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(四)本物とニセ物
 七月六日
 今日、夢子さんの付き添いで善光寺に行った。
 私、知らなかったけど、今日は息子さんのお誕生日だったんですね。なんか親子水入らずのところにお邪魔だったかしら?
 でも、久しぶりに楽しかった───!!

 この日、百恵が普段着でコスモス園特養棟のスタッフルームに着いたのは、午前九時近くの事だった。
 「あれ?百恵先輩、今日は振り替え休暇じゃなかったんすか?」
 突然、現れた百恵の姿を見て、大川が言った。
 「そうよ。でも、今日は夢子さんの付き添い」
 「プライベートまで返上っすか?」
 「仕方ないでしょ、総務課の方から『働き過ぎだ!』なんて目を付けられているんだから。サービス出勤。こうでもしなきゃ、休暇を消化できないもの」
 「でも、最近ほとんど休みとってないんじゃないっすか?身体を壊しますよ」
 そこへ看護責任者の尾佐田が、仕事の手を動かしながら、
 「要するに時間外に入所者の介護をするってこと?」
 そう言って書きかけのボールペンを置いた。特養棟には現在、介護的側面を司る介護責任者と、医療的側面を司る看護責任者がいる。実際の仕事の内容はさほどの違いはないが、施設運営の方針で介護と看護の縦分けをしっかりしているのである。人事上、介護責任者が百恵で、看護責任者の方は尾佐田が務めているが、かかえるスタッフの人数の比率は介護の方がはるかに多く、そのため権限も百恵の方が強いような雰囲気があった。特養棟介護責任者の異名を“死せる病棟の管理人”というのも、実はそこから来ているのである。しかし職務上の権限は同等で、その両者のバランスこそ、特養棟設置当初からのねらいがあった。
 尾佐田は話を続けた。
 「時間外介護で何か事故でも発生したら、馬場さん、あなたどう責任を取るつもり?」
 その強い口調に、百恵は言葉を失った。
 「当然時間外なら、コスモス園には責任をとる義務はないわ」
 「でも昨日の診察で、西園先生はだいぶ落ち着いていて、調子も良さそうだから大丈夫だろうって……」
 「あくまで予測でしょ?万一の事を言ってるのよ」
 「…………」
 「あなたが辞職するくらいでは済まないことだってあり得るってこと!」
 尾佐田の強い責めに、百恵はついカッとなった。
 「それじゃ尾佐田さんが、私の替わりに夢子さんの付き添いをしていただけますか!」
 すると尾佐田は迷惑そうにひとつ舌打ちをすると、
 「別に喧嘩売ってるわけじゃないわ。なにもあなたが行かなくたって、他の介護要員がいるじゃない。最近、馬場さん、怒りっぽいわよ。疲れ過ぎ!」
 と、ふいに立ち上がったかと思うと、タイムレコーダのところに行くと、百恵のタイムカードを引き抜いて時間を刻印したのだった。
 「私がいる事を忘れないで……」
 尾佐田はぽつんと呟いた。
 「疲れてちゃ、いい仕事なんかできやしないわ。明日こそ休暇とってね!」
 「尾佐田さん……」
 百恵は小さな声で「ありがとうございます」と言った。

 果たして時間通りに菊池が到着すると、そのまま夢子の部屋にやってきて、
 「すみません、ご迷惑をおかけしてしまって」
 と百恵に握手を求めた。百恵は菊池の顔にドキドキしながら、「今日は私がお供させていただきますが、よろしくお願いします」とその手を握り返したのだった。
 そうして夢子を乗せた車椅子を押して、三人は特養棟に横付けされた菊池の車のところまでやってきた。
 「いやあ、母を長野なんかに預けたもので、先週、車を買っちゃいましたよ!」
 何気なく言うその車を見れば、身障者マークのついた新車のワンボックスカーである。
 「なにも買わなくたって、施設の車があったのに───」
 「いいんですよ。この年になって、ささやかな私の親孝行のつもりなのですから」
 そして百恵は夢子の車椅子をワンボックスカーの後方に付ければ、車椅子用の電動リフトで夢子は難なく後方座席に車椅子ごと乗り込むことができた。中には介護者用の座席まであり、百恵はそこに座りながらそのしっかりした設備に感嘆の声をあげた。
 「まあ、すごい!明日からでも介護の仕事ができそうですね!」
