(ハプ チョン)出身の壮年である。
 倭軍が侵入する以前の国王宣祖(ソン ジョ)の政治は、東人(トン イン)派と西人(ソ イン)派の二つの派閥勢力が争っていたが、鄭仁弘(ジョン イン ホン)東人(トン イン)派に属していた。ところが政権逃走に敗れて一度は失脚して都落ちする憂き目を見るが、西人(ソ イン)派に属していた鄭汝立(てい じょ りつ)(文人官僚)が東人(トン イン)派に加担した問題をきっかけに東人(トン イン)派が南人(ナ ミン)派と北人(プ ギン)派に分裂した際、北人(プ ギン)派の領首として政治に返り咲いていた。彼は田見龍(ジョン ヒョン リョン)の逃亡を知ると急いで陜川(ハプ チョン)に入って民の声に耳を傾け、倭軍打倒の義兵軍を起こしたのである。
 これを知ってもう一人立ちあがった男がいた。名を孫仁甲(ソン イン ガプ)と言う。
 彼は科挙(か きょ)に合格してから僉正(チョム ジョン)という官職に就き、このときは密陽(ミ リャン)に赴任していた。郡守だった田見龍(ジョン ヒョン リョン)が逃走したことを受けて臨時の陜川(ハプ チョン)郡守を務めるが、そこで倭軍の横暴を目の当たりにして激怒した。そこで鄭仁弘(ジョン イン ホン)の決起に自ら参加し、実質的な義勇軍の指揮を執ることになったのだった。景親を見つめる黒い人影とはまさにこの孫仁甲(ソン イン ガプ)に違いない。
 孫仁甲(ソン イン ガプ)は陣営に戻って、
 「倭軍は茂渓(マウ シー)に食料資材の貯蔵施設を作っています」
 と、その動きをつぶさに報告した。鄭仁弘(ジョン イン ホン)は、
 「完成を(はば)んで早急に潰さなければならん。しかしあの周辺は(すべか)らく沼地である。下手に攻め込めば逃げ場を失って逆にこちらがやられる。どうするか?」
 と頭を抱えた。
 「奇襲を仕掛けましょう!」
 孫仁甲(ソン イン ガプ)の作戦に鄭仁弘(ジョン イン ホン)は静かに頷いた。そして彼に三〇〇の義兵を与えたのであった。
 
 時を尋ねれば天正二十年(一五九二)六月五日と伝わる。
 茂渓(マウ シー)を流れる落東江(ナッ ドン ガン)の船着き場で建設が進められている村上景親(かげちか)が護る砦は、昼間の作業で疲れ切った兵たちが所々に燈す焚き火を囲んでささやかな晩餐の最中である。見上げれば満天の星空が男たちを包み込んでいた。
 中でも特に盛り上がって笑い声を挙げる部隊があった。建設資材調達班だが、彼らは周辺に生い茂る木材を集めるために茂渓(マウ シー)周辺の集落を行き来している。その輪の中に一人の生娘を膝に抱える男が上機嫌にこう言った。
 「見てみろい、これが今日の俺様の獲物だ。めったにお目にかかれない上ものだろ?」
 見れば女は縄で縛られ、口には布を巻かれ、逃げようとして暴れると男はより強い力で女の身体を締め付けた。その服装から想像するに地元の両班(ヤン バン)(上層階級)の娘に相違ない。
 「羨ましいねえ。終わったらひとつ俺に回してくださいよ」
 と別の一人がイヤらしい目付きで言った。
 「バカ言え! これは国に持ち帰って(めかけ)にするのだ。お前は白い服の泥のついた女(下賎の女)で我慢しとけ」
 どっと大きな笑い声が挙がったが次の瞬間ピタリと止むと、輪の中のまた別の一人が後の方を指さした。女を抱えた男が振り向いたところに立っていたのは景親(かげちか)である。
 「どこからさらってきた? 放してやれ」
 「それはないですよ景親(かげちか)さま。こんなことは皆やってますぜ」
 景親(かげちか)は男を殴り飛ばして女の縄を解き始めた。
 「我々はこの国と戦争をしているが、略奪に来たのではない。勘違いするな!」
 縄を解かれた女は兎のように逃げ去った。
 このとき落東江(ナッ ドン ガン)の上流から孫仁甲(ソン イン ガプ)が率いるいくつもの義兵の舟が川を下っている。そして闇に紛れて砦を取り囲むと、
 「矢を放て!」
 という異国の言葉が轟き、白い鳥のような三〇〇本の矢が一斉に砦周辺に(たむろ)する日本兵に降り注いだ。次の瞬間五〇余りのエリート兵が砦を襲撃し、景親(かげちか)の兵は大混乱に陥った。孫仁甲(ソン イン ガプ)の奇襲攻撃である。
 まさに不意を狙われた日本兵は、一瞬のうちに一〇〇人もの兵を失う。
 「敵襲だ! 篝火を挙げて迎え撃て!」
 具足など身に着けている暇はない。景親(かげちか)は刀を引き抜くと闇に紛れる義兵に向かって突進した。それを合図に日本兵は雄叫びを挙げた。
 戦慣れしている日本兵の反撃は凄まじい。
 鉄砲隊の銃声が鳴り響けば孫仁甲(ソン イン ガプ)の義兵部隊はたちまち散り散りになり、あれよあれよと戦況が逆転した。このころの朝鮮にはまだ火縄銃が存在していないのである。
 景親(かげちか)は逃げ惑う義兵の中にひときわ目立つ鎧を身に付けた武将を見つけた。それが孫仁甲(ソン イン ガプ)であったことは言うまでもない。すかさず討ち取ろうと駆け寄ったところが、敵が放った一本の矢が彼の足に突き刺さった。
 「景親(かげちか)様!」
 「わしはいいから奴を討て!」
 ところが義兵の退却も早かった──。
 この夜、孫仁甲(ソン イン ガプ)こそ取り逃がしたものの、景親(かげちか)は数百名の義兵を討ち取る武功を挙げた。
