> 第1章
第1章
 
> 第1章 > (一)忘却の中のひらめき
(一)忘却の中のひらめき
 霞みかかる大気のむこうで、紅色の寒椿が咲いていた。
 雪解けの須坂の春はまだ遠く、ぼんやりと瞳に映ったその椿を眺めながら、百恵は小さなため息を落とした。
 蛍ヶ丘は須坂市の北、小布施町に隣接する小さな町である。百恵はそこに在するコンビニエンスストアでアルバイトをするいわゆる就職浪人だった。昨年春、大学を卒業したものの世の中は就職難で希望の職に就くことができず、この春からのそれにも漏れてしまった口である。というより、自分は何をしたいのか?もっと言えば、自分という存在は何なのだろうと考え始め、結局分からずに、仕事をしないわけにもいかないからバイトでもしようと、昨年の秋から家から少し離れたコンビニで働きはじめたのだった───。
 早番は早朝五時からの勤務。眠い目の奥の寒椿は確かに紅色だった。
 工事現場に行くのだろうか、作業着姿の中年の男がラジオを鳴らしながら店内に入ってきた。男が品定めをしている間耳に入ってきたのは、昨日発生した殺人事件のニュース。息子が刃物で父親を殺害した事件で、道徳的には許されざる行為が、社会的風潮としては「またか……」というある種の諦観ムードが完全に支配していた事件でもあった。百恵は聞くともなしに聞いていたが、やがて早朝の来店者は缶コーヒー二本とパン、そして煙草を買って出ていった。
 マニュアル通りの科白で男を送り出した後、百恵は再び椿に目を移した。やがて、コンビニ前の道路を走る車が次第に増え、椿を覆っていた寒気の霧が急に晴れた時、
 「そういえば……」
 脳裏には、愛した祖母が亡くなる時の光景がひらめいていた。それは、遠い忘却の中でぼんやりと浮かぶ、祖母の枕元に置かれた紅色をした一輪の寒椿だった。
 「忘れてた……。私、高齢者介護の仕事をしたかったんだっけ……」

 おばあちゃんの枕元にはちょうど同じ色の椿の花が咲いていた。十歳の私は何もしてあげられなかった。まだ身体が小さくて、おばあちゃんを抱きかかえることも、支えてあげることもできなかったから、トイレにも、お風呂にも連れていってあげられなかったの。
 私、その時誓ったっけ……。大きくなったら介護の仕事をしよう!……って。
 元気な時のおばあちゃんは、私をよく家の近くを流れる河原へ連れていってくれた。でもその川は魚が住まない川で、石はみな茶褐色に染まっているの。あるとき私が「魚釣りをしたい」と言うとおばあちゃんは静かに笑っていた───。
 帰り道にある小さなお店で、いつもお菓子を買ってくれるの。どれにしようか迷ってしまって、長い時間、おばあちゃんは何も言わずに待っていてくれた。ようやく決まると、「ほんとにそれでいいの?」と笑っていた。そう、ついでにおばあちゃんはカップラーメンをよく買っていた……。私が学校から帰るとおばあちゃんはおやつがわりにそのラーメンを食べていて、私が「いいな、おばあちゃんきり」って言うと、いつも半分わけてくれたっけなあ……。

 百恵の表情に微笑みが浮かんだ。その回想を断ち切るように、店内が急に混みだした。
 「何、考え事しているの?」
 声をかけたのは大学時代に絵画サークルで一緒だった新津俊介だった。
 「なあに?また栄養食品?たまにはちゃんとしたもの食べないとダメよ」
 カウンタに持ってきた商品のバーコードを読み取りながら百恵が言った。彼女にとって彼氏といえば彼氏である俊介は、大学卒業後IT関連の会社に勤めるサラリーマンだった。県外出身の彼は、百恵と同じ長野の千曲川大学に同期で入学したが、卒業と同時に長野市の会社に就職が決まったので実家には戻らず、そのまま中野市のアパートに一人暮らしをする人の良い青年だった。ちょうど通勤途中にあるコンビニへは、彼女が早番の時には必ず顔を出す。いっそ就職などしないで、早く結婚して専業主婦になる道もある。百恵は俊介を見てニコリと笑った。
 「このところ毎日忙しかったんだけど、今日は定時にあがれそうだ。どう?久しぶりに外で食事でも。おごるよ」
 百恵が笑顔を返事に変えると、「じゃ、仕事が終わったら迎えに行くから、家で待ってて」と、俊介は手を振りながら出て行った。
 
> 第1章 > (二)名前のこと
(二)名前のこと
 私の名前……?
 そんなのどうでもいいじゃない!
 “馬場百恵 ”……、“ババモモエ ”よ!。
 笑った? いま笑ったでしょ? いいの、いいの、気にしてないから……。もう、二十四年間この名前と付き合っているから、いいかげん慣れちゃった。
 この名前を付けたのは祖父。なんでも私はオトコで産まれるはずだったらしいの。みんな母から聞いた話だけれど、母が妊娠したと判った時に、初孫の誕生に大喜びした祖父が「どうしても俺に名前を付けさせろ」と駄々をこねたというの。もともと父も養子で馬場家に婿入りしていたから強い権限はなく、「お父さん、お願いします」と命名の権利を祖父に委ねたんだって。馬場家の後継ぎができたという喜びから、私は当然オトコで産まれるものと祖父も父も思いこんでいて、そんな雰囲気に呑まれて母までも「男の子かも知れない」と言ったものだから、いよいよ祖父も喜び勇んで、東京の大きな書店まで行って命名の本を十冊ばかり買ってきた。果たして五月五日の子どもの日、考えあぐねて決めた名前が“太一 ”……。
 私は“馬場太一 ”という名前で人生を生きるはずだった。なんとも名のある作家か評論家のようでとても気に入ってはいるんだけど、私が産まれて紅潮した顔で病院に駆けつけた祖父と父の表情が蒼白になったというわ。
 オチンチンがない……。
 さあ、困った。戸籍法第四九条には「出生の届け出は、十四日以内にしなければならない」とある。まさか女の子に“太一”はないだろう。しかし祖父の名前を考える気力はすでに太一の名を生み出した時に完全に失せていた。二週間などという期限は無情に迫る。たまりかねた父は、涙ながらに訴えた。
 「お、お父さん!」
 祖父だって自分が名前を付けると言った手前、後に退けるはずもなく、かといって良い名など出てくるはずもなかった。やり場のないもどかしさでこう叫んだの。
 「も、もうええ!」
 「モ?モ?エ……。いいじゃないですか、お父さん。それでいきましょう!」
 「ももえ……???」
 ちょうど山口百恵が引退した頃で、大ファンだった父はよく「♪ ばかにしないでよ!」と歌っていたらしい。
 こんな笑い話を母はいつも楽しそうに話すが、命名された本人はたまったものではない。
 その時考えられた太一と言う名は、私より十歳年下の弟にまわされた。
 苗字が“山口”ならまだしも“馬場”でしょ。小学校の時から婆さんでもないのに「ババア、ババア」と呼ばれる苦痛は、私のアイデンティティーにどれほどマイナスの影響を及ぼしたことか。
 加えて、馬場に連なる“モモエ”が笑っちゃうでしょう。苗字がなくて“モモエ”だけならいいの。ボーイフレンドに『モモちゃん』なんて呼ばれたら、なんだかとってもカワイイ女の子を想像できちゃうじゃない。でもね、ババの下に付いた途端、お笑いになるのはどうして?モモってピーチのことだけど、あの形を見るとオシリを連想するし、また“もも”というとふとももを思い起こす。桃太郎というのもあるけれど、やっぱりモモといえばピチピチした女性を思い起こすでしょ。そこまではいいのだけど、上にババが付いただけで、プラスイメージのももが、いっぺんにマイナスイメージになってしまうのが許せない。
 しかも日本人は、自己紹介をするとき決まって苗字から言う。この習わしもまた許せない。これが英語圏の国ならば、私の人生は変わっていたに違いないの!
 いっそ“お水”の世界に飛び込んで、名前だけ言っていれば済む世界で人生を送ろうかとも考えたけど、職業に偏見を持つ家の男たちに「バカモノ!」と怒られた。
 自分の名前でもう一つ気に入らないのは、「も、も、え」という言葉の韻。“もえ”とは“萌え”に通じ、春先に新緑の草木が生き生きと生い茂る様を連想するけど、上にもう一つ余計に、“も”の字が付くのがいけない。なんだか萌えてはいけないところに萌えているような苦しさが出てきて、“萌え”を“燃え”と連想する人にしてみれば、婆さんが自分の家が火事になるのを発見して、大きな挫折感の中で苦し紛れに言う言葉にも聞こえる。だから夫婦別姓なんて死んでもイヤ!
 ともあれ私は、自分の名前をあれこれ考えないことにしているの。考えれば考えるほど名付け親の祖父に対する憎悪が浮かんで、いつか殺してやろうと考えてしまうのだ。もう死んじゃっているけどね……。最近では開き直って、自己紹介の後に必ず「悪い?」という言葉を添えることが身に付いた。人間二十四年も生きていれば、自分を傷つけない方途をいつしか身につけているものね。

 イタリアンレストランの一角で、百恵が一遍に話し終えたとき、俊介は口にしたコーヒーを前に大声で笑い出した。
 「なんだ、百恵はそんなことで悩んでいたの?」
 「なによ、こっちは真剣よ。新津君だって初めて会ったとき笑ったじゃない!」
 「そうだっけ?何なら、いっそ今すぐ俺と結婚しようか?そうすれば新津百恵になれるじゃない?それに、就職の心配をする必要もない……」
 百恵は絡めたパスタの指先を止めて笑う俊介を見つめた。その視線に気づいた俊介は急に真顔になってコーヒーを一口飲んだ。
 「ごめん……。プロポーズの言葉にしては少し軽すぎたノリだった。でも聞いて、俺に経済的な基盤ができたら、いずれそう言うつもり」
 「新津くん……」
 百恵は朝のコンビニでの回想を話そうと思った。今の自分の悩みを理解してくれる人は、俊介しかいないと感じた。大学の絵画サークルの気の合う仲間同士で泊まりで出かけ、半分は遊び、半分は風景画を描いて津々浦々を旅した。それは、その積み重ねの中で徐々に芽生えてきた淡い恋愛感情だった。
 「実は私、高齢者介護の仕事をしようかって思ってる……」
 「初耳だな……。百恵がそんな事を考えていたなんて……、OLになりたかったんじゃないの?」
 「うん……。でもね、今朝コンビニの外に咲く赤い椿を見ていて思い出したの。おばあちゃんの事……」
 俊介は俄かに笑い出した。
 「幼少よりババアと呼ばれ続けてきたかわいい女の子が、老人施設で働くなんて、ちょっと傑作だね」
 「私、本気よ。今年、介護ヘルパーの試験を受けてみようって……」
 「ごめん、笑って悪かった。でも介護福祉士とかホームヘルパーの資格って、専門学校を出たとか、ある程度の経験が必要なんじゃないかな?そうだ、それなら雄助に聞いてみるよ。あいつの姉貴がコスモス園でケアマネージャーをしてるはずだから、もし空きがあったら紹介してもらえるかも知れない」
 「ええ、ほんとう!高梨君のお姉さん?コスモス園に勤めているなんて知らなかった。懐かしいな……。大学卒業して以来会ってない。高梨君、元気にしてる?」
 店内の照明とBGMが二人の会話に花を添えていた。やがてウェイトレスが食べ終えたパスタの皿を引きあげていった。
 
> 第1章 > (三)気になる出会い
(三)気になる出会い
 コスモス園は百恵の勤めるコンビニから数キロも離れていない距離にある。周囲は一面のリンゴ畑、主要道を脇にそれた細い市道沿いにある、須坂市では一番大きな老人介護施設であった。なぜ彼女が知っているかといえば、自宅からコンビニまでの道すがら、『山口脳神経外科医院』という医者があり、その看板のすぐ脇の交差点に『老人介護施設コスモス園』への標識が立っていたからである。
 『山口脳神経外科医院』の看板は、ずっと気になっていた。別に脳神経外科に興味があるわけでないし、その医者に関わる用事もなかったが、あえて言うなら昔祖母が通院していた医者であるほかは、まったく気になる理由などないはずの看板が、彼女の気をずっと引いていたのは“山口”という文字だった。
 山口という名の男性と結婚できればどんなにステキな事だろう……。
 それは乙女が描くミーハー的な憧れだったに相違ない。そんな事は百恵自身知っていた。二十四歳も終わろうとしているのにそんな幻想的な世界にうつつを抜かす年でもないが、いつも何となく気になって、山口医院の脇を通りすぎる時は、いつもその看板を見るのを忘れなかった。

 その日の勤務は遅番だった。遅番はお昼から夜の十時までの勤務で、十時からは深夜勤務の男性と交替となる。それまで、夕方まではパートのおばさんと、夕方からはバイトの学生と一緒に店を任される。
 仕事はいつも単調なもの。レジで精算をする仕事はもちろん、トラックで運ばれた商品を陳列棚に並べる他は、お客さんが商品を買いやすいようにきれいに並べたり、ゴミの処理や店内や店の周りの掃除、接客はマニュアル通りに対応すればいいし、慣れるまでは大変だったが、慣れてしまえばどうでもない、ただ時間を過ごすだけの平凡なものになっていた。合間を見ながら介護ヘルパーの資格を取得するための勉強をする余裕までできるようになったのである。
 そんな百恵に、最近、少し気になる人が現れた。
 おそらく以前から同じように、同じような時間帯に、同じような服装で来ていたのだろうが、それに気づいたのはごく最近の事だった。
 年は三十代後半の清潔感のある男性で、たまに三歳くらいの男の子の手を引いてやってくる。買う物といえば毎日カップラーメンと煙草。たまにビールを買う他は、変わった物を持ってきたかと思えば、それはトイレットペーパーや歯磨き粉などの日常用品だった。三歳くらいの男の子を連れて来る日は、自分でカップラーメンを選んだ後は、子どもに好きな物を選ばせて、笑いながら、
 「これでいいのかい?」
 と言ってレジに来る。何だか幼少の自分とおばあちゃんを見ているようで、最初はその光景が微笑ましかったのだ。二人の会話の中で知り得る事は、子どもの名を“大樹”といい、二人が父子であるということのみで、それ以外は何も知らない。特別話をするわけでなし、レジで数百円のお金のやりとりをするだけのただの店員と客の関係だった。しかし遅番の時は、いつも九時半頃になると必ず彼が現れるのである。
 今日は子どもの手を引いてやってきた。そしていつもの様にカップラーメンの陳列棚の前で品定めをしている間、幼い子どもはお菓子の陳列棚の前で、ヒーロー物のおまけが付いた商品を選ぶのである。
 「どうだ?大樹、決まったかい?」
 「パパ、これ……」
 「これでいいのかい?じゃあ、これを買って帰ろう」
 二人がレジに来てカップラーメンとお菓子の精算をすると、彼は財布から千円札を取り出した。
 「千円お預かりいたします。六百八十三円のお返しです」
 ふと、つり銭を返すその手が触れた時、百恵は何か得体の知れない特別な感情が込み上げるのを感じていた。男はひとつ微笑んだ後、
 「ありがとう」
 と言って、再び子どもの手を引いて店を出て行った。
 車に乗って来る様子もないので、きっとこの近くに住んでいるに違いないが、何かとても気になって、妄想の中で彼の詮索をするようになったが、その名も家も百恵が知る由はなかった。
 
> 第1章 > (四)挑戦
(四)挑戦
 百恵は国家試験の介護福祉士を目指そうと思った。さしずめ地方自治体の行う講座を受講すれば数ヶ月で資格の得られるホームヘルパー二級を取得し、その後はどこか近くの老人介護の仕事をしながら経験を積み、受験資格が得られたところで挑戦をしようと考えた。
 さっそくこの四月から行われる講座を見つけだすと、迷わず申し込み、コンビニに勤めながら介護の道に進む決心をしたのである。自分の進むべき道に迷い、苦しんでいた日々が嘘のように思えたのも、忘れていた記憶の中で、祖母が一輪の椿の花となり、自分を導いてくれたのだと感じた。
 それは国内ばかりでなく世界をも襲う地震や津波などの自然災害の不安や、身近に起きる犯罪の数々をよそに、百恵の心を明るくしていた。
 そんな百恵に朗報が舞い込んだ。
 それは久しぶりに大学時代の絵画サークルのメンバーで飲もうと集まった時だった。百恵はビールを一口飲めば、もう頭がクラクラしてしまう体質だったが、久しぶりの再会に胸躍らせた。俊介の急な提案だったが、高梨雄助と百恵の親友田中彩香の四人は、昔話に花を咲かせたのである。
 高梨は公務員、彩香はいずれ独立するため今は美容室で実務経験を積む美容師だった。
 「ねえ、みんな、まだ絵はやっているの?結局芸術系の道に進んだのは私だけってわけか……。ネエ、ところでモモはいつまでコンビニでバイトするつもり?」
 彩香が少し酔いながら言った。
 「う、うん……。いま、考えている事があって……」
 歯に衣着せぬ間柄とはいえ、百恵はまだ自分が定職についていない事に引け目を感じていた。その時、俊介と高梨は顔を見合わせて微笑んだ。
 「なによ、男二人で顔を見合わせて笑ったりして。気持ち悪い」
 彩香が言うと、俊介は少し誇らしげに、
 「実は今日みんなで集まったのにはわけがあるんだ。百恵の就職祝いさ」
 と言った。
 「どういうこと……?」
 百恵が首を傾げると、急に高梨が立ち上がり、ひとつ咳払いをした後、
 「発表します!本日、馬場百恵さんのコスモス園への就職が決まりました!」
 と、声高らかに叫んだ。百恵はあっけにとられて、「どういうこと……?」を繰り返すと、すかさず俊介が、
 「百恵この間言ってたね。老人介護の仕事をしたいって。あの後さっそく雄助に言っておいたんだ」
 「そしたら今日、仕事中に姉貴から電話があって、コスモス園の介護スタッフに急遽欠員が出たって。『あんたの知り合いに介護の仕事したい人がいるって言ってたわよね』って!正式採用は面接してからじゃないとダメだけど、ほぼ決定。俺、姉貴に話しておくから、さっそく明日にでも面接に行くといいよ!」
 「ほんとう!」
 百恵は思わず叫んだ。
 「なになに?そんな話があったの!知らなかったの私だけ?モモって水くさいんだ!」
 彩香がふてくされると、それをうち消すように、
 「持つべきものは友だね!さあ、飲も飲も!」
 俊介は彩香に酒を勧め、百恵のグラスにもビールを注いだ。嬉しさと雰囲気に飲まれて、百恵は飲めないお酒を飲まされて、一時も経たずに酔いつぶれてしまった。覚えているのは家まで送ってくれた彩香の「明日面接、頑張りなさいよ!」という言葉と彼女の手を振る姿だった。
 
> 第1章 > (五)結婚の約束
(五)結婚の約束
 夜中の二時頃、百恵は急に目が覚めて、それからは頭がさえて全く寝付かれなかった。
 明日は遅番だから、午前中に面接に行かなければと思うと、コスモス園には何時に電話して、どの洋服を着ていこうかとか、何を聞かれるのだろうかとか、あれこれ考えをめぐらせているうちに、時計は三時を回っていた。
 そのうち、洋服だけでも決めておこうと、酔いのためクラクラする頭を気にせず起きあがり、キッチンへ行くとコップ一杯の水を飲み干した。
 酔っているのに、なぜか頭脳は異常にさえていた。
 年季の入った桐の洋服箪笥は祖母から譲り受けた物。もっとも自分専用で使うようになったのは、祖母が死んでからずっと後の話であるが、箪笥の扉を開けると防虫剤の匂いが鼻を突いた。それは縫い物をよくしていた祖母の匂いでもあった。
 思えば大学を卒業して以来、洋服箪笥を開ける事を忘れていた。大学時代に就職活動をした時のパンツスーツやワンピース、そこには高校時代の制服や中学時代のセーラー服まで捨てずにある。その中から数着取り出し、肩に当てては鏡をのぞき込んだ。
 あれこれ迷ったあげく、結局最後に決めたのは、襟の広い白のブラウスに、グレーのビジネススーツだった。大学時代、本命の企業に面接に行ったとき身に着けたもので、不合格の通知が届いた時は、すっかり肩を落としたものである。そのスーツにしようと決めたとき、一瞬はトラウマ状態に陥ったが、それを乗り越えてみせるという意識が勝ったのだ。
 試着して鏡に、身体を前や斜めに映して見ているうちに、胸にブローチを着けていく事を思いついた。昨年の誕生日に、気落ちしている彼女を気遣い、俊介がプレゼントしてくれた銀のブローチの事を思い出したのだ。
 「どこにしまったかな……」
 箪笥の中の引き出しをあちこち開いていくと、その中のひとつ、奥のところに埃をかぶったビロードで覆われた小さな宝石箱が現れた。百恵は懐かしさのあまり声をあげた。
 「ああ……、こんなところにしまってあったんだ……」
 それは幼い頃、まだ祖母が元気だった頃、宝物を入れておく専用の箱だった。開けると今ではガラクタとなった当時の大切な宝物たちが姿を現した。
 小さな人形に犬や猫の小さなセトモノ、お手玉におはじきに万華鏡、貝殻に洋服のガラスのボタンにビー玉に……、ビーズの指輪……、ビーズの指輪……
 ビーズの指輪を手に取った時、百恵の脳裏に遠い昔の記憶が鮮明によみがえった。

 そう……、あれは急におばあちゃんの具合が悪くなって、近所のお医者さんに往診に来てもらった時のこと……。あのお医者さん、赤髭先生って呼ばれてた。
 子どもは外で遊んでなさいって言われて、子どもがいてはいけない場所だと察した私は、言われるままにおもてに出たの。そう、確かあれは私がまだ学校にあがる前だから五歳のとき。
 ひとりで石を蹴って遊んでいたら、その石がそこに立ってたお兄さんの足に当たってしまったの。お兄さんは私を見て笑ってた。私は恥ずかしくて「ごめんなさい」も言えなかった。どぎまぎしていたらお兄さんが私のところに寄ってきて、いきなり抱っこしてくれた。
 「ここの家の子かい?」
 って言ったけど、私は恥ずかしくて頷きもしなかった。
 でも、そのお兄さんとはすぐに仲良くなった。あやとりを教えてもらったりケンケンパーをやったり……。私はお兄ちゃんが大好きになって、
 「お兄ちゃん、大学生?」
 って聞いたの。五歳でよくそんな言葉を知っていたなあって思うけど、確かに私はそう聞いた。お兄ちゃんは優しく頷いて、
 「そうだよ。よく大学生なんて言葉知ってるね」
 ってほめられた。私はお兄ちゃんと別れるのが寂しくなって、ポケットにあったビーズで二つの指輪を作ったの。お兄ちゃんの分と私の分。もちろん一人じゃできなかったからお兄ちゃんに手伝ってもらって。それでね、私まだ知らなくてその指輪をお兄ちゃんの人差し指にはめてね、なんていうか、そのお、いきなり告っちゃったの!今でもはっきり覚えてる。
 「わたし、お兄ちゃんのお嫁さんになってあげる?」
 って!そしたらお兄ちゃんは優しく笑って、「結婚指輪なら左手の薬指につけるものだよ」って、私の指輪と自分の指輪をつけなおしてくれた。
 「貴方が二十歳になって、もし、まだその気持ちが変わっていなかったら、考えてもいいですよ」
 「わたし、ぜったい忘れないよ!」
 お兄ちゃんはただ笑っているだけだった。名前も聞かなかったけど、本当にステキな男性だった……。
 でも、いつしか忘れてた……。このビーズの指輪を見つけるまで……。

 百恵はビーズの指輪を握りしめ、ビジネススーツのポケットにしまい込んだ。幼い頃の出来事は、その出来事全てが真実で、その幼い世界の全てだった。
 
> 第1章 > (六)面接
(六)面接
 昨夜は結局夜明けの五時頃うつらうつらしてきて、気が付くと朝の八時を過ぎていた。
 母も父もとっくに出かけ、かろうじて中学生の弟の太一が「遅刻だ!」と言って家を飛び出す姿を見たのだった。昨日の朗報を両親に伝えられなかった事を気にしながら、百恵はさっそくコスモス園に電話して、十時に面接する約束をとった。
 急いで着替えて化粧をすると、朝食も食べずに家を出た。
 「しまった……。忘れた……」
 車を運転しながら目的地近くまで来たとき、ブローチをすることを忘れたことに気が付いた。
 「男女の関係なんて薄情なものね。あんなに心配してくれた新津君からの贈り物、付けてくるの忘れるなんて……」
 現地に到着し、百恵は車を降りると、襟を正して施設長室へと足を運んだ。
 コスモス園は、身体もしくは精神上などの理由や経済的理由により、居宅において養護の困難な高齢者の看護や介護、あるいは機能訓練など、その他必要な医療と日常生活上の世話などのサービスを提供する老人介護施設である。入所定員一〇〇名程度、通所定員五〇名程度の規模で、施設長はじめ、理事、看護士以下七〇名程度の介護スタッフでそのすべてを運営している。
 施設長を高野といい温厚そうな人柄だった。それに面接をしたのはもう一人、事務長の須崎は少し几帳面そうな顔をしていた。最初緊張した百恵も、次第にその雰囲気に慣れ、介護の現状や問題点などを聞くたび、初めて飛び込もうとしている世界に多少尻込みした。特に痴呆症老人の話はショッキングだった。百恵の祖母もアルツハイマー型痴呆症と診断されたが、まだ症状は軽く、ひどくなる前に天寿をまっとうしたが、コスモス園に入所する高齢者たちは皆要介護認定を受けた方たちである。一抹の不安を隠しながら、百恵は必死に笑顔を作っていた。しかし面接とは形ばかりで「急に欠員が出たのでどうしようかと思ったが、とても助かるよ」を繰り返すだけで、面接らしい質問もなかったが、一つだけ「なぜ介護の仕事をしたいのか」という問いに対して、祖母の介護をできなかった悔しさを正直に話した。高野施設長は「明日からでも来てほしい」と言ってくれたが、様々な手続きの関係上、須崎理事からは翌週からの出勤を認められ、即、採用が決定したのである。
 本当に自分にできるのだろうかと不安になりながらも、一方では就職が決まった喜びで心ははずんだ。

 午後はコンビニのバイトで、店長にバイトを辞めたい旨を話した。最初は「あなたのようにテキパキと動き、細かな所に気の付く店員をなくすのは大きな痛手だ」と言って渋ったが、百恵の決意に承諾せざるを得ない様子で、「あなたがそちらの職場に行くまでに、新しい人員をなんとかしよう」と、納得してもらった。
 思えば、最後の遅番の勤務である。
 九時も近づくと、百恵の心である男のことが気になりだした。
 「もうあの男性に会えなくなるのか……」
 一抹の寂しさは、百恵の心を動揺させた。「今日は大樹君と一緒かしら……、最後にお名前を聞こうかしら……、何か一言でいいからお話ししたい……」あれこれ考え出すと、それはため息となって口からこぼれた。
 男が来たのは、百恵が勤務を終えようとする十時近くの事だった。彼の脇には子どもはいなかった。このまま会わずに帰った方が、どれだけ気持ちが楽だったか。百恵はいつも通り「いらっしゃいませ!」と言った。
 男はいつもの通りカップラーメンを取ると、ビールとプリンを選んでレジに持ってきた。「奥さんと食べるのかしら……」ふと心で思った時、「煙草も下さい……、いつもの」と、咄嗟にマイルドセブンを差し出すと、肝心な事はついには言えず、
 「七百五十二円になります」
 男は財布から丁度の金額を取り出すと、「はい」と言って百恵に手渡した。男はレシートも受け取らず、何も言わずに去っていった。
 「またおこし下さいませ!」
 マニュアル通りの言葉が、これほど冷たく感じたことはない。
 
> 第1章 > (七)コスモス園
(七)コスモス園
 こうして百恵はコスモス園に勤めることとなった。
 勤めはじめて一週間───、百恵は通所の介護員見習いのような立場で、先輩の介護スタッフや看護士の補助的な仕事にてんてこまいだった。介護スタッフ歴八年の丸越朋美の下で、おむつの取り替えやお風呂や排泄の世話、リハビリの手伝いや話し相手、食事の配膳から後片づけ、なにもかも初体験の事ばかりで疲れもピークに達していた。特に痴呆症の老人の対応には戸惑った。
 「なんだい?あんた新入りかい?」
 「はい、よろしくお願いします」
 勤め初めて二日目、先輩の指示で車椅子の春さんというおばあちゃんを部屋に連れていく時の事である。
 「最近はスタッフさんの出入りが激しくていけないねえ。で、名前は何ていうんだい?」
 「え?な、名前ですか?馬場百恵です……」
 百恵はわざと苗字を小さく言った。
 「何だって?聞こえないよ」
 「モ・モ・エ。バ・バ・モ・モ・エです!」
 「モモちゃんか。いい名前だね……。覚えておくよ。これからもよろしくね」
 「こちらこそよろしくお願いします」
 春ばあさんを部屋に届けた後、百恵は新しい出会いに心地よいすがすがしさを感じていた。丸越はそんな百恵の態度に気が付いて、
 「どうしたの?百恵さん。何かいいことあった?」
 と聞いた。百恵はその小さな喜びの一部始終を話すと、
 「春さんはね、私にも毎日同じ事を言うのよ。もう春さんとの付き合いは今年で五年目。いまだに私を新人だと思っている」
 百恵は介護を必要とする高齢者の世界の入口に立っていることを嫌でも感じなければならなかった。
 その日は脳神経外科の院長先生が週一回の定期診察に訪れる日だった。
 百恵は一〇四号室の靖じいさんの担当を任され、一時三十分には診察が行われるリハビリ室へ連れていく予定だった。
 昼食を終えると靖じいさんの部屋に行き、必要な身の回りの世話を始めた。
 「靖さん、今日はこの後、お医者さんの診察がありますから、私と一緒に行きましょうね」
 「医者……?へえ、おら、いやだ!あの先生の顔見るだけで具合が悪くなる」
 「どうして?何かいやな事言われたの?あら、お昼ごはん、残してる」
 百恵は、トレイの残された昼食を見て言った。
 「だめじゃない。ちゃんと全部食べないと……」
 「おら、へい、毎日、毎日、こんな薄味の魚と菜っぱだけじゃ死んじまう。ここはおらを殺そうとしてるに違えねえ」
 「何を言うの?ちゃんと靖さんの栄養のバランスを考えて作っているのよ。さあ、お手洗いに行っておきましょう」
 百恵はよろよろ立つ靖じいさんの腕を支え、手洗いに向かった。
 「なあ姉ちゃん。おら軍人だっただぞ。昔は南方に渡って方々を飛び歩ったもんだ。敵の鉄砲玉何発もくらって、あるとき一度は死にかけた……」
 ゆるりゆるりと歩きながら、靖じいさんは遠くの方をみつめて話し出した。
 「姉ちゃんに話しても分からないか……」
 「戦争は知らないけど……、聞かせてください」
 靖じいさんは、百恵の顔も見ることなく、そのまま話を続けた。
 「気づいたら、周りの同僚はみな死んでいた。おらは九死に一生を得て野山をさまよい歩いたんだ。敵陣だったから昼間は草木の陰に隠れながら、いくつ夜を走り回ったか、もう腹が減って腹が減って、喉がかわいても水はない、土を食うわけにもいかないし、おらは力尽きてついにぶっ倒れただ。そしたらな、あまーいほのかな香りがおらの鼻先を包みこんでいただ。その時誰かが言った、『死んじゃいけねえ』って。きっと天の声だったにちげえねえ。それで目を開けたのよ……。そしたらな、驚いたことに目の前に一面のサトウキビ畑が広がっていただ……。おらはむさぼりつくようにそのサトウキビを食った……。うめかったなあ、あのサトウキビ……、ほんとにうめかった……」
 「靖さん……」
 「それでな、おらどうしても砂糖なめたくなって、いつだったかなあ、ここの調理室の砂糖をなめようと忍び込んだだ。けっ、そしたら運悪くあの医者の先生がいるじゃねえか。まだ三十そこそこのケツの青い医者のくせに、砂糖の入った入れ物をおらの背の届かない棚の上にひょいと乗せて、『砂糖をなめたかったら自分でとってみなさい』なんてほざきやがった」
 「ひどい……、そんな事言う先生なの?」
 「そうさ、この近くに山口脳神経外科ってあるだろ?そこの若僧よ」
 「でも、私の子どもの頃は赤髭先生って評判だったわよ」
 「なんだい、姉ちゃん、地元かい?昔はそう呼ばれていたらしいが、院長がその息子に替わってからは評判ガタ落ちよ。あの先生、きっとおらを殺そうとしているに違いねえ」
 靖じいさんは、「あのサトウキビ、も一度食いてえなあ」を何度も言いながら用を足しはじめた。今にも倒れそうなそのきゃしゃな後姿を見ているうちに、百恵は急に彼がかわいそうに思え、用が終わりヨロリとよろけた身体を支えた時、
 「分かったわ、靖さん。私、今日、先生にお願いしてみる」
 と言った。靖じいさんは百恵をみつめると、涙をためて「姉ちゃん……」と言った。
 「大丈夫。先生だって人間よ。靖さんの気持ちが分かれば、一口くらいお砂糖をなめさせてくれるわ!」
 「ありがてえ!」
 靖じいさんは百恵に抱きつくと、涙を流して「ありがてえ」を繰り返した。

 百恵が靖じいさんを連れて診察場所になっているリハビリ室に行くと、脳神経外科医の山口は椅子に座って背を向けて、前の診察者のカルテをまとめているところだった。
 「藤沢靖次さん。上半身裸になってそこに座って下さい」
 山口は背を向けたまま言った。百恵は靖じいさんの服を脱がすのを手伝って、ゆっくり椅子に座らせた。
 「あの……、先生……」
 百恵の言葉にはまるで無関心に、山口はカルテのペンを走らせながら、
 「なんでしょう?」
 と答えた。
 「靖さんがお砂糖を食べたいというのですが……」
 「駄目です」
 その返答はあまりに即座だった。しかも意識は机の書類に専念しているくせに、あまりに軽くあしらった言い方だった。
 「でも、ひと口くらい……」
 「駄目です」
 百恵はむっとした。靖じいさんの心情も知らないくせに、頭ごなしの「駄目」という冷たい言葉に無性に腹が立った。この人が靖じいさんの身体が思うように動かないのを知っていて、砂糖の入れ物を高い所にあげた意地悪な医者の張本人かと納得した。
 「あの……、靖さんは戦争中……」
 「藤沢さんは脳血管性認知症の上、糖尿を煩っているのです。砂糖を食べるなんてもってのほかだ。貴方も介護員ならそのくらいのことを……」
 振り向いた山口の顔に百恵の身体が硬直した。
 「ああ、貴方は……」
 百恵は言葉を失った。コンビニで出会ったあの男性の顔と瓜二つではないか。
 「確か……、馬場?さんでしたね」
 「ど、どうして私の名を……?」
 百恵は驚きの中で、やっとの思いで口にした。
 「少し前にすぐそこのコンビニにいたじゃないですか。胸の名札に書いてありましたよ、“馬場”って。しばらく姿が見えないので少し気になっていたのですが、ここに働くようになったのですね」
 百恵は動転していた。子供の手を引いてコンビニに訪れる彼と、目の前の彼とでは、受ける印象が一八〇度異なっていたからである。コンビニの彼はどことなく悲しげで、子供に対する限りない優しさがにじみ出ていたのに対し、目の前の彼は明るい表情の裏に、ある種冷淡なイメージが漂っていたのだ。
 「ちょうどいい、馬場さんにひとつ仕事を命じます。それはここにいる藤沢さんの食べ物の管理です。毎日施設の献立通りの食事を全部食べるように。また、ご家族の方が藤沢さんを気遣ってお菓子や甘い物を差し入れしているようですが、それらは全て没収して下さい。いいですね、馬場さん」
 「なんでその事を……」
 靖じいさんはそう呟くと深くうなだれた。その様子を見て、百恵も申し訳なさそうに俯いた。
 「馬場さん、聞こえてないのですか?」
 「そんなに馬場さん馬場さんて、苗字で言わないで下さい!」
 施設医の立場を利用した山口の横柄に聞こえた言葉と、気にしている苗字を連発されて、たまりかねて百恵は叫んでいた。
 「嫌いなんです、この苗字……」
 「じゃ、何て呼べばいいですか?」
 「苗字でなければ何でも……」
 山口は少し考えた後、「フルネームは何ていうのですか?」と言った。
 「ババモモエです。いけませんか?」
 山口は急に笑い出し、「なんだかおばあちゃんみたいな名前だね」と言った。
 「だから嫌いなんです!」
 やがて山口は笑いを抑えるとふと思い出したように、
 「そうだ、僕と結婚すれば“山口百恵”になれますね、永遠のアイドル……。まるでアヒルが白鳥になった『みにくいアヒルの子』の物語だ。どう?僕と結婚しましょうか?」
 と、山口は再び笑い出した。
 「先生の妾にはなりません!」
 山口は急に真顔になると、「めかけか……」とぽつんと呟いた。

 山口の名を浩幸といった。コスモス園の日程スケジュールを見ればすぐに知れる。診察を終えた靖じいさんを支えながら、彼の口から出る山口の陰口をたくさん聞きながら、百恵はゆっくりゆっくり廊下を歩いて一〇四号室へ向かった。
 「ごめんね、靖さん……。お砂糖を食べさせてあげようとしたけど、全く正反対の結末になっちゃった……」
 「いいってことよ。あの医者、女たらしの上に全く融通のきかねえ先生だからな。でも姉ちゃん、たまには見逃してくれよ」
 百恵は笑って答えた。
 
> 第1章 > (八)揺れる心
(八)揺れる心
 コスモス園に勤め、翌日が初めての休みの晩、すっかり疲れ切った身体をソファーに横たえて、百恵はうたた寝をしていた。父の洋と母の恵は、テレビの音量を下げて「きっと慣れない仕事で疲れているのだろう」と話していた。母は百恵に毛布をかけた。
 うつろな意識の向こうで、テレビが報じるその日のニュースが、百恵の頭の奥で鳴っていた。JRで脱線事故が起き、何百人もの死傷者を出す大惨事になり、その原因と責任問題が取り沙汰されている事、インターネットの出会い系サイトで十五歳の男が女装して、出会った男から金を騙し取った事件、天候不良による農作物の不作からキュウリやキャベツなどの野菜類が高騰している事……、連日まるで良い話などない社会情勢が「またか……」という意識を通り越して半分BGMになっていた。
 そんな時、百恵の携帯電話が鳴った。今はビートルズの『HELP!』を着信音にしているが、そのワンフレーズ目が終わった時、母が「百恵、電話よ」と言って身体を揺すってくれたのだ。百恵は迷惑そうに目を覚ますと、ゆっくり身体を起こし、電話を取って居間を出た。
 「ああ、新津君……、なあに?」
 俊介は電話の声で百恵が寝ていた事を知り、それを気にしながら「明日休みだろ?これから会えないかな?近況も聞きたいし」と言った。
 「これから……?」
 疲れ切った百恵は躊躇したが、俊介の強い口調に「いいわ」と答えた。

 百恵の家の近くに“がりょう公園”がある。花見にはまだ少し早いが、桜が満開の時季には大勢の人々で賑わう桜の名所でもある。がりょう山に囲まれたその公園の中央には竜ヶ池と呼ばれる池があり、今は十日後に行われる『桜祭り』に備えてそろそろ準備が始まっていた。二人は池のほとりを歩きながら、やがて遊具の立ち並ぶブランコに腰掛けると、
 「なんだか大変そうだね」
 と、俊介が言った。
 「やっと就けた希望の仕事なのに、なんだかもう根をあげそう……。ごめん、新津君が見つけてくれた仕事なのに、こんなこと言って……」
 百恵が答えた。
 「いいよ、そんな事気にしなくて。それじゃあ明日は映画でも見に行かない?リチャード・ギアの新作が公開されたんだよ」
 「明日……?」
 百恵はどうしても乗り気になれなかった。コスモス園の事で考えなければならない事が山ほどあったし、何より身体的にも精神的にも疲れていた。明日は誰にも会わずにゆっくり休みたいというのが本音であった。
 「なにか用事でもあるの?」
 「ううん、別に……」
 「じゃあ、十時に迎えに行くよ」
 俊介は嬉しそうに百恵の手を引くと、彼女を家まで送り届けて帰っていった。
 翌日は、約束通り俊介が迎えに来て、長野市の映画館で映画を見た後、繁華街の通りを二人で歩いた。「コーヒーでも飲もうか」と立ち寄った喫茶店は、多くのアベックたちが利用する高級感あるシックな店だった。しかし百恵の口数は終始いつもより少なく、俊介もそんな彼女を気にしていた。
 「今日はあまり元気がないね。もしかしたら家でゆっくりしたかった?」
 「そんなことないわ、とっても楽しいわよ」
 百恵は俊介を気遣って、先程観賞した映画の話を持ち出した。暫くはその映画の話で盛り上がったが、百恵の心はどこか余所の方を向いていた。すると俊介は上着の内ポケットをごそごそやりながら、中から小さな箱を取り出して百恵に差し出した。
 「なあに?」
 「いいから開けてみて。百恵の誕生日には少し早いけど、僕からのプレゼント」
 百恵はゆっくり包装を剥がして箱を開くと、中からホワイトパールのブレスレッドが姿を現した。
 「いいの?高かったんじゃないの?」
 「このプレゼントには二つの意味があるんだ。一つは百恵の就職祝い。そしてもう一つは、これが指輪に変わるまでの一つ手前の儀式……」
 「新津君……」
 「気に入った?」
 百恵はひとつ笑いながら、
 「そんなこと言って、犬の首輪みたいに私を鎖でつないでおくつもりでしょ」
 と冗談を言うと、俊介も「そうだよ」と言って笑った。
 「そうだ、帰りはラーメンでも食べていこうか?ラーメンのような庶民的で気のつかわない店に入るアベックは、かなり深い関係なんだってさ、知っていた?久しぶりにラーメンが食べたいんだ。付き合って?」
 百恵は静かに頷いた。

 翌週の土曜日は丁度桜の花も見頃だろうからと、再び会う約束をしてからは、喜多方ラーメン、長浜ラーメン、札幌ラーメン……、長野にもラーメン店はそこら中にあるが、味噌の名産品を持つ信州に長野ラーメンはなぜないか不思議だという話をしながら、二人は長野道須坂インターチェンジ近くのラーメン屋に立ち寄った。夕食時の店は若干混雑していたが、運良く窓際のペアの席が空いていた。
 二人は味噌ラーメンを注文すると、百恵は水を汲みに立ち上がった。
 と、向かいの座敷に見覚えのある父子の姿をみつけた。山口医院の山口浩幸院長に違いない。子供にラーメンを食べさせながら、楽しそうに会話をしている。百恵は近くに奥さんもいるのだろうと咄嗟に周囲を見渡した。そのうち百恵に気づいた浩幸が、
 「やあ、馬場さんじゃないですか!」
 と、手を振って挨拶した。百恵は気まずい気持ちで軽い会釈をすると、水の入った二つのコップを持って俊介のいるテーブルに腰掛けた。
 「誰?知り合い?」
 「え、ええ……、コスモス園の施設医のお医者さん……」
 百恵は作り笑顔で答えた。「まだ若いね。専門は何?」という俊介の言葉に、俄かに動揺する百恵のところにラーメンが運ばれてきた。
 「え?……の、脳神経外科だったかな……。さ、ラーメン食べましょ!」
 百恵は心の動揺を隠すように、髪の毛を左手で押さえながらラーメンを食べ始めた。

 なんだろう?この胸のドキドキ……。先生の姿を見つけた時、私、確かに彼の奥さんを探してた。ほらいまも……。目の前の新津君より、彼と彼の子供の事の方が気になっている。彼の奥さんは、お手洗いに行ってるのかしら?駄目……、駄目よこんな気持ち……。だって私には新津君がいるじゃない……。

 やがて浩幸は子供を抱きかかえると座敷を立ち、子供の手を引いて百恵と俊介の脇を通りすぎた。何か挨拶しなければと俯いたまま、言葉も見つからず、このまま知らぬ振りをしようと決め込んだ時、
 「彼氏ですか?」
 脇で立ち止まった浩幸が、明るい声で百恵に話しかけた。百恵は浩幸の顔を見つめたまま、うなずくことができなかった。
 「百恵がコスモス園でお世話になります。どうぞこれからもよろしくお願いします」
 俊介が言った。「わかりました」と答えた浩幸は、そのままレジに向かっていった。百恵が彼の姿を見ようと振り向いた時、彼に手を引かれた男の子は「バイバイ」と、その小さな手を振っていた。それに応えて百恵も手を振った。
 「かわいい子供だね。何ていう名前だろう……」
 百恵は“大樹”と言う名を俊介に教えることができなかった。
 
> 第1章 > (九)老人性痴呆症
(九)老人性痴呆症
 コスモス園で実際に介護の仕事をしながら、またホームヘルパー二級の講座を受けながら、百恵は今まで全くの無知であった自分を改めて発見した。
 そもそも“老化に伴う物忘れ”と“痴呆症”の違いは、加齢による生理的な脳の衰えによるものか、脳の病気によるものかで分けられる。“物忘れ”が体験の一部分を忘れるのに対し、“痴呆症”は体験したことの全体を忘れるという特徴があることや、判断力の面からいえば、“物忘れ”は判断力の低下は見られないのに対し、“痴呆症”は判断力の低下を伴っており、それらの自覚症状がなくなっていく。また、“物忘れ”は新しいことを学習する能力が残っており、“痴呆症”では新しいことは覚えられないという症状があらわれ、日常生活にも支障をきたすようになり、それらがどんどん進行していくという。また、老人性痴呆症といっても大きく分けて二種類あり、一つは『アルツハイマー型認知(痴呆)症』、もう一つが『脳血管性認知(痴呆)症』で、その二つが複合しているものを『複合型認知(痴呆)症』といい、それらがいわゆるボケと呼ばれる全体の八十パーセント近くを占めている事。それらもごく最近学んだのだった。
 もちろんコスモス園の高齢者達は痴呆症の者ばかりでないが、彼等と接する百恵の衝撃は大きかった。
 ある時は、電信柱に敬礼をするおじいちゃんの姿を見かけた。そして「総理大臣万歳!」と叫んでいるのである。またある時は、どこにもカラスなどいないのに「カラスがいる」と言って茫然と外を眺めるおばあちゃんがいたり、またある時は、毎日毎日亡くなった息子の同じ話を繰り返す者があったり、また別の話では、突然寄ってきたかと思えば、お礼を言われる事などしていないのに涙を流しながら手を握りしめ、「すまないねえ」を何度も何度も繰り返す者があったり、勤めはじめて二週間も満たない間に経験した数々の出来事は、何も知らない彼女にとってあまりに大きな衝撃の連続だった。
 しかし、それらショッキングな出来事に耐えうる力を与えてくれたのも、やはり同じ入所の老人達だった。いつもおしぼりをたたむ仕事を手伝ってくれる清水のおばあちゃん。家庭の事情で入所している方だが「たいへんだろう」と言って、いつも笑顔で笑いながら寄ってきて昔話を聞かせてくれる。また、生まれながらに目の不自由な小柄な末おばあちゃんは、色の認識ができて裁縫が得意。百恵が勤めはじめたのを知ってから、少しずつピンクの布でポーチを縫って、数日前に「モモちゃんだから桃色のポーチを縫ったよ」と言って渡してくれた。百恵が「かわいい!おばあちゃん、ありがとう!」と言うと、「わしは目が見えんが、あんたのかわいい顔が目に浮かぶよ」と言ってくれた言葉に感動したり、いつも「モモちゃん」と言いながらお尻を触ってくるトメじいさんとは喧嘩ばかりしているが、悪気がないことを知ってからは優しい言葉をかけると、妙に照れて顔を赤くする。彼が食事の時、自分だけ専用の佃煮を持ってきて食べているのを発見したとき、なんだか無性にかわいく見えてきたりとか、人は年をとると子供に返るというが、それを目の当たりにしたとき、どこまでもこの人たちの力になってあげたいという思いがいつしか湧いてくるのであった。

 「百恵さん、今週の土曜日だけど、毎年恒例の『お花見』ががりょう公園で行われるんだけど、あなたも来ませんか?」
 声をかけてくれたのは高梨の姉で、看護士をしている高梨君枝だった。百恵を施設長に紹介してくれた人である。大所帯の施設では、交替番も夜勤もあるので、同時期に一斉に飲み会などの席をもうけることができず、毎年交替で各部署の代表数名が出席することになっており、新入スタッフは優先的に出てもらおうという暗黙の了解があった。
 「私、お酒ダメなんです……。それに土曜は用事が……」
 百恵は俊介との桜を見に行こうという約束を思い出した。
 「そうなの?でも施設長や施設医の先生方もみえるから、お見知りおきをしとく良いチャンスよ。前日までに返事くれればいいから考えといて」
 百恵は施設医という言葉にドキリとしながら、「は、はい……」と答えていた。君枝はお知らせの回覧板を渡すと、忙しそうに行ってしまった。
 それにつけても腑に落ちないのは施設医山口浩幸の評判だった。看護士や介護スタッフ、ケアマネージャーなどの会話を耳にする限りでは、人付き合いのあまり得意でない有能な外科医ということだが、入所の高齢者に聞けば、みなあまり良い印象は持っていないようだった。自分達の話をまるで聞いてくれず、診察の結果を淡々と話す。ある者に言わせれば「やつはブラック・ジャック」だと言う。
 「ええっ!無免許医?」
 と百恵が驚くと、
 「そんなことはないだろうが、腕は確かさ。でも普通の医院より高い診察料を請求するのを知ってるかい。先代の赤髭先生とは大違いさ」と話す。どうやらその評判の悪さは、赤髭先生の異名を持った先代の山口正夫先生とのギャップから生じているように感じた。
 しかし、浩幸のおかげでいわゆるボケが快復方向に向かったという話もあったり、その実体の不透明さは、彼に対する関心へと高まりを見せていたのである。毎日コンビニに来ていた彼や先日のラーメン屋での彼の姿からは、ここで不評の施設医と同一人物であるとはとても思えなかった。
 「新津君、ごめん……。土曜は職場でお花見になっちゃって、行けなくなっちゃったの」
 電話の向こうで俊介が「そう……」とつぶやいた。
 
> 第1章 > (十)戦争で引きちぎられた愛
(十)戦争で引きちぎられた愛
 テレビから、携帯電話の出会い系サイトで少女と知り合った二十八歳の男が、一ヶ月間少女を監禁した事件が報道されていた。会った際にトラブルになり、車で連れ回した末「逃げたら殺す」などと脅迫して、ホテルを泊まり歩いたという事件で、少女はすきを見てコンビニエンスストアに逃げ込み店員に助けを求め保護された。二十八歳の男は逃走していたが、その報道があった日に逮捕された。
 それは、百恵が千ばあさんの耳掻きをしていた時だった。
 「まったく、あたし達の時代じゃ考えられないね。見ず知らずの人と電話で知り合うって、それすら理解できないよ……」
 千ばあさんが気持ちよさそうに、目をつむりながら呟いた。
 「今は携帯電話でメールができたり、私はあまりやらないけどウェブサイトを見たりできるのよ」
 「ウェブサイト……?なんだい、それは?まあ、死ぬのを待つだけのあたしにゃ関係ないね」
 「そんなこと言わないで、長生きしてね、千おばあちゃん……。ところでおばあちゃんはお見合い結婚なの?」
 「まあモモちゃんたら……。年頃だもんねえ」
 千ばあさんは自分の恋愛話をしはじめた。

 昭和十七年───、昨年十二月、太平洋戦争が勃発してから日本は異様な戦勝ムードの中にあった。高等教育の女学校で青春時代を謳歌していた千ばあさんは当時、鬼もほころぶ十七歳。女学校までの通学の列車の中で、いつも自分を見つめる一人の書生がいたという。着流しの学生服に束ねた本を持ち、チラリ、チラリと見つめる視線に、いつしか彼女も気になりだし、ある日、落としたノートを彼が拾って手渡されたのがきっかけで、少しずつ話をするようになった。
 「今度、よろしければ、喫茶店かどかで一緒に勉強でもしませんか?」
 彼の誘いでそれから毎日のように、学校が終わると途中下車して、とある喫茶店で二人だけで勉強をするようになった。帰りの列車が同じ時は二人で降りて一緒に歩き、別の時は先に一人で行って待ち、駅から十五分くらいのところにあるコーヒー喫茶で向き合いの席に座って本を広げる。帰りはいつも一緒に駅まで歩き、手をつなぐわけでもなし、特別な会話をするわけでなし、ただ一緒に共有する時間と空間があるだけで二人は幸せだった。
 彼は経済学を専攻する優秀な書生だったが、昭和十八年に入り戦争の様相が俄かに曇り出すと、学徒出陣の法令が施行され、彼は徴兵にとられる運命となったのである。別れの前夜、二人は会って約し合った。
 「きっと無事に帰るから、その時は所帯を持とう」
 と───。そして彼女は信じていた。必ず彼が帰還してくることを。なぜなら彼女のお腹には、その時宿した彼の子供がいたからだ。
 しかし戦争は日に日に悪化していった。若い男は次々に兵隊にとられる、女性は国を守るための武装をし、切りつめられる家計の一切を守るため必死になり、学生や子供までが戦争協力をする教育システムに組み込まれ、一億の国民が火の玉となって戦争への参加を強要されたのだ。
 上空を飛行する敵機の爆音の下、愛する彼からは何の音沙汰もなかった。東南アジアの方へ遠征したことまでは知り得たが、その後の行方はとんと知れなかった。連日の日本軍の快進撃の報道を見るにつけ、「きっとどこかで生きているに違いない」と信じながら、昭和十九年の夏、彼女は彼の子供を出産した。乳飲み子を抱えながら、食べる物もない、また世間からは「未婚の子を産んだ」と後ろ指を指されながら、必死で涙を堪えながら生きて生きて生き抜いてきたのだ。
 ───やがて戦争は終わった。
 彼の戦死の知らせはなし、彼女は小さな食堂を営みながら細々と生計を立て、彼の子を育てながらじっと彼の帰りを待っていた。
 いつしか半世紀という歳月が流れ過ぎていた。彼女の子供は成人し結婚して子を産み、老いて仕事ができなくなった彼女は居場所を失い、様々な事情も重なって、このコスモス園に入所した。

