> 堀直虎・考J 「叒」の心
堀直虎・考J 「叒」の心
 須坂新聞社の大硲真一氏のご提案により、元須坂市立博物館館長で須坂史誌編纂委員の涌井二夫先生と、田中本家第十二代当主田中宏和氏との、堀直虎をめぐる語らいの場を得た。もともと直虎についてはまだまだ駆け出しの若輩者の身に余ったが、こうしたチャンスを与えてくださった関係者の方々に心より感謝申し上げたい。
 そこで話題に挙がったのが直虎直筆の『叒譜』についてである。もともとは原題を「花譜」といい、享和三年(一八〇三)に江州蒲生郡仁正寺城主古橋長昭や幕臣櫻井絢、京都の三熊花顛らによる桜花写生帖全五帖二五二図のうち、序や奥附などがはぶかれた図集のみ転写された原本を手にした直虎が模写し、文久元年(一八六一)、須坂藩主になる少し前に序を添えて成立したものである。模写とはいえ、その桜花の完成度は学術的にも芸術的にも申し分ない緻密さで、なるほど見る者を魅了する。
 涌井先生の関心は、序文を添える際に書のタイトルを「花譜」から『叒譜』に代えたところの直虎の心で、田中氏もまた奥田神社に「叒譜の杜」を作る計画に情熱を傾けている。その点筆者は赤面の至りで、直虎の父直格が編纂した「扶桑名画伝」の「扶桑」を取って付けたものだろうと、ものすごく安易に考えていた。「扶桑」とは中国から見た日本の美称であり「叒」とも言うからである。
 そこで今回はこの「叒」について、筆者なりに考察してみたい。
 さて「叒譜」だが、世の中に3冊しか現存していない。そのうちの2冊は国立国会図書館に収蔵され、残りの1冊が須坂市にあり、現在市の指定文化財になっている。その内容は桜花の図鑑と言うべきもので、一八七種二五〇の桜花図が直虎の手によって描かれたとされる。その数だけ見ても当時日本に自生していた桜と園芸品種のほとんどを網羅しており、序文には韓詩の余暇に写本したことが記されるが、余暇というにはあまりに細緻だ。ちなみに韓詩とは「韓詩外伝」のことで、中国の「詩経」に出てくる故事や逸事、伝承が書かれた中国古代の説話集である。漢学の学習を深める中で、きっと彼は世界最古の漢字辞書と言われる「説文解字」にも触れ、その中の次の記述を見つけたに相違ない。
 『日初出東方湯谷所登榑桑。叒木也。』
 訳すと「日初めて東方の湯谷に出て、登る所の槫桑は叒木なり」。槫桑とは扶桑のことで、古代中国の神話では巨木として登場し、東海にあるその扶桑樹、つまり叒木から日が昇ると考えられていた。最古の地理書と言われる『山海経』には、扶桑という神木から十個の太陽が昇ってくるが、一人の射手がそのうちの九個を射抜いたため太陽は一つになり、天が安らぎ地も喜んだとされ、いずれにせよ扶桑つまり叒木は世界樹とか宇宙樹とか、いわば「生命の樹」の象徴とされていたのである。扶桑という言葉は後に転じて日本の代名詞となり、やがて自国日本でも自称するようになっていく。
 ただ扶桑は書いて字の如く桑の木としての意味合いが強い。これは養蚕発祥地である中国では桑は聖なる木と考えられていたからであり、桑はそのまま日本においても霊力があるとされ、雷よけの呪文として「桑ばら、桑ばら」と言う俗習が残った。
 今回問題にするのは、「花(桜花)」がなぜ「叒」と訳されたかであり、そこに直虎の心に迫るヒントが隠されていると考える。もっとも涌井先生の研究によれば、「叒」とは「神の木」という意味で、農耕が中心だった当時の民は、田畑の作付け時期を桜の開花を見て判断した事実から、直虎の心には絶えず庶民を思う心があり、「今年も豊作であるように」と、桜の中に神聖なる生命を見ていたのではないかと言う。
 ここ信州須坂の地では毎年臥龍公園の桜が咲くのは四月中旬から下旬あたりである。公園の桜はソメイヨシノで、同種は実は人工的に品種改良されたものだと言われ、植樹されはじめたのが江戸末期。根付きが良く一斉に開花することから明治以降全国的規模で圧倒的に植えられるようになっていく。今では日本にある桜の八〇パーセントがソメイヨシノと言われ、桜の代名詞にもなっている。だから気象庁のさくら開花前線にも使われているわけだ。
 ところが叒譜にソメイヨシノは描かれていない。あるのは山野に自生する日本在来のいわゆるヤマザクラで、種類によってはソメイヨシノより数週間遅く咲くものもあるから、地域によって、桜の種類によって作付けの目安になるわけである。
 桜といえばパッと咲きパッと散るというイメージがあるが、それはソメイヨシノの特徴を利用して戦時中の軍国日本が大きく喧伝したもので、純粋で若く尊い命がどれだけ戦火に散ったことかと、その話をする涌井先生の口調は厳しく、目の奥は悲しみを帯びていた―――。なるほど先生に言われてしまえば「叒」とは「神の木」という考察ももっともな気がしてくる。

