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(3)ガリ先生

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 「ガリ先生、ちょっといいですか?」
 男の正体は城田兵悟先生だった。一方、理科室にいたのは通称「ガリ先生」と呼ばれる理科の専任教師で、翌日の理科の授業で行う実験の準備中だった。皆が口をそろえて「ガリ先生」と言うものだから、本名を思い出すのに時間がかかる。「ガリ」とは「ガリレオ」の略で、本人もいたく気に入っているようなのであえて本名で彼を呼ぶ者はいなかった。その名の通り物理学の傾倒者で、多感な二〇代のくせに物理以外に興味を示すものはなく、その堅物さは一見近寄りがたい印象を与えるが、話してみれば案外穏やかで、笑いもすれば怒りもした。ただものの考え方がいちいち理論的で、まともに話していると非常に疲れる。通常彼は、いつも一人でいることが多かったので、突然の理科室への訪問者が嬉しかったらしく、
 「城田先生。明日は振り子の実験でその準備なんです。こんな時間にどうなさいました?」
 と珍しい客を笑顔で迎え入れた。
 「ちょっと折り入ってご相談がありまして……」
 城田はそう言うと、ガリ先生の脇に椅子を引き出してゆっくり座った。そして暫く何も言わないでガリ先生の準備の様子を眺めていたが、いくつかの振り子の玉が同調して同じ動きになったとき、
 「相談というのは物理のことでして……」
 城田の言葉にガリ先生の目つきが変わった。
 「5、6年生の運動会種目なんですが、すっかり分らなくなってしまいまして」
 「運動会?物理のお話じゃないんですか?」
 「それが物理と非常に関係がありまして、組体操なんですが……」
 「そういえば今年の運動会の日は、皆既日食が見られますね!」と言葉をさえぎって、ガリ先生は興奮して言った。
 「皆既日食?今年、見られるってニュースでやってましたが、運動会の日なんですか?」
 「そうですよ!楽しみだなあ。そうだ、黒メガネを配布して、運動会を中断してみんなで観察するのもいいですね!」
 「そりゃいい。で、組体操のことなんですが……」
 城田にしてみれば皆既日食などどうでもよい。
 「組体操?ああ、いろいろな体位がありますが、物理的に可能かというお話ですね」と、物わかりの早いガリ先生は準備の手を休めて城田の正面に腰かけ、「で、何をなさるお考えなんですか?」と、城田の顔を興味深そうにみつめた。
 「実はですね……」
 城田は少し躊躇したあと、生唾を呑み込んでこう言った。
 「十段円塔を建てたいなあ……なんて、思いまして……ね……」
 「十段円塔……?ピラミッドじゃなくて、円塔ですか?」
 ガリ先生は別段驚いた様子も見せず、淡々と「円塔」という言葉を繰り返した。
 「十段ピラミッドじゃダメなんですか?最近どこかの学校でも成功させたようですが」
 「ダメなんです。ピラミッドには仏は住まない。仏はやっぱり塔≠ネんです!物理的に可能でしょうか?」
 普通の人間ならば何故ここで仏≠ェ出てくるかの方に意識がいくはずだったが、ガリ先生の関心は既に可能かどうかの方にあり、しばらくは首を傾げたまま右手を頬に当てて動かなかった。城田は続けた。
 「過去に日本でも六段円塔を成功させたという話は聞いたことがあるんです。ただいくらものの本を調べても、四段円塔の作り方までしか載ってない。でもスペインのカルターニャ地方では人間の塔≠ニいう十段の塔を作り上げる技があると聞きました。もし十段円塔が可能ならば、今回の運動会でなにがなんでも成功させたいんです!」
 「理論的には可能ですよ」
 ガリ先生は涼しげな口調で答えた。「そうですか!」と思わず城田は声を上げそうになったが、
 「ただし、小学5、6年生にそれだけの筋力と体力、それに高度に優れたバランス力があればの話です。失敗のリスクを考えたらやらない方が利口だと思います。怪我人が何人も出ますよ」
 「怪我人は絶対出しません!」
 強い口調は城田の決意だった。ところがガリ先生はそんな感情などには全く興味がないらしく、突然立ち上がるとチョークを握り、黒板にいくつもの棒人間を描きはじめた。
 「知りたいのは、成功させるに何人必要か?ということなんです」
 城田の言葉をよそに、すっかり自分の世界に入り込んでいる様子のガリ先生は、
 「仮に一人の体重が四十キログラムだとします。頂点の1人を支えるのに最低3人必要ですからここで160キログラム、更にその下は6人で、倍、倍となっていきますから5段目は24人、ここまでの総重量が1840キログラムになりますね。これを十段まで作り上げるわけですから全部で1534人必要で、一番下の人達は768人で30640キログラム、つまり約30トンの重さを支えなければならないことになります」