 千ばあさんは目に涙を溜めていた。
 「いったいいつまで待たせるんだろうね、あの人は……。おかげでわたしゃ、こんな婆さんになってしまったじゃないか」
 百恵のもらい涙は千ばあさんの頬に落ちた。
 「モモちゃん……、あんた泣いてくれるのかい?」
 百恵は涙を拭きながら「だって……」と言った。
 「彼、死んだって思わなかったの?戦争が終わったら、別のいい人見つけて結婚すれば良かったのに……」
 「そんなことできるもんか。だって彼はあたしを愛してくれているんだから。そしてあたしも彼を愛しているんだ。だって、約束したじゃないか。裏切れないよ、愛は……。きっとどこかで生きてるよ。こうしてあたしが待っているんだから……」
 百恵はとめどなく流れる涙をおさえることができなかった。
 
> 第1章 > (十一)桜吹雪
(十一)桜吹雪
 がりょう公園での花見は、土曜日の正午から開催された。男性介護スタッフの若手が、朝五時から場所取りをしていた場所は、竜ヶ池の北側にあたる親水庭園と見晴台の近くの小広い芝生の上だった。そこに広く陣取った青いシートの上に、施設長はじめおよそ二十名近くの施設スタッフ達が居並んだ。竜ヶ池を正面にした一番奥の中央に施設長、その左隣りに施設医の浩幸はじめ内科の先生、右隣りにはなぜか百恵が座らされていた。「新入スタッフは前へ」と、強引に座らされたのである。
 果たして時間になると、信州北信地方の流儀である堅苦しい形式じみた進行で花見が始まった。暗黙の了解で、幹事が司会進行をつかさどる。大学仲間での形式も何もないざっくばらんな席しか知らない百恵は、社会人になってはじめて経験する面倒な飲み会に驚きながら、長たらしく感じる施設長の話を聞き終えた。続いて浩幸が挨拶に立った。百恵は横目で彼の顔をのぞき込んだ。
 「僕は、こういうふうに話す場を与えられて話すのは好きではありません。今日は桜を見ながら楽しく過ごしましょう」
 と、これだけ言うと座ってしまった。それは、話など良いから早く飲みたいというその場の雰囲気を読みとっているようにも思えた。続いてもう一人の内科の先生の話が終わって、ようやく看護士長の乾杯の音頭で飲み会が始まったのである。
 始まったかと思うとすかさず幹事が、「ええ、それではこの四月から新しく介護要員として加わった馬場百恵さんから一言お願いしたいと思います」と、指名された百恵は、「何も考えていないよ」と顔を赤らめながら立ち上がった。そして浩幸の視線を気にしながら、
 「私は介護の仕事は始めてで、今も何も分からずにやっていますが、皆さんの指導をあおぎなら頑張りますので、どうかよろしくお願いします」
 と言った。席は拍手と共に、「彼氏はいるの?」とか、「年はいくつ?」とか、「家はどこ?」とかいう声が飛び交い、「まあまあ、飲みながらゆっくり伺いましょう」という幹事の言葉で、ようやく和やかな雰囲気になったのである。
 入れ替わり立ち替わり百恵の前に酌に来る人たちに、「すみません、私お酒飲めないんです」と断りながら、それでも一口二口と飲まされて、百恵はすぐに酔ってしまった。その中でも、施設長の高野と浩幸の会話がずっと気になって、耳をそばだてていたのである。
 「先生、今日は大樹君は連れてこなかったのですね?」
 「ええ、面倒を見てくれる看護士の女の子が沢山いましてね。心配はいりません」
 浩幸は口数も少なく、酌に来る人たちの盃を、笑みを浮かべた表情で飲み干すのだった。
 一時もしないうちに施設長は立ち上がると、「ちょっと私は仕事がありますので、これで失礼します」と両脇の浩幸と百恵の肩を叩いて立ち上がると、「施設長はどうしても仕事がありましてこれでお帰りになります」という幹事の言葉に合わせ、ブーイングと拍手に送られて行ってしまった。
 隣同士になった百恵と浩幸は、百恵はうつむき、浩幸は静かに酒を飲んでいた。ふと、百恵の前にビールのお酌をする手が差し出された。見れば浩幸が笑いながら「どうぞ」と言っている。
 「すみません。私、お酒飲めないんです」
 「そうですか……」
 浩幸は飲ます事を強要もせず、そのビールを自分のコップに注いだ。
 「すいません。気がつきませんでした……」
 慌てて百恵は自分の前のビールを浩幸に注いだ。
 「そういう意味じゃありませんよ」
 浩幸は百恵を見ると微笑んだ。酒盛りは花より団子で次第に盛り上がっていった。中には腹踊りをやりだす男性の事務職員が出てきたり、気の合う女性スタッフ達は、甲高い笑い声を上げて世間話に花を咲かせるのであった。そんな時、浩幸が、
 「どうですか?こんなに桜もきれいだし、少し歩きませんか?」
 百恵の心臓が高鳴った。浩幸の笑顔に吸い込まれるように、理性とは別のところで「はい」と返事をしていた。
 「山口先生、モモちゃん連れてどこ行くの?」
 「手が早いね。よっ!色男!」
 浩幸は笑顔のまま何も言わず、冷やかしの声に見送られながら、二人は桜吹雪の中に消えていった。
 がりょう公園の桜は、日本の『さくらの名所百選』にも選ばれている有数のスポットである。約八百本ものソメイヨシノの並木は、訪れる人たちの心を和ませる。桜祭りの頃は、露店が連なり、散りゆく花びらと竜ヶ池に映し出されるその様は、世俗の世界とは全く別の光景を作り出す。舞い散る花びらは季節遅れの雪のように、茶色い地面をも真っ白に染めていた。浩幸と百恵はその中を、何も話さずゆっくり歩いた。
 「貴方もああいう場は苦手なんですね……」
 「お酒が飲めないので、周りのペースについていけないんです」
 百恵は少し照れながら言った。
 「僕も嫌いです。でも付き合いで仕方がないんです。そうだ、おでんでもおごりますよ」
 浩幸は近くの茶店に入ると、タマゴと竹輪とペットボトルの清涼飲料水を二つずつ買ってきて、そして池の見えるベンチに腰掛けると、「どうぞ」と竹輪を差し出した。
 「なんだか懐かしい……。昔おばあちゃんとここに来た時も竹輪のおでん、食べたっけ」
 浩幸は何も言わず、自分の竹輪を一切れちぎると、近くに寄ってきたカモに投げ与えた。桜吹雪が舞い散る中で、二人は年の離れた恋人のように見えた。
 百恵が竹輪を食べ終えると、浩幸は今度はタマゴを「どうぞ」と差し出した。百恵はそれを一口かじると、
 「もうたくさん……、食べられない」
 と、浩幸の持つ入れ物に返した。
 「そうだね。さっきから食べてばかりだからね」
 と、浩幸は何の照れもなく、百恵のかじったところからそのタマゴを食べはじめたのだった。百恵はドキッと浩幸の顔を見つめた。俊介との付き合いも長いが、どこかに食事に行った時でも、お互いのものをつつき合って食べたことすらなかったのだ。しばらく驚いた表情で彼を見つめていると、「どうしたの?」と、不審そうに浩幸が言った。
 「い、いえ……、別に……」
 百恵は慌てて目をそらした。
 「医者のくせに貧乏性なんです。自分の子供が残したご飯も、もったいなくて全部僕が食べてしまう」
 「大樹くん……?」
 浩幸は子供の名前を知っていることに、少し驚いた顔で百恵を見つめた。
 「ああ、その……、コンビニでバイトしてた時、よく先生いらしていたから……」
 百恵の慌てた様子に、浩幸はひとつ微笑んだ。
 「仕事を離れている時くらい、その先生というのはやめてもらえませんか?堅苦しくて嫌いなんです」
 浩幸はそう言うと立ち上がって歩き出した。そして弁天橋の脇を通りすぎた時、
 「どうですか?今は馬場さんの彼氏もいないことだし、ほんの少しだけ名前で呼び合うというのは?僕も馬場さんと呼ばずに“モモ”って呼びますから、貴方も私を“浩幸さん”……、いや違う、今時の娘は何て言うんだろう“ヒロポン”……、“ヒロピー”……、ちょっと古いかな……」
 百恵はクスリと笑った。
 「恋人同士じゃありませんから、いいです、馬場さんで……」
 「そうだね」
 二人は顔を見合わせて微笑んだ。丁度小さな滝が流れる橋のところで、浩幸が、
 「そうだ、ちょっと山に登ってみませんか?」
 見れば須田城址への入口を示す杭が立ってある。百恵は履いてきたハイヒールを気にして「今日は新人歓迎会の意味もあると思って、私、こんな靴で来てしまったの」と言うと、
 「山の頂上に昔この辺りを治めていた須田氏の城跡があるんです。大丈夫、そんなに驚くほどてっぺんは遠くありませんし、道もそんなに険しくありません。ゆっくり登っても十五分もあれば城跡に着けますよ」
 そういうと浩幸は先に登りはじめてしまった。百恵は「もう!」と思いながら後を付いていった。
 「この“がりょう山”の伝説を知っていますか?」
 ゆっくり山を登りながら浩幸が言った。
 「知りません」
 浩幸は少し意地悪そうに「須坂の人でしょ?」と言った。
 「学校で習いませんでしたから」
 百恵の言葉に、浩幸は透明な微笑みを浮かべた。
 「昔、この山のお城に“りょう姫”というとても美しいお姫様がいた───」
 浩幸は“がりょう山”の伝説を話し始めた。話の内容はこうである。
 りょう姫は村の人たちのためにこの山の麓に桜の苗木を植えた。ところがその頃、村には天馬という悪たれ坊主がいて、ある日城主の大切にしていた観音像を壊してしまう。激怒した城主は天馬を村から追放してしまったが、りょう姫は幼い頃、天馬に助けられた事を思い出す。───それから何年かして、城のある山が突然地震に襲われる。しかし不思議な事は揺れているのは山だけで、村には何ひとつ被害はなかった。城主は七千年に一度目を覚ます竜の話を思い出し、山全体が竜であることに気付く。地震の間隔は日に日に短くなり、城主は城の全員を山からおろし、自分は城と共に心中する覚悟を決める。その時、山の自然を心から愛していたりょう姫も自分も残ると懇願し、その強い思いを知った城主は、もう少しだけ城に留まることを許したのだった。
 竜の噂はたちまち全国に広がって、やがて天馬の耳にも届く。天馬は名のある領家に拾われて立派な武士に成長していた。そして、生まれ故郷を救おうと戻ってきたが、そこで竜を退治して名を挙げようとする修験者と出会う。修験者は竜を鎮める方法が一つだけあると天馬に教えた。それは竜の血で肉体を溶かし、竜の頭脳に入り込んで、竜の身体を支配するという事だった。天馬は自らが生け贄となり村を救おうと決意して、その前に、逃げ遅れたりょう姫を救いに山に登る。しかし、修験者は生け贄は若い娘でなければならない事を天馬に告げなかった。
 果たして天馬が城に着いた時、彼が生け贄になろうとする決意を知って、城主は生け贄は若い娘でなければならない事を教える。愕然とした天馬のかわりに、りょう姫が自分が生け贄になると言った。時は既に迫っていた。竜は目覚め、天に立ち上ろうと俄かに身体を持ち上げはじめたのである。その時の地震で城主は死に、修験者が打ち込んだ大きな岩は、竜の逆鱗に突き刺さって血をふきだした。村を守るには、りょう姫が竜の脳に入り込むしかなかった。村を救うために命を落とすのならば幸せだという思いは、りょう姫も天馬も同じだった。天馬はりょう姫を竜の傷口に連れていき、別れにりょう姫は山の麓の桜を守ってほしいと最後の願いを託す。やがてりょう姫の身体は溶けていき、竜は鎮まった───。
 「竜ヶ池は、その時竜が暴れたときにできた池で、すぐそこを流れる百々川の石が皆赤いのは、その時流れた竜の血のためだそうですよ」
 浩幸は百恵の表情をのぞき込んだ。
 「え?じゃあ、この山全体が、竜になったりょう姫の身体ってこと……?」
 「そうです。次に目を覚ますのは、何千年も先の事ですけどね。見て下さい、この松───」
 浩幸は一本の松の近くに寄っていき、その幹を二、三度叩いた。
 「ねじれている……」と驚く百恵に、浩幸は「須坂の人でしょ?」とからかった。
 「もう!」
 “根あがりねじれ松”は須坂市の指定天然記念物に指定されている。松がねじれる原因として、年間を通して南東の風が稜線にそって北東に吹くことが多いためだとされており、表土が浅く水分も少ないため松の成長がおそく、根が地表から出てしまうという珍しい松だった。がりょう山にはそんな“根あがり松”や“ねじれ松”が無数に点在しているのだ。
 「“ねじれ松”っていうそうですけど、これは竜になったりょう姫の、深い苦悩が、松をねじれさせているってことです───」
 百恵はポカンと浩幸の顔を見つめて、「信じているんですか?その話……」と笑った。
 「おかしいですか───?でも、実際、そうだったら楽しいと思いませんか?さあ、てっぺんはもうすぐです!」
 浩幸の後を、百恵は肩で息をしながらも楽しそうについて歩いた。
 果たして頂上には、花見の混雑とは打って変わって、静かな涼風が流れていた。
 「ここが城跡ですか?何にもありませんね……」
 百恵が不満そうに言った。見れば須田城址の案内板の他は、その近くに小さな屋根の形をした石が置かれてあるだけで、ただの狭い平地であった。
 「こんなに狭い場所に本当にお城があったのですか?」
 浩幸は何も言わずに、そこに設置されているテーブルの椅子に腰掛けると、百恵も彼の隣りに若干距離をおいて腰をかけた。すると浩幸は持っていたペットボトルの蓋を開けて飲料水を飲んだ後、煙草の先端に火をつけた。
 「たまにこうしてここに登るんです。いつも一人で登るのですが、この間は大樹も一緒に連れて登りました。何も考えずに下界を見ていると、昔、須田氏がどうしてここに城を作ったかが分かる気がしてくるんです……そういえば、女性を連れてきたのは貴方が最初です」
 浩幸は煙草の煙を吐きながら、遠くに光る千曲川を見ていた。
 「先生……、いつも大樹君の手を引いてコンビニに来ていましたけど、先生の奥さんて、どんな女性……?」
 百恵は浩幸の横顔をじっと見つめながら、そっと呟いた。彼は百恵の顔を見つめ返し、
 「どうして……?気になりますか?」
 と微笑んだ。百恵は今まで聞けなかった事を、何の心構えもなく、ごく普通の会話のように聞けてしまった自分からはっと我に返ると、慌てて「いえ、別に……」とその質問を否定した。浩幸は煙草の火をもみ消すと、遠くを見つめた。
 「さあ、戻りましょうか。きっとみんなが僕たちの悪い噂をしているに違いありませんから」
 浩幸が山を下りはじめた時、
 「あっ!」
 百恵は履いていた右のハイヒールのバランスを崩し転んでしまった。
 「大丈夫ですか!」
 浩幸は慌てて百恵の手を引いて起こそうとしたが、どうも足を変なふうにねじったようで、両足で立つことができなかった。
 「ごめんなさい。私、ドジだから……」
 「いいえ、貴方がこんな靴を履いているのを知っていて、こんな所に誘った僕がいけなかった……、足を見せて」
 浩幸は百恵の足に手を当てた。
 「軽い捻挫をしてしまっていますね」
 「平気です。ほら、歩けますから……」
 数歩歩いてよろけた百恵の身体を、浩幸は強く抱き寄せて支えた。その時、百恵の鼻をかすめた香は、昔どこかでかいだものに相違なかった。浩幸は百恵の前に立つと背を向けて、中腰で座って両腕を後で広げ「どうぞ」と言った。
 「平気です。一人で歩けますから」
 その言葉をうち消すように、「僕の責任です。仕事にも差し支えるでしょ。下におりたら水で冷やしましょう、早く!」と、百恵を背負って歩き始めた。
 百恵の鼓動は高鳴った。揺れる背中の彼の首筋から香る匂いから、遠い記憶をたぐってみたが、いくら考えても思い出すことはできなかった。いつしかうっとりとする自分から我に返ると、急いでその気持ちを押し込めた。

 ───子持ちよ、子持ち!先生には奥さんがいるんだから!そして私には新津君がいるでしょ。だから多分この男性は、けっして好きになってはいけない男性───、好きになってはいけないの!あんなに評判の悪いやぶ医者なんだから、きっとろくなもんじゃないんだから!こんなことして、私の気を引こうったってその手には乗らないわよ。おでんで間接キッスしたくらいで、ファーストネームで呼び合おうなんて言ったって、そんな手には乗らないんだから!───でも、でもこうして先生の背中に顔をうずめていると、こんなに胸が高鳴るのはなぜ?こんなに恥ずかしく、そして嬉しく感じるのはなぜ───?

 「さっきの質問ですが……」
 浩幸がふと呟いた。
 「えっ?」
 「僕の奥さんのことです……聞きたいですか?」
 「…………」
 浩幸はひとつ鼻で笑った後、
 「一人目は離婚、二人目は……、死にました……」
 と言った───。
 涼風が、百恵の額からにじみ出るかすかな汗に、心地よい清涼感を与えていた。
 「でも馬場さん、僕を好きになってはいけませんよ」
 「い、い、いきなり何を言うんです……?」
 百恵は慌てて、赤面したまま返す言葉も見つからなかった。
 「これでも僕は医者です。貴方の心拍数で、おおよそ考えていることは察しがつきます。僕はもう、本気で女性を愛せる男じゃありませんから……」
 百恵は何も答えなかった。しかし、歩調に合わせて揺れる身体で、少しずつ浩幸の中に溶け込んでいく自分の意識を感じていた。
 
> 第1章 > (十二)うわべ家族
(十二)うわべ家族
 百恵が交替勤務になったのは、五月の連休明けからの事だった。もっとも連休といっても入所の高齢者たちの世話をするコスモス園ではないに等しく、俊介の強いデートの誘いに応じることもできなかった。電話口の俊介は、
 「なんだか介護施設って牢獄みたいなところだね」
 と腹を立てた様子で言った。
 「自分で選んだところだから……。それに私、新人でしょ、連休だからって簡単に休暇もとりにくいのよ」
 「こんなことなら紹介するんじゃなかった……」
 その口調は終始荒かった。「ごめん」と言ったが、心のどこかでその会話を冷めて見ている自分がいた。先輩の丸越朋美から「百恵さん、連休明けから交替勤務をしてほしいのだけど」と言われたのは、丁度俊介とその話をした翌日だった。
 コスモス園の交替勤務は、早番、遅番、夜勤の三交替だった。役職職員や事務職員の他は、よほどの理由がない限りほとんどの者が交替番をしており、休みも公休といってカレンダーのそれとは大きく異なる。その事は面接の時にも聞かされていたから覚悟はとうにできていた。拒む理由などなく「はい、分かりました」と呼吸をするように答えたのだ。
 初日は早番の勤務だった。コンビニに勤めている時も交替番だったので、さほどの抵抗もなく出勤することができ、スタッフルームで夜勤の人からの引き継ぎが完了すると、七瀬光輝という同世代の女性介護スタッフが、「よろしくね」と親しみの笑いを浮かべてコーヒーを持ってきてくれた。七瀬は高校卒業後、介護専門学校に進んで現在社会福祉士の免許を取得しているこの道では百恵より何年も先輩の立場で、職場では介護スタッフ兼任の入所相談員もしている。しかし学年は同じく、「この職場、同世代の人がいなくて退屈してたの」と人なつっこく寄ってきたのだ。百恵は「ありがとう」と言ってコーヒーを飲むと、二人は“光ッチ”“モモ”と呼び合おうと決まり、すぐに意気投合したものである。
 早朝の見回りが終わり、朝食の準備にかかるまでは若干の時間があった。七瀬と百恵はお互いの身の上話に花を咲かせた。
 「ねえねえ、彼氏いるの?」
 七瀬の質問に苦笑しながら、「最近、なんだかかみ合わなくて……」と答えた。
 「なーんだ、いるのか……。私なんかこんな所に勤めているから出会いがなくて。ねえねえ、誰か紹介して!今度ゴーコンしましょ!」
 七瀬のはしゃぎようにたじろぎながら、百恵は気のない相槌で答えていた。そんな七瀬が午前中の入所相談で、施設のロビーで入所希望者の家族の人たちと話をしている表情に、百恵は別人と見違えた。朝の七瀬とは想像できないほど真剣な様子で話を聞いているのである。ちょうど百恵もロビーのソファで、施設利用者の苦情を聞いている時だったので、その内容を聞くことができたのである。
 「おばあちゃん、とっても良い施設じゃない……」
 話しているのは嫁らしき四十代の小太りの女性である。ソファに小さく座っているおばあちゃんの表情は暗かった。その脇には痩せこけた小太りの女性のご主人らしき男もいる。
 「ご自宅で介護できない理由をお聞かせ下さい」
 七瀬の瞳が輝いていた。
 「うちはお父さんと娘が働きに出ていますので、昼間のおばあちゃんの面倒はぜんぶ私が見ているんです。少し前までは何でも自分でできていたんですが、最近、身体も動かなくなってきて物忘れもとっても多くなってきてしまったんです。しばらくはデイサービスにも通っていたんですけど、どうも馴染めないみたいで。ね、そうよね、おばあちゃん。それで最近はずっと家にいるんですけど、私も付き合いの方が忙しかったり、やることもいろいろあって、とてもあばあちゃんの面倒まで手がまわらなくなってしまって、それでご相談に来たんです。だって一人で立つこともできないんですから、どこに移動するにも私が支えなきゃいけないんです。ね、おばあちゃん、そうよね。いっその事、施設に入った方が友達もできるだろうし、おばあちゃんにとっても、家族にとってもいいんじゃないかって、ね、そうよね、おばあちゃん」
 小太りの女性は、「そうよね、おばあちゃん」を何度もはさみながら、言葉を笑顔で包み込むようにそう言った。とうのおばあちゃんは何も答えず、ある一点をじっと見ているだけの様子だった。
 「要介護認定をまだ受けられていないようですので、入所は難しいと思いますが、通所の申請は一応やってみます。ただ、現在コスモス園も施設自体の収容可能定員がいっぱいになっていますので、何ヶ月か、あるいは何年かお待ちいただくようなことになるかも知れませんがご了承下さい」
 七瀬は事務的にそう言うと、必要書類を家族に手渡して、玄関まで見送った。おばあちゃんはゆっくりだが自力で立ち上がると、無口そうなご主人に支えられながら出ていった。
 「私がいなくなることで家族円満になるなら、わたしゃ本望だよ……」
 「何をいうんだよ、母さん」
 おばあちゃんのしゃがれた声が百恵の耳に入ってきた時、彼女は急に悲しくなった。百恵は七瀬を呼び止めると、「今のご家族……」と言った。
 「典型的な“うわべ家族”ね。おばあちゃんは言っていることもしっかり理解できているし、ゆっくりだけど自力で立つこともできた。今の方たちはおばあちゃんとご主人が実の親子で、女の方はお嫁さん。最近多いのよ、こういう相談が。介護の域にまで達していないのに、いわゆる世話を焼くのが面倒で相談に来る人。老人介護施設は“姥すて山”じゃないのに……。本当に介護を必要としているのに入所できない人もいるし、その見分けがけっこうたいへんなのよね。施設の財政のこともあったり、利用者人数や介護の度合いとスタッフ人数のバランスもあったり……、もう、けっこう大変」
 「“うわべ家族”か……」
 百恵がつぶやいた。北朝鮮の拉致被害者が何十年ぶりに家族と再会した涙のニュースや中国残留孤児の家族再会の感動のニュースがあるかと思えば、実の子を虐待したり、産後間もない赤ちゃんを殺したり、親を殺害したりする悲劇のニュースも連日のように報道される。百恵はそんな事を考えながら、社会全体を覆い尽くす大きな闇のようなものを感ぜずにはいられなかった。
 「モモのご両親は……?」
 七瀬が聞いた。
 「ええ、健在よ」
 「私ね、こんな仕事しながら、たまに家族って何だろう?って考えるの。私、お父さんがいないから……」
 七瀬は小学校の時に両親が離婚したこと、看護士だった母が女手一つで自分を育ててくれたことを話した。いつも明るい母は、一度も自分には涙を見せた事がなかったと語る。自分も寂しかったけどきっと母はもっと辛かったと───。
 「私ね、ある時お母さんに聞いたの。お父さんと別れて本当に幸せだったか?って……。そしたらね『分からない』って答えた。『でも、世間体を気遣ったり、心を偽ってうわべだけの家族を演じるよりずっと気が楽だ』って、そう言ってた。だからさっきの様な人たちを見ると、別々に暮らした方がいいよって思っちゃう。だからね、私は将来を考えるとき、絶対悪い男には引っかからないぞ!って、そのお母さんの言葉を聞いたとき誓ったの」
 「ねえ、山口医院の山口先生のこと、どう思う?」
 話が家庭の核になる夫婦の事に及んだとき、思わず百恵の口からもれた。「どうして?」と七瀬が不思議そうに言ったので、「別に、ただ、なんとなく……」と言葉を濁した。
 「バツ2で今は独り身だっていうけど、何だか冷たい感じのする先生ね。私は苦手」
 と七瀬が言った。
 「バツ2……?一人目は確かに離婚だって言ってたけど、二人目は亡くなったって」
 「あら、そうなの?やけに詳しいじゃない。誰に聞いたの?」
 「誰って、そんな事いいじゃない!」
 「あやしい……あやしいんだ!彼氏、新津君って言ったっけ?言っちゃおうかな!」
 はしゃぐ二人の横をリハビリスタッフをしている山中健男が通りかかった。百恵の印象では少し軽率な感じのするちょっとカッコイイ男であった。途端、七瀬の態度が豹変すると、少し照れたように頭をペコンと下げた。
 「やあ、七瀬さん、調子はどう?」
 「いいですよ。山中さんは?」
 「参ったよ。楠さんがリハビリ中に転んで骨折っちゃってさあ。もう、さんざん」
 そう言うと、山中は慌てている様子で行ってしまった。
 「え!楠さんが!たいへん!中山君、待って!」と追いかけるまでの一連の七瀬の態度を見て、百恵は彼女が山中を好きな事を知った。
 
> 第1章 > (十三)愛した女性
(十三)愛した女性
 山口脳神経外科医院は、須坂市の蛍ヶ丘にある。
 先代の山口正夫は地元でも有名な赤髭先生で、広く尊敬を集めていたが、一人息子の浩幸が医師として独り立ちできることを見定めると早くに院長を交替して、自分は専ら患者の家に毎日往診に出かけるのが趣味の、まるで利益には無欲な人物だった。変人といえばあれほどの変人もない。なぜなら膨大な治療費を要する患者に対しても、保険に入っていなかったり、家族にお金がないと見るや、極端に言えばその費用を全て無料にしてしまうという無謀な事も、平気でやってしまうような異常なほどのお人好しであった。「かわいそうじゃないか」が口癖で、すでに逝去して五年になるが、その葬儀には「先生にお世話になった」と言う何千人もの参列者が訪れたほどである。
 おかげで医者とはいえ、山口家の家計はいつも火の車だった。欲しい物も買えず、食べたい物も食べれず育った浩幸は、医学大学にもバイトをしながら奨学金で学んだ苦学生だった。
 「僕はあんな医者には絶対ならない!」
 これが若き日の浩幸の誓いであった。
 医師免許を取得した彼は、すぐに県立の病院に勤めたが、正夫の「早く戻って来てほしい」という再三の願いで、間もなく山口医院の後継として院長に就任したのである。正夫は自分に経営の才がないことを知っていた。いわば毎年赤字決済の医院の存続を一人息子に託したのだった。
 「僕はパパのような医者にはならないから!」
 「好きなようにしなさい」
 以来、浩幸は山口医院の財政的建て直しに奔走するのである。
 その時、浩幸には愛する女性がいた。県立病院に勤めていた薬剤師で、三歳年下の河田美津子という名の女性だった。美しく気品のある姿に一目惚れしたのである。彼女は同僚の男性医師や男性患者からもちやほやされる存在だった。それほど美しい顔立ちをしていたのだ。浩幸が県立病院を退職する事が決まった日、彼女にその事を伝えた時、とても淋しげな表情をして「行かないで」と言った。それは、明らかに異性に対する思いから出た言葉であることは、流す涙の数で知ることができた。浩幸は美津子の心が自分に向いている事をその時はじめて知った。
 やがて二人は恋に落ち、院長就任と同時に結婚して、すぐに一人の女の子をもうけたのである。浩幸二十五歳の時である。それは、浩幸の人生にとって最も幸福な日々だった。仕事はハードでも帰れば愛する妻と愛する娘が笑顔で迎えてくれた。そして妻は確かに言っていた、
 「頑張って。私がついているから───」
 と。
 しかし、妻の美津子に変化が現れたのは、結婚して三年目の蝉時雨がキリギリスの声に変わった頃からだった。仕事で遅く帰ってきたときも、そこには美津子の笑顔はなかった。
 「おかえり……」
 と言うものの、何か他の事を考えているような、もっと言えばどこか罪を犯しているような、陰気な表情で彼を迎えるようになったのである。
 「どうしたの?」
 と聞けば「なにが?」と気のない返事が返ってくるだけで、それを堺に、夫婦の関係も次第に険悪なものへと変化していった。浩幸には何が起こっているのか見当もつかなかった。が、ある日、美津子の態度が癇に触り、大喧嘩となったのである。
 「もう、あなたと一緒にはいられない!」
 「ああ、それなら出ていくがいいさ!」
 思わず感情的に口走った浩幸の怒声に涙を溜めて、美津子は「そうするわ!」と、娘の手を引いて彼の前から姿を消した。浩幸は動転しながら、「とんでもない事を言ってしまったのではないか」と直感していた。
 しばらくして分かったことは、美津子に男ができていたという事だった。今から思えば、忙しさのあまり、妻にも娘にも充分といえるほどの相手をしてあげられなかった事を悔いたが、離婚届から六カ月後、美津子の苗字が林となったことを噂で知った。相手がどんな男かも知らないままに、浩幸は深い悲しみをただじっと耐えながら、心の癒えるのを待つしかなかった。
 そうして、五年の歳月が流れた───。
 しかし、浩幸の心から美津子への思いがなくなる日はなかった。ところが、山口医院に勤める看護士に田中好美という女性がいた。四年前から看護学校を卒業してすぐに山口医院に採用された者だが、彼女が患者をいたわりながら歩く姿を見かけるまで、ほとんど意識などしない存在だったが、ふとその横顔が目に入った時、美津子と同じ何かを彼女の中に見つけたのだ。浩幸は次第に彼女にひかれていく自分を知ることになる。それは別れた妻に対する未練に違いなかった。そうして浩幸は、彼女と二度目の結婚をしたのである。
 好美は非常に清楚でおしとやかな、いわゆる昔の良妻賢母を思わせる何につけ控え目な女性だった。浩幸は彼女を愛したわけでなく、彼女の中にあった美津子の面影を愛していたことを知っていた。しかし好美は彼を愛していた───。
 やがて、二人の間にも子供ができた。
 「私はあなたの子供をたくさん産んで、世界一幸せになるんだから……」
 普段は口数が少ない好美が、お腹をさすりながら潤んだ瞳を浩幸に向けたとき、彼はその目を正視できずに席をはずした。好美は彼の心に自分がいないことを薄々察していたに相違ない。次の瞬間こぼれ落ちた涙は、水色の吐息と同時であった。
 臨月も間もなく迫った頃、長野市で行われた医師会の会議で忘れ物を思い出した浩幸は、好美にそれを届けてもらおうと電話した。「子供のためにも軽い運動がてら届けるわ」と答えた好美はタクシーを頼み、会議の行われるホテルへ飛んだ。だが、タクシーを降りて横断歩道を渡ろうとしたとき、よそ見運転のトラックと衝突したのである。救急車で運ばれたものの、既に意識はなかった。
 事故の連絡を受けて、浩幸は血相を変えて運ばれた病院にかけつけた。応急手術をした医師は、浩幸とも面識のある中年の男だった。
 「ああ、山口先生……」
 「好美はどうなんですか!」
 中年の医師は首を横に振った。「幸いお腹の赤ちゃんは無事でした。きっと事故の瞬間、本能的にお腹を守ったのでしょう。しかしこのままでは子供の命も危ないと判断し、帝王切開でお腹を切りました。未熟児ですが子供さんの方は命に別状はありません」
 浩幸は好美の横たわる病室に駆け込んだ。
 「脳挫傷です。残念ですが、意識が回復することはないでしょう」
 浩幸は涙を流して好美の手を握りしめた。

 僕は、なんてことをしてしまったんだ……。美津子を手放したくないがためにその面影を持った好美を殺してしまった……。君は僕を愛してくれていた。でも僕は……、いや、違う!僕も君を愛していたんだ!君が死のうとしている今になって、ようやく僕はそのことに気がついたんだ。ごめん、ごめん、ごめんよ、好美……!

 その時、好美はかすかに息をふき返した。中年の医師は、「信じられない」という顔でその光景を見つめていた。
 「浩幸さん、ごめんね……忘れ物、届けられなかった……」
 「なにを言っているんだ、君は……」
 好美の瞳から涙がこぼれた。しかしそれは笑顔が作り出す桃色の涙だった。
 「早く、早く僕らの赤ちゃんを連れてきて下さい!」
 浩幸は発狂するように叫んだ。近くにいたナースが慌てて赤子を連れてきた。
 「ほら、僕らの子だよ……。元気な男の子だ。名前はどうしようか……」
 好美は最後の力をふりしぼるように「ごめんね……」と言った。それが彼女の最後の言葉となった。浩幸は愕然と肩を落として嗚咽した。
 子供を大樹と命名した。生前、好美と高山村に行ったとき、樹齢何百年もの大きな樹木を見つけて、その樹の下で二人だけでサンドイッチの昼食を食べた事を思い出したのだ。その時好美は、
 「この木はあと何年生きるのだろう」
 とつぶやいた。「さあ……?、百年、いや二百年くらいかな?」と適当に答えた浩幸を見つめ、
 「わたしもずっと、あなたの近くにいていい?」
 と言った。その時は、何も言わず笑顔を返しただけだったが、その答えの証しに子供にその名を託そうと考えたのだ。好美はいわば浩幸にとって、美津子を忘れさせてくれた女性であり、死ぬ寸前に本当の妻となっていたのである。
 それから三年───。浩幸はただ大樹の成長だけを願って生きているのである。
 
> 第1章 > (十四)徘徊とゴーコン
(十四)徘徊とゴーコン
 痴呆高齢者にとってこの世の中で、まったく意味を持たないもの。それは、“時”の流れ───。彼らと面と向かって仕事をしていると、百恵は「果たして時間なんてものが存在するのか」という錯覚に陥ってくるのだった。

  それぞれの人生を生きた
  彼らの瞳の光の意味を理解するなんて
  二十五歳になったばかりの私には
  とてもとてもおこがましくてできないけれど
  その光の温かさを感じることならできる───

 時間についての概念は、小学校の理科の課程から当たり前のように出てくるようになった。だから一日は二十四時間で、一時間は六〇分で……、だから一人ひとりに与えられた時間はみな平等で、その平等に与えられた時間の中で、人は生き、成長し、喜び、楽しみ、時には思い悩み、傷ついて、そして、傷心を癒してくれるのもまた時間だと信じていた。だって、あのアインシュタイン博士だって、時間の概念がなかったら相対性理論なんて発見できなかったに違いないって思うもの。
 太陽が昇ると朝がきて、月が昇ると夜になり、春が来れば花が咲き、秋になれば実をつける───。明日食べようと残しておいたプリンが、翌日になって食べようとしたら賞味期限が昨日だったことに気がついて、どうしようもない悔しさで腹が立ったり、出窓で育てているサルビアが、花を咲かせるのはいつだろうかと待ち遠しく思ったり、洗濯物が乾いたとか乾かないとか、安室ちゃんとかチャゲアスとかジョン・レノンとか “たまごっち”とか、ふと昔のことを懐かしく思い出したり、今晩の献立を考えてみたりとか、すべてが刻々と過ぎる時間の中で行われているものだと信じてた。
 「時間を無駄にするな」とか、「時間を有効に使え」とか、「過ぎ去った時間は取り戻せない」……とか、上司の須崎理事長などはこういう言葉をよく使う。確かに時間という概念に則ればそんな言葉も出てこよう。でも……、
 でも、もしかしてこの世の中には、概念による時間はあったとしても、実在の時間なんて存在してないかも知れない───。なんだか私、最近、そんな気がしてきたの……。

 夜勤のナースステーションで、非常用の呼び出しマイクから百恵を呼んだのは、三二五号室の梅さんだった。アルツハイマー型認知症の診断を受けた数年前から、コスモス園に入所している六十七歳のおじいちゃんである。
 「ちょっと、あれ……持ってきてくれんかいな」
 百恵は、夜勤が一緒の七瀬に顔を向けた。
 「モモ、彼氏がお呼びよ……」
 七瀬は眠そうなあきれ顔で言った。要件はだいたい彼女にも想像できた。用もなく呼びつけては「さみしい、さみしい……」と言い続けるのである。案の定、百恵が三二五号室に行くと、梅さんは彼女の手を強く握りしめたまま、
 「さびしい、さびしい、さびしい……」
 と、何度も何度も繰り返した。
 「大丈夫よ。私が来たから安心して眠って……」
 百恵の言葉にも気づかない様子で、一時間ほど「さみしい」を繰り返すと、やがて梅さんは眠りについた。百恵はほっとため息を落とすと、彼の布団を整え、非常口の灯りだけの暗い廊下をナースステーションへと歩きだした。
 静まりかえった廊下に、運動靴のキュ、キュという音だけが異様に響いていた。映し出された影は壁に長い帯となって不気味な風景を作り出し、切れかけた曲がり角の歩行灯が一瞬消えてまた点くと、外で野良猫がギャーと鳴いた。百恵が背筋をぞっとさせた時、何か生暖かい風が吹いた気がした。ふと振り返ると、向かいの突き当たりの廊下を何か白いものがスーッと通り過ぎた。百恵は冷や汗を出しながら気のせいだと自分に言い聞かせ、急いで階段を降りようと掛けだした。すると次に二階の廊下に黒い人間のような形をした物体を目にしたのだ。思わず「ひゃ!」と声をあげ、一階のナースステーションへ急ごうとした曲がり角で、今度は別の物体と鉢合わせをしたのだった。百恵は声も出せないまま、腰を抜かして近くの部屋に駆け込むと、息せき切って蒼白で、非常用マイクのボタンを押した。
 「どうしましたか?」
 「光ッチ、た、た、助けて……」
 百恵の尋常でない声に七瀬は血相を変えた様子で「モモ?どうしたの!」と叫んだ。
 「お、お、おば、おば……お化け───!」
 百恵は恐怖に打ち震えながらやっと言葉に出した。マイクの向こうの七瀬は、どっと疲れた様子で急に笑い出した。
 「なに言ってんの、お化けなんているわけないじゃない。きっと徘徊よ」
 「は、は、はいかい……?だって、三っつも見たのよ、ぼーっとしたお化け!」
 「今日は徘徊のラッシュね……」
 七瀬はそう呟くと笑いながら「すぐ行くから待ってて」とマイクを切った。
 徘徊は痴呆老人のひとつの特徴でもある。真夜中に目的もなくさまよい歩き、自分の居場所に戻れる者もあるが、痴呆の進行が進んだ者は、たどりついた先でそのまま寝てしまう。七瀬の話によれば、施設の出入り口は完全に閉まってあるから、施設内では比較的徘徊を自由にさせているとのことだった。ただ、失禁癖のある者や歩行が危ない者についてはスタッフが付いて気が済むまで付き添うのだと言う。とはいえ、実際徘徊する姿を見るのははじめての百恵にとって、それは異様な光景だった。百恵は胸を撫でおろしながら「驚いた……」とため息を落とした。そんな百恵を笑うと、ふと七瀬が、
 「でも、よくよく考えると、徘徊しているのは私の方かも知れないわ」
 とつぶやいた。百恵は意味が分からず彼女を見つめた。
 「だって、他の人は知らないけど、私は人生の目的もないまま、ただ路頭に迷いながら生きているって感じじゃない?これって、人生の徘徊よね……」
 「そんなことない。光ッチ、がんばってるわ!」
 七瀬は「ありがとう」と言うと、徘徊者の一人は失禁癖があるから自分が付き添うと言い残し、百恵にはナースステーションで待機するよう伝えると、先程のお化けを探しに行ってしまった。

 夜勤を終え、早番の看護士や介護スタッフたちがナースステーションに入って来ると、引き継ぎを済ませ、介護スタッフたちはスタッフルームへと移動した。
 「おつかれー」という言葉が飛び交う中を、仕事を終えた百恵と七瀬は部屋を出た。
 「ねえモモ、今週末は公休でしょ。この前話してたゴーコンやらない?モモの彼氏の友達呼んでさ、公務員の……」
 「高梨君?いいけど、彼、高梨先輩の弟よ」
 「あちゃ……そうなの?じゃあ、仮にうまくいっても、先輩の事、お姉さんなんて呼ばなきゃいけなくなるわけね……。やめよ、やめよ。それじゃあ、二人だけで飲み行かない?」
 そこへ早番の山中が「ねえ、ねえ、何の話?」と寄ってきた。七瀬は少し挑発するような口調で「ゴーコンの内緒話し」と答えた。
 「ゴーコン?俺も行く行く!」
 軽いノリの山中に「今週末よ。山中さん仕事でしょ?」と七瀬が言うと、「早番だから夜は空いてる。ぜひ行こう!」と話が決まり、中山は「さあ、頑張るぞ!」と言いながら去っていった。「まあ、元気がいいこと……」と百恵と七瀬は顔を見合わせて笑うと、七瀬はいつになく明るい口調で小声で「ラッキー!」と言った。
 「光ッチ、やっぱりあなた山中さんのこと……」
 百恵の言葉に少し顔を赤らめた七瀬は、
 「やだ、モモったら!モモの彼氏も呼ぶのよ、当然でしょ!私と山中さんきり仲良くなってもつまらないでしょ。そうだ、どうせだからモモの大学の仲間も呼んで、最初の予定通りゴーコンでいきましょう!」
 と、七瀬は心をはずませながら帰って行った。
 こうして決まったゴーコン当日、「長野市の権堂にいい店がある」という俊介の提案で、待ち合わせを居酒屋にして軽く飲んだ後、全員揃ったところで移動しようということになった。集まったのは百恵の絵画サークルのメンバーで俊介と高梨と彩香、それに七瀬と最後に遅れてきたのが「ごめん、ごめん」とやってきた中山の六人だった。
 「これで三対三ね」
 と彩香が嬉しそうに言うと、俊介の後をついて、六人は洒落たスナックへ移動した。
 「新津君、どうしてこんな店、知ってるの?」
 と百恵が聞くと、「仕事でたまに来るんだよ。洒落た雰囲気の店だけど結構手頃なんだ」と言いながら六人掛けのテーブルに腰をおろした。すかさず俊介は水割りと、百恵のためにウーロン茶を注文した。すると隣同士に座った山中と彩香が親しそうに話をはじめてしまった。百恵は隣の七瀬を気にしながら、「何か歌う?」とカラオケの本を開いた。不愉快な顔付きの七瀬は、気を使いながら話す高梨の質問にも愛想なく答えながら、目の前の山中と彩香をずっと気にした様子で水割りをガブガブ飲んでいた。
 「ちょっと、光ッチ、飲み過ぎじゃない?」
 「いいの、いいの、明日は休みなんだから。じゃんじゃん飲みましょ!」
 俊介はそんな七瀬を気にして「何かあったの?」と百恵に聞いた。
 「え?ま、まあ……ちょっとね……」
 俊介は首を傾げた。百恵は七瀬を元気づけようと、コスモス園での愉快な出来事を次々話し出した。その話に俊介も高梨も大笑いしたが、山中と彩香は乗ってくる様子もなく、七瀬はますます落ち込んだ様子だった。
 「そうだ!歌でも歌いましょ!ピンクレディー、ピンクレディーがいいわ。光ッチ、何でも踊れるって言ってたじゃない。私も得意なの!」
 と言った。俊介は「そんな古いの知ってるの?」と驚いていたが、とても素面ではできないと思った百恵は、七瀬のウイスキーを一気に飲み干すと、その曲をリクエストしたのだった。俊介ははじめて見る百恵の態度に戸惑いながら「大丈夫?」と言った。
 「いいわよ、ピンクレディーだろうがマイケルジャクソンだろうが踊ってやるわ!」
 七瀬はやけくそになって立ち上がった。果たして音が鳴り出すと「よし、行こう!」と、二人は小さなステージに飛び出して踊りだした。残った四人は呆気にとられた様子で顔を見合わせた。
 丁度、二番に入った時である。スナックに大人の男女が入ってきた。最初歌って踊る二人は気づかなかったが、その男女がカウンターの席に着いた時、七瀬の歌声がピタリと止まった。百恵が必死に肩を叩く七瀬に気づけば、七瀬はたった今入ってきた男女の方を指さしている。酔ってぼやける視覚が、その男女の姿を捉えた時、百恵は急にしゅんとなって、そのまま途中で化粧室に逃げ込んだ。二人で逃げ込んだ化粧室で、
 「ねえ、見た見た?さっきの山口先生じゃない?気づかれちゃったかな……」
 七瀬の言葉に鏡の前で、百恵は何も言わなかった。
 「きれいな女の人、連れていたわね……、誰かしら……」
 百恵はしばらく鏡に映った自分の顔をみつめると、
 「私、帰る……」
 と、ひとこと言った。浩幸に気づかれないようにそっとバックを取りに席に戻ると、無頓着な山中は早速浩幸の横に座っていて、「七瀬さん、馬場さん、こっちこっち!」と大きく手を振っていた。振り向いた浩幸は軽く手を挙げると静かに微笑んだ。その隣には自分より綺麗な女性がひとり、百恵に向かって軽い会釈をしたのだった。百恵は浩幸の瞳をじっと見つめると、思わず理性を失ってスナックを飛び出した。
 「どうしたの!」
 慌てて俊介と七瀬が後を追い、百恵の腕をつかんだ。
 「ごめんなさい……、私、なんだか急に具合が悪くなって、今日はもう帰るから、みんなによろしく伝えて……」
 そう言うと、俊介の手を振り払うように夜の街を歩きだした。
 「新津さん、モモは私が送るから心配しないで……」
 そう言うと、七瀬は百恵の後を追った。席に戻った俊介は、先程百恵が見つめた男が、前にラーメン店で出会った施設医であることを確認した。

 百恵は何も喋らずに、ひとりで早足で歩いていた。その後を追うように、七瀬が小走りについていく。
 「ねえ、モモ……、いったいいつまで歩くつもり……?」
 二人はとっくに繁華街をはずれ、侘びしい広い通りを歩いていた。
 「私たち、ほんと徘徊老人みたいね……」
 しばらく無言のまま歩いていた百恵が、ふと思い出したように呟いた。
 「知らなかった……。モモ、本当に山口先生のこと、好きだったなんて……」
 「ごめんね。光ッチ、せっかく楽しみにしていたゴーコンだったのに……。私が台無しにしちゃったみたい……。でも、彩香も彩香よ!こんなことだったら前もって言っておけばよかった……」
 七瀬は少し考えた後、こう言った。
 「私はいいの。だって、どんなに山中君を好きになって、どんな結果になろうとも“あ〜あ、振られちゃった”で、私一人が傷つけばすむ話だもの。でも、あなたはダメ。山口先生を好きになればなるほど、あなたも傷つくし、何よりあんなに優しい新津さんが傷つくじゃない!モモには新津さんがいるのよ!」
 百恵は言葉を失って立ち止まった。そして、花見のがりょう山の時のことを思い出しながら、いけないと思いつつも、理性とは裏腹の感情がとめどなく出てきて、それがもう押さえる事ができなくなっている事に気づいていた。
 「私だって知ってるわよ、そんなこと!何度『ダメだ』『ダメだ』って自分に言い聞かせたか分からない。でも、でも、この心が私の言うこと聞いてくれないのよ!」
 百恵の頬に涙が落ちた。七瀬は「モモ……」と言ったきり、何も言えなくなってしまった。
 「最初に出会ったのは、私がコンビニでバイトしてる時……。三歳くらいの子供の手を引いてやって来る彼の表情はとても寂しげだった……」
 百恵は浩幸への思いをしまい込んでおくことが苦しくなって、七瀬に今まであった事を全て話した。話せば今の苦しみから解放され、今、自分がなすべきことが分かるような気がした。七瀬は何も言わず頷くだけで、最後に「そうだったんだ……」と一言いった。
 月の光は明るく、西の空に流れ星が落ちた。
 二人は何も言わずに徘徊老人のようにいつまでも歩き続けた。
 
> 第1章 > (十五)心の痴呆
(十五)心の痴呆
 早番が終わり、帰ってから少し眠ろうと考えていた百恵の携帯電話が鳴ったのは、家に着いて車を降りた時だった。
 「夕方、ちょっと会えないかな?」
 声の主は大学のサークル仲間の彩香で、電話では話しずらいと言うので、仕方なく駅前の喫茶店で会う約束をしたのだった。あの日から一週間が過ぎようとしていた。仕事仲間の七瀬とはあれ以来お互いを気遣って、浩幸の話も山中の話も出さないようにしていた、そんな折りである。
 「なあに?急に呼び出して。こっちは早番で眠いんだから」
 店内にはヴィバルディが流れていた。運ばれたモカにミルクを流しながら百恵が言った。
 「ごめん、ごめん。モモには言っておこうと思って……」
 彩香は少し笑みを浮かべた表情で、言いずらそうにモカを一口飲んだ。
 「言わないなら私、帰るわよ」
 彩香はもう一口モカを飲むと、バックからセーラムライトを取り出すと火をつけた。百恵は顔の前にきた煙を右手で払いながら、「煙草やめなさいよ」と言った。
 「実はね……、しちゃった……」
 突拍子もない彩香の言葉に、左手で鼻を押さえながら百恵の右手が止まった。
 「“しちゃった”って、なにを?」
 「何をって、その……あれよ……エッチ……」
 一瞬、百恵の頭が真っ白になった。
 「まさか、相手は山中さん……?」
 彩香は嬉しそうに笑いながら頷いた。思わず百恵は「バカ!」と叫んだ。
 「なによ、いきなり!モモなら『頑張ってね』って言ってくれると思ったから話したのに……。あ〜あ、言って損しちゃった!」
 彩香は先日のゴーコンから現在に至るまでの経緯を照れながら話すと、最後に「応援してね」と呟いた。百恵は返答に窮したまま、
 「なんでよりによって山中さんなのよ!それに物事には順序ってものがあるでしょ、どうしていきなりそうなっちゃうわけ?」
 と、その場にいたたまれなくなり立ちあがった。
 「ちょっと待ってよ。そんなに興奮して怒ることないじゃない。出会って最初にエッチくらいしたっていいでしょ。それともなあに?モモは山口百恵の『ひと夏の経験』、信じてるんだ?」
 「何よそれ!」
 「“♪あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ”って。今時、貞操もなにもないでしょ。それともひょっとしてモモ、新津君とまだしたことないの?」
 図星の表情に「だから怒ってるんだ」と、彩香は笑い出した。百恵は「帰る!」と言ったきり、「ちょっと待ってよ」と言う彩香の言葉を振り払って店を出た。
 翌日は、七瀬に会わせる顔がなくて、スタッフルームへも入ることができなかった。仕事ならいくらでもある。休憩をとろうと思わなければ出勤から退勤まで働き通す事もできる。百恵は介護の手をフル稼働させながら、頭では彩香の事や七瀬と山中の事を考えていた。

 もとを正せば、私が山中さんと彩香を引き合わせたのがいけなかったのよね。あ〜あ、光ッチには何て話せばいいんだろう……。それにしても会ってすぐに肉体関係を持つなんて許せない。彩香も彩香だけど、山中さんも山中さんよ!でも、それって、みんなしている事なの?世の中では当たり前の事なの?私が変なのかしら?