 そこで日本人と桜の関係をもう少し掘り下げてみることにした。
 まず、桜を詠んだ最古の歌を調べると、「日本書紀」に出て来る次の歌が挙げられる。
 「花はぐし桜の愛で同愛でば早く愛でず我が愛づる子ら」
 これは「古事記」と「日本書紀」にある衣通姫伝説から生まれたもので、允恭天皇が娘を思って詠んだものと言われる。実はこの物語、兄妹による近親相姦のラブロマンスで、意味は「桜のように可愛い子供達が道を外してしまった。それでもなお愛さずにいられない」といったところだろうか。
 また同二書には木花之佐久夜毘売と木花開耶姫という桜のように美しいという意味の名を持つ二人の女性が登場する。“サクヤ”が桜の意で、二人とも初代天皇である神武天皇の出生に深く関わっている。
 次に「万葉集」を見てみたい。まずは作者不詳の長歌である。
 「娘子らが頭挿のために風流士の縵のためと敷きませる国のはたてに咲きにける桜の花のにほひはもあなに」
 “敷きませる”とは天皇が統治しているという意味で、「天皇が統治しているこの国に咲き誇った花の何と美しいことでしょう。この桜の花は乙女たちの頭挿や風流男の縵のために咲いたのですよ」。なんとも美しい情景が目に浮かぶ。その返歌として、若宮年魚麻呂という人物が次の歌を詠った。
 「去年の春逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも」
 意味は「去年の春にお会いしたあなたが恋しくて、桜の花が咲いて迎えているようです」と、春になると宮中で華やかな花見の宴が行われていたことを物語る。「万葉集」にはまだまだある。
 「あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも」
 「見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも」
 「春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも」
 挙げればきりがないが、万葉集約四、五〇〇首の中に、桜を詠んだものが四〇首くらい存在する。
 九世紀に入って嵯峨天皇のこんなエピソードがある。牛車で出かけたところ偶然見かけた桜の美しさに心を奪われ、三回も引き返して鑑賞したという。間もなく嵯峨天皇は宮中の南殿に桜を植えて宴を催したのが花見の最初と言われ、やがて平安貴族のあいだで桜が大ブームになる。証拠に「古今集」になると約一、一〇〇首中、桜が詠まれている歌は五〇首以上となり、梅をはるかにしのぐテーマになっているのだ。
 それから時が下って室町時代に入ると、とんちで有名な一休宗純が出てきて「花は桜木、人は武士……」という有名な言葉を残す。更に戦国時代では豊臣秀吉が後世に語り継がれる盛大な醍醐の花見を催し、徳川の世になって三代将軍徳川家光は、上野の寛永寺に吉野の桜を移植し、隅田川の川岸にも桜を植えた。さらに八代将軍徳川吉宗は、飛鳥山を桜の名所に発展させていく。こうしてみると桜は歴史的にも日本の花といっても過言でない。
 そして江戸時代も中期を過ぎた頃、大ヒット歌舞伎が登場した。その演目名は「仮名手本忠臣蔵」で、元禄十五年(一七〇三)の赤穂浪士討ち入り事件より実に半世紀近く経っていた。場面は十段目「天川屋義兵内の場」、討ち入りの武器を調達した大坂堺の商人天川屋義平は捕り手に囲まれ、「計画を白状しろ」と息子の喉元に刀を突きつけられる。実はこの役人たちは赤穂浪士で、町人の義平が秘密をもらしはしないかと疑い試したのである。ところが義平はひるまず「天川屋義平は男でござる!さァ、子を殺せ」ときっぱり言い放つ。そこへ登場するのが主役の大石内蔵助がモデルの大星由良之助。義平に「すまぬ!」と土下座して、一世を風靡したあの名台詞を放つ。
 「花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存!」
 その台詞に江戸の庶民は大拍手と喝采を送った。この頃になると武士道の精神は町民の中にも浸透しており、同時に桜を花の代表格として当たり前のように賛美していたわけだ。いわば「武士」と「桜」とは必然的な組み合わせと言うべきか。当然この名台詞は直虎も知っていたことだろう。
 ほぼ時を同じくして国学が興隆する。この学問は、日本の古典を研究しようとしたもので、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代日本における独自の文化や思想、あるいは精神を明らかにしようとするもので、蘭学と並んで江戸時代を代表する学問の一つだった。そこには天皇の存在が厳然とし、やがて時代を動かす勤王思想へと発展していくわけである。

 日本における天皇の存在ほど難解なものはない。筆者は足りない頭で幾度となく考えをめぐらせてきたが、日本独特の天皇を頂点とした国家形態は、おそらく日本が島国であったことが最大の要因ではないかと考えている。余談になるが島国といえばイギリスもそうで、細かな国がいくつもあってその集合体が一つの国家を形成している点や、その頂点に天皇もしくは国王を置いている点、日本では武士道、イギリスでは騎士道という独自の文化を発展させてきた点など、少し考えただけでいくつもの共通点が思い浮かぶ。
 島国である日本は、大陸から攻め込まれたら頼る民族もなければ逃げ場もないわけで、追い詰められたら最後、降伏するか死ぬより仕方がない地形の中で歴史を積み重ねてきた。それはイギリスも同じだが、イギリスは緯度が高く寒そうに思われがちな国だから、古代人的感性に立てばいまひとつ魅力に欠ける。対して日本は大陸の最東端に位置した太陽が昇る所の国である。西洋ではジパング(黄金の国)、中国では扶桑と称されるほど魅力にあふれた国ではないか。おのずとそこに住む人々の自国に対する誇りと自尊心も高まったに違いない。幕末に巻き起こった攘夷運動も、太平洋戦争敗戦後に日本が植民地化されなかったのも、あるいは日本民族の誇り高さの証明だったかも知れない。
 戦国時代のように夷敵がない時は近隣でいざこざが絶えないが、太平洋戦争のように夷敵が出現した有事となれば、天皇を中心として国民が一丸となれる不思議な国でもある。そして日本の長い歴史の中で、天皇が存在しなかった時代など一度もないのだ。そんな極めて特殊な地形と風土の中で熟成されてきたものが武士道であり大和心である。「大和」とは「日本」の異名だ。日本という郷土の中で共存してきた日本人の感性にぴたりと一致する桜の美しさの中に、直虎はきっと日本人たる秀気を感じていたのではなかろうか。
 直虎は漢学を勉強していた。しかしそれは「和魂漢才」という師の亀田鶯谷特有の学問であった。つまり日本人の魂、言い換えれば「大和魂」に裏打ちされたところの漢学である。後に彼が西洋文明を学ぶのも、「大和魂」の上に蓄積される知識だったわけだ。

