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(5)人足集め

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 4年敬組の5時間目は学活で、桜田は黒板の前に後ろ手を組んで立つと、いつものように日直の号令を合図に、子ども達の大きな挨拶の声が響いて授業が始まった。桜田はそんな子どもの声が大好きだった。三十三人の児童の瞳はどれもキラキラ輝いて、少しくらい気分が滅入っている時も、その美しさにいつも救われている。今日は運動会の役決めや、諸々の小道具を作らなければならない。体育委員が中心となり、各委員会ごとの役割分担や、学年ダンス種目で使うぼんぼんとか薄色紙で花を作ったり、選抜リレーの選出も選ばなければならない。桜田は礼が済むと「体育委員会さんお願い」と進行を任せ、教員に与えられているデスクに腰をおろした。
 この子らが3年生の時の担任が、よほど教育技術が優れていたと見え、四月に新任として初めて教壇に立った桜田ではあったが、これまで特に大きな問題もなく、すこぶる順調な学級経営ができていた。彼女がひとこと声を発しただけで、察しの早い彼らは瞬く間に教師のやろうとしている心を読んで、自らの力で話し合いができるほどの力を持っていた。桜田は自分が4年生だった頃を思い出し、今の出来すぎたクラスに空恐ろしさすら覚える。
 そのクラスのまとまりの中心となっていたのが、周防瑠璃という名の女優バリに可愛い顔をした女子だった。はじめてこの子らと対面したとき一人ずつ将来の夢を聞いたが、その際ハキハキと「女優です!」と答えたのが彼女である。両親は離婚して母子家庭であるが、なるほど母親の仕事は県のローカルテレビ局のアナウンサーで、周防美沙江といえばニュースの時間帯にチャンネルを変えれば必ず見ると、校内で知らない者はない。その娘はこの年で既にモデルなどの仕事もやっているようで、たまにその撮影とかで学校を休むこともあるが、とても明るい、クラスには欠かせないムードメーカーなのである。
 授業は順調に進んで終盤にさしかかった。4名のリレー選手と補欠選手も決まり、桜田にバトンタッチした体育委員のメンバーも席に戻った。桜田は授業前の城田先生の言葉を思い出してこう言った。
 「毎年、5、6年生が運動会で取り組んでいることがありますが、それは何でしょう?」
 「組体操!」
 数人が手を挙げると同時にそう発言した。
 「そう。皆さんも来年やることになりますが、実は今年、6年愛組の城田先生のご提案で、とっても大きな塔≠立てることになりました。だけども人数が少し足りなくて、4年生から一番てっぺんの4名を出してほしいと言われました」
 「ぼくがやる!」「わたしがやる!」と、数人の手が挙がったが、「でも、一番てっぺんだから、クラスの中でも一番体重が軽い人ということになりました」と桜田は立候補の言葉をさえぎった。
 「ですので、このクラスからは、一番上が一番体重の軽い希さんにやってもらい、その下を次に体重が軽い瑠璃さんと、敬組と信組からそれぞれ一人ずつ出て、3人で希さんを支えることになりました」
 終始消極的でおとなしい希が赤面して「ええっ?」と言いたそうな困り顔で下を向いてしまった。皆の視線が希に集まる。ところがその時、名前を呼ばれたもう一人の瑠璃の瞳に、嫉妬の情念が宿ったことには誰も気づかなかった。
 「二人とも、いいかなあ?」
 桜田の言葉に希は何も答えなかったが、瑠璃の方は立ち上がってつつつと希の席の脇に立つと、
 「希ちゃん、おめでとう!一緒にがんばろうねっ!」
 と明るい握手の手を差し伸べた。ところが希はなかなか手を出そうとしなかったので、瑠璃は強引に希の右手を引っ張り出して、力いっぱいに握った。「いたいっ!」と思った希だが、それをけっして口には出さなかった。桜田は、ここでも瑠璃の前向きな性格にすごく感心し、どうすればこういう立派な子に育つのだろう?―――と彼女に優しい笑みを贈っていた。

