雷神の門 大運動会
> 卯月の涙雨
卯月の涙雨
城郭拾集物語A 福井丸岡城
 



 筆者が丸岡城へ訪れたのは二〇一二年の四月三十日のことである。
 四月のことを『卯月』と言うが、もっともこれは旧暦で云うところの四月であるから、現代人の感覚と江戸以前のそれとはちょっと違う。旧暦で計算してみるとこの日は(平成二十四年)三月十日ということになり、この物語の卯月はこれより一ケ月ほど後の初夏の候である。
 時は丸岡城築城の折というからには天正四年(一五七六)は戦国の世。この頃まだ天守閣は建っておらず、ふつう城といえば土塁などを積み上げた防御や攻撃を目的とした軍事拠点を云うから、それが例え粗末であっても普請が完了した時点が築城年となる。
 丸岡のそれは、天正二年(一五七四)に起こった越前一向一揆を制圧した織田信長から、その功績として越前国四万五千石、北ノ庄を与えられた柴田勝家が、くすぶり続ける一揆の備えとして、甥の柴田伊賀守勝豊に命じて築かせたものである。
 そこから四キロほど離れた豊原という地籍はその昔、豊原寺の門前町として栄え、一揆衆の最後の拠点となった場所である。勝豊は、その場所から当時『椀子岡』と呼ばれた現在の地に、豊原三千坊とまで言われた宿坊の多くや鍛冶職人や具足職人を移住させ、「谷町」「石城戸町」「別所町」などの地名も合わせて持って来て、新しい城下町を作り上げた。
 築城当初は一揆の残党が襲って来ることもしばしばあったが、そのたび井戸より大蛇が現れかすみ≠かけて城を守ったという。丸岡城が別名『霞ヶ城』と呼ばれる所以であるが、事実春先など、すっぽり霞に覆われたその姿を見ることができるそうだ。
 卯月の時季になると春雨が降り、城の堀は水を満々とたたえたという。それが夏の日差しと相まって、水面には一面に藻が茂る。その藻を除去する『藻狩り』は、毎年恒例の行事であった。
 ところがその日は決まって雨が降る──しとしとゝゝゝゝ降り続く。

 ほりの藻刈りに降る雨は いとしお静の血の涙

 これは地域に伝わる俗謡で、今回は福井丸岡城に伝わる『お静伝説』を取り扱ってみよう。



 そのころ城下に一人の女がいた。
 年の頃なら二十歳過ぎ、くすんだ色の小袖はすり切れ、長い黒髪は左目を隠して肩から後ろに伸びていて、気の毒なほどやつれた容姿はむしろ美しくさえ見える。その女の名を静といった。
 傍らに二人の子があった。今年三つになる双子で、一人は男子で名を長夜叉といい、もう一人は女子で徳子といった。長夜叉というのは以前この地を治めていた朝倉義景の幼名で、徳子というのはその母高徳院の一字をとって命名したものだった。二人の子は、ほころびた着物の縫い物をする痩せた母の周りで、貧しさを気にする様子もなく元気に飛び跳ねて遊んでいた。
 静が左目を隠しているのには理由がある。彼女には左目がない。
 少し遡って話をしよう──。