 ここで「叒譜」に書かれた直虎の序文を見てみたい。ここでは平成十六年四月十日付の「須坂新聞」に掲載された涌井先生ご自身が書かれた「知られざる『叒譜』の系譜と真価」から引用してみる。
一、「叒」とは東方秀気の集まる所に生じて、わが秋津洲(日本)にのみある木であり、中国などの書で「扶桑」がこれにあたる。
二、昔の人は桜桃や海棠にもあてるがそれは違う。「叒」は春の日差しに溶け込み、嬌蘂艶弁、爛漫妖嬈として、その美しさはまことに造花の絶技である。
三、しかし、この花を愛でる者は多いが、酔舞狼藉をし、赤と白の違いもわきまえない。まして子細に花を観察する者はない。
四、叒譜を撰したのは誰の手によるかは知らない。濃淡や重単同じでないものもある。図写してその名を記述したが、花の性種は知らない。
五、探捜の力を集めた。
六、他人の批判もまた受けたい。
七、文久元年に良山(直虎)が韓詩の余暇に写本した。
 概ねこのような意味に大別される。つまり直虎は、
 「勉強の合間に図写して名称を記してみたが、実は私も桜の花のことはよく知らない。ただ中国では扶桑と呼ばれ、その美しさは筆舌に尽くせない。しかし桜を愛する者は多いが、花見などして騒いでいるだけで、その姿は感心しない。この桜は我が日本国にのみある木で、東方の秀気が集まる所に生ずるのだ。その名を私は「叒」と名付けた。」
 直虎は桜の中に、日本の美意識とともに理想の日本人というものを見ていた。仮に筆者がいま一度「叒譜」を訳すとしたら、『大和桜の譜』としよう。
 「大和」とは「大和魂」のことである。それは直虎の生き方の中に筆者が常々感じてきた日本人固有の負けない精神のことである。かつて吉田松陰もまた日本の将来を案じ「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と詠んだそれと同じものである。
 直虎は、日本有史以来静かに形成されてきた日本人の日本人たる水晶のような心をして、己が成すべき使命を確知していた。攘夷、開国、勤王、佐幕……、当時の思想的枠組みを超えて、日本人のDNAに刻まれた共通の思い―――それこそ「叒」ではなかったか。
 
> 堀直虎・考K 解読!堀直虎辞世の歌
堀直虎・考K 解読!堀直虎辞世の歌
 これまで堀直虎について筆者なりにいくつかの角度から考察を加えてきたが、いくら考えても、どう頭をひねっても理解できない重大な事柄があった。それは直虎という人物を知る以上、おそらく誰もが気になるところのもの―――、
 堀直虎辞世の歌の意味―――である。
 言葉だけならすぐ知れる。おそらく家老丸山次郎本政に宛てた「麁勺胸痛」という見出しの歌がそれではないかとされるが、詠まれた明確な日付は分かっていない。そこには、
 『越久れたる者る越を里とるわらびが重ねきわ越もき心やわらび山』
 と書かれている。原本は変体仮名でつづられ非常に読みづらい、というより読めないので現代の読みと漢字に変換してみる。
 『遅れたる春を折り取るわらびが重ねきわ重き心やわらび山』
 こうした歌は、どこに句読点を打つかで大きく意味が変わってしまう。なにやら「遅れた春」とか、「わらび」という言葉が二回使われていたり、また「心が重い」と言っているのは分かるが、実際問題その心が全く読めない。筆者が直虎に関心を持って約二年近くを経ているが、実はその間ずっと悩まされ続けてきた難問題である。
 ある書には、これを辞世の歌とは認めているものの意味が理解できず、「乱心の兆しが見える」とまで書いている。結局、解読不能であったがために、勝海舟が言う直虎「乱心説」を助長する結果を招いてしまった元凶の一つと言える。その汚名を返上するためにも是が非でも読み解くことが、直虎を幕末の中心的立役者に仕立て上げようとする者の至上命令であるわけだ。
 この難題にペンを走らせる決意をしたのは、筆者なりにひとつの結論を見たからで、今回は直虎辞世の歌の心に迫ってみたい。