 「全部特注です。さあ、行きましょう!」
 菊池はそう言うと、後方のドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
 「ずいぶん長野市周辺の観光名所を調べたんですよ」
 そう言うルームミラーに映る菊池の顔を覗けばどう見ても浩幸で、百恵は夫婦で母を旅行にでも連れていくシュツエイションの錯覚に陥っていた。その声までそっくりなのである。数日前、夢子に電話をしてきた彼の声を聞いたときも、驚いて暫くは声も出なかったのだ。
 「でも最初はなんといっても善光寺でしょ。馬場さんはよく行かれるのですか?」
 「いいえ。地元にあるというだけで、ほとんど行きません。幼い頃、おばあちゃんと一度行ったきり……」
 「それじゃ私の方が詳しいかも知れませんね」
 菊池は楽しそうに笑った。そして調べてきた善光寺の歴史を語り出した。
 善光寺が本尊とする『一光三尊阿弥陀如来』は、西暦五五二年仏教伝来の折、百済の聖明王から献上された物だと伝わる。『善光寺縁起』によれば、蘇我氏と物部氏の争いの時、排仏派の物部尾輿により難波の堀に捨てられたが、六四二年、信濃国の本田善光が、堀の中から自分を呼ぶ声に拾い出し、長野の現在の地に安置したと伝わる。もともとは釈迦在世当時のインドの昆舎離国にいた欲深い長者が、一人娘の如是姫の病を治すため釈迦に帰依し、その功徳で如是姫が快気した報恩に三尊仏の姿を写して供養したいと願い出た時、神通第一の釈迦の弟子目蓮尊者が竜宮城へ行き、竜王からもらい受けた閣浮檀金を長者に授けたのだった。すると、忽然と空中に三尊仏が現われたという説話である。その長者の娘如是姫の像が、今は長野駅の西口にあるが、ともあれその流れから善光寺は、本は阿弥陀信仰(浄土宗)であるが、その後の聖徳太子などの出現で天台宗に大きく勢力が傾くと、以来その教義を自宗に取り入れた全く新しい形態を作り上げたのだった。そして時代とともにその教義の姿を変えて、第二次世界大戦中は天皇を祭り上げる国家神道まで受け入れて、現代に至っては、“人々の心の支柱として、性別、階級、宗派の別なく参拝できる日本一の霊場である”と謳うようになったのである。要するに本尊に阿弥陀如来を置きながら無宗教の寺院という立場を確立したのだ。
 「人間の考えることなんておかしな事ばかりですね」
 菊池が言った。コンピュータ関連の仕事上、物事を理数的に分析する性格を持っているのだろう。宗教のことは百恵にはよく分からなかったが、
 「でもその本尊は日本最古の仏像と言われてますから、文化的にはとっても貴重なものであるはずですよ。もっとも今年は御開帳じゃないから見れないと思いますけど」
 と答えた。どんな解釈をしようと、菊池が夢子を連れてお参りをしようという行動に出た事自体、百恵には、彼が何かにすがって母を救おうとする健気な心を見たのだった。「牛に引かれて善光寺参りですよ」と言葉を継いだ。
 高村光雲と米原雲海合作の阿吽の仁王像が置かれた仁王門をくぐり抜け、車椅子を押す菊池と百恵は本堂までの参道をゆっくり歩いた。途中、六地蔵、ぬれ地蔵を横目で眺め、駒返り橋のところで菊池は立ち止まった。
 「ここかあ、源頼朝が参拝したとき、馬の蹄がひっかかって、ここからは徒歩で行ったという場所は……」
 「ずいぶんと歴史に詳しいんですね」
 菊池は静かに笑った。そして昭和四十年に国の重要文化財に指定された三門をくぐりぬけると、本堂の前で二人は手を合わせた。百恵は財布から五円玉を取り出すと賽銭箱に投げ入れた。その姿を見た菊池は、「じゃ、私も……」と財布から一万円札を取り出すと、中に五百円玉を包んで、おもむろに賽銭箱に投げ入れたのであった。びっくりした百恵は、
 「そんなに?───」
 と思わずつぶやいた。
 「全国に名を馳せる仏様ですよ。値段が高い方がいいに決まってる」
 百恵は呆れて笑い出した。ふと、近くにあった大香爐を見つけた百恵は、そこまで小走りに駆けて行き、そこからたちあがる香の煙を頭にふきかけた。
 「何をしてるの?」
 夢子を押しながら後から来た菊池が不審そうに聞いた。