 とそこまで言って、「う〜ん」とうなったまま止まってしまった。
 「それじゃ全校児童を総動員してもぜんぜん足りませんね……」
 「問題はそこではありません。この塔全体の重心の問題です。唯一成功の条件は、この塔の重心が常に一段目の円の中心にあることなのです。仮にこの千五百人あまりのうちの誰か一人がバランスを崩したとします。すると一番下のこの人一人にかかる総重量は30トン。一人でその重さに耐えられるでしょうか?」
 「崩れますね……」
 「即死ですよ!」と、ガリ先生は他人事のように哄笑した。
 「失敬々々、もっと現実的に考えましょう。現在5、6年生は何人いましたっけ?」
 「6年生が3クラス合わせて98名で、5年生が88名ですので全員で186名です」
 「へえ……、それは神の思し召しですね」
 「と、いいますと?」
 「最上段の九段目十段目の4名の人員は四年生から選抜しましょう。その条件は一番軽い子です。以下八段目から四段目に必要な人員が186名ですから5、6年生の数とピッタリです。しかし数の上では7段円塔にしかならない」
 「あと何人必要ですか?」
 「三段目に192人、二段目に394人、一番下がさきほど言ったように768人で、合計すると1354人です。……これはどうも実現できそうにありませんね」
 ガリ先生はそこまで考えて、ようやく実現不能という結論を導き出した。
 「PTAの父兄にお願いしましょう!」
 「PTA?それはちょっと難しいでしょう。この前の人権講演会では十人くらいしかいませんでしたよ。閑古鳥が鳴いてました」と、またガリ先生は哄笑した。
 「名簿上は四〇〇世帯くらいあるんですから、本気でやれば200人くらい集められるでしょう」
 「それでも千人以上足りません」
 「じゃあ地元の地域にもお願いしましょう。区長さんに頼んで!」
 城田はそこまで言うと何かを思い出したように理科室を飛び出した。残されたガリ先生は、
 「無理だと思うけどナ」
 と、ぽつんとつぶやいた。

 城田は職員室に戻って荷物をまとめ、入口の出欠の名札を裏返すと、そのまま急いだ様子で学校を飛び出した。そしてかなり走り込んだシルバーの車のエンジンをかけると、蛍ケ丘の大通りに出、通り沿いの夕焼け弁当クック・モットの前で車を止めた。
 「唐揚げ弁当ひとつください」
 「城田先生……、いまお帰りですか?お疲れ様です」
 やつれた印象を受ける店長の紅矢春子は、城田のことをよく知っている様子で、作り笑顔でそう言った。
 「希ちゃんは?」
 希とは4年生で彼女の一人娘である。
 「2階で宿題でもやってんじゃないかしら?お味噌汁はどうします?」
 「付けてください」
 「まいど……」
 「でも驚いたなあ、4月に蛍ケ丘に転任になって、ふと立ち寄った弁当屋に春子先生がいるんだもの。またどうしてこんなところで弁当屋なんか?」
 「いろいろあるわよ。はい、おつり……」
 「来月の運動会、必ず来てくださいね!すごいものをお見せしますから!」
 「もうそんな季節なのね。でもお店があるから」
 「5、6年生の恒例演目で組体操をやるんです。希ちゃんにも……」
 「運動会の話はやめにしましょ?もうお店、閉める時間ですから、ごめんなさい」
 城田は春子に追い出されるように弁当屋を出た。そして車の中から、店の戸締りをする彼女の姿を見つめながら大きなため息を落とし、やがてにぶいエンジン音を鳴らしながら車を発車させた。
 看板のクック・モットの電気が消えたのは間もなくのことだった。
 「のぞみ〜!お仏壇にご飯のお供えしてくれた?」
 「まだ〜!」と、1階の厨房から話しかける春子に、2階から女の子の声がする。
 「お母さん、まだ洗い物が残っているからやってくれる?」
 「わかった〜!」
 春子は厨房の流しで最後の片づけを終え、レジを開いて本日の売り上げを数えながら頭に手を当てた。出納帳を開いて過去にさかのぼってみても、売り上げは増えはしない。分り切っていることだが体が勝手に動いてしまう。
 「今月もきびしいの……?」
 脇にいたのは希だった。春子ははねあがって驚いた。
 「だいじょうぶ、だいじょうぶ!あんたは心配しなさんな。それより急に驚くじゃない」
 「ごめん、お父さんのご飯をとりに来たの。お店の余り」
 「今日は少し多めに残っているから山盛りにしておやり。お父さん、喜ぶから」
 「わかった」と、希は小さな腕で茶碗にご飯をよそうと、そのまま2階へあがった。
 「ちゃんと手を合わせるのよ」
 「はーい」
 仏壇の前にちょこんと座った希の目線には、父親であろう眼鏡をしたスーツ姿の遺影があった。希は日課のように鈴を鳴らすと、手を合わせてお辞儀をし、その後やりかけの宿題を終わらせようと机に向かって鉛筆を握った。