 まずタイトルにあたる「麁勺胸痛」の意味だが、「麁」とは常用漢字では「粗」と書き、「あらいこと・雑なこと・大まかなこと」を表わし、「勺」とは積の単位で、もともとは「わずか・少量」を意味しているから直訳すれば「大まかに僅か」、つまり「なんとなく胸が痛む」といったところか。そしてなぜ胸が痛むのか、その理由が辞世の歌に詠まれていることになる。
 歌の中でもっとも気になるのは「わらび」が二度出てくることだ。「わらび」といえば山菜の「蕨」しか思いつかないが、直虎がこの「わらび」に込めた思いが解らなければ歌の意味など理解できるはずもない。この“わらび”こそ解読のポイントであるとまでは見当がついたが、そこからが堂々巡りの地獄であった。
 そもそもワラビには弱い毒性があるが、その繁殖力から凶作と飢饉に備えた食料として、あく抜きをし、お浸しや漬物、あるいはわらび餅などにして食べるのが昔からの習いだが、ワラビの他の能力を探れば、ワラビの“ワラ”は“藁”から来たという説があり、城などを築城する際、干した蕨を紐の替わりにして、籠城戦の非常食として建築材料にも使用されていた。
 その他「蕨」と名の付く地名もあり、奥武蔵の蕨山や中山道の蕨宿、埼玉県の蕨市や、もしかしたら直虎が住んでいた住居周辺に同じ名の地籍があったかもしれないと、江戸の古地図を調べてみたり、あるいは「わらび」にまつわる民話や伝承など、そんな余計な雑学ばかりを身に着けながら時間ばかりが経過した。
 ところがある日、「蕨手刀」という六世紀から八世紀頃にかけて東北地方の蝦夷を中心に制作された鉄製の剣があることを知る。柄が蕨の形状をしているためそう呼ばれるが、日本刀の起源の一つともされ、平将門は茎に毛抜形の透かしを入れた蕨手刀を進化させた「毛抜形太刀」という刀を持っていた。瓢箪から駒とはこのことで、平将門からつながったのが「平家物語」であった。