 加賀の一向一揆よりおよそ九十年、本願寺門徒が統治する前代未聞の『百姓の持ちたる国』は、織田信長の出現により終焉を迎えようとしていた。
 加賀の隣国越前を治めていた朝倉氏も、信長の侵攻により最後の当主朝倉義景が自刃すると、その覇権をめぐって収拾がつかないほどの大混乱に見舞われた。世にいう越前一向一揆の勃発である。信長は比叡山を焼き討ちした時の如く、越前に住む一向宗勢力を薙ぎ払い、瞬く間に統治を果たすことになるが、一揆衆にとって最後の砦は豊原寺で、静はその一つの宿坊に身を潜めていた。
 朝倉義景の老臣で福岡三郎右衛門尉義清という男がいる。
 彼は弘治元年(一五五五)の加賀『菅生口の合戦』以前から朝倉義景に仕える忠臣で、もともとは朝倉氏傘下の鞍谷の出であった。義景が没し散り々々になった朝倉家臣団の中で、彼は無念を晴らすべく密かに主君の結縁者を匿った。義景には側室を含めて四人ほどの妻があったが、特に三人目の『小宰相の局』は、彼の出生地である鞍谷家の娘だったのだ。
 三郎右衛門尉の主君朝倉義景は、天文十七年(一五四八)三月、父孝景の死去により家督を継ぐ。元服してまだ間もない頃で、同年、細川晴元の娘と婚姻を結んで一人の女児(松)をもうけるが、出産後まもなく最初の正室を若くして亡くす。その継室として迎えたのが京都の上級公卿である近衛稙家の娘近衛殿≠アとひ文字姫≠ナ、彼女は、
 『容色無双にして妖桃の春の園にほころびる装いを深め、垂れ柳の風を含める御形』
 と評されるほどの美貌の持ち主だった。ちなみにひ文字姫≠ニいうのは、何か署名をする際に「ひ」の字しか記さないことからそう呼ばれるようになったが、待てど暮らせど子ができない。そこで義景は日頃から懇意にしていた母高徳院に仕える侍女、小宰相の局を側室に迎え入れたのだった。
 小宰相の局は朝倉氏の要職にあった鞍谷刑部大輔副知の娘であるが、朝倉家滅亡後、父鞍谷副知は信長の家臣佐々成政に出仕したようである。
 小宰相の局は間もなく二人の女児を産む。そのひとりが静であり、姉を四葩といった。更に永禄四年(一五六一)、ついに待望の男子を出産するに至り、阿君丸と命名されたその世嗣を義景はたいそう可愛がった。
 ところがそれを面白く思わないのが継室の近衛殿(ひ文字姫)である。ひどく嫉妬して呪いを呪し、ついには小宰相の局を館から追放してしまう事件が起こる。そのさい静と四葩とともに小宰相の局を預かったのが同郷の福岡三郎右衛門尉義清であった。
 当時静は物心がつき始めた五、六歳、
 「太郎はなぜヒゲを生やしておるのじゃ?」
 「髭があった方が強そうでございましょう」
 「だが強そうでは仕方あるまい。太郎は相撲で静に一度も勝ったことがないではないか」
 たまに戯れあいで相撲を取った。すると静はいつも必死でかかり、暫く互角に組み合ってから、必ず三郎右衛門尉を負かしてしまう。もちろん子ども相手に本気でとる大人もなかろうが、静はそれを己の実力だと思っていて、投げ飛ばした三郎右衛門尉を誇らしげに上から見下ろし、屈託のない満面の笑顔を浮かべた。その表情が無上に可愛らしく、陰につけ陽につけいつも面倒を見、遊んでくれる彼は、静にとって年の離れた兄のような存在だった──。
 近衛殿の過ぎた嫉妬に見かねた義景は、激怒して彼女を実家に帰してしまうが、上級公卿の姫と離縁するなど栄華をみすみす手放すのと同じである。思えばこの頃から朝倉家の衰亡が始まっていたのかも知れない。義景は小宰相の局のために新たに館を建てて寵愛するが、当の彼女は精神を病み、間もなく逝去してしまう。静にとってはあまりに突然の母の死だった。
 小宰相の局を亡くした義景は、更にそのあと斎藤兵部少輔の娘小少将を側室に迎えるが、永禄十一年(一五六八)六月、彼に悲劇が襲う。あろうことか唯一の世嗣であった阿君丸を失うのだ──享年数えで八歳。それからというもの義景は、居城一乗谷に引きこもって酒池肉林に溺れるようになった。
 『小少将は若々しい血色のよい顔をして、黒々とした艶のある髪を頭の上に載せ、人の目を迷わすだけでなく、その巧言令色は人心を悦ばせ、義景の寵愛はますます深まっている。昼夜にわたって宴をなし、横笛、太鼓、舞をなりわいとして、夜もあっという間に過ぎてしまう。まるで秦の始皇帝や唐の玄宗の驕りを見ているようだ』
 とは『朝倉始末記』に残された記録である。朝倉家の滅亡はこの時すでに決まっていたと言っても過言でない。
 この小少将との間には二男一女をもうけるが、お家滅亡の後、長男愛王丸は殺害され、次男信景は難を逃れて僧侶となり、一人の娘は上杉景勝の養女となった。ちなみに最初の正妻の娘松は、縁者を頼って越中勝興寺に引き取られ、後に同寺の僧顕幸の妻になる。静の姉四葩も、信長を敵にした朝倉家と本願寺との同盟を強固なものにするため、元亀二年(一五七一)に本願寺の教如と婚姻を結んでいたから、実質、朝倉義景の正統な血を引く者は、もはや静ひとりしか残されていなかった。
 天正二年(一五七四)、この混乱期の越前国の情勢は、一揆集団と織田信長軍と朝倉残党家臣団との三つ巴の様相を呈していた。三郎右衛門尉義清はこの動乱の中、静を密かに豊原寺の宿坊に隠れさせた。そして自らは渦中に打って出、板倉(丸岡)で瀕死の重傷を負いながらも、それでも血まみれになって静のもとへ戻った──その最初の言葉が、
 「この三郎右衛門尉、朝倉家を再興するまでは死ねませぬ!」
 だった。
 しかしその翌年──
 残忍極まりない信長の大軍が豊原に押し寄せたとき、まだ癒えない傷のまま宿坊を飛び出して行った三郎右衛門尉の後ろ姿までは記憶にあるが、静はそのあとのことはよく覚えていない。
 史実によれば九月二日、信長の軍勢はあらゆる略奪と暴行の限りを尽くし、総てを焼き払って嵐のように立ち去った。そのさい静は、宿坊に乱入して来た鎧も身に着けていないような足軽風情に見つかり襲われ、激しく抵抗したものの、小刀で左目を突き刺され、おとなしくなったところを何人もの男に強姦されたのだった。
 ボロボロにされた燃える宿坊炎の中で、つい先日も同じことを言った三郎右衛門尉の叫びが耳朶から離れなかった。
 「諦めてはいけません!ともに朝倉家を再興いたしましょう!」
 このとき静の胎内に、二つの生命が宿った。



 一連の戦いで功績を挙げ、所領四万五千石を得て越前を治めることになった柴田勝家の甥に当たる柴田伊賀守勝豊が、焦土と化した豊原寺跡に入ったのはそれから間もなくである。この時、豊原寺は再興を許されるが、その翌年、丸岡に城ができたのを機に町全体が移され、静も大きくなったお腹を抱え、城下の新しく建った宿坊の敷地内に、粗末な掘っ立て小屋を建て、棲んだ。そして双子の子を産んだ。
 新しい町は城を中心に、北側と東側に武家屋敷が建てられ、町人屋敷と寺社は南側に配置された軍需が盛んな町に成長していく。悪運強く、先の戦でも生き残った三郎右衛門尉は、鎧や刀を売って静のために生活の糧を作ったが、それも尽きてしまうと町に数いる職人の下働きなどしては、僅かな食い扶持を稼いで彼女に届けた。
 「お静さま、申し訳ございませんが今日の稼ぎはこれだけです」
 ひと握りの米を渡してすぐに稼ぎに出てしまう三郎右衛門尉に、
 「私も働きに出ましょうか?」
 と、何度か申し出たこともあるが、そのたび「二人の子の面倒は誰が見るのですか」と戒められる。確かに理由の一つに違いないが、片目になった女心を誰より気に病んでいるのもまた彼だった。
 静はそうした僅かな稼ぎを二人の子に与え、自らはどれほども口にせずに残りを貯えにまわした。いずれ長夜叉が元服の時を迎えたら、再び武士になるために、太刀の一本も買ってやろうと思う親心である。しかしお家再興≠フ夢は彼女の中にも燃えていたが、織田信長に敵対した朝倉”を名乗ることは、今は口が裂けても言えない。