 これまでさほどの犠牲を払うことなく進軍を進めていた日本軍にとっては、朝鮮側の義兵の出現は驚きだった。その報せを受けた毛利輝元はすぐさま景親(かげちか)に見舞いの書状と銀子五枚の恩賞を与えて労うとともにその負傷を心配し、穂井田元清(ほ い だ もと きよ)(毛利元就の四男)も書状で負傷を心配するとともに、彼の陣替えを訴え養生できるよう輝元に願い出た。
 ところが景親(かげちか)孫仁甲(ソン イン ガプ)の存在を警戒し、前線から身を引くことはなかった。
 この後、朝鮮側の義勇兵たちの蜂起は同時多発的に各地へと波及し、豊臣軍を苦しめることになる。
 
 六番隊に属していた毛利輝元は、十日になって東萊(トン ネ)から玄風(ヒョン ブン)に進んで十八日には星州(ソン ジュ)城に入った。この後、七番隊に再編成されて星州(ソン ジュ)城を拠点に慶尚道(キョン サン どう)支配を命じられ、道内に次々と陣を張り巡らせ日本軍の連絡線構築と守備の強化に尽力していく。この段階で日本軍は、釜山から漢城府の街道を全ておさえた。それに伴なって食料の経由地点である茂渓(マウ シー)はますます重要になっていた。
 ところが孫仁甲(ソン イン ガプ)はたった一度の襲撃で終わる男でない。その後もたびたび落東江(ナッ ドン ガン)に舟で出没しては、荷を運ぶ倭船を襲撃して日本側に大きな打撃を与えたのである。
 それにつけてもその舟と馬を使った巧みな戦術は敵ながらあっぱれと言う他ない。瀬戸内で船による戦闘術を身に付けた景親(かげちか)にして地団駄(じ だん だ)踏むほどなのだ。
 景親(かげちか)はかつて神武天皇東征以前、新羅から日本に渡った馬津(マー ジン)族の話を思い出している。彼らは舟による水運と馬による陸運とを巧みに使いこなし、馬津という取り次ぎ港を設置して道なき道や沼地を難なく荷を運搬する技術を持っていたことを。
 「もしや奴はその末裔か? 舟には舟で対抗できるが、馬を使われたら(すべ)がない……否、この周辺は沼地だらけだ。むしろ馬を使わせて沼に引き込み動きを封じる手もあるな……」
 景親(かげちか)の策が熟した頃はすでに六月の末だった。彼は前回の襲撃で負った手傷の治りが遅いのを気にしながら、
 「孫仁甲(ソン イン ガプ)め、次こそお前を葬ってやる」
 とほくそ笑む。
 その決戦の日は間もなく訪れた。落東江(ナッ ドン ガン)を航海中の日本の船団が急襲を受けたとの報告が飛び込んだのだ。
 「かかったな!」
 景親(かげちか)は片足を引きずって陣屋を飛び出し舟に飛び乗った。果たして襲撃現場に到着すれば、日本の輸送船はことごとく燃やされ、あるいは撃沈せられ、唯一免れた数隻の舟を追跡する朝鮮の舟をとらえたのである。
 「これは朝鮮船団と村上船団の戦いじゃ! 孫仁甲(ソン イン ガプ)め、覚悟せい!」
 逃げる倭船を操るのは景親(かげちか)の片腕とも言える家臣の水沼権平(ごん べい)という男である。幼い頃より瀬戸内の渦潮の中で航海術を競い合った佳きライバルでもあった。それは景親(かげちか)が仕掛けた罠であり、輸送船はおとりで荷は積んでいない。孫仁甲(ソン イン ガプ)にわざと襲撃させて、逃げる素振りの水沼権平(ごん べい)を追撃させ、その反対側から挟み撃ちしようという作戦である。
 いち早くこれに気付いた孫仁甲(ソン イン ガプ)は、慌てて近くの馬を置いた対岸へと舟を寄せたが、手綱を握った時には上流側の景親(かげちか)と下流側の水沼とに挟まれた。案の定逃げ場を失い、河を背にして馬を走らせたが、そこは果てしない沼地で、馬は足をとられて動きを封じられた。
 景親(かげちか)孫仁甲(ソン イン ガプ)に詰め寄った。
 「残念だったな! しかしなかなかの舟使いであった、褒めてやるわ!」
 すると孫仁甲(ソン イン ガプ)は異国の言葉で、
 「お前たちの目的は何だ? 何故に我が国を侵略するか?」
 と言ったが、無論意味は通じない。
 「その遺言、すまぬが意味がわからない。このままあの世に送ってやるが悪く思うな」
 孫仁甲(ソン イン ガプ)はさらに続けた。
 「お前たちの統領に伝えよ、この国の民はけっしてお前たちを許さないとな……」
 「御免!」
 振り上げた景親(かげちか)の刀が彼の首を落した。
 孫仁甲(ソン イン ガプ)はけっしてその地にゆかりが深かったわけでないが、その死は義兵たちに憤りの衝撃を与えた。鄭仁弘(ジョン イン ホン)にとってもその死は大きな痛手であったはずだが、朝鮮側にとっては引く事のできない戦いなのだ。戦争はいつも必ず蹂躙する側が一〇〇パーセント悪なのである。鄭仁弘(ジョン イン ホン)は彼に換わる人材を求め、ついに郭再祐(クァク ジェ ウ)金命元(キム ミョン ウォン)といった後の戦いで猛烈な奮戦を遂げる武将を得る。
 そして鄭仁弘(ジョン イン ホン)のもとに数千という義勇兵が陸続と集まっていく。



 星州(ソン ジュ)城の毛利輝元は不満だった。
 各方面での戦勝報告が伝えられるたび、その表情は暗くなるようにも見えた。
 彼が支配する慶尚道(キョン サン どう)だけでも先に記した茂渓(マウ シー)の戦い≠フほか、同じころ毛利家臣の吉川広家(きっ かわ ひろ いえ)も戦闘を経験していたし、八月には同じ慶尚道(キョン サン どう)を護る細川忠興(ほそ かわ ただ おき)ら一万二〇〇〇の兵が善山(コプ チャン)仁同(ジン ドウ)で義兵と衝突した。いずれも日本軍優勢あるいは勝利の戦いではあったが、輝元は朝鮮出兵自体に悲観していた。