 『平家物語(巻第二)教訓状』の一節、筆者がその記述を見つけたのはまったくの偶然である。
 『先づ世に四恩候ふ。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩これなり。その中にもつとも重きは朝恩なり。普天の下、王地にあらずと言ふことなし。さればかの頴川の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を折りし賢人も、勅命背き難き礼儀をば存知すとこそ承れ』
 この中の“蕨を折りし賢人”の文字が目に飛び込んだ。直虎が詠んだ“折り取るわらび”とぴったり重なったのだ。ふつう物を収穫するという意味には「採る」や「狩る」という言葉を使う。それが蕨の場合「折る」と表現するのは慣例的なものか。確かに収穫の際はポキッと折れる音に心地よさを感じるが、調べてみるとそう表現する俳句などあるにはあるがあまり一般的でない。とすると、やはり無関係であるとは断言できない。
 前半部分を訳すと、
 「世の中には四つの恩がある。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩である。その中でも最も重要なのは朝廷の恩である。天下は全て朝廷の治める地であることは言うまでもない」
 ここで「朝廷の恩」という言葉が出てくる。前回『「叒」の心』でも触れたが、「叒」の意味の中に含まれているのも日本における天皇の存在である。筆者はそれを「大和魂」と表現したが、直虎の中に「朝恩」があったことも事実だろう。
 次に「かの頴川の水に耳を洗ひ」とは、「世の穢れを聞いた耳も頴川の水で洗うと清められる」という中国古代の故事を引いたもので、司馬遷の『史記』や荘周の『荘子』にも見られる。内容が面白いので記しておこう。
 許由という賢人がいた。あるとき皇帝から「大臣になれ」と言われるが、彼は頴川という川に行き耳を洗って帰った。一方、巣父という賢人がいて、牛に水をのませようと頴川に向かったところ二人がばったり出会う。すると許由は、
 「大臣になれと聞いて耳が穢れてしまったから頴川ですすいで来たのだ」
 と言うと巣父はこう答えた。
 「ならばその水は穢れているから牛に与えるのはやめておこう」
 と。栄貴を忌み嫌うことの例えである。
 さて問題は次の『首陽山に蕨を折りし賢人』である。
 まず「首陽山」であるが、これは中国山西省の西南部に実在する山の名である。この山で何があったかが司馬遷の『史記(伯夷列伝)』の冒頭を飾る。その内容は、
 古代中国の殷王朝は、暴君と名高い紂王が治めていた国である。その末期のこと、孤竹国に伯夷と叔斉という君主の子がいた。君主は末弟の叔斉を後継に考えていたが、やがて亡くなると、長兄の伯夷は父の遺志に従い叔斉が位を継承すべきと言って国を出奔する。ところが叔斉は、長兄を差し置いて就位などできないと同じく国を出てしまい、結局二人の真ん中の子が君主になった。
 こうして伯夷と叔斉は、老人をいたわると聞く周国の文王西伯を頼って西へ向かうが、やがて西伯は没し、その後継の太子は自らを武王と称して大軍を集め、父西伯の位牌をかざして東の殷の紂王を征伐に行くと挙兵した。そのとき伯夷と叔斉は武王の馬の手綱に取り付いて、
 「亡くなられた父君を葬りもせず、しかも戦争を起こすとは“孝”といえましょうか?臣下の身で主君を討つことが“仁”といえましょうか!」
 と諌言した。しかし武王は忠告を聞かず、家来たちは刀を抜いて二人を取り囲む。そこへ文王西伯以来の軍師太公望が出てきて「これぞ義人である!」と一喝してその場は収まるが、その後武王は殷を平定し、天下の諸侯はこぞって周を朝廷と仰ぐようになった。
 ところが伯夷と叔斉はそれを恥とし、暴に暴をもって報いる武王のやり方に対し、“義”を守り周の穀物を食べる事を潔よしとはしなかった。人里はなれた首陽山に隠れ、蕨を採って命をつなぎ、そして餓えてまさに死のうとするとき『采薇の歌』を詠む。この“采薇”が“折りしわらび”のことである。
 登彼西山兮。采其薇矣。(首陽山に登り、蕨を採って暮らした)
 以暴易暴兮。不知其非矣。(武王は暴力を除くために暴力を用いたが、人はその非を知らない)
 神農虞夏忽焉沒兮。(神農、舜帝、禹王の世はもうない)
 吾適安歸矣。(私はどこへ身を寄せればよいのか)
 吁嗟徂兮。命之衰矣。(ああ、行こう。命も衰えた)
 (注釈……神農は中国神話に登場する建国の聖人三皇の一人。虞夏は舜帝と禹王のこと。舜帝は五帝最後の聖人で、禹王は三皇五帝に続く理想の統治者。)
 こうして二人は世を憂いて餓死する。司馬遷は「天道是邪非邪」、つまり「天は常に善人の味方をするとは限らない」という問いを出発点として、あの一大叙事詩『史記』の列伝をつづり始めるのである。
 平家物語の『首陽山に蕨を折りし賢人』とは伯夷と叔斉のことで、続く『勅命背き難き礼儀をば存知すとこそ承れ』とは、その二人が朝廷の命令に背いてはならないことをよくよく知っていた、と説いているわけだ。
 「采薇の歌」では蕨を採る場面を「采其薇矣」と書いているのが判る。平家物語で「折りし」と訳されているのが「采」の漢字で、もともとは「えらびとる」という意味がある。ではどこで「采」が「折る」となったかといえば、それには日本における「史記」の系譜を克明に調べなければならない。それは後の研究者に譲るとして、なにより興味をそそるのは、伯夷と叔斉の時代背景と、諫死直前の直虎が置かれた時代背景が非常によく似ている点である。つまり殷の紂王に対応するのが朝廷の名を冠した薩長軍で、周の武王に対応するのが追い詰められた将軍慶喜である。物語では周の武王が国を統治するが、直虎が自刃の覚悟を決めるその時は、世の中がどう動くか誰にも全く予測がつかなかった。
 直虎の切腹姿が描かれた錦絵「名誉新談」の注釈にこうある。
 『慶応四年一月中旬、前将軍東遁の後、主家の浮沈を憂い西城に登り、更に寝食を忘れしばしば大君に議論を起こし―――』
 “憂いて寝食を忘れ”そして“大君(慶喜)に議論を起こし”である。まさに伯夷と叔斉が“武王に諌言”し“世を憂いて餓死”した故事の内容と物の見事に一致するとは思わないだろうか。筆者には、直虎は「蕨を折りし賢人」と自分を重ねているとしか思えない。つまり歌に詠まれる『わらび山』とは『首陽山』を指していると結論付ければ、これまで直虎を取り巻いていた様々な謎が、靄が晴れていくように一気に視界がひらけていく心地がするのである。
 であるならば、まずこの歌が詠まれた期日は、直虎が諫死を遂げる直前の慶応四年、慶喜が大坂から戻り江戸城に入った一月一二日から直虎自刃の一月一七日の間のいずれかということになり(おそらく彼が自刃する数日前、親友山内豊福が切腹(一三日夜半)し、その訃報を知った一四・一五・一六日のいずれかではないかと推測する)、正真正銘の辞世の歌であることに間違いない。しかも末期に詠んだ言葉が史記の伯夷列伝からきているならば、最大の謎とされてきた直虎の将軍に対する諌言の内容まで、予想可能な範囲に照準を定めることができる。つまりキーワードとなるのは伯夷と叔斉が武王に諌言した「孝」と「仁」の二字と、二人が守った「義」の一字だ。これについては改めて考察を試みたい。
 では『遅れたる春』とはどういう意味か?
 それは文上においては「春はまだ来ない」という意味であり、文底においては次の二つの意味を潜めていると考えた。
 一つ目は、「春」とは直虎が若年寄兼外国総奉行になった栄達の道、つまり「遅れたる春」とは幕府の重臣に登用されるのが遅すぎたという意味である。もう少し早くに取り立てられていれば、このような窮地は免れたかも知れないという、己を賢人と知るところの悔しさである。
 二つ目は、「春」とは徳川家再興の先に築かれたはずの天皇中心、徳川家主導の理想国家である。「遅れたる」とはその道を築く手段が尽きてしまったことを言っている。固い友情で結ばれていた友たちも、この時となっては互いに別々の意見を激しくぶつけ合い、一人、二人と徳川家を離れて行ってしまった。心がばらばらでは成就できることも不可能となる。もはや打つ手がないという諦観だ。いずれにせよ思い通りにならないもどかしさを表現しているのではないだろうか。
 直虎は漢学のエキスパートであり、非常に聡明な頭脳の持ち主だった。だから史記伯夷列伝第一の伯夷・叔斉の故事を知らなかったはずがないし、その時代背景の類似性にもきっと気付いていたはずだ。もし自分が伯夷や叔斉だったならばと必ず考えていたはずである。ただ、膨大な量の中国故事の中からこの特定の故事を閃くには、縁となる、直虎の身の回りで起こったそれ相応の出来事があったはずである。

 ―――慶喜が大坂から戻り江戸城に入ってからというもの、城内は喧々囂々、戦々恐々とした緊張感が充満していた。直虎は何度か将軍のいる西の丸に登って面会を求め、議論を持ちかけようと試みたが、目通りが叶うことはなかった。
 山内豊福の訃報を知り、須坂藩江戸上屋敷で静かに思索に耽る彼は、火鉢の炎を見るともなしに、ここ数日なんとなく息苦しいような胸の痛みに耐えながら食事も喉を通らない。その息苦しさから障子を開くと寒気がいちどきに室内に流れ込んだ。ぶるっとひとつ武者震いをした彼の視線の先、ふと、寒々とした殺風景な庭に積もった雪の間から萌える、季節はずれの蕨が光っているのを見つけた。
 「ほう、わらびか……」
 思わず草履を履いて外に出れば、蕨はそこかしこに生えていた。彼はドングリを拾い集める童子のように、雪の中から凛と伸びた青々した蕨を折り取り手の中に重ねていった。
 「そうじゃ。確か史記の中に“采薇の歌”があったなあ……。ひとつわしもあの二人の仲間に寄してもらおうか……」