 「この煙を悪いところにかければ、良くなるんですってよ!昔、私のおばあちゃんと来たとき、おばあちゃん、私の頭にめいっぱいふきかけるの。『頭が良くなれ!』って。私、思いっきり咳き込んじゃった」
 「効果はありましたか?」
 百恵は首を傾げた。そんな彼女を笑いながら、菊池は真似をして夢子の頭に煙をふきかけるのだった。「痴呆が治れ!痴呆が治れ!」と言いながら。その姿に百恵も、煙を夢子の全身にふきかけた。「足が良くなれ!腕が良くなれ!」と言いながら───。
 その後三人は、近くのそば屋に入り込み、盛り蕎麦を注文した。「せっかく長野に来たのだから」と、菊池が希望したのだ。運ばれるまでの間、菊池は、
 「本当に今日は助かりました。私一人ではとても母を見切れなかった。ありがとう」
 と言った。夢子は至って落ち着いており、途中、二度ばかり排泄の用を足したが、その全てを百恵が行っていたのである。様子を見ながら汗を拭き、身体が車椅子からずれればすかさずその姿勢を戻し、また、蕎麦が運ばれてきてからはその食事の世話まで、献身的な百恵の姿にすっかり菊池は感動していたのである。
 蕎麦を食べ終え「次はどこへ行きましょう?」と菊池が言った。百恵は夢子の疲れが心配だったので、
 「もう遠くに行くのはやめて、この近くの城山公園でも歩きましょう?」
 と答えた。こうして三人は隣接する信濃美術館と東山魁夷館の隣りに位置する、平日の人出の少ない、花壇に花咲き薫る城山公園を散歩したのであった。
 「なんだか今日は、久しぶりにゆっくり羽根を伸ばしちゃったな」
 百恵が背伸びをしながら言った。菊池は笑っただけで何も答えなかったが、しばらくすると、中央の大きな噴水が吹き出る池を眺めながら立ち止まった。
 「実は今日、私の誕生日なんです。四十四回目の───」
 菊池がしんみりした声で言った。
 百恵は「ああ、そうでしたか。おめでとうございます!」と答えたものの、浩幸の誕生日が明日であることを思い出し、その年齢も同じ事に絶句した。
 「今日は馬場さんのおかげで、私にとっても、母にとっても、素晴らしい日にすることができました。本当にありがとう」
 菊池は池を見つめたままだった。百恵は彼の顔をじっと見つめた。
 やがて、その強い視線に気づいた菊池は、
 「どうかしましたか?」
 「い、いえ……、別に……」
 百恵は慌てて目線をそらした。
 「で、でも、お誕生日でしたら、他に祝ってくれる人がいるんじゃないですか?奥さんとか……」
 「奥さん……?」
 菊池は突然大声で笑い出した。
 「だって、夢子さんが言ってましたよ───。女の人が大勢いて、誰がお嫁さんだか分からないって」
 「母がそんな事を言ったのですか?冗談はやめてください。私はいまだ独り身ですよ」
 百恵は拍子抜けの言葉に、再び彼の顔をのぞき込んだ。
 ───と、
 「お前、何言っとるだ!“ミサエ”だの“サヨコ”だの、何人の女をたぼらかしたんだ!」
 突然正気に戻った夢子が叫んだ。慌てた菊池は夢子の口をおさえ、「母さん、馬場さんの前で何を言い出すんだよ」と、すっかり慌てた様子であった。
 「時々正気に戻るんですよね……。いや、なに、東京に住んでいると、いろんなことがあるんですよ。いや、まいったなあ……」
 と頭を掻いた。
 「でも、馬場さんだって、もう結婚してるんでしょ?」
 菊池の言葉に思わず百恵は黙り込んだ。そのあまりに長い沈黙に耐えかねた菊池は、
 「すいません。もしかして、へんなこと聞いちゃいました?」
 と言った。百恵は、
 「いいえ……」
 と観念したように、
 「実は私……、バツイチなんです……」
 と答えたのだった。
 菊池は「すいません」を何度も繰り返し、「ほらみろ、母さんが変なこと言うから」と責任を夢子に投げかけたが、当の夢子はいつもの無気力な表情に戻り、涼しげな風に吹かれているだけだった。

 なにが本物?なにがニセ物───?
 私にとって浩幸さんが本物で、菊池さんはニセ物?
 それじゃ今日の楽しかった出来事は全部ニセ物?
 ごめんなさい夢子さん。私、こんなことを考えてしまったの……。
 いっそ菊池さんが浩幸さんだったら、なにも悩まずにすむのにね……。
 ごめんなさい……夢子さん……
 ……ごめんなさい

 百恵はひとつ小さな欠伸をすると、書き終えた介護日記を静かに閉じた。