 このところ景親(かげちか)は、星州(ソン ジュ)城近くの両班(ヤン バン)韓屋(ハ ノク)(家)に身を置いて、足の外傷を癒す休養を取っている。茂渓(マウ シー)で射られた足の傷口が()み、もはや杖を突かなければ歩けないほど悪化していたのだ。輝元はそんな彼を呼び寄せては愚痴を吐くのであった。
 「足の具合はどうか?」
 「両班(ヤン バン)の家の女がいたく従順で、おかげで少しずつですが歩けるようになってきました」
 日本兵の進軍で都市に住んでいた中には逃げ出す者もいたが、多くは行く宛もなくそのまま家に留まっている。景親(かげちか)が身を置く韓屋(ハ ノク)もそうしたうちの一つで、家の女を捕虜として捕えようとしたところ、女は痛々しい足の傷を哀れみの目で見て、一室を療養にと提供してくれたのだ。その女の名を()宝春(プウ チン)と言った。
 「いい女か? すでに手をつけたのであろうな?」
 「冗談はおやめ下さい、落ちぶれたとはいえ海賊の誇りは捨てておりません! それにあの女は二人の子持ちですぞ。()如芬(ヨー ファン)と申す上の子はまだ三、四歳で、下の子などはよちよち歩きの赤ん坊です。おまけに()如芬(ヨー ファン)の方はひどく私に(なつ)いて、おかげで朝鮮語も少しばかり話せるようになりましたわい」
 「まあ夫の方はどうせ義軍に参加していることだろうし、いつ本性を見せるか知れん。気を付けるに越したことはない」
 「それがどうもそうとは言い切れんのです。この国の仕組みがよく理解できませんが、この国では女は男の奴隷の如き仕打ちを受けているようでございます。我が国の天照大御神(あま てらす おお み かみ)は女の神なのだとか、神功皇后(じん ぐう こう ごう)は女の身でありながら海を渡り新羅(しらぎ)言向(こと む)けたのだとか、巴御前(ともえ ご ぜん)の武勇の話などしましたら目を輝かせてそんな国があるのか。行ってみたい≠ニまんざらでないのです」
 輝元は鼻で笑って別の話を持ち出した。
 「ところで太閤(たい こう)(豊臣秀吉)様はどうもわしらをこの国に永住させようとしているようじゃ」
 景親(かげちか)は小さく「はあ」と答えた。
 「太閤様はこの国に今の十倍の領地をくれると言う。中には魅力を感じる者もおるようだが、この国はだだっ広いだけで土地は痩せ、そんなもん頂戴したところで統治するのも難しかろう。お前ならどうする?」
 輝元はため息混じりに顔の周りを飛び回るハエを払った。
 「もともと私は能島を離れるつもりはありませんでしたが、筑前と筑後に六〇〇〇石ばかりの領地をいただき、今はそれでもなんとかやっております。人間、住めば都とはよく言ったものですな」
 「ならばもらった土地はお前にやってもいいから、わしの替わりに住むとよい」
 「そ、それはちょっと……」
 「ほれみろ。第一、言葉も通じんではないか。ちょっとした伝令を頼むにもいちいち通訳が必要ではかなわん。この上唐入(から い)り≠果たしたらどうだ? (みん)は朝鮮よりはるかに広い。いよいよ国の統治はおぼつかん」
 輝元はまたハエを払って「ええい!」と言った。
 「しかし朝鮮人は弱い。明はもっと弱いと聞いております。案外言う事を聞くかも知れませんぞ」
 「十万の朝鮮兵など五十人いれば討ち取れる。しかし面倒なことに奴らはすぐ山に逃げ込む。そして少人数でいるところを弓で狙って来るからなかなか厄介(やっ かい)な相手であるぞ。このうえ今建設中の無数の城を防御しなければならないとなると、この戦、長期化すると見てよいな」
 「さようでございますなあ、敵もバカではありませんから。中には孫仁甲(ソン イン ガプ)のようにあっぱれな武将もおります。あなどったらいけません。それに心配なのは兵糧(ひょう ろう)です。各地に侵入した兵が現地から食を奪って朝鮮人の間で飢餓(き が)が広がっていると聞きます。そんなことをしていたらいずれ農民一揆が起こるのも必然。それだけは食い止めなければなりますまい」
 輝元はまた鼻の頭にとまろうとするハエを払って、
 「それにしてもこの国はハエが多くて困る。水はけも悪いうえに、やたらと牛が多い。こんな劣悪な環境ではわしの健康もじきに害されるわい」
 とひとつ咳をして、今度は酒の肴にたかるハエを払ってまた不機嫌な声を挙げた。
 「ところで朝鮮水軍の話は聞いたか?」
 と続ける。
 陸軍の快進撃の報が入る一方で、水軍の戦報はいまひとつ奮わないことに一抹の不安を感じているのだ。現に五月だけでも玉浦(オク ポ)赤珍浦(チョッ チン ポ)泗川(サ チョン)≠ナの海戦で豊臣船団は敗北を喫していたし、六月に入って唐浦(タン ポ)唐項浦(タン ハン ポ)栗浦(ユイ ポ)≠ナも敗北、更には七月頭には閑山島(ハン サン ド)海戦≠ノおいて楼船七隻、大船二十八隻、中船十七隻、小船七隻が破壊あるいは拿捕(だ ほ)され、指揮を執った脇坂安治などはわずか十隻を率いて辛うじて逃げ延びたという報が入ったばかりだった。
 「船についてはそちに聞くのが一番。これをどう見る?」
 と輝元は聞く。
 「もともと日本の船は補給が主な目的で海戦は想定していません。加えて暗礁(あん しょう)や波の性質など海域の利を全くもって知りません。これだけ取っても朝鮮側に有利なのは明らかです。それに──」
 景親(かげちか)は言葉を止めた。
 「それに……どうした? 申してみよ」
 「どうもただならぬ海戦上手の武将の匂いがします」