 おくれたる春を 折りとる蕨が重ねきわ 重き心や采薇山

 この蕨が冬蕨なのか早蕨なのかは分からない。冬蕨ならば遅すぎるし早蕨ならば早すぎる旧暦睦月。いずれにしても季節はずれの蕨である。それは江戸から明治への移り変わりの中に芽吹いた、混乱の時代を生きた人間群像の象徴でもある。
 直虎が詠んだ辞世の歌を、筆者は次のように読み返してみた。
 『遅すぎる春はもう訪れることはないだろう。季節はずれの蕨を折り取り手の中に重ねていけば、首陽山で死んでいった伯夷と叔斉のように心が重い。新しい時代へのけじめをつけねばなるまい』
 この歌には乱心の兆しなど微塵もない。深く世を憂いた一人の男の、熱き思いが秘められているのである。
 
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堀直虎・考L 堀直虎諌言の謎
 堀直虎が将軍徳川慶喜に諌言した内容とはいったい何か?
 これは、現在までの直虎研究の最大の謎とされ、おそらく証拠が出ない限り、これからも永遠の謎として議論されていくものだろう。それは仕方のないこととして、筆者は筆者なりに一つの結論を示しておきたい。
 前回、直虎辞世の歌の解読を通して、「わらび山」とは『史記(伯夷列伝)第一』に出てくる「首陽山」を指していることに言及した。大要を述べると、「史記」の伯夷と叔斉が武王に諌言した行為と直虎が将軍慶喜に諌言した行為、そして伯夷と叔斉が世を憂いて首陽山で餓死した故事と直虎が世を憂いて寝食を忘れ深く思い悩んだ事実の二点が酷似していることから、直虎は、殷の紂王が朝廷の名を冠した薩長軍で、周の武王が慶喜であると重ねて見ていたのではないかと推察し、もし人生の最期の最期に詠んだ諫死直前の歌にその意味を込めていたとしたら、伯夷と叔斉が武王に諌言した内容に準じたものこそが、直虎が慶喜に諌言した内容であると考えることができる―――というものである。
 核心に迫る前に、大坂からの慶喜帰還から直虎自刃までの六日の間に起こった、筆者が気になる二つの事柄について記しておきたい。

 一つは小栗上野介忠順の存在である。小栗は評定で激しく「抗戦論」を説くが、慶喜の逆鱗に触れ一月一五日にそれまでの職だった陸軍奉行並と勘定奉行の御役御免を言い渡される。その行動から慶喜は、既にそのとき恭順を決めていたと解釈され、直虎の存在を隠してしまっている感があるからだ。
 確かに小栗上野介は幕臣のナンバー2とまで言われる逸材で、日米修好通商条約批准書交換のためポーハタン号でアメリカへ渡った使節団の実質的責任者であり、帰国後は、後の日本に大きく貢献することになる横須賀製鉄所の建設を行った当時の幕臣にして、先進的すぎる洞察力と実行力を持っていた。ところが大政奉還を境に彼の運命は大きく変わる。戊辰戦争の引き金ともなった江戸薩摩藩邸焼き討ちの火付け役でもあり、結果的には徳川家を窮地に追い込んでしまったという悲しい一面も持ち、直虎同様根っからの幕臣には違いないが、評定における激しい「抗戦論」など見ても、玉に傷とも言うべき癇癪癖を持っていたことも否めない。
 一月一二日から行われた評定において、榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らを従えた小栗は、最初から徹底抗戦を主張していた。その巧妙なる作戦とは、
 「新政府軍が箱根関に入ったところを陸から迎撃し、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させ、後続部隊を艦砲射撃で足止めし、孤立化した箱根の敵軍を殲滅する」
 というもので、後に長州藩の天才軍略家大村益次郎にして「もし実行されていたら我々の首はなかった」とまで言わしめた秘策である。ところがそれを聞いた慶喜は俄かに席を立ち、その際小栗は慶喜の袴の裾を掴み決断を迫ったという逸話まで残る。結局慶喜はその策を聞き入れなかったばかりか小栗を罷免する。
 確かにこの様子を見る限り慶喜は恭順のように見えるが、であったなら拭いきれない非常に大きな疑問が残ってしまう。それは、なぜ直虎は死ぬ必要があったかという、直虎側に立つ者でなくとも当然生じる根本的な疑問である。小栗が罷免されたのが一五日だから、直虎が自刃するまでにはまだ少なくも一日以上残されている。その間、慶喜が恭順方針を固めていたなら、一分一秒を争う重要な時期に幕府は一日早く次の行動に移れたはずだし、まして直虎が死ぬ必要もなかった。やはりその時点では「慶喜はまだ迷っていた」という以外ない。
 二つ目の気になる事柄は、一三日夜半に起こった山内豊福の切腹である。筆者はこの親友の切腹が、直虎が自刃の覚悟を決めるに至った大きな動機の一つと考えているが、詳しい内容は以前「友よ、君も逝くのか妻女と共に」でも触れたので略す。
 というのは「史記」の伯夷列伝を知るにつけ、故事と対比するに人物が一人足りないという小さな矛盾を感じていたことによる。すなわち伯夷には叔斉という無二の弟がいたのに対して、直虎は一人だったのかという単純でごく小さな不快感に似たものであるが、考察を重ねるうち、もしかしたら直虎がこの故事を思い出した時、伯夷が自分ならば叔斉を豊福に重ねたのではないかと直感したのだ。なるほどそうであれば、切腹という最終決断を後押しした裏付けに親友の存在があったこと、そして直虎がこの故事から受けた説得性も非常に強烈なものであったろうと、いや増して納得を深めるのだ。
 「共に誓い合った幕臣としての道を、友を一人で逝かせてなるものか!」
 という熱く純粋で誠実な心を、直虎は持っていたに違いない。
 気になる二点とは以上で、これから述べる直虎諌言の内容とは直接関係しないが、それまでの経緯にあった事実として、ストーリーを支える重要な要素だと思っている。