 ちょうどそのころ丸岡城では、いよいよ城のシンボル天守閣を建てることになって、土台となる石垣づくりがはじまった。織田信長が岐阜城に天守を作って以来、大名の間では城といえば天守閣を建てるのがいわばステータスなのだ。運よくその人足として職を得た三郎右衛門尉はある職人の下で働くが、数カ月かけてようやく完成しようとした時、次の翌朝せっかく積み上げた石垣が崩壊しているではないか。
 普請に携わっていた家老の大鐘藤八郎貞綱は、その無残な様を見て、
 「いったい誰のいたずらか、石工の棟梁を呼べ!」
 と愕然と言ったが、呼ばれた棟梁も唖然とするばかり。仕方がないのでまた一から組み上げていったが、できあがる直前になると同じように崩れて、天守閣建設の計画は遅々として進まなかった。呆れた大鐘貞綱はその棟梁を首にして、別の石垣作りの名手を連れて来てやらせたが、三度同じく崩れ落ち、
 「いたずらにしては過ぎるし、しっかり組み上げた大きな石を、崩すのだって容易でないはずだ」
 と、頭を悩ませた彼は、信長から越前国北ノ庄を拝領した際、自ら北ノ庄城の縄張りを行った柴田家の大殿、つまり柴田勝家に相談を持ち掛けた。ちなみに勝家の妻は信長の妹お市の方で、柴田と織田のつながりは尋常でない。すると、
 「そんなものは積み方が悪いのじゃ!」
 と一蹴されたが、近江国で城の石垣を多く手掛けているという穴太積みの有能な石工を一人紹介してもらったのだった。
 やって来たのは四角く厳つい顔をした四十前後の弥四郎と名乗る無精髭を生やしたヤサ男で、崩れた石の山をじいっと見つめて、
 「穴太積みの極意は石の声を聞く≠アとじゃ。石というのは一つひとつが収まるべき所に収まるものじゃ」
 と呟いてから、石の形状を見ながら何人もの人夫を指揮して、四度目の石垣積みを開始した。貞綱も今度こそはと安心してその作業の様子を見守っていたが、ようやく完成したと思われたその翌朝、やはり石垣は崩れていたのであった。
 「こりゃ一体どういうわけじゃ?」
 と、さすがの穴太積み石工弥四郎も首を傾げ、また最初から積み上げ始めたが、そんなことをしているうちに一年という歳月は瞬く間に流れていった。
 五度目の挑戦をしながら弥四郎が監視の貞常に呟いたことは、
 「人柱が必要かも知れませんな。今度失敗したら用意できますかな?」
 「人柱……?」
 貞綱は首を傾げた。
 人柱といったら人身御供のことである。架橋や築堤、築城の際、柱を強化するため生きた人間を水底や土中に埋めることで、人の持つ霊力が柱に乗り移って神の怒りを鎮めるという考え方から来ている。
 案の定、五度目の失敗を見た貞綱は、主君勝豊に相談して御前会議を開くことになった。
 石工弥四郎が言うには、
 「人柱には百万一心≠フ功徳力があると聞く。安芸国の毛利元就公が山城を築くとき、やはり石垣が崩れてうまくいかなかったそうじゃ。そこで二十歳過ぎの女を人柱にしたところ、普請は無事に終わり、堅固な城ができたという話じゃ」
 実はこれ、実際はちと違う。元就が幼少のころ厳島神社を参拝した折、母が築城の人柱にされたと泣く童女と出会い連れ帰る。十五、六年の後、山城の城主となった元就は、本丸の石垣が何度築いても崩落するので手を焼くが、そのとき人柱が必要だという声が挙がり、普請奉行はその娘を人柱にすることを提案した。娘も助けてもらったお礼と願い出るが、元就は人命を重んじ、替わりに『百万一心』と彫り込んだ石を埋めて無事に石垣を積み上げたというエピソードだ。『百万一心』とは、人が力を合わせれば、何事も成就するという意で、元就はあえて「百」の字を「一日」、「万」の字を「一力」と読めるように書き、『一日一力一心』とも読める書体で記したと伝わる。
 どこで聞いたかその美談をうろ覚えの弥四郎は、さも自慢げに話した。すると家老徳永権之助寿昌が、「私も何かの本で読んだことがございます」と言って『日本書紀』に記された茨田堤の人柱の話をし始めた。
 仁徳天皇の時代、大坂の淀川は暴れ川として人々を苦しめた。そこで広い低湿地帯であった茨田に堤を築き、淀川の流れを抑える治水事業を開始するが、どうしてもうまくいかない。すると仁徳天皇の夢枕にある神が現れてこう告げる。
 「武蔵国の強頸と河内の茨田連衫子の二人を、川の神に人柱として祭れば成就するだろう」
 さっそく二人を捕えようとするが、衫子は逃れたが強頸は捕えられ、泣き悲しみながら人柱として水に沈められ、ついに堤は完成したという話だ。
 すると更に野村勝次郎という家臣が越後国の猿供養寺の話を始めた。
 鎌倉時代、越後国の猿供養寺を訪れた僧が、地元住民が地すべり被害が絶えないことで困っているのを見、自ら人柱となって災禍を止めたという話である。
 それらを聞いて伊賀守勝豊は、
 「なるほど、人柱とは自然の脅威を鎮めるものであるのだな?」
 と頷いた。すると別の家老木下半右衛門利久が、
 「拙者も聞いたことがござる。唐の古書『魏志倭人伝』なるものには、その昔、魏の使者が我が国に参ったとき、倭の者が船で海を渡る時は『持衰』という者が選ばれると記してあった」
 と言った。『持衰』とは、普段から人と接せず、虱が湧いてもそのまま、服は汚れ放題着っぱなし、肉は食さず船が出たらじっとその帰りを待っている役目で、無事に船が帰れば褒美を貰えるが、もし船が災難に見舞われ難破でもしようものなら、海に沈められ殺されるといういわゆる人柱の話である。続けて家老で馬頭を務める関盛吉が、「これも安芸国の話しだが」と言って、池を作るとき工事が難航し、お糸という村娘を人柱として埋めたという伝説を話した。
 「その人柱というのは女の方がよいのか?」
 と勝豊が言った。
 「決まりはございませんが、若い女の方がいいに決まっています」
 と、また知ったかぶりの弥四郎が言うと、貞綱も、
 「古来から神に仕える巫女はみな女でございます。また陰陽五行道においては女は土の性質を持ちます。おそらく堅固な石垣が造れましょう」
 と付け加えたものだから、勝豊は喜んで、
 「ならば城のために人柱になってくれる女はないか探せ」
 と命じた。こうして城下町の各所に、

  触
 城の石垣普請につき人柱を願う者申しつけ候
 但し三十路に至らぬ女人に限るべし
  奉行

 の御触書の立札が設置されたのだった。



 このころ静の双子の子は五、六歳ほどに成長している。男子の長夜叉は三郎右衛門尉を師と仰ぎ、彼がどこぞで仕入れて来る四書五経を片手に、ときおり近くの寺に顔を出しては読み書きの手習いをするようになっていた。石垣工事の中断につき働き先が途絶えた三郎右衛門尉を相手に、たまに木の枝を木剣がわりにして剣術の稽古をし、一方、女子の徳子は静から歌や生け花や書を習って、二人とも身なりこそみすぼらしいが武家の習いを少しずつ身に付け、その資質はみるみる磨かれていった。
 「母上はなぜ片目がないのですか?」
 近頃、長夜叉はこんなことを聞く。
 「長夜叉はこんな母を不憫と思うか?」
 「不憫とは思いませんが、さぞ辛かろうと思います」
 「うむ──しかし母にはそなたと徳子がおるから幸せじゃ。母の父上はとても偉い侍であった。しかし訳あってお家は断絶、母だけが生き残ってそなたは生まれたのじゃ。ゆえに貧しくとも長夜叉と徳子には武家の血が流れておる、わかるか?」
 長夜叉はコクリと頷く。
 「母の夢は、そなたが侍となってお家を再興することじゃ。母は片目だが、そなたが立派な武士に成長して再び領土を得、民のために働く姿が見える。だから今は辛くとも辛くはない」
 そんなことを話して聞かせるのだった。

