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(三)介護日記
 菊池夢子の存在は、百恵の中で次第に大きなものに成長していった。
 一つは、浩幸と瓜二つの顔を持つ菊池という男の母であるということ。浩幸とは無関係であるとはいえ、心のどこかで、義母というものを意識していたからである。
 もう一つは、ジャン=ジャックが彼女を見たときに、彼の母親を連想したという話を大川から聞いたとき、義母という思いを一層強くしたところにあった。
 現実にはありえないことではあったが、仮に浩幸の母が健在であったとして、浩幸も昔のままであったとしたら、間違いなく自分は彼の母親と一緒の生活をしていたか、あるいはその老後の面倒を看ていたはずであると思うのだ。
 百恵は夢子の介護の記録を、仕事としてではなく、個人的な日記として書き残しておきたいと考えた。それは、自分の心の中にいまだ生き続けている、過去の山口浩幸という人間に届けるための、夢子と彼の母親愛子を重ねた、架空の世界にのみ通用する、百恵にとっては信じていたい現実逃避の形でもあった。以来、家に帰って布団に入る前の、机に向かってペンをとる、百恵にとって唯一の楽しみとなった。

 六月二十九日
 夢子さんは今日、一日中落ち着いていた。時々「田舎に帰りてえ」と言うから、「ここは小布施町のすぐ近くよ」と教えてあげたら、なんだか少し嬉しそうな顔をしたように見えた。ほんとは表情なんか少しも変わらなかったけれど、私にはなんだかそんなふうに見えたの。
 お昼の卵焼きを美味しそうに食べていた。酢の物は少し咳き込んでもどしてしまったけれど、お粥もお魚も全部食べたのよ!私、「すごい!」って言ったら、なんだか夢子さんも笑った気がした。
 そのあと清拭してあげたら、とっても喜んだ。あれはくすぐったかったのかな?でも入所以来はじめて笑ったのよ!すごいでしょ!明日は入浴の日。喜んでくれるといいなあ……。

 六月三十日
 一ヶ月間、休日取らずの無欠勤達成!馬場百恵君、おめでとう!でも、労働監督署に知れたら怒られちゃうかな?だって家にいたってやることないんだもの。
 今日の夢子さんはご機嫌斜め。お風呂に入れようとしたら嫌がって、三人がかりでようやく入れた。あんなに暴れる夢子さん……、ちょっと驚いちゃった。めげない、めげない。
 そうそう、夢子さんの秘密、見つけちゃった。ああ見えて、子離れしてないの。「英靖はどこだい?英靖はどこだい?ちょっと厠に連れてってくれろ」って、一日中「英靖、英靖」って、つぶやいてるのよ。「私が一緒に行きますよ」って言ったら、「お姉ちゃん誰だい?英靖の嫁かい?」だって。残念でした。私の旦那は浩幸さん……。
 「英靖さんのお嫁さんてどんな人?」って聞いたら、さすが我が子のことね、この時ばかりは正気に戻って、「いるんだか、いねんだか、わけわからん!」って怒ってた。東京って誘惑が多いからね───。

 七月一日
 夢子さん、よかったね!今日、息子さんが電話をくれたじゃない!今度の休みにこっちに来れるって。善光寺参りに行こうって言ってたわよ!
 なのに夢子さん、意味が分かってないのだろうけど、なんだか無愛想な返事ばかりして、ちょっと息子さんが可哀想になっちゃった……。
 ほんとのこと言うと、私の旦那と菊池さん、双子みたいにそっくりな顔をしているの。世界中には同じ顔の人が三人いるというけれど、こんなに狭い日本という国にそのうちの二人がいるなんてびっくり。もっとも整形技術も進んでいるから、同じ顔を作り出すことなんかも可能かもね。でも菊池さんが悲しむ顔を思い浮かべたら、なんだか浩幸さんが悲しんでいるようで、私まで悲しくなっちゃうの。だから、夢子さん、息子さんにはもう少し優しくしてあげて───。

 七月二日
 今日、夢子さんが突然暴れ出した。手をこまねいたスタッフ達が、血相を変えて私のところにやってきたの。私にはすぐ分かった。夢子さんの介護をするスタッフの態度と言動が、きっと夢子さんの癇にさわったんだってことが。だって夢子さんは理由もなく暴れ出す人ではないもの。でも許してあげて。特養棟のスタッフ達も毎日の仕事で疲れきっているの。別に夢子さんが憎くて無愛想な態度をとったわけではないのよ。
 おかげで私も顔に傷を作っちゃったわ。だって夢子さんの爪、長かったんですもの。ごめんね、つめ切り気づかなくて……。でも顔の傷は絆創膏を貼っておけば治るけど、心の傷って癒えないものね。今は誰にも話せない心の傷が、私の心に残っているの。いつか、夢子さんにも話せる日がくればいいな……。

 七月三日
 今日はもうたいへん!ベッドから転げ落ちた夢子さんが、失禁するわ騒ぐわで、あっという間に一日が終わってしまった。でもベッドから落ちてしまったことには驚き。ベッドの脇の柵をどうやって乗り越えたのかしら?そんな力があったなんて!筋萎縮性側索硬化症って、運動神経が侵される進行性の神経病なのよ。手足やのどなどの筋肉がだんだんやせて、力がなくなっていく難病なのに、夢子さんときたら、どんどん力がついていくみたい。人間て不思議。

 七月四日
 もうすぐね。息子さんが帰って来るの。今日は四日だからあさってよ。
 心なしか昨日まで大騒ぎだった夢子さんは、今日はとっても静かだった。そう、少しだけど会話もできたのよ!夢子さんが住んでいた小布施の話。近くに昔の建物があったんですって!私、それって岩松院のことじゃないかなあって思う。天井に大きな鳥の絵があったっていうから。葛飾北斎八方睨みの鳳凰の天井絵。それ以上は会話にならなかったから分からないけど、今日はとっても大きな進展あり!

 七月五日
 梅雨明けには早いけど、毎日暑い日が続く。
 今日は西園さんが診察に来て、夢子さんを看てくれた。よかったわね。明日、息子さんが来たときの外出許可がおりたわよ!介護スタッフを一名つけての条件付きだけど。その一名、私がなってもいいかなあ?って、もう決めてるの!最近、どこへも出かけてないし、なんだか夢子さんより私の方が楽しみにしてるみたい。小学生のときの、翌日の遠足を待つ気分……ルン!
 そうそう、この次は夢子さんの生まれ故郷の小布施に連れてってあげるね。あの町は元気よ!もしかして、懐かしい風景を見たら、昔の事をなにか思い出すかも知れないわ!
 診察の後は耳掻きをして、夢子さん、とっても気持ち良さそうだった。なんだか夢子さんのことを考えていると、私の心は明るくなるの。
 おやすみなさい───。明日も佳い日になりますように……。

 百恵は七月五日付けの日記を記すと、やがて静かな眠りについた。