 「モモ、今日はやけに忙しいのね」
 七瀬の声につかまってしまったのは、お手洗いを出て、その日はお誕生会の準備当番だったので、その準備のため食堂へ向かう途中だった。
 「どうしたの?なんだか私を避けているみたい……。何かあった?」
 七瀬の不満そうな声に「そんなことないわ。今日は忙しくて……」と歩き出す百恵の腕を、七瀬は離そうとしなかった。
 「ごめんね、光ッチ……私……」
 しかし、どうしても次の言葉が見つからず、百恵は七瀬の腕をはずすと、そのまま小走りに食堂へ行ってしまった。不審そうに首を傾げる七瀬は、やがて百恵とは反対方向に歩き出した。
 食堂ではリハビリスタッフの数人が、お誕生会の飾り付けを進めていた。その中に山中もいて、百恵の姿を見つけると親しそうに寄ってきて、「この間はどうも」と軽く肩を叩いた。百恵は軽い笑顔で返したが、心の奥で軽蔑の念が湧いているのを感じていた。百恵は丸腰の指示に従いながら、机や椅子を移動させたり、次いで配膳の準備に取りかかった。
 そうこうしているうちに、食堂に事務職員の大塚という男がやってきて、それに合わせて丸腰が「百恵さん、ちょっとこれやっていてくれる?」と、皿にケーキを盛る仕事を言いつけて行ってしまった。百恵は気にもしないで仕事を続けていると、山中がつかつかと百恵の脇に寄ってきて、
 「あの二人、知ってる?」
 と、小声で言った。百恵がぶっきらぼうに「何ですか?」と言うと、山中は少し意地悪そうな顔付きで、
 「何でも不倫してるって噂だよ」
 と言った。百恵は驚愕した。丸腰といえば、コスモス園に勤めはじめてから、何も知らない介護の仕事のいろはを丁寧に教えてくれた尊敬する先輩である。三十路の独身であることは知っていたが、事務の大塚といえば四十代半ばの妻子ある男ではないか。百恵は「うそでしょ……」と笑うより仕方なかった。
 「嘘なもんか。だってみんな知ってるよ。何なら七瀬さんにも聞くといいよ」
 丸腰が戻ってくると、山中は慌てて持ち場に戻ってしまった。百恵は言葉を失ったまま上目遣いに丸腰を見れば、心なしか先程より浮かれた様子の彼女を知る事ができた。
 誰かがつけた食堂にあるテレビのニュースでは、どこかの中学教師が教え子である女子生徒を暴行して捕まったという報道がされていた。百恵の頭は混乱していた。

 いったい何が正しくて何が間違っているの?これじゃ、道理も倫理もないじゃない!もしかして、みんな痴呆症?この世の中の人すべてが痴呆症かしら……?そう、心の痴呆───。
 彩香も───、山中さんも───、丸腰さんも───。
 いいえ、あの人も───、この人も───、テレビに映ってる彼も彼女も───。みんなみんな心の痴呆症にかかっているんだ。
 みんな何かを忘れてしまって、どんどん大切な事を思い出せなくなって、だからどんどん悲しい事件が起きているのよ。神戸の十四歳の少年が小学生を殺害した酒鬼薔薇事件をはじめ、佐賀でのバスジャック事件、大分の一家六人殺傷事件、豊川市の主婦刺殺事件に、長崎での十二歳の少年が幼児に性的いたずらを加え、高所から突き落として殺害した事件───。青少年の犯罪総件数は減っているっていうけれど、その分凶悪な犯罪は増えているでしょ。もしかしたら表面に出てくる犯罪が減った分、潜在的な犯罪は倍増しているんじゃないかしら。だって、正しい事といけない事、私にだって分からない。分からなくなってしまったの。これって犯罪につながるって事よね。そんな大人達が正しい事を、子どもたちに教えられる道理がないもの。
 もしかして人間なんて、本能のおもむくまま生きていればいいのかもしれない。だって現に私だって、好きになってはいけない男性を好きになっているじゃない……。痴呆よ、心の痴呆……。現代社会が生み出した大きな病気。どうすることもできないわ……。

 勤務時間を終了すると、百恵は一人施設の屋上に立ち、まだ残雪の残る北信五岳を見つめた。北信五岳とは、信州北信地方では西側に見える山並みの総称で、須坂からだと南から戸隠山、飯綱山、黒姫山、妙高山、斑尾山の順に眺望できる景観で、晴れた日には更にその南側に北アルプスを望むことができる。その風景の中で、百恵は大きなため息を落とした。
 「モモ」
 振り向くと七瀬が二人分のコーヒーを持って立っていた。
 「まだ車があったから施設内だと思って……。ずいぶん探しちゃった……。何考えてるの?」
 百恵は渡されたコーヒーを「ありがとう」と受け取ると、何も言わずにベンチに腰掛けた。
 「なんだか私、分からなくなっちゃって……」
 「何が?」
 「私、痴呆高齢者を相手にするようなこんな仕事はじめちゃったけど、ほんとは痴呆なのは私の方じゃないかって……。いいえ、私だけじゃない、痴呆高齢者を介護する人たち、もっといえば痴呆老人を生み出した社会全体が心の痴呆症にかかっているんじゃないかって……」
 「心の痴呆か……。なんだか様子が変だと思っていたら、そんな事考えていたの?」
 「丸腰先輩、不倫してるって本当?」
 百恵は耐えかねて質問した。
 「誰から聞いたの……?私も単なる噂だって信じたいけど、ホテルから出てくるところを見たって人もいる……」
 「そうなんだ……。尊敬してたのに、なんだかガッカリ……」
 「まあ、あまり気を落とさないで。生きていれば良い事もあるわよ」
 「本当に良い事なんてあるのかしら……」
 百恵は中庭で散歩する老人の姿を見ながら言った。
 「モモ……、なんだかおかしいわよ」
 「そう、おかしいの。昨日まで信じることができた人が急に信じられなくなったり、自分の事すら分からなくなったり……。ねえ、山中さんの事だけど、諦めた方がいいかも知れない」
 「なによ、急に」
 「なんか、彩香とうまくいってるみたい……」
 瞳を曇らせた七瀬を正視できず、百恵は目をそらした。
 「なんだ、そういう事だったのか……。どうりでモモが私を避けていたわけね」
 「ごめんね、私が二人を引き合わせてしまったばっかりに……」
 「いいよ、いいよ、仕方がないじゃない。好きな男性が別の女性を好きなら、それを応援するしかないじゃない。恨んだところでどうなるわけでもないし、横恋慕のささやかな幸福……」
 「光ッチ……、強いのね……」
 「強くなんかないわよ。多分、半年くらい引きずるかな……。そうだ、モモが山口先生のこと好きなら、私、新津さんに迫っちゃおうかしら、優しそうだし、いいかも……」
 百恵は何も答えることができなかった。
 「冗談よ、冗談。でも私、モモには幸せになってもらいたいけど、新津さんを悲しませてほしくはないの。これ本心よ……」
 北信五岳の空はどこまでも透き通り、二人に冷たい風をおくっていた。
 
> 第1章 > (十六)炭鉱の男
(十六)炭鉱の男
 「男は炭鉱をやるもんだ!」
 遅番の引き継ぎを終えて、百恵がグループホームをする老人の部屋へ行った時、入所者は円陣を組み日常会話を楽しんでいたが、近くにいた数人の介護スタッフは「またはじまった……」という表情で、話す哲さんを見つめていた。
 「交替です。ごくろうさまでした」
 百恵は早番の男性スタッフに小声で伝えると、近くのおばあちゃんの肩を揉みはじめた。「ありがとう。とっても具合いいわ……」と、おばあちゃんは目をつむりながら哲さんの話に耳を傾けた。
 彼の話を聞くのは既に十回をこえているだろう、話し出せば三十分では終わらない。話のあらすじは、彼のこれから話す内容を知らない人にも、効果音を入れながら伝えることができる自信が百恵にはある。
 「あれは一番金になる仕事さ!」
 哲さんは『青春の門』の舞台になった福岡県の飯塚で昭和四十年頃まで炭鉱の仕事をしていた坑夫であった。
 福岡の筑豊炭田は石炭の供給地であった。鎖国の唯一の貿易港として栄えた長崎にほど近く、古くから船舶用燃料としての焚石の需要が多かった所である。
 明治初期までの採炭方法はいわゆる“狸掘り”といわれ、これは哲さんの口癖でもある。つまり小さな坑道から真っ黒になってはいだす姿が狸が穴から出てくる姿に似ているところから付けられた言葉だと言う。産業革命による科学技術の進歩は、日本においてもめざましい発展を遂げていた。特に蒸気機関の発明によってもたらされた燃料の供給は、長年、鉱山で働く者たちの生活を助けていたのである。明治中期から盛んに引かれた鉄道や、度重なる戦争の燃料として、ますます石炭の需要が増える中、一つの鉱山で働く何百人もの男たちは、低い賃金で世俗とは切り離された一種独特な文化生活の中で生きていた。
 昭和恐慌の影響による不況の波による失業者も多くあったが、炭鉱といえば戦後になってから生活水準も次第にあがり、やがては男にとっては花形の職へとなっていったのである。
 哲さんの父もまた坑夫であった。幼少の頃は、十五間長屋の一つ、間口一間、三畳一間の『納屋』と呼ばれる粗末な家に住み、半坪の炊事場と、表は半間の押戸と狐格子、裏は突き上げ窓が取付けられただけの、昼間でも薄暗く陰気な掘っ建て小屋のようなところで生活していた。便所も共用で、衛生環境はけっしてよいものではなかったが、物心ついた頃には、父と一緒に炭鉱に行っては、そこで働く男たちの姿をながめていた。当時は朝鮮の強制労働者も多くいたが、坑夫として働く者たちは、みな同じ労働仲間として差別などしている光景は見たことがない。その中で目にした男気や気っ風の良さなど、哲さんを根っからの炭鉱の男に仕立て上げるには充分な環境であった。
 ところが戦後になって、朝鮮や中国の労働者たちが解放されると、炭鉱労働者の数が激減した。そこで敗戦日本の復興には産業の再建が至上命令だった日本政府は、様々な好条件を提示して炭鉱労働者を確保したのである。そして新技術の導入により、炭鉱の仕事の形態は大きく姿を変えたのであった。加えて労働組合の結成により、炭鉱労働者の権利は富みに拡張され次第に裕福になっていった。哲さんはまさに炭鉱時代の黄金期を生きたのである。
 「炭鉱の仕事は最高さ!あれこそ男の仕事っていうものさ!真っ黒になりながら汗水たらしてクタクタになって、仕事が終われば、勝手気ままに仲間達と飲み明かし、人生を語り、ロマンを語る。時には経営者と喧嘩しながら、まさに男の生き方があそにはあった」
 哲さんの話は終わらない。「坑内は年中光がささない。そして、ひとたび災害がおこれば一瞬にして人の命を奪ってしまう。それは恐怖心との戦いさ───」
 釜すみを親指の大きさに額につけると厄よけになるとは哲さんの持論だろうか。坑内では手を叩いたり、口笛をふいてはいけない。手ばたきは抗木が折れる音に似て、口笛は坑内で災害が起こった時の竹笛の救援信号に似ていたからだという。また、坑内では頬かぶりをしてはいけない。これは昔坑内での怪我人や死人は顔をかくして運び出したからともいわれるが、耳がきこえ難くなることを戒めたものでもあり、手拭を顔にする時も必ず耳を出していたそうである。また“穴”と言ってはいけない。これは穴は墓所を意味したからであり、また女性は坑内では髪をといてはいけないとは、山の神が女の黒髪に心を奪われて守護をおろそかにするからだと信じられていた。
 死人を坑外に運び出す時は大声で「今何片ぞ」「あがれ」「あがりよるぞ」と通る場所や動作を教え坑内に魂を残さぬようにする習わしの話も哲さんの得意調子であった。その他、歯や魚とりなどの不吉な夢をみたら入坑してはいけないとか、朝は汁かけ飯を食べてはいけないとか、また朝食の時に箸を折ると入坑してはいけないとか、魚類を弁当に持っていってはいけないとか……。多くの迷信を信じながら、炭鉱の男たちは皆ひたむきに働いていたのだった。
 ところが、石炭が独占していた日本のエネルギー市場に、国際的な石油資本が進出してきたのは昭和二十年代後半ごろからのことである。以来、石炭から石油への移行が大きく動きだし、昭和三十年代に半ばになると閉山する鉱山が続出したのである。もはや時代の土砂崩れは誰にも止めることができず、そして昭和三十七年、石油輸入の自由化により、石炭は人の生活から必要なものではなくなったのである。そしてその大きな土砂は、一人の男の偉大な誇りをも、いともたやすく呑み込んでしまったのだった───。
 その後哲さんは職をみつけるため全国を渡り歩き、知人のつてでたどりついたここ須坂市で、郵便局の仕事を紹介されて残りの半生を生きてきたのである。
 そこまで話すと哲さんは急に黙りこくった。普段はとても無口な人で、若干痴呆も入っているので会話はひどく苦手な分野だったが、炭鉱の話だけは理路整然とまるで講談でもしているかのように話す。スタッフ以外の者は、次に出てくる言葉に期待しながら哲さんの顔を見つめていた。すると、
 「しょんべん……」
 と、哲さんは何事もなかったかのように呟いた。百恵は思わずブッとふいて、哲さんの腕を支えてトイレに向かった。廊下をゆっくり歩きながら、百恵は哲さんの奥さんについて考えていた。妻に先立たれ、三人の娘は皆嫁に行き、今は独り身という境遇であった。
 「哲さんの炭鉱の話はとても面白いけど、奥さんとはどうやって出会ったのですか?」
 哲さんはふと歩みを止めると、「死んだ女の話はしねえものだ」とぽつんとつぶやいた。そして再び歩き始めると、
 「男ってのはな、孤独じゃなきゃいけねえんだよ。そいで女ってのはな、死ぬまで惚れた男に尽くし抜くもんさ。あんたも覚えておきな」
 と言った。百恵は心で「そんな決まりなんかあるものか」と思った。
 「炭鉱の男ってのはな、真っ黒な土に埋もれて、それでも目ん玉と歯だけはいつも真っ白に輝かせていなきゃいけねんだ。どんなに苦しくたって、微笑みを浮かべて、コツコツ、コツコツ土を削って、現銭山(賃金)を持ってうちに帰るものさ」
 哲さんは何につけ“こうでなければならない”という彼独自の哲学を持っていた。昭和一桁生まれの彼の話に大きな世代の隔たりを感じながら、それでも自分の主張を貫く姿勢に、百恵は偉大な精神の力を感じていた。ステレオタイプの現代思想に乗じて、哲さんの考えの非を指摘することはできたが、それをしたところで「ではお前はどうなのか?」と言われた時に、何も言い返せない自分があることを知っていた。
 「哲さんて強いのね……」
 「強いだと?バカヤロー、あたりまえの事を言っているんだ!───ああ、今日は少し話し過ぎた。俺も年をとったもんだ。男は黙ってなきゃいけねえのに……すまねえ、忘れてくれろ」
 哲さんは元の老人に戻って無言のまま歩き続けた。その掌には、炭鉱時代にできたものであろうか、大きなタコが数カ所に、百恵の腕にざらざらとした心地よい感触を伝えていた。
 
> 第1章 > (十七)おさえ難き恋心
(十七)おさえ難き恋心
 百恵がずっと気になっていたのは、先日のゴーコンの際に見かけた浩幸の連れ合いの女性のことだった。年の頃なら三十代半ば、その美しい面立ちとスタイルは、百恵の嫉妬心を刺激するに十分だった。嫉妬心というより羨望に値するか、少なくも浩幸に対する思いに大きな障害を与えたことには違いなかった。あの時はその場にいたたまれなくなりすぐに店を飛び出してしまったが、第三者ならば、単なる知り合いの関係以上であることは、恋愛には比較的無頓着な百恵にさえ分かった。それは、第一に単なる知り合いという関係のみで二人だけで飲みに来る店ではなかったし、第二にはカウンターに座った二人の前にはブランディグラスが置かれて、その二人の距離が接近していたこと。まるで男女が何かの記念日に行なう儀式のような荘厳さがあったのだ。
 大人の恋は百恵には分からない。ただ何かを知り尽くした二人が口数も少なくグラスを傾ける光景は、半分お遊びの域にある俊介との関係とは明らかに異質のものであった。以前、俊介と二人だけで居酒屋に行ったときは、ビールとウーロン茶を注文し、鍋やから揚げをつまみながら大学の思い出や芸能界のことなどで時間を過ごし、それはそれなりに当時にしては楽しく思えたものだが、あの光景に出会ってからは、それがただ一緒にいただけの無意味なもののように感じるようになっていたのだ。
 「あの女性はいったい誰なのだろう……?」
 百恵の空想は、円を描いて浮かんでは落ち、上昇気流を見つけてはあがくトンビのように、想像の空を苦しみながら舞っていた。しかし、どう楽観的にとらえても、いきつくところは浩幸の現在の彼女という結論だった。
 コスモス園の中庭を歩きながら、黄色い花が咲き乱れる花壇の前で、百恵は立ち止まった。よく見かける花だが名は知らない。ただその黄色だけが、疲れを吸い込むベッドように百恵の意識を吸い込んだのだ。
 がりょう山を登った時、彼は言っていた。「自分はもう本気で女性を好きになれる男ではない」と───。ならば、あの女性は浩幸に遊ばれているのか、さもなくば、お互いそれを承知の上で付き合っているのだろうか。ふと、花に群がる小さな虫に意識を移せば、耳にとても美しい音楽が流れ込んできた。歌声のする方を見れば、一人の老人が、中央の噴水のある小さな池に向かって、なにやら外国の歌を唄っている姿があった。
 その老人の名を三井孝徳といった。アルツハイマーで日常に支障をきたすようになった生活に見切りをつけた家族が、数ヶ月前に入所させた三二八号室の施設利用者である。家族の話によれば、公務員としてくそ真面目に働く中で、歌が大好きだった彼は傍ら地元地域のコーラスグループを主宰していた経歴を持ち、週に二、三回はそのために時間をさくのが唯一の道楽だったと言う。今は自分が唄っていることすら知っているのだろうか、オペラ風のその歌声は初夏の優しいそよ風に乗って、うつろな百恵の耳に流れてきたのであった。
 「素敵な歌ですね?どこの国の歌かしら?」
 百恵はその歌声に誘われて、三井に吸い込まれるように寄って行きそう聞いた。しかし、百恵の存在に気づく様子もなく、三井はずっとその歌を唄い続けた。百恵はその歌についての詮索はあきらめて、三井の隣でじっとそのメロディを聞いていた───。その歌詞は英語ではない。単語の発音や聞き慣れない語彙ですぐにそうと知れることができるが、そうでなければヨーロッパ地域の言語だろうか、いや、聞き様によっては東南アジアの言葉にも聞こえる。どこかもの悲しくて、名もない庶民が唄った切ない恋歌のようにも聞こえる。百恵は浩幸への恋心を癒すように、静かに噴き出す噴水の高さを測っていた。
 やがて三井はその歌を唄い終えた。
 心地よい余韻の中で、百恵は三井に顔を向けると、ようやくその存在に気づいた彼は、驚いた表情も見せずに再び噴水に視線を移した。百恵は小さな拍手を送った。
 「私にもその歌を教えてください」
 お願いするまでもなく、三井は再び同じ歌を唄いはじめた。おそらく痴呆による障害で、歌のタイトルも意味も、どこで覚えた曲なのかも、あるいは自分が今ここで歌を唄っている事実さえも分からずに唄っているのかもしれない。百恵はテープレコーダのように何度も繰り返す彼の歌を聴いているうちに、少しずつ口ずさめるようになっていった。

 「モモ、診察の時間よ!」
 異国の歌に魅了されていた意識を途切れさせたのは、七瀬の元気な声だった。百恵はハッと我に戻ると、週一回の施設医の診察日だったことを思い出した。
 「三井さん、ごめん。また教えて」
 百恵は三井の歌声に送られながら、今日診察予定の担当になっている高齢者の部屋へ小走りに向かった。
 浩幸とは早番の週、その診察日には彼が出張等でいない限り、必ず二週間に一回は顔を合わさなければならなかった。しかし先週は遅番だったので、あの日からはおよそ十数日振りに会うことになる。それで先ほどは、どのような顔で会えばいいのかとか、あるいはあの女性のことを聞いてみようかとか、いらぬ事を様々に考えていたのだ。百恵は照れと不安と嬉しさとやきもちと……、複雑な気持ちを一生懸命胸の中に押し込みながら、数人の診察者を引率してリハビリ室へと向かった。
 平常心を装おうと決めたが、つい浩幸の姿を目にしたときは、ふと合った目線をそらさずにはいられなかった。
 「お願いします……」
 しかし浩幸の態度はまるでいつもと同じで、一見無愛想な表情で聴診器を診察者の身体に当てては、いくつかの質問をしながら、その状態を淡々とカルテに書き込むのだった。そのあまりに普段と同じ浩幸の態度に、百恵はなんだか急に悲しくなって、瞳にいつしか涙をためていた。
 「馬場さん、何を考えているのですか?僕はお一人お一人を真剣に診察しているんです。僕の言葉は患者さんに対する言葉ですが、貴方が真剣に聞かなければ困ります!」
 「す、すみません!」
 百恵はこぼれ落ちた雫を右手の甲であわてて拭き取って、診察用のノートにペンを走らせた。
 一時もしないうちに百恵の担当だった老人達の診察は終わった。百恵は何も聞けないまま、次の診察者のグループと入れ替わるしかなかった。晴れない気持ちのまま、残りの仕事についたのだった。
 その日は早番の勤務だったので、午後三時には家に帰れたが、七瀬も残業だというし、浩幸もまだ施設に残っているようだったので、帰りそびれてというか、浩幸に会うかもしれないというわずかな期待に寄り添うように、“少し風にでもあたろう”という理由付けで屋上にあがったのだ。
 西に見える北信五岳に対して、東側には人工的に削られていく痛々しい雁田山の姿があった。小布施町と高山村にまたがる小さな山で、その採石事業は緑化計画を立て前に、昭和四十年代から進められているそうだが、採石された砂利は良質とされ、高速道路やNAGANOオリンピックの建設にも使用されるなど、実に北信地方最大の採石場となっていることも事実であった。ちょうど雁が羽根を広げる形に似ているところからその名があるが、須坂からだと削られゆく岩肌をむき出した小高い山で、その岸壁が日々年々、何台もの重機によって崩されていく。小布施側の麓には葛飾北斎や小林一茶ゆかりの岩松院があり、戦国武将として名高い福島正則の霊廟もある。小学校の遠足ではそれらを見学して山にも登った。百恵はそんな事を思い出しながらその山を見つめていた───。
 「何が見えますか?」
 突然の声に、心臓が飛び出したかのような驚きで振り向けば、そこに白衣の浩幸が立っていた。
 「せ、先生……!驚かさないでくださいよ───」
 あまりの突然さに次の言葉は見つからなかった。
 「馬場さんもよくここに来るのですか?」
 浩幸は、握った紙コップのコーヒーをベンチに据えられたテーブルの上に置くと、施設内では唯一の喫煙所であるそのベンチに座って煙草を吸い始めた。
 「診察が終わるといつもここでコーヒーを飲みながら煙草を吸うんです。ほら、ここから善光寺平がよく見えるでしょ。銀色に光るエムウェーブなんかを見つめながら、長野五輪で金メダルを取ったスピードスケートの清水宏保選手のことなどを考えたりするんです」
 浩幸は煙を吐き出すと、「そういえば、さっきは少しきつい言葉を言ってしまってすみませんでした」と謝った。
 「あれは私が悪かったんです。怒られて当然です」
 浩幸は急に鼻で笑い出すと、
 「ずいぶん素直なんですね。はじめての診察で会った時は、僕にくいついてきたのに……」
 と言った。
 『何を考えていたんですか───?』
 そう聞こうとした浩幸の言葉を遮ったのは、あの時と同じ百恵の瞳を彼が見たからだった。浩幸は何も言わず煙草の火をもみ消すと、「さて、仕事がありますので……」と、立ち上がった。
 「先生、待って下さい!」
 百恵は思わず浩幸の白衣の袖口をつかんで俯いていた。切なさの涙の通り道が、そよ風に吹かれてそこだけ温度を下げた。
 「誰なんですか───?あの女性……、誰なんですか?」
 胸がはちきれそうだった。とても浩幸の顔など正視できずに俯いたまま、しかし、どうしても聞かずにはいられなかったのだ。浩幸は静かに百恵の腕をつかんで離すと、
 「そんなに悲しげな声で聞かないで下さい。誰って?どの人のことですか?」
 「この前、スナックで一緒にいた女性です!」
 涙を溜めた瞳のままで、百恵は浩幸を見上げた。浩幸は目を細めた。そして「ああ……」と思い出したように言うと、
 「別れた妻ですよ……」
 と呟いた。
 その真実を知ったとき、百恵は呆気にとられて、次の瞬間、急に恥ずかしくなって背を向けた。
 「ごめんなさい!私、変な事聞いちゃって───」
 「別にいいですよ。もう、昔の話です。彼女とは久しぶりに会いました。再婚の男性は弁護士をしている方で、現在の生活がとても幸せそうで安心しました。実は彼女の娘が現在中学二年生で、看護士の道に進みたいと言い出したそうなのですが、彼女の夫の事業が今大変そうで、僕に生活費の援助を願いに来たのです。可哀想ですし、別に断る理由も特にありませんので支払うつもりですが……、それが、何か……?」
 百恵は「何でもありません!」と言い残すと、いたたまれなくなり、浩幸の脇を小犬のように逃げ去った。浩幸は一連の百恵の態度や仕草で知った自分に向いている百恵の心を、どうしてあげることもないできない事を知りつつ、小さなため息をついた。

 私って最低!あの女性が先生の最初の離婚した奥さんだって知ったとき、なんだかとっても嬉しくなっちゃったの。それまで地獄の血の池で息がつまりそうだったのに、先生から真実を聞いたとき、なんだか天使にでもなった心地で、心がふわりと宙に浮いていた。そういえば、がりょう山で先生が独り身だって知ったときも、なんだか無性に嬉しくなって、先生の背中で胸をドキドキときめかせていた。一人目は離婚、二人目は亡くなったっていうのに、先生にとってこんなに不幸な事が、私にとっては幸せなこと───?
 やっぱり私って最低!
 でも幸せって、もしかしたら人の不幸の上に成り立つのかも知れない。誰かが幸せになる裏には、きっと別の誰かが犠牲になっているに違いない。私が大学を出て最初の就職に失敗したおかげで、その職に就けた幸福者がいるはずよ。おかげで私は苦しんだけど。世間一般の結婚だってそうよ。挙式の二人は一見幸せそうに見えるけど、その裏では悲しんでいる人がたくさんいるはず。新郎の元ガールフレンドに新婦の父親、新婦の男友達に新郎の母親……。こうして考えると、本当に何が正しくて、何が間違っているのかなんて分からない。
 でも私は、いったい先生に何を求めているのかしら?───何にも求めていない。ただ好きなだけ。
 好き、好き、好き……、
 この気持ちを表現するのに、これ以外の言葉が思いつかないのはなぜ?……。
 子供が泣いていれば「どうしたの?」って聞くでしょ。おじいちゃんやおばあちゃんが困った顔付きをしていれば「何か手伝おうか」って言うでしょ。友達が悩んでいれば「悩みを聞かせて」と言って一緒に悩むでしょ。でも、今の私には、先生の悲しみを共有できないの。そして、先生の心を知ろうともしていない。
 私って、こんな女だったんだ……。

 激しい恋愛感情が百恵の小さな胸の中の思いを交錯させていた。その夜は、浩幸の顔をいくら思い出そうとしても、その輪郭すら浮かんでこなかった。
 
> 第1章 > (十八)ぎくしゃくした関係
(十八)ぎくしゃくした関係
 翌日の晩のことだった───。
 たまりかねた俊介は、強引に百恵を車の中に押し込むと、千曲川を渡って、夜の国道十八号線をひたすら北に向かって走り続けた。無言のままの俊介を、横目でチラリを見れば、肩に力の入った神妙な顔付きで、ハンドルを握りしめたままいつまでも口をつぐんでいた。百恵は俊介に握られて赤くなった左手首を右手で押さえながら、
 「ねえ、どこまで行くの?」
 と、聞いた。俊介は何も言わなかった。
 ───彼が家に来たのは、明日の早番に備えてそろそろ寝ようと思った十時近くの事だった。「姉ちゃん、新津さんだよ」と、弟の太一が部屋のドアをノックして伝えに来たのだった。百恵は「こんな時間になんだろう?」と半分迷惑に思いながら外に出てみれば、いつもと違う様子の俊介が、「これからドライブに行こう」と、いきなり彼女の腕をつかんだのだった。思えばゴーコンの日以後、俊介からは毎日のように電話があり、何度か「会おう」と誘われてきたが、その都度日程が合わなかったり疲れていたりで、ずっと延び延びになっていたという経緯があった。
 「ちょっと……、明日も早番だからまたにしようよ」と言うと、「いいから乗って!」と強引に車に乗せようとしたので抵抗したが、彼は腕を離してくれなかった。
 「なあに?いきなりこんな夜中に来て」
 「いいだろう恋人同士なんだから!夜中にドライブくらいしたって!」
 「ちょっと、手を離してよ!」
 俊介は離すどころか更に強い力で百恵を車に乗せたのだった───。
 すれ違うトラックのサーチライトをいくつ数えたろうか。やがて俊介の車は信濃町は野尻湖のほとりに停車した。エンジンが止まると、開かれたウィンドウから涼しげな風とともに、湖の波の音が入り込んだ。
 「どうしたのよ、強引に誘ったかと思えばさっきから黙りこくって……」
 百恵の言葉に俊介は、「ごめん、むりやり連れ出しちゃって……」と答えた。
 「ねえ、帰りましょ、私、明日また早いの……」
 「なんだか最近忙しがってて、ゆっくり会ってる時間もないじゃないか。たまには俺にも時間をくれよ」
 俊介は別に何か言いたそうな口振りで、シートを倒してため息をついた。
 「この間会ったばかりじゃない。みんなで飲み会やった時」
 「会ったばかり?あれから二週間も経ってる。ほおっておけば一ヶ月なんてあっというまに過ぎてしまうよ。俺には耐えられない。それにあの時、なぜ先に帰ってしまったの?」
 「………………」
 百恵は咄嗟に浩幸の事だと直感した。仕方のない事だとは思っても、何より俊介が傷つく事が怖かった。
 「やっぱりそうなんだね……」
 「……な、なにが?」
 百恵はとぼけた素振りで星空を見た。───大学時代にこんなことがあった。絵画サークルで大学構内をテーマに、ある時二人は同じ角度の学舎を見ながら、F二〇号キャンバスに思い思いの色を置いていた。俊介はどちらかというと写実派で、百恵は印象派路線の画風を好んでいたが、指向の違う二人は、それぞれの感性でお互いの絵を評価しあうのが常だった。ところがある時、サッカー部の男子学生がそんな二人の間に割り込んできて、モネやセザンヌなどの画家を最大に賛美しながら百恵に一通の手紙を手渡した後、俊介の絵を鼻で笑って去って行ったことがある。手紙を開けば紛れもないラブレターで、携帯電話番号とメールアドレスまで書いて「連絡ください」とあるではないか。百恵は困って、「どうしよう」と俊介に相談すれば、だいぶ気分を損ねた様子で「百恵がもらったんだから自分で判断しろよ」と、それから暫くはまともな会話ができなかった。結局その男には高梨の携帯を借りて「ごめんなさい」とメールを送ったが、たかだかそんな些細な出来事で、俊介の機嫌がなおるまでには一ヶ月かかった。プライドが高く一度決めた事はなかなか曲げず、表面上はやや強引なリーダー的資質がある反面、内実は非常に繊細で、周囲の動向にも敏感な性格であるのだ。
 俊介の事を知っていれば知っているほど、百恵は答えに窮した。
 「とぼけないで!あの山口とかいう医者のことだよ!」
 百恵はドキリと俊介の顔を見つめた。その真剣な双眸の中に、今までに見たことのない夜叉の光を感じとることが出来た。思わず目をそらせば、夜の野尻湖は真っ黒く、ところどころ月の明かりを波に反射させていた。
 「隠してもだめだよ。雄助がみんな教えてくれた。百恵がコスモス園の屋上で、あの人の前で泣いていたのを雄助の姉貴が見たって……。本当?」
 百恵は腹を決めて「ごめんなさい」とつぶやいた。
 「なぜ謝るの?自分が悪いのを認めるってこと?」
 「ちがうわ……」
 「じゃあ、なぜ謝るのさ!それとも俺に悪いと思っているから?」
 百恵はこの際、本当のことを伝えておかなければいけないと思った。俊介を傷つけまいと嘘を重ねるより、傷ついても本当の事を伝える事が誠実だと判断した。
 「そうよ!だって新津君、傷つくじゃない!……」
 俊介はあきれたように笑った。
 「ふん、俺のためか……。俺のために奴と会っていることを隠し、それで何日も会おうとしなかったんだ……」
 百恵は、浩幸を“奴”と言った俊介に眉をひそめながら、野尻湖の波を見つめた。すると、俊介は暫くだんまりを決め込んだかと思うと、突然、
 「結婚しよう」
 と言った。百恵はびっくりして俊介の顔をのぞきこんだ。
 「いきなり何を言い出すの?」
 「本気だよ。このまま百恵をはなしておくわけにはいかない」
 「ダメよ……」
 「なぜ?」
 「だって新津君も知ってるじゃない。私、介護福祉士になるの。三年以上の実務経験と必要科目の単位を取得すれば受験できるの。今、通信教育で足りない単位を勉強しているんだから。それまで結婚なんて考えられない」
 「ウソだ。奴のせいだ。奴がいるからに決まってる!」
 「そんなに奴、奴っていわないで!」
 百恵の涙ながらの声に、俊介は「ごめん」と言った。しかし続けて、
 「でも、冷静になって考えて見ろよ。あの人は医者だ。年齢も俺達とはひとまわり以上も離れている。それにバツ2の子持ちだっていうじゃないか!」
 「ずいぶんと詳しいのね。高梨君の請け売り?」
 「そんなことを言ってるんじゃない。所詮、住んでる世界が違うってこと」
 「同じ地球という星の世界で何が違うの?しかも同じ須坂市……」
 「どうしていつもそう飛躍したものの言い方をするんだ。俺に言わせればあの人は女ったらしの何者でもないね!きっと百恵の事も好きでも何でもないに決まってる」
 「いいじゃない!そんなこと!」
 “好きでも何でもない”という言葉に、思わず百恵は叫んでいた。その瞳には涙がたまっていた。
 「いいじゃない……そんなこと……、だって、私が彼のこと、好きなの……」
 瞳の涙が、その重さに耐えきれなくなって、ポタリと音をたてて落ちた。俊介は何も言えず、大きなため息をひとつ吐くと、車のエンジンをかけた。
 帰り道、二人はずっと無言のままだった。後に飛び去る光の景色は、まるで深いトンネルの中をくぐっているように思えた。やがて百恵の家の近くに着くと、俊介はハザードを点灯させて車を路肩に止めた。
 「おやすみなさい……」
 百恵がドアノブに手をかけた時、いきなり俊介は彼女を抱き寄せキスをした。百恵は必死に抵抗したが、俊介の力の方が数段勝っていた。俊介は百恵を力まかせに抱きしめたまま、
 「俺は絶対に百恵を離さない」
 と言った。しかし百恵の激しい抵抗に、やがて俊介は諦めたように、
 「ごめん……」
 と言って手を離した。百恵は気が動転したまま車から飛び出すと、涙をおさえながら家に駆け込んだ。
 
> 第1章 > (十九)統合の噂
(十九)統合の噂
 俊介の思わぬ行為に百恵は困惑していた。世の中の男はどうであれ、俊介だけはあんなことをする男とは思っていなかったのだ。何につけ、自分の事を最優先に考えてくれ、百恵が「いやだ」と言うことはけっしてしない人だったからだ。それが昨晩はまるで別人のように変貌して迫ってきたのである。俊介の事は嫌いでなかった。というより好きなのだが、それは愛と呼ぶには一線を画した友達関係の部類に近い感情だった。それは浩幸に出会ってはじめて鮮明に気づいた事だったが、いまとなってはとても彼との結婚生活の情景など思い浮かべることができなった。
 と、休憩中のスタッフルームに丸腰がやってきて、「百恵さん、今日残業できる?」と聞いた。百恵は今日は早く眠って昨晩の事は忘れようと考えていたが、つい断りきれずに「はい」と答えた。丸腰は続けて、
 「でも残業といっても介護じゃないの。子供のお守りよ。嫌い?」
 と言った。聞けば施設長はじめ施設内の重役たちの大事な会議があるという。そこに施設医の浩幸も出席するが、今日は山口医院の休診日で、院内看護士たちは入院患者の世話で忙しく、子供のお守りをする女性がひとりもいないのだと言う。そこで浩幸の子供の大樹の世話を、コスモス園の職員にお願いしたいとの要請があったというのだ。百恵は躊躇した。俊介とのことで心の整理もついていないうちに、浩幸の子供の面倒を見ろとは、不器用な彼女にはとてもできない芸当だった。「あ、あの……」と言いかけたが、丸腰は「じゃ、お願いね」と言い残して出ていってしまった。
 丸腰と入れ替わり入って来たのは七瀬だった。
 「ねえモモ、聞いた聞いた?」
 今日の残業の話を伝える間もなく、七瀬は慌てた様子で百恵の耳元で、たったいま仕入れた情報を小声で、
 「今日の最高会議の議題、何だか知ってる?」
 と、少し興奮した口調で話し始めた。
 現在コスモス園は社会福祉法人に属する施設だった。社会福祉法人とは社会福祉事業を行うことを目的とした法人の事で、社会福祉事業とは第一種と第二種に分類され、コスモス園は第一種に属する。いわゆるそこで行われる社会福祉事業は、公共性の特に高い事業として、その対象はおおむね社会的弱者ともいうべき者で、その人格の尊重に重大な関係をもつ事業のことである。即ち、人を収容して生活の大部分をその中で営ませる施設を経営する事業が主で、第一種社会福祉事業についてはその経営主体に制限を設け、原則として国、地方公共団体、または社会福祉法人に限りこの事業を経営させることとなっている。社会福祉の枠での事業だから、当然入所する高齢者たちは、介護を必要とする者の他に経済的生活困難者などの身体健全な者もいたが、コスモス園ではその一環の中で施設医などの専従医師を置き、特に医療的処置が必要な者については介護スタッフなどの他に看護士をおいていた。
 ところが近年における山口脳神経外科の発展には目を見はるものがあり、数年前にも医院の拡張をしたばかりであった。院長の山口浩幸はその中で、コスモス園に対して医療的側面から特に医療を提供する体制の必要性と入所者の健康保持の管理体制の充実促進を強く考えていた。現に週一回の定期診察などは、充分な設備もなく、診察場所などはいまだにリハビリ室を使っているのである。そこで浩幸が提唱したのはコスモス園と山口脳神経外科との統合計画であった。所詮、コスモス園施設長である高野とは根本的に介護と医療という出発点において考えを異にするものであったが、両方の良い面を併せ持つ理想の施設を目指そうと浩幸の方が歩み寄ったのだ。当然、福祉事業という枠内では高度に重傷な要介護老人の受け入れには限界があった。浩幸の提案は、コスモス園を医療法人化し、山口脳神経外科医院の統合下に置くというものであった。ところが、あと五年もすれば定年の施設長高野は、保守的な考えに終始していた。浩幸の革新的な発想に対して、「理想は分かるが現実には……」と拒み続けてきたのである。
 今日はその最終決断をせまるもので、コスモス園にとっても山口脳神経外科医院にとっても、今後の行く末を図る非常に重要な会議であると言う。
 「私たち、どうなっちゃうのかな?医療法人化されたら、私たち介護スタッフはお払い箱になっちゃうのかな?」
 七瀬が神妙な顔付きで言った。百恵は急に笑い出した。
 「なにがおかしいの?」
 「山口先生はそんな人じゃないわ……」
 百恵の言葉に今度は七瀬が笑い出した。
 「どうしてそんな事が言えるのよ?」
 「ただ、そんな気がするだけだけど……」
 七瀬はあきれ顔で立ち上がると湯桶室に入り、お湯を沸かしはじめた。そして「コーヒー飲む?」と言った後、
 「おじいちゃんやおばあちゃんからは冷酷人間の異名を付けられてる先生よ。私にだってお金のために何でもやる先生に見えるもの。きっとコスモス園を統合下に入れてガッポリ儲けようっていう寸法よ。そんなふうに思っているのモモだけ。山口先生を好きなのは分かるけど、あまりのめりすぎて後で痛い目にあわないでよ」
 七瀬は自分のコーヒーカップにインスタントのコーヒーを入れた。

 百恵は引き継ぎの時間になると、大樹を預かるためロービーで浩幸の到着を待った。よくよく考えてみれば、浩幸という人物はコスモス園という大きな物体を相手に統合計画を打ち出す程の人である。ひょっとしたら俊介の言う通り住む世界が違うのかも知れないと思いながら時計を見つめた。
 やがて浩幸は大樹の手を引いて徒歩でやってきた。しかしその姿はあまりに庶民的で、とても何百人という施設や医院関係者、あるいは施設利用者や入院患者に影響を及ぼすような大きな仕事をする人間のようには見えなかった。
 百恵に気づくと、浩幸は「やあ」と気さくに声をかけた。
 「残業で大樹君のお守りをするように言われました」
 浩幸はニコリと笑うと大樹に、
 「良かったな、大樹。今日はこのお姉ちゃんがお前の面倒を見てくれるそうだ」
 大樹は恥ずかしそうに浩幸の大腿部に隠れた。
 「おいで」
 百恵が両手を広げると大樹はつかつかと歩み寄り、百恵はその小さな身体を抱き上げた。
 「“百恵”お姉ちゃんだ。いっぱい遊んでもらえ」
 大樹は「モモエ……」と何度も繰り返し、嬉しそうに彼女の胸に顔をうずめた。百恵は体験したことのない子供を抱きかかえる感触に何故だか懐かしさを覚えながら、浩幸の笑顔を見つめた。それは百恵が思い描く夫婦とその子供の世界に寸分違わなかった。そして、その瞬間が永遠に続くのではないかという錯覚にさえ陥った───。
 「それじゃ、お願いします」
 次の瞬間、浩幸の表情が恍惚としたものに変化したのを見た。それは、百恵の知っている彼とは明らかに違う、多くの人が評価する彼の素顔であったかも知れない。
 「がんばって……」
 思わず漏れた百恵の言葉に、浩幸は面妖そうな顔で見つめ返した。
 「僕のやっている事はなかなか理解してもらえないけど、どうやら馬場さんは僕の味方のようだ……、ありがとう」
 浩幸は恍惚の表情を笑顔に戻して、やがて会議室へと向かっていった。

 会議は長引いていた。しかし大樹のお守りは楽しく、時間が過ぎることなど全く気にならなかった。積木をしたり、絵本を読んだり、手遊びをしたり、たまに大樹が「おしっこ!」と言えば、一緒にトイレに行ってはズボンをおろすところからシャツを整え手を洗わせるまで、まるで自分の子供に世話をやく母親のように全く苦にはならなかった。
 「パパはやさしい?」
 そう質問したとき、大樹は大きく嬉しそうに頷いた。百恵はコンビニでの光景を思い出し、
 「でも、毎日カップラーメン食べているんじゃないの?」
 と聞いた。
 「そうだよ。ぼくは赤いのが好きだけど、パパは緑が好き!」
 きっと商品のパッケージのことを言っているのだろうが、百恵はこの父子の身体の事が心配になって、「カップラーメンは美味しいけど、本当は身体に良くないのよ。あまり食べない方がいいわって、パパに伝えて。言える?」と言った。
 大樹は大きく頷いた。
 「いつもはパパと何をして遊んでいるの?」
 大樹は少し考えた後、「パパはお仕事忙しいの」と答えた後、すこし間をおいて「でも、ビデオ屋さんでデーブーディ借りてくれるよ」と言った。
 「DVD……?何を借りるの?」
 「ドラえもん、アンパンマン、それから……仮面ライダー」
 「パパは何を借りる?」
 「わかんない……白黒のえーが。わかった!アキラ・クロサワ……」
 「黒澤明監督の映画?」
 ラブロマンスの洋画しか見ない百恵には無縁のジャンルだった。そんな会話をしながら時計を見れば、既に二時間の残業時間は過ぎていて、休憩を挟んで三時間残業の始まりから十五分ほど経過していた。
 「パパ遅いね……」
 大樹は心配する様子もなく、「ねえ、あれやろ!」とリハビリ用のボールを持ってきてキャッチボールをはじめた。

 会議は佳境を迎えていた。施設長の高野を中心に、両脇に副施設長と施設理事、以下事務長の須崎をはじめ、コスモス園の役員十名程度が浩幸を囲んで様々な議論をしていた。中でも事務長の須崎は反対派の筆頭で、彼の攻撃的な反論に、浩幸はひとつひとつ説明を加えなければならず、雰囲気的には大筋の合意が得られているにもかかわらず、いざ決定の段階になると話は遅々と進まなかった。
 須崎といえば次期施設長をささやかれている人物でもある。副施設長にしろ理事にしろ、いずれも定年間近で、高野が定年でいなくなる頃には、すでに二人もいなくなっているという構図ができていた。おのずとその白羽の矢は、現在事務長を務める須崎に刺さることは時間の問題だと思われていた。非常に緻密で几帳面であるのは良いのだが、対人関係はひどく苦手で、施設利用者や介護スタッフからも悪評を得ていることが玉に傷だった。その須崎が不満をあからさまにしながら発言した。
 「もし仮に統合が実現した場合、その後の私たちの立場はどのようにお考えでしょうか?」
 浩幸は目を細めた。
 「何でしょうか。須崎さんはコスモス園の介護医療の将来より、ご自分の役職の方が心配ですか?」
 「そういう意味ではありませんが」
 須崎はふてくされた表情で自分の意見を否定した。
 「少なくとも我々はお年寄りの命を預かる仕事をしています。もしその事を忘れ、自分の地位や肩書きのために仕事をするような人間が出たとしたら、私はその人間を排除するでしょう」
 浩幸の発言に、須崎は机をドンと叩いた。
 「まあまあ須崎君、落ち着きなさい」
 高野になだめられて須崎は苦虫をかみつぶしたような顔で宙を仰いだ。高野は結論を迫られている空気を察知して言葉を次いだ。
 「私たちのコスモス園も、日本の高齢化が進むにつれて、その社会的役割の重要性がますます増してきました。しかしながら山口先生がご指摘されるように、この施設にはその役割を果たすだけの設備も制度も時代の進行につれて不充分なものになってきたと思わざるを得ないケースがとても増えてきました。それは何よりこの私が知っているつもりです。私も先生の話を聞くにつれ、なるほど、その道があったかと感涙にむせぶ思いでありますが、いかんせん、私も老いて保守的になり、それへ踏み出す勇気がないのです。もはや山口先生はじめ、若い世代の皆さん方に託すしかないと思っておりますが、須崎君のような考えを持った人もいるのが現実で、急に医療法人にして山口医院と統合するといっても大きな波乱を招くだけだと考えています。そこで私の一つの結論は、先程先生がおっしゃた“医療法人化への五カ年計画”に賛成の意を表するのでございます。山口医院より資金的な援助を受けながら、医療法人として機能し得る施設の構築を、これより五年という歳月をかけて少しずつ実現して参りたい。そして医療法人となった暁には、介護医療施設のさきがけとして、全国に模範の施設へと大きく発展して参りたいと思うものでございます───」
 議事進行の男が「今の施設長の発言に意義のある者は挙手をお願いします」と言った。会場は数人の拍手があがり、挙手をする者はなかった。しかし雰囲気的には、理想的な話の内容は理解できるが、戸惑いの方が大きいという反応は否めなかったが、これを堺にコスモス園は医療法人化へと動きだす採択がなされたのであった。
 「ご理解、うれしく思います」
 浩幸はそう言うと頭を下げた。
 「細部に渡ってはこちらで詰めて参りますので、今日はここまでにしておきましょう」
 施設長の言葉で、ようやく会議は終了した。浩幸はふてくされている須崎に「ご苦労をかけます」と伝えると、ゆっくり会議室を出た。

 百恵は大樹を連れてコスモス園の屋上にあがっていた。そこで影踏みをしたり、鬼ごっこをしたり、浩幸が大樹を見つけた時は、二人はケンケンパーをして遊んでいた。最初その光景が微笑ましく、屋上への出口の陰でしばらく見惚れていたが、公共のスピーカーから“七つの子”の音楽が鳴り出すと「大樹!」と言って迎えに出た。
 「あっ!パパ!」
 大樹は百恵の手を引いて浩幸のところに寄ってきた。
 「あのね、あのね、ケンケンパーしたんだよ!」
 「そうか、よかったな!」と、浩幸は大樹を抱きかかえ、「ありがとう。助かりました」と百恵に言った。
 「私も久しぶりに仕事を忘れて遊んじゃいました!」
 「それはよかった」
 「先生、それより会議の方はどうでした?」
 「ええ、なんとか良い方向へ動きそうです。馬場さんが応援してくれたおかげかな?」
 「それじゃ、いよいよ医療法人化へ動き出すんですね」
 「なんだい?もう馬場さんのところまでそんな話が漏れているのですか。参りましたね」
 「私もその方がいいと思っているんです。だって今のコスモス園じゃ、本当に介護を必要とする人たちが入所できないケースが多くてびっくりしてるんです」
 「介護と看護は違うよ」
 「ええっ?そうなんですか?私、同じだとばかり思ってました。だってここではみんな同じ仕事をしてますよ」
 浩幸はあどけない百恵の発想に笑わざるを得なかった。
 「何がおかしいのですか?だって私、ここのおじいちゃんやおばあちゃん達、みんな大好きなんです。看護士さんの方だってみんな患者さんが好きなんじゃないんですか?そういう意味では同じだと思いますけど」
 「確かにそうだね。貴方のような職員がどんどん増えるといいな……。じゃ、大樹、帰ろうか」
 浩幸が大樹の手を引いて帰ろうとすると、当の大樹は百恵の方へ行きたがって動こうとしなかった。それどころかみるみる膨れて、ついにはお姉ちゃんから離れたくないと言って泣き出してしまったのだ。
 「大樹のやつ、馬場さんの事が気に入ってしまったようだ……。こうなると梃子でも動かないんです。さて、困った……」
 浩幸が人ごとのように言うと、「いいです。私、玄関まで抱っこして見送ります」と、百恵は大樹を抱えて歩き出した。それはクレヨンを持ちはじめたばかりの無名の画家達が、真っ白い画用紙に描く家族の姿に似ていた。
 
> 第1章 > (二十)夜勤明けの空
(二十)夜勤明けの空
 夜勤が終わり七瀬を助手席に乗せると、百恵の車は彼女の宅に向かって走り出した。
 「モモ、ごめん。今日と明日、帰り家まで乗せてって」
 昨晩出勤して七瀬の最初の言葉がこうだった。「どうしたの?」と聞けば、車を車検で預けたがあいにく代車が借りれず、出勤の際は母親に送ってもらえるが帰りの足がないと言う。七瀬の住まいは高山村だったので、帰宅のついでに少し足を伸ばせば十分もかからない。百恵は「おやすいご用」と即答したのだった。
 早番の出勤時間は五時三十分。夜勤を終えて外に出れば、この季節は既に日が差しはじめている。出勤ラッシュにはまだ早い信州の爽やかな風の吹き込む農道沿いを、百恵の白い軽自動車が軽快に走っていた。両脇に連なるリンゴ畑は、白いリンゴの花で満開だった。
 「ああ、眠い……」
 七瀬の欠伸とは対照的に、百恵は流行歌の鼻歌を口ずさんでいた。
 「モモ、やけにご機嫌ね。何かいいことあった?」
 「別に───」
 百恵の態度に首を傾げながら、七瀬は先週の早番最終日の百恵の様子を思い出していた。それは車椅子の春さんとの会話であった。毎日世話をするスタッフを、会うたびに新人だと思っているおばあちゃんである。
 「なんだい、あんた新人かい?」
 「はい、馬場百恵といいます。よろしくお願いしますね」
 「モモちゃんかい。いい名前だね……」
 「そう思います?でも、私、この名前大嫌いなんです……」
 と、聞いていれば付き合いで仕方なく答えているという様子でなく、本心から普通の会話をしているように見えた。また先程は、夜中三時の見回りを終えた百恵が涙を浮かべながらナースステーションに戻ってきた。「どうしたの?」と聞けば、夜中に目が覚めてしまった田中おばあちゃんの肩をたたきながら、死んだ息子の話を聞いてきたと言う。職員なら誰でも知っている定番の話だ。それに加えて今の鼻歌である。どうも解せない七瀬は、百恵の太股を叩いた。
 「痛い!ちょっと運転中よ。危ないじゃない!」
 「モモ、絶対おかしい!何があったの?気になるから話してよ!」
 「何のこと?」
 「とぼけないでよ。何だか最近、妙に嬉しそうなのよね……」
 百恵には分かっていた。浩幸の子供の大樹と仲良くなった日以来、無性に心が弾んで何でも楽しく思えてしまう自分があることを。
 「そう?きっとあれよ。私悟っちゃったの。痴呆老人との付き合い方───」
 「痴呆老人との付き合い方?」
 「そうよ、教えてあげようか?彼等には時間なんて必要ないの。その時、その時が真実で全てなの。だから過去も未来も関係ない。そう思った時ひらめいたの。私もその日にあった出来事を全部忘れちゃえばいいって!それでおじいちゃんやおばあちゃんと話した事を覚えないことにしたの。そうしたらね、どうなったと思う?毎日毎日がとっても新鮮!」
 七瀬はあきれたように「幸せな人ね」と言った。
 「そう、私いま、なんだかとっても幸せなの……」
 「モモはきっと、要介護5レベルの人を知らないからそんなことがいえるのよ。失禁や急に暴力を振るってくる人や植物状態の人……。うちの施設にはそこまでの高齢者はあまりいないけど、その家族の方達の告白を聞けば、とても明るい心にはなれない」
 「そうかしら?」
 七瀬は楽天的な百恵と話すのが疲れて、シートを思い切り後に倒した。ふと、後部座席に目をやれば、そこにレンタルショップの袋が置かれていた。七瀬はそれを気なしに手に取って中を覗けば、
 「ええっ?!モモって、こんな趣味があったんだ!」
 と、思わず叫んだ。その声に驚いた百恵は、レンタルショップの袋から二枚のDVDを無造作に取り出す七瀬の姿に驚いて、「ちょっと!」と声を上げて急停車した。
 「『七人の侍』に『赤ひげ』か……。シッブッ!」
 それは昨日の夜勤前、若干時間に余裕があったので、DVDでも借りようと立ち寄ったレンタルショップで借りたものだった。最初、新作の並ぶ棚の前であれこれ探してみたが、取り立てて面白そうなものが見つからず、暫く歩いて探しているうちに子供向けのビデオが並んでいる棚で“ドラえもん”を見つけたのである。ふと、大樹の言葉を思い出し、黒澤明監督の映画を探しはじめたのであった。ようやく見つけた棚は黒澤作品の他、時代劇や任侠物がずらりと並び、それまで一度も立ち止まった事のない空間に一瞬躊躇したが、浩幸が好きな映画を自分も共有したいという思いが募って、周りに人影がないのを見計らうと中からタイトルに覚えのある『七人の侍』と、山口医院の先代が“赤髭先生”と呼ばれていたのを思い出し、その二本を急いで引き抜いたのだ。七瀬にはそれを趣味と勘違いされたが、レジに行くときは借りた本人こそが一番ドキドキしていたのだ。
 「ちょっと、返してよ!」
 百恵は力任せにその二枚のDVDを取り上げた。
 「そんな剣幕で取り上げなくたっていいじゃない。でも、意外な一面を見たって感じ」
 「お、弟に借りてくるように頼まれたのよ……」
 「太一君?まだ中学生じゃなかった?ずいぶんませているのね」
 「そ、そうかしら……?」
 百恵はなにくわぬ顔で再び車を走らせた。三八〇度一面のリンゴの花に囲まれた上空、夜勤明けの淡いブルーの空に、岩雲が静かに流れていた。
 