 城下町は天守の石垣の人柱を募集しているという話題で持ち切りである。しかしすでに触れが出されて半年になるというのに志願する者など皆無だった。いくら城のためとはいえ、好んで自ら命を捨てる者などいるはずもない。
 静は片目の事を気にしてほとんど外へは出なかったから、唯一町の様子を知ることができるのは、三郎右衛門尉が話す世間話から得る情報だった。石垣の工事が中断されて再び定職を失った彼は、以前のように駕籠引きや宛行扶持の手当てをもらえるようなところを探して、その日暮らしの生活を送るしかなかったが、働き場所が見つからない時などは昼といえば静の暮らす粗末な掘っ立て小屋に戻って、日がな一日、長夜叉に剣術の稽古をつけたり、畑を耕したり、家周りの整備などして時間をつぶした。静が彼から人柱の話を聞いたのは、久しぶりに三郎右衛門尉が家に戻り、わずかな米に庭に生えていた蓬や大葉子で量増しした粥を炊いていた夕食時だった。
 「私も現場に居合わせていたのですが、いくら石を積んでも崩れてしまうのです。あれは何かに呪われているとしか思えませんなぁ」
 三郎右衛門尉は巷で騒がれている人柱の話を冗談ぽく話したが、三十歳未満の女に限る≠ニいう部分は伏せていた。このところ静は一段と塞ぎ込みがちで、それを知ったら万が一にも長夜叉を士分にするのを条件に、自ら名乗りを挙げてしまうのではないかと心配したからだった。それにしてもあの一件があってきり彼女は一度も笑わない。幼い日の無邪気な笑顔を思い起こす時、彼の心はえぐられるような苦しみを覚えた。
 一方、すでに五十路を越える彼の身体を心配するのは静も同じであった。老いた体に鞭打ち、生活のため必死に働いてくれてはいるが、戦の時に負った右腕の刀傷があまりに痛々しい。いつも努めて明るく振る舞ってはいるが、彼とて年々老いていく──そんな二人の間の主従関係は、互いに労わり合いながらも、為す術を知らない現実に翻弄されていた。こんな生活がいつまで続くのかと考えると、静の心はまた暗く沈んだ。
 その悲し気な俯きがちな彼女の右目を見ると、いつも三郎右衛門尉は、
 「ご心配なさるな。お家再建の時は必ず来る!拙者が死ぬ前には実現してご覧にいれましょう!」
 と大きく笑う。大言壮語に聞こえる言葉とその明るさに、静は幾度救われたことか。

 さて丸岡城天守閣の普請事業は、石垣造りのところでピタリと止まったまま、ついに人柱に志願する者も現れずに数年の歳月が流れ去った。人々は「このまま天守を作らずにいるのだろう」と噂し合い、ついにはその話し自体が風化してしまった頃、柴田勝家から城主伊賀守勝豊に、
 「信長殿の御馬揃えの儀にわしと共に上洛せよ」
 という命が下った。御馬揃え”とは天下布武を目指す織田信長が、京都で行った大規模な軍事パレードのことで、周辺大名を牽制し、自らの力を天下に知らしめる意図があったとされる。時に天正九年(一五八一)一月のことで、その前年、柴田勝家は信長より筆頭家老に任じられている。
 パレードは京都内裏の東において、二月から三月にかけて二度行われたが、その隙を突いて勝家の自国でのっぴきならない事態が起こった。加賀の一揆集団の残党が蜂起し二曲城が襲撃され、勝家の臣下三〇〇人がことごとく討たれたのだ。京都に早馬が飛んで来て、
 「二曲城が襲撃され、吉原次郎兵衛殿、毛利九郎兵衛殿、徳山少左衛門殿ともに討ち死に!」
 の報がもたらされた時、勝家は血の気を失った。幸いにも北陸の留守居をしていた佐久間盛政が間もなく駆け付け鎮圧したが、その騒動を受け、
 「勝豊、丸岡城の方はどうなっておる?城の整備は進んでおるのか?」
 と勝家が聞いた。城の整備とは天守のことである。勝豊は言葉を失った。まさか「人柱が見つからず工事が止まったままだ」とは言えない。そうでなくとも最近の当主勝家の関心は、今年十二になった実子勝里に向いている。継嗣が誕生する以前は養子となって、よもや自分が世継ぎかと思われた勝豊にとっては、これ以上彼を失望させるわけにはいかない。
 「ただいま建設中にございます」
 と、目途の立たない石垣づくりに頭を痛めながら、そう答えるしかなかった。
 御馬揃えを終えて丸岡城へ戻った勝豊は、「人柱はまだ見つからぬのか!」と、人が変わったように周囲に当たり散らし、
 「人柱を務める者にはどんな望みでも叶えてやるから、早急に見つけ出せ!」
 と家臣たちをあおりたてた。
 「何があったのだ?あの殿のご様子は尋常でないな」と家臣たちは顔を見合わせた。そして城下各所に立てた『触』の立札の文末に、
 『かの者に望みの褒美を与えるもの也』
 の一文を付け加えて書いて回り、各々人柱にふさわしい者はいないか町人たちに聞き込みを始めたものだから、その噂はたちまち城下に広まった。
 「おい、聞いたかい?人柱が見つからねえもんで、今度はどんな望みでも叶えてやるときたもんだ」
 「何でも”ってことは、黄金で十貫文でもくれるってことかい?」
 「お前さん、ケチなこと言っちゃぁいけないよ。何でも”ってのは一国一城の主を望めばそれになれるってもんだい」
 「一国一城の主ねぇ……だが待てよ、人柱ってことは生き埋めにされるってことだろ?てめえが死んじまったんじゃ元も子もねえじゃないかい」
 道行く人はそんな笑い話をして歩いた。
 じめじめとした春雨の降る卯月のことだ──。
 その話を三郎右衛門尉は一言も口にしないが、掘っ立て小屋の垣根の隅で、雨のためなかなか乾かない洗濯を、今日は小屋の屋内に干そうかと考えていた静の耳に入ったのだった。するとその晩、二人の子を寝かしつけると、今晩は三郎右衛門尉が帰らぬのを見て、暗い夜道を傘をさし、こっそり『触』の立札のある場所を探して歩いた。ようやく一つの辻でそれを見つけた彼女は、提灯の明かりをそっとかざして右目で文面を読んでみた。そのとき、
 「お前が名乗り出るのだ──」
 と、立札がそう言った気がした。それは三十路に至らぬ女人≠ニ書いてあるのを読んだとき、真っ先に思い浮かんだのが自分だったからだろう。
 「名乗り出て、長夜叉に士分を願い出よ」
 続けて立札がそう言った。
 それは静自身の念でもあったが、母小宰相の局が言っているようにも聞こえた。
 思い返せば片目を失ってより、外も歩けず掘っ立て小屋の暗い囲いの中で、お家再興の思いを抱きながらも何一つとして成せる事がない自分に気が付いた。ただただ子の成長を見守りながら、ずっとこのまま孤独に耐えて生きていかねばならないのか。そして、誰かに影響を与えるでもない自分という生き物は、ほんの少しの価値もなく、生きる意味さえあるのだろうかと暗澹となった。
 ならば──
 せめてこの命を子どものために使いたいと思う。
 「そうだ──子どものことは三郎右衛門尉に託して、私は私のできることを為せばいい。この命と引き換えに、長夜叉が侍になれるのであれば、そこには子どもたちの未来ばかりでなく、お家も私も記憶の中で、永遠に生き続けることができるのだから……」
 ならば私は、喜んで人柱になろう──
 静は決心した。