 さて、諌言の内容である。今までずっと「史記(伯夷列伝)」になぞらえてきたからには、ある程度筆者の結論は決まっている。
 最初に、諌言内容に係わっていると思われる『史記(伯夷列伝)第一』の伯夷・叔斉の段の原文を確認しておきたい。
 『伯夷・叔斉、叩馬而諌曰、父死不葬、爰及干戈、可謂孝乎。以臣弑君、可謂仁乎。左右欲兵之。太公曰、此義人也。扶而去之。』
 この漢文を読み下すと次のようになる。
 『伯夷・叔斉、馬を叩へて諌さめて曰く、父して葬らず、爰に干戈に及ぶは孝と謂ふべきか、と。臣を以って君を弑するは、仁と謂ふべきか、と。左右之を兵んと欲っす。太公曰く、此れ義人なり、と。扶けて之を去しむ。』
 読み下してもなお分かりづらい部分があるので現代語訳を記しておく。
 『伯夷と叔斉は、その馬の手綱に取り付いて武王に諌めた。
 「亡くなられた父親を葬りもせず、しかも干戈(戦争)を起こすとは“孝”といえましょうか。臣として君を殺そうとすることは“仁”といえましょうか」
 側の者が刃を向けようとした。太公は「これぞ“義人”である」と言い、押し抱えて連れていった。』
 前回、「解読!直虎辞世の歌」でも触れた、これが伯夷と叔斉の諌言シーンである。
 ここでポイントになるのが“孝”と“仁”、そして“義人”という日本においても重要とされる三つの『徳』である。もともと中国思想における徳の規範として、特に「孝」と「仁」、そして「義」が示されており、「儒教の五常」では仁・義・礼・智・信に立て分けられ論じられてきたが、それはそのまま日本においても朱子学などの学派を問わず“人の道”の重要な規範となっていた。
 すなわち「孝」とは、子が親によく服従することを示す儒教の根幹をなす徳で、「仁」とは倫理規定、人間関係の基本を示す。つまり他人に対する親愛の情や優しさのことで、「礼」を支える精神であり心のあり方である。そして「義」とは人間の行動や志操に関する概念で、正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」とは対立する概念である。つまり「義人」とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」である。
 “正しい行い”とか“正義”とは何ぞやという話になるとまた複雑になるのでここでは論ずることはしないが、幕末における正義といっても、やはり「徳」を基本としたところの人のとるべき道ではなかったか。そして直虎は、この「徳」の立場から諌言したと思うのだ。

