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(八)揺れる心
 コスモス園に勤め、翌日が初めての休みの晩、すっかり疲れ切った身体をソファーに横たえて、百恵はうたた寝をしていた。父の洋と母の恵は、テレビの音量を下げて「きっと慣れない仕事で疲れているのだろう」と話していた。母は百恵に毛布をかけた。
 うつろな意識の向こうで、テレビが報じるその日のニュースが、百恵の頭の奥で鳴っていた。JRで脱線事故が起き、何百人もの死傷者を出す大惨事になり、その原因と責任問題が取り沙汰されている事、インターネットの出会い系サイトで十五歳の男が女装して、出会った男から金を騙し取った事件、天候不良による農作物の不作からキュウリやキャベツなどの野菜類が高騰している事……、連日まるで良い話などない社会情勢が「またか……」という意識を通り越して半分BGMになっていた。
 そんな時、百恵の携帯電話が鳴った。今はビートルズの『HELP!』を着信音にしているが、そのワンフレーズ目が終わった時、母が「百恵、電話よ」と言って身体を揺すってくれたのだ。百恵は迷惑そうに目を覚ますと、ゆっくり身体を起こし、電話を取って居間を出た。
 「ああ、新津君……、なあに?」
 俊介は電話の声で百恵が寝ていた事を知り、それを気にしながら「明日休みだろ?これから会えないかな?近況も聞きたいし」と言った。
 「これから……?」
 疲れ切った百恵は躊躇したが、俊介の強い口調に「いいわ」と答えた。

 百恵の家の近くに“がりょう公園”がある。花見にはまだ少し早いが、桜が満開の時季には大勢の人々で賑わう桜の名所でもある。がりょう山に囲まれたその公園の中央には竜ヶ池と呼ばれる池があり、今は十日後に行われる『桜祭り』に備えてそろそろ準備が始まっていた。二人は池のほとりを歩きながら、やがて遊具の立ち並ぶブランコに腰掛けると、
 「なんだか大変そうだね」
 と、俊介が言った。
 「やっと就けた希望の仕事なのに、なんだかもう根をあげそう……。ごめん、新津君が見つけてくれた仕事なのに、こんなこと言って……」
 百恵が答えた。
 「いいよ、そんな事気にしなくて。それじゃあ明日は映画でも見に行かない?リチャード・ギアの新作が公開されたんだよ」
 「明日……?」
 百恵はどうしても乗り気になれなかった。コスモス園の事で考えなければならない事が山ほどあったし、何より身体的にも精神的にも疲れていた。明日は誰にも会わずにゆっくり休みたいというのが本音であった。
 「なにか用事でもあるの?」
 「ううん、別に……」
 「じゃあ、十時に迎えに行くよ」
 俊介は嬉しそうに百恵の手を引くと、彼女を家まで送り届けて帰っていった。
 翌日は、約束通り俊介が迎えに来て、長野市の映画館で映画を見た後、繁華街の通りを二人で歩いた。「コーヒーでも飲もうか」と立ち寄った喫茶店は、多くのアベックたちが利用する高級感あるシックな店だった。しかし百恵の口数は終始いつもより少なく、俊介もそんな彼女を気にしていた。
 「今日はあまり元気がないね。もしかしたら家でゆっくりしたかった?」
 「そんなことないわ、とっても楽しいわよ」
 百恵は俊介を気遣って、先程観賞した映画の話を持ち出した。暫くはその映画の話で盛り上がったが、百恵の心はどこか余所の方を向いていた。すると俊介は上着の内ポケットをごそごそやりながら、中から小さな箱を取り出して百恵に差し出した。
 「なあに?」
 「いいから開けてみて。百恵の誕生日には少し早いけど、僕からのプレゼント」
 百恵はゆっくり包装を剥がして箱を開くと、中からホワイトパールのブレスレッドが姿を現した。
 「いいの?高かったんじゃないの?」
 「このプレゼントには二つの意味があるんだ。一つは百恵の就職祝い。そしてもう一つは、これが指輪に変わるまでの一つ手前の儀式……」
 「新津君……」
 「気に入った?」
 百恵はひとつ笑いながら、
 「そんなこと言って、犬の首輪みたいに私を鎖でつないでおくつもりでしょ」
 と冗談を言うと、俊介も「そうだよ」と言って笑った。
 「そうだ、帰りはラーメンでも食べていこうか?ラーメンのような庶民的で気のつかわない店に入るアベックは、かなり深い関係なんだってさ、知っていた?久しぶりにラーメンが食べたいんだ。付き合って?」
 百恵は静かに頷いた。

 翌週の土曜日は丁度桜の花も見頃だろうからと、再び会う約束をしてからは、喜多方ラーメン、長浜ラーメン、札幌ラーメン……、長野にもラーメン店はそこら中にあるが、味噌の名産品を持つ信州に長野ラーメンはなぜないか不思議だという話をしながら、二人は長野道須坂インターチェンジ近くのラーメン屋に立ち寄った。夕食時の店は若干混雑していたが、運良く窓際のペアの席が空いていた。
 二人は味噌ラーメンを注文すると、百恵は水を汲みに立ち上がった。
 と、向かいの座敷に見覚えのある父子の姿をみつけた。山口医院の山口浩幸院長に違いない。子供にラーメンを食べさせながら、楽しそうに会話をしている。百恵は近くに奥さんもいるのだろうと咄嗟に周囲を見渡した。そのうち百恵に気づいた浩幸が、
 「やあ、馬場さんじゃないですか!」
 と、手を振って挨拶した。百恵は気まずい気持ちで軽い会釈をすると、水の入った二つのコップを持って俊介のいるテーブルに腰掛けた。
 「誰?知り合い?」
 「え、ええ……、コスモス園の施設医のお医者さん……」
 百恵は作り笑顔で答えた。「まだ若いね。専門は何?」という俊介の言葉に、俄かに動揺する百恵のところにラーメンが運ばれてきた。
 「え?……の、脳神経外科だったかな……。さ、ラーメン食べましょ!」
 百恵は心の動揺を隠すように、髪の毛を左手で押さえながらラーメンを食べ始めた。

 なんだろう?この胸のドキドキ……。先生の姿を見つけた時、私、確かに彼の奥さんを探してた。ほらいまも……。目の前の新津君より、彼と彼の子供の事の方が気になっている。彼の奥さんは、お手洗いに行ってるのかしら?駄目……、駄目よこんな気持ち……。だって私には新津君がいるじゃない……。

 やがて浩幸は子供を抱きかかえると座敷を立ち、子供の手を引いて百恵と俊介の脇を通りすぎた。何か挨拶しなければと俯いたまま、言葉も見つからず、このまま知らぬ振りをしようと決め込んだ時、
 「彼氏ですか?」
 脇で立ち止まった浩幸が、明るい声で百恵に話しかけた。百恵は浩幸の顔を見つめたまま、うなずくことができなかった。
 「百恵がコスモス園でお世話になります。どうぞこれからもよろしくお願いします」
 俊介が言った。「わかりました」と答えた浩幸は、そのままレジに向かっていった。百恵が彼の姿を見ようと振り向いた時、彼に手を引かれた男の子は「バイバイ」と、その小さな手を振っていた。それに応えて百恵も手を振った。
 「かわいい子供だね。何ていう名前だろう……」
 百恵は“大樹”と言う名を俊介に教えることができなかった。