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痴呆の都
> 第4章 > (二)母の面影
(二)母の面影
ジャン=ジャックは久しぶりのコスモス園への診察に向かうため、山口医院を出た。しかし躊躇の足取りは重く、どんな顔で百恵に会えばよいのか、どんな声をかければよいのか、その結論をまったく見いだせないうちに、やがて特養棟に到着していた。できればこんな思いなどせずに、医院での仕事をしていた方がどれだけ楽だったか。しかし、百恵を見守りたいという思いは、それらどんな思いより勝っていた。
スタッフルームの扉の前に立って、ガラス越しに見える介護服の百恵の姿をとらえた時、彼は大きなため息を落とした。
「診察です」
ジャン=ジャックの声に、中にいたスタッフ達は「お願いします」と答えた。百恵はジャン=ジャックの顔を見ようともせず、そのまま立ち上がると近くの大川を捕まえて、
「大川君、デュマ先生とお願い」
と言い残すと、そのままジャン=ジャックの脇を小走りで駆け抜けた。ジャン=ジャックの嗅覚に懐かしいあの香りを残して。
「お、俺がっすか?」
大川は驚いて立ち上がったものの、「お願いします」というジャン=ジャックの声につかまって、逃げることができなかった。
「馬場さんの様子はどうですか?」
廊下を歩きながらジャン=ジャックは大川に聞いた。
「どう?って?」
「前院長との離婚届けを出してから、元気がないという話を聞いたものですから」
「そうっすね。さすがにあの時は意気消沈して仕事も手につかなかったようっすけど、最近はなんだか妙に明るいんすよね。なんかキレちゃったっていうんすか?全く動かない爺ちゃんや婆ちゃん捕まえて、一方的に何十分も話しているんすよ。あれは百恵先輩の特技っすね。俺もよくお喋りだって言われるんですけど、さすがにあんな真似はできないなあ。今日もね、『おじいちゃん、アジサイがきれいに咲いたわよ。アジサイの花言葉なんだか知ってる?』って、二十分くらい話し込んでた。この間なんかね───」
「さあ、仕事です」
最初の部屋に入ったジャン=ジャックは、大川の話を打ち切った。
百恵は行き場を失って、そのまま外に飛び出して、花壇の花の手入れを始めていた。咲き薫るレンゲツツジの赤を見つめながら、何時だったか破風高原に咲き乱れる同じその花の中で、浩幸と過ごした時間のことを思い出していた。
あれは浩幸の医療ミス問題が炸発し、医療法人理事の追任処分が決定されていた、まさに彼にとってはどうにもならない窮地に立たされていた時だった。既に結婚の約束をしていた二人は言葉も少なく、百恵の軽自動車で細い山道を登ったのであった。
須坂市東端に位置する五味池破風高原自然園は、長野県と群馬県の県境に位置する標高一、九九九メートルの破風岳にある。五〇メートルもの切り立った岩山に、正に風を裂くことからこの名が付けられた広大なこの公園に行けば、遊歩道に沿って五味池をめぐることができる。五味池とは、大池、苦池、西五味池、よし河原池、そして現在は消滅している東五味池の五つの池の総称で、毎年六月の末頃になれば、新緑の中、北信五岳や北アルプスを背景にして、およそ一〇〇万株をこえるレンゲツツジの花が辺り一面を紅蓮に染めるのだ。
百恵は、警察の調書やらで疲れ切った浩幸の心を、少しでも癒すことができるのならばと、当時医師会から数ヶ月の職務停止処分を受けた彼を、この真っ赤に咲き乱れる花の中へ連れて来たのだ。
遊歩道を歩きながら、
「レンゲツツジの花言葉を知ってますか?」
高原を激しく吹き抜ける風の中で浩幸が大声で言った。
「さあ、なんだろう───。花が赤いから、もしかしたら“情熱”?」
百恵も風の音に負けないくらい大きな声で答えた。すると、浩幸は驚いたように百恵の顔を見つめた。
「知っていたでしょう」
「え?なに?当たっちゃった?」
「知っていたんでしょう?」
「知りませんよ───」
「いや、知っていた」
「本当に知りませんでしたってば」
二人の穏やかな笑い声は激しい風にさらわれていった。そしてその風は遊歩道を歩くうちに、いつしか二人の体温まで吹き飛ばしていたのである。大池のほとりで二人は立ち止まり、
「寒い……」
と、百恵が一言いった。すると、浩幸は手にしたジャンパーを彼女に羽織ったかと思うと、そのまま強く抱きしめたのだった。「はっ!」とした百恵であったが、彼の力はゆるまるどころか、彼女の細い身体をさらに強く締め付けた。
百恵は感じた。やりどころのない苦しい思いを解放させるために、彼は自分を抱きしめることで解決しようとしているのだと───。そして、彼の心の支えになれるのは、もはや自分しかいないことを悟ったのである。