 翌早朝、いつものように三郎右衛門尉は一握りの米を持って帰って来た。そして言うには、
 「お静さま、拙者しばらく戻れません。京へ行く行商人の護衛を頼まれましてな。今度は少しばかり手当てが良いので、次に帰る時はもっと豪勢な食いもんを買って来れそうですわい」
 これまでも二日三日は帰れないことはあっても、ひと月も帰れないことはなかった。
 「いつも有難く思います。して、その行商人とはどのようなお方でございます?」
 このときなぜか三郎右衛門尉の脳裏に、彼女に誤解を抱かせてはいけないという妙な感情が湧いて出た。その行商人が若い女と誤解されはしないかという一抹の動揺は、彼に次の言葉を咄嗟に言わせた。
 「なあに薬売りの婆さんです。京にお得意さんがいるとかで、それまで一緒に行っていたドラ息子が怪我をしたのだと、たまたま通りかかった拙者に白羽の矢が立ったというわけです」
 「そうですか──どうかお気を付けて行って下さいまし」
 そういつものように見送ろうとしたが、彼がいないうちに奉行に申し出ようとしていた彼女は、不意に名残惜しさから今にも涙が出そうで、「それでは行って参ります」と旅立とうとした三郎右衛門尉の後ろ姿に向かって、
 「しばらく会えないのですね?」
 と思わず声を挙げた。そして、振り返った三郎右衛門尉は、いつにも増して悲しそうな右目を見たのだった。
 「行く前に、久しぶりに相撲をとりませんか?」
 「相撲──?」
 二人の間に楽しかった遠い昔の同じ思い出がよみがえる。しかし三郎右衛門尉は、静の本意には気付かなかった。
 「毎日くすぶってばかりでたまに身体を動かしとうなります。しばらく三郎に合えないと思ったら、なんだか無性に相撲をとりたくなりました」
 「いやいや、拙者は一向にかまいませんが、さすがにお静様には無理でございましょう」
 「無理かどうかはやってみなければ分かりません。いつもお前が長夜叉に申し付けている言葉です」
 三郎右衛門尉は困ったが、その悲しそうな右目に押し切られ、
 「一番だけですぞ。華奢な身体で怪我でもされたらそれこそ義景様に顔向けができませんからな」
 と、二人は庭に出て地面に大きな円を描き、中央で四股を踏んで見張った。
 「手を抜いてはなりません!」
 静はそう言うと「八卦よい残った!」と叫んで、二人の身体はぶつかり合った。
 あの時もそうだった──まだ五、六歳だった彼女は、小さな身体を思い切りぶつけて来て、手加減なしにいろいろな技をかけてきた。三郎右衛門尉にとってはどうということはないが、その真剣な取り組みをしているうちに、負けそうになると今にも泣き出しそうになる静の表情を見て、可哀想になってついつい負けてやってしまうのだ。
 このときも三郎右衛門尉の大きな身体が先に後方に倒れ、仰向けになったその上に、静の華奢な身体が覆いかぶさるように倒れた。勝負は静の勝ちだが、二人はそのままの姿勢で暫く動かなかった。三郎右衛門尉は細くもその柔らかな肉体を感じながら、子どもだったあの静が、いつの間にか女になっていることに初めて気づいたのだった。もしもこのとき三郎右衛門尉が勝ったとしたら、あるいは彼女は奉行所へ行くことを思いとどまったかも知れない……。
 「相変わらず三郎は弱いのぉ──」
 静は着物についた埃を払って立ち上がると、何年振りかで見せるそれはそれは美しい笑顔を作った。その笑い顔は三郎右衛門尉をこの上なく悦ばせ、その心に深く刻印された。やがて外の楽し気な様子に誘われて、長夜叉と徳子が眠そうな目をこすりながら起きて来た。
 「何をしていたのですか?」
 「相撲じゃ」と静が答えると、「おらもやりたい」と言って長夜叉は三郎右衛門尉に飛びついた。「私も!」と徳子も飛びついて、三郎右衛門尉は二人を相手にしながら、この四人での生活がいつまでも続くことを願った。