 さて、4年敬組と同じ時間に体育の授業を行っていたのが、昼休みに城田の提案を受けたばかりの5年信組、本木弘先生のクラスである。彼もまた、「ひと月前までは円塔の練習をする」と約束した手前、子供達に円塔≠フ話をしなければならなかった。もともと彼自身が乗り気でなかったこともあり、適当に話しておこうと決めていたが、そこで思わぬ展開を見ることになる。
 「十段円塔というのは、まだ日本でも成功させたことのない大技で、できなければ先生はそれでいいと思っている。なにも円塔でなくても十段ピラミッドでも大変なことなんだから。無理をして怪我をしても損だし、今から2週間練習してみて、無理だと判断したらピラミッドに切り替えようと思うんだ。でも最初から無理と言ってしまうのは良くないので、できるところまででいいので十段円塔に挑戦したいと思う」
 この時である。
 「先生、日本で成功したことがないって本当?」
 一人の男子がそう言った。
 「本当だよ。日本どころか世界でもやったことがないんじゃないかな?」
 クラスの中に「え〜っ?」と、どよめきが起こった。当然本木は「やめようよ」という意見が大半を占めるだろうと予想していたところが、
 「先生、やりたい!」
 と、今度は女子の中から声があがった。そのうち「やりたいよナ!」とか「やろうぜ!」とか「ギネスに乗ろうぜ」とか「みんなに自慢しよう!」とか、ことごとく前向きな方向に動き出し、言い出しっぺの本木の方が収拾をつけられずに困ってしまった。
 「ほんとにやりたいのか?」と疑心暗鬼に改めて聞くと、即座に「やりたーい!」という全員の返答が返ってきた。「なんだこの現象は……?」と本木は未体験の子供達の熱いパワーに、驚きと共に嬉しさを感じずにはいられなかった。「これこそ本来の子供の姿じゃないか?」と、生まれてはじめて本物の子供に出会ったような感動に打ち震えていた。
 それと同じ体験をしたのは本木だけではなかった。5学年の新田先生のクラスも、安岡花子先生のクラスも、6学年の高橋一郎先生のクラスも八木先生のクラスも、それと似たような現象が起こったと言うのである。顔を合わせた5、6年の担任教師達は、その日、仕事を終えて帰るまでの間、そんな話題でもちきりだった。
 「いまの子供達は本当の冒険を知らないからじゃないかしら?なんでもかんでも大人や社会が子供達の行動範囲を決めてしまっているでしょ?とうていできない事でも、どこかで挑戦したいという本然的な思いがあるのかも……」
 「それを解放してあげることが成長というものですかね?とすれば現代は、大人が子供の成長を抑え込んでしまっているということになりますね」
 安岡先生も本木と同様、子供達の喘ぎに似た「みんなで何かしたい!」という欲求を強く感じたようだった。それには慎重で几帳面な新田も、自分も子供の頃にやらなければならなかった何か大切な事をやり残して成長してしまったような気になって、急に教師という仕事に自信をなくした。そんな中、
 「例えそうだとしても、そんな危険なことを子供達にさせるわけには絶対いかない!」と、最後まで言い張ったのは教務主任の高橋先生である。
 「誰が何と言おうとこれが正論であり、事故が起こってからでは遅いのです!」と譲らない。城田はそれらの話を全て聞いた上で、PTA会長の音無宗司の家へ向かうことにした。

 次男の音無太一は城田のクラスの構成員だったので、お宅には家庭訪問で行ったことがあり、PTA会長の宗司とも一学期最初の懇親会などで顔見知り、その時はきさくで人なつっこい印象を受けたが、彼がリストラで職を失ったと聞いてからは会っておらず、内心心配をしていたところだった。
 彼の勤めていた王手電機メーカーというのは、栄枯盛衰を絵に描いたような企業で、バブル経済の時など飛ぶ鳥を落とすほどの勢いで大発展し、頻繁なテレビコマーシャルに、市街を歩けばまるでわがもの顔で肩で風を切る従業員たちの姿も多く見かけたものだ。当然定年まで勤めるつもりでいた音無だったから、異常な好景気が続くまだ子が生まれる前、迷うことなく南蛍ケ丘に立派な家を買った。が、バブル崩壊後、会社の業績はすっかり右肩下がりで、ついにはリーマンショックのあおりで大規模なリストラを行ったのだった。今では地元出身の従業員など皆無で、本社のある川崎から優秀な社員だけを送り込んでひっそりと業務を続けている。音無は石にかじりつく思いで何年間は会社にしがみついていたが、ついにこの6月、大きな家のローンを残したまま、返済の目途もたたずにリストラされた。しかもこの大不況の世の中では次の職といってもとんと見つからない。いわば彼は時代社会の犠牲者だった。
 せめてそれがPTA会長を受ける前ならまだ良かったが、会長になって調子に乗って、入学式でビル・ゲイツなど引用して「みなさんもおおいに勉強して、大金持ちになりましょう!」などと偉そうに挨拶したものだから、余計世間に顔向けができなくなった。今では引きこもりで出歩くこともなく、夫婦喧嘩が絶えない喧騒とした家庭生活を送っていた。
 城田が玄関のインターホンのボタンを押そうとしたとき、家の中から妻公子の大きなどなり声が聞こえた。
 「いいかげん仕事を見つけてきたらどうなの!お酒ばっかり飲んで!」と次に皿が割れるような音が響いた。城田はびっくりしたが、かまわずボタンを押すと、インターホンの公子はまるで別人で、貴婦人のような声で「はーい、どちら様でございますか?」と花が咲いたように言った。
 「蛍ケ丘小学校の城田です」
 「まあ城田先生?ちょっとお待ちください」と、身だしなみを整える時間を待って、ようやく玄関の扉が開く。城田はPTA会長に話があると簡潔に事情を説明すると難なく応接間に通されたが、姿を現したPTA会長は額から血を出していた。
 「ああ城田先生、どうなさいました?」
 と明るさを装ってはいたが、額の出血が気になって仕方がない。おまけにかなり酔っている。「実は」と、城田は運動会の組体操の話を熱っぽく語ったが、当の音無は聞いているのやら別のことを考えているのやら、生返事をくり返すばかりで目も虚ろ。実のところ、今月支払いの住宅ローンのことで頭がいっぱいだった。
 「で、PTA会長のお力でご協力いただける人足を、できるだけ沢山集めてほしいのですが」
 と城田は結論を述べたが、「もう一度、最初からお願いできますか?」と頼りない。同じ内容の話を同じテンションで話すことなどとうていできなかったが、「要するに保護者の皆さんに協力を呼びかければいいわけですね」とようやく趣旨が伝わったようだった。
 「で、何日までに何人集めればいいでしょう?」
 「運動会の一ケ月前には練習を始めたいので、それまでに出来る限りたくさんお願いしたいのです」
 「わかりました。さっそく通知を出します。なあに心配には及びません。ひと声かければ二、三百人くらいはすぐ集まるでしょう。それにしても千五百人はたいへんですね」
 「地域の方々の協力も得ようと思います。これから区長さんのところへ行って話してみます」
 「先生もたいへんですナ」と、他人事のような発言が気にはなったが、二、三百人≠ニいう力強い言葉を聞いて安心した城田は、PTA会長の家を出て区長に電話をかけた。