> 第1章 > (二十一)孤独
(二十一)孤独
 院長室の浩幸は、いつでもデスクに何かしらの書類を広げて、考え事をしている事が多かった。山口脳神経外科医院には浩幸の他に理事の西園倫明と、医大を卒業してまだ間もない伝田強志という三人の医師がおり、持ち回りで診察を行っていた。理事の西園は年齢五十歳のベテラン外科医で、先代院長の正夫の代から山口医院の重役を担ってきた。話によると脳卒中で倒れた母親を正夫に救われ、それをきっかけにして医師になった苦労人ということで、山口医院の経営維持が最悪困難だった時も、給料を受け取らずに医院の存続に尽くし抜いた人間である。
 「西園君、申し訳ないが、今月も給料を払うことができない。君も生活がかかっていることだ、こんな貧乏医院を捨てて、どこか余所の病院に移ってもかまわいなよ。良い先生を紹介するから、そうなさい……」
 ある時、正夫が悲愴な顔付きで言ったことがある。その時も、
 「先生、何をおっしゃいます!私は先生に惚れて医者になりました。どんな状況になっても、私は先生と一緒にいるつもりです。そんな悲しい事をおっしゃらないで下さい。どうかご心配なさらず、多くの病で苦しんでいる人達をお救い下さい。私はどこまでも先生を支えて参ります。たとえ院長が先生の息子さんの代になったとしても、私はこの山口医院をずっと陰で支えて参ります。どうかご安心ください!」
 正夫は涙ながらに西園の手を握りしめた。そして正夫が死んでからも、その意志のままに西園は現在も浩幸の片腕となり、山口医院の発展のため尽力していた。
 浩幸はコスモス園の医療法人化計画の実務推進を西園に任せようと思っていた。ふと、その必要設備機材の項目から目をそらすと立ち上がり、コーヒーメーカーのコーヒーをマグカップに注ぐと、ブラインドのスラットからコスモス園を眺めた。丁度遅番者であろう施設に向かう白い軽自動車を見たとき、浩幸は「あっ、馬場さんだ……」と思った。そして彼女が言った「介護も看護も同じ」というあどけない発想を思い出して唇を三日月に変えた。
 「院長、どうしました?仕事中の院長にしてはずいぶんと嬉しそうですね……」
 院長室に入ってきた西園が言った。太い身体を白衣で隠した、丸渕眼鏡をかけた温厚そうな男である。
 「いえ、別に……。どうしました?」
 「あ、はい……。小林さんの手術のことでちょっと……」
 西園はその患者のカルテを見せながら「難しい手術になるでしょう」と言った。そして手術の難点をいくつか挙げるとカルテをデスクに抛るように置いた。浩幸は不安そうな西園の顔を見てとると、
 「そのオペ、私がやりましょう」
 と言った。西園は心配そうに「大丈夫ですか?」と答えた。
 「最善を尽くしてやるしかないじゃないですか。それで駄目なら仕方ありません。私たちは最高の技術と誠意で臨むしかないでしょう。人の生命は摩訶不思議だ。患者に生きる意志があれば、きっと成功しますよ」
 「その割り切りが先代も私もひどく苦手だ……。それじゃあ、お任せします」
 西園はそう言うと、カルテを持って部屋を出ようとした。と、浩幸が呼び止めた。
 「それから西園さん、コスモス園統合の件ですが───」
 西園は立ち止まって振り向いた。
 「院長、本当になさるおつもりですか?悪い話ではないと思いますが、当医院にかかるリスクが大きすぎる……」
 「先日すでに決定してもう動きだしています」
 「なんと……。まったく院長のワンマン振りにも困ったものだ……」
 西園はあきれたように笑った。
 「反対ですか?」
 「そんなことはございません。ただ相談くらいしていただかないと、先代にも申し訳がたちません」
 「先代か……」
 浩幸は手にしたコーヒーを飲んだ。
 「僕は父のような“赤髭”を気取った医者には絶対なりません。それに一度言った事は最後まで曲げない性分なのはご存じでしょう。山口医院にいる以上、僕の方針には従っていただかないと困りますが」
 「分かっておりますよ。院長は先代の忘れ形見だ。あの財政困難の極地から、近年医院の拡張まで果たされたお方です。この西園、命に替えて何でもやります」
 「ありがとう」
 浩幸はそう言うと、コスモス園の統合計画の詳細について語りはじめた。西園は太い身体のためか荒い息を吐きながら「はい。はい。」と小気味よい返事を繰り返し、浩幸の計画書に目を通した。一通りの説明を終えると浩幸が言った。
 「西園さん。もしあなたが父と出会わずに、最初に僕と出会っていたとしたら、今のように無条件で僕の構想を受け入れましたか?」
 西園は少し困った顔をした後、
 「さて、何と答えましょう?ただ、先代がいなければ私は医者をやっていないでしょう。しかし、そのおかげで今こうして院長の下で山口医院発展のお役に立つことができる。これは縁ですから、先代より先に院長と出会う事なんてあり得ない事ですよ、きっと……」
 やがて西園は院長室を出た。「やれやれ、好美夫人が生きていてくだされば、もう少し柔和なお人柄になっていただろうに……」と呟きながら。
 浩幸は、自分が孤独だとは思っていなかった。しかし第三者が見れば、彼を必ず孤独というに違いなかった。その一つに彼特有の鋭い目つきがあった。仕事中はいつも何かに没頭し、他の誰かが話しかけようものなら、「いま手が離せませんので後にしていただけますか?」と厳しい口調で言い返すので、彼の周りはいつでもとても近寄りがたい空気があったのだ。ある時、女性の看護士長がある患者の看護の相談に行った時も、「必要な処置の仕方は伝えてあるはずです。看護はあなたの仕事でしょう。いちいち僕のところに看護の相談に来るものではありません。ご自分で考えなさい」と突っぱねられたこともある。従って、余程の事がない限り、浩幸に近づこうとする者はなかった。唯一理事の西園だけが、その空気に入り込むことができたが、その彼にして「院長は恐い。何をしでかすか分からない」とぼやく時があったのだ。第二には、彼の経歴を知る者の憶測であるが、山口医院の財政を立て直す際の彼はとても尋常でなかったと言う。誰よりも早く医院に来て、誰よりも遅くまで仕事をやっていた。その姿はまるで何かにとりつかれたようだったと言う。それが原因で初婚の美津子とも離婚してしまったのだ。少なくともその出来事は彼にも大きなショックだったようで、暫くは何も手に付かない様子だったが、半年もするとその離婚の事を忘れるように、更に仕事に没頭するようになったのだ。看護士はじめ、周囲の人間達はたまったものではなかった。ただでさえハードな脳神経科の看護士たちは、身も心もボロボロになりながら何人もの者が辞めていった。労働組合を結成しようという話まで持ち上がった程である。しかしその尽力のおかげで山口医院は大きく発展したのだった。医院の拡張が成された頃、浩幸は好美と再婚した。そして大樹が生まれ、彼の振る舞いもだいぶ丸くなったように見えた。しかしつかの間、好美は大樹を残して他界したのだ───。浩幸の心の支えは、唯一大樹の成長だった。思えば院長に就任してからの日々は、片時も休まる事のない精神闘争の中にあった。相談する者も頼る者も支える者もない果てしない孤独の荒波を、ひたすら耐えていたに違いないと。
 第三には父正夫に対する憎悪があった。それは広く尊敬を集めた“赤髭”とはまったく対極にある振る舞いとなって現れることになる。「医者のくせに!」とは、貧乏医院に育った彼の頭上を、絶えず飛び交っていた借金取りの罵声だった。そのストレスのためであろう、母は彼が大学生の時に亡くなった。しかも、ちょうどその時も往診中で正夫は家にいなかった。母の危篤を知り、授業の途中で飛び出して家に帰れば父の姿はなく、慌てて迎えに出ようとしたところを母が腕をつかんでこう言った。
 「あんたのお嫁さんの顔を見たかったよ……」
 「すぐにパパを連れてくるから!」と飛び出したものの、それが母の最後の言葉となった。
 「パパは家庭と患者と、どちらが大事なの!」
 ある時聞いた事がある。その時正夫はこう答えた。
 「それは家庭の方が大事に決まっているじゃないか。でもな、私の手の中には、多くの患者さんの命が委ねられているんだ。それは最も大事なものを犠牲にしてまで守らなければいけないものなんだよ」
 と───。しかし浩幸には理解できなかった。母親を亡くしてまで守らなければならないものなどあるものかと理解しようともしなかった。それは父との間の溝をより深くするものとなっていた。以来浩幸は秀でた医療技術を楯に、高額な医療請求をするようになったのだった。医院が立て直してくると、今まで罵声をあびせていた金融機関は掌を返したように笑みを浮かべて周りに群がってきた。所詮そんなものだと、その姿を浩幸は鼻で笑っていた。
 信じるものなどなかった。だから恐いものも何もなかった。ただ社会の仕組みと、その社会に組み込まれた人間の動きを洞察しながら、恍惚と生きてきたのだ。ただひとつ失うものがあるとすれば、それは大樹というかけがえのない小さな命だった。

 中野市のはずれの小さなアパート。
 ここにもう一人孤独にさいなむ男があった。新津俊介である。彼は小さなベランダに出ると、緑に映える志賀高原の山並みを見つめていた。冬は百恵とスキー場へ行って、スノーボードをやった事などを思い出しながら、大きなため息を何度もつくのであった。
 彼は後悔していた。あの晩、百恵を強引に誘いだしてしまったこと、そして結婚を口走ってしまったこと、そしてなにより嫌がる彼女にキスをしてしまったこと───。百恵のために何でもしようと決めていたはずなのに、それとは全く正反対の行動をしてしまった自分に自責の念を抱いていた。以来、電話をしても留守電で、そこに入れる言葉すら思いつかないのだ。何度、百恵の家の前を車で走ったか知れない。何度コスモス園の前を走ったか知れない。百恵の車を見つけては、何度会おうとしたか知れない。俊介は自分の唇に残った百恵のそれの感触を思い出しながら黄昏の空を仰いだ。
 彼女からもらった勤務形態のカレンダーを見れば今日は遅番であることが分かった。時計を見ればちょうど夕方の休憩時間であるはずだった。俊介は携帯電話を取り出すと、少し戸惑った後、百恵に電話をかけた。
 『お客様がおかけになった電話番号は、電波の届かないところにあるか、電源が入っておりません……』
 その科白を二回ほど聞くと、俊介はため息と一緒に電話を切った。
 
> 第1章 > (二十二)愛する人の子
(二十二)愛する人の子
 「百恵さん、ちょっと山口医院までひとっ走り行って、水野さんのお薬もらってきてちょうだい」
 丸腰にそう言われた百恵は、内心喜びながらコスモス園の玄関を出た。リンゴ畑の道を歩いて数分もかからない距離にある医院まで、夏の日ざしに照らされて彼女の額には汗がにじみ出た。大通りを渡り、すっかり冷房のきいた医院内に飛び込むと、薬局の受付の女性に「コスモス園ですが、水野さんのお薬を取りにきました」と伝えた。「腰掛けてお待ち下さい」と言われた彼女は、待合室の七、八名の診察待ちの患者の中に空いていた一つの長椅子にゆっくり座った。医薬分業で、山口医院内には診察の受付の窓口の他に薬剤専用の窓口が設けられている。それは山口医院直属の薬局で、“やまぐち薬局”という名の別法人である。施設を拡張する際、浩幸の希望で院内に設けられたのである。薬局と病棟の間は廊下で仕切られ、ふと奥の部屋から小さな子供が走ってきた。
 「ちょっと大樹君、待ちなさい!」
 追いかけてきたのは中年の女性看護士だった。ほどなく大樹は捕まると、「やだ!ねむくないもん!」と、半泣きの表情を百恵に向けた。そして百恵に気づくと女性看護士の腕からするりと抜けだし、彼女のところに走り寄ったのだった。そのまま百恵は大樹を抱くと、泣き出しそうな彼の小さな顔を両腕で包みこんだ。
 「すみません!」
 女性看護士はそう言うと、百恵から大樹を奪うように持ち上げた。胸の名札には佐藤とあった。
 「やだ、やだ!ねむくない!お姉ちゃんとあそぶ!」
 「だめでしょ!おねんねの時間!」
 しかし大樹は再び佐藤の腕をするりと抜け出すと、今度は百恵のふくらはぎに抱きついたまま放そうとしなかった。
 「まったく困った子ね!パパに言いつけるわよ!」
 「私ならかまいませんけど……」
 百恵の言葉に佐藤はもう一度「すみませんね」と言って、「院長の子供なんですけど、言うことを聞かなくて困ってるんです」と付け加えた。
 「私、前にも一度コスモス園で、この子の面倒を見た事があるんです。少し時間がありますから私が見ましょうか?」
 佐藤はほっとした顔付きで、「あら、そうなの?それじゃ少しお願いしちゃおうかしら。もうお昼寝の時間だから、そろそろ寝ると思うんです」と大樹の頭に手を乗せると、「いい子にしてるのよ!」とそのまま病棟の方へ行ってしまった。大樹はその後姿にアッカンベーをした。
 「ああ!そんなことしちゃダメでしょ」
 ちょうどその時、薬局の窓口から「コスモス園の水野さん」という声がした。百恵は大樹の手を引いたまま薬を受け取ると、「何して遊ぼうか?」と大樹に言った。
 「こっち!」
 大樹に手を引かれて入った所は、先程大樹が飛び出してきた小さな託児所のような部屋だった。おそらく子育て中の看護士・薬剤師のために設けられた部屋であることは、壁に貼られた当番表や絵本や玩具などの多さから知ることができた。中央にはそこで寝る準備をしていたのだろう、子供用の布団がひとつ敷かれていた。大樹はちらかしたおもちゃ箱から赤と青の二体のヒーロー物の人形を持ってくると、「どっちがいい?」と百恵に聞いた。百恵は青の方を選ぶと、大樹は赤の人形を百恵に渡した。
 「ぼくが青。おねえちゃんは赤!」
 「それなら聞かなきゃいいのに───」
 「いいの!」
 言うが早いか「戦いごっこしよ!」と、大樹は手にした青い人形を百恵の赤い人形にぶつけては、「いくぞ!」だの「えい!」だの「やったな!」だの、自分で効果音を入れながら遊びだした。ところが五分もしないうちに大きな欠伸をしたかと思うと、
 「だっこ……」
 と、百恵の胸にしがみついてきて、そのまま眠ってしまった。
 「大樹くん?大樹くん……?」
 大樹の寝顔を見ながら“おやすみ三秒”って本当にあるのだなと微笑んだ。
 そのまま布団に寝かせて帰ることもできた。しかし、もう暫くこのままでいたくて、大樹を腕の中で寝かせたまま、百恵は待合室で先程の看護士が来るのを待つことにした。そのうち無邪気な寝顔が無性に可愛くなって、大樹の額にキスをした。
 「あんたの子どもかい?かわいいねえ……」
 診察待ちの女性が声をかけた。百恵はその言葉を否定しなかった。
 「まあ良く眠っていること。安心しきった顔だね、幸せそうだ……。あたしにも抱かせておくれよ」
 女性はそう言うと嬉しそうに大樹を抱え、「私の孫もこんな時があったわね」とつぶやいた。
 「なんて言う名前だい?」
 「えっ?その……大樹です……」
 百恵は自分が母親であるという嘘を通すのに戸惑って、大樹を取り戻すと急いで外に出た。そして玄関前の駐車場で上半身を揺らしながら、その柔らかい頬に自分の頬を重ねた。
 その光景を院長室から眺める浩幸の姿があった。浩幸は、百恵と大樹を遠くで見つめながら、仕事の表情を微笑みに変えて電話の受話器を取ると、
 「佐藤さんを呼んで下さい」
 と言った。まもなく看護士の佐藤が院長室の扉をノックして現れると、「今日の託児当番はあなたではなかったですか?」と、窓の下を指さして言った。
 「すみません!あの人はコスモス園の方で、以前大樹君の面倒を見たことがあると言ったものでお任せしてしまったのです。いますぐ替わります!」
 「いえ……」
 浩幸は佐藤を止めた。
 「あんな安らかな顔をしている大樹を見たことがありません。いま暫くああしておきましょう」
 佐藤は意外な顔をした。てっきり怒られるかと思って来たが、浩幸の表情を見れば微笑みすら浮かんでいる。ほっと胸をなで下ろして、つい「大樹君は母親を求めているんじゃないでしょうか?」と口走った。浩幸は佐藤を睨んだ。
 「すみません!つい出しゃばった事を申しました!」
 「どうしてそう思いますか?」
 「大樹君は私にはなつきませんが、あの人に抱かれたとき、なんだかとっても嬉しそうな顔をしておりましたから。私も母ですから分かるのですが、あの表情は母に抱かれるときの表情に違いありません」
 浩幸は暫く無言だったが、やがて「もういいです。さがりなさい」と佐藤を帰した。
 浩幸には再婚する気など毛頭なかった。仮に結婚したところで、もう女性など愛せないと思っていたからだ。ただ大樹の成長を思う時、母親の必要性を感じる事も否めなかった。しかし、幼児教育上特に重要とされる三歳までの期間は既に過ぎてしまっている。心の中には「いまさら……」と思う気持ちもあった。百歩譲って結婚を考えたところで、相手が百恵であることは考えられなかった。確かに彼女の自分に対する思いには悪い気はしなかったが、年の差をはじめ、百恵が初婚であるのに対し、自分は三度目の結婚の上実の子供が二人いるのである。彼女の純粋な気持ちにはとても応えられないと強く思った。彼女にふさわしい男性は他にきっといる。この間ラーメン店で見かけた彼もその一人だ。自分などのようにすれた男と一緒になっては一生彼女は報われないと信じていた。
 「早めに諦めさせてあげないと彼女が可哀想だ……」
 浩幸は自分には不似合いな感情を嘲笑しながら、いつまでも百恵と大樹の姿をながめていた。
 
> 第1章 > (二十三)重なる怨恨
(二十三)重なる怨恨
 『老人介護施設“コスモス園”医療法人化への五カ年計画発表!山口脳神経外科医院と統合。新たなる介護医療への挑戦!』
 新聞や各マスコミの見出しに大きく報じられたコスモス園の新しい高齢者介護体制の発表は、いろいろな意味で社会的な注目を集めていた。特にその構想の発起人である浩幸に対しては、インタビューや取材記事等で、その必要性と社会的な役割について様々な角度で取り扱われるようになっていた。
 その動向を新聞記事で知った浩幸の初婚相手の林美津子は、顔写真入りでマスコミを賑わす浩幸を妬ましく思っていた。いまや飛ぶ鳥をも落とす勢いで発展を続ける山口医院を知るにつけ、「あの時、別れていなければ……」という後悔の念に加え、愛とは対極にある激しい憎悪が生まれていた。折しも現在の夫である武の姿を見れば、うまくいかない仕事に対する鬱憤で毎日酒をあおっている。浩幸との間に生まれた中学生の娘美幸と、その下には武との娘で現在小学校六年生の香澄の世話を焼きながら、気持ちはいつも荒れていた。
 「ちょっとあなた!毎日お酒ばかり飲んでいないで仕事をやりなさいよ!」
 夫の武は医療関連専門の弁護士をやっていた。ところが『林弁護士事務所』とは名ばかりの、数年前に関わった医療裁判の敗訴で大きく信用を失墜させてしまい、今は相談に来る人もまばらな経営困難に陥っていた。働く意欲をなくした武は酒に溺れ、ついには浩幸の子である美幸に対しても暴力を振るうようになっていたのである。
 そもそも美津子と武の出会いはこうだった。それは十一年前に遡る。
 美津子が浩幸と結婚し、美幸を出産して間もないアパートに、ある日、浩幸を訪ねて来た男があった。男は林武と名乗る医療相談を専門に扱う弁護士で、医学的見地から様々な意見を聞かせてほしいと、鞄から一冊の医療専門雑誌を出すのであった。そこには浩幸が書いた『脳死問題における人の死の一考察』という論文が掲載されていた。
 内容をかいつまむと、当時盛んに論議されていた脳死問題についての浩幸の見解と立場を書いたもので、結論から言うと“人の死は、従来の日本の判定基準である心臓死に加え、脳死という問題が発生した現代にあっては脳死判定も満たされた状態でないと認めない”というものだった。いわゆる脳死反対の立場であるが、その内容は一風変わっていた。要約すると、脳死か心臓死かの議論に陥るのではなく、その両方が満たされない限り人は生への可能性がわずかでも残されているという見解である。そもそも脳死問題は医学の進歩により、脳死状態でもレスピレーター(人工呼吸器)によって人の臓器を生かしておくことができるところから発生してきた問題である。一方での臓器移植技術の進歩に伴ってその議論は必然として起こった。しかし浩幸はそれとは逆の視座も含め論を進めたのである。いわゆる現代の技術においては心臓が停止すれば脳も自然と死ぬわけであるが、浩幸は脳神経外科医の立場から、他の臓器が停止しても脳だけを生かしておく技術が必ず生まれるという着目点を加えたのである。そうなれば脳死状態だが心臓は動いているという状態に加え、臓器は停止しているが脳は働いているという状態も考え得る。人間の体の一部が人工的であれ動いているということは、その人はけっして死んでいないとする立場である。いわば死の判定基準を厳しくしたのであった。しかしながら臓器さえあれば蘇生できるレシピエント(臓器移植を受ける患者)も大勢いることも現実で、それに対しては三者の話し合いによって、特例としてドナー(臓器提供者)は臓器を提供できるものと提唱したのだ。三者とはドナーとレシピエントとドナー側の担当医師で、ドナーは意志表示ができないため一親等もしくは配偶者、もしそれがない場合は二人以上の二親等もしくはそれに準ずる人物がそれに当たる事とした。その話し合いにより臓器移植が実施された場合、浩幸はそれを“人道的殺人”と名付けたのである。「殺人に人道もあるか!」とは当然予測できた反論であったが、浩幸の意図は、人の生命のいっそうの尊厳と、ドナーを取り巻く家族の愛情にこそ、つまり関係者同士の人道的な話し合いを第一義とすべきとの事に焦点を当てたものであった。山口医院の院長に就任して間もない、浩幸二十五歳の、若さに任せた論文だった───。
 その論文を読んだ林武は興味を示し、是非話を直接伺いたいと、留守の多い山口のアパートを訪れたのであった。
 ところが意外な展開を余儀なくされた。それは林が美津子の美しさに心奪われた事に端を発する。何度訪問しても要の浩幸が留守のアパートに、やがて家に上がり込むようになり、独身だった林は、ついには美津子と肉体関係を持つに至ったのである。
 美津子は寂しかった。新婚生活二年目に入ったばかりというのに、浩幸は家に帰らず、ひどいときは一週間なんの音沙汰もない日々もあった。たまにアパートに戻れば、「疲れた」と言ってすぐに眠ってしまう。美津子にはそれが耐えられなかった。
 対して林はちょくちょくアパートに訪れては、その寂しさを紛らわせてくれ、一歳の美幸を自分の子供のように可愛がり、時にはレジャーにまで連れていってくれるようになったのである。美津子にしてみれば、林と一緒にいる時間の方が浩幸といる時間よりもはるかに長いものとなっていた。やがて浩幸との結婚生活に疑問を持ち始め、それは将来への不安に発展し、ある時些細な浩幸の注意の言葉に腹がたち、感情に任せて美幸を抱いてアパートを飛び出したのであった。
 林は美津子をけっして一人にはさせなかった。母子共々優しく迎え入れると、間もなく「結婚しよう」と言った。美津子は林の胸にその全てを任せたのである。
 やがて二人の間にも子供が産まれ、一家は何不自由のない幸せな家庭を築いているように見えた。美津子もその生活に満足だった。しかし心のどこかにいる浩幸は、けっして消し去る事ができず、そのことは武も薄々感づいていた。武が唯一美津子に対して不満があるとすればそれだった。
 ところが、林がある医療裁判の弁護において、数回に渡り敗訴の屈辱を受けて仕事の意欲を失墜させるにあたり、一家は次第に傾きはじめた。極端に減る弁護依頼に対して、やがて法律の網をかいくぐるような危ない仕事にまで手を出すようになり、やがて弁護士連名からも除名された。それを堺に一家は奈落の坂を転げはじめたのであった。美津子が浩幸に、美幸の養育費の相談に行ったのもそんな折りの事である。浩幸は快く「分かった」と言った。その彼の笑顔が妬ましかった。
 「なぜ、あの時、私を追いかけてこなかったの?」
 スナックでブランディを傾けながら美津子が浩幸に言った。
 「僕は君の心を手放してしまう程度の愛しか君に与えられなかった。所詮、僕には君を幸せにしてあげるほどの甲斐性がない男だってことに気がついたのさ。もちろん諦めがつかなくて随分悩んだけどね」
 「どのくらい───?」
 「五年くらいかな……?いや、正確には七年だ。再婚の妻が死ぬ寸前まで……」
 「あなたがいけないのよ」
 「その通りだね。でも、君が幸せそうで安心した」
 美津子は込み上げる怒りをブランディと一緒に飲みこんだ。今の自分が家計に窮する事実を、離婚間際の浩幸の家庭をなげうつ態度に原因を求めていた。
 思えば浩幸に対する嫉妬や憎悪は、この会話の中で生まれた感情に違いなかった。もし別れていなければ、今頃院長夫人としてなに不自由のない生活が保たれていたものを───。
 「あの子ね、もう中学生よ。会いたくない?」
 美津子は話を次いだ。
 「美幸の事よ。会いたいでしょ?あの子、最近こんな事を言いだしたの。『ナースになりたい』って。やっぱりあなたの血は争えないわね……。どう?もし美幸が看護士になったら、あなたの所で使ってくれない?」
 「そう、そんな事を言いだしたの?でも、僕が父親だって事は知ってるの?」
 「知らないわ。林を実の父親だと思ってる……」
 「そう……。でもこれは僕にとっても責任のある事だね……。分かった。少し辛いけど、臨床実習から雇用まで全部僕のところで面倒を見るよ」
 浩幸には仕事と私情を割り切る自信があった。そうして現在まで生きてきたのだから───。美津子はブランディグラスで顔を隠してほくそ笑んでいた。

 一方、武の心も荒れていた。度重なる仕事の失敗───、しかもその敗訴を決定的にしたのは、いずれも相手側の弁護士が入手した、浩幸の医学的見地による反証だった。やがて敗訴に因する不運に、やりどころのない怒りを美幸に向けるようになっていったのだ。それはいつも美津子のいないところで行われていた。所詮、血のつながらない娘に対し、後に立ちはだかる山口浩幸という人物に憤りながら、その感情は無造作に噴出した。ある時は宿題の解けない美幸の頭を思い切り叩いたり、ある時は妹の香澄にだけお土産を買ってきたり、肉体的に精神的に苦痛を与えるようになったのだ。たまに美幸をかばう美津子を見れば、「貴様!まだあの男の事を!」と激怒した。いつしか武の心の中にも、「あの男さえいなければ」という思いが芽生え、それは美津子の思いと結託して、激しい憎悪へと燃えていったのである。
 「あの男は、美幸というお荷物を俺に与えた上、美津子の心をも奪ったまま、俺から仕事までも取り上げた。あいつのアパートに行った時も、ただの一度も会ってくれなかったではないか。おかげで俺はこんなお荷物を背負い込むはめになってしまったのだ。あいつさえいなければこんな事にはならなかったのだ!」
 極端な言いがかりは次第に林の中の真実となってふくれ上がっていた。

 そしてもう一人、浩幸を良く思わない人物がいた。それはコスモス園の事務長を務める須崎慎二である。
 彼の恨みは単なる出世欲から生ずるものであった。山口医院とコスモス園の統合にかかわる会議では最初から反対を貫いてきた小市民である。次期施設長になるはずの男の執念は天性のものか、その計画を白紙に戻そうと躍起になっていた。朝な夕なに浩幸の犯すミスを虎視眈々と狙っていたのである。
 見えないところで、浩幸を陥れる画策の発端は、こうして静かに動きだしていたのであった。
 
> 第1章 > (二十四)つかの間の愛
(二十四)つかの間の愛
 水曜日の定期診察を終えると、浩幸はロビーで遅番の百恵が到着するのを待った。彼女の自分への思いを諦めさせるために、できるだけ早く自分の意志を伝えなければならないと思ったのだ。今日は定期診察の後は取り立てて重要な用事もなかったので、夜は大樹を理事の西園に預け、勤務を終えた百恵にしっかり話そうと思った。
 やがて百恵の白い軽自動車がコスモス園の駐車場に入ってきたのを確認すると、浩幸はゆっくり立ち上がって外に出た。
 「や、山口先生……」
 浩幸に気づいた百恵は一瞬驚いた様子で身体を硬直させた。
 「馬場さん、今晩、仕事が終わったら僕に付き合っていただけませんか?ちょっとお話があります」
 百恵は突然の誘いに、返事に窮した様子で顔を赤らめた。
 「なにか用事でもありますか?」
 「い、いえ……そんな……何にもありません、とっても暇です……」
 百恵は緊張のあまり、やっとの思いで口にした。その脇を、たったいま到着した七瀬が首を傾げながら通りすぎた。
 「それじゃ、仕事が終わったらうちの駐車場に来て下さい」
 浩幸はそう伝えると、徒歩で医院の方へ向かって歩き出した。百恵は茫然とその場に立ち尽くしたままだった。
 二人がずっと気になって、玄関の壁に身体を隠してした七瀬は、浩幸が遠ざかるのを確認して興味津々と駆け寄った。
 「なに、なに?何のはなし?」
 「───デートに誘われちゃった……」
 百恵が茫然としたままぽつんと呟くと、「えーっ!どうすんのよ!」と七瀬は叫んだ。
 「で、いつ、いつ?」
 「今晩……」
 再び七瀬が「ええーっ!」と叫ぶと、百恵はまるで徘徊をするように歩き出した。
 その日はそわそわし通しで、まるで仕事が手につかなかった。時間ばかり気になって、何度丸腰に叱られたか分からない。七瀬との会話も上の空でついには愛想をつかされた。やがて夜勤との引き継ぎが終わると、高鳴る鼓動を抑えきれずに深呼吸をした。
 「ま、なんて言うか複雑な心境だけど、とりあえず頑張って!」
 七瀬にポンと肩を押され、ようやく百恵は車に乗り込んだ。

 コスモス園から山口医院までのわずかの距離を、百恵は胸をドキドキさせながら運転した。果たして医院の駐車場に着けば、白のV・ワーゲン・ニュービートルの中で浩幸が笑いながら手を振っていた。
 「さあ、こっちに乗って下さい」
 浩幸の声に誘われて自分の車を降りれば、化粧は大丈夫かとか、服装はどうかとか、匂いは大丈夫かとか、シャワーを浴びてくればよかったとか、様々な事がいまさらのように頭をよぎった。
 「何をしているんですか?はやく」
 百恵は覚悟を決めて、助手席のドアを開くと、「失礼します」と言って乗り込んだ。
 「どこへ行くんですか?」
 「鮎川ですよ。この時季、あそこにはホタルがたくさん飛んでいるんですよ」
 「ホタルですか?須坂にもまだホタルがいるんですか?」
 浩幸はにこりと笑うと、静かに車を出発させた。
 下八町から菅平方面に向かう県道五十八号線は清流鮎川に沿って走る。六月下旬から七月中旬にかけては、鮎川に生息するゲンジボタルの淡い黄色の光の舞が見られるのである。自然界におけるホタルの寿命は、オスで三から四日、メスで五から六日くらいという観察の報告もあり、浩幸は、美しい光を放ち短い生命を終えるホタルにあやかって、百恵の恋の千秋楽の舞台を選んだのだった。
 やがて浩幸は、栃倉辺りの路肩に車を止めると、降りて鮎川を渡す橋のたもとに立った。
 「馬場さん、来てご覧なさい。とってもきれいだ」
 百恵は緊張の表情を隠せない様子で浩幸の右隣りに寄り添った。
 「わあ───!」
 暗闇の川に沿った手入れのしていない土手沿いに、まさに何千、何万という黄色い光の点がぼんやりと浮かんでは消え、二人の姿を祝福しているように点滅していた。しばらくそのホタルの乱舞する光景を眺めていると、
 「馬場さんは、僕の事が好きですか?」
 突然、浩幸がそう聞いた。あまりの唐突さに、百恵は何も言えずに俯いた。涼やかな風に乗って、ホタルが一匹、彼女の黒髪にとまって光っていた。
 「───どうしてそんな事を聞くのですか……?」
 「……なんだ、嫌いなのか……」
 浩幸のぶっきらぼうな言葉に百恵は瞳に涙を溜めて叫んだ。
 「好きです!いけませんか?どうしようもないんです、胸が苦しくて……。先生が私の事、嫌いでもいい。でも、でも、愛しちゃったみたいなんです!」
 「やっぱり、そうですか……」と、浩幸は百恵の髪のホタルを捕まえて放つと、ひとつため息をついた。
 「僕ね、脳外科医なんてやっていると、たまにこんな事を考えるんです」
 百恵は浩幸の横顔に、その泣き出しそうな目を移した。
 「それは脳移植についての事です。こういう話は嫌いですか?」
 「いいえ、続けて下さい───」
 百恵は涙をぬぐい、笑みを浮かべながら言った。
 「脳は臓器ではありませんから、臓器移植とは根本的に違うものなんですが、今、その研究が世界中で行われています。もし脳移植が可能になれば、アルツハイマーなどの痴呆症の治療にも大きな成果をもたらすでしょう。近い将来、僕は必ず脳移植が可能になると信じています」
 「脳移植ですか……?考えた事もありません。そういえば、がりょう山で先生がしてくださった“りょう姫”の話も、考えようによっては脳移植の話ですね」
 浩幸は百恵の意外な視点に驚いたように微笑んだ。
 「もし、脳移植が可能になれば、ある人の脳を別の身体の人間の頭に移植して、別の人間の身体を自分の物として生きる事ができるのです。どうです?信じられますか?」
 「そんなこと……」
 百恵は冗談を聞き流すように、川辺のホタルの舞に視線を移して微笑んだ。
 「でもできるんです───。馬場さんはコスモス園の須崎理事長は好きですか?」
 百恵は話をそらす浩幸に再び目を向けた。
 「あまり好きじゃありません。なんか事務的というか、お年寄りの気持ちが分かってないっていうか、私、いつも叱られるんです」
 「僕も嫌いだ───。でも仮にですよ、僕と須崎さんが同じ車に乗っていて大事故を起こしたとします。彼は頭を強く打ち脳はぐちゃぐちゃ、いわゆる脳死してしまった。一方、僕の方は首から下の身体がバラバラになり頭だけが残ったとします。そこで僕は強く希望したんだ、『僕の脳を彼の頭に移植してくれ』と───。そして移植手術は成功し、僕は須崎さんの身体を持った僕になり、その後の人生を生きる事になった───。どうですか?貴方は須崎さんの姿をした僕を愛することができますか?」
 「いじわるな質問……。そんなこと、分かりません───」
 百恵は腕にとまったホタルを掌に乗せた。
 「でも、できるような気がします。私は年の差や外見で先生を愛したわけじゃありませんから……」
 「うそだ!」
 声に驚いたのだろうか、掌のホタルが宙に舞って消えていった。
 「うそじゃありません!どうして信じてもらえないのですか?」
 「女は感情の生き物だから!」
 「男は理屈の奴隷よ!」
 すかさず言い返した百恵の小気味よい科白に、浩幸はニヤリと微笑んだ。百恵は我に返ると、「ごめんなさい」と俯いた。
 「ともかく、一時的な感情で自分を粗末にするものではありません。僕なんかのために使う想像の時間を、もっと別な有意義なところに使いなさい。今日はそれが言いたかったんです。さあ、帰りましょう……」
 浩幸が車に向かって歩き出した。
 「一時的な感情じゃありませんから!」
 浩幸は立ち止まると振り返り、再び百恵の前に戻った。
 「それなら貴方は、僕に貴方の全てを捧げることができるとでも言うのですか?財産も、その身体も、心も───」
 「先生が望むのであれば、捧げます……」
 「うそだ!」
 「うそじゃありません!」
 浩幸はいきなり百恵の腕をつかむと、そのまま車に向かって早足で歩き出した。そして助手席のドアを開けると力任せに百恵を車に押し込み、自分は運転席に付くとすかさずエンジンキーをひねった。
 「どうするのですか?」
 「ホテルに行くんですよ。言ったじゃないですか、心も身体も僕に捧げるって……」
 百恵は全てを観念して、シートに寄りかかりもせず、いつもとは違う浩幸の横顔をじっとみつめていた。
 
> 第1章 > (二十五)待ち人
(二十五)待ち人
 白いニュービートルは須坂市を出て、ネオンが光るラブホテルの空室の表示を見つけると、そこに吸い込まれるように消えていった。車を降りると浩幸は百恵の手を引き、フロントらしきところで部屋を選んでキーを取ると、そのまま無言のままエレベータに乗った。手を引かれたまま入った部屋は、今までに見たことのない華やかな装飾に飾られた、ピンクがかった照明のまぶしい空間だった。百恵は部屋を四顧すると、やがて中央に置かれた丸いダブルベッドにゆっくり腰をおろした。
 「なかなかいい部屋だ。はじめて入りました」
 浩幸は据え付けの小さな冷蔵庫からビールを一本取り出すと、栓を開けてゴクゴクと飲んだ。テレビをつければアダルトチャンネルで、百恵は急に恥ずかしくなって俯いた。
 「くだらない……」
 浩幸はそう呟くとまるで興味を示さない様子でテレビのスイッチを切った。
 「どうしました?さっきから急におとなしくなって───。貴方も飲みますか?」
 浩幸は飲みかけのビールを百恵の前に差し出した。それを無造作につかむと、百恵は二口ほど一気に飲み込んだ。
 「ああ……、あまり無理をしない方がいい」
 浩幸は百恵からビールを取り上げた。
 「お風呂とかもありますが、どうします?」
 百恵は悲しげな表情で暫く浩幸をじっと見つめると、静かに立ち上がり、ゆっくりバスルームに入っていった。
 シャワーの音を聞きながら、浩幸はベッドに横たわって煙草をふかした。二本目のビールは半分ほど飲むと、飽きてテレビの上に置いたままだった。やがて十分もすると、百恵はもとの服装で、湿らせた髪の毛を束ねて出てきた。そしてテレビの上の飲みかけのビールを見つけると、「もう一口いただきます」と言って辛そうな表情で呑み込んだ。
 浩幸はベッドから立ち上がると、ゆっくり歩いて百恵の正面に向かい立った。
 いっぺんに酔いがまわった視覚で愛する浩幸を見つめれば、静かに微笑む表情がかすんで見えた。やがて浩幸は、百恵を強く抱きしめた。
 「身体がこんなに震えている───。なぜ、抵抗しないの?」
 浩幸が言った。百恵にも不思議だった。俊介が迫ってきた時などは死にものぐるいになって抵抗した自分が、浩幸の前では抵抗どころか強く彼を求めているのである。
 「先生の胸もドキドキしてる……。どうして?初めてじゃないはずなのに……」
 百恵はとても不可思議な心境になりながら言った。それまでひどく軽蔑していた彩香と山中が出会って最初にした行為や上司の丸腰と事務の大塚との不倫の事───。しかし今、自分がしようとしている行為と一体何が違うというのか?それは須く動物が地球上に生まれた遙か昔から、子孫を残すために行われてきた神聖なる儀式ではないか。百恵は自分の中に、もう一人の別の自分がいる事にはじめて気づいた。浩幸に対する愛の名の下に、その行為の全てを正当化し、それどころか彼女の心には矛盾の微塵もなかったのだ。
 心の痴呆?それとも覚醒……。近寄る浩幸の唇に、百恵は静かに瞳を閉じた───。
 ───しかし次の瞬間、浩幸の口から意外な言葉がもれた。
 「馬場さんはこんな男のためにその身を捧げるのですか?もう、お遊びはやめましょう」
 百恵は自分の耳を疑いながらゆっくり瞳を開いた。そこには恍惚とした仕事の時の浩幸と同じ顔があった。
 「僕が好きでもない女性をこんなホテルに連れ込んで、こんな事をする男だと思いましたか?バカにしないで下さい」
 驟雨の前ぶれだろうか、外で大きな雷の音が響いた。浩幸は百恵から離れると更に言葉を続けた。
 「なんだかとてもガッカリしました。今日、僕は貴方を諦めさせるために誘いました。これ以上僕に執着して、心の傷が深くなったら可哀想だ。少しでもその傷が浅くすむようにと思って……。でもそんな心配をする必要はなかったようだ。貴方は予想以上に図太い精神の持ち主でした。なぜ抵抗しないのですか?僕とこういう関係になるというのは何を意味するか知っていますか?僕の妻になるか、さもなければ、コスモス園を辞めるかのどちらかです。僕は貴方を愛していません」
 再び雷音が鳴り響いた。百恵は大粒の涙をぽろりと落とした。
 「貴方の好きになるべき男は僕じゃない。誰か別の男をあたって下さい」
 百恵は居たたまれなくなり部屋を飛び出そうと駆けだした。
 「ちょっと待って下さい!」
 ドアノブに手をかけたままの百恵に、浩幸は追い討ちをかけるように言った。
 「それから───、もう大樹とも会わないで下さい……」
 衝撃の言葉は、彼女の脳裏を真っ白にさせた。百恵はそのまま部屋を飛び出すと、雷鳴の中をひたすら走り出した。
 部屋に残った浩幸は、感傷的な表情で大きなため息をひとつ落とすと、残りのビールを飲み干した。

 ここがいったい何処なのか?
 次から次へとこぼれ落ちる涙をぬぐいもせず、ひたすら来た道を走り続けた。途中、天から大きな雫が一、二滴落ちてきたかと思うと、次の瞬間、土砂降りの雨となった。暫くはその雨と稲妻の中を走り続けたが、やがて疲れて立ち止まった。肩で息をしながら天を仰げば、大粒の水の塊が容赦なく顔を打ち付けた。
 「この雨が、いっそのこと機関銃の弾ならば、悩むことなく死ねるのに……」
 とめどなく溢れ出る涙は雨水と混ざって、彼女の顔をぐちゃぐちゃにしていた。背後に落ちた稲光が、一瞬世界の造形を浮かび上がらせて消えた。果てしない悲しみは、その音すらとらえさせなかった。
 百恵は膝を落として泣き崩れた。
 「ちょっと!あんた!何やってんの!」
 通りがかりの軽自動車から声をかけたのは、農業婦人風の六十代くらいのおばさんだった。
 「ちょっと、あんた!風邪ひくよ!おいで!」
 雨の音でうち消されて、声は百恵には届かなかった。
 「まったく仕方ないねえ……」と、しびれを切らせたおばさんは、傘を開いて自ら激しい雨の中へ飛び出すと、百恵の手を引いて助手席に押し入れた。
 「こんな時間に若い女の子がずぶぬれになって……。尋常じゃないね。いったいどうしたんだい?」
 おばさんは車にあった農作業に使っている土の匂いのするタオルで、「こんな汚いタオルしかないけど許してね」と言いながら、百恵の顔や身体を拭いてくれた。
 「なんだい、あんた泣いてんの?しょうがないね、家まで送ってあげるから、家はどこ?」
 百恵は「須坂市です」とだけ答えると、様々な質問を投げかけるおばさんの話はまるで聞こえない様子で、激しく動くワイパーだけを見つめていた。
 「まったく婦人会の用事が長引いてよかったよ。でも、こんな大雨になるとはね……。私が通りがからなきゃ、一体どうするつもりだったのさ」
 やがて家の近くまで来ると、ようやく雨も小降りになり、
 「おばさん、もうここで結構です。本当に助かりました……」
 と、百恵は車を降りた。
 「何があったか知らないけどさ、あんまり気を落とさない事だね」
 おばさんはこう言うと笑顔で送り出し、「じゃあね」と、やがて来た道を帰っていった。
 びしょ濡れの身体を気にもせず、百恵は家までの道のりをゆっくり歩き始めた。雨はいったん小降りになったかと思ったが、再びその勢いを増して降り出した。百恵は「どうにでもなれ!」と急ぐつもりもなく、そのままゆっくりと家に向かった。
 ふと、家の玄関の軒先に、傘も持たずにじっと立ち尽くす一人の男の姿があった。百恵は何気なしにそれを見つけると、男を見つめたまま立ち止まった。
 「新津君……?」
 男は俊介に違いなかった。ぐっしょに濡れた姿を見れば、予測できなかった雨を浴びながら、じっとそこで彼女の帰りを待っていたに相違ない。俊介は百恵の姿に気がつくと、笑顔を浮かべて駆け寄った。
 「どうしたの?びしょ濡れじゃないか……。何があったの?」
 「新津君……」
 百恵はいきなり俊介の胸に抱きついて泣き出した。俊介は何も聞けずにそのまま百恵を抱きしめた。土砂降りの雨はそのまま激しく二人を打ち付けていた。
 「新津君、ごめん。本当にごめんね……。今の私は新津君を愛せない。でもね、今、私、誰かが必要なの……。その誰かは、本当に誰でもいいのよ。今だけ、このまま私を抱きしめていて……」
 「いったい何があったの?」
 俊介は百恵を更に強く抱きしめた。
 「ごめん、ごめん……」
 百恵は俊介の胸で泣き崩れた。
 「いいよ。気のすむまで泣くがいいよ。俺は、その誰かが俺であったことがうれしいよ……。待ってるから。百恵が俺のところに戻ってくるのを、ずっと待ってるから……」
 そして彼の心を長い間苛んできた思いを伝えた。
 「この間はごめん。ずっと謝ろうと思ってたんだ……」
 俊介は百恵を抱きしめなら、シャワーのような雨が落ちしきる暗い空を見上げた。この雨が、二人の恋愛に生じた障害の泥を、きれいに洗い流してしまう事を祈りながら───。
 百恵は何も言わなかった。ただ、自分を抱きしめている人物と浩幸の身体のぬくもりを重ねながら、いつまでも泣いていた。
 
> 第2章
第2章
 
> 第2章 > (一)四年後
(一)四年後
 夏が終わり、蛍ヶ丘の中央部を走る大通りの銀杏並木は、秋色に染まった金の葉を静かに揺らせていた。北信濃を囲む山々のパノラマも、すっかり黄や赤や茶の紅葉に包まれ、北東からはやや寒気を帯びた風が吹き込んでいた。
 昼休み、コスモス園の屋上から透き通った空を眺めていた百恵と七瀬は、無性にアイスクリームが食べたくなり、ジャンケンで負けた百恵は、コスモス園からほど近い以前にバイトをしていたコンビニへ買いに出たのであった。
 馬場百恵、二十八歳───。四年の歳月は、彼女の環境を様々な意味で変えていた。
 中でも大きな変化は、念願の介護福祉士の資格を取得したことであった。働きながらひたぶるに勉強に没頭した日々は、思い返すのも辛い。悲しいあの日の出来事を忘れるために、勉強をする事しか思いつかなかったのだ。仕事が終わり家に帰ると、大学受験の日々を彷彿とさせるように、机に向かって参考書や専門書を紐解いた。しかし、少しでも集中力がなくなると、浩幸の事が思い浮かんで自然と涙がこぼれるのであった。その歳月はまさにその切なさとの戦いでもあった。そんな百恵を心配して、たまに俊介は外に誘った。寂しさを紛らわすため、また、気分を晴らすために百恵は彼の誘いに甘えた。
 それでも早番の水曜日には浩幸と顔を合わさなければならなかった。この時ほど辛い事はなかった。来年の医療法人化へ向けて、新しくリハビリ室の隣りに診察室が作られて最新の機材も次々に導入され、また、それまでの居室に加え病室の設置や、医療対応型のナースステーションへの設備拡張、また、売店の充実など、施設のあちこちではその工事が盛んに行われていた。変わりゆくコスモス園の中、浩幸は別段変わった様子も見せず、ただ淡々と診察をするだけだった。その顔を見るたびに、百恵の心ははりさけそうだった。
 そんな日々の末、今年の一月、国家試験である介護福祉士筆記試験をパスし、続けて行われた三月の実技試験に合格し、晴れてその資格を取得する事ができたのである。伴ってコスモス園での役職も交替A班の介護リーダーへと昇格された。六名いる介護スタッフの取りまとめや介護老人の管理責任を担いながら、様々なスケジュール調整などをする役である。いまやコスモス園の中核スタッフとして活躍するに至ったのである。
 大学時代の友人では、彩香が結婚して子供を産んだ。相手は山中かと思いきや、自営の美容院で知り合った化粧品販売業者のセールスマンだと言う。百恵は呆れて「勝手にしなさい」とぼやいたのを覚えている。また高梨も同じ役所勤めの女性と結婚し、大きなローンをかかえて家を建てた。唯一変わらないものといえば、七瀬との関係、俊介との関係、そして浩幸との関係だけだったかも知れない。
 百恵はコンビニのアイスクリームのケースからモナカを二つ取り出すと、レジで精算を終えて外に出た。そこで小学校二年生くらいの男の子が三、四人つるんで店に入ろうとする光景に出会った。思えば今日は土曜日で学校は休日。ふと、その中の一人、大樹の姿に目が止まった。大樹とは、もう何年も会っていなかった。その小学校への入学のお祝いの言葉すら伝えずにいたのである。話しかけてはいけない苦しみに耐えかねて、つい、
 「ねえ、ぼくたち、何を買いに来たの?お姉ちゃん、おごってあげようか?」
 百恵は大樹を見つめて言った。
 「ダメだよ!知らない人から物をもらっちゃいけないってママが言ってたもん!」
 他の男の子が言った。
 「あら、お姉ちゃん、大樹君の知り合いよ……」
 他の男の子たちは一斉に大樹の顔を見た。
 「おばさん、だあれ……?」
 大樹は首を傾げてそう言った。百恵は悲しみを笑顔に変えると大樹の頭をひとつ撫でて、「そう……、忘れちゃったの……?」と、そのまま銀杏並木の歩道を歩いて戻った。コスモス園への曲がり角、気になる山口医院の建物には目を向けず、その前を駆け足で通り過ぎながら───。

 一方、浩幸の方は翌年の秋に控えたコスモス園統合への大詰めを迎え、その仕事に大わらわだった。従来の脳神経外科に入院する患者や診療に訪れる人達の対応も含め、過労も極度に達していた。浩幸は目頭を押さえながら天井を仰いだとき、院長室の扉がノックされた。
 「どうぞ」
 入って来たのは理事の西園だった。
 「だいぶお疲れのようですね。二、三日休まれたらどうです?」
 「この大事な時に休んでなどいられません。理事の方こそ、私の計画のせいで何日も寝ていないのではないですか?ご苦労をかけます」
 「いえいえ、先代の時の苦労と違い、今回は発展的な苦労ですから苦にもなりません。それより、来年度の看護士採用者の件ですが、そろそろ各看護学校の方へ募集をかけようと思いましたところ、すでにお一人准看護士で内定が決まっているようなので、お伺いしようと思いまして。来年四月時点でまだ十七歳です。誰ですか?この林美幸というのは……」
 「ああ、その子ですか」
 浩幸はコーヒーメーカーのコーヒーを注ぎに立った。
 「院長もご存じのように脳神経科の看護は高度な知識と技術が必要です。中卒の准看護士資格では難しいのではと。それに、准看護士の制度自体見直される方向にある今、果たしていかがなものでしょう」
 「僕の娘です。美津子との。名前を見て気づきませんでしたか?美津子の“美”に浩幸の“幸”」
 浩幸は一口コーヒーを飲んだ。
 「なんと……?」
 「どういうわけか看護士になりたいと言い出したらしくて。それに今、彼女の家の家計が厳しいらしいのです。今の旦那は弁護士をしているらしいのですが、家を助けるために一刻も早く社会に出したいらしくて」
 「弁護士も倒産する時代と聞きましたが、そうでしたか。美津子さんはだいぶご苦労されているのですね」
 「でも、僕と一緒の時より幸せそうでしたよ───。すみませんが来年の四月からうちに来ますので、面倒を見てやって下さい。ああ、それから彼女は僕が実の父親という事を知らないそうですから、それだけは言わないように」
 「はい。わかりました」
 西園はそう言うと院長室を出て行った。