 その武将は李舜臣(イ スン シン)に相違あるまい。日本船団との海戦で幾たびもの勝利を挙げた朝鮮の英雄である。現に先の海戦で豊臣水軍をまったく寄せ付けない指揮を執っていたのも彼だった。しかしこの時はまだ日本側はその存在を知らない。
 「ほう……、いよいよそちの出番かな?」
 「私などとてもとても。瀬戸内の海ならともかく、こちらの海の(くせ)など知る由もありません。戦う前から敗けですな」
 「制海権を握れんでは日本に勝ち目はないではないか。補給路が確保できんでは日本軍は飢えて死ぬより仕方あるまい」
 「時間の問題かと思われます……」
 二人は顔を見合わせて大きなため息を落した。
 そうこうしているうちに二番隊加藤清正が咸鏡道(ハム ギョン ド)会寧(フェ リョン)宣祖(ソン ジョ)の二人の王子を捕縛したという報が届く。すでに一番隊小西行長は宣祖(ソン ジョ)のいた平壌(ピョン ヤン)を占拠しており、宣祖(ソン ジョ)の援軍要請を受けて動いた明軍を撃退したのもこの頃である。
 陸における日本軍の快進撃は続いているように見えたが、この頃に至っていよいよ勢いが薄れはじめた。兵糧不足に陥った加藤清正は撤退を決め、これ以降は内政に力を注ぐことになり、平壌(ピョン ヤン)の小西行長は明との講和交渉に乗り出す。いずれも長期戦は不利と判断した表われだった。
 
 景親(かげちか)の療養する韓屋(ハ ノク)の建物の幅といったら九十九間(約一八〇メートル)あった。これは王族でない限り一〇〇間以上の建物を造ることを禁じていた朝鮮王朝の、上層階級者が造ることのできる制限いっぱいの幅であり、両班(ヤン バン)として建設可能な最大邸宅である。
 星州(ソン ジュ)には星州李氏(ソン ジョ イー シー)≠ニ呼ばれる一族が実権を握っていた。始祖の李純由(イ スン ギョン)は李氏朝鮮が成立する以前の新羅(しら ぎ)の宰相だったというからその歴史は古く、十二代目の李長庚(イ チャン ビョン)は高麗時代に生き、有能な五人の息子の功績により時の忠烈王(ちゅう れつ おう)(高麗王)から星州(ソン ジュ)を与えられてよりこの地に住むようになった。つまり景親の世話をする宝春(プウ チン)は、両班(ヤン バン)の中でも最上位に当たる星州李氏(ソン ジョ イー シー)≠フ奥方というわけらしい。ちなみに壬辰倭乱(じん しん わ らん)(秀吉の朝鮮出兵の朝鮮での言い方)の碧蹄館(ビョク ジェ グァン)の戦い(明との平壌(ピョン チャン)争奪戦)≠ナ大活躍する明の将軍李如松(イ ヨ ソン)は、中国に帰化した星州李氏(ソン ジョ イー シー)の末裔である。
 それはともあれ、立派な家柄の奥方の割に宝春(プウ チン)の生活ぶりはあまりに質素だった。豪華な作りの建物からは想像できないほどの質素な母屋で生活し、景親(かげちか)には留守中の夫が使う豪勢な部屋をあてがったのである。
 そこは女子供がやたらに入れない風習があるようだったが、物珍しそうに部屋を覗きに来る小さな如芬(ヨー ファン)があまり可愛かったので、景親(かげちか)は手招きで中に引き入れ一緒にユンノリ(双六)などして遊んだり、横笛を吹いてやったりしているうち、すっかり友だちになってしまった。
 「おじさんは悪い人なの?」
 あるとき如芬(ヨー ファン)がそう聞いた。何カ月もその国に身を置けば、簡単な言葉くらい話せるようになるものだ。
 「どうしてだい?」
 「だってママがそう言ってるもん。倭国の人はみんな悪者だってさ」
 「如芬(ヨー ファン)はどう思う? おじさんが悪者に見えるかい?」
 「わかんない。でもぜんぜん怖くない!」
 景親(かげちか)は高笑した。如芬(ヨー ファン)は興味深そうにまた聞く。
 「私たちを倭の国へさらって行くの? だってみんな言ってるよ」
 何の含みもない純粋な質問に、景親(かげちか)は急に悲しくなった。
 確かに日本兵の中には朝鮮の女子どもや陶芸などの様々な技術を持った職人たちを拉致(ら ち)し、本国に連れ還る者も多くいた。戦は国家間の問題であるに関わらず、それを私物化し、戦況が優位であるのに乗じてどさくさ紛れに人の道を平気で犯す見苦しい行為を人間の(さが)≠セと言って納得することもできなかった。全てが豊臣秀吉という一人の人間から始まった蹂躙(じゅう りん)の欲望だとするなら、それに(あらが)うことができない己の力のなさを嘆くのである。
 「おじさんはそんなことはしないよ……」
 その言葉は弱々しくあったが景親(かげちか)の本心だった。
 「よかった!」
 如芬(ヨー ファン)は彼に抱きついてはしゃいだ。
 
 星州(ソン ジュ)城は最初小西行長が陥落させてより日本軍が占領し、その後毛利輝元が入って漢城府(ハン ソン ブ)への経由地として、また慶尚道(キョン サン ド)一帯の一大拠点として、あるいは主要な補給路だった大邱(テグ)を防御するための地点であり、このときすでに二万を越す兵が駐屯する要衝だった。朝鮮軍にしてみれば、星州(ソン ジュ)城の奪還こそが日本軍の物資輸送を断つための至上命令であり、そのためには輝元を孤立させる必要があると考えた。
 景親(かげちか)の足の怪我も治りかけた八月の中旬を過ぎた頃である。俄かに朝鮮の義勇兵が蜂起した。
 このとき輝元は小早川隆景との談合のため開寧(ケ ニョン)にいる。星州(ソン ジュ)城は毛利家臣桂元綱(かつら もと つな)が城代を務めており、義兵は城主不在のこの隙を突こうと企てたのである。