 三郎右衛門尉が出て行って、朝餉の片づけを終えた静は、長夜叉と徳子を正面に正座させ、恍惚とした右目で二人を見つめた。これが今生の別れと思うと、下っ腹の奥からとめどない悲しみがあふれ出たが、母としての最期の姿を、我が子の両目に焼き付けておきたいと願った。
 「長夜叉と徳子よ、お前たちはいくつになるか?」
 「今年で七つにございます」と長夜叉が答えた。静は静かに頷いた。
 「元服にはまだ早いが、お前たちはもう物事の判別が付く立派な大人じゃ」
 静は粗末な小物入れから、生前母小宰相の局からもらい受け、肌身離さず持っていた漆塗りの高価な櫛を取り出した。それで長夜叉の乱れた髪を整え、そこにボロでこさえた烏帽子をかぶせ、続けて徳子のおかっぱ頭もとかして後ろで束ね、すいた髪に手にしていた櫛をそっと刺し、最後に墨を歯に塗りお歯黒を施した。二人はいつもと違う母の様子に動揺した表情を浮かべた。
 「よいか、よく聞くのじゃ。母は長夜叉を侍にするため、そして徳子を侍の家の娘にするため、これから遠い場所へ行かねばならなくなりました」
 「遠い場所とはどこでございますか?」
 「それは教えられません。教えられぬが、きっとそこは花の咲き乱れる美しい場所じゃ。お前たちはまだ逢ったことはないが、そこには母の母君もおわすし、立派な侍である母の父君もおわす。母はそこへ行かねばなりません」
 「長夜叉も一緒に参ります」
 「わたしも!」
 死んだはずの静の左目から涙がこぼれた。
 「母もそうしたいがそれはできません。お前たちに士分を与えるのと引き換えに母は行くのですから。母のことは探してはなりません。そしてこれからは三郎のおじちゃんを頼るがよい」
 「ならば長夜叉は侍にならずともかまいません」
 「何を申す!」
 静の大声に長夜叉と徳子はビクリと体を跳ねらせ、やがて小さな瞳に涙を滲ませた。
 「お前が侍になることは、母の命に代えても惜しくない悲願なのです。二度とそのようなことを申すでない」
 長夜叉は涙が混じった小さな声で「はい」と答えた。
 「それから」と言って、静は同じ小物入れから小さく折りたたんだ一枚の半紙を取り出した。広げるとそれは系譜であった。
 「これはお前の血筋を記した系図じゃ。お前の御先祖は足利氏に仕えた朝倉広景公から始まる歴とした侍なのじゃ。かつては越前国の守護代を務め、一乗谷に城を構えてきた。母の父の名は朝倉義景、今はお家が途絶えているが、長夜叉、時が来たらお前は第十二代当主朝倉長景を名乗るがよい──。そのために今、お前はどうしても士分を得ておかねばならぬのじゃ。母の申していることが分かるか?」
 長夜叉はコクリと頷き、「時とはいつにございますか?」と聞いた。
 「母の父義景公は、近江の織田と戦って命を落としました。この城下はその織田の家来柴田の城です。だから今は時ではありません。しかし織田とていずれ誰かに滅ぼされましょう。時とはその時です。それまでにお前は仲間を見つけ、誰にも負けない力をつけ、母のような惨めな女を生まぬ泰平の国を作らなければなりません。その時が来るまでじっと耐え忍ぶのです」
 「相わかりました」
 そして静はそれまで三郎右衛門尉の稼ぎから少しずつ貯めて来た貯金を「これからは徳子がお金の使い方を考えなさい」と言って彼女に手渡すと、母子は抱き合って涙に崩れた。

 北伊勢の豪族の家に生まれた山路正国は、柴田家に忠節心厚いこのとき三〇半ばの男で、気性が荒いことから仲間からは将監≠ニあだ名される伊賀守勝豊の家老の一人であり、このとき奉行所に詰めていた。そして未だ現れない人柱のことを考えながら、降る長雨を眺めながら「じめじめした厭な季節だ」と一人ごちた。そのとき、
 「山路様、人柱になってもよいという女が来てございます。いかがしましょう?」
 と奉行所の役人が山路がいる部屋に来て言った。
 「なんと申した?どうするもない、いますぐ会う!」
 と小躍りした山路は、直ちに女を伊賀守勝豊の面前に通したのである。
 静は丸岡城の館の広間に通され殿様の前で平伏し、やがて勝豊は歓喜を隠せない様子で話し出した。
 「人柱に願い出た女というのは其の方か?苦しゅうない面を挙げよ」
 勝豊は女の左眼前に垂れる黒髪の奥に沈む、黒い目の影を見てギョッとした。
 「目をどうした?」
 「先の戦に巻き込まれ、失いました」
 「そうか、気の毒なことをした。して年はいくつじゃ?」
 「二十六にございます」
 「人柱とはどういうものか知っておるな?」
 静は「はい」と静かに頷いた。勝豊は続けた。
 「なぜ人柱になってよいと願い出た?」
 静は暫く考えたが、やがて、
 「ご覧のとおり着る物も満足にない貧乏暮らし。おまけに左目がありませんので人様に気味悪がられ、働き口もなく、この先いかように生きてよいやら光が見えません。しかし私には二人の子があります。その子らの将来を考えますと不憫でならず、この命と引き換えに、なにとぞ子らを士分にお取り立ていただきたく、申し出ました次第にございます。なにとぞ、なにとぞ、お聞き入れ下さいませ!」
 「正直なやつよのう」と勝豊は笑んだ。
 「容易い願いじゃ。天守が完成した暁に、必ず其の方の望み、叶えて進ぜよう」
 と必ず”を付けて約したので、静は安心して「有難き幸せにございます」と再び平伏したのだった。
 かくして彼女は生ゴミでも埋められるように、その日のうちに天守閣の中柱が立つ予定の土の下に生き埋めにされ、中断していた石垣積みの工事は再開される。
 降り続く長雨は、もしかしたら彼女の別れの涙かもしれなかった。



 京から丸岡城下に戻った三郎右衛門尉は、中断されていたはずの天守の建設が進められていることに首を傾げながらも、「今日は旨いものを食わせてやろう」と魚屋で鯛を買い込み、静の掘っ立て小屋にいそいそと戻った。ところがそこに静はなく、かわりに暗い殺風景な土間には、肩を寄せ合い泣いている長夜叉と徳子の姿があった。
 「母上はどうした?」と問えば、
 「母は長夜叉がお侍になるために、遠い場所へ行かれました」
 と答える。俄かに三郎右衛門尉の脳裏に人柱のことが思い浮かび、「しまった!」と蒼白になって小屋を飛び出そうとしたところ、長夜叉がその太い腕を掴んで言った。
 「母は三郎おじちゃんを頼れと申しました。そして母のことは探してはならぬと申しました──」
 と、母から渡された系図と銭の束を見せた。三郎右衛門尉はその銭の多さに目を丸め、自分は食べる物も食べずに密かにお金を貯めていた静の健気さに涙を飲んだ。
 「母上はいつ出て行かれたのじゃ?」
 「三郎おじちゃんと相撲をとったその日です」
 三郎右衛門尉はあの相撲が分かれの挨拶だったことを悟って愕然とした。「なぜ気付かなかったか!」と激しく後悔したが後の祭りで、もはや彼女は帰って来ない。整った書体で書かれた系図を見れば、血筋の過去を子ども達に伝え、お家再興の夢を託して出て行ったのは明らかだ。長夜叉は、
 「時が来たら朝倉長景を名乗れと申しました」
 とまた泣いた。
 「長夜叉は母上のために、立派なお侍になりとうございます!」
 「うむ、うむ、そうか、そうか……長夜叉と徳子は本当に聞き分けの良い利発な子であるな。この三郎右衛門尉が立派な武士にしてくれるから、泣くでない──」
 三郎右衛門尉はあの最後に見た静の笑顔を思い描きながら、二人を抱きしめてゴオッ!と泣いた。