 その頃コスモス園の施設長室では、施設長の高野と副施設長の鈴木、そして施設理事の三役で統合後の役員体制の検討が行われていた。前施設理事は今年の春、既に定年で退職していたから現在はそれまで事務長を務めていた須崎がそれにあたっていた。統合時には高野も定年まで数ヶ月を残すのみとなり、鈴木も定年までは一年足らずの年齢だった。
 山口医院からの役員体制案は、施設代表役を浩幸が務め、施設長を現在山口医院で働く若手医師伝田強志を登用する考えを伝え、高野を施設顧問とし、以下、副施設長を現状のまま鈴木を置き、施設理事には山口医院理事兼任の西園があたる案を提出した。そして、現施設理事の須崎は、事務長への降格を示していた。
 「山口医院側の要請はこのとおりです」
 高野は手にしたコピー厳禁の○秘プリントを三者に渡すとそう言った。それを目にした須崎は俄にワナワナと震えだした。
 「あくまでこれは山口医院側の原案です。統合までにはまだ時間があります。それまでに最も良い体制を考えようではありませんか」
 高野は須崎の表情を気にしながら言った。
 「これではまるで山口医院の言いなりではありませんか!」
 須崎は思わず叫んだ。
 「だから決定ではないと言っているじゃないか。異議がある場合は申しなさい!」
 高野の厳しい言葉に須崎は「別に……」と言った。
 あれから四年───、俄に暗雲を立ちこめながら、心の痴呆の人々は自らの煩悩のままに躍起になって動きだそうとしていた。
 
> 第2章 > (二)太一の恋
(二)太一の恋
 百恵が年休の七瀬の替わりに入所相談に対応したのは、遅番出勤してすぐの三時頃の事だった。訪れたのは痴呆症の妻を抱えた七十代の小林と名乗る男性で、すっかり疲れ切った表情を隠せない様子で、
 「私の方が入所したいくらいです……」
 と言った。事情を聞くとこうだった。
 現在妻は六十八歳。三年前にアルツハイマーと診断され、以来ずっと夫の彼が介護を続けてきたと言う。子供は娘が一人、現在はご主人の実家のある神奈川に住んでいて介護ができる者は彼ひとり。発病以来、病院やデイケアを転々としてきたが、ようやく受け入れてくれるデイケアを見つけたものの、妻にはまだ体力があり、デイケアのある平日も、朝と夜は戦争の様相を呈すると言う。朝は朝で肉体的な格闘をしながらおむつ交換や着替えに一時間から二時間の時間を要し、夜は夜で家の中をぐるぐる歩き回って訳の分からない言葉で泣き叫んで毎晩のように寝かせてもくれない。トイレに入った後は自分の排便を手でつかみ、その手をズボンやシャツで拭いたり、あるいは顔や髪の毛を触ったりで、家中のそこかしこに便が付着していると言う。手を洗ったりお風呂に入る事は非常に嫌がるので、衛生的にも悪く、清潔を保つ事は至難のわざ。仕方なく可哀想だと思いながらも強制的に手を洗わせ、気づけばつい怒鳴っていると言う。また、デイケアが休みの日なども、家の中にいる時は落ち着いて座っていることもできず、また彼のそばを離れずに、どこへ行くにも怖いくらいにべったりと付きまとう。たまに外に出てみれば、活動的な妻は誰の後にでも付いて行ってしまい、振り向くとその姿がないのはよくある事だった。幸い彼は年金暮らしで仕事はしていないが、介護保険認定五度を受けているものの、毎月かかる費用は思いの外で、経済的にも切迫していると語った。
 「病気だから仕方がないと自分に言い聞かせてはみるのですが、心身ともに疲れ切って、どうしても怒鳴ったり、押し倒したり、椅子に無理やり座らせたりしてしまうんです。気がつけば妻に対してひどい言葉を発している私がいます。毎日が本当に辛い戦いなんです。そして、この病気を分かってくれる人は、私の周りにいませんのです……」
 男は涙ながらにそう言った。
 「いくつもの病院で、いくつもの薬なども試してみましたが効き目はありません。しかし私は妻を愛していましたから、告知を受けた時は死ぬまで私が面倒を見ようと決意したんです……。しかし、しかし、愛なんて言葉で片付けられない、もう限界なんです……」
 もらい泣きの百恵は、入所希望者状況記録用紙に涙をボタボタこぼしながら、必死にその話を記入した。
 「分かりました。なんとか上に頼んで、受け入れられるよう尽力します」
 「ほ、本当ですか!」
 小林と名乗った男は百恵の手を握りしめて「ありがとうございます」と何度も何度も繰り返すのだった。
 果たしてその話を介護主任の丸腰に伝えれば、
 「ちょっと厳しいわね……」
 と一言であしらわれた。「どうしてですか?」と聞けば、
 「施設というのは集団生活をする所なの。あなたも知ってるでしょ?この記録を見る限り、とても集団生活ができるようには思えないわ」
 「でも、小林さんはとても大変な思いをして奥さんの介護をしているんです!」
 「それは分かるわよ。この記録を見ればあなたの感情移入まる出しだし。でもデイケアの受け入れが見つかっただけで幸いと思わなきゃ。それか、もう一つ手があるわ……」
 百恵は目を輝かせた。
 「離婚する事ね。痴呆は“離婚するために必要な理由”になるという判決が、何年か前の長野地裁で出されたわ。離婚すれば行政もその奥さんを放ってはおけないでしょう」
 「もういいです!」
 百恵は施設長に直談判する決意をして施設長室の扉をノックした。
 「どうぞ」
 扉を開ければ施設長はおらず、替わりに施設理事の須崎がその業務を代行していた。
 「高野施設長にお話があって来ました!」
 「施設長は出張で山形へ行きましたから、替わりに私が聞きますよ」
 百恵は先程取った状態記録用紙を須崎に渡した。
 「なんだい、これは?文字が沁みだらけじゃないか」
 「この方の入所の許可を下さい!」
 須崎は内容を読みながら鼻で笑いだした。
 「君は介護状態の調書もろくに取れんのか。それに入所相談係は七瀬君のはずだが、ここに話を持ってくる前にきちんと筋を通しなさい。仕事の進め方も知らないのかね」
 「でも、この方は……」
 「ああ、もう忙しいから下がりたまえ!」
 憤然としたが、百恵は何も言えずに突き返された。

 「なぜだろう……?介護施設って、高齢者の介護をするのが目的なんじゃないの?」
 仕事から帰ってひとり部屋のベッドで横になり、腑に落ちない思いに憤りを重ねながら、入所相談員でもある七瀬が以前言っていた言葉を思い出していた。そんなところへ、部屋の戸がノックされ弟の太一が姿を現した。
 「太一、どうしたの?こんな時間に……」
 時計を見れば既に夜中の十二時を回っていた。百恵は身体を起こすと、机の椅子を出して太一を座らせ、自分はそのままベッドに腰掛けた。
 太一とは年が十歳も離れ、赤ちゃんの時から世話を焼いてきたたった一人の弟である。年が離れているため姉弟喧嘩なども一度もしたことがない。勉強もよく見てやった。何か相談があるといえば、いつも他の事をさしおいてまでその相談に親身になって乗ってきた。だから太一にとって百恵は姉というより良き先輩というか、どちらかというと母親に近い存在であった。現在は地元高校の三年生である。
 「ちょっと相談があって……」
 「なあに?進路相談?」
 「それもそうなんだけど……」
 太一は少し言いにくそうに俯いた。
 「姉ちゃん、人を好きになったことあるか?」
 太一は恥ずかしそうに下を向いたまま言った。
 「そりゃあるわよ。あなたより十年も多く生きているんだから。なんだ、恋愛の相談?」
 太一はもぞもぞしながら話し出した。
 「学校の帰り、いつも看護学校に通う一人の女の子とすれ違うんだ。なんだかとっても寂しげで、いつも悲しそうな表情をして歩いているんだ。最初は気にもしなかったんだけど、ある時すれ違うときに目が合った瞬間から、なんか好きになっちゃったみたい───」
 「青春してるじゃない!美人なの?」
 百恵は面白がって囃し立てた。
 「すっげえ美人!でも姉ちゃんの方がちょっと美人かな?そう言わないと怒るでしょ」
 太一は冗談を交えながら続けた。
 「それでこの間、もうたまらなくなって彼女の後をつけていったんだ……」
 「あなた、それストーカーじゃない!犯罪よ!」
 「えっ?そうなの?」
 「それでそれで、どうしたの?」
 太一は切ない胸の内を告げた。
 後を付けて行くと、やがて彼女は長野電鉄に乗って“信濃吉田”駅で降りた。そしてたどりついた所は『林弁護士事務所』という看板をかかげる家だった。太一は気づかれないようにそっと表札をのぞき込むと、彼女の名が『林美幸』である事を知った。悦び勇んで帰ったが、数日後いつものように彼女とすれ違う時、目の下に絆創膏が貼ってある事に気づいた。そればかりではない、半袖のシャツからのぞかした細い美しい腕には大きな痣ができていたという。太一は急に心配になったが、声をかける事もできなかった。その後も彼女が気掛かりで、いつも彼女の帰る時間に合わせてその道を歩いたが、古い傷が治ったかと思えば別のところに新しい傷を作っているというように、彼女の身体には絶えずどこかしらに生傷があると言うのだ。
 「学校でいじめにあっているんじゃない?それとも家庭内虐待?」
 「それは分からないけど……。俺、どうしたらいいかな?もう、黙って見ているなんて耐えられないんだ……。姉ちゃんならどうする?」
 「そうね、とにかく本人から事情を聞いてみないと何とも云えないわ。もしかしたら柔道か何かをやっていて、猛練習をしているなんてこともあるじゃない。お姉ちゃんならね……」
 百恵は後先も顧みず、浩幸に告白してきた自分の言動を思い返していた。
 「多分、勇気を出して“どうしたの?”って聞いちゃうな……」
 「“どうしたの”か……。それいいね。俺、最初に切り出す言葉がどうしても思いつかなかったんだ。姉ちゃん、ありがとう!それでいくよ!」
 太一は急に明るくなって、「じゃ、おやすみ」と立ち上がった。時計は既に一時を回っていた。
 「ねえ、太一……」
 百恵の言葉に太一は振り返った。
 「どうしてその子の事、そんなに好きになったの?」
 「そんなの分からないよ。でも、寂しげな彼女の姿を見ているうちに、俺が彼女に何かをしてあげようって……。支えてあげたいというか、守ってあげたいというか、ずっとそばにいたいというか……。俺はそんなに力のある人間じゃないと思うけど、彼女のためにこの身の全てを捧げてもいいって思うようになったんだ……。もう、彼女じゃなきゃダメなんだ」
 「そう……」
 百恵は太一の中に、自分と同じ血が流れている事を確認した。まさに浩幸に対する自分の思いと寸分も違わなかったからだ。
 「馬場家の血ね……。頑張ってね……」
 太一はガッツポーズを作って自分の部屋に帰って行った。
 
> 第2章 > (三)かわらぬ思いとプロポーズ
(三)かわらぬ思いとプロポーズ
 “オレオレ詐欺”の騒ぎが、様々な機関やマスコミなどの働きかけによってようやく鎮まってきたかと思えば、今度は“悪徳リフォーム”の話題が盛んに取り沙汰されていた。いずれも高齢者の弱みにつけ込んだ巧みな話術を利用したお金を騙し取る事件である。日本経済全体の景気は上向き傾向にあったとはいえ、庶民の実感としてはけっして生活が楽になったと感じるレベルではない。雇用状態の悪さから職にも就けず、また債務返済で生活に困ったあげくに犯罪に手を染めた人のなんと多いことか。若者世代の動機不明瞭な犯罪の増加と並行して、社会問題はますます増加しているように見えた。
 特に百恵には、社会的弱者と呼ばれる高齢者を食い物にし、お金を騙し取る輩には腹が立った。コスモス園においても通所サービスを受ける一人暮らしの老人が、すんでのところで“振り込め詐欺”にひっかかりそうになるケースがあった。その時は介護スタッフの迅速な行動でなんとか免れることができたが、最近では介護スタッフといえど介護知識だけでなく、そのような犯罪に巻き込まれないための知識も必要になってきているのだ。朝の朝礼当番だった百恵は、一言その事に触れて話を締めた。
 俊介から電話があったのは、昼食を済ませて七瀬とコーヒーを飲んでいる時だった。
 「今晩、会えない?」
 いつもの誘い文句の中に、少し緊張した様子が感じ取れた。百恵は少し気になったが、「分かったわ」と答えた。苦しいときも、いつも近くに俊介がいた。百恵の心に別の男がいるのを承知で、彼はずっと彼女の心が自分に向くことを待っているのだ。そんな健気な俊介に対して、たまに無性に心が痛む時がある。浩幸の心が自分に向かない今となっては、俊介の思いを拒む事がいけない事のようにも思えてくるのだ。携帯電話を切りながら、
 「だあれ……?新津さん?」
 七瀬の言葉に頷いた百恵は、小さなため息をついた。
 「もういい加減山口先生の事なんか諦めて、モモも新津さんと結婚しちゃえば?」
 “モモも”の“も”の字が気になった百恵は七瀬の顔を見つめた。
 「実は私、お見合いしたの。ちょっとダサイけど優しい人……。もたもたしてたら私たち三十でしょ。そろそろ年貢の納め時かなって思ってる……」
 「結婚するの?」
 百恵は驚いたように言った。七瀬は小さく頷いて、
 「入所のおじいちゃんやおばあちゃんの話聞いてると、昔はほとんどがお見合い結婚でしょ。それでなんだかんだとやってきてるじゃない。もしかしたら第三者の引き合わせで一緒になった方が、客観的に二人を見ているからうまくいくのかも知れないわ。主観はどうしても感情が先に立っちゃうでしょ」
 「私の思いも感情なのかな?」
 「恋愛なんてみんな感情よ。何かの縁に紛動されて変わるものよ」
 「教えて光ッチ、私、山口先生の事、あきらめられる?」
 七瀬は微笑みながら頷いた。

 仕事を終えて家に帰ると、百恵はちょっとオシャレをして俊介の連絡を待った。腕には以前彼からもらったホワイトパールのブレスレッドをつけた。大きなためらいがあったが、もうこれ以上自分のわがままで俊介を待たせるわけにはいかないという理性が働いたのだ。もし浩幸の気持ちが少しでも自分に向いていてくれるなら、それは“わがまま”にはならなかったが、そうでない上に俊介が嫌いでない以上、何年も自分の事を待ってくれている彼に対して、わがままの次元に達している事を感じていたのだ。七瀬の結婚の話も助けて、百恵はついに浩幸を諦める努力をしてみようと決心していた。
 俊介と入ったのは長野市街にある中華料理の店だった。「中華なんて珍しいわね」と百恵が言うと、「今日は給料日だったんだ。好きなものを何でも食べて。俺のおごりだからさ」と彼は笑った。
 酢豚に海老チリソースにフカヒレスープ、北京ダックに麻婆豆腐、あとは野菜炒めとチャーハンなどを俊介は適当に選んで注文すると、最初に運ばれてきた飲茶を飲んだ。
 「そんなに食べられないわ。どうするのよ」
 「いいの。時間をかけてゆっくり食べれば。多分、時間をかけないと俺、話せないから」
 百恵は首を傾げた。それにしても百恵の腕のブレスレッドを見つけてからの俊介は、始終嬉しそうだった。会社での出来事や大学時代の仲間の近況を陽気に話す。一通りの料理を一口ずつ口にすると、百恵はすぐにお腹がいっぱいになってしまった。
 「もう食べられない。新津君、責任持って食べてよ!」
 「わかってるよ」と意気込んで食べる俊介も、さずがに全部は食べきれず、野菜炒めとチャーハンを残すとお腹をおさえて大きなため息をはいた。その様子を見て百恵は笑い出した。
 「なんだか久しぶりに見るな、百恵のその笑顔……」
 俊介は精算を済ませると、「食べ過ぎた。少し歩こう」と言って、須坂に戻るとがりょう公園に車を止めた。
 二人は暗がりの池のほとりをゆっくり歩き、池を渡すがりょう橋の中央で立ち止まった。
 「この池は人工の池なんだよ、知っていた?」
 俊介が暗い水面を見ながら言った。百恵は「えっ?」と呟いた。浩幸にがりょう山の伝説を聞いてから、山を見れば「この山は竜になったりょう姫の体なんだ……」、百々川を見れば「竜の吐いた息と血のせいで石がみんな赤いんだ……」と思い込むようになっていた自分がいたのである。
 「この池は竜が暴れた時にできたんじゃないの?」
 「え?何のこと……?」
 俊介は不思議そうに百恵の顔を見つめた。
 「知らないの?がりょう山の伝説……」
 百恵は大切にしまっておいた物語を俊介に伝えようとしたが、「なんでもない……」と池を見つめた。すると、
 「いつまで待てばいいかな……?」
 と、俊介も池を見つめてぽつんと呟いた。百恵は悲愴な彼の顔を見つめた。
 「まだあの先生の事、忘れられない?」
 俊介は内ポケットから小さな箱を取り出して百恵に渡した。
 「実は今日、俺、百恵にプロポーズしようと思って誘ったんだ。開けてみて……」
 箱を開けばそこに小さな指輪が光っていた。
 「新津君……これ……?」
 「婚約指輪のつもりだよ。ううん、今しろなんて言わない。百恵の気持ちが整理できてからでいいんだ。だけどその指輪は、それまで百恵に預かっていて欲しいんだ……」
 百恵は俊介に対する申し訳なさで涙がにじみ出た。そして静かに左手を俊介の前に差し出した。
 「新津君、ごめんね……。私、山口先生の事諦めようと思ってる。でもね、先生の顔を見てしまうと胸が苦しくなってしまうの……。でも新津君、私の心の事はもういいから、この指輪を強引にはめて……。そうすれば私、諦めがつくかも知れない……」
 「百恵……」
 俊介は困った顔をしたが、やがて指輪を取ると、百恵の白い左手の薬指にゆっくり差し込んでから、その細い身体を強く抱きしめた。

  この世は痴呆の都───
  やがてすべてを忘れてく
  盛んに人生を生きたって
  楽しい事も 嬉しい事も
  苦しみも悲しみも
  この住み慣れた街も 家さえも
  年老いればその全てを忘れてしまうのだろうか
  親しく遊んだ友達も姉弟も
  お世話になった人もみな そして───
  愛した人さえも
  もしかしたら私が生きていたこの事実さえ
  やがて人の心から消えていくのかしら
  そんな人たちが住んでる ここは都会

 翌日は水曜日で、百恵はその指輪をしたまま仕事に行った。仕事の浩幸はいつものように、淡々と診察者の身体を診察しながら、百恵にはまるで無頓着な様子でカルテに状況を書き込むのだった。百恵は左手の指輪を右手で覆い隠すようにして、じっと浩幸の顔を見つめていた。
 この日は、もう一つ嫌な仕事が残されていた。それは先日入所相談に来た小林と名乗った男に入所不許可の連絡をしなければならない事だった。その事については七瀬ともだいぶ議論もしたが、結局自分達の力ではどうにもならないという結論を導き出すしかなかった。結局電話をしずらくて、受話器を取ったのは早番で帰ろうとする間際の事だった。七瀬は百恵の肩を叩くと、そのまま帰ってしまった。
 「もしもし、小林様のお宅でしょうか?私、コスモス園の馬場ですが、先日の入所相談の件でお電話したのですが……、たいへんに申し訳ありません。私の力不足で許可が下りませんでした……。本当にすみません!」
 男は電話口の向こうで、「そうですか……」と小さく呟いて電話を切った。百恵はやるせない気持ちを押し込めて、受話器を置いた。
 晴れない気持ちのままで屋上へ上がった。どこまでも青い秋の空は、ほんの少しだけ彼女の心を慰めた。椋鳥の群にはっと我に返ると、近くに浩幸がコーヒーを片手に煙草を吸っていた。今日は水曜日である事をすっかり忘れていたのだ。この時間帯は必ず彼が煙草を吸いに来るのを知っていたから、極力屋上には近づきまいとしていたのだが。百恵は慌てて、「ごめんなさい。おやすみなさい───」と立ち去ろうとした。
 「そんな慌てて逃げなくてもいいでしょ?」
 百恵は立ち止まった。浩幸は煙草の煙を吐きながら「この季節の空は気持ちがいいですね」と言った。
 「先生、あの、私……、結婚しようかって思ってます」
 百恵は浩幸に対する恋愛感情を自ら断ち切るために、そう言った。
 「それはおめでとう。診察の時もそうでしたが、貴方の左の薬指に指輪が光っていたので、もしかしたらって思ってました」
 浩幸は煙草の火を消すと、もう一本取り出して再び火をつけた。
 「相手が誰か気になりませんか?」
 「どうして?貴方の相手は、僕以外であれば誰でもいいと思ってましたから」
 「そんなに私の事、嫌い……?」
 「嫌い?どうして?そんな事を言った覚えは一度もありませんよ。ただ、貴方のような純粋な心の女性を、僕のような薄汚れた男の手によって汚してはいけないと思っただけですよ。でもよかった……。どうか幸せになって下さい」
 百恵は「さようなら」と言い残して浩幸の前を立ち去った。
 浩幸は青い空に向かって、白い煙草の煙をゆっくり吐き出した。
 
> 第2章 > (四)虐待
(四)虐待
 「ど、ど、ど、どうしたの?」
 太一は吃りながらやっとの思いで口にした。高校の帰り、何やら雪でも降りそうなどんよりとした雲が空を覆っていた。その声に立ち止まった乙女は、驚いた表情を隠しきれずに「えっ?」と立ち止まった。
 「そ、その顔の傷、なんだか見かけるたびに増えていない?」
 乙女は頬の下の傷を手で隠すと、何も言わずに太一の脇を通り過ぎた。
 「まって!」とその腕をつかむと、
 「放して!大声あげるよ!」
 と乙女は言った。慌てて太一は手を放した。乙女はそのまま太一を睨み付けると、「ふん!」とそっぽを向いて走り去った。残された太一は寒い風に吹かれて立ち尽くした。
 翌日───。再び太一は同じ場所で乙女を待った。今度はここまで来る途中の自動販売機でオレンジジュースを買って、それを渡そうと差し出したままの姿勢で、目の前を通りすぎる彼女を見送った。
 三日目───。今度は近くのコンビニでプリンを買って同じ事をした。しかし、乙女はまるで太一を無視するように、何も言わずに通り過ぎるのだった。
 品を変え、何日同じ事を繰り返しただろう───。ついに渡そうとする品の種類に尽きて、その日は絆創膏を買って待った。そしてその日、乙女は、太一の前に来るとピタリと立ち止まったのだった。
 「バッカじゃないの!」
 その言葉に応えるように、この年の初雪が降り出していた。雪は乙女の唇の横の剥がれそうな絆創膏の上に乗って静かに消えた。太一は買った絆創膏の封を切ると、中から新しいのを一つ取り出し、彼女の唇のそれと貼り替えた。
 「へんなヤツだな!」
 乙女はそう言うと、はじめて笑った。
 「俺、馬場太一。よろしく」
 太一が右手を出すと、乙女も右手を出して握手を交わした。
 「私は……」
 「君の名前、知ってるよ。林美幸さんだろ?須坂の看護学校に通う三年生……。ごめんなさい、君の事が気になって、以前、ストーカーやっちゃった……」
 「六カ月以下の懲役または五十万円以下の罰金ね」
 美幸はそう言うとケラケラと笑い出した。
 「でも、あんたの観察、ちょっと違ってる。実は看護学校一年留年の二年生。本来なら准看護士として既に働いてなきゃいけない年齢。私、バカだから」
 「そんなことない!とってもきれいだ……」
 「はあ?」
 美幸は再び声をあげて笑った。紛れもない、その美しい乙女は、山口脳神経外科医院院長山口浩幸と、初婚の妻美津子との間に生まれた娘に違いなかった。
 それをきっかけに二人は付き合いだした。毎日学校が終わると、目的もなく市内を歩き回ったり、たまに長野電鉄に乗って長野市街に出かけてはデートを楽しむようになっていった。最初は堅く口を閉ざしていた身体の傷の事も、美幸が太一に心を許すに従って、徐々に真相を話すにいたったのである。
 「私の父さん弁護士やってんだけど、ろくに仕事もしないで毎日お酒を飲んでる。あげくにその鬱憤を私にぶつけて言うの。『早く働け!』って……。中学校に入る前からそんな状況だったから、私は勉強もする気になれないで、こんなにぐれちゃった……」
 「でも看護士さんになろうなんて立派だと思う。俺なんかこの年になって、いまだに将来何になろうかなんて考えていない……」
 「お母さんが昔薬剤師やってたの。なんか分からないけど、人の生命にかかわる仕事っていいなあなんて柄にもなく思った時があって、それで看護士になろうって思ったの。でも、父さんの暴力がひどい時があって、私、死のうかって思った。それで一年留年になっちゃった。でも、来年の四月からはもう職場が決まっているのよ。蛍ケ丘に山口脳神経外科医院ていうお医者さんがあるんだけど、そこ。お母さんの昔の知り合いのお医者さんがいて、その人にお願いしたんだって」
 「ふうん……。よかったじゃない」
 その年のクリスマス───。その日太一は、暇そうな姉の百恵から食事に誘われたが、「ちょっと用事があるから」と断った。百恵は不審そうな顔をしたが、太一はあまりに姉が可哀想だったので、「新津さんとは会わないの?」と聞いてあげた。「仕事で忙しいらしい」という返答だったが、クリスマスの夜に一人で過ごさなければならない姉が、なんだか無性に惨めに見えた。
 その頃美幸は、太一とのデートに備えて、着ていく洋服に迷っていた。その仕草を先程から横目でのぞきながら父の武は酒をあおっていた。
 「美幸!さっきからそわそわしやがって!一体どこに行こうというんだ!」
 美幸は父の言葉を無視して、そのまま仕度に専念した。
 「お姉ちゃん、デートらしいわよ」
 妹の香澄が武に告げ口した。すると武は俄に表情を変えて美幸の前に立ちはだかると、
 「てめえみてえなガキにうつつを抜かす物好きな男もいたもんだ!」
 と次の瞬間、美幸の頬を殴りつけたのだった。美幸はそのまま壁にぶつかって倒れ込み、頬はみるみるふくれ上がって、目は赤く充血し、そして何も言わずに武の顔を睨み付けていた。
 「なんだ?その目は!父親に逆らうのか?」
 武は倒れた美幸を何度も蹴った。
 「そんなデートなんかしてる暇があったら勉強しろ!母さんのおかげで山口医院への就職も決まっているんだ!早く働いて家に金を入れるのがお前のせめてもの親に対する恩返しだとは思わねえのか!」
 「ちょっとやめなよ、あんた」
 騒ぎを聞きつけて美津子が姿を現した。
 「いくら山口医院の院長に恨みがあるからといって、この子を殴る事はないじゃない。この子は私たちの大事な長女よ」
 美津子は美幸を抱きしめた。そして言った。
 「いい?美幸。母さん、昔、あの院長先生にひどい事されたの。母さんがあなたをあの医院に押し込んだのは、その復讐をするため。それを忘れないで。父さんだってあの先生のせいで裁判に負けてからこんなふうになったのはあなたも知ってるでしょ?別にあなたが憎いわけじゃないのよ。ただその不満を誰にもぶつける事ができずに、あなたに当たってしまっているだけ。許してあげて、本当は弱い男なの」
 「母さん……」
 美幸は美津子に抱きついた。「まあ、こんなに顔が腫れちゃって……。美人が台無し」と、美津子は冷たい手で美幸の頬を触った。
 部屋で鏡を見ながら美幸は泣いた。そして携帯電話を取ると太一にかけた。
 「太一……、ごめん……、今日、私、行けなくなった……」
 「どうしたの?泣いているの?何があった?……」
 太一の言葉を最後まで聞かないうちに、美幸は電話を切った。
 美幸はその後、年明けまで看護学校を休んだのだった。
 その日は雪が降っていた。近年稀に見る大雪で、辺りの景色は白一色に染まっていた。毎日のように美幸の帰り道に立つ太一の手は、凍てつく空気で氷りそうだった。電話をかけても美幸は出ない。家の前まで行ってはみるも、彼に呼び鈴を押すほどの勇気はなかった。結局いつもの場所で待つしか手段を知らず、心まで凍てつかせながら美幸が通るのを待つのだった。そして三学期が始まって数日後、ようやく遠くから歩いてくる赤いコートを着た彼女を見たのである。
 「美幸!」
 思わず太一は駆け寄った。美幸は太一の姿を見つけると、「ごめん」と言って太一の胸に顔をうずめた。日が暮れて辺りはすっかり暗かった。
 「いったいどうしたんだよ!」
 美幸ははぐれた小鳥が母鳥を見つけた時のように、太一の胸でいつまでも涙を流していた。
 「分かった。もう何も言わなくていいよ……」
 太一は美幸を抱きしめた。美幸の身体は冷え切った太一の身体よりも冷たかった。
 「そうだ、今度の休み、スキーにでも行かない?菅平。昔、家族とよく行ったんだ」
 「スキー……?」
 美幸は涙を拭きながら顔をあげた。
 「でも私、道具、何も持ってないよ……」
 「大丈夫。俺の姉貴のがあるから、それを貸してあげるよ」
 美幸は幼子が飴をもらった時のように無邪気に微笑んだ。そして二人は、降り止まぬ雪の中、須坂駅までの道のりをゆっくり歩いて行った。
 
> 第2章 > (五)父娘と姉弟
(五)父娘と姉弟
 介護の仕事に正月休みはない。世間は「年末だ」「新年だ」と騒いでいるのに、百恵の日常は何ひとつ変わらなかった。ただ正月だけは施設でもお節料理が振る舞われ、玄関に飾られた門松などで、その雰囲気を感じるだけである。
 スケジュールを見れば、一月中旬に“介護スタッフ研修会”がもうけられており、コスモス園の医療法人化に向けて、介護スタッフの看護への関わりなどを学習する事が義務付けられた。本年秋の統合へ向け、山口医院が主催となって隔月で一回行われる研修会は、同医院の医師や外部の専門家の講師を招き、一泊二日で菅平のホテルで行われる事になっていた。コスモス園の介護スタッフ達は二班に分かれ、そのカリキュラムを全てこなさなければならないのである。
 「ねえねえ、モモ、今週の土日の研修、空いた時間にスキーでもやらない?」
 七瀬はまるで修学旅行気分であった。もっとも、こんな仕事をしていれば職場で慰安旅行などの計画もなく、たまにとれた連休なども、疲れ切ってレジャーなどに使う事などめったになかった彼女にしてみれば、ごく自然な発想だった。
 「でも、そんな時間、あるかなあ?」
 百恵が言った。
 「ナイターよ。研修は昼間だけじゃない。翌日まで何もないでしょ。これはきっと自由に遊びなさいって事よ。山口先生も粋な計画をたてたものね」
 七瀬の楽しそうな仕事ぶりに、百恵は呆れたものだ。

 第一回研修会の講師には浩幸があたる予定になっていた。統合計画の発案者として、その理念と施設の役割を明確に伝える必要があったからだ。研修日前日、大樹の寝顔を見ながらその準備をはじめた浩幸は、必要書類を確認すると、冬の菅平に備え、コートやらセーターを出そうとクローゼットの中をごそごそやりだした。普段は自宅に隣接する医院との間を行き来する他は、出張等で東京などに行く事はあっても、冬の山に行く事など皆無に等しかったから、それを見つけるのは非常に手間だった。こんな時に妻などいると非常に助かるのにと思いながら、ようやく何年も開いていないような奥の引き出しの中から、父親の正夫が往診の時に着ていたと思われる古びたジャンバーを見つけだした。ついでにその際に持ち歩いていた愛用の黒い小さな鞄も出てきて、浩幸はほくそ笑んだ。
 結局父は、すぐれた医師だったかも知れないが、山口医院を倒産にまで追い込んだ男ではなかったか。それを自分は立て直し、いまやコスモス園との統合を機に、当時にして想像を絶する病院と名の付く施設にまで発展させたではないか。鞄のファスナーを開ければ、分厚いメモ帳が出てきて、父の往診のスケジュールがびっしりと書き込まれていた。
 「この労力で経営の采を振れば、あれほどの貧乏をせずにすんだものを……」
 浩幸はそのメモ帳をゴミ箱に捨てた。しかしその小さな黒い鞄をよく見れば、洒落たデザインの値打ち物のようであった。捨てるのが惜しくなった彼は、それをハンカチやティッシュなどの小物入れに活用しようと、明日の荷物の仲間に入れた。
 「愚かな父の形見だ……」
 自分の中にある懐古の情を一笑に付して、探し物を続けるのであった───。

 研修の服装を、コスモス園に面接に行った時のビジネススーツに決めた百恵は、七瀬との約束を思い出し、一応スキーウェアも持って行こうと箪笥などをあちこち探しはじめたが、母に聞いても父に聞いてもどうしても見つからなかった。
 「ねえ太一、私のスキーウェア知らない?」
 ついに諦めて、聞いても無駄だと思いながら太一に聞けば、
 「ああ、借りたよ」
 「借りたって……、女性用のウェアなんか何に使うのよ?」
 「明日スキーに行くんだけど、友達が持ってないっていうから貸したんだ」
 「ええっ?一言お姉ちゃんに言ってよ!明日、持って行くのに……」
 「ごめん。姉ちゃん毎日忙しがってるから、スキーウェアなんか使わないと思ったんだ」
 よくよく話を聞けば、以前相談を受けた女の子と菅平にスキーに行くと言う。
 「それじゃ、明日お姉ちゃんも菅平にいるから、その子を紹介してくれたら許してあげる」
 と示談したのだった。

 研修場所へは各自で向かう事になっていた。車で菅平までだと峠道を登り、峰の原の隣り、ある者は乗り合わせで、ある者は家の者に乗せてもらい、目的のホテルまで三十分もかからない。百恵がホテルに到着すると、すでに七瀬がいて、車の上のスキーを誇らしげに、
 「あれ?モモ、スキーは?」
 と言った。
 「弟がデートで、私のスキー道具一式とられちゃった……」
 「なーんだ、残念!他のみんなも一緒に滑りに行くことになってるのに……!」
 「私はいいから、楽しんできて。弟と会う約束もあるから」
 「そうお?……」
 二人は少しがっかりした様子で研修会場へ向かった。
 研修は午前と昼休みを挟んで午後、講義と実習を含めてみっちり組まれていた。百恵は、講義に立つ浩幸の姿を見ながら、その構想と思想の深さに大きな感銘を覚えながら、知れば知るほど自分とは別次元の世界の人なんだと思わずにはいられなかった。

 私ってバカみたい!
 最初からそんなこと、知ろうとすれば知ることができたのに───。
 真夏に冬みかんが食べたくなって、そこら中のお店を探し回ったけれど見つからなくて、結局諦めなければならないことを知ってるくせに……。
 ショーウィンドウのドレスに魅せられて、お店の人に頼んで試着してはみるけれど、財布の中身と値段がつり合わなくて、結局諦めなければならない事を知ってるくせに……。
 半年の休暇を取って、パリのルーブル美術館でひたすら絵の鑑賞をしたいと思って休暇届けを出したけど、結局上司に怒られて、諦めなければならない事を知ってるくせに……。
 真夜中に突然おやきが食べたくなって、近くのコンビニを走り回って探してはみるけれど、そんな郷土料理を扱っている所はなくて、結局あきらめて翌日になってみれば、昨晩おやきが食べたくなったことすら忘れていたりして……。
 駄目なものは諦めて、諦めたものは忘れ去る。そんなのとても簡単なこと。だってその繰り返しの中で、人は人生を送ってる───。

 「そしてこの痰の吸引ですが、厚生労働省は二〇〇五年三月からあなたがた介護スタッフにもできるよう通知を出したのです。その条件を馬場さん、言ってみて下さい」
 講義の途中、浩幸は突然百恵を指名した。いきなりの指名に驚いた百恵は、周りを四顧して「すみません。聞いていませんでした───」と俯いた。
 「講義の最中に何を考えているのですか」
 百恵は再度「すみません」と言った。横で七瀬が「山口先生の事です」とちゃかした。百恵が顔を真っ赤にして「もう!」と七瀬を叩くと、会場内に笑いが起こった。
 「少し顔を洗って、頭を冷やしてきた方がいい」
 再び笑いが広がった。浩幸は気分をそこねた様子で講義を続けた。
 初日は研修が終了した時点でホテルへのチェックインとなり、その後は翌日の研修開始までは自由時間だった。同室の七瀬は喜び勇んでさっそくスキーに繰り出してしまったが、残された百恵は太一に電話して、ホテルのロビーで二人が来るのを待つことにした。ロビーには滑り疲れたアベックや若者達が多くいて、ビジネススーツ姿で浮いた百恵は、コーヒーなど頼んで窓から見えるナイターの銀世界に心奪われていた。
 その時───、
 「馬場さんは滑りに行かないの?」
 その声に振り向けば、すっかりラフな洋服に着替えた浩幸が立っていた。
 「やはり一日中しゃべり通しは疲れます。僕もコーヒーを飲んだら一旦医院に戻ります。少しご一緒させて下さい」
 百恵は突然の客に驚いて、背筋を伸ばして「どうぞ」と向かいの席を手で案内した。
 「お忙しいんですね。大樹君の面倒もありますものね……」
 「大樹は理事に任せてありますので心配はないのですが、学会へ提出する書類をまとめなければなりません」
 浩幸のところにコーヒーが運ばれた。彼はそれを一口飲むと、
 「ああ、そういえば結婚式はいつですか?電報くらい打たせてもらいますよ」
 と言った。百恵は左手の薬指の指輪を隠すと、急に悲しくなって、俯きながら「まだ、日取りも何も決まっていないんです」と答えた。
 「そうですか。じゃ、決まったら教えて下さい」
 浩幸の透明な笑顔は、以前大樹に向けられていたものと同じだった。話題に窮して、百恵は浩幸の持っていた小さい黒い鞄を見つけて「ステキなバックですね」と言った。
 「これですか?これは無能な父の忘れ物です。気に入ったので僕が使う事にしたんです」
 浩幸は淡々と答えると、再びコーヒーを口にした。
 「姉ちゃん!来たよ!」
 ホテルのロビーに太一と美幸が姿を現した。気をきかせた浩幸は、「待ち合わせですか?じゃ、僕はこれで失礼……」と、立ち上がった瞬間、
 「美津子……」
 と呟いた声を百恵は確かに聞いた。
 太一はさっそく美幸に百恵を、百恵には美幸を紹介した。
 「これが俺の姉貴の百恵姉、で、こっちが林美幸さん」
 「よろしくお願いします!」
 美幸はペコンと頭を下げた。その仕草がとても可愛く、その美しい顔立ちと、彼女の振る舞いからにじみ出る人柄で、太一が好きになった理由がいっぺんに理解できた。百恵も、
 「よろしく、太一がいつもお世話になってます」
 と言うと、「そのスキーウェア、とっても似合っているわよ」と付け加えた。
 太一は百恵の向かいの男が気になって、「姉ちゃん、この人は?」と聞いた。気がつけば、浩幸らしからぬ硬直した表情でじっと美幸の顔を見つめたままだった。
 「コスモス園の施設医のお医者さん。ほら、前ちょっと話したでしょ、山口脳神経外科の院長先生。あなたはまだ生まれてなかったけど、おばあちゃんも山口先生のお父様にお世話になったのよ」
 百恵の言葉に、今度は美幸が態度を変えて、
 「ええっ!山口医院 !? 」
 と叫んだ。
 「わ、私、今年の四月からそちらでお世話になります、は、林美幸です。よろしくお願いします!」
 と、緊張した様子で頭を下げた。
 「へえ、驚いたなあ。姉ちゃんが美幸が働く医者の先生と知り合いだったなんて……。世間はせまいものだね」
 太一が言った。
 「立ち話も何だから、座って、座って。なに食べる?ケーキ?」
 百恵は二人を座らせようとすると、
 「バスの時間がもうじきなんだ。またゆっくり会わせるから」
 と、太一と美幸は、浩幸に頭を下げてそそくさと行ってしまった。百恵は二人を見送った後、「弟の太一です」と浩幸に伝えた。しかし浩幸は何も言わず、腰が砕けたようにソファーに座ったのだった。
 「どうなさったんですか?」
 百恵が心配して尋ねると、浩幸は急に笑い出し、
 「驚きました……」
 と呟いた。
 「えっ……?」
 「驚きましたよ、本当に……。美津子かと思いました……」
 「美津子って……?」
 「離婚した妻の名前です。実は今年の四月からうちに採用が決まっている看護士なんですが、僕と美津子との娘なんです。今、太一君が連れてきた美幸という子がその子なんですよ。顔を見て驚きました。僕が美津子と出会った頃の彼女と瓜二つじゃないですか……」
 「先生にはまだ子供さんがいらしたんですね……」
 「どうです?驚いたでしょう。僕の事を知れば知るほど、もっとおぞましい事実が発覚していくかも知れませんよ。貴方は僕以外の男を選んで正解だったんですよ」
 「平気です!ぜんぜん驚いたりなんかしてません!」
 「また、そんな事を言う……」
 浩幸は気を取り戻した様子でコーヒーを一口飲むと、「では、一旦戻ります」と立ち上がった。
 「車まで見送ります……」
 「必要ありません」
 「見送らせて下さい!もう先生のこと見送るなんて、ないかも知れませんから……」
 浩幸は何も言わずに歩き出し、その後を追いかけて百恵はついていった。ナイターで照らされた菅平のスキー場に、淡い小雪の粒が舞っていた。
 
> 第2章 > (六)ビーズの指輪
(六)ビーズの指輪
 それは美しい粉雪の舞いだった。
 辺り一面の白の世界に、水銀灯に照らし出された二人のゆっくり歩く姿があった。ホテルの玄関から駐車場までは、それほど長い距離ではないが、圧雪と降り積もる雪で非常に滑りやすくなっていたのである。
 ビジネススーツのままで出てきてしまった百恵は、首筋や袖口から入り込む寒気で、ひとつ武者震いをした。
 「ほら、だから見送りなどいいと言ったじゃないですか?風邪をひきますよ」
 浩幸は自分のマフラーをとると、百恵の首に捲いた。
 「すみません……」
 浩幸は微笑むと、
 「なぜだろう、貴方にはいつも僕の一番見せたくない素顔が見られてしまう……」
 と、ぽつんと呟いた。
 百恵はすっかり冷たくなった両手をビジネススーツのポケットにしまい込むと、右側のそこに何やら小さな硬い粒の塊の感触を覚えた。それがコスモス園への就職面接の前日、遠い回想の中で見つけたビーズの指輪であることはすぐに知れた。ポケットの中でそれを転がして遊びながら、五歳の時に求婚をした大学生の事を思い出していた。
 やがて愛車のニュービートルの所に来ると、浩幸はドアに寄りかかり、黒の鞄から煙草を一本取り出して口にくわえた。次いでライターを取り出そうと再び鞄をごそごそやりだしたが、「あれ?ライター……」と言って、やがてコートのポケットなどを探し始めた。
 百恵は浩幸の口から煙草を取り上げると、
 「あまり吸わない方がいいですよ……」
 と言って、足元の雪の中に埋めた。
 「君はいつも僕がドキリとすることをしますね。不思議な人だ……」
 「そうですか?」
 浩幸は再び鞄から煙草を取り出して口にくわえ、再び鞄の中のあるはずのライターを探し始めた。
 と……、
 「なんだろう……?」
 浩幸が鞄から取り出したのは、ビーズでできた小さなリングだった。
 「なんだ?これは……?」
 浩幸は首を傾げて、それをしまい込もうとした。
 「待って……!」
 百恵は自分の目を疑った。そしてビジネススーツから先ほどから触っていたビーズの指輪を取り出して、浩幸の指先のリングと重ね合わせた。それはまったく同じ形をした、一対のビーズのエンゲージリングに相違なかった。
 「どうして君がこれと同じものを持っているの?」
 百恵は言葉を失い、しばらく浩幸の顔をじっと見つめた。
 いくつの粉雪が舞い落ちたろう。何万、何億……、果てしない粉の宇宙の中に、二人の姿だけが浮かんでいた───。時の流れを数えれば、いったいどれほどの長さになるのだろうか?そして心の移り変わりの数を数えれば、一体いくつになるのだろうか……?地球上の砂の数を数えることができるだろうか?星の数を数えることができるだろうか?歴史の始まりを数えることができるだろうか?そしてその終わりを数えることができるだろうか?ただ、時間的に、空間的に、精神的に、無限に広がる世界の一点に厳然とある事実こそ、二人の真実だった。
 「あなただったのですね……」
 やがて百恵が言った。
 「どういうこと……?」
 「あなたがあの時の大学生だったのですね……」
 百恵の瞳に氷りつきそうな涙が宝石のように光っていた。
 「覚えていませんか?私は五歳で、あなたは大学生だった……。私のおばあちゃんの具合が急に悪くなって、赤ヒゲ先生に来ていただいたの。その時私は席をはずされて外に出たわ。そしたらそこにあなたがいた……」
 浩幸の脳裏に一閃のひらめきが走った。それは張り詰める靄を一瞬に吹き払う突風のようだった。靄の向こうに広がった世界は、総天然色の花畑のように、寸分の忘却もない現実の世界であった。
 「思い出した……。いや、覚えてる。僕はその日、母の危篤を知らされて、大学の授業を抛り出して帰省した。そしたら死にそうな母をそのままにして、父は往診で家にはいなかった。あわてて僕は父を探しに行ったんだ。しかし、ようやく父を見つけた時、僕は母の死の知らせを受けた。そう、確かに馬場さんというお宅の前だった……。ようやく涼しくなりかけた蝉時雨の鳴り止まない夕方だったね。今、思い出した。君と会ったのはその直後のことだった……。家の玄関から出てきた君は、少し驚いた顔をして僕をじっと見つめてた……。なぜだろう、こんな昔の話なのに、これほど鮮明に覚えているなんて……」
 「そして私たちは遊んだわ。あやとりや手遊びやケンケンパーをして……。覚えてますか?」
 「僕は母の死の悲しみから逃れるため、まだ幼かった君を愛して必死に遊んだ」
 浩幸は普段なら絶対に見せない懐かしそうな表情で、百恵をじっと見つめ返していた。
 「君だったのか……」
 二人は降りしきる雪の中で、二十数年前の夏の共有の思い出を、無言のままでたどるのだった───。
 「このビーズの指輪のこと、覚えてますか?」
 浩幸は何度もうなずいた。
 「覚えてる……。君に『お嫁さんになってあげる』って言われた。僕はませている子だなって思った……」
 「そして、あなたは言ったわ───、私が『二十歳になって、まだ、その気持ちが変わっていなかったら考えてもいい』って……」
 「そう、確かに言った……」
 「私、二十歳になりました。もう八年も過ぎちゃいました……」
 百恵の瞳の涙が急に膨らんだかと思うと、次の瞬間落ちて、足元の雪の一部を溶かした。
 「多分私は、ずっとあなたを待っていた。心の奥の“いのち”であなたを待っていた。だから、あなたをこんなに好きになってしまったの……」
 「ちょっと待って───」
 浩幸は次の百恵の言葉をさえぎった。
 「今日は驚く事ばかりだ……。混乱して言葉も見つかりません」
 浩幸は明晰な頭脳で、一連の出来事の話の筋を整理しはじめた。母の最後の言葉は「あんたのお嫁さんの顔を見たかったよ……」だった。百恵と出会ったのはその直後の事だったではないか。それは偶然にせよ、百恵から結婚を申し込まれたこと。幼い子どもの衝動的な発言だったにせよ、こうして二十年後の彼女と知り合っている事実。その上、彼女が自分を好きだという事実。そればかりでない、自分の実の娘である美幸と彼女の弟が恋仲になっていること。現実生活とは別次元で働く、何か得体の知れない力を感じずにはいられなかった。しかし浩幸にはそれを認める勇気がなかった。結局“偶然”の二字に、その結論を導き出すしかなかったのだ。
 浩幸は煙草を吸うのを諦めて、それを鞄の中に収めた。
 「偶然とは、重なるものなのですね」
 浩幸が言った。
 「偶然なんて本当にあるのかしら……。私は全部“必然”に違いないって思ってます……。きっと世の中の人みんなが心の痴呆症にかかっているから、仕方のない事だけど……」
 百恵が答えた。
 「心の痴呆……?」
 浩幸は首を傾げた。
 「いったい君は何を知っているというのか?」
 「私にも分かりません……。でも心の奥の、ずっとずっと奥の私が、浩幸さんのことを好きだと言っている気がします……」
 「いったい君は何者か……?天使か……、さもなくば悪魔か……」
 「悪魔なんてひどい。私はただあなたを愛しているだけ……」
 百恵は俊介からもらった婚約指輪をはずし、手にしたビーズの指輪とはめ替えた。
 「君はまたそんな事をする……」
 「私、やっぱり結婚しません。いえ、できません」
 百恵は、自分を拒む浩幸の表情と全く正反対の表情を確認した時、思わずその身体に自分の身体を重ねた。
 「やめなさい。人に見られたらどうするのですか?」
 百恵は何も言わず、浩幸の胸で涙を流すだけだった。

 ホテルの暗い一室から、その光景をじっと見詰める悪意の双眸が光っていた。男はいやらしい笑みをひとつ浮かべると、手にしたデジカメのシャッターを何度も押した。
 
> 第2章 > (七)ある老婆の死
(七)ある老婆の死
 人は死んだら何処へ行くのだろうか?
 夜空に輝く星になるのだろうか?
 それとも大気の中に溶け込むのだろうか?
 あるいは果てしない宇宙空間の中へ吸い込まれるのだろうか?
 肉体が滅びたら、それに宿っていた“いのち”の実在まで消えるなんて、そんなのどう考えたって理解できない。
 “ある”ものは“ある”のだから、なくなるなんて道理が存在するわけがない。別の物に変わるというのなら理解できるの。例えば粘土で作られたウサギがリンゴになったり、小犬が大きくなってシベリアンハスキーになったり、電気が機械を通すことによって物を動かす力になったり、酸素が化学反応を起こして水素になったり……。そんなのみんな道理で説明できるでしょ。
 でも、人の“いのち”は死ねばどうなるの?いいえ、人だけじゃない。地球上に生きる全ての生き物の“いのち”も同じこと。
 死んだらいったい何処へ行くというのだろうか……?