 金命元(キム ミョン ウォン)を得た鄭仁弘(ジョン イン ホン)のもとには二万もの義兵が結集していた。それは星州(ソン ジュ)城の日本兵と互角に戦える数である。義兵が城を包囲しようとしていることを知った桂元綱(かつら もと つな)は、慌てて輝元のいる開寧(ケ ニョン)へ援軍要請の遣いを走らせた。
 ところが怪我の療養中の景親(かげちか)はニヤリと笑んで、
 「鄭仁弘(ジョン イン ホン)め、ついに来たか!」
 と余裕綽々の声を挙げたのだった。
 その名は彼にとってはある意味宿敵だった。先の茂渓(マウ シー)の戦い≠ナ直接対決した孫仁甲(ソン イン ガプ)を指揮していた人物こそ鄭仁弘(ジョン イン ホン)だったからである。そして、
 「奴らの戦い方は既にお見通しだ。二万の義兵と言ったところで所詮は戦の経験のない医者とか文人などの民の寄せ集めだ、恐れるに足りん。どうせ奇襲しか能のない奴らだ。ならば先にこちらから奇襲を仕掛けてしまえ」
 そう言うと、送られた援軍を率いた桂元綱(かつら もと つな)を、包囲網の形成を準備する鄭仁弘(ジョン イン ホン)の義兵の駐屯地に向かわせ、その後方から奇襲攻撃を開始した。
 計画をあっけなく打ち砕かれた義兵軍はいとも容易く総崩れ。何の抵抗もできずに後退したが、鄭仁弘(ジョン イン ホン)金命元(キム ミョン ウォン)はそれ如きで諦める男ではなかった。九月に入って再び星州(ソン ジュ)城包囲を試みる。
 ところが毛利軍はこの計画もまた準備中のうちに撃退し、しかもこのときは星州(ソン ジュ)城の西に位置する知礼(チ レ)城まで落としたのである。
 一度ならずも二度までも、星州(ソン ジュ)城攻略に失敗した鄭仁弘(ジョン イン ホン)の怒髪は天を突いた。次の戦いに全てを懸ける決意で作戦を練り始める。
 

 
 朝鮮半島は日本とほぼ同じ緯度にある。
 だから四季もはっきりしており、旧暦の十二月と言えば雪も降ったし飲み水も凍った。
 毎朝の釜戸の火おこしは世話になる景親(かげちか)のせめてもの感謝のしるしで、その都度拒む宝春(プウ チン)に「よいよい、拙者がやる」と言っては高笑いしたものだった。
 足の傷もすっかり癒え、もう走ることもできるようになった彼は、訛った身体をならすために毎日家の回りを何周も走って体力の増強に忙しい。すると、
 「おじちゃん、投壺(とう こ)やろ!」
 無邪気な如芬(ヨー ファン)が呼び止めた。投壺(とう こ)≠ニは壺に細長い棒を投げ入れる投げ矢遊びである。
 「よかろう! でも敗けて泣くなよ」
 「泣かないもん!」
 第二次星州(ソン ジュ)城合戦≠フ騒ぎから三カ月が過ぎようとしていた韓屋(ハ ノク)は、戦闘状態が嘘のような穏やかな時間が流れていた。
 そのとき、
 「景親(かげちか)殿! 至急城に参られよ!」
 星州(ソン ジュ)城からの使者が壺に向かって棒を投げようとしていた景親(かげちか)の動作を止めた。
 「義兵の奴らが城の周りを包囲しようと続々と集結している!」
 「なんだと? で数は?」
 「数千? いやそれ以上と思われる。すぐさま戦闘準備じゃ!」
 「諦めの悪い奴らじゃ」と思いながら景親(かげちか)は、如芬(ヨー ファン)の「どこ行くの?」という言葉を背にして走り出した。
 この第三次星州(ソン ジュ)城の戦い≠ヘ、一次、二次と比べて状況が少し違っていた。毛利輝元が開寧(ケ ニョン)から戻っていない点では同じだが、慶尚道(キョン サン ド)の西隣全羅道(チョル ラ ド)の東側にいた義兵が鄭仁弘(ジョン イン ホン)のもとに集結した朝鮮兵の数が、輝元軍に勝っていたのである。つまり輝元軍は慶尚道(キョン サン ド)全羅道(チョル ラ ド)の連合軍を相手に戦うという構図が出来あがっていた。戦闘意識においても連勝続きの油断が露骨に出ていた輝元軍は弱化し、逆に朝鮮義兵軍側は強化していた。特に全羅道(チョル ラ ド)に派遣された明の武将張潤(チョウ ジュン)は志気が高く、義兵全軍を鼓舞して日本を殲滅させんと躍起になっていた。
 元号が天正≠ゥら文禄≠ノ改元されるのとほぼ時を同じくした十二月七日、第三次星州(ソン ジュ)城の戦い≠フ火ぶたが切って落とされた。
 ところが朝鮮側はなかなか攻撃を仕掛けてこない。むやみに攻め込んでも火縄銃の犠牲になるのは明白だったし、ならば城への供給を断って飢餓状態に追い込もうという魂胆だった。
 季節は冬──。
 輝元軍にとって籠城戦は明らかに不利である。
 「このままでは(らち)があかんぞ」
 小競り合いの攻防戦による到着状態が四、五日も続くと、桂元綱(かつら もと つな)がしびれを切らした様子でそう言った。
 「これ以上動きを封じられていたら、朝鮮全土への兵糧供給に影響が出るぞ」
 と村上元吉も穂井田元清(ほ い だ もと きよ)も言う。それは日本軍にとっての急所とも言えた。
 「ならば討って出るしかなかろう!」
 この景親(かげちか)の提案は道理であろう。こうして十三日、野戦に切り替えた輝元軍は一斉に城を飛び出したのだ。
 ひとたび覚悟を決めた日本軍ははやり強かった──。
 行く手を塞ぐ義兵の塊に弓矢と火縄銃を撃ち放ち、守りが薄くなったところを騎馬兵が突っ込み蹴散らし、そこへ歩兵が飛び込み鎗や刀を振り回す戦法は、数で勝った朝鮮兵たちを次々に斬り捨てた。
 そんなことを繰り返しながら、騎馬に乗った景親(かげちか)も自ら敵陣に飛び込んで声を張り上げているうちに、ついに朝鮮義兵たちは持ちこたえられず、次第に退散してその数を減らした。