 それから啼く蝉の声を聞き、赤く染まった蔦の葉を見、子ども達と雪だるまを作り、除夜の鐘を数えて翌年の卯月が訪れたとき、丸岡城天守閣はついに完成を見た。どうやら石垣も崩れることなく無事に工事が進んだようで、その日もあの日と同じ雨が降っていた。
 ところが静の掘っ立て小屋には、城からの士分取り立ての沙汰どころか、なんの連絡もない。ついにしびれを切らせた三郎右衛門尉は、奉行を問い正しに小屋を出た。
 その対応をしたのが山路正国で、彼は他人事のように、
 「ただいま殿は天守完成の報告のため大殿様の所へ出向いておられる。出直して参れ」
 と鼻も引っ掛けない態度で応じた。さすがに腹を立てた三郎右衛門尉は、
 「誰のお陰で天守が建ったと思うのだ!それが恩人の身内に対する態度か!」
 と激情したが、山路は涼しい顔で「そう申されても殿がおらんのでどうにもならん」と取り合わない。
 「お静様の子を士分にする約束は交わされているはず。せめて念書だけでもお書き願えませんか!」
 と詰め寄ったが、
 「ええい、うるさい。殿は不在と申しておる。帰れ!」
 仕方なくその日は引き返し、暫くして「殿様はまだ戻らぬか」と再び三郎右衛門尉は奉行所にやって来た。ところが今度は忙しいと言って山路正国は顔を出さず、
 「納得のいく返事が頂けるまで帰らん!」
 と、奉行所の前で座り込みを決め込んだものだから、梃子でも動かない彼の様子に手をこまねいた役人たちは、山路に状況を告げ、
 「またあいつか。言う事が聞けぬなら斬り捨ててしまえ」
 と、山路は太刀をひっさげようやく三郎右衛門尉の前に出て来た。
 「殿はまだ戻らん。何度来ても同じだ」
 そこで同じような問答を繰り返したが、腹を立てた山路が刀を引き抜いたので、三郎右衛門尉はその日もやむなく引き返したのだった。

 柴田伊賀守勝豊が丸岡城に戻ったのは、皐月(五月)に入って下旬の事だった。目下彼の義父柴田勝家は、上杉景勝との戦いのため越中国は魚津城周辺に駐屯していて、勝豊はそこまで足を運んでいた。しかしどうも面白くないことがあったらしく、「殿は不機嫌なご様子、あまり近づかぬ方が身のためだ」とは、専ら家臣たちの噂だった。その事情とはこうである。
 柴田勝家にははじめ子がなく、姉婿吉田次兵衛の子であった勝豊を養子に迎え、一時はいずれ彼を当主にと考えていた。ところが皮肉にも勝里が生まれ、その実子は元服間もなく、丸岡城天守完成の報を持って行った勝豊に対して、嫌味たらしくそんな話ばかりしたのだった。おまけに先般信長の御馬揃えの際に起こった二曲城襲撃事件において大活躍した勝豊の従兄にあたる佐久間盛政が、こたびの魚津攻めにおいても無類の活躍をしているとその武勇をしきりに褒めたたえた挙句、「たかだか天守ひとつ建てるのにどれだけ時間をかけているのだ」と呆れた物言いをしたものだから、勝豊は不愉快千万。それを中国は毛利攻めで忙しい羽柴秀吉に愚痴った。
 信長臣下の羽柴秀吉は当時長浜城主で姓を木下から羽柴に改めていたが、柴≠フ字は柴田勝家からもらい受けたというほど柴田家とは近しい存在だった。ところが天正五年(一五七七)の柴田勝家と上杉謙信との手取川の戦いにおいて、戦略の違いから腹を立て秀吉は兵を撤収してしまう。結果、勝家は謙信に敗れ、それからというもの両者はぎくしゃくした関係を続けていた。ところがその後の秀吉の活躍といったら破竹の勢いで、播磨国、但馬国、備前国、美作国と次々と攻略せしめ、その力をますます強めている途上であった。
 「まあまあお気を鎮められよ。勝家殿とてそなたが憎くてそのような態度をとっておられるのではなかろう。我が子の成長が嬉しくて仕方ないのだ」
 と秀吉は勝豊をなだめたが、義理の親子の仲がうまくいっていないことを強かに見つめていただろう。
 三郎右衛門尉が丸岡城にやって来たのはそんな折だった。
 「殿様がお帰りになったのは存じ上げている。よもや人柱の一件、忘れてはおるまいな。天守が建ったのはお静様のおかげであるぞ!」
 と喚き立てた。あまりに騒がしいので伊賀守勝豊自ら会って、
 「忘れているわけでない。早々に士分に取り立てるゆえ、明日にでもその長夜叉と申す子を連れて参れ」
 と三郎右衛門尉を納得させて帰したところが、歴史を揺るがす大事件が勃発した。本能寺の変である。
 このとき柴田勝家は魚津城の戦いの収拾に追われている真っ最中で動きがとれず、丸岡城の勝豊に、
 「織田信長が明智光秀に討たれた。直ちに京へ向かって光秀を討て」
 との命令を下す。勝豊は三郎右衛門尉との約束などぶっとんで、兵を集めて直ちに出陣した。彼が中国大返しの秀吉による山崎の戦いに間に合ったかは知れないが、明智光秀は三日天下と言われる有名な言葉を残して討たれ、信長亡き後の始末をどうするかが織田臣下の諸大名にとって大問題となったのだった。
 それとは知らず、長夜叉を連れて城に来た三郎右衛門尉は、またしても城主が不在なことに憤然とし、門前で「忘恩の徒」だの「人非人」だの「恥を知れ」など喚いたものだから、やがて留守居を仰せつかっていた大鐘藤八郎貞綱が出て来て、
 「殿が戻られたら必ず約束は果たす故もうしばらく待たれよ。ここに来て一カ月や二カ月先になろうと、待てぬ話ではあるまい」
 と穏やかに収めて、またしても三郎右衛門尉は引き返すより仕方なかった。