初めてだった。
あの何に対しても強気の浩幸が、百恵にその弱さを見せたのは───。百恵はされるままに身体の力を抜いた。
「こんなに心臓がドキドキしてる……」
浩幸は何も答えなかった。
「大丈夫よ、浩幸さん……。私がついてる───」
百恵は彼を激しく抱き返した。
「違うよ……。この胸の鼓動は、貴方に対する僕の情熱の音だ」
ようやく浩幸がこう答えた。
「いいのよ、無理しなくて……」
紅蓮の花の中で、二人は時間を忘れて抱き合っていた。
───レンゲツツジに大きな水滴がポタリと音をたてて落ちたとき、“はっ”と我れに返った百恵は、慌てて記憶の糸を断ち切った。
「いけない、いけない。仕事、仕事───」
何事もなかったかのように、再びレンゲツツジの枯れた花びらを摘み取る作業を続ける百恵であった。
各部屋を診察で回るジャン=ジャックと大川は、やがて先日入所したばかりの菊池夢子の部屋の前にやってきた。
「先日入所した方ですね」
ジャン=ジャックはそう言うと、ゆっくり部屋に入って横たわる夢子の顔を見つめた。
その時、彼の脳裏に、なぜかしら懐かしい想い出の風が吹き込んだ気がした。しばらくは何も言わず、彼はその老いた老婆の顔にじっと見入ってしまっていたのである。
「デュマ先生、どうしたんすか?」
急に動きの止まったジャン=ジャックが気になって大川が言った。
「いえ……、なんでもありません」
ジャン=ジャックは少し慌てたようだった。その彼らしからぬ態度に大川は首を傾げた。
似ている───。
ジャン=ジャックはそう思っていた。それは、大学時代に逝去した母、愛子の面影だった。
「先生、仕事中っすよ」
大川はここぞとばかりに呆れた口調で彼の口癖を言い返してやれば、
「すみません……」
と、意外に素直なジャン=ジャックの返答に、かえって大川の方が恐縮してしまった。
「どうしたんすか……?デュマ先生のお知りあいっすか?」
ジャン=ジャックは大川を見つめてニコリと笑った。
「僕の母親の事を思い出しただけです───」
「デュマ先生のお母さんっすか?」
大川はいまだ得体の知れないジャン=ジャックの過去に、大きな興味を覚えた。
「僕がまだ大学生の時ですから、もう二十五年も前の話です。母は四十三歳の若さで他界しました。だから母の老いた顔など想像したこともありませんでしたが、この方の顔を見た時、もし生きていれば、ちょうどこの人のような年のとり方をしていたのではないかと思っただけです」
「似ているんすか?」
ジャン=ジャックは静かに頷いたあと、
「もっとも、四十前半の美しい母しか知らない僕には、七十歳近い母の顔なんて、想像もできませんがね」
と付け加えた。
「へえ……?でも、先生のお母さんってフランス人ですよね……」
愛子への思いを馳せたとき、自分がジャン=ジャックになり代わっていることをすっかり忘れていた彼は、大川の言葉に「はっ!」として、思わず狼狽の色を表した。そして、
「つまらない昔話はやめにして、さあ、仕事を続けますよ」
と、何事もなかったかのように診察を開始したのだった。
ジャン=ジャックが帰って、大川は考え込んだ表情でデスクについていた。
「どうしたの?また何かつまらない事でも考えているんでしょ」
外の仕事を終えて、スタッフルームに戻った百恵は、浮かぬ顔でもの思いにふけっている大川を見つけてそう言った。
「デュマ先生って、今おいくつでしたっけ?」
だいぶ考え込んだ様子で大川が言う。
「デュマ先生?それがどうかしたの?」
「まだ三十前っすよね……」
「確か二十八、九よ」
「そうっすよね。どうも計算が合わないんだ。二十五年前といったら、三、四歳でしょ?その時既に大学生ってことは、あの先生、本当に天才だったんすね……」
「はあ……?」と百恵は呆れて、
「聞き違いじゃないの?」
と話をはぐらかした後、新しくデスクに置かれた早番者の介護記録を開いた。
「実はね、新しく入った菊池夢子ちゃんの診察の時、デュマ先生、なんか妙な事を言うんすよね……」
大川はそこでの話の一部始終を百恵に語って聞かせた。
「そんなこと言ったの?」
今度は百恵の方が考え込んだ。
「やっぱり聞き違いっすよね。いくらなんでも三、四歳で大学生なんて───。ああ、それからデュマ先生が帰るとき、『あまり無理をしないで下さい』って、百恵先輩に伝えるように言われました」
百恵は考えをめぐらすことをやめると、ジャン=ジャックのいらぬ気遣いに腹を立てて机を叩いた。その音が響いたスタッフルームの職員達の驚きの視線の中で、百恵はそそくさと介護記録を読み始めていた。
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