 「あまり深追いするな! (わな)が仕掛けられているかも知れん。一旦引くぞ!」
 景親(かげちか)がそう伝令を挙げた時だった。どこからともなく飛んで来た矢が彼の馬に突き刺さり、跳ね上がった(くら)から地面に転げ落ちた。しかも運悪く、下に転がる(しかばね)が握っていた剣が腕に突き刺さり、そこから大量の血が吹き出した。
 「村上様、大丈夫ですか!」
 一人の歩兵が手を差し伸べた。
 「よい、早く引け! 自力で戻れる!」
 血を滴らせながら城へと走る彼の脳裏に、ふと如芬(ヨー ファン)のことが思い浮かんだ。騒ぎに乗じて朝鮮兵に連れて行かれるのではないかという不安に捕らわれ、帰りがけの韓屋(ハ ノク)に寄ったのである。
 それは妙な感情だった。理性では「もともと朝鮮の国の人間なのだからその方が幸せだろう」と言っているのに、その奥では「奪われてたまるか!」という本能が早足にするのだ。それは、このときまだ子のなかった彼にして如芬(ヨー ファン)は我が娘のように思っていたことと、怪我の治療に献身的な宝春(プウ チン)に対する密かな恋心だったかも知れない。とにかく彼は走った。
 韓屋(ハ ノク)の門が目に飛び込んだ時、そこにいたのは一人の騎馬にまたがった武将と、それを護衛する数人の朝鮮義兵の姿だった。ところが門に出ていた宝春(プウ チン)は、その武将となにやら口争いをしている様子で、すかさず景親(かげちか)は刀を引き抜き近づいた。
 「何をしておる?」
 彼に気付いた数人の義兵が景親(かげちか)に襲い掛かったが、景親(かげちか)はそれを一人二人と難なく斬り捨て、やがて最後に残った騎馬の武将に(やおば)を向け、
 「名を申せ」
 と静かに言った。騎馬にまたがった武将も必死だったであろう。突然現れた倭の鎧姿に怯んだ様子で、
 「オレは星州(ソン ジュ)李氏(イ シ)の惣領李正日(イ ジョン イル)だ。ここはオレの家だ。そしてこれはオレの女だ。土足で上がり込みやがって! 倭賊の奴らは決して許さん!」
 李正日(イ ジョン イル)と名乗った男はそう叫んだと思うと馬上から剣を振り下ろした。
 「やめて!」
 と叫んだ宝春(プウ チン)の奇声は、景親(かげちか)の日本刀と正日(ジョン イル)の朝鮮刀とがかち合った金属音でかき消された。しかし正日(ジョン イル)の刀の方は(もろ)くも折れて、
 「御免!」
 と叫んだ景親(かげちか)は、馬上から彼を引きずり下ろしてそのまま刀を喉元に突き刺した。
 宝春(プウ チン)は夫に駆け寄って、憎しみの目で景親(かげちか)を睨みつけた。やがて外の異変に気付いた如芬(ヨー ファン)が姿を現したときは、景親(かげちか)は城へ向かって歩いていた。次の瞬間、鎧の背中を襲う如芬(ヨー ファン)の泣きじゃくった声が響いた。
 「ばかばかばか! 死んじゃえ!」
 景親(かげちか)は振り向くこともできずにそのまま前へと歩を進めた。
 こうして三度に及んだ星州(ソン ジュ)城の戦い≠セが、最後の第三次の戦いは輝元軍が辛くも勝利をおさめた形である。しかし日本側が被った被害も朝鮮側に匹敵するほど甚大で、この後、朝鮮義兵は次なる戦いの舞台となる碧蹄館(ビョク ジェ グァン)≠ヨと移っていく──。
 韓屋(ハ ノク)に戻った景親(かげちか)如芬(ヨー ファン)が迎えたが、父が死んで泣き腫らした目は痛々しく、景親(かげちか)は思わず目をそらした。父を殺した張本人が彼であることを彼女は知らない。宝春(プウ チン)はその事実をまだ話していないのだろう、(さげす)んだ瞳のまま景親(かげちか)の腕の刀傷に気付き、
 「また怪我をしたのですか、見せて」
 と着物を脱がすと、何も言わずに薬を塗って傷口を布で巻いたのである。そして、
 「すまぬ……」
 と言った景親(かげちか)に何も答えず、そのまま母屋の中に入ってしまった。
 如芬(ヨー ファン)は小さな声で、
 「あのね、お父さんが死んじゃったの……」
 と言った。
 その無邪気な言葉は景親(かげちか)を苦しめた。韓屋(ハ ノク)に戻ればこんなことになるのは分かっていたはずだった。しかし苦しみのその天罰を受けるのは覚悟の上で戻ったのだ。そして異国の地で初めて得た心の友でもある如芬(ヨー ファン)から罵声を浴びせられ、憎まれようとして再びやって来たのだ。
 如芬(ヨー ファン)は泣きながら、
 「お父さんは知らない倭国の人に殺されたの……」
 と言った。しかし、
 「おじさんが()ったんだ──」
 という真実は、けっして口から出ることはなかった。否、言えなかったのだ。
 景親(かげちか)は、
 「ごめんな……」
 と言って小さな身体を抱きしめるのが精一杯だった。
 以来、景親(かげちか)が吹く心の慰みの横笛の音は、どことなく物悲しさが漂っていた。
 

 
 星州(ソン ジュ)城の日本兵は最低限を残してみな平壌へと向かう。明の勇将李如松(り じょ しょう)が総勢四万三千の兵を率いて小西行長が占拠する平壌奪還に動き出したのだ。
 「わしも行く!」
 と景親(かげちか)は名乗りをあげたが、
 「その怪我でどうやって戦うのだ。足手まといだ」
 と一蹴(いっ しゅう)されて、泣く泣く例の韓屋(ハ ノク)で治療に専念することになったのだった。
 年が明けて一月──。
 平壌を占拠するの小西行長の軍勢は李如松(イ ヨ ソン)の急襲を受けて落城寸前に追い込まれた。ついに撤退を余儀なくされた行長は平壌城を明け渡して退却する。