 羽柴秀吉の台頭を恐れた柴田勝家は、信長所縁の尾張清洲城に重臣たちを招集し、世にいう『清須会議』を開いた。その目的は、信長の後継者選びと平和的な領土の配分である。信長が没してからわずかひと月にも満たない六月二十七日のことだった。
 会議は山崎の戦いで一気に主導権を握った秀吉の主張が通り、彼が親しかった織田信忠の嫡子、まだ当時二歳の三法師が家督を継承するくだりであるが、領地については、秀吉は播磨、山城、河内、丹波を配分され、勝家は越前に加え、それまで秀吉の拠点であった近江長浜が配分された。
 実はそこに秀吉の恐ろしいほどの思惑がある。
 「わしの大事な長浜城を勝家殿にお引き渡しするからには、たった一つ願いをお聞き届け下さらんか?」
 秀吉は不敵に勝家に言った。
 「なにかな?」
 「城主に伊賀守勝豊殿を据えて欲しいのです。伊賀守殿とは旧知の間柄、わしも安心して次の領地に鞍替えできるというものだ」
 「ごもっともである。ちょうど私もそう考えていたところでござる」
 と、表面上は何のこともない話だが、秀吉は勝豊が勝家に不信を抱いていることを知っており、密かに通じていたのである。
 かくして伊賀守勝豊は丸岡城から長浜城へと転封され、静の人柱における褒美の話は引き継がれないまま、その後丸岡城に入ったのは勝家の家臣で安井家清という男であった。そうなってしまえば静の願いも藪の中、「伊賀守はどこへ行った!」と三郎右衛門尉は激怒したが、あまりの剣幕に危険視された彼は、新しい役人たちに捕らわれて、あえなく打ち首にされてしまった。哀れ福岡右衛門尉義清は、静の二人の子を残して帰らぬ人となる。



 さて、長浜城へ移った伊賀守勝豊は、最近なにやら元気がない。目は生気を失い、おかしな行動をとるようになっていた。あるときは厠へ行くと言ってそのまま城を出てしまったと思えば琵琶湖のほとりでぼんやり水面を眺めていたり、またあるときは蠅が入っていると膳をひっくり返し、見れば蠅でなく黒豆だったり、鷹狩りに出て道中見た柳の枝をひどく恐れて抜刀して暴れまわったり、挙動不審な行動が目立つようになった。
 側近に言わせれば、「佐久間盛政殿や同じ養子の柴田勝政殿とうまくいっておらぬようで、大殿様からもお叱りを受けているので気を病んでおられるのだ」とのことだが、強大な力を付けてきた秀吉の存在で、柴田家が複雑な状況に追い込まれているのも確かなことだった。家臣たちの中には「早いところ大殿様と縁を切って、羽柴秀吉に寝返った方が良いのではないか?」という声もちらほらと聞こえはじめ──
 否──そんなことでない。
 「最近どうも殿の夢枕に、もののけが現れるようなのじゃ」
 と家老徳永権之助寿昌が言った。
 勝豊がうつろな目で曰く、
 「あの女、どこかで会うた気がする……あの片目の女はいったい誰であったかのう──?」
 と。著しい情勢変化のゴタゴタの中で、勝豊の記憶に人柱のことなど消えてしまっていたが、心のどこかに刻まれていた罪悪感がその幻影を生んだか、あるいは本当に静の怨霊が姿を現したものか、ある夜などは突然跳ね起き、枕もとに置いた太刀を引き抜き、我武者羅に闇を斬りつけるのに驚いた家臣たちに押さえつけられたこともある。
 「あの女とは一体たれじゃ?」と家臣たちも首を傾げたが、丸岡城の人柱になったみすぼらしい片目の女のことなどもはや思い出す者はなかった。ついに勝豊は病んで寝込んでしまう。
 そこへ秀吉の馬廻りをする大谷吉継が、備中高松城の戦いで秀吉と毛利氏との交渉に尽力した恵瓊という僧を従えてやって来た。恵瓊はもともと毛利家の外交僧だが、この頃より秀吉の側近として仕えている。そして吉継は勝豊の足元を見透かしながら、
 「近いうちに秀吉様は長浜城を攻めるであろう。もともとこの城は秀吉様のものですから、城の弱点から何から熟知しておられる。到底伊賀守様に勝ち目はないと思われますが、いかがしましょう?共にこれからの世を作らぬか?と秀吉様は申しております。義父に盾突くのは心苦しいとは存じますが、こうも申しておりました。伊賀守殿は勝家公より優れていると──。城を明け渡していただければ寛大な待遇で迎え入れたいと思いますが、いかが?」
 秀吉がついにその牙を剥いたのだった。ところが伊賀守勝豊はうつろな目で、
 「すべて秀吉殿にお任せいたす」
 とまるで気のない様子。恵瓊が「いかがなされましたか?ひどくお加減が優れぬように見えますが」と心配すると、秀吉派の家老の一人が「どうももののけに取りつかれたようで、私どもも困っております」と口を滑らせ最近の主君の様子を話してしまった。すかさず恵瓊は、
 「それはご心配でありましょう。ならば長浜城のことは我らに任せて、京の東福寺でお祓いがてら養生するとよいでしょう」
 と丸めこんでしまった。彼は東福寺の僧でもあるから、そこは臨済宗の寺で境内も広く、四季折々の美しさに囲まれた素晴らしい寺だと説明し、最後に「ぜひ一度お出かけください」と勧めたので、よどんだ勝豊の目に光が戻って、「かような場所があるなら今すぐにでも行きたい」と、長浜城をあっけなく家老の徳永昌家に任せ、自らは京都は東山東福寺へと旅立つのであった──。
 そうして間もなく天正十一年(一五八三)、柴田勝家と羽柴秀吉とによる『賤ヶ岳の戦い』の幕が切って落とされる。伊賀守勝豊はこの戦いに参加することなく、代わりに家臣の山路正国、木下半右衛門、大鐘藤八郎らが秀吉軍に参陣する。そして戦いが秀吉優勢で決着を見ようとする頃、東福寺ではぼんやりとした夕暮れに包まれた病床に、すっかり衰弱しきった勝豊が、遠のく意識の中で何を見たのかハッと目を見開いた。
 「そうじゃ思い出した……あの片目の女──丸岡城の人柱となったお静と名乗る女ではなかったか──。そういえば、我が子に士分を与えてほしいと願っておったなぁ……すまぬことをしたなぁ……」
 そう呟いて静かに息を引き取った。それから八日の後、秀吉に追い詰められた柴田勝家もまた、妻のお市の方を道連れに北ノ庄城の炎の中に消えた。
 奇しくもしとしとゝゝゝゝと、春雨の降り続く卯月のことであった。

 二〇一七年八月十五日
(2012・04・30 GP(ガイドプレート)より拾集)