 慶応四年一月一七日午前、ぶっ通しで実に五日間続けられてきた評定は、「抗戦論」「恭順論」両者の意見も策も出尽くして、その日大広間で行われた大評定では、もはや声を挙げる者も少なく、参加者たちの顔にも疲れの色が見えていた。
 後は慶喜の言葉を待つばかりといった異常なほどの緊張感に包まれているものの、慶喜はいまだ決断をしかねていた。「抗戦論」をとれば朝廷への違背、「恭順論」をとれば代々続く徳川家への冒涜、そのいずれの選択も耐えがたい屈辱に違いない。それ以前に慶喜にしてみれば自分を陥れた薩摩と長州こそ許しがたい奸賊であり、心のどこかで福井藩の松平春嶽や土佐藩の山内容堂が自分に同情し、手を差し伸べてくれることを、祈るような気持ちで待っているのだった。しかしそうしている間にも官軍は江戸に向かって進軍を開始しようとしている。もはや迷っている猶予などないギリギリの線なのだ。
 その時、
 「申し上げます!」
 静寂を切り裂く妙に落ち着き払った声を挙げた者がいた。直虎である。その表情は恍惚とし、もはや生きている者とも死んでいる者とも判断がつかない無機質な物体にも見えた。
 「申してみよ」と慶喜が言う。直虎は「はっ!」とかしこまり、後方から名立たる大名の合間を縫い“中段の間”に進み出ると、深々と頭を畳に押しつけた。そして「抗戦論」でもない「恭順論」でもない、全く別の角度から朗々と意見を申し述べたのである。
 「東照大権現様は“厭離穢土・欣求浄土”を御旗に掲げ、偃武の世を御つくりになられました。そして歴代の公方様はその御遺志を御継ぎあそばされ、二五〇年の泰平の世を築いてこられたのであります。この期に及び民を巻き込み、戦争を起こすことが“孝”といえましょうか? また、日本国は朝恩の上に成り立つ国であり、徳川といえど朝廷の臣。臣下の身で主君を討つことが“仁”といえましょうか!」
 東照大権現とは徳川宗家の始祖である徳川家康のことで、その旗印は『厭離穢土・欣求浄土』である。「厭離穢土」とは争いの世界を離れることであり、「欣求浄土」とは争いの無い世界を作ることで、家康はこの理想を旗に掲げ、戦国時代という争いの絶えない世の幕を閉じた。そして「偃武」とは武器を伏せて使わないことで、年号を「元和偃武」と改め、江戸という「和」を根幹に据えた新しい時代の到来を宣言したのである。これは世界的にも類を見ない軍縮政策の成功例として、現在大きく評価されるに至る。
 そして歴代の将軍は皆、毎日居住区である中奥で明け六ツ(日の出前に星が見えなくなる時刻)に起床し、大奥に渡って歴代の将軍の位牌に手を合わせた後、中奥に戻って朝食をとり衣服を改め、衣冠装束で再び大奥へ渡って江戸城内の紅葉山東照宮へ参拝することが欠かすことのない日課であった。
 また、家康は「禁中並公家書法度」で朝廷と政治を立て分けはしたが、天皇の臣下である立場を崩していない。つまり征夷大将軍という官職自体天皇から与えられたもので、それは今日に至るまで明確に保ってきた徳川宗家の朝廷に対する姿勢なのである。直虎は、それらのことを伯夷と叔斉の故事に習って「孝」と「仁」の立場から諌めたのだ。
 その意味を理解するまでには少しの時間が必要だった。やがて慶喜は口を開いた。
 「ならばお主は、わしにどうせよと言うのか?」
 直虎は面を上げ、慶喜をキッと見つめた。その表情はアルカイックスマイルとも言おうか、笑みすら含んでいるようだった。
 直虎は静かに言った。
 「―――“義”のままに」
 日本の長い歴史の中でゆっくりと、しかし確かに形成されてきた武士道と呼ばれる精神の、最終手段における“義”の意味するものは切腹以外の何ものでもない。直虎の言葉は、まるで呼吸でもするように、あるいは水でも飲むようにあまりに自然ではあったが、そこからは想像もできないほどの重さがあった。慶喜の表情はみるみる憤怒を帯び、顔を真っ赤にして、
 「腹を切れと申すか!無礼者!」
 と言い放ったと思うと俄かに立ち上がり、足音を荒げてその場を立ち去った。
 「お待ちください!」
 思わず直虎は慶喜の足にしがみついた。
 「御決断を!」
 慶喜は直虎を力任せに蹴り飛ばし、そのまま大評定から姿を消した。
 将軍に物申した以上、武士のとるべき行為もまた決まっている。それ以前に、真の大和武士とはどうあるべきかを、魂まで西洋に売り渡そうとしている時の武士を名乗る者達に厳然と示す必要があった―――と言うより、彼の大和魂はそう欲したのであろう。直虎は将軍の後ろ姿を見送ると、大広間から白書院につながる松之廊下に躍り出て、身に着けていた紋付袴を脱ぎ捨て、もとより身にまとっていた白装束に変じると、懐に隠し持っていた短刀を引き抜いた。
 「御免!」
 周りが取り押さえるより早く、切っ先は彼の腹部を貫いた。
 筆者は更に付け加えよう―――どういう因果かそこは、かつて浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りかかったのと同じ場所だった。いわゆる“江戸城を穢す”出来事は、その歴史において浅野内匠頭の傷害事件と堀直虎自刃の二度のみだったと言われる。あろうことか彼の遺体は、汚物を処分する雪隠(便所)に運ばれた。
 ではなぜ徳川家を最も大切に考えていた直虎が、江戸城内で血を流すことができたかと問えば、それは偏に将軍慶喜に対して鮮烈な印象を与え、徳川の世の幕引きの時を告げるためだったと考える。仮にあの時あのまま江戸戦争に突入していたならば、江戸城に流された血はけっして彼一人では済まなかった。彼は、江戸城で流れたはずの多くの血を、わが一身に移して犠牲になったともいえる。
 こうして直虎は己の成すべき使命を遂げた。つまり直虎の死とは、「諫死」というより『殉義』というべきもので、これが筆者が考える直虎自刃の一部始終である。

 最後にこの顛末を目撃したであろう直虎を乱心扱いした勝海舟の心境を推察しておく。
 勝はもともと幕臣には違いないが、小普請組という旗本の中でも最下層の無職の家に生まれた。当時の著しい身分社会では、かろうじて武士の仲間とはいえ農民同然の生活を強いられ、上級武士に対する激しい劣等感に苛まれながら成長したに違いない。町民層にも武士道精神は浸透していたとはいえ、幼少の勝にとっては無縁の世界だったろう。
 勝の業績は確かに人間味に満ち、偉大ではあるが、生死のあり方にこだわる大和武士としては三流だったと言わざるを得ない。アメリカ思想を抵抗なく受け入れ、その行動はどこまでも合理的かつ感情的。最も顕著なのは慶喜に対する不満と、前将軍家茂に対する好意とが際立っている点である。およそ武士ならば御家守護は当然として、例えどんな主君であろうと不平不満など口にしてはいけない。まして日記に書き残すなど考えも及ばないはずである。要するに勝は道義でなく感情で動いていたと言われても仕方なく、それが彼の特徴であり、西洋化に邁進していく近代日本の中で栄光を勝ち得た要因だろう。
 そんな勝にとって直虎の切腹はまったく奇怪、理解不能の行為だったのではなかろうか。
 「バッカじゃねえの?」
 という笑い声すら聞こえてくるのだ。価値観の違いは否めないが、要するに勝はサムライ(武士)ではなかったということである。
 しかしそのサムライでない多くの人間たちが、新しい時代を拓いた事実を慮れば、筆者の感慨は禁じ得ない。もっともそれゆえにこそ堀直虎は、ラスト・サムライに成り得るのである。
 
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