 今年に入って一番寒かった二月のある日、百恵にとても優しかった末おばあちゃんが死んだ───。八十四歳の生涯だった。
 百恵が新米でコスモス園に勤めるようになった時、末おばあちゃんは名前が“百恵”だからと言って、“桃色”のポーチを縫ってくれた。それだけで嬉しかったが、末おばあちゃんは生来目が不自由であったのだ。病名は分からないが先天性のもので、彼女は生涯の全てを暗闇の中で生き抜いた。どこで裁縫の技術を学んだのか、今となっては知る由もないが、その腕は天下一品で、あの後も、ピンクのエプロンや手提げカバンなど、百恵の誕生日を覚えていてくれて、毎年五月五日になれば何日もかかって作った実用品をそっとくれるのだ。
 夏みかんや林檎の皮をむいてあげたり、部屋にお花を飾ってあげたり、一緒に外へ散歩に出かけたり、花壇に咲くお花の香りを楽しんだり、唄を歌ったり耳掻きしたり……、たいていの事は一人でできる人だったから、百恵の方が逆にお世話されていたくらいだった。
 目が不自由だったせいだろう、お嫁にも行けずにずっと独身だった。ご両親を失ってからの彼女は、いろいろな施設を渡り歩き、最後にこのコスモス園にたどりついたのだ。
 「モモちゃん、あんたの顔を触らせておくれ……」
 ある時おばあちゃんがそう言った。百恵は「どうぞ」と言って、そのシワだらけの手で触ってもらった。おばあちゃんは笑顔を浮かべて、まるで壊れそうなガラス細工を扱うように、ずっと百恵の顔を撫でていた。
 「きれいな顔付きをしているね。まるで博多のお人形さんのようだ……」
 百恵は疑問に思ってこう聞いた。
 「私の顔が見えるの?」
 「ああ、はっきり見えるよ。この手の感触、そしてあんたの声……。信じないかもしれないが、誰かがこの部屋に入ってきた瞬間、その人の声を聞く前にそれが誰だか私にはすぐ分かる」
 末おばあちゃんは視覚を除く五感の神経を研ぎ澄ませて、身の周りの様子を全部見ていたのである。その人が何を考えているのか、自分に好意を持っているのか、悪意を持っているのか、微妙な言葉の抑揚や会話の間などで目が見える人以上に敏感だった。人にはほとんど言わないが施設一の情報通でもあったのだ。視界が暗闇である分、彼女には必要以上のものが見えていたに違いない。
 おばあちゃんを通して感じていた事は、“人間には不可能はない”ということだった。三重苦のヘレン・ケラーの史実も、末おばあちゃんの姿を通すとき、それは奇蹟ではなく現実として納得できるのである。人間はかくも偉大であるかと、百恵の関心はそれだった。
 その末おばあちゃんが言っていた言葉で忘れられない事がある。それは浩幸に対する評価である。それは、医療法人化が決定して間もなくの事だった。
 「あの先生は孤独だよ。性根のまっすぐしたやり手だから風当たりも敵も多いし、先生を良く言う人は一人もいない。でも私には分かる。根は誠実と正義の塊だね。私は赤髭先生の事は知らないが、噂を聞く限り、きっとそれと同じ“いのち”を受け継いで生まれてきたに違いないよ。医療法人化にしてもそうさ。みんなはお金儲けと名声のためと言うが、違うね。あの先生は自分の理想に忠実すぎるのさ。私がもっと健全で力があったら、あの先生の手助けをするのにね……。そうそう、旦那にするならああいう人をお選び。でもあんたとは年の差がありすぎるねえ」
 おばあちゃんはそう言って笑ってた。百恵にとっては浩幸を好意的に言うたった一人の味方だった。だからというわけではないが、百恵は末おばあちゃんが大好きだった。
 その老婆が突然死んだ───。
 第一発見者は百恵だった。
 いつものように各部屋を見回った時、いつもなら同室の誰より先に挨拶をしてくれる末おばあちゃんだが、その日百恵を迎えたのは、同室の清水さんの「末さん、ずいぶんとゆっくりしてるね」という言葉だった。百恵は不審に思って「おはよう」と言いながら末おばあちゃんの身体を揺すったが、その身体は揺するのに合わせて力なく揺れる“いのち”の抜け殻だった。慌てて脈を計った百恵は蒼白になった───。
 その日、百恵は涙を流しながらその対応に追われたのである。

 家族も親戚もない末おばあちゃん……。
 やがて霊柩車で運ばれて行った。その後どこへ行ったのか?
 ───私は知らない。
 
> 第2章 > (八)スキャンダル
(八)スキャンダル
 その日遅番で仕事に就くと、周囲の人の視線が妙に気になった。不審の眼差しというか、気兼ねしているというか、百恵と目が合った瞬間、まるで汚らわしいものでも見てしまったかのような表情で視線をそらすのである。ある者は壁の陰に隠れるようにして百恵の姿をのぞき込みながら噂話をする様子がうかがえたり、信頼する後輩たちまでも、何か避けているかのような口振りだった。そんな空気は職場にきて三十分もしないうちにすぐ分かる。さすがに気になった百恵は、三年下の後輩を捕まえて、「何か私を避けてない?」と聞いてみた。
 「い、いえ……、別に……」
 後輩は逃げるようにしてどこかに行ってしまったのである。
 そんな時、トイレの前を通りかかると、今日は早出残業だった七瀬が小声で百恵を呼んだかと思うと、人目をはばかるように手を引いて、彼女を女子用トイレの中に連れ込んだのだった。その表情はとても心配そうに見えた。
 「光ッチまで……、いったいどうしちゃったの?私、わけ分からない」
 「どうしたの?って、あなたよくそんなに平然といられるわね……」
 七瀬は介護服のポケットから二つに折りたたんだ雑誌を取り出した。それはスキャンダル雑誌に違いなかった。コスモス園のロビーには、いわゆる三流と呼ばれる雑誌の類も無造作に置かれているのである。開いたページには一面を使って、暗闇に抱き合う男女の写真が掲載されていたのだ。見出しを見て言葉を失ったのは当然の事だった。
 『介護施設統合の立て役者“山口浩幸”夜の顔!お相手は同施設勤務二十八歳美形』とあるではないか。写真の“二十八歳美形”を指す女性は紛れもない、どう見ても百恵の横顔に相違なかった。
 「ねえ、ねえ、この日って菅平で研修があった日でしょ?どうりで……、スキーに誘っても来なかったのは、こういう事だったのね?」
 「ちょ、ちょっと待ってよ。違うわよ!」
 百恵は血相を変えて記事を目で追った。
 『山口浩幸(四十二)は、本年秋に予定される老人介護施設コスモス園と山口脳神経外科医院統合の立て役者。介護の未来形を模索する理想の介護医療実現のため、様々なマスコミにも取り上げられ、美談ばかりを並べてきた聖職者……?と思いきや、実は過去に二度の結婚に失敗してる天下の女ったらしなのだ。写真のお相手は十四歳も年下の同介護施設勤務二十八歳の美女。一月中旬の長野県は菅平。介護員研修を名目に行われたホテルの駐車場でそのラブラブ振りを見せてくれた。降りしきる雪の中、二人は時間を忘れていつまでも抱き合っていた。………………』
 とんでもない報道に驚きながら、浩幸を陥れようとする悪意がまざまざと見てとれた。ところが一方では、浩幸と自分が祭り上げられている内容にある種の喜びがあった。まるで人ごとのように写真を見れる自分がいて、「額に入れて飾っておこうかしら」と本気で思うのだった。
 「これ、本当に私……?」
 「なに言ってるのよ、この髪のまとめ方はモモに違いない。それにここ見て、後の方に映ってる車。これ私の。だって窓にプーさんがぶらさがってるでしょ。これはあの日の晩の菅平に間違いない!まさか自分じゃないとでも言い張るつもり?」
 「一体、誰が撮ったんだろう……?」
 「そういう問題じゃないと思うけど!ここにこうしてあなたと山口先生が映ってるって事が問題でしょ?」
 「でも私たち、いけない事は何もしてないわ……」
 「だからそういう問題じゃなくて……、なんて言うかな、この時期、ものすごい大事な時なのよね。コスモス園の統合にしても。いわば山口先生は私達の親分になるわけでしょ?その親分がスキャンダル起こしたなんて事になると、大問題なわけ。分かる?信用問題よ。このままいけば、山口先生、降ろされるわよ」
 「ええっ?本当に……?私、どうすればいい?」
 「それが問題よ……」
 七瀬と百恵は顔を見合わせながらため息をついた。暫く無言が続いたが、やがて、
 「私ね、モモの事が心配なのよ……」
 七瀬がつぶやいた。
 「モモがね、山口先生のこと好きなのは分かる。でもね、このままじゃ二人ともダメになっちゃう……」
 七瀬の瞳には涙がたまっていた。
 「ありがとう、光ッチ……。でも、私はぜんぜん平気よ。心配なのは山口先生……。先生は見送りはいいと言ったのに、私が無理に車までついて行ってしまったの。だからこんなふうに……」
 「もし、モモが仕事辞めるような事になったら、私も辞めるからね……」
 「光ッチ……」
 百恵は七瀬の涙にもらい泣きしていた。
 「大丈夫よ!心配ないってば!」
 とは言ったものの、その日は一日中陰険な重い空気の中で仕事をしなければならなかった。どんな言い訳をしようと、あの日浩幸に抱きついたのは事実だった。非があるとすれば自分が百パーセントで、浩幸には何の咎もないではないか。万一、彼が役職を下ろされるような事態に発展したとなれば、その責任は全て自分にあるではないか───。そう思うと矢も楯もたまらなくなった。仕事も手につかず、就業時間が終わって気づけば、百恵は浩幸の自宅の前に立っていた。
 玄関のインターホンのボタンを押すのに、どれほどの勇気が必要だったことか。出てきた浩幸の表情は笑っていた。そして、百恵は十畳ほどの居間に通されるとソファに座った。既に十一時も近いというのに、そこでは大樹がお気に入りのゲームに夢中だった。
 「こら、大樹、あいさつしなさい!」
 大樹はゲームをしながら「こんばんは」と言った。
 「まったくゲームばかりしているんですよ、こいつは……。コーヒーでいいですか?」
 浩幸はメーカーに水を注ぐと、コーヒーを沸かしはじめた。
 「すみません、こんな遅くに……。しかも突然……」
 百恵が言った。
 「あの雑誌の事でしょ?今日一日中、電話が鳴りっぱなしでした。その対応だけで一日が終わってしまいましたよ。ここに来たのを誰かに見られませんでしたか?」
 百恵はハッとすると、「ごめんなさい!そんな事まで頭が回りませんでした」としょぼくれた。
 「いいです、いいです。雑誌に一度出てしまったものは、二度出ようが三度出ようが同じ事です」
 浩幸は二つのマグカップにコーヒーを注ぐと、ひとつを百恵の前のテーブルに置き、「大樹いいかげんにもう寝なさい!」と言いながら向かいに座った。
 「こら、大樹!言う事を聞かないとそのゲームを取り上げてしまうぞ!」
 「あと五分、あと五分……」
 大樹の言葉に、百恵は「そのゲーム、楽しそうね」と言った。
 「でも、明日学校でしょ?寝床が嫌なら、お姉ちゃんのところにおいで……」
 百恵は両手を広げて大樹を見つめた。大樹は暫く百恵と見つめ合った後、ゲームをやめて百恵の胸に抱きついたかと思うと、ものの一分もしないうちに静かな寝息をたてはじめた。その一部始終を見ていた浩幸は、驚いた表情で「現金なやつだ」と苦笑した。
 「大きくなりましたね……」
 大樹を抱きしめながら百恵が呟いた。
 「年が増える毎に生意気になる。最近はことのほか手をやく……」
 浩幸は煙草をふかしながらコーヒーを飲んだ。
 「どうですか?雑誌に出た気分は?」
 浩幸はいきなり本題に入り始めた。
 「僕はともかく、馬場さんの事が心配でした。落ち込むのは当然です。こんな事をする人間はだいたい目星がついていますがね……」
 それを受けて百恵は胸の内をいっぺんに告げた。
 「私が全部いけないんです!先生は何も悪くない!私、雑誌の出版社にかけあって真実を全部話そうと思います。それでダメならコスモス園を辞めて責任をとります!もし、先生が辞めるなんて事になったら、私、もうどうしていいか分からない!」
 その声に反応して、大樹が首の向きを変えた。浩幸は「貸して」と言って大樹を抱き上げると、そのまま寝室に連れていって戻ってきた。
 「出版社に行ったところで相手にはしてもらえませんよ。彼等は面白ければ何でも記事にするんです。商売ですから。それに馬場さんが辞める必要はない。貴方のような有能な介護員を失うのは大きな損失です。いいですか、ただでさえ僕をよく思わない人が大勢いる。だから、今回の事業で揚げ足をすくおうという人間がいたってけっしておかしくない。彼等にとってはスキャンダルなんて常套手段なんですよ。僕を陥れるのにかっこうの材料じゃないですか。三流雑誌がよく使う手口だ。今でなくともいずれでっち上げのスキャンダル事件のあらすじを考えたでしょう。たまたま今回は運悪く、その相手が君だった……。それだけの事です」
 「それだけのことって……」
 「だが、相手が君だった事で、僕にとっては苦しい立場に追い込まれた。“愛”とかじゃないけど、僕は君の事が好きになってしまったようだ……」
 「せ、先生……?」
 「僕はこんなことで挫折するような人間じゃありません。かといって僕が統合後の法人の代表をおりなければ世間は納得しないでしょう。君も辞めない、僕も辞めない秘策……」
 「───そんなこと、できますか?」
 浩幸はコーヒーを再び飲んだ。
 「貴方も飲んでください。せっかく入れたんですから」
 百恵は「はい、いただきます」と言ってコーヒーカップを口にした。
 「僕と結婚しましょうか?」
 百恵は口に含んだコーヒーを吹き出して咳こんだ。
 「二十年前の僕の答えではありませんが、僕たちが結婚するとなれば万人が納得しますよ。二人とも辞める必要はなくなる。それに馬場さんは永遠のアイドル“山口百恵”になれます。……それとも、愛のない結婚は嫌ですか?」
 百恵は返答に窮した。これほど愛した男性に突然結婚を突きつけられた時、思わぬ躊躇が湧いて出たのである。心の整理もできていないままの心境で、百恵に即答する勇気はなかった。それに百恵の中では“結婚”というものは、お互いが愛し合っているというのが大前提の行為であると信じていた。それを状況がそうなったからといって、浩幸の愛も確認できないまま結婚するとは、既成概念には全くなかった事といってよい。
 浩幸は急に笑い出した。
 「冗談ですよ、冗談───」
 百恵は安堵した半面、即答できなかった自分に後悔しながら肩を落とした。
 「人の噂も七十五日と言うじゃありませんか。ほとぼりが冷めるのを待ちましょう。それしかありません」
 浩幸は一連の事件を人ごとのようにあしらうと、残りのコーヒーを飲み干した。
 
> 第2章 > (九)死にかけた勇気
(九)死にかけた勇気
 浩幸と百恵のスキャンダル報道は、馬場家の人間にとっても大きな衝撃だった。生来気の小さい父などは、記事を目にした途端、頭をおさえて寝込んでしまった。母は母で、「明日から世間に顔向けができない……」と呟いたまま、涙をボロボロ流す。唯一弟の太一だけ、
 「へえ、姉ちゃんはあの先生とできていたんだ」
 と、面白がって記事を読む姿に救われたものの、とてもリビングには居づらくなって、何も言わずに自分の部屋へ籠もろうとすれば、母の「どこ行くの!ちょっとここに座りなさい!」という罵声に縛られて、長い間会話のない重い空気に耐えなければならなかった。
 そこに鳴った携帯電話。藁をもすがる思いで出てみれば、家族よりも落ち込んだ声の俊介が、「今、玄関の前に来ているんだけど……、話がある……」と言って電話が切れた。度重なる責めに合い、一刻も早く一人になりたい気持ちを抑えて玄関の扉を開ければ、父親以上に沈んだ顔付きの俊介が、百恵の手を引っ張って暗がりの家の前の路上に連れだした。日中は日陰になる所には雪が残り、冷たい風の流れる暗がりだった。
 「どういう事!」
 左手に雑誌を握りながら、俊介は怒りを隠せない口調で言った。百恵は何も応えなかった。
 「どういう事って聞いているんだ!」
 「…………」
 「黙っていたら分からない!ちゃんと答えて!」
 百恵は目を細めて目線をそらした。しかし心は凪の海に浮かぶ小舟のように、妙に落ち着いていた。
 「どういう事か聞くまで、今日は帰らない!」
 「どういう事って、そういうことよ!私、やっぱりいくら考えても新津君とは結婚できない。ごめんなさい……」
 「ごめんなさいって……、それが答え?」
 百恵は視線をそらしたまま涙をためて頷いた。次の瞬間、俊介の平手は百恵の頬を殴っていた。百恵は殴られた左頬をおさえたまま俊介をみつめた。
 「ごめん……。殴ることなかった……。でも、あの先生の事は諦めるって言ったじゃないか!百恵、しっかりしろよ!」
 俊介は百恵の両肩を揺すりながら、悲愴な声をあげた。ヒリヒリする頬をおさえ、百恵は怒る気にもなれなかった。というより、俊介に対する自分の態度を考えるとき、やはり殴られても当然のことだと納得できた。しかし、浩幸への思いはそのような理性では抑えつけることのできない、また、感情とも異質な特別なもので、百恵自身にもどうすることもできなかったのだ。
 「ごめんなさい。本当にごめんなさい。新津君はいつも私を元気づけようと、私を守ってくれた。ずっと待っていてくれた……。でもね、私、浩幸さんを愛しているの。諦める事なんかできなかったの。できっこなかった!彼はね、私の“いのち”の中で二十年以上も待ち続けた男性だったの……」
 「どういうこと!……?」
 「ごめんなさい……。もう、私の事はあきらめて……。大学生の時のように友達でいようよ」
 「そんなこと、絶対できない!」
 早く一人になりたい百恵は、やがて話をする事すら億劫になって、
 「新津君に返さなければいけないものがある……」
 と、部屋に置いたホワイトパールのブレスレッドと指輪を取りに戻った。すぐにそれであると直感した俊介は、「そんな必要はないから!」と言って、百恵が家の中へ入るのを確認すると、急いで車に乗り込んで帰ってしまった。百恵が出てきた時は、俊介の車は一つ目の十字路を曲がったところで、大きなため息を落として、母に見つからないようにそっと部屋に籠もった───。
 パジャマにも着替えず、あれこれ考え事をしていると、結局一睡もしないうちに朝がきた。精神的にはとても仕事に出れる状態でなく、体調もすこぶる悪かった。出勤前に風邪を理由に休ませてもらうという電話を入れたが、丸腰の「お大事に」という言葉に刺を感じた。断然生命力を落とした百恵は、何もやる気が起こらず、昨晩入り損ねたお風呂に入った後は、パジャマに着替えてベッドの上で一日を過ごした。
 その翌日も仕事を休んで、同じように時間を過ごした。スキャンダル記事の写真は事実とはいえ、人権を侵すが如くの心ないマスコミの報道が、これほどまでに生命力を奪うとは知らなかった。かつてこれほど苦しんだ事があっただろうか?唯一の救いがあったとすれば、それは愛する浩幸も、まさに自分と共通の苦悩を味わっているという事だった。ふと部屋に飾った祖母の写真が目に入った時、なぜか涙がとめどなくこぼれてきた。
 「おばあちゃん……、私、どうすればいい……?」
 その写真を抱きしめたまま、遠い昔の記憶を蘇らせた。

 おばあちゃんは死ぬ間際、何度も「百恵ちゃんのお婿さんの顔を見たかったよ」と言っていた。私はおばあちゃんの手を握りながら、まだ結婚なんてピンとこなかったけど、お父さんの請け売りで、「三浦友和みたいなカッコイイ人と結婚するから心配しないで」と答えた。おばあちゃんは笑いながら、「百恵ちゃんが幸せになれるなら、どんな人でもいいよ。必ず幸せになるんだよ」と私の頬を撫でてくれたっけ。私はその時思ったの。絶対幸せになろうって……。
 でも、幸せって何なのか分からない。分からなくなってしまったの。好きな人と結婚できれば幸せなのか?それは確かに幸せだろうけど、けっしてそれが全てじゃない。好き合って一緒になった男女だって、離婚する人も多くいる。それじゃ離婚は不幸せなのだろうか?けっしてそうとも限らない。離婚後に思い通りの人生を悔いなく生きて、幸せだったと言いながら死んでいく人だっているはずよ。幸せの基準て何だろう?
 確かに幸せって他人が測れるものじゃない。それじゃ自分で測るしかないじゃない。でも、今の私は幸せ?って自分に聞けば、「これほど不幸な人はいないだろう」って答えが返ってくる。いったい私はどうしたらいいのかしら───。
 もし、このまま浩幸さんの構想が断念せざるを得ない状態になったとしたら、それは全部私の責任。こんなところで寝ていちゃいけないの!何かをしなければ……。何かをしなければ……。
 でも、ダメ……。身体が動かないの───。

 百恵は写真に写った笑顔のおばあちゃんを見て笑い返してみたけれど、とても長い間は続かなく、やがて写真を見るのが辛くなって、ついにはそのまま布団に顔をうずめた。
 「助けて……、たすけて……、ヒロユキさん……」
 その時、百恵の携帯電話が鳴った。とても電話に出る気にはならなかったので、しばらくそのまま抛っておいたが、あまりしつこく鳴るので着信の相手の名前を見れば七瀬だったので、ようやく重い心を持ち上げて電話を取ったのだった。
 「よかった、モモ、出てくれた……。調子はどう?みんな心配しているよ。明日からは来れる?モモがいないと私も調子悪くて……」
 「ごめん……。なんだか身体が重くて、具合も悪いの……」
 「そう……。今日ね、例の件で緊急会議が開かれたの。山口先生も出席されてもうたいへんだったみたい。みんなにボロクソ言われて、私だったらボコボコにヘコんじゃうな」
 「そ、それで?どうだったの?」
 「なんか、モモの事、かばったみたい。屋上で先生、煙草を吸っていて、偶然会って───」

 浩幸は疲れ切った様子で煙草の煙をはいた。布団のシーツを取り込む七瀬は、ふと彼の存在に気がついた。しかし話かける言葉も見つからず、そのまま取り込み終えたシーツを抱えた時、
 「やあ、七瀬さん。ご苦労様!」
 会議を終えたばかりの浩幸は、いつものように気さくに声をかけて寄って来たのだった。
 「馬場さんは?」
 最初の質問がこうだった。
 「モモは体調を崩してお休みしてます」
 「そうですか……。僕のせいで彼女を大変な目に合わせてしまった。僕がなんとかするから心配しないで、明日から仕事に戻って来て下さいと伝えてもらえませんか?」
 「山口先生、一体どうなっちゃうんですか?やっぱりモモ、辞めさせられちゃうんですか?」
 「そんな事は絶対にさせない!彼女が辞めるくらいなら僕が降ります!」
 浩幸はいつにない厳しい口調でそう言い放った。七瀬は、百恵が彼に惚れている理由がいっぺんに理解できた。
 「先生、私に何かできる事はありませんか?」
 浩幸はひとつ微笑むと、
 「そうだね、馬場さんを心から支えてあげて下さい。マスコミに騒がれるって、けっこうしんどいんですよ。普通の人間ならつぶれてしまうでしょう。そうだ、馬場さんにこう伝えてもらえますか。“大変な障害ですが、僕と一緒に乗り越えましょう”って……。僕の本心です」
 浩幸は、そう言い残すとそのまま屋上を去って行った───。

 「山口先生、そんな事言ったの……?」
 百恵は嬉しくなって涙が出た。
 「明日、今日の続きの会議があるんだって」
 「光ッチ、ほんとうにありがとう……」
 百恵はそう言って電話を切った。
 言葉はナイフ。言葉は良薬。傷つけることもできれば、蘇生させることもできる。浩幸が言ったという『僕と一緒に乗り越えましょう』という言葉は、どれだけ百恵を励ましたことか。
 「一人じゃない。浩幸さんがいる!」
 そう思った時、死にかけた心の勇気が決然と燃え上がった。

 翌日十時からの会議は冒頭から波乱を極めた。
 「もう山口先生には降りてもらうしかないでしょう!こんなくだらない議題を何日もかけて話し合ったって、これこそ時間の無駄だ!」
 口火を切ったのは須崎理事長だった。それを合図にコスモス園と山口医院両施設の重役達は、口々に好き勝手な事を言いだした。
 「まあまあ、一度に言っても山口先生が答えられません。まず、一晩お考えいただいた結論を先に聞きましょう」
 高野施設長が言った。
 浩幸は静かに立ち上がると、特に須崎の方を見て言った。
 「何度も申し上げましたが、今回の件における処置として、私には医療法人化後の理事長と、統合後の当施設における代表役を辞退する意志は毛頭ございません」
 「あなたは今回のスキャンダルでコスモス園の信用を大きく失墜させたんだぞ!それを何の責任もとらないとはどういう事だ!」
 須崎が叫んだ。
 「信用を失墜?では、あのマスコミの記事を見て、誰が何時、どういう事を言ったのか、リストにまとめて提出して下さい。また、スキャンダルといいますが、僕も独身ですし、馬場君も独身だ。たまたま僕がこういう立場の人間ですから大きな問題にしたがっているようですが、プライベートで独身の男女が夜に会ったって良いとは思いませんか?」
 「それは重大な発言ですぞ!」
 他の誰かが言った。
 「そうだ!施設の顔となる人の言葉としては、あまりに軽率だ!」
 会場はもはや話し合いの場所ではなく、喧嘩の様相を呈していた。
 その頃、コスモス園に出勤した百恵は車を降りると、まっすぐ会議室へと歩いて行った。その途中、七瀬が待っていて、「やっぱり来ると思ってたわ。私も早出残業つきあうわ。こうなったらやぶれかぶれね!」と、二人は足並みをそろえて目的の場所へ向かった。
 会議室の中は罵声は飛び交う、嘲笑は飛び交う、浩幸をかばう声は飛び交う、議長の声が飛び交うはで、ほとんど収拾がつかない状態だった。その中で一人獅子奮迅と反駁する浩幸だったが、多勢に押されてどうにも話し合いにはならなかった。
 その時───、
 会議室のドアがバタン!と開いた。逆光の中に立つ二人の乙女の姿は、騒然とした会場内を一瞬にして黙らせるほどの神々しさがあった。
 「なんだ?君たちは!」
 議長が言った。
 「山口先生は悪くありません!全部、私がいけないんです!」
 百恵は目にいっぱい涙をためて、ありったけの声量でそう叫んだ。
 「ほう、スキャンダラスな女の登場か?」
 「なによ!その言いぐさ!」
 七瀬が負けじと言い放った。
 「私の話を聞いて下さい!」
 百恵は首を覚悟していた。
 「あの日、研修が終わって、たまたまロビーで先生と会って、先生はいいとおっしゃったのに、私は無理に頼んで先生の見送りをしようと車までついて行ってしまったの!……私、わたし……、先生の事が好きで……、好きで好きで仕方がなくて……、胸が苦しくなって……、それで私の方から先生に抱きついたんです!だから先生はぜんぜん悪くないの!悪いのは私なんです!だからこの責任は私がとります!」
 「いや!馬場君には責任はありません!仮に責任があるとしたら僕の方です!」
 すかさず浩幸が叫んだ。
 「いいえ、私の責任ですから、処分するのでしたら私を処分して下さい!」
 「いや、責任なら僕がとる!」
 責任の取り合いに居場所を失った七瀬は、ついそののりに任せて、
 「私の責任です!」
 と叫んでいた。拍子抜けのその言葉で、一応責任の取り合いはおさまったものの、百恵の登場で会場の空気はガラリと変わった。
 「君たちは何かね?愛しあっているのかね?」
 騒然とした会議中、終始黙って様子をうかがっていた最年長のコスモス園顧問がはじめて口を開いた。
 「コスモス園存続の危機かと思って来てみれば、犬も喰わない話じゃないか。いったい誰がこんなくだらん話をし出したのか?」
 顧問はそう言い残すと、さも疲れた様子で席を立ち上がった。浩幸は、その老人が自分の前を通りすぎるとき、恩に報いる顔付きでひとつ目礼をした。それに答えて老人は浩幸の肩をポンと叩くと、次に百恵の顔と全身を舐めるように見回し微笑むと、何も言わずに出ていった。
 そのコスモス園の最高顧問を務める老人の名を河上吾郎と言った。浩幸の父正夫の友人で、浩幸は子どもの頃からお世話になっている知人である。河上の残した言葉と退場で、その会議は流れたのである。
 須崎はじだんだ踏んだ。
 
> 第2章 > (十)ふたりの男
(十)ふたりの男
 浩幸は残業の院長室で、“馬場百恵”という人物が、自分にとっていかなる女性なのかを考えていた。開いた書類にペンを置いたまま、そのペン先は先程から遅々と進まない。もう十時を回っていた。暗闇の辺りに、山口医院の院長室からは皓々とした明かりが漏れていた───。
 「介護士としては、その姿勢や情熱などは一級のものを持っている事は分かるし、今回の事件を通して、僕に対して僕が考えていた以上の恋愛感情を抱いていることもよく分かった……」
 二十年前の出来事は別にして、浩幸はコスモス園で出逢ってからの百恵の言動をじっと思い起こしてみた。
 定期診察で初めて会った二人は、コンビニでバイトをする店員と客の関係の中で、全く知らない者同士ではなかった。自分の名前が気に入らないと言った彼女に対し、冗談で「僕と結婚しましょうか?」と言った浩幸に、「妾にはならない!」と食い付いてきた表情は愉快であり、いじらしかった。大抵の人間ならば、しかも新人の立場であれば、上役の人物に対してけっして言い答えなどできるはずがなく、思えばその時から一種、特別な女性であったではないか。それから間もなくの桜吹雪の中のデート。彼女とは初めて二人だけの時間を過ごしたが、今から思えば妙なほど自然体で付き合えたではないか。
 また、彼女が言った言葉で耳朶から離れないものがいくつかある。一つは、コスモス園統合を話し合う会議の際、大樹の面倒を見てもらって、終了後のコスモス園の屋上で彼女が言った『介護も看護も同じ』という言葉である。それは技術的な事を言っているのではなく、お年寄りに対する心の姿勢を言っている言葉であることはすぐに分かったが、それにしても呼吸をするのと同じくらいに自然と出てきた科白であることに驚きを覚えるのである。
 もう一つは、彼女を諦めさせようと誘った蛍を見ながらの晩の事である。『女は感情の生き物だ』と言った浩幸の言葉に対し、すかさず『男は理屈の奴隷!』と言い返した機知に富んだ言葉である。頭脳明晰な浩幸にして言い返す言葉も見つからず、その後ホテルに連れ込んで威嚇したにも関わらず、彼女は全てを自分に捧げようとしたではないか。挙げ句に大樹との接触を拒絶してしまったのだ。
 「あの時、彼女はどんな思いだったろうか……」
 それを考えるとき、浩幸の胸は苦しくなった。
 そしてもう一つは菅平の晩、『あなたを“いのち”で待っていた』という言葉。この意味はまるで分からない。分からないが分かるような気もした。ビーズの指輪を照合してからは、終始彼女のペースで会話が運んだが、あれは浩幸にはあり得ない事だった。全てを計算ずくで物事を進める彼にして、その思考範囲をはるかに超えるところでの内容だった。
 それに解せないのは、一連の大樹の百恵に対する懐きようである。三歳の時の大樹は、まるで百恵を母親のように思って、自分には見せない笑顔で遊んでいた。つい先日、百恵が自宅に来たときもそうである。何年間も会っていないはずで、すっかり百恵の事など忘れているにも関わらず、その胸で眠る大樹は、本当に安らかな顔をしていた。
 いったい何者か───。自分に愛を告白したかと思えば、自分の考えの及ばない遥か高みから物事を見通しているようで、かと思えばあまりに女性的な健気さがある。いままで出逢った女性とは明らかに異質な何かを持っているように思えた。彼女との様々な出来事を回想しているうちに、やがて、自分の中の常識を超越している百恵の存在が浮かびあがってくるのだった。そして先日の会議である───。
 あの後、百恵と七瀬と三人で、屋上に上がって冬の空を見あげた。暫くは無言でいた三人だったが、
 「なにもあんな大勢の重役の前で、貴方があんな大恥をかくことはなかったのに……」
 と、浩幸が呟いた。
 「大恥……?」
 百恵は首を傾げた。
 「モモは思い込んだら、後先、周囲の迷惑も顧みず、一直線に突き進んじゃうからね。モモの長所でもあり、短所でもある」
 七瀬が冷やかした。
 「でも私、大恥だなんて思っていません。だって私、本当に先生のことが……」
 「分かりました。もう言わなくて結構です。僕も馬場さんの事が本当に好きになってしまうではありませんか」
 「おやおや……、なんだか私はお邪魔みたいだから仕事に戻るわね」
 七瀬が気をきかせて去ろうとすると、百恵は腕をつかんで留まらせた。
 「全部、光ッチのおかげよ。光ッチが山口先生の言葉、伝えてくれなかったら、多分、今日も私、休んでいたと思う」
 そして、浩幸に言った。
 「私、先生の言葉でどれほど勇気づけられたか……。昨日まで落ち込んで、ベッドでうづくまっていたなんて嘘みたい。先生、ありがとうございました!」
 「実は内心、僕もどうなることかと思ってましたよ。しかし馬場さんのおかげで窮地を脱した。お礼を言わなければいけないのは僕の方です。ありがとう」
 百恵と浩幸は見つめ合った。
 「しかし、最後に意見を言って出ていったおじさん、だあれ?あまり見かけないけど……」
 七瀬が言った。
 「コスモス園の初代施設長ですよ。今は最高顧問を務めています。もっとも肩書きだけで、実際の実務はとうの昔に引退していますがね。うちの先代院長とは犬猿の仲でしたが、喧嘩するほど仲がいいっていうでしょ。でも、僕とはひどく気が合いました」
 「へえ……」と七瀬が呟いた時、遅番の就業のベルが鳴った。
 「いけない!仕事よ!」
 慌てて七瀬が施設内に戻ると、百恵は浩幸に一礼して、「光ッチ、待って!」と、その後を追って行った。浩幸はその後姿を愛おしく見守った───。
 暖房のサーモスイッチの音でふと現実に戻った浩幸は、まるで手に付かない書類を閉じると、大きく背伸びをした。そして、どうもはかどらない書類の山をみつめて、
 「明日にするか……」
 と、院長室の電気を消した。

 医院からすぐ隣の自宅まで、ものの一分もかからない。玄関の錠を締め、歩き出したところで浩幸は黒い人影に気がついた。気にもかけないで通り過ぎようとしたところ、
 「山口浩幸さんですね」
 その黒い人影がそう言った。
 「そうですが……。あなたは?」
 人影は浩幸の前に立ちはだかると、「馬場百恵さんと婚約している新津俊介といいます」と答えた。浩幸は何も言わなかった。
 「いったいあなたは、百恵をどうしようというのですか?これ以上、百恵を苦しめないで下さい!あなたのせいで、俺や百恵がどれほど苦しんでいるか分からないのか!」
 「失礼……」
 浩幸が俊介の脇を通りすぎようとすると、俊介はいきなり浩幸を殴りつけた。その勢いで浩幸は倒れ込み、口からは鮮血がにじみ出た。浩幸は右手の甲で血を拭き取ると、妙に落ち着いた声で、
 「要件は何でしょう?」
 と言った。俊介の殴った右拳は、ワナワナと震えていた。その目は夜叉の如く充血し、正気を失っていることは俊介自身知っていた。
 「百恵を返せ!」
 「それは彼女が決めることだ。馬場さんは君の所有物じゃない」
 「あんたは百恵を愛していない!愛していない人間にそんな事を言われる筋合いはない!これ以上百恵を弄ばないでくれ!」
 「百恵か……。百恵、ももえ、モモエ……。あまり考えた事はないが、悪い響きじゃない。僕もそう呼ぼうか……」
 「なんだと!」
 今一度伸びた俊介の右手を、浩幸はひょいと避けてつかんだ。
 「いきりたって殴り合いをして何になります?」
 「俺の気が少しでもおさまる」
 「おさまれば満足ですか?ならば何度でも殴るがいい」
 俊介はつかまれた右手をはらった。そしてむせぶような声で言った。
 「一体あんた、何なんだ!百恵を返してくれよ!返してくれよ……、頼むから!」
 と、次の瞬間、アスファルトに膝をついたかと思うと、土下座をするのだった。
 「馬場さんは罪な女性だ。君のように真っ直ぐ愛してくれる人がいるというのに……。でも僕も、最近彼女の事ばかり考えるようになりました。この年になって恥ずかしい話ですが、仕事も手につきません。こんな事は君に言うことじゃないかも知れませんが、僕も彼女を愛しはじめている」
 俊介は浩幸を睨み付けた。
 「教えてくれ。この前百恵はこう言ったんだ。あんたの事を二十年以上“いのち”で待ち続けていたって……。一体どういう意味なんだ?」
 「さあ……、分かりません。心の痴呆から解放されたってことかな?残念ながら、僕には思い出せませんが……」
 「思い出すって?なにを……?」
 「僕と馬場さんの過去世ですよ。思い出して欲しいですか?人間のDNAには想像を絶する記録が刻まれている。仏教的に言えば“業”と呼ばれるものですよ。仮に彼女のその直感が正しくて、もし僕もそれを思い出したとしたら、君の出る幕は完全になくなりますよ」
 俊介は浩幸から目をそらした。
 「そんな馬鹿げた話があるものか!」
 浩幸は何も言わずに、やがて自宅の玄関から家の中へ消えていった。
 
> 第2章 > (十一)雪解け
(十一)雪解け
 季節はずれの雪が降った。
 もう四月も近いというのに、その朝といったら大寒を思わせる寒さで、目が覚めて庭を眺めたら数センチほどの雪が積もっていた。今日は休みの百恵は、部屋からじっとその光景を見つめていると、昔庭で、おばあちゃんと雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりした光景が思い出された。やがて、今年の冬は忙しさにかまけて雪を一度も触っていない事を思い出すと、もう今年は見納めなければならない冬の精たちが急に恋しくなって、ジャンバーを羽織るとおもむろに外へ飛び出したのだった。
 出勤や登校時間にはまだだいぶ早い町中は閑散とし、白一色の寒気に張りつめた空気は、世の中の嫌な出来事全てをも氷らせているように感じた。百恵は目的もなくぶらぶらと、時に木や塀に積もった雪を取って固めて遊びながら、気づけばがりょう公園にたどりついた。「やったあ、一番乗り!」と思いきや、入口から池のほとりに、まだ誰も踏みつけられていないはずのまっさらな雪の上に、人の歩いた足跡がのびていた。
 「なんだ、私が最初だと思ったのに……」
 百恵はそう思うと、前に歩いた人の足跡に、自分の足跡を重ね合わせて歩きながら、それでも小さな満足感に浸っていた。足跡の大きさと歩幅から、すぐに男性のものであることは知れたが、途中までくると、自分より先に訪れた征服者の歩調に合わせる自分がバカバカしく思えて立ち止まった。
 「こんな朝早くに、物好きな人もいたものね!」
 しかし、足跡の延びる先を見れば、なにやらがりょう山に登っているではないか。百恵は「まさか?」と思いながら、再びその歩幅に合わせて歩き出した。
 足跡は須田城址へとのびていた。百恵はしっかり前の人の歩幅を身体で覚えながら、足を滑らせているようなところは自分も滑らせ、肩で息をしながら忠実にその足跡を追った。人の歩幅に合わせて歩く事がこれほど疲れるとは初めて知ったが、それでもこの足跡があの人のものであると堅く信じて歩く心の中には大きな喜びがあった。吐く息は白く、手袋の中の手は氷のように冷たかったが、歩き通しの身体は暑い程だった。たまに立ち止まっては、途中のねじれ松や根上がり松を眺め、風によって舞い落ちる細かい雪の粉は、昇りはじめた日の光に答えてキラキラと輝いていた。なぜか知らないが、自分の前には浩幸が歩いている感覚があった。おそらく以前に彼と登った光景を、身体が覚えていたに相違ない。やがてその足跡が、浩幸のものであると確信したのは、あの日と同じ風が吹いたのを感じたからだ。百恵は山の頂に吸い込まれるように進んで行った。
 ようやく頂上に辿り着いた百恵は、据え付けのベンチに座る男の姿を発見したのだった。
 「やっぱり───!」
 煙草をふかす浩幸は、突然姿を現した百恵を驚いた表情でじっと見つめ返した。暫くは無言の時間を過ごしたが、やがて浩幸は、
 「ば、馬場さんじゃないですか?ど、どうして……」
 と驚いた口調で言った。
 「足跡を追っているうちに、先生じゃないかなって思ってました」
 浩幸はベンチの雪をはらうとハンカチを広げ、隣りに手招きした。百恵は微笑み返すと、そこに静かに座った。
 「こんなに朝早く、しかもこんな所で……、おかしな先生……」
 百恵が言った。
 「そういう馬場さんこそ、こんな時間に、こんな所へ何をしに?変な女性だ……」
 二人は顔を見合わせて微笑んだ。
 「何を考えていらっしゃったんですか?」
 百恵が聞いた。東から差し込む太陽が、冷たい寒気を徐々に和らげていた。
 「さあ……。何だと思いますか?」
 「きっと、お仕事の事だと思います」
 「違いますね……」
 「それじゃあ、この間の報道の事?」
 「違います……」
 そうして二人はいくつかの問答を繰り返しているうち、やがて浩幸は黙り込んだ。
 「先生、分かりません。教えて下さいよ……」
 すると浩幸は切なそうな表情で、百恵をじっと見つめた。それは、大樹に対する顔でもない、ましてや仕事の時に見せる顔でもない、今までに見せた事のない百恵に対して初めて作る顔に相違なかった。百恵はその表情に吸い込まれるような感触を覚えながら、次の瞬間、信じ難い彼の言葉を聞いたのだった。
 「貴方の事ですよ───」
 百恵は言葉を失って浩幸を見つめ返した。信じ難い言葉を受け入れた時、百恵の瞳が潤むと、キラキラと輝く宝石のような雫が頬を伝った。二人は暫く無言のままでいたが、やがてゆっくり唇が近づき合うと、静かに触れ合った。
 あまりに静寂な空間だった。遠くの百々川のせせらぎ、松の間を吹き抜けるそよ風、いや、耳をすませば雪の溶ける音さえ聞こえてくるようだった。百恵は生まれて以来体験したことのない激しい動悸に襲われていた。それは浩幸も同じだった。二人はお互いの心臓の音を確かめ合いながら、長い時間、離れようとはしなかった。
 突然鳥が羽ばたいた音を合図に、やがて、浩幸の方から唇を離すと静かに立ち上がった。
 「この間の晩、馬場さんの婚約者と名乗る男性が僕のところに来ました」
 「えっ?新津君が……?そ、それで?」
 「そうそう、新津俊介君と言いましたね。貴方を返せと殴られました」
 「…………、ごめんなさい。私のせい……」
 「いや。僕はあの時、貴方を僕のものにしたいという欲望にとらわれていました。いわば彼のおかげで、僕は貴方の事を愛していることに初めて気がついたのです」
 浩幸は遠くを見つめながら、小さな声で唄を歌い始めた。それはオペラ風の曲調で、明らかに日本の曲ではなかった。
 「その曲……。私も知ってる……」
 百恵の言葉に、浩幸は驚いた様子で振り向いた。
 「フランスの歌曲ですよ。こんなマイナーな曲をどうして?」
 「コスモス園にその曲を歌うおじいちゃんがいて、私、とっても気に入って、教えてもらったんです」
 「三井隆徳さんですか?」
 百恵は頷いた。
 「なーんだ、僕と同じだ。僕もとても気に入って、いろいろ聞こうとしたんですけど、彼はアルツハイマーだから何も覚えていない。調べるのに随分苦労しました。大学時代フランス語を少しかじりましたので、フランスの唄であることまでは分かったのですが、それからが大変でした……」
 「フランスの曲だったのですね」
 「ヴィクトル=ユゴーの詩で、ラロという作曲家の唄でした」
 そう言うと、浩幸は再び遠くを見つめて原語で歌い出すと、何小節目ほどからは、百恵も一緒に口ずさみはじめた。

Puisqu'ici-bas toute ame
Donne a quelqu'un
Sa musique, sa flamme,
Ou son parfum;

Recois mes voeux sans nombre,
O mes amours!
Recois la flamme ou l'ombre
De tout mes jours!

Je te donne a cette heure,
Penche sur toi,
La chose la meilleure
Que j'ai en moi!

Mon esprit qui sans voile
Vogue au hasard,
Et qui n'a pour etoile
Que ton regard!

Recois donc ma pensee,
Triste d'ailleurs,
Qui, comme une rosee,
T'arrive en pleurs!

Mes transports pleins d'ivresses,
Pur de soupcons,
Et toutes les caresses
De mes chansons!

そこでは生命の旋律が
誰かに何かを与えてくれる
音楽であったり、情熱であったり
芳しさであったり……

数え切れない愛の約束を
尽きない恋心と心の影とを
愛しい人よ───
どうか受けとめてください!

今、貴方に捧げます
こうして貴方に寄り添いながら
そう 僕の持っている全ての中で
最も素晴らしいものを貴方にあげよう!

包むものもないこの心は
とても頼りなく海原を進む
道標となる星は
貴方の瞳だけなのだから

僕の想いを受け取ってください
今まで、この心はただ悲しくて
朝露のように涙にむせび
やっと貴方に辿りついたのだから!

ただひとつの疑いもない
宙に舞うようなこの陶酔
この歌を、この愛撫を
僕は貴方に捧げよう!
 (ユゴー詩/ラロ曲『Puisqu'ici bas』より)

 二人が歌い終わると、暫くの余韻を残して百恵が聞いた。
 「いい曲ですね。いったいどういう意味なんですか?」
 「それは……」
 浩幸は言葉を止めると、やがて、
 「秘密です……」
 と呟いた。そして、百恵と向き合いに立つと、厳かに左手の黒い手袋をはずした。見れば薬指にビーズの指輪がはめてある。それに気づいた百恵は、自分も左手の白い手袋をはずして見せると、同じく薬指にはめてあった同じ指輪を見せた。
 「これも偶然?」
 百恵が言った。浩幸は苦笑した。
 「ずいぶんと待たせてしまいましたね。心変わりはありませんか?」
 浩幸が言った。そして左手の指輪をもう一度百恵に見せると、
 「これが二十年前の僕の答えです。こんな僕でよろしければですがね……」
 と言ったまま、恥ずかしそうに背を向けた。百恵はその背中にすり寄って顔をうずめた。
 下界は出勤ラッシュの車や学生達が慌ただしく動きだしたところ───。二人はいつまでも動かずにいた。
 
> 第2章 > (十二)危険因子
(十二)危険因子
 新年度が慌ただしくスタートした山口脳神経外科医院では、新たに新卒者の看護士が加わり、一段と若返り、活気も増した。中でも最年少として勤めはじめた林美幸は、脳神経を患う患者達の前で、その戸惑いを隠せない様子だった。新卒看護士の初任教育を任された西園は、若い女性達を前にして、何やら浮かれ気分でその業務にあたるのであった。
 「西園先生、やけに嬉しそうですね」
 看護士長が冷やかすと、
 「初々しいですよ、あなたと違って!」
 その高笑いが院長室にまで流れていった。その笑い声を聞きながら、何時になく穏やかな浩幸も、仕事の手を休めて立ち上がると、新任教育の行われている現場に足を運んで、戸の隙間から我が娘の様子をかいま見るのであった。産まれたばかりの美幸は、両手の中におさまってしまうほどの小さな生命であった。それが立派に成長して、看護の道を歩み始めたのである。親としては無上の喜びに違いなかったが、実の父を名乗れないもどかしさは大きな苦しみとなっていた。廊下ですれ違い様に会釈をする美幸の姿を見るとき、親として、また院長として、彼女に対して自分にできることなら何でもしようと思うのである。
 「お母さんは元気ですか?」
 ある時そう聞いた美幸の表情が俄に曇ったかと思うと、何も答えず脇を通り過ぎた。首を傾げた浩幸だったが、美津子の事を聞くことはそれ以来しなかった。
 それから少し後の給与支給日翌日の朝の事である。美幸が院長室の扉をノックして突然入ってきたことがある。
 「どうしました?」
 浩幸が言うと、
 「これっぱかですか?」
 美幸は給与明細書の入った袋をかざして横柄に言った。突然の娘の訪問とその言いぐさに驚いた浩幸は、
 「不満ですか?」
 と答えると、美幸は母から預かったという手紙をデスクの上に無造作に置いた。開けば家庭の事情を縷々記した、懐かしい美津子の清楚な文字が並んでいた。読み進めるうちに浩幸は目を細めた。そのくだりは家庭破綻の原因を、実父である浩幸に責任を追及する形で、月五十万の給与を要求する内容がしたためられていたのだ。
 「林君はこの手紙の内容を知っているのですか?」
 美幸は首を横に振った。
 「それではお母さんに伝えて下さい。いずれこうなるように考えますが、今は無理ですと。林君も一日も早く一人前の仕事ができるよう努力して下さい」
 それだけ言うと、
 「さあ、就業時間が始まっています。仕事に戻りなさい」
 美幸は少し戸惑った後、
 「院長は、昔、うちの母と何があったのですか?」
 と、真剣な表情で聞いたのだった。
 「どうしてですか?」
 「別に……。ただ、母は院長の事を恨んでいるようなので聞いてみただけです」
 「恨む……?どうして?」
 「私も分からないから聞いたんです。答えたくないなら別に言わなくてもいいですけど」
 美幸はぶっきらぼうにそう言うと、院長室を出ていった。その後ろ姿を見ながら、真実を知ってしまうのも時間の問題であるように浩幸には思えた。

 そんな四月の佳き日、七瀬が遂に結婚した。相手は見合いで知り合った五歳年上の農業を営む男性で、その披露宴に呼ばれた百恵は、友人代表でスピーチもした。高砂に座る白いウェディングドレスの花嫁は、普段の彼女とは別人の、清楚でおしとやかな美しさがまぶしかった。
 「光ッチ、おめでとう!とっても綺麗よ。私、感動しちゃった……」
 お酌に立った百恵の瞳には涙がたまっていた。
 「モモ、スピーチ、とっても良かったわよ!なあに?また泣いてるの?まったくモモは泣き虫なんだから!」
 そう言うと、七瀬は花婿を紹介した。名を田中啓治といい、彼は百恵に「光輝がいつもお世話になっています」と落ち着いた声で言うと、静かに微笑んだ。百恵も「こちらこそよろしくお願いします」と答えると、彼のコップにビールを注いだ。
 「とっても優しそうな人……、安心したわ……」
 「次はいよいよモモの番よ!どう?山口先生とはうまくいってる?」
 百恵は顔を真っ赤にすると、周囲を見渡した。浩幸は出席していないものの、コスモス園関係者が大勢来ているのである。百恵は七瀬の口をおさえた。しかし、あまりに幸せそうな七瀬を見ていたせいか、それとも浮かれた会場の雰囲気に浸っていたせいか、祝いの席でもあるし、先日のがりょう山での出来事を心にしまっておくことができなくなって、「絶対内緒よ!」を何度も繰り返すと、七瀬の耳元で、
 「キスしちゃった……」
 と囁いた。
 「ええっ!」と声をあげた花嫁に、会場の視線が集まった。しゅんとなった七瀬は「恥ずかしい事させないでよ!」と小声で言った。
 「それじゃ、なになに?もしかして、もしかするかも……?」
 百恵が頷くと、「結婚するかも知れない……」と恥ずかしそうに言った。
 「嬉しい事って重なるものね!また、後でゆっくり聞かせて」
 次々に訪れるお酌の人に押されて、「絶対内緒よ!」と念を押した百恵は高砂の席からはじかれて、席に戻るより仕方がなかった。
 そんな百恵のもとに須崎理事長がお酌に訪れた。かなり酔い、足下もおぼつかない様子で百恵の隣りに来ると、椅子に座り込んで長々と話を始めたのであった。
 「おやおや、誰かと思えば、山口先生の愛人じゃないですか。どうですか?その後、仲睦まじくやってますかね?」
 百恵は軽く笑ってあしらった。
 「あのワンマン先生にも困ったものだ。コスモス園の内情を知らないくせに、一から十まで、重箱の隅をつつくような事まで命令してくる。受け入れ側はたまったもんじゃないよ!こういうのを“素人狂言”と言うんだよね。そうだ、愛人のあなたから言ってもらえないかね」
 須崎は「こりゃ失礼、つい口が滑った。祝いの席だ、許してね」と嫌らしい笑みを浮かべながら百恵にビールを勧めた。
 「けっこうです。私、お酒、飲めませんから」
 「なんだい?君は上司の酒が飲めないのかね?」
 百恵は自分のコップのビールを一口だけ含むと、須崎の酌を受けた。
 「この間、雑誌に載った写真、理事長がお撮りになったんじゃないんですか?」
 「なんだい?君は、私がストーカーみたいな真似をして、雑誌社に情報をたれ込んだとでも言うのかい?ふん、馬鹿馬鹿しい!」
 「済んだ事ですので、もう、どうでもいいですけど……」
 須崎はだいぶ気分を損ねた様子で、
 「まあ、私にあまり口答えをして、統合前に首にならんようにすることだ」
 と言った。
 百恵は須崎を睨んで、化粧室へと席を立った。
 
> 第2章 > (十三)結託
(十三)結託
 須崎理事長のデスクの電話が鳴った。それを無愛想に取った須崎は、「はあ、はあ」と何度も繰り返しながら、「どちらさん?」と大きな声で言った。
 「林弁護士事務所?弁護士さんが何の用です?」
 しばらく会話をしているうちに、須崎は小声になっていった。
 「この間のスキャンダル記事を雑誌社に持ち込んだのはあなたですね?隠してもダメです。ちゃんと裏は取ってある。なあに、心配はいりませんよ。私も山口医院の院長先生には大きな借りがある者で……。ちょっとお会いしてお話がしたいのですが、お時間をいただけませんか?けっして悪いようにはしませんよ」
 「何の話ですか?」
 「一緒に借りを返そうと言っているんです。詳しくはお会いしたときに話しますよ」
 そうしてその日の夜に会う約束をした須崎は、考え事をしたままの姿勢で電話を切ったのだった。

 その日の百恵は遅番だった。新婚旅行中の七瀬の代わりの業務も担い、合わせてトメじいさんの部屋でひと悶着あったから、一日中息もつかせないほどの忙しさだった。
 出勤一番、後輩の「モモ先輩、助けて!」という言葉に連れられてトメさんの部屋へ行ってみれば、見舞いに来た奥さんと大騒動になっていた。
 「お前!俺の知らない間に浮気しやがって!いったい昨日の晩はどこへ行っていたんだ!」
 トメさんは叫ぶが早いか奥さんの恵さんに殴りかかったのである。
 「あんた!気を確かにしてよ!あたしはどこへも行ってやしないよ!」
 「じゃあ、あの男は誰なんだ?お前、手を引かれて出ていったじゃないか!」
 近年、トメさんの痴呆は悪化していた。介護のたびに「どうも、うちの妻が浮気しているらしい」とぼやくのを何度も口ずさむようになっていたのである。どうやら夜中に妄想にとらわれ、現実との区別がつかなくなっているらしいのだ。
 「トメさん!奥さんがそんな事するはずがないじゃない!昨日も夜遅くまでトメさんの世話をしていたのよ。私、知ってるのよ!」
 百恵は咄嗟にトメじいさんの身体をおさえて暴力を止めた。
 「やい!離せ!これは夫婦の問題だ!あんたは関係ないだろ!」
 トメじいさんは力任せに百恵を押し倒すと、再び妻に襲いかかった。慌てて駆け付けた男性介護スタッフがトメじいさんをおさえたが、
 「貴様が浮気相手だな!」
 と、今度はその男性介護スタッフが標的になってしまった。てんやわんやの大騒ぎの末、ようやく疲れておとなしくなったトメさんは、看護士の持ってきた精神安定剤を服用して、やがて静かに眠りについたのである。
 妻の恵は疲れ果てたように百恵に相談を持ちかけた。入所相談室に移動した二人は、重い空気の中で話を進めた。
 「なんせ警察なんてお堅い職業に就いていましたから、昔から表面上は厳格な人でした。でも、過去に何度か浮気をしたんですよ。本人は、私は知らないと思っていましたけど、全部お見通し。根は助平衛なんですよ……」
 恵は大きなため息をついた。
 「やっぱり!私もよくお尻を触られました!」
 思いつきで喋った言葉は、重い空気をいっぺんに転換させていた。それを肌で感じると、
 「本来ならセクハラで訴えられるところですけど、なんだかトメさん、憎めなくて……」
 あどけない百恵の言葉に、恵は笑い出した。
 「馬場さんて、楽観的なんですね」
 「よく言われます。楽観的じゃないと、こんな仕事やってられないんです。重度のアルツハイマー病の介護者だって、きっと良くなるって、私、信じてるんです。医学的に快復の見込みがないといったって、それは医学上の問題であり、人間の可能性ってそんなものじゃ測れないって思います。きっとトメさんも良くなりますよ!」
 精一杯の励ましは、恵の心を明るくしていた。
 「そうでしょうか?なんか馬場さんと話をしていると、本当にそうなるような気がします。きっと、あれでしょうね。自分がしてきた浮気が、ボケた今になって妄想となって出てきたんでしょうかね?」
 「そうかも知れませんね。でも、もしそうだとしたら、昔の事を思い出したってことでしょ?いい事じゃないですか!どうか、お気を落とさずに。私も介護の立場からしか関われませんが、絶対良くなるって信じて接してますから!」
 やがて恵を見送った百恵は、小さな自責の念に駆られていた。それは、トメさんの痴呆が良くなる確証などないくせに、まるで良くなると断言した口調で話をしてしまった事である。しかし希望のある介護と、ない介護とでは、前者の方がより価値があると信じて疑わなかった。事実はどうあれ、介護に疲れ果て、暗い気持ちで生きるより、少しでも希望を見いだして、楽観的に生きる方が幸せであろうと思うのである。当事者の苦労も知りつつ、そう生きる介護人生の中に、事実を超える人間の真実があると思うのだ。
 百恵は、「間違いない、間違いない」と心で呟きながら、いつまでも彼女の後ろ姿を見送った。