 敗走する行長軍を李如松(イ ヨ ソン)は追撃したが、漢城への途中の碧蹄館(ビョク ジェ グァン)≠ナ小早川隆景と立花宗茂らの軍と衝突し、敗れた李如松(イ ヨ ソン)は平壌に撤退した。これが朝鮮出兵における大戦碧蹄館の戦い≠ナあるが、このとき長引く戦の兵糧不足で両軍はともに疲れ切っていた。
 泥沼化した戦争はやがて日本と明との間で講和が持ち出された。その結果、四月に入って「日本軍は朝鮮王子とその従者を返還する」「日本軍は釜山まで後退する」「明軍は開城まで後退する」「明から日本に使節を派遣する」の条件をもって合意がなされ、全羅道(チョル ラ ド)の一部地域を除いて朝鮮にいた諸大名達は次々と日本に引き揚げを開始した。
 結果的に毛利輝元も星州(ソン ジュ)城を放棄せざるを得なくなるのだが、このときの彼の判断は早かった。
 「この戦、どうも勝ち目が薄い。こんな所にいつまでもいられん。星州(ソン ジュ)城から撤退するぞ!」
 と言ったのが碧蹄館(ビョク ジェ グァン)の戦い≠ェ始まるより数日前の正月十五日のこと──というより慣れない異国生活で体調を崩し、彼は一刻も早く日本に帰りたかった。
 輝元が星州(ソン ジュ)城から撤退したことにより、朝鮮側は慶尚道(キョン サン ド)落東江(ナッ ドン ガン)西側地域を取り戻すことになる。つまりそれは日本軍の主要路が遮断されたも同然だった。この意味において星州(ソン ジュ)城の戦い≠ヘ、秀吉の文禄の役≠フ行方を決めた重大な戦だったと言える。
 これに伴なって景親(かげちか)如芬(ヨー ファン)との別れの時を迎えなければならなかった──。
 先の戦いで負傷した腕は、献身的な宝春(プウ チン)の看病のおかげですっかり癒えた。
 「もう会う事はないだろうが世話になった……これを──」
 景親(かげちか)は日頃から心の慰みに吹いていた横笛を宝春(プウ チン)に手渡したのだった。
 「これは……?」
 「わしが初陣の際、父から授かった日本の横笛だ。何の礼もできんが、これで勘弁してくれ」
 すると傍らにいた如芬(ヨー ファン)が泣きそうな目をして、
 「おじちゃん、倭の国へ行っちゃうの?」
 と聞いた。朝鮮を去るのに何が最も悲しいかと問えば、我が娘とも思える彼女との訣別なのだ。
 「戦争とはいえ、日本はこの国に許されない無礼を働いてしまった……」
 景親(かげちか)は小さな如芬(ヨー ファン)の身体を抱き上げて、
 「許しておくれ……」
 と呟いた。それは彼女の父親を殺した償いの言葉であった。
 「やだ、おじちゃん、行かないで。ここで一緒に暮らそう?」

 「本当にごめんな……」
 景親(かげちか)如芬(ヨー ファン)を下ろし、荷物をまとめた風呂敷を持ち上げた。その時だった。
 「お待ち下さい!」
 彼を引き止めた宝春(プウ チン)が、手にした横笛を景親(かげちか)に返してこう言ったのは──。
 「どれだけ大事な笛か知りませんが、私と二人のこの娘は、あなた方が破壊したこの国でこれからも生きて行かねばならないのです。こんな物で誤魔化さないで下さい。女手一つでこの国で生きていく辛さを知っていますか? しかもその夫はあなたが!──」
 ここまで言って宝春(プウ チン)は言葉を止め如芬(ヨー ファン)に視線を送った。それは景親(かげちか)如芬(ヨー ファン)にもっとも知られたくない真実であり、同時にもっとも恐れていた己に向けられた刃であった。
 しかし彼女はその真実を明かさないまま話を続けた。
 「私はもともとこの家で水汲みをしていた雇われ奴婢(ぬ ひ)でした。運よく夫に見初められその妻になりましたが、実際の生活は奴婢よりましというだけでけっして幸せとは言えませんでした。この国では母親の身分が賤しいと、夫の身分がいくら高くても子は賤しい身分のままなのです。それは王の妻になっても同じなのです。夫を失ったこの私に、この国でどうやって生きろというのでしょう?」
 景親は言葉を失った。そして久しく眠っていた海賊の血がよみがえってくるのを覚えた。
 「いっそ私を倭の国にさらって下さい。あの巴御前や神功皇后の住むと言う……」
 景親(かげちか)は何も言わずに宝春(プウ チン)の身体をひょいと担ぎ上げ肩に抱えると、如芬(ヨー ファン)と下の娘の手を引いて日本へと引き揚げる船に乗り込んだ。
 

 
 秀吉の唐入(から い)り≠フ野望は消えていない。
 明との和平交渉が決裂すると、慶長二年(一五九七)になって再び朝鮮への派兵を開始する。
 その間、景親(かげちか)の文禄の役≠ナの功績を高く評価した細川忠興(ほそ かわ ただ おき)は、
 「豊前(ぶ ぜん)に一万五千石を与える」
 と言って家臣に誘い、池田輝政(いけ だ てる まさ)もまた、
 「三万石でどうじゃ?」
 と誘ったが、景親はいずれも、
 「私は毛利元就公以来、毛利家には懇意にしてもらっているでなあ」
 と言って辞退した。
 もともと小早川家の家臣として筑前と筑後に領地を持っていたが、小早川隆景の隠居後は小早川秀秋に仕え、慶長二年(一八九七)に隆景が没すると、自ら辞して屋代島(や しろ じま)周防大島(すおうおおしま))に移り住んだ。その地で再び毛利輝元に招かれ毛利家の家臣に戻ったという経緯がある。