 ちょうどその頃、長野市街のとある料亭で、二人の男が会っていた。二人は名刺を交わし合うと、酒と料理を前にして、小声で密談を始めた。
 「単刀直入に申し上げます。お呼び立てしたのは他でもない。山口医院の院長を一緒に干そうという相談です。どういう経緯があるか存じませんが、須崎さん、あなたもあの先生には恨みがある様子だ」
 男は美津子の現夫である林武に違いない。
 「実は私も同じ口でして、以前担当した医療裁判で二度までも、あの山口による反証で敗訴に陥れられました。まあ、恨みの理由などどうでもいい。ここは手を組んで一緒に恨みを晴らそうという相談ですよ。いかがでしょうかね?」
 須崎は林と名乗る男に目を細めた。
 「面白そうな話だが、何か妙案でも?」
 「まあ、一献やりながら、ゆっくり話しましょう」
 武は須崎の盃に酒を注いだ。それを飲み干した須崎は、盃を武に返し、酒を注いだ。
 「あなたの恨みも相当のようだ。商談成立というわけですな……」
 武はそういうと注がれた酒を飲み干した。二人は不気味な笑い声をあげた。
 「聞かせてもらいましょう、その策を」
 「まあまあ、そう慌てず。まずは料理でも食べましょう」
 二人は世間話などしながら、お互いの腹を探り合うような口振りで、暫く話し込んでいたが、やがて武が本題に入り始めた。
 「ここ数ヶ月中に奴は医療ミスを犯す」
 「ほう……、どういうことですかな?」
 「私の娘が看護士としてあの医院に潜んでいる。実は血のつながらない娘です。何を隠そう、奴の実の娘だ。恥ずかしい話ですが、私の妻は奴の前妻でして……」
 「これはこれは、夫婦揃ってお恨みとは、愉快、愉快……」
 「娘は幼い頃から手なずけておりますから、私や妻の言うことなら何でも聞きます」
 「ほう……」
 「医療ミスを犯したら、直ちに私はその被害家族に取り込んで、あらゆるマスコミを使って騒ぎ立てます。あなたにしてほしい事はその後です」
 武はさき程のスキャンダル記事が掲載された雑誌を広げると、
 「医療ミスで世間が騒いでいる中へ、これと同等のものを雑誌社にたれ込んで頂きたい。奴に追い討ちをかけるのです。なあに、でっちあげでもいい。“医療ミスで騒がれている最中、反省の色ひとつ見せずに逢い引き”という具合に、奴の信用をガタ落ちにさせるんです。この間のスキャンダル騒ぎもあるし、きっと奴は、二度と立ち上がれないでしょう」
 須崎はにんまり笑った。
 その日、その料亭の一室から漏れる明かりは、夜遅くまで消えなかった。
 
> 第2章 > (十四)悶々とした日々
(十四)悶々とした日々
 
> 第2章 > (十五)嵐の前の恋の酔いしれ
(十五)嵐の前の恋の酔いしれ
 
> 第2章 > (十六)医療ミス
(十六)医療ミス
 
> 第2章 > (十七)罪の影
(十七)罪の影
 
> 第2章 > (十八)母娘になるはずの間柄
(十八)母娘になるはずの間柄
 
> 第2章 > (十九)葬り去られた夢
(十九)葬り去られた夢
 
> 第2章 > (二十)光明
(二十)光明
 
> 第2章 > (二十一)過ぎ去った悪夢
(二十一)過ぎ去った悪夢
 
> 第2章 > (二十二)告白
(二十二)告白
 
> 第2章 > (二十三)暗闇の殺意
(二十三)暗闇の殺意
 
> 第2章 > (二十四)脳移植
(二十四)脳移植
 
> 第2章 > (二十五)伝え尽くせぬ言葉
(二十五)伝え尽くせぬ言葉
 
> 第2章 > (二十六)二人だけの結婚式
(二十六)二人だけの結婚式
 
> 第3章
第3章
 
> 第3章 > (一)帰らぬ人
(一)帰らぬ人
 私の名前は“山口百恵”───。
 山口百恵になったけど、私の心は沈んでる。
 それでも介護のおじいちゃん、おばあちゃんには悪いから、毎日必死に笑顔を作ってる。でも、もう限界…………。
 家庭の事情で日勤にしてもらったけど、学校帰りの大樹君のご飯を作って寝かせた後は、こっそり浩幸さんの書斎のデスクに座って泣くの。
 浩幸さんがアメリカへ行って、もう一カ月になろうとするのに、彼からも西園さんからも何の音沙汰もない。でも連絡がないのは無事の知らせって言うでしょ?きっと手術に成功して、今頃リハビリに勤しみはじめてるに違いない。もうお盆よ!浩幸さん、早くしないと来月の統合までに間に合わないわよ!
 そう、結婚してからもうたいへんだったんだから!
 私のお父さんやお母さんは「どうして何の相談もなしに結婚したのか!」って、血相を変えて激怒して、私達の事情も話したけれど、とても理解してもらえる状態じゃなくて、とりあえず浩幸さんがアメリカへ発ったその日から、私は両親に住所だけ教えて彼の家に住み始めたの。でも家出でも勘当でもどちらでもいいから、号泣しながら「そんな娘に育てた覚えはない!」と、電話をかけてくるのはやめてほしい。家も同じ市内だし、それほど心配する事じゃないじゃない!こっちは大樹君の面倒を見なくちゃいけないんだから!───ごめんね、お父さん、お母さん。親不孝な娘をどうか許して下さい。
 彼がいない新婚生活───。これって新婚生活っていえるのかしら?それでも毎晩、彼の匂いの染みついた布団で寝るのがせめてもの慰め。そして隣には大樹君がいる。もしかして私はこうして処女のまま一生を終えるのかしら?
 そんなことない。彼はきっといつもの笑顔で帰ってくる。そう思い聞かせて笑って見るけれど、やっぱり不安の方が先に来て、私は寝姿の大樹君を抱きしめる。
 もし、彼が帰って来たら何て言ってやろう───、
 「お帰りなさい……」「調子はどう?」「こっちは大丈夫だったからね」「アメリカの旅はどうだった?」「手術は痛くなかった?」……それとも……「ずいぶんと長かったのね!」「ずっと待っていたのよ!」「不安で不安で仕方なかったんだから!」…………あれこれ考えてはみるけれど、でもやっぱり最初は「お帰りなさい」かな……?
 でも、もし、もしも、帰って来なかったら……?
 そんなことない───、そんなことない───

 突然、西園が家に訪れたのは、それから数日後の夕飯時だった。リビングのテーブルにハンバーグを置いて、大樹と向かい合わせにテレビを見ながら、学校での出来事をいろいろ聞いているときインターホンが鳴った。家内のモニタを見れば西園で、百恵は慌てふためいて玄関を開けた。
 「西園先生!浩幸さんの手術は?手術はどうでした?うまくいったんでしょ?」
 西園は何も答えず、百恵と目線を合わせようとはしなかった。その様子に大きな不安をあからさまに、百恵は彼を居間に通した。そして大樹にテレビを消させると、自分の場所の隣りに大樹を座らせ、その対面に西園を案内した。それから、「すいません、丁度ご飯を食べている時で……、今コーヒーを入れますから」と立ち上がろうとしたところを、西園は止めて、真剣な表情で百恵を見つめたのだった。
 「馬場さん……」
 西園の大きな図体の小さな両目から涙がボタリと落ちた。
 「院長は……死にました───」
 百恵の意識が重力を失い、身体が逆さまになったり、果てしない地獄の底へ落下したり、あるいは宇宙ゴマのように頭を軸に回転したり、遠のく意識の中で妙な体験をしていた。
 「手術自体は成功したのですが、術後まもなく拒絶反応を起こし、むこうの医師達と万策を尽くしたのですが……、おととい、息を引き取りました───。申し訳ありません!この西園が付いていながら!」
 西園は鞄の中から浩幸の遺言を書き留めたメモを取りだし、百恵の前に置いた。
 「これは院長の遺言です。馬場さんに伝えるよう頼まれました───。それから……」
 西園は更にもう一枚の書類を取り出すと、メモの横に並べて置いた。見れば離婚届けに違いなかった。
 「院長の最後の願いです。“もう死ぬ自分にいつまでもとらわれていないで、別の男性と幸せになって下さい”と……。大樹君も私が引き取ります───」
 「うそ!」
 百恵は俄に笑い出した。
 「うそよ!そんなの!みんなで私を驚かそうと思って!」
 「馬場さん……」
 「あの人が死ぬはずないじゃない!だって彼にはやらなくちゃいけない事がまだまだ沢山あるのよ!」
 「どうしたの?」
 隣の大樹が百恵の豹変振りを気にして言った。
 「大樹君、あのな……」
 「言わないで!」
 西園が言おうとしたところを百恵は遮った。
 「大樹君、あのね……、パパの手術が成功したって。でもね、退院までにはまだ時間がかかるから、もう少し待っていてねって、西園さんがそう伝えに来てくれたのよ」
 「ふうん……」
 大樹はそう言うと、安心したように「ゲームしてていい?」と聞くと、そのままゲームを始めてしまった。
 百恵は目の前の離婚届と遺言を手に取ると、ろくに読みもしないで破ってゴミ箱に捨てた。
 「馬場さん……」
 「もう馬場さんて呼ばないで下さい。私は浩幸さんの妻なのですから。それに大樹君は私が立派に育ててみせます。お願い、だから西園さんはもう私の前で、浩幸さんが死んだなんて二度と言わないで!私、浩幸さんが帰って来るまで待ってますから」
 「しかし……」
 「何か問題がありますか?」
 「山口医院の事にしろ、来月に控えたコスモス園との統合にしろ、当面は私が院長の代理で務めますが、いずれ別の有能な逸材を正式登用する予定です。そうなればいつまでも院長夫人を名乗っているわけにもいきませんし、正直言って足手まといになるのです。すいません、こんな言い方をしてしまって……」
 「そんな肩書きいらない!この家もいらない!分かって下さい!私、浩幸さんを愛してるの!」
 「すみません。訃報を伝えるために来ましたが、余計な事を言いました。馬場さんの気持ちが落ち着いた頃、再び来ます……」
 西園はそう言い残すと、元気のない様子で帰って行った。
 百恵は彼を見送ろうともせず、いつまでもゲームに夢中になる大樹の後ろ姿を眺めているのだった。
 
> 第3章 > (二)ゆくえ知れずの祝賀会
(二)ゆくえ知れずの祝賀会
 コスモス園の医療法人化、及び山口脳神経外科医院と同施設の統合祝賀会が予定通り執り行われたのは、九月に入って間もなくの事だった。その日、新しく広く改築されたリハビリ室には、両施設の主要人物及び来賓、並びに職員、そして出席しても身体に差し支えのない入所の老人達が集まり、盛大にその催しが開催されたのだった。百恵は動けない入所者達の介護を志願し、メイン会場には行かなかったが、その様子は施設内放送で逐次リアルタイムで知ることができた。
 挨拶に立った院長代理の西園は、その時初めて浩幸の死を正式に発表し、今後の運営についての展望を述べたのだった。院長の逝去については既に噂で流れ、施設内の誰もが知っている事であったが、百恵はそんな挨拶など聞きたくなかった。だから西園の挨拶の時は、時間を見計らって、ひとりのおばあちゃんをお風呂に入れながら、放送の音量をゼロにあわせて、まったく普段と同じ仕事に専念していたのだ。
 「今回のこの統合は、山口浩幸先生なしでは絶対にありえなかった一大事業であります。私達は故人の念願だった介護医療の充実へ、一段と力強く前進して参りたい。これこそ、私達が故人に報いるたったひとつの答えであります。私も力の限り全力で取り組んで参りますので、皆様方の惜しみないご協力を切にお願いするものでございます!」
 西園は涙を流しながら深々とお辞儀をした。
 「そしてもうひとつ、皆様方にご報告しなければならない事があります。本日は諸事情により出席する事が出来ませんでしたが、数ヶ月後に、この医療法人の理事になり、またここコスモス園の代表役をお受け頂くジャン=ジャック・デュマ先生の紹介であります」
 会場は一瞬、何の事だろうと耳をそばだてた。
 「この件に関しましては、先日の最高会議におきまして、施設長以下重役の皆様にはご承諾いただいておりますので、この場を借りて公表しておきたいのですが、デュマ先生は若干二十八歳のフランス人脳外科医であります。故山口浩幸先生との親交も厚く、故人が亡くなる直前、御自分の意志の全てをその若き青年に託したのでありました。実はデュマ先生が学生時代日本に留学していた頃故人とお知り合いになり、以来何年にも渡り、医学上の意見交換、あるいは医療と介護の問題等も含め交流し、国境を超えて公私ともに仲良くされてきた秀才中の秀才でございます。フランス人といいましてもご心配はいりません。日本の留学時代に日本語をマスターし、ともすれば私よりも堪能でありますから」
 会場に僅かな笑いが起こった。しかし、一種異様な雰囲気が漂っていたのも事実だった。てっきり西園が浩幸の後任に就くのだろうと誰しもが思っていたのが、突然、見たことも聞いたこともないフランス人が登場してきたのである。最後に西園は、「来日されるデュマ先生と一緒に、故人の夢を実現して参りましょう!」と結び、壇上を厳かに降りたのだった。
 その後、数人の重役や来賓達の挨拶の後、会場は和やかな会食の場となった。その中にお腹を大きくした旧姓七瀬光輝の姿もあった。田中と姓を変えてから、間もなく子供ができ、現在は妊娠六ヵ月の身でありながら仕事に従事している。百恵が日勤に移ってからは、ゆっくり話をする事もなく、浩幸の死の噂を聞いてからも慰めの言葉すらかけられないでいたのである。光輝は会場に百恵の姿がないのを確認すると、料理には目もくれず、百恵を探しに席を外したのだった。
 「モモ、こんなところにいた……」
 ようやく屋上で、仕事の職員に振る舞われた折を食べながら、遠くを見つめている百恵を見つけた光輝は、微笑みながら寄って行った。
 「光ッチ……」
 「なあんだ、祝賀会の会場には来なかったんだ。モモと久しぶりに話ができると思って楽しみにしてたのに」
 百恵は感傷的な表情を笑みに変えて、
 「うわっ!お腹がこんなに大きく……食べ過ぎじゃない?」
 「その冗談、懐かしい」
 二人は顔を見合わせて笑った。しかしつかの間、百恵は食べかけの箸を置いて、
 「死にゆく生命に、生まれゆく生命……。いったい生命ってなんだろう?」
 と、沈んだ口調で呟いた。
 「モモ……」
 すると、百恵はいきなり光輝の太股に顔をうずめると、大声をあげて泣き出したのだった。一人でずっと堪えていた悲しみが、久しぶりに会った光輝の顔を見た途端、堰を切ったように爆発したのだ。
 「浩幸さんね、必ず帰って来るって言ったのよ!絶対元気になって、また一緒にがりょう山に登ろうって約束したの!それにまた大樹君と三人でドライブしようって!なのに、なのに、どうして!どうしてなの!」
 光輝は百恵の涙の洪水を堰き止めるどころか、何も言ってあげられなかった。
 「よし、よし。泣きなさい、泣きなさい───。涙が枯れるまで、うんと泣きなさい───」
 光輝は百恵の背中を優しく叩きながら、同苦の涙をいつまでも流していた。
 やがて百恵は急に頭を起こしたかと思うと、涙を流したまま折の中の料理を次々に頬ばりはじめた。呆れた光輝は、その中のエビの唐揚げをつまみ取ると、一口に食べてしまった。
 「ああ、それ最後に食べようと思ってたのに!」
 涙声の百恵が言った。
 「まったくモモったら!泣いて損しちゃったわ!妊婦なんだから栄養取らせて!」
 百恵はやっと笑って涙を拭いた。そして、
 「私、どうしたらいいと思う……?」
 沈んだままの声で聞いた。
 「そうね、モモにはとっても悲しくて、言いずらいことだけど、死んだ人間の事、いつまでも思ってるわけにはいかないじゃない?私達、まだまだ若いんだし……」
 「でもね、私にはどうしても浩幸さんが死んだとは思えないの───」
 「そりゃそうよ、ついこの間まで、目の前で呼吸していた愛した人間が、突然いなくなるなんて信じられるわけないよ。でも、冷たい言い方かもしれないけど、それが事実なのだから現実を受け入れなきゃいけないと思う……」
 光輝は百恵の表情を気にしながら、言葉を選びながらそう言った。百恵は何も答えず、卵焼きを口に運んだ。そして、
 「二二五号室の千さんいるでしょ?」
 「千ばあさんの事?戦争でご主人と生き別れた───」
 「そう……。私、最近、彼女の事、ずっと考えてるの。偉いなあって。ああいう人生もあるんだなあって。愛した男の人をずっと待ち続ける……、これも女の一生かなって思えるの」
 「バカなこと考えるのはよしなさい。男のための人生なんて古い、古い!」
 「そうかなあ……」
 「そうだ、こうしなさい!今度コスモス園の代表役になる人、ジャン=ジャック・デュマ?だったかな?フランス人。話聞いてたら、山口先生ほどの力のある人のようだし、その人捕まえて結婚したらいい!」
 「代表役って、西園先生がなるんじゃないの?だあれ、その人?」
 「話聞いてなかったの?山口先生の後輩で、秀才中の秀才だってよ。山口先生ととっても仲がよかったんですって。二十八歳、年も丁度同じ頃だし、後は独身で、顔とスタイルが良ければ文句なしってとこね!」
 百恵は聞き流して一笑に伏した。しかし、ふと首を傾げた。
 「浩幸さんと仲が良かったって、どれくらい?」
 「なんでもデュマ先生?だったかな?彼が学生時代に日本に留学していて、その時知り合ったみたいで、以来公私共に仲良くしてたって言ってたわよ」
 「名前、何だっけ?」
 「デュマ、確かジャン=ジャック・デュマって言っていたと思う。何か思い出した?」
 「違うの……。浩幸さんがいない間、私、彼の家の中をずっと整理してたんだけど、そんな名前の外国人とやりとりをしていた形跡が全くなかったなあと思って。アルバムの写真も見たけど、そんな人、いたかなあ……」
 「きっと医院内のPCでEメールかなんかでやり取りしてたんじゃないの?医学的な意見交換もしてたみたいだから……」
 「…………」
 「まあ、数ヶ月中に来日するって言っていたから、いずれ来れば分かるわよ!」
 「そうね……」
 やがて就業のチャイムが鳴った。百恵は食べかけの折を光輝に渡すと、
 「これ、全部あげる!妊婦さんは栄養つけなきゃね!」
 と言い残し、施設内に小走りに入って行った。
 「なによ、キャベツとニンジンだけじゃない!あ〜あ、心配して損しちゃった!」
 光輝はそう言って微笑むと、残りのキャベツを食べて背伸びをした。
 
> 第3章 > (三)ジャン=ジャック・デュマ
(三)ジャン=ジャック・デュマ
 ジャン=ジャック・デュマ───。
 この得体の知れない人物がコスモス園に訪れたのは、祝賀会が行われてから約二カ月後の十月下旬の事だった。北信濃はすっかり秋の装いを済ませ、施設の駐車場に植えられた紅葉の葉は真っ赤に染まり、その前を黒ずくめのスーツに身を固めたサングラスの一人の白人男性が、西園に連れられてやってきたのである。
 コスモス園の重役達が玄関前に居並んで、その男を迎え入れる光景は、新生コスモス園の出発にふさわしく見えもしたが、入所の老人達はまるで終戦の鬼畜米英を受け入れるような物珍しさを隠せなかった。
 二十八歳、フランス人。身長は一八〇センチはあろうかやや痩せ形で、サングラスをはずした鋭い瞳は青かった。栗色の髪は地毛であろうか、短く切った清潔感は、その立ち居振る舞いからも感じる事ができた。“デュマ先生”と呼ばれたその男は、コスモス園の重役達に連れられて、休む間もなく施設内の巡回を始めたのだった。
 仕事中の百恵は、三階の部屋の窓から、中庭で会話をしながら歩く彼等の姿を見つけた。
 「あの人がデュマ先生───」
 そう思うと、身体が震えた。浩幸についての真実を聞いたら、きっと西園と同じ事を言うのだろう───。百恵がどうしても認めたくない“浩幸の死”に対して、いつまで背を向けていられるのかと思うと、涙を堪えるために奥歯を強く噛みしめてしまうのだ。その恐怖から逃れるために、できることなら彼には会いたくなかった。
 その日は午後、早番者と遅番者が入れ替えになる三時に昼礼が持たれた。壇上に立つジャン=ジャックは終始落ち着いた様子で、堪能な日本語で挨拶をしたのである。
 「ミナサン、コンニチハ」
 フランス訛りの日本語に、一瞬のうちに会場が和やかになった。
 「はじめまして。僕の名前はジャン=ジャック・デュマといいます。どうぞよろしくお願いします。ムッシュヒロユキは優れた脳外科医であり、僕の良き先輩でもありました。彼は死ぬとき僕にこう言いました。『全てをよろしく頼む』と。僕はその時、その意味を全て理解しました。何故なら彼と僕は、出逢ってからついこの前彼が死ぬまで、彼とは医療問題や介護問題の細部に渡って、あらゆる角度から意見交換をしてきたからです。いわば彼は、僕にとって最大の師匠であり、友人でありました。その時、彼の夢は同時に僕の夢となったのです。どうか皆さん、まだ若輩のフランス人でありますが、どうぞ煙たく思わないで仲良くやっていきましょう!」
 非常に気さくな短い挨拶であったが、会場は拍手で温かく彼を迎え入れたのであった。
 百恵が廊下で彼とすれ違ったのは、各部屋の布団のシーツを取り替えて回っていた時であった。洗い立ての真新しいシーツを十枚ばかり抱え、二階の一番奥の部屋に向かって歩いていると、向かいから施設長の高野に連れられたジャン=ジャックが、各部屋の様子を覗きながら向かってきたのである。百恵は初めての間近な対面に、多少の緊張を覚えながらすれ違い様に軽い会釈をした。ジャン=ジャックはそんな百恵を気にする様子もなく、高野と話しながら通りすぎた。
 が、次の瞬間、百恵の歩みがピタリと止まった。
 なぜなら、二人がすれ違った際に生じたほのかな風の中に、あるいはすれ違いの気配の中だったか、いや、もっと微妙な五感を越えたところでの無我の境地の中だったかも知れない、確かに浩幸を感じたからである。
 百恵は“はっ”として振り返った。ジャン=ジャックは、高野との会話に笑みを浮かべながら、階段を下りるところだった───。

 その晩、浩幸の邸宅に、西園とジャン=ジャックが訪れた。百恵はいやな予感を覚えながら二人をリビングに通すと、コーヒーを入れた。ジャン=ジャックは家の造りを絶えず気にしながら「良い家だ」を繰り返した。
 大樹は寝そべりながら、二人の来客には何の関心も示さずテレビを見ていた。そして西園はジャン=ジャックに百恵を紹介したのだった。
 「おお、ムッシュヒロユキの奥さんでしたか。お気の毒に……。しかし、青春は必ず過ぎ去るものです。気を落とさないで。僕はまだ独身ですが、フランスには“神が男と女をおつくりになり、悪魔がそれを夫婦にする”という諺もあります。また、“慌てて結婚をすると、ゆっくり後悔する”ものです。一日も早くヒロユキの事は忘れて、立ち直る事を希望します。いつまでも死んだ人間に執着していたら、時間なんてすぐに過ぎてしまいます。フランスでは“変わらない考えは、正しい考えではない”と言うんですよ」
 百恵はジャン=ジャックを睨み付けた。
 「あなたに何が分かるというのですか!?」
 西園は慌てて「馬場さん!」と言って百恵の言葉を止めた。次いで、「実は今日ここに来たのは……」とその理由を話し始めたのだった。
 話の要旨は、浩幸の自宅をジャン=ジャックに貸して住まわせたいという相談だった。西園は終始言いずらそうに話したが、要は簡単な内容だった。あまりに遠回しに語る西園にしびれを切らせた百恵は、
 「要するに私に出て行けと言うのですね!」
 と言った。西園は困った顔をしながらも、
 「早い話がそう言う事です……」
 と言った。
 「とはいえ、前院長と所帯を持っている方ですので、そんなないがしろにはしません。アパートあるいは一戸建てに移るにせよ、家賃その他諸々の生活にかかる費用は、全て医院が負担しますから」
 西園が言い終わるや否や、
 「分かりました」
 と、憤りを隠せない様子で百恵は答えた。そして大樹に、
 「ねえ、大樹君、お姉ちゃんと一緒にお引っ越しする事になるけどいいかなあ?」
 と言った。大樹はテレビに夢中になったまま「別にいいよ」と答えた。西園は少し慌てたふうに、
 「いえ、大樹君は移る必要はありません。ここは大樹君の家なのですから」
 と言った。
 「なぜ?大樹君は、私と浩幸さんの子供です。そんな不自然な話などあるものですか!それとも離婚の手続きをしろって言うの?そんなこと絶対にできません!私、一生、浩幸さんの未亡人でいいの!」
 その会話にジャン=ジャックが割り込んだ。
 「実はムッシュヒロユキに、大樹君の事も任されたのです。一緒に生活してほしいと……。本当の事を言うと、貴方の事も全部聞いて知っているのです。死んだ者の影を抱いて生きるのではなく、死んだ者との思い出は、全て遠い過去に葬りさって、明日という実在を求めて、貴方に相応しい男性との愛を育みながら生きてほしい。これがヒロユキの偽らざる心でした」
 百恵はムッとして、悲しげな表情でジャン=ジャックを見つめた。
 「あなたはいったい浩幸さんの何なの?突然、姿を現しといて、浩幸さんの事を全部知っているような事を言わないで!」
 と、いつもの涙が溢れてきた。どうにもこの涙には百恵自身困っていた。けっして涙は流すまいと言い聞かせてはいるのだが、浩幸の話になると、どうにも質が悪いのである。やがて悲しみに任せて、
 「大樹君と別れるのなら、私、この家を出て行かない!」
 と叫んでいた。
 「馬場さん……」
 「困った女性ですね……」
 西園に続いて、ジャン=ジャックが言った。西園はジャン=ジャックを横目で見つめた後、こう提案した。
 「それじゃあ、いっそ、一階を馬場さんと大樹君が使って、二階をデュマ先生が使うというのはいかがでしょう?考えてみれば、こんな広い家、一人で住むにはもったいない」
 すかさず、ジャン=ジャックは少し慌てたように、
 「バカを言ってはいけません。未亡人の女性のところに独身の男が住むなんて事は、社会的にも許されませんよ」
 と言った。西園は呆れたような笑みを浮かべると、
 「まあ、返答は今すぐでなくてもかまいません。しかし、いずれそのように考えていますので、実家に戻るなり、あるいは、今からでも不動産に当たっておいて下さい」
 「当面の僕の住処は、医院内の宿直室ということですね」
 ジャン=ジャックは愛嬌のある微笑みを浮かべて、その日二人は帰って行ったのだった。
 
> 第3章 > (四)変わりゆく環境
(四)変わりゆく環境
 コスモス園の北側に、新しい棟が建っていた。間もなく職員の間では“死せる病棟”という異名を付けられた特別養護棟、略して特養棟は、いままで社会福祉法人では受け入れることのできなかった重度の要介護老人を専門に受け入れる建物である。そこに配属された看護士及び介護スタッフ達は、いわゆる寝たきり老人達の世話をしながら、打てど叩けど何の反応も示さないような入所者達を相手に、意気消沈の日々を送るようになっていた。次第にその病棟だけが隔離されたような雰囲気になり、職員同士の間でも、その棟の配属スタッフ達に同情が注がれるようになっていた。
 百恵の配属が、その特養棟の介護責任者として移転が決まったのは、ジャン=ジャックが訪れて間もなくの、十一月初旬の事だった。ある日、丸腰に呼ばれてミーティングルームに入ってみれば、気の毒そうに言う彼女の言葉を聞いたのである。
 「百恵さん、デュマ先生直々の辞令よ。あなたを特養棟の介護責任者として移転を命じるって。昇格はいいけど、どうする?」
 「どうするって、お断りすることなんかできるんですか?」
 「まあ無理でしょうね……。でもこれって、あなたへの当てつけじゃない?聞いたわよ、山口先生の家の事。早く空け渡してしまえばいいじゃない。“死せる病棟”の管理人なんて、あなたらしくないわ」
 百恵は少し考えた後、
 「分かりました。お引き受けしますので、そう伝えて下さい。いつからですか?」
 と答えた。
 「今月、月替わりの二十三日からって言ってたわ。本当にいいの?」
 「仕方ないじゃないですか……」
 丸腰の「当てつけじゃない?」という言葉に、百恵もそうかも知れないと思った。途端に気持ちが沈んで、今まで仲良くしてきたおばあちゃんやおじいちゃん達の顔が浮かんできた。と同時に、浩幸に執着するあまりに、家を開放できない自分を恨めしく思ったりもした。別に意地を張っているわけではない。大樹と別れなければいけないという一点のみに問題があった。大樹と別れる事は、即、浩幸を諦める事を意味していたし、それ以前に、自分の子供と決めた以上、どこまでも面倒を見ていく決心をしていたのだ。百恵の心には、大きな孤独感が残った。

 そんな折り、太一と美幸が結婚した。いわゆる“できちゃった結婚”である。太一十九歳、妊娠三ヶ月の美幸は十八歳の若い夫婦の誕生であった。
 結婚などまだ真面目に考えていなかった太一は、美幸に子供ができた事を知り、蒼白になって進学を断念し、慌てて地元の板金工場への就職を始めた。両親は、
 「いったいうちの子供たちは、どういう神経をしているのだ!」
 と呆れ返っていたが、自分達が育てた子供の手前、あまり強くは言わなかったようだ。その報告を浩幸の家に訪れた二人から聞いた百恵は、両親の思いとは裏腹に、なんだか無性に嬉しかった。
 「浩幸さんが帰って来たら、真っ先に報告しなくちゃね!」
 その明るい言葉に、太一も美幸も悲しい顔をせずにはいられなかった。
 「姉ちゃん、まだあの院長先生が戻って来ると思ってるんだ……」
 その雰囲気を吹き払うように、
 「そんなことより、子供の名前、何にするの?」
 と、はしゃいだ様子の百恵が言った。
 「私が考えてあげようか?女の子だったら……、そうね……」
 「“百恵”───。お姉さんの名前、いただいていいですか?」
 美幸が恥ずかしそうに言った。
 「私、お姉さんのこと、尊敬してるんです。女の子だったらお姉さんの名前を下さい」
 「それはダメよ!馬場百恵なんていう名前になったら、ずっと、自分の名前にコンプレックスを持って生きなきゃいけないのよ!子供が可哀想だから、それだけはやめなさい」
 そこでいくつかの名前を提案しながら、最終的に「“馬場蝶々”なんてどう?」と、百恵はいたく気に入ったようであった。続いて、男の子だったら何にしようと話し合っていると、やがて美幸が、
 「“浩幸”って付けたいと思う……」
 と静かに言った。百恵は悲しそうな顔をした。
 「違うの。お姉さんのご主人っていう意味じゃなくて、私のお父さんの名前を付けたいの。私が知らずに過ごしてきた年月を、お父さんはどんな思いでいただろうって考えると、そのお父さんが愛せなかった分、私は生まれてくる子供を愛してやりたいから……」
 「そう……、“馬場浩幸”か……。いい名前ね……。きっと子供も喜ぶと思うわ」
 百恵は複雑な心境で微笑んだ。
 こうして太一と美幸は、馬場家側の近しい親戚と二人の友人を集めて、ごく簡単な結婚披露パーティを行った。百恵はこれから配属される特養棟への勤務の不安と、美しい花嫁の姿を見つめながら、天国と地獄を行ったり来たりしているような感覚を味わった。
 そして二人の新婚生活は、美幸の家から始まり、妹の香澄の面倒を見ながら、端から見れば非常に危なげな船出をしたのであった。

 入所者達の間で、百恵の移転の噂がまたたくまに流れると、老人達はこぞって、「たまにはこっちにも顔を出しておくれよ」と、その別れを、まるで異国に旅立つ娘を見送るような仰々しさで悲しんだ。
 「すぐ隣の棟なんだから、そんなに悲しい顔をしないで。私もちょくちょくこちらに顔を出すし、おばあちゃんも特養棟の方へ遊びに来て」
 そうは言うものの、中には涙を流すおばあちゃんもいたりで、百恵の胸は締め付けられた。
 そして、千ばあさんが死んだのは、百恵が移転する三日前のことだった───。
 戦争に出征したままのご主人を、ただひたすら待ち続け、必ず帰ってくると信じたまま逝ったのだ。待ち続けるのも愛の形のひとつと教えてくれた千ばあさんの表情には、ほのかに笑みが浮かんでいるように見えた。百恵は彼女の亡骸に抱きつくと、
 「千さん、どうして死んじゃうのよ!ご主人が帰って来たらどうするのよ!」
 と、いつまでも泣き続けるのだった。浩幸を待ち続けると決心した自分の心を、誰よりも理解してくれるはずの彼女の死は、百恵にとっては唯一の心の支えを失ったようなものだった。
 「千さんだけが、私の希望だったのよ……」
 しかし、千ばあさんは、もはや何も言わなかった。
 こうして変わりゆく環境の中、ますます孤独な百恵の心は、間もなく訪れる冬の足音に怯えながら、行き先不明の暗い空間に、その第一歩を踏み出すより仕方がなかった。
 
> 第3章 > (五)死せる病棟
(五)死せる病棟
 特養棟勤務の初日、そのロビーに立ったとき、百恵は冷たい異様な空気を感じた。施設自体は真新しいのだが、ガランとした空間には誰もおらず、ただ朝の寂しげな光が射し込んでいるだけで、物音ひとつしないのである。運動靴のキュッ、キュッと鳴る音だけを響かせながら、一階のスタッフルームに入れば、まるで無気力で話しもしない数人の職員が百恵を見つめた。
 「おはようございます!今日からこちらでお世話になる山口百恵です!」
 その元気な声を迷惑そうに、やがて尾佐田と名乗る女性看護士が、介護責任者のデスクに百恵を案内した。そして、前介護責任者の介護記録一式を無造作に渡すと、
 「なあに?あなたも島流し?」
 と言い残して、自分のデスクに戻ってしまった。
 「他のスタッフは?」
 百恵は近くにいた若い男性介護スタッフをつかまえて聞いた。
 「早番者は各部屋で仕事をしてますよ」
 若い介護スタッフはやる気なさそうに答えた。
 「とりあえず施設内の様子を見たいから、あなた、案内してくれない?」
 「ええっ?俺がっすか?」
 男は面倒くさそうに立ち上がると、百恵を連れてスタッフルームを出た。
 「まったくたまったもんじゃないっすよ!今年の四月にここに就職できたまでは良かったけど、医療法人化になった途端、ここに回されちまった。なんだかこの棟にいると、気持ちが沈んでくるんすよね。あんたの前の介護責任者も、鬱状態になって辞めていったんすよ。あんた山口さんて言うの?まあ、気の毒だけど、いつまで続くか見ていてやるよ───」
 第一印象と違って話し好きな男らしい。歩きながらいつまでも話を続ける彼の名を、大川陽一といった。介護専門学校を卒業したての、小柄な十八歳である。
 「ここにはね、話し相手が一人もいないんすよ。話をするにはするけど、話しているうちにため息の合唱になっちまう。ため息協奏曲第一番、なんてね。この間なんかね、スタッフの女の子が泣き出して、レクイエムになっちゃった。悲愴さを決定する音楽コンクールに出たらきっと優勝するね」
 「無駄口を言う暇があったらこの施設の説明をして」
 「山口さん、真面目なんですね。介護責任者としてはりきって来たのは分かるけど、あまり一生懸命にならない方がいいっすよ。どうせ、動けない痴呆老人に生命力を奪われて、その元気も、もって三日というところかな?俺は一日でアウト」
 大川は始終無駄口を叩きながら、三十室程ある部屋を回ってから、風呂場や接待室やボイラー室などを案内した。行く先々で見かける介護スタッフ達の表情は疲れ切り、百恵の姿を見かけても、笑って声をかける者などは一人もいなかった。
 一回りしてデスクにつくと、次に机の介護記録に目を通した。
 収容人数は二十六人。そのほとんどが要介護認定五を受けた重度の要介護老人で、中には山口医院で収容しきれない脳死患者までいる。いわゆる寝たきり老人の介護だけならまだしも、体力があり突然暴れる癖のある者は、抑制帯と呼ばれる帯でベッドに縛り付けている。これでは、介護病棟でなければ生き地獄と呼ぶにふさわしい。そうこうしている間に、どこかの部屋から悲鳴のような声が聞こえてきて、百恵は驚いて廊下に飛び出した。
 「いつものことっすよ」
 と、大川が鼻くそをほじくりながら言う。噂には聞いたが、いざ自分の身をそこに置いたとき、百恵はいっぺんに自信を消失させた。しかし、一方では首を傾げる自分がいた。それは浩幸の構想の中にあった特養棟のイメージと一八〇度違う点であった。浩幸のそれは、まさに老人達の人生の最後を荘厳するような楽園の印象があったのである。
 いったい何が違うのか───?
 百恵はさしあたり、施設の雰囲気を変えるため、壁などに動物や花などの貼り絵をすることを思いついた。
 「大川君、今日のあなたの仕事は?」
 「仕事?リハビリスタッフとして配属されたんだけど、ご覧の通りのありさまでしょ。俺の仕事といえば、スタッフに呼ばれたらその場所に行き、重い人の形をした物体を風呂場に運んだり、食事の手伝いをするだけっす」
 「暇なら手を貸してほしいの。絵は得意?」
 「保育園の時から進歩していないけど、車くらいなら描けるよ」
 そういう大川をつかまえて、スタッフルームの片隅に色画用紙を広げると、「へえ、山口さんって、絵がうまいんすね」という無駄口青年の言葉を聞きながら、ライオンや馬や犬やウサギやパンダなど、次々に描き始めた。看護士の尾佐田は、
 「なあに?学芸会でも始めるつもり?」
 と、まるで無関心に自分の仕事に専念しているのだった。大川は百恵を手伝いながら、ずっと彼女の胸元の谷間を気にしていた。そして、彼女の顔をじっと見つめた時、「綺麗な女性だな……」と思った。
 「山口さん、年はいくつっすか?」
 「子供ね!女性に年を聞くときは、もう少し気を使った聞き方をしなさい。二十九よ」
 「結婚してるんすか?」
 「どうして?」
 「どうしてって、その……、これから一緒に仕事をする仲間として、基本的な事くらい知っとかないとね……」
 「してるわよ。小学校三年生の子供が一人。夫は単身赴任でアメリカ。他に聞きたいことは?」
 「なあんだ……。俺があと十年早く生まれていればなあ……」
 「なあに?私と結婚したっていうの?ばかなこと考えてないで、そのパンダ、早くはさみで切りなさい」
 「でも、二十九歳で小学校三年生の子持ちってことは、ずいぶん早くに子供を産んだんですね。それにご主人がアメリカへ単身赴任てことは、余程大きな会社の重役ですか?それとも貿易商社マン?」
 「医者よ。さあ、口ばかり動かしてないで手を動かしなさい。減給の対象にするわよ!」
 大川は「怖い怖い」と言いながらも、つまらない話を続けながら百恵の描いた絵の切り抜きを続けた。
 午後には作業を終えて、死せる病棟のそこかしこには、様々な動物や花の切り抜きが貼り付けられ、幼稚園さながらの雰囲気を作り出した。ところが働く介護スタッフ達は無関心で、新しく配属された山口百恵なる人物に、不審と警戒の視線を送るだけだった。
 百恵は、お花畑で笑ったライオンの顔を見ながら、一人ため息を落とした。
 
> 第3章 > (六)免疫抑制剤
(六)免疫抑制剤
 特養棟の仕事を始めて一週間、百恵は午後、山口医院へ行き、院長室の扉をノックした。どうしても納得のいかない現在の特養棟のあり方について、もの申しに出たのである。懐かしい院長室の扉を開けると、一人の男がデスクに向かい、書類に何かを書いているところだった。
 百恵は我が目を疑った───。
 そのペンの持ち方、左手の置き方、頭の角度から姿勢まで、以前何処かで見かけた人物と同じではないか。紛れもない、まだ結婚する以前、コスモス園のリハビリ室で、届かぬ思いを胸に押し込めながら、涙を溜めてじっと見つめていた人物に相違ない。
 「浩幸さん……」
 思わず呟いた。そして、彼女の表情がみるみるほころぶと、
 「いつ、戻って来たの?」
 そう、聞こうとした瞬間、男は顔をあげた。百恵は茫然として、そのジャン=ジャックの顔を見つめたままだった。
 「ああ、山口さん。どうしましたか?」
 百恵は何も答えられなかった。
 「僕の顔に何かついていますか?」
 「い、いえ、別に……」
 ジャン=ジャックは書類を閉じて立ち上がると、接客用のソファに百恵を案内し、コーヒーメーカーのコーヒーをカップに注いで彼女の前に置いた。
 「いかがですか?特別養護棟の仕事は?」
 「その件で、お話があって来ました」
 ジャン=ジャックは俄に笑い出すと、「だいぶ困惑しているようですね」と言った。
 「何がおかしいのですか?私が家を引き渡さないからって、特養棟へ島流しにして、さぞご満悦といったところでしょうけど、お生憎様。私、けっこう楽しく仕事をやらせていただいてますから」
 「それはよかった。僕はそれを期待していました」
 百恵はむっとした表情でジャン=ジャックを睨んだ。
 「そんなに怖い顔で睨まないで下さい。山口さんなら、あそこを変えられると思って任命したのは本当ですよ。家の腹いせなんて少しも思っていません」
 「家なんか今日からでも先生が住めばいいわ。でも、私は大樹君と別れて暮らそうなんて思いませんから」
 「もう分かりましたよ。その話はよしましょう。それより今日は何でしょう?」
 百恵は気を取り直して、考えてきたことをいっぺんに話し出した。
 「今の特養棟のあり方はおかしいと思いまして……」
 百恵は、浩幸がコスモス園と山口医院の統合問題を言い出した頃から、様々な雑誌などに掲載された彼の論文や構想を勉強してきた一人だった。当時は介護や医療問題等に興味があったわけでなく、好きになった人の考えを少しでも理解しようとの思いで学んだものだが、そこに書かれた理想と、いざ実現して現場に身を置いた時のギャップが、あまりに大きい事に驚愕したのである。その思いを率直に伝えると、
 「浩幸さんの理想は、ただ施設や設備を整えて、そこに介護者を押し込めておけばいいというものではありません。あれでは介護者にとってもスタッフにとっても牢獄の何者でもありません」
 と付け加えた。
 「ムッシュヒロユキの理想は僕も理解しているつもりです。しかし、蓋を開けてみたら、現実は違っていたというところでしょう。何か具体的な良い案でもありますか?」
 百恵は少し戸惑いながら、
 「もっと一般施設との行き来が自由にできる雰囲気作りというか、そうせざるを得ないシステム作りが必要ではないでしょうか?」
 「ほう……」
 ジャン=ジャックは楽しそうに耳を傾けた。
 「世の中全体のものの考え方が細分化方向に進んでおり、専門的なところばかりに目がいきがちですが、それではあらゆる事柄が分断化への方向に動く事は必定です。特養棟がその良い例です。浩幸さんの構想には、特別養護老人達を隔離するのではなく、よりグローバルな人間社会の中に置くことにより、その人生の最終章を包み込んであげたいという心を感じるのです。今のままでは、収容される高齢者も孤独、その介護や看護をするスタッフ達も疲れ切り、仕事に対する意欲すら失ってしまいます。現にそうなりかけています!」
 「それは特養棟の必要性を否定するという意味ですか?」
 「違います。確かに特別養護を必要とする方たちはいますので必要だと思います。しかし、今の状態は……」
 「矛盾してますよ。何か具体案をおっしゃって下さい」
 百恵は閉口して思いつく案を並べたてた。
 「例えば週に一回でも二回でも一般施設の老人達の部屋に移動したり、あるいは来てもらったり、そして同じ生活の時間を共有して、あるいは、地元幼稚園、保育園の園児達や義務教育の児童、生徒達に来てもらって、様々な催しを行ったり、動けないとはいえ、何も考える事ができないとはいえ、生きた人間の中で過ごす時間を作るのです」
 「それはムッシュヒロユキの構想ですか?」
 「私はそうであると信じます」
 「それなら山口さんの思うとおりに実行してみて下さい。僕は何も言いません」
 ジャン=ジャックはそう言うと、コーヒーを飲み干し、カップを持って立ち上がった。と、次の瞬間、身体をよろけてソファに倒れたのだった。百恵は慌ててその身体を支えに立った。
 「デュマ先生、どうされました!」
 ジャン=ジャックは頭を抱えながら腕時計を覗き込むと、
 「すみません。薬を飲む時間をすっかり忘れてました……」
 と言いながら、白衣のポケットから錠剤の薬を数粒取り出したのだった。ところが手にした錠剤をことごとく床に落としたので、百恵は驚いてそれを拾い集めると、その中の一つの錠剤の箱を見つめた。
 “Immunosuppressant”───
 箱には確かにそう書いてあった。ジャン=ジャックは慌てて百恵の手からそれを取り上げた。
 「どこかお身体でも悪いのですか?」
 百恵は心配そうにそう聞いた。
 「いや、慢性の頭痛持ちでしてね。決められた時間にこれらの薬を飲むようにしているのですよ」
 と、ジャン=ジャックは危なげな足取りで自分のデスクに向かうと、そこに置かれていた水差しの水をコップに注ぐと、それらの薬をいっぺんに呑み込んだ。
 見たことがある───。
 確かにあの箱の表記は免疫抑制剤に違いない。以前、介護福祉士の資格を取得する際に勉強した薬剤関連の参考文献に、その薬が紹介されていたのを覚えていた。しかし、免疫抑制剤とは臓器移植後に、移植患者の拒絶反応を抑制させるために用いる薬である。頭痛といったい何の関係があるのか───?
 百恵はそう思うと、不審そうにジャン=ジャックの顔を見つめた。
 「とにかく特別養護棟のことは、介護責任者である貴方に全て任せますので、好きなようにやって見て下さい───」
 ジャン=ジャックはそう言うと、「すみません。気分がすぐれません。お引き取りください」と言ったまま、デスクに頭を抱えてうずくまった。
 百恵はひとつ頭を下げると、「お大事に」と言い残して院長室を出ていった。
 
> 第3章 > (七)忘れ得ぬ人の気配
(七)忘れ得ぬ人の気配
 その年の初雪が降った。
 百恵は冬が好きだった。思えば浩幸にプロポーズされたのも、春間近の季節はずれの雪の降った寒い冬の朝だった。がりょう山の山頂まで、浩幸の残した足跡を忠実に辿って、そこで初めて彼とキスをしたのだ。
 百恵はスタッフルームの窓から見える雪を見るともなしに、暫くその思い出に浸っていた。
 「山口さん、なに考え事してるんすか?」
 大川が朝の巡回日誌を持って、そう言った。
 「お子ちゃまには関係ないの」
 「わかった!遥か異国のご主人の事でしょ!ああ、顔が赤くなった、赤くなった!」
 大川はそう囃し立て、嬉しそうに見回りに出てしまった。百恵は拳骨の仕草でそれを見送ると、時計を見てから早番者の置いた介護記録に目を通した。そして、気になる入所者の記録に目をとめると、お風呂に入れてあげようと思い、静かに立ち上がってその部屋へ向かったのだった。
 三〇五号室の男性患者は、脳溢血による重度の脳血管性痴呆症を患い、身体を動かす事も話す事もできない。百恵がその部屋に入れば、力なく口を開けた顔で、その目だけをぎょろりと光らせてこちらを睨む。その光景はムンクの“叫び”にも似て、何も知らずにこの部屋に入って来た者があるとすれば、おそらく悲鳴をあげて逃げ去るに違いない。
 「お身体の調子はいかがですか?今日は雪が降ったので寒かったでしょう?さあ、お風呂に入りましょうね……」
 百恵は答えるはずのない男性患者に話しかけながら、その身体を抱えて車椅子に乗せると、ゆっくりお風呂場に向かって歩き出した。
 一般施設の痴呆老人達なら、気持ちの切り替えによっては笑い話にもできる。ところが特養棟の入所者達は、そういった次元をはるかに越えた生きる屍だった。百恵は横たわったままの老人の身体を洗いながら、小さなため息をついた。
 と、呼び出しチャイムの後、館内放送で百恵を呼び出す声が聞こえた。
 「介護主任の山口さん、デュマ先生がお見えです。スタッフルームにお戻り下さい」
 その呼び出しは二回ほどアナウンスされて切れた。百恵は洗いかけの老人を気にしながら、ナースコールで大川を呼びつけた。
 「なんすか?急ぎの用事って……」
 「ああ、大川君、ごめんなさい。田幸さんのお風呂の続きお願い」
 「ええ、俺がっすか?いやっすよ、苦手なんす」
 「なに好き嫌い言ってんの!」
 就職してから、リハビリ専門にやってきた大川は、専門学校以来やったことのないお風呂入れを渋った。あまり渋るものだから、
 「あっ、そうだ、今度、気が向いたらデートしてあげるから!」
 百恵の冗談に、
 「ええっ?本当っすか?それって、もしかして不倫?」
 大川は嬉しそうに、急に張り切りだした。
 「多分、永久に気が向かないと思うけど!」
 百恵はそう言い残すと、「それはないっすよ!」という無駄口青年の声を聞きながら、急いでスタッフルームに向かった。
 部屋に入ると、ジャン=ジャックは窓辺に立ち、降りしきる雪を眺めていた。
 「デュマ先生、遅くなってすみません」
 百恵の言葉に振り向いたジャン=ジャックは、笑顔を浮かべて、「廊下の壁の動物の張り紙は、貴方がやったのですか?」と聞いた。
 「はい。みんなには保育園の学芸会みたいだといわれますが、少しは明るくなったと思います」
 「効果はありましたか?」
 百恵は何も答えなかった。
 「先生に、この棟の現状を見ていただきたいとずっと思ってました」
 「今日は僕も、そのつもりで来たのです。施設内を案内していただけませんか?」
 そうして二人は、部屋を出ると、悲鳴やらうめき声がうずまく廊下を歩きだした。そして一部屋ずつ、そこに横たわっている入所者の現状を説明しながら、世間話もすることなく巡回したのだった。
 部屋から部屋へ移動する際、百恵は何か特異な感情にとらわれていた。横に歩くジャン=ジャックの気配の中に、ずっと浩幸を感じていたからだ。以前と同様、浩幸と会った時には必ず高鳴った胸の鼓動と同じドキドキが、いつまでもおさまらないのである。しかし横を見れば、背の高い栗毛の青目の男がいるだけで、その瞬間、浩幸の気配がはたと消えてしまう。思えば、最初に彼と廊下ですれ違った時もそうだった。そしてつい先日、山口医院の院長室に行った時もそうだった。ジャン=ジャックという男に接近するたび、浩幸の気配を感じる五感が、不思議で仕方がなかった。
 「デュマ先生と浩幸さんって、いったい、どういうご関係なのですか?」
 百恵はたまりかねてそう聞いた。ジャン=ジャックは警戒したような目で百恵を見つめると、
 「親友ですよ───」
 と答えた。
 「ムッシュヒロユキは、僕にとってよき先輩であり、師でした。僕が留学中、初めて出会った時も、なんだか遠い昔からの友人であったかのような、不思議な感覚にとらわれたものです。仲間からも、仕草から何からそっくりだと言われた事もあります」
 「そんなに親しかったのですか……」
 「どうしてですか?」
 「何だか変だなって思って……」
 「何がですか?」
 「フランスにいる時は、浩幸さんとは、どのようにやり取りをしていたのですか?」
 ジャン=ジャックは笑いながら、
 「ほとんどが電話です。やけにしつこく聞くのですね」
 と苦笑した。
 「だって、浩幸さんのお部屋を掃除したときも、ジャン=ジャック・デュマなんて人とやり取りをしていた形跡が全くないし、アルバムも見たけど、デュマ先生が映った写真なんか一枚もなかったものですから……」
 ジャン=ジャックは立ち止まって、大きな声で笑い出した。
 「それでは何ですか?山口さんは、僕が身元不明の医者の騙りとでも言いたいのですか?それは痛快だ!何なら医師免許をお見せしましょうか?フランスの物ですけどね」
 「いえ、そういうつもりで……。すみません。余計な事を聞きました……」
 百恵は言葉を失って、黙々と案内を続けた。
 一通りの巡回が終わると、ジャン=ジャックは「なるほど……」と一言いった。そして、
 「しかし、脳を患う老人の病棟なんて、こんなものですよ」
 と付け加えた。
 「でも、浩幸さんの構想の中の特養棟は、こんなんじゃありませんでした!」
 百恵はそう言うと、「先生に見ていただきたい所があります」と、スタッフルームからジャン=ジャックと自分のコートを抱えて持って来ると、エレベーターに乗って、彼を屋上へと案内した。そのエレベーターの中でも、百恵の鼓動はおさまらなかった。
 「先生、寒いですからコートを着て下さい」
 百恵は自分の白いコートを羽織ると、雪の降りしきる屋上へ先に飛び出した。雪の舞い落ちる中、暫く二人は無言のまま歩いた。
 「この屋上は、特養棟の入所者達の憩いの場所という目的で作られたのは、先生もご存じでしょう?でも、利用する人なんて一人もいない。当然ですよね。皆動けない人達ばかりなのですから。たまにスタッフが、外の空気に触れさせようと、ちょっとの時間連れて歩くだけで、後は、ネコの子一匹いない閑散とした寂しい広場───」
 ジャン=ジャックは、百恵の後を歩きながらコートの襟を立てた。雪が降り止む気配は全くない。すると、百恵は立ち止まり、
 「私、ここに遊園地を作ろうって思ってるんです!」
 と、突然言った。
 「遊園地───?」
 ジャン=ジャックは寒そうな表情を隠せないまま、不思議そうにつぶやいた。
 「そうです!子どもたちが遊ぶための遊園地を作って地域の子どもたちに解放すんです!ブランコやジャングルジムや大きな滑り台があって、お母さん達が憩える小さな喫茶コーナーもあって……、そして、北側には特設ステージが設置できるようになっていて、そこでは、読み聞かせや寸劇、音楽会などの催しを行うの。きっと子どもたちは喜んでここに遊びに来るようになるわ!そうすればこの特養棟に、活き活きとした風が流れるようになるでしょう。特養棟の入所者達には、それが何よりの栄養であり、薬になるはずです。先生、来年度予算に組み込んでいただくわけにはいかないでしょうか?」
 ジャン=ジャックは再び大きな声で笑い出した。
 「ムッシュヒロユキの奥さんは、面白い事を考える人ですね!老人介護施設に遊園地なんて、聞いたことがありません!」
 その笑いはなかなかやまなかった。
 「だめでしょうか?」
 「いや、面白い発想だと思いますよ。しかし、子ども達を特養棟に入れるということは、思いもつかない問題も常に発生し得るということです。その辺もしっかり考えて、企画書を提出してみて下さい。最高会議にかけてみますから」
 「ほんとうですか!」
 百恵は飛び跳ねて喜んだ。
 そうして二人は、屋上の際の柵のところに立つと、どんよりとした空から舞い落ちる無数の氷の精を見つめた。百恵は菅平の夜の事を思い出しながら、雪の中に浮かぶ浩幸の面影を追いかけた。やがてジャン=ジャックは、その雪の舞いを見つめながら、
 「秒速五〇センチの美学ですね……。なんだか吸い込まれてしまいそうな不可思議な感覚に陥ります」
 と呟いた。百恵は彼の横顔を見つめた。
 「知りませんか?ちょうど今日のような雪でしょう。牡丹雪が舞い落ちる速度は毎秒五〇センチという話しを……。春、桜の花びらが舞い散る速度もほぼ同じ、それに、夏舞う蛍の速度も同じだそうです。日本人は古来から、その速度の中で“美”を見いだしてきたと───、以前、ムッシュヒロユキが言っていたのを思い出しました」
 百恵はその全ての風景の中で、浩幸と同じ時間を共有した思い出を回想した。ふと、いま降る雪と蛍の舞いを重ね合わせた時、鮎川での晩、浩幸が冗談半分に言っていた言葉が鮮明に蘇ったのは、あるいはジャン=ジャックが持つ、浩幸と同じ雰囲気を感じたからだったかも知れない。
 『僕は脳外科医なんてやってますから、たまに脳移植について考える事があります。近い将来、僕は必ず脳移植が可能になると信じています。───仮に、僕と須崎さんが同じ車に乗っていて大事故を起こしたとして、彼は頭を強く打ち脳死、一方、僕の方は首から下の身体がバラバラになり頭だけが残ったとします。そこで僕は脳移植を強く希望したんだ。やがて移植手術は成功し、僕は別人の身体を持った僕になり、その後の人生を生きる事になった───。どうです?貴方は全く別人の姿をした僕を愛することができますか?』
 まさかっ───!!
 百恵の瞳孔は見開かれ、次の瞬間、ジャン=ジャックの横顔を食い入るように見つめた。
 「寒い……。いけません、頭痛持ちの僕にはこたえる寒さです。中に戻りましょう……」
 ジャン=ジャックはそう言うと、施設内に向かって歩き出した。百恵はその場に立ちつくして、暫く彼の後ろ姿を見つめると、雪に残ったその足跡に沿って忠実に歩き始めた。

 やっぱり同じ───。
 この歩調───、このテンポ───、そしてあの後姿───。
 私の体が忘れるわけがないじゃない。
 愛した人の歩き方、愛した人のペンの持ち方、愛した人の癖や仕草、そして、愛した人の息づかい───。
 浩幸さん……?
 あなた、浩幸さんじゃないの?