 このころ朝鮮から連れ帰った如芬(ヨー ファン)は十を数える少女に成長し、妹の方も今でいえば小学校の低学年くらいの童女になっている。そして母親の宝春(プウ チン)はといえば、父の村上武吉(たけ よし)がその容姿をすっかり気に入り、いつの間にか(めかけ)として抱え込んでしまっていた。
 「まったく父上にも呆れたものだ……」
 とぼやきながら、彼は正妻平岡通倚(ひら おか みち より)の妹との間に嫡子(ちゃく し)八助をもうけていた。さらにその下に五人の女の子をもうけるが、如芬(ヨー ファン)と妹はそれらの子の面倒をよく見、実の姉さながらの生活を送っている。
 二度目の朝鮮出兵(慶長の役)にあたり、当初は出兵を免れていたものの、再びの出動が命じられたのは慶長三年四月のことだった。
 「小早川家の四番隊として、八月から十二月まで朝鮮の西生浦(ソ セン ポ)で在番警備をせよ」
 と言う。
 「おい如芬(ヨー ファン)、わしはまた朝鮮へ行くことになったが、お前も行くか?」
 出発を間近に控えたある日、景親は冗談交じりに如芬(ヨー ファン)にそう聞いた。
 「そうやっておじ様はまた意地悪をおっしゃいます。戦争は嫌いでございます。どうぞおじ様だけで」
 すっかり日本語も上達した彼女の表情には、どことなし女性の色香が漂いはじめている。
 「お前の生まれ故郷ではないか。帰りたくないのかい?」
 如芬(ヨー ファン)は即座に「帰りたくないわ」と笑った。
 ところが──
 それから間もなく、あの日本が生んだ怪物豊臣秀吉が死んだ──。時に慶長二年八月十八日のことである。ここにおいて五年間にわたって繰り広げられてきた朝鮮の悲劇はようやく終焉を迎える。
 秀吉の没後、景親(かげちか)の兄村上元吉(もと よし)は毛利輝元から四千七百石を与えられ父の武吉(たけ よし)を伴なって安芸国の竹原へと移って行く。また景親(かげちか)も安芸国の蒲刈(かま がり)島に千石の地を賜った。
 関ケ原の戦いでは兄弟ともに毛利水軍を率いて蜂須賀氏の所領阿波国の猪山城を降伏せしめたが、兄元吉はその戦いの中で戦死した。そして西軍が敗れると毛利家は防長二ケ国への移封となり、その後景親(かげちか)は毛利家の船手頭となって屋代島で父とひっそり暮らす。そして輝元が剃髪(てい はつ)すると、景親(かげちか)もまた剃髪して『如真』を名乗った。
 このとき父武吉(たけ よし)(よわい)六十七だった。
 かつての海賊の風貌はすっかり失われ、身体も萎えた。
 その老体を労わるように、よく面倒を見たのが宝春(プウ チン)である。それはかつて景親(かげちか)が朝鮮で怪我をしたときとなんら変わらぬ献身ぶりで、武吉は「お宝様、お宝様」と言っては寵愛(ちょう あい)したのである。そんな武吉(たけ よし)も慶長九年(一六〇四)にこの世を去る。七十二年の生涯だった。
 景親(かげちか)はすっかり乙女に成長した如芬(ヨー ファン)を伴なって瀬戸内の海を見つめていた。沖から吹き付ける潮風は、にじみ出る汗を気化させ二人を心地よい清涼感で包み込む。
 やがて景親(かげちか)はどこか遠くを見ながら静かに言った。
 「兄も死に父も死んでしまった。今から思えばあの朝鮮での出来事は一体なんだったのだろう? 結局死ぬのであれば、あのとき死んでも同じことだったのではなかろうか……?」
 如芬(ヨー ファン)はぷっと吹き出すと、景親(かげちか)に視線を移した。
 「いまさらのお言葉です。人は置かれた状況の中でもがいて生きるより仕方ありません。でもそのおかげで私はおじ様と会えました。日本に来て良かったと思っていますよ」
 景親(かげちか)は彼女を見つめ返した。
 「本当にそう思うのかい?」
 如芬(ヨー ファン)はこくりと頷いた。
 「わしが例え悪魔だったとしてもかい?」
 すると如芬(ヨー ファン)は海の遠くの方を見つめて暫く何も答えなかったが、やがてこう呟いた。
 「この世は理不尽で出来ています。でも人は、理不尽と思いつつもその世界で生きるより仕方ないのでございましょ? 誰もがその荒波に(おぼ)れまいとして必死に生きている矛盾だらけの世でございます。でもおじ様は、瀬戸内の渦潮のような複雑怪奇な波に乗るのがとてもお上手なようでございます。今度私にも渦潮の上を上手に乗る舟の漕ぎ方を教えて下さいな。私もきっと、おじ様のように器用に生きてご覧にいれましょう」
 このとき如芬(ヨー ファン)は既に女になっていた。景親(かげちか)は彼女の身体をそっと抱き寄せた。
 

 
 二人の間に子が生まれたのは慶長十三年(一六〇八)のことである。
 幼名を竹松と名付けられた赤子は後に源八郎と改めた。ところがこの二年後の慶長十五年(一六一〇)二月九日、村上景親(かげちか)は五十三年の生涯を閉じる。このとき家督は嫡男の八助に譲られたが、彼はその三年後に早世してしまう。
 村上家のことを心配した毛利輝元は、景親(かげちか)の領土を安堵し、景親(かげちか)如芬(ヨー ファン)との間に生まれた源八郎に、自らの元≠フ字を与えて『村上元信』と名乗らせた。このとき元信はまだ六歳の少年である。
 この後、如芬(ヨー ファン)の妹の方は景親(かげちか)の家臣水沼氏に嫁ぎ、朝鮮から連れて来られた二人の女性は肖像画として今に残る。
 周防大島の和田に、景親(かげちか)の墓を挟むようにして正室平岡通倚(ひら おか みち より)の妹と如芬(ヨー ファン)の墓石が並んでいる。その視線の先にはいったい何が見えているのだろうか。
 
 二〇二二年五月三日
(2017・07・29 『今治市村上水軍博物館』にて拾集)