 「山口さん、風邪をひきますよ!」
 しかし、振り向いたジャン=ジャックは、浩幸とは全く別人の、背の高い、栗色の頭をした青目のフランス人だった。百恵は戸惑った。姿こそ違え、世の中にこれほど似通った人間が存在するのか?と。そして、施設内に入って雪を払うジャン=ジャックの姿を、身じろぎひとつせずじっと見つめた。
 「どうしたのですか?早く貴方もコートを脱いで、雪を払った方がいいですよ」
 やがて動かぬ百恵に呆れたジャン=ジャックは、静かに百恵のコートに手をかけると、それをはずして溶けかかった雪を勢いよく払い落とした。
 「さあ、スタッフルームに戻りましょう───」
 ジャン=ジャックは二つのコートを抱えたまま、エレベーターのボタンを押した。
 「デュマ先生!」
 ジャン=ジャックは振り向いた。
 「もしかして……、あなたは浩幸さんじゃありませんか?」
 一瞬、彼は驚いた顔をした。が、次の瞬間、笑い出したかと思うと、
 「山口さん、貴方が最愛のご主人を失ってからの、藁をもすがる思いの悲しみは分からないでもありません。しかし、僕と彼を見間違うなんてどうかしている。さあ、行きましょう」
 ジャン=ジャックは、エレベーターの開いた扉の中へ入っていった。
 
> 第3章 > (八)恋する無駄口青年
(八)恋する無駄口青年
 
> 第3章 > (九)忘れゆく真実
(九)忘れゆく真実
 
> 第3章 > (十)隠せない癖
(十)隠せない癖
 
> 第3章 > (十一)争えぬ血
(十一)争えぬ血
 
> 第3章 > (十二)離れゆく心
(十二)離れゆく心
 
> 第3章 > (十三)霞のむこう側
(十三)霞のむこう側
 
> 第3章 > (十四)ジャン=ジャックの恋人
(十四)ジャン=ジャックの恋人
 
> 第3章 > (十五)がりょう公園での歌
(十五)がりょう公園での歌
 
> 第3章 > (十六)脳移植の弊害
(十六)脳移植の弊害
 
> 第3章 > (十七)脳溢血で倒れた父
(十七)脳溢血で倒れた父
 
> 第3章 > (十八)決断
(十八)決断
 
> 第3章 > (十九)離婚届
(十九)離婚届
 
> 第3章 > (二十)花びらの中の幻
(二十)花びらの中の幻
 
> 第3章 > (二十一)生まれくる生命
(二十一)生まれくる生命
 
> 第3章 > (二十二)六月六日の出来事
(二十二)六月六日の出来事
 
> 第3章 > (二十三)苦悩
(二十三)苦悩
 
> 第3章 > (二十四)内緒の便り
(二十四)内緒の便り
 
> 第4章
第4章
 
> 第4章 > (一)瓜二つ
(一)瓜二つ
 百恵にとって信じられない事件が起こったのは、六月も下旬の事だった。
 その日、いつものように出勤して、お昼頃までは何の変哲もないいつもと同じ時間を過ごしていた。ただ午後の二時には、特養棟に新たに入所する一人の女性高齢者の受け入れがあったから、入所部屋の再チェックや家族へ渡す書類や、介護、看護スタッフへの申し送り事項の確認など、それに関わる事に神経をまわす他は、これといって特別な仕事もなかった。
 コスモス園への入所許可は、最終的には医療法人コスモス園の理事でもあるジャン=ジャックの認可が必要であったが、実質はコスモス園の総務課の権限でその全てを承認していた。もっといえば、総務課委任の入所相談員の調査と判断にその全ては委ねられており、そこで作成された書類をもとに、許可、不許可の判断が成されている部分が大きかったのである。午前中、その総務課から送られてきた一枚の書類に目を通した百恵は、手慣れた仕事のように詳細に目を通したものの、さほど苦にもしないで他の仕事に専念していたのだ。
 新たな入所者の概要はこうだった。
 『菊池夢子、第一号被保険者(六十八歳)。要介護認定五。筋萎縮性側索硬化症を伴ったアルツハイマー型認知症。歩行困難、日常における入浴、排せつ、食事等、一切の行動に介護が必要。情緒不安定にして時々意味のない言葉で騒いだり、暴れたりする。前養護施設からの引き渡し書類もあるので参考にする事』
 そして備考欄にはこうあった。
 『これまで東京に住み、同区域の老人養護施設に入っていたが、生まれ故郷の長野の北信地方へ帰りたいという本人の希望により、戸籍を移しコスモス園へ入所することになった。家族は息子が一人。入所日には同伴する予定だが、仕事の都合で東京都在住。連絡場所は次の通り。氏名、菊池英靖(四十二歳)。住所、東京都……云々』
 特養棟にいる百恵にとっては要介護五といっても珍しい事ではなかった。同等の、あるいはそれ以上深刻な症状の要介護者の世話を、毎日当たり前のようにしているのである。騒いだり、暴れたりする元気があるだけ、この入所者は良いと思ったくらいである。
 そうこうしているうちに、予定より三十分ばかり早く、車椅子に乗せられた入所者とその息子の二人が、特養棟のスタッフルームに隣接する接客室に訪れた。その時百恵は、食事の後片づけを終え、一人の老人を車椅子に乗せて、散歩がてら、現在遊園地の設置について最高会議の審議の舞台となっている屋上へあがっていた。
 「介護主任の馬場さん、菊池様がお見えになりました。接客室の方へお願いします」
 館内放送の声に時計を見れば、約束の時間より随分と早いことに少し慌てて、
 「仲野さん、ごめんね。お客さんが来たみたい」
 と声をかけると、そのまま老人の部屋に戻って、十五分ばかり遅れて接客室に飛び込んだ。
 「ごめんなさい!お待たせしました」
 百恵は部屋に入ると同時に頭を下げた。
 「いえいえ、こちらこそ予定より早く来てしまって」
 付き添いの息子は百恵の姿を確認すると、気さくに立ち上がってそう言った。
 と───、
 顔をあげた百恵の表情が、みるみるこわばっていくのが第三者の目からも見て取れた。
 しばらく、というより非常に長い時間、ドアノブに手をかけたまま、お辞儀をして顔をあげたままの姿勢で、百恵の身体は微動だにしなかった。
 動くはずがなかったのだ───。
 呼吸すらとまっていたのだ。
 もしかしたら心臓さえもとまっていたかも知れない。
 いや、世の中の運行が、全て時間が司るものだとしたら、その時計の針さえとまっていたに相違ない。
 百恵にとって信じ難い事件が、このとき勃発したのだった。
 そこで百恵が目にしたものは、二度と再び会うはずのない、好きで好きで愛し抜いた、あの山口浩幸の姿であった。注釈を加えれば、ジャン=ジャック・デュマに姿を変える前の、脳移植をする以前の、あの山口浩幸の姿であったのだ───。
 先の桜舞い散るがりょう公園で見たあの浩幸は幻ではなく、まさに今目の前にいる男ではなかったか。
 次の瞬間、百恵は失心すんでのところでその場に倒れた。
 驚いたのは男である。「だいじょうぶですか!」と叫んで、慌てて百恵の身体を支えて近くの椅子に座らせた。
 「ご、ごめんなさい……。なんでもありません。ちょっと目眩がしただけ……」
 「たいへんなお仕事なんでしょう。ちょっと待ってください。いま水を持ってきますから」
 男はそのまま部屋から出ようとした。
 「い、いえ、かまいません。本当に大丈夫ですから……」
 「無理をしない方がいいですよ。介護の大変さは私も知ってるつもりですから。ちょっと待ってて、今、持ってきます」
 そう言うと、男は部屋から出ていった。
 百恵の頭は混乱したまま、今、何が起こっているのかも分からない。ただ、目の前には、夢虚ろな目をした老婆が一人、身じろぎひとつせず車椅子に座っているだけだった。
 やがて百恵の前に紙コップに入った水が置かれた。
 「玄関にあった飲水機の水ですけど、どうぞ」
 男は笑いながらそう言うと、やがて老婆の横に腰掛けた。
 百恵は驚愕の目を見開き、男を凝視したまま視線をそらすこともできなかった。
 「私の顔に何か……?」
 「い、いえ……」
 百恵は震えながらコップの水を飲み干した。
 男は淡々と現在ここに来るまでの経緯を語りだした。そんな話など上の空で、驚きの表情を自分に向けたままの見知らぬ介護スタッフの様子に戸惑いながら、男は途中で話を止めた。
 「あの……、すいませんが、私の話を聞いていただいていますか?」
 ふいに我れに返った百恵は、
 「ごめんなさい」
 と叫んだ。呆れ返った男は、もう一度最初から同じ話を繰り返すのだった。
 男の名は菊池英靖、四十二歳。この七月で四十三になると言う。東京でネット関係の会社を営むいわゆるセレブに属する人種で、生まれも育ちも東京である。ただ、今回の入所対象者である母夢子は長野県小布施町の出身で、結婚と同時に東京に移り住んだものの、菊池が生まれて間もなく伴侶を亡くしたのだった。以来夢子は、女手ひとつで東京砂漠を生き抜いた。そして、まだらボケを伴いながら年を重ねる毎に、
 「田舎に帰りたい……」
 を繰り返していたと言う。夢子の痴呆が分かったのは彼女が六十歳になった頃。その進行は思いの他早く、仕事の手を患わす彼女に見切りをつけた菊池は、数年前から都内の老人養護施設へ預けるようになったと言う。最近ではときたま「田舎に帰りてえ」を言うだけで、他は何も話さない。何か気にいらないことがあれば急に訳の分からない言葉を吐いたり、暴れ出す他は、至って静かな性格であると言う。ただ、自分ひとりでは何もできないので、最後に菊池は、
 「こんな母ですが、よろしくお願いします」
 と、言った。百恵は先程からずっと俯いたまま、必要書類を菊池に渡した。
 「入所にあたってのご家族の注意事項や決まり事が書いてありますので目をお通しください。それから、事務的な書類も入っていますので、必要事項を書き込んだら、なるべく早めにご返送ください……」
 書類を渡す指と指が触れた時、再び百恵は菊池の顔をのぞき込んだ。
 どうして見間違うことなどあろうか───。
 目もと、口許、鼻の形───。ただ、目の中の光に、一種独特な冷淡さを感じるのは、あるいは雑多な人種が入り交じる東京生活の影響か。百恵は眉をひそめて目線をそらした。

 浩幸さんに双子の兄弟がいたのかしら───。
 でもそんな話、一度も聞いたことがない。
 それとも赤髭先生の隠し子?
 さもなければ、世の中にこれほど似た人間など存在するはずがないじゃない───。
 あるいは浩幸さんが脳移植をしたなんて嘘で、私を驚かそうとしているの?
 ならば、ジャン=ジャックってだあれ?
 実子である大樹君をも騙したっていうの?
 あり得ない、そんなの絶対にあり得ない。
 だあれ?
 この人だあれ?誰なの───?

 思考の混乱は頂点に達した。百恵は思わず戸惑いながら、震える声でこう聞いた。
 「菊池さん、山口脳神経外科医院ってご存じないですか?」
 「知っていますよ。もちろん」
 百恵は目を見はった。
 「このコスモス園の母体でしょ?ひと昔前、『介護医療の新しい道』とかで話題になったじゃありませんか。その後、院長が殺されたとかで、随分世間を賑わせた。あっ、そうそう、あの院長の顔が私に似ているとかで、仲間からは随分囃したてられましたよ。どうです?そんなに似ているのですか?」
 百恵は内心、「他人のそら似。やっぱり無関係……」と思った。
 「ひょっとして、あの院長の関係者?私の顔を見て、そうとう驚いていましたからね」
 菊池は癖のない声で笑った。
 「お部屋を案内します」
 百恵はそう言うと、夢子の車椅子を押して歩き出した。

 菊池英靖と名乗った男は、ネット業界ではかなりやり手の資本家のようだった。話し方やその内容の節々から感じる知的な言動に、すぐにそうと知れる。数十人の従業員を従えて、自ら営業にも飛び回る才能は、何気ない百恵の言葉を担ぎ上げたり落としてみたり、時には冗談をまじえてまったく別の観点で論じてみたり、その頭の回転の早さに浩幸と重なった。
 「菊池さんは、本当に長野は初めてなんですか?」
 「一度、母の生まれ故郷を訪ねてみたいと思ってました。もっとも母の家がどこにあったのか、ボケてしまった今では知る由もありませんが。それに有名じゃないですか、小布施の栗ようかん。職場の同僚にいくつも買ってしまいましたよ。実は四月の中旬に、今回の手続きをするためにここに来ましたが、その時はがりょう公園の桜を見てきました。だから正確にいうと長野には二回目ですね」
 「あの幻の浩幸の姿を見たのはその時だったのか」と百恵は思った。
 介護の部屋に案内された菊池は「良い部屋だ」と感嘆の声を漏らした。
 「これなら安心して母を預けられます」
 百恵は夢子の身体をベッドに寝かせたあと、一日の生活と介護内容を一通り説明した。
 やがて菊池は母夢子の身体を優しくいたわると、間もなく東京へ帰って行った。
 「母に何かありましたら携帯の方へお電話を下さい」
 と小さなメモ書きを残して。
 
> 第4章 > (二)母の面影
(二)母の面影
 ジャン=ジャックは久しぶりのコスモス園への診察に向かうため、山口医院を出た。しかし躊躇の足取りは重く、どんな顔で百恵に会えばよいのか、どんな声をかければよいのか、その結論をまったく見いだせないうちに、やがて特養棟に到着していた。できればこんな思いなどせずに、医院での仕事をしていた方がどれだけ楽だったか。しかし、百恵を見守りたいという思いは、それらどんな思いより勝っていた。
 スタッフルームの扉の前に立って、ガラス越しに見える介護服の百恵の姿をとらえた時、彼は大きなため息を落とした。
 「診察です」
 ジャン=ジャックの声に、中にいたスタッフ達は「お願いします」と答えた。百恵はジャン=ジャックの顔を見ようともせず、そのまま立ち上がると近くの大川を捕まえて、
 「大川君、デュマ先生とお願い」
 と言い残すと、そのままジャン=ジャックの脇を小走りで駆け抜けた。ジャン=ジャックの嗅覚に懐かしいあの香りを残して。
 「お、俺がっすか?」
 大川は驚いて立ち上がったものの、「お願いします」というジャン=ジャックの声につかまって、逃げることができなかった。
 「馬場さんの様子はどうですか?」
 廊下を歩きながらジャン=ジャックは大川に聞いた。
 「どう?って?」
 「前院長との離婚届けを出してから、元気がないという話を聞いたものですから」
 「そうっすね。さすがにあの時は意気消沈して仕事も手につかなかったようっすけど、最近はなんだか妙に明るいんすよね。なんかキレちゃったっていうんすか?全く動かない爺ちゃんや婆ちゃん捕まえて、一方的に何十分も話しているんすよ。あれは百恵先輩の特技っすね。俺もよくお喋りだって言われるんですけど、さすがにあんな真似はできないなあ。今日もね、『おじいちゃん、アジサイがきれいに咲いたわよ。アジサイの花言葉なんだか知ってる?』って、二十分くらい話し込んでた。この間なんかね───」
 「さあ、仕事です」
 最初の部屋に入ったジャン=ジャックは、大川の話を打ち切った。

 百恵は行き場を失って、そのまま外に飛び出して、花壇の花の手入れを始めていた。咲き薫るレンゲツツジの赤を見つめながら、何時だったか破風高原に咲き乱れる同じその花の中で、浩幸と過ごした時間のことを思い出していた。
 あれは浩幸の医療ミス問題が炸発し、医療法人理事の追任処分が決定されていた、まさに彼にとってはどうにもならない窮地に立たされていた時だった。既に結婚の約束をしていた二人は言葉も少なく、百恵の軽自動車で細い山道を登ったのであった。
 須坂市東端に位置する五味池破風高原自然園は、長野県と群馬県の県境に位置する標高一、九九九メートルの破風岳にある。五〇メートルもの切り立った岩山に、正に風を裂くことからこの名が付けられた広大なこの公園に行けば、遊歩道に沿って五味池をめぐることができる。五味池とは、大池、苦池、西五味池、よし河原池、そして現在は消滅している東五味池の五つの池の総称で、毎年六月の末頃になれば、新緑の中、北信五岳や北アルプスを背景にして、およそ一〇〇万株をこえるレンゲツツジの花が辺り一面を紅蓮に染めるのだ。
 百恵は、警察の調書やらで疲れ切った浩幸の心を、少しでも癒すことができるのならばと、当時医師会から数ヶ月の職務停止処分を受けた彼を、この真っ赤に咲き乱れる花の中へ連れて来たのだ。
 遊歩道を歩きながら、
 「レンゲツツジの花言葉を知ってますか?」
 高原を激しく吹き抜ける風の中で浩幸が大声で言った。
 「さあ、なんだろう───。花が赤いから、もしかしたら“情熱”?」
 百恵も風の音に負けないくらい大きな声で答えた。すると、浩幸は驚いたように百恵の顔を見つめた。
 「知っていたでしょう」
 「え?なに?当たっちゃった?」
 「知っていたんでしょう?」
 「知りませんよ───」
 「いや、知っていた」
 「本当に知りませんでしたってば」
 二人の穏やかな笑い声は激しい風にさらわれていった。そしてその風は遊歩道を歩くうちに、いつしか二人の体温まで吹き飛ばしていたのである。大池のほとりで二人は立ち止まり、
 「寒い……」
 と、百恵が一言いった。すると、浩幸は手にしたジャンパーを彼女に羽織ったかと思うと、そのまま強く抱きしめたのだった。「はっ!」とした百恵であったが、彼の力はゆるまるどころか、彼女の細い身体をさらに強く締め付けた。
 百恵は感じた。やりどころのない苦しい思いを解放させるために、彼は自分を抱きしめることで解決しようとしているのだと───。そして、彼の心の支えになれるのは、もはや自分しかいないことを悟ったのである。
 初めてだった。
 あの何に対しても強気の浩幸が、百恵にその弱さを見せたのは───。百恵はされるままに身体の力を抜いた。
 「こんなに心臓がドキドキしてる……」
 浩幸は何も答えなかった。
 「大丈夫よ、浩幸さん……。私がついてる───」
 百恵は彼を激しく抱き返した。
 「違うよ……。この胸の鼓動は、貴方に対する僕の情熱の音だ」
 ようやく浩幸がこう答えた。
 「いいのよ、無理しなくて……」
 紅蓮の花の中で、二人は時間を忘れて抱き合っていた。
 ───レンゲツツジに大きな水滴がポタリと音をたてて落ちたとき、“はっ”と我れに返った百恵は、慌てて記憶の糸を断ち切った。
 「いけない、いけない。仕事、仕事───」
 何事もなかったかのように、再びレンゲツツジの枯れた花びらを摘み取る作業を続ける百恵であった。

 各部屋を診察で回るジャン=ジャックと大川は、やがて先日入所したばかりの菊池夢子の部屋の前にやってきた。
 「先日入所した方ですね」
 ジャン=ジャックはそう言うと、ゆっくり部屋に入って横たわる夢子の顔を見つめた。
 その時、彼の脳裏に、なぜかしら懐かしい想い出の風が吹き込んだ気がした。しばらくは何も言わず、彼はその老いた老婆の顔にじっと見入ってしまっていたのである。
 「デュマ先生、どうしたんすか?」
 急に動きの止まったジャン=ジャックが気になって大川が言った。
 「いえ……、なんでもありません」
 ジャン=ジャックは少し慌てたようだった。その彼らしからぬ態度に大川は首を傾げた。
 似ている───。
 ジャン=ジャックはそう思っていた。それは、大学時代に逝去した母、愛子の面影だった。
 「先生、仕事中っすよ」
 大川はここぞとばかりに呆れた口調で彼の口癖を言い返してやれば、
 「すみません……」
 と、意外に素直なジャン=ジャックの返答に、かえって大川の方が恐縮してしまった。
 「どうしたんすか……?デュマ先生のお知りあいっすか?」
 ジャン=ジャックは大川を見つめてニコリと笑った。
 「僕の母親の事を思い出しただけです───」
 「デュマ先生のお母さんっすか?」
 大川はいまだ得体の知れないジャン=ジャックの過去に、大きな興味を覚えた。
 「僕がまだ大学生の時ですから、もう二十五年も前の話です。母は四十三歳の若さで他界しました。だから母の老いた顔など想像したこともありませんでしたが、この方の顔を見た時、もし生きていれば、ちょうどこの人のような年のとり方をしていたのではないかと思っただけです」
 「似ているんすか?」
 ジャン=ジャックは静かに頷いたあと、
 「もっとも、四十前半の美しい母しか知らない僕には、七十歳近い母の顔なんて、想像もできませんがね」
 と付け加えた。
 「へえ……?でも、先生のお母さんってフランス人ですよね……」
 愛子への思いを馳せたとき、自分がジャン=ジャックになり代わっていることをすっかり忘れていた彼は、大川の言葉に「はっ!」として、思わず狼狽の色を表した。そして、
 「つまらない昔話はやめにして、さあ、仕事を続けますよ」
 と、何事もなかったかのように診察を開始したのだった。

 ジャン=ジャックが帰って、大川は考え込んだ表情でデスクについていた。
 「どうしたの?また何かつまらない事でも考えているんでしょ」
 外の仕事を終えて、スタッフルームに戻った百恵は、浮かぬ顔でもの思いにふけっている大川を見つけてそう言った。
 「デュマ先生って、今おいくつでしたっけ?」
 だいぶ考え込んだ様子で大川が言う。
 「デュマ先生?それがどうかしたの?」
 「まだ三十前っすよね……」
 「確か二十八、九よ」
 「そうっすよね。どうも計算が合わないんだ。二十五年前といったら、三、四歳でしょ?その時既に大学生ってことは、あの先生、本当に天才だったんすね……」
 「はあ……?」と百恵は呆れて、
 「聞き違いじゃないの?」
 と話をはぐらかした後、新しくデスクに置かれた早番者の介護記録を開いた。
 「実はね、新しく入った菊池夢子ちゃんの診察の時、デュマ先生、なんか妙な事を言うんすよね……」
 大川はそこでの話の一部始終を百恵に語って聞かせた。
 「そんなこと言ったの?」
 今度は百恵の方が考え込んだ。
 「やっぱり聞き違いっすよね。いくらなんでも三、四歳で大学生なんて───。ああ、それからデュマ先生が帰るとき、『あまり無理をしないで下さい』って、百恵先輩に伝えるように言われました」
 百恵は考えをめぐらすことをやめると、ジャン=ジャックのいらぬ気遣いに腹を立てて机を叩いた。その音が響いたスタッフルームの職員達の驚きの視線の中で、百恵はそそくさと介護記録を読み始めていた。
 
> 第4章 > (三)介護日記
(三)介護日記
 菊池夢子の存在は、百恵の中で次第に大きなものに成長していった。
 一つは、浩幸と瓜二つの顔を持つ菊池という男の母であるということ。浩幸とは無関係であるとはいえ、心のどこかで、義母というものを意識していたからである。
 もう一つは、ジャン=ジャックが彼女を見たときに、彼の母親を連想したという話を大川から聞いたとき、義母という思いを一層強くしたところにあった。
 現実にはありえないことではあったが、仮に浩幸の母が健在であったとして、浩幸も昔のままであったとしたら、間違いなく自分は彼の母親と一緒の生活をしていたか、あるいはその老後の面倒を看ていたはずであると思うのだ。
 百恵は夢子の介護の記録を、仕事としてではなく、個人的な日記として書き残しておきたいと考えた。それは、自分の心の中にいまだ生き続けている、過去の山口浩幸という人間に届けるための、夢子と彼の母親愛子を重ねた、架空の世界にのみ通用する、百恵にとっては信じていたい現実逃避の形でもあった。以来、家に帰って布団に入る前の、机に向かってペンをとる、百恵にとって唯一の楽しみとなった。

 六月二十九日
 夢子さんは今日、一日中落ち着いていた。時々「田舎に帰りてえ」と言うから、「ここは小布施町のすぐ近くよ」と教えてあげたら、なんだか少し嬉しそうな顔をしたように見えた。ほんとは表情なんか少しも変わらなかったけれど、私にはなんだかそんなふうに見えたの。
 お昼の卵焼きを美味しそうに食べていた。酢の物は少し咳き込んでもどしてしまったけれど、お粥もお魚も全部食べたのよ!私、「すごい!」って言ったら、なんだか夢子さんも笑った気がした。
 そのあと清拭してあげたら、とっても喜んだ。あれはくすぐったかったのかな?でも入所以来はじめて笑ったのよ!すごいでしょ!明日は入浴の日。喜んでくれるといいなあ……。

 六月三十日
 一ヶ月間、休日取らずの無欠勤達成!馬場百恵君、おめでとう!でも、労働監督署に知れたら怒られちゃうかな?だって家にいたってやることないんだもの。
 今日の夢子さんはご機嫌斜め。お風呂に入れようとしたら嫌がって、三人がかりでようやく入れた。あんなに暴れる夢子さん……、ちょっと驚いちゃった。めげない、めげない。
 そうそう、夢子さんの秘密、見つけちゃった。ああ見えて、子離れしてないの。「英靖はどこだい?英靖はどこだい?ちょっと厠に連れてってくれろ」って、一日中「英靖、英靖」って、つぶやいてるのよ。「私が一緒に行きますよ」って言ったら、「お姉ちゃん誰だい?英靖の嫁かい?」だって。残念でした。私の旦那は浩幸さん……。
 「英靖さんのお嫁さんてどんな人?」って聞いたら、さすが我が子のことね、この時ばかりは正気に戻って、「いるんだか、いねんだか、わけわからん!」って怒ってた。東京って誘惑が多いからね───。

 七月一日
 夢子さん、よかったね!今日、息子さんが電話をくれたじゃない!今度の休みにこっちに来れるって。善光寺参りに行こうって言ってたわよ!
 なのに夢子さん、意味が分かってないのだろうけど、なんだか無愛想な返事ばかりして、ちょっと息子さんが可哀想になっちゃった……。
 ほんとのこと言うと、私の旦那と菊池さん、双子みたいにそっくりな顔をしているの。世界中には同じ顔の人が三人いるというけれど、こんなに狭い日本という国にそのうちの二人がいるなんてびっくり。もっとも整形技術も進んでいるから、同じ顔を作り出すことなんかも可能かもね。でも菊池さんが悲しむ顔を思い浮かべたら、なんだか浩幸さんが悲しんでいるようで、私まで悲しくなっちゃうの。だから、夢子さん、息子さんにはもう少し優しくしてあげて───。

 七月二日
 今日、夢子さんが突然暴れ出した。手をこまねいたスタッフ達が、血相を変えて私のところにやってきたの。私にはすぐ分かった。夢子さんの介護をするスタッフの態度と言動が、きっと夢子さんの癇にさわったんだってことが。だって夢子さんは理由もなく暴れ出す人ではないもの。でも許してあげて。特養棟のスタッフ達も毎日の仕事で疲れきっているの。別に夢子さんが憎くて無愛想な態度をとったわけではないのよ。
 おかげで私も顔に傷を作っちゃったわ。だって夢子さんの爪、長かったんですもの。ごめんね、つめ切り気づかなくて……。でも顔の傷は絆創膏を貼っておけば治るけど、心の傷って癒えないものね。今は誰にも話せない心の傷が、私の心に残っているの。いつか、夢子さんにも話せる日がくればいいな……。

 七月三日
 今日はもうたいへん!ベッドから転げ落ちた夢子さんが、失禁するわ騒ぐわで、あっという間に一日が終わってしまった。でもベッドから落ちてしまったことには驚き。ベッドの脇の柵をどうやって乗り越えたのかしら?そんな力があったなんて!筋萎縮性側索硬化症って、運動神経が侵される進行性の神経病なのよ。手足やのどなどの筋肉がだんだんやせて、力がなくなっていく難病なのに、夢子さんときたら、どんどん力がついていくみたい。人間て不思議。

 七月四日
 もうすぐね。息子さんが帰って来るの。今日は四日だからあさってよ。
 心なしか昨日まで大騒ぎだった夢子さんは、今日はとっても静かだった。そう、少しだけど会話もできたのよ!夢子さんが住んでいた小布施の話。近くに昔の建物があったんですって!私、それって岩松院のことじゃないかなあって思う。天井に大きな鳥の絵があったっていうから。葛飾北斎八方睨みの鳳凰の天井絵。それ以上は会話にならなかったから分からないけど、今日はとっても大きな進展あり!

 七月五日
 梅雨明けには早いけど、毎日暑い日が続く。
 今日は西園さんが診察に来て、夢子さんを看てくれた。よかったわね。明日、息子さんが来たときの外出許可がおりたわよ!介護スタッフを一名つけての条件付きだけど。その一名、私がなってもいいかなあ?って、もう決めてるの!最近、どこへも出かけてないし、なんだか夢子さんより私の方が楽しみにしてるみたい。小学生のときの、翌日の遠足を待つ気分……ルン!
 そうそう、この次は夢子さんの生まれ故郷の小布施に連れてってあげるね。あの町は元気よ!もしかして、懐かしい風景を見たら、昔の事をなにか思い出すかも知れないわ!
 診察の後は耳掻きをして、夢子さん、とっても気持ち良さそうだった。なんだか夢子さんのことを考えていると、私の心は明るくなるの。
 おやすみなさい───。明日も佳い日になりますように……。

 百恵は七月五日付けの日記を記すと、やがて静かな眠りについた。
 
> 第4章 > (四)本物とニセ物
(四)本物とニセ物
 七月六日
 今日、夢子さんの付き添いで善光寺に行った。
 私、知らなかったけど、今日は息子さんのお誕生日だったんですね。なんか親子水入らずのところにお邪魔だったかしら?
 でも、久しぶりに楽しかった───!!

 この日、百恵が普段着でコスモス園特養棟のスタッフルームに着いたのは、午前九時近くの事だった。
 「あれ?百恵先輩、今日は振り替え休暇じゃなかったんすか?」
 突然、現れた百恵の姿を見て、大川が言った。
 「そうよ。でも、今日は夢子さんの付き添い」
 「プライベートまで返上っすか?」
 「仕方ないでしょ、総務課の方から『働き過ぎだ!』なんて目を付けられているんだから。サービス出勤。こうでもしなきゃ、休暇を消化できないもの」
 「でも、最近ほとんど休みとってないんじゃないっすか?身体を壊しますよ」
 そこへ看護責任者の尾佐田が、仕事の手を動かしながら、
 「要するに時間外に入所者の介護をするってこと?」
 そう言って書きかけのボールペンを置いた。特養棟には現在、介護的側面を司る介護責任者と、医療的側面を司る看護責任者がいる。実際の仕事の内容はさほどの違いはないが、施設運営の方針で介護と看護の縦分けをしっかりしているのである。人事上、介護責任者が百恵で、看護責任者の方は尾佐田が務めているが、かかえるスタッフの人数の比率は介護の方がはるかに多く、そのため権限も百恵の方が強いような雰囲気があった。特養棟介護責任者の異名を“死せる病棟の管理人”というのも、実はそこから来ているのである。しかし職務上の権限は同等で、その両者のバランスこそ、特養棟設置当初からのねらいがあった。
 尾佐田は話を続けた。
 「時間外介護で何か事故でも発生したら、馬場さん、あなたどう責任を取るつもり?」
 その強い口調に、百恵は言葉を失った。
 「当然時間外なら、コスモス園には責任をとる義務はないわ」
 「でも昨日の診察で、西園先生はだいぶ落ち着いていて、調子も良さそうだから大丈夫だろうって……」
 「あくまで予測でしょ?万一の事を言ってるのよ」
 「…………」
 「あなたが辞職するくらいでは済まないことだってあり得るってこと!」
 尾佐田の強い責めに、百恵はついカッとなった。
 「それじゃ尾佐田さんが、私の替わりに夢子さんの付き添いをしていただけますか!」
 すると尾佐田は迷惑そうにひとつ舌打ちをすると、
 「別に喧嘩売ってるわけじゃないわ。なにもあなたが行かなくたって、他の介護要員がいるじゃない。最近、馬場さん、怒りっぽいわよ。疲れ過ぎ!」
 と、ふいに立ち上がったかと思うと、タイムレコーダのところに行くと、百恵のタイムカードを引き抜いて時間を刻印したのだった。
 「私がいる事を忘れないで……」
 尾佐田はぽつんと呟いた。
 「疲れてちゃ、いい仕事なんかできやしないわ。明日こそ休暇とってね!」
 「尾佐田さん……」
 百恵は小さな声で「ありがとうございます」と言った。

 果たして時間通りに菊池が到着すると、そのまま夢子の部屋にやってきて、
 「すみません、ご迷惑をおかけしてしまって」
 と百恵に握手を求めた。百恵は菊池の顔にドキドキしながら、「今日は私がお供させていただきますが、よろしくお願いします」とその手を握り返したのだった。
 そうして夢子を乗せた車椅子を押して、三人は特養棟に横付けされた菊池の車のところまでやってきた。
 「いやあ、母を長野なんかに預けたもので、先週、車を買っちゃいましたよ!」
 何気なく言うその車を見れば、身障者マークのついた新車のワンボックスカーである。
 「なにも買わなくたって、施設の車があったのに───」
 「いいんですよ。この年になって、ささやかな私の親孝行のつもりなのですから」
 そして百恵は夢子の車椅子をワンボックスカーの後方に付ければ、車椅子用の電動リフトで夢子は難なく後方座席に車椅子ごと乗り込むことができた。中には介護者用の座席まであり、百恵はそこに座りながらそのしっかりした設備に感嘆の声をあげた。
 「まあ、すごい!明日からでも介護の仕事ができそうですね!」
 「全部特注です。さあ、行きましょう!」
 菊池はそう言うと、後方のドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
 「ずいぶん長野市周辺の観光名所を調べたんですよ」
 そう言うルームミラーに映る菊池の顔を覗けばどう見ても浩幸で、百恵は夫婦で母を旅行にでも連れていくシュツエイションの錯覚に陥っていた。その声までそっくりなのである。数日前、夢子に電話をしてきた彼の声を聞いたときも、驚いて暫くは声も出なかったのだ。
 「でも最初はなんといっても善光寺でしょ。馬場さんはよく行かれるのですか?」
 「いいえ。地元にあるというだけで、ほとんど行きません。幼い頃、おばあちゃんと一度行ったきり……」
 「それじゃ私の方が詳しいかも知れませんね」
 菊池は楽しそうに笑った。そして調べてきた善光寺の歴史を語り出した。
 善光寺が本尊とする『一光三尊阿弥陀如来』は、西暦五五二年仏教伝来の折、百済の聖明王から献上された物だと伝わる。『善光寺縁起』によれば、蘇我氏と物部氏の争いの時、排仏派の物部尾輿により難波の堀に捨てられたが、六四二年、信濃国の本田善光が、堀の中から自分を呼ぶ声に拾い出し、長野の現在の地に安置したと伝わる。もともとは釈迦在世当時のインドの昆舎離国にいた欲深い長者が、一人娘の如是姫の病を治すため釈迦に帰依し、その功徳で如是姫が快気した報恩に三尊仏の姿を写して供養したいと願い出た時、神通第一の釈迦の弟子目蓮尊者が竜宮城へ行き、竜王からもらい受けた閣浮檀金を長者に授けたのだった。すると、忽然と空中に三尊仏が現われたという説話である。その長者の娘如是姫の像が、今は長野駅の西口にあるが、ともあれその流れから善光寺は、本は阿弥陀信仰(浄土宗)であるが、その後の聖徳太子などの出現で天台宗に大きく勢力が傾くと、以来その教義を自宗に取り入れた全く新しい形態を作り上げたのだった。そして時代とともにその教義の姿を変えて、第二次世界大戦中は天皇を祭り上げる国家神道まで受け入れて、現代に至っては、“人々の心の支柱として、性別、階級、宗派の別なく参拝できる日本一の霊場である”と謳うようになったのである。要するに本尊に阿弥陀如来を置きながら無宗教の寺院という立場を確立したのだ。
 「人間の考えることなんておかしな事ばかりですね」
 菊池が言った。コンピュータ関連の仕事上、物事を理数的に分析する性格を持っているのだろう。宗教のことは百恵にはよく分からなかったが、
 「でもその本尊は日本最古の仏像と言われてますから、文化的にはとっても貴重なものであるはずですよ。もっとも今年は御開帳じゃないから見れないと思いますけど」
 と答えた。どんな解釈をしようと、菊池が夢子を連れてお参りをしようという行動に出た事自体、百恵には、彼が何かにすがって母を救おうとする健気な心を見たのだった。「牛に引かれて善光寺参りですよ」と言葉を継いだ。
 高村光雲と米原雲海合作の阿吽の仁王像が置かれた仁王門をくぐり抜け、車椅子を押す菊池と百恵は本堂までの参道をゆっくり歩いた。途中、六地蔵、ぬれ地蔵を横目で眺め、駒返り橋のところで菊池は立ち止まった。
 「ここかあ、源頼朝が参拝したとき、馬の蹄がひっかかって、ここからは徒歩で行ったという場所は……」
 「ずいぶんと歴史に詳しいんですね」
 菊池は静かに笑った。そして昭和四十年に国の重要文化財に指定された三門をくぐりぬけると、本堂の前で二人は手を合わせた。百恵は財布から五円玉を取り出すと賽銭箱に投げ入れた。その姿を見た菊池は、「じゃ、私も……」と財布から一万円札を取り出すと、中に五百円玉を包んで、おもむろに賽銭箱に投げ入れたのであった。びっくりした百恵は、
 「そんなに?───」
 と思わずつぶやいた。
 「全国に名を馳せる仏様ですよ。値段が高い方がいいに決まってる」
 百恵は呆れて笑い出した。ふと、近くにあった大香爐を見つけた百恵は、そこまで小走りに駆けて行き、そこからたちあがる香の煙を頭にふきかけた。
 「何をしてるの?」
 夢子を押しながら後から来た菊池が不審そうに聞いた。
 「この煙を悪いところにかければ、良くなるんですってよ!昔、私のおばあちゃんと来たとき、おばあちゃん、私の頭にめいっぱいふきかけるの。『頭が良くなれ!』って。私、思いっきり咳き込んじゃった」
 「効果はありましたか?」
 百恵は首を傾げた。そんな彼女を笑いながら、菊池は真似をして夢子の頭に煙をふきかけるのだった。「痴呆が治れ!痴呆が治れ!」と言いながら。その姿に百恵も、煙を夢子の全身にふきかけた。「足が良くなれ!腕が良くなれ!」と言いながら───。
 その後三人は、近くのそば屋に入り込み、盛り蕎麦を注文した。「せっかく長野に来たのだから」と、菊池が希望したのだ。運ばれるまでの間、菊池は、
 「本当に今日は助かりました。私一人ではとても母を見切れなかった。ありがとう」
 と言った。夢子は至って落ち着いており、途中、二度ばかり排泄の用を足したが、その全てを百恵が行っていたのである。様子を見ながら汗を拭き、身体が車椅子からずれればすかさずその姿勢を戻し、また、蕎麦が運ばれてきてからはその食事の世話まで、献身的な百恵の姿にすっかり菊池は感動していたのである。
 蕎麦を食べ終え「次はどこへ行きましょう?」と菊池が言った。百恵は夢子の疲れが心配だったので、
 「もう遠くに行くのはやめて、この近くの城山公園でも歩きましょう?」
 と答えた。こうして三人は隣接する信濃美術館と東山魁夷館の隣りに位置する、平日の人出の少ない、花壇に花咲き薫る城山公園を散歩したのであった。
 「なんだか今日は、久しぶりにゆっくり羽根を伸ばしちゃったな」
 百恵が背伸びをしながら言った。菊池は笑っただけで何も答えなかったが、しばらくすると、中央の大きな噴水が吹き出る池を眺めながら立ち止まった。
 「実は今日、私の誕生日なんです。四十四回目の───」
 菊池がしんみりした声で言った。
 百恵は「ああ、そうでしたか。おめでとうございます!」と答えたものの、浩幸の誕生日が明日であることを思い出し、その年齢も同じ事に絶句した。
 「今日は馬場さんのおかげで、私にとっても、母にとっても、素晴らしい日にすることができました。本当にありがとう」
 菊池は池を見つめたままだった。百恵は彼の顔をじっと見つめた。
 やがて、その強い視線に気づいた菊池は、
 「どうかしましたか?」
 「い、いえ……、別に……」
 百恵は慌てて目線をそらした。
 「で、でも、お誕生日でしたら、他に祝ってくれる人がいるんじゃないですか?奥さんとか……」
 「奥さん……?」
 菊池は突然大声で笑い出した。
 「だって、夢子さんが言ってましたよ───。女の人が大勢いて、誰がお嫁さんだか分からないって」
 「母がそんな事を言ったのですか?冗談はやめてください。私はいまだ独り身ですよ」
 百恵は拍子抜けの言葉に、再び彼の顔をのぞき込んだ。
 ───と、
 「お前、何言っとるだ!“ミサエ”だの“サヨコ”だの、何人の女をたぼらかしたんだ!」
 突然正気に戻った夢子が叫んだ。慌てた菊池は夢子の口をおさえ、「母さん、馬場さんの前で何を言い出すんだよ」と、すっかり慌てた様子であった。
 「時々正気に戻るんですよね……。いや、なに、東京に住んでいると、いろんなことがあるんですよ。いや、まいったなあ……」
 と頭を掻いた。
 「でも、馬場さんだって、もう結婚してるんでしょ?」
 菊池の言葉に思わず百恵は黙り込んだ。そのあまりに長い沈黙に耐えかねた菊池は、
 「すいません。もしかして、へんなこと聞いちゃいました?」
 と言った。百恵は、
 「いいえ……」
 と観念したように、
 「実は私……、バツイチなんです……」
 と答えたのだった。
 菊池は「すいません」を何度も繰り返し、「ほらみろ、母さんが変なこと言うから」と責任を夢子に投げかけたが、当の夢子はいつもの無気力な表情に戻り、涼しげな風に吹かれているだけだった。

 なにが本物?なにがニセ物───?
 私にとって浩幸さんが本物で、菊池さんはニセ物?
 それじゃ今日の楽しかった出来事は全部ニセ物?
 ごめんなさい夢子さん。私、こんなことを考えてしまったの……。
 いっそ菊池さんが浩幸さんだったら、なにも悩まずにすむのにね……。
 ごめんなさい……夢子さん……
 ……ごめんなさい

 百恵はひとつ小さな欠伸をすると、書き終えた介護日記を静かに閉じた。
 
> 第4章 > (五)いけない情愛
(五)いけない情愛
 
> 第4章 > (六)鉢合わせ
(六)鉢合わせ
 
> 第4章 > (七)双子の母
(七)双子の母
 
> 第4章 > (八)兄弟の疑惑
(八)兄弟の疑惑
 
> 第4章 > (九)小布施にて
(九)小布施にて
 
> 第4章 > (十)甦る記憶
(十)甦る記憶
 
> 第4章 > (十一)懺悔〜結婚前夜
(十一)懺悔〜結婚前夜
 
> 第4章 > (十二)真実の壁
(十二)真実の壁
 
> 第4章 > (十三)忘れたい過去
(十三)忘れたい過去
 
> 第4章 > (十四)抱かれる予感
(十四)抱かれる予感
 
> 第4章 > (十五)早咲きの椿
(十五)早咲きの椿
 
> 第4章 > (十六)突然の知らせ
(十六)突然の知らせ
 
> 第4章 > (十七)嫉妬の火花
(十七)嫉妬の火花
 
> 第4章 > (十八)赤い糸
(十八)赤い糸
 
> 第4章 > (十九)献身
(十九)献身
 
> 第4章 > (二十)愛し合う二人
(二十)愛し合う二人
 
> 第4章 > (二十一)痴呆の世に住む輩
(二十一)痴呆の世に住む輩
 
> 第4章 > (二十二)妊娠三カ月
(二十二)妊娠三カ月
 
> 第4章 > (二十三)許されざる過ち
(二十三)許されざる過ち
 
> 第4章 > (二十四)鶴の公園
(二十四)鶴の公園
 
> 第4章 > (二十五)永遠の光
(二十五)永遠の光
 
> 執筆にあたって
執筆にあたって
 そもそも『痴呆の都』の執筆を思いたったのは十年以上も前の話である。
 私の妻が結婚以前に勤めていた場所が老人介護施設であり、その日常の話を聞かせてもらいながら、痴呆老人に興味を持ったのだ。しかし、日本における高齢者介護の現実を自分なりに理解したとき、とても私の手に負えない高度に社会的な現実問題であることに気付いた。実際に家族の介護をする方々の生々しい声を知るにつけ、「とても書けない」とさじを投げたのだ。以来、手を付けることもできず、「いつか書こう」と、じっと心の中で温めておいたのだ。
 それが平成十七年の春だったか、私は家族と妻の実家である福岡に行った時、義母がはまっていたのが韓流ドラマであった。「面白いから見なさい」との誘いに、最初は半分付き合いで見ていたが、それがなかなか面白い。韓流の役者が演じる純朴にして真っ直ぐな登場人物が織りなす純愛ドラマに、日本人もかつては持っていたであろう人間の誠実さとでも言おうか、すっかり私もはまったのだ。
 恋愛物語は私のもっとも嫌いなジャンルであった。好いた惚れたのたかが男と女のごたごたしたつまらない感情のドラマなど、扱うに足りないと高をくくっていた私は、きっと日本の表面上だけで話が進む薄っぺらな人間ドラマに愛想をつかしていたのであろう。しかし、韓流の純愛ドラマは私に大きな衝撃を与えたのであった。
 美しいと思ったのだ。
 ふとその時、それまで温めていた『痴呆の都』が私の中で甦ったのである。
 高齢者問題に直接的な焦点を当てるのではなく、その中の登場人物の純愛をテーマにしながら話を進めれば書ける。そう思ったのだ。
 『痴呆の都』とのタイトルは、私の住んでいる地域も地方の片田舎であるから、対蹠関係にある“地方”と“都”に韻を踏み、“地方”と“痴呆”をかけたものにすれば面白いのではないかと、この話を書こうと思った当初から決めていたものである。また舞台となっているコスモス園は、妻が働いていた福岡県の『コスモス苑』の名をそのまま使わせていただいた。物語中でその所在する場所については、私の在住する近くの須坂市旭ヶ丘を蛍ケ丘として使っている。
 主人公の『馬場百恵』も当初から考えていた。幼少から「ババア、ババア」と呼ばれていた女性が山口という苗字の男と結婚して、永遠のアイドル『山口百恵』へ劇的なる変身を遂げる、いわば現代版『みにくいアヒルの子』の物語を考えていたのだ。また、『浩幸』という名は、物書きの先輩である永田浩幸氏から貸していただいたことも記しておきたい。
 ともあれそうした経緯から、平成十七年六月より執筆を開始したのであった。
 また、脳移植に関わる展開は、書きながら考えたものである。現実には不可能である脳全体の移植手術であるが、皆目見当もつかない移植であるから、全編に渡り臓器移植のイメージでつづってしまっているが、後にこれが技術的に可能となった場合、その医療的側面からは大きな食い違いが生じることは否めない。描きたかったのは脳移植後の精神的側面なので勘弁していただきたい。
 ともあれ、“はしいろまんぢう”といっても全くの無名である。そこでインターネットでの無料公開を思いついた。少しでも知名度をあげようと図った苦肉の策である。
 そして、物語はおよそ一年の歳月をかけて完結した。思えば平成十八年七月は、私の四十歳の誕生日でもある。三十代を生きた証に、この物語を完成できたことにほっと胸をなで下ろす。
 別の仕事の片手間、急いで書いていたもので、年のズレや、法律的に充分な理解を得ないまま書いていた部分で、様々におかしなところはあると思うが、ご愛嬌ということで許していただきたい。
 『痴呆の都』は完全なるシリアス小説ではない。自分の名前に悩む主人公の百恵や、中心人物の誕生日の設定等、滑稽さをベースに置いたシリアス小説であると思っている。およそ人生には様々な苦難があると思う。それをまともに悩んでしまうのではなく、人生を演じているという余裕を持ちながら悩むのだという、私のささやかな哲学を感じていただければ幸いである。
 願わくば、より多くの人に受け入れられ、映画やドラマなどに扱われるほどのメジャー作品になるよう、心ある方の応援を待つものである。

 平成十八年七月三十一日  はしいろ まんぢう