> 第4章 > (一)瓜二つ
(一)瓜二つ
 百恵にとって信じられない事件が起こったのは、六月も下旬の事だった。
 その日、いつものように出勤して、お昼頃までは何の変哲もないいつもと同じ時間を過ごしていた。ただ午後の二時には、特養棟に新たに入所する一人の女性高齢者の受け入れがあったから、入所部屋の再チェックや家族へ渡す書類や、介護、看護スタッフへの申し送り事項の確認など、それに関わる事に神経をまわす他は、これといって特別な仕事もなかった。
 コスモス園への入所許可は、最終的には医療法人コスモス園の理事でもあるジャン=ジャックの認可が必要であったが、実質はコスモス園の総務課の権限でその全てを承認していた。もっといえば、総務課委任の入所相談員の調査と判断にその全ては委ねられており、そこで作成された書類をもとに、許可、不許可の判断が成されている部分が大きかったのである。午前中、その総務課から送られてきた一枚の書類に目を通した百恵は、手慣れた仕事のように詳細に目を通したものの、さほど苦にもしないで他の仕事に専念していたのだ。
 新たな入所者の概要はこうだった。
 『菊池夢子、第一号被保険者(六十八歳)。要介護認定五。筋萎縮性側索硬化症を伴ったアルツハイマー型認知症。歩行困難、日常における入浴、排せつ、食事等、一切の行動に介護が必要。情緒不安定にして時々意味のない言葉で騒いだり、暴れたりする。前養護施設からの引き渡し書類もあるので参考にする事』
 そして備考欄にはこうあった。
 『これまで東京に住み、同区域の老人養護施設に入っていたが、生まれ故郷の長野の北信地方へ帰りたいという本人の希望により、戸籍を移しコスモス園へ入所することになった。家族は息子が一人。入所日には同伴する予定だが、仕事の都合で東京都在住。連絡場所は次の通り。氏名、菊池英靖(四十二歳)。住所、東京都……云々』
 特養棟にいる百恵にとっては要介護五といっても珍しい事ではなかった。同等の、あるいはそれ以上深刻な症状の要介護者の世話を、毎日当たり前のようにしているのである。騒いだり、暴れたりする元気があるだけ、この入所者は良いと思ったくらいである。
 そうこうしているうちに、予定より三十分ばかり早く、車椅子に乗せられた入所者とその息子の二人が、特養棟のスタッフルームに隣接する接客室に訪れた。その時百恵は、食事の後片づけを終え、一人の老人を車椅子に乗せて、散歩がてら、現在遊園地の設置について最高会議の審議の舞台となっている屋上へあがっていた。
 「介護主任の馬場さん、菊池様がお見えになりました。接客室の方へお願いします」
 館内放送の声に時計を見れば、約束の時間より随分と早いことに少し慌てて、
 「仲野さん、ごめんね。お客さんが来たみたい」
 と声をかけると、そのまま老人の部屋に戻って、十五分ばかり遅れて接客室に飛び込んだ。
 「ごめんなさい!お待たせしました」
 百恵は部屋に入ると同時に頭を下げた。
 「いえいえ、こちらこそ予定より早く来てしまって」
 付き添いの息子は百恵の姿を確認すると、気さくに立ち上がってそう言った。
 と───、
 顔をあげた百恵の表情が、みるみるこわばっていくのが第三者の目からも見て取れた。
 しばらく、というより非常に長い時間、ドアノブに手をかけたまま、お辞儀をして顔をあげたままの姿勢で、百恵の身体は微動だにしなかった。
 動くはずがなかったのだ───。
 呼吸すらとまっていたのだ。
 もしかしたら心臓さえもとまっていたかも知れない。
 いや、世の中の運行が、全て時間が司るものだとしたら、その時計の針さえとまっていたに相違ない。
 百恵にとって信じ難い事件が、このとき勃発したのだった。
 そこで百恵が目にしたものは、二度と再び会うはずのない、好きで好きで愛し抜いた、あの山口浩幸の姿であった。注釈を加えれば、ジャン=ジャック・デュマに姿を変える前の、脳移植をする以前の、あの山口浩幸の姿であったのだ───。
 先の桜舞い散るがりょう公園で見たあの浩幸は幻ではなく、まさに今目の前にいる男ではなかったか。
 次の瞬間、百恵は失心すんでのところでその場に倒れた。
 驚いたのは男である。「だいじょうぶですか!」と叫んで、慌てて百恵の身体を支えて近くの椅子に座らせた。
 「ご、ごめんなさい……。なんでもありません。ちょっと目眩がしただけ……」
 「たいへんなお仕事なんでしょう。ちょっと待ってください。いま水を持ってきますから」
 男はそのまま部屋から出ようとした。
 「い、いえ、かまいません。本当に大丈夫ですから……」
 「無理をしない方がいいですよ。介護の大変さは私も知ってるつもりですから。ちょっと待ってて、今、持ってきます」
 そう言うと、男は部屋から出ていった。
 百恵の頭は混乱したまま、今、何が起こっているのかも分からない。ただ、目の前には、夢虚ろな目をした老婆が一人、身じろぎひとつせず車椅子に座っているだけだった。
 やがて百恵の前に紙コップに入った水が置かれた。
 「玄関にあった飲水機の水ですけど、どうぞ」
 男は笑いながらそう言うと、やがて老婆の横に腰掛けた。
 百恵は驚愕の目を見開き、男を凝視したまま視線をそらすこともできなかった。
 「私の顔に何か……?」
 「い、いえ……」
 百恵は震えながらコップの水を飲み干した。
 男は淡々と現在ここに来るまでの経緯を語りだした。そんな話など上の空で、驚きの表情を自分に向けたままの見知らぬ介護スタッフの様子に戸惑いながら、男は途中で話を止めた。
 「あの……、すいませんが、私の話を聞いていただいていますか?」
 ふいに我れに返った百恵は、
 「ごめんなさい」
 と叫んだ。呆れ返った男は、もう一度最初から同じ話を繰り返すのだった。
 男の名は菊池英靖、四十二歳。この七月で四十三になると言う。東京でネット関係の会社を営むいわゆるセレブに属する人種で、生まれも育ちも東京である。ただ、今回の入所対象者である母夢子は長野県小布施町の出身で、結婚と同時に東京に移り住んだものの、菊池が生まれて間もなく伴侶を亡くしたのだった。以来夢子は、女手ひとつで東京砂漠を生き抜いた。そして、まだらボケを伴いながら年を重ねる毎に、
 「田舎に帰りたい……」
 を繰り返していたと言う。夢子の痴呆が分かったのは彼女が六十歳になった頃。その進行は思いの他早く、仕事の手を患わす彼女に見切りをつけた菊池は、数年前から都内の老人養護施設へ預けるようになったと言う。最近ではときたま「田舎に帰りてえ」を言うだけで、他は何も話さない。何か気にいらないことがあれば急に訳の分からない言葉を吐いたり、暴れ出す他は、至って静かな性格であると言う。ただ、自分ひとりでは何もできないので、最後に菊池は、
 「こんな母ですが、よろしくお願いします」
 と、言った。百恵は先程からずっと俯いたまま、必要書類を菊池に渡した。
 「入所にあたってのご家族の注意事項や決まり事が書いてありますので目をお通しください。それから、事務的な書類も入っていますので、必要事項を書き込んだら、なるべく早めにご返送ください……」
 書類を渡す指と指が触れた時、再び百恵は菊池の顔をのぞき込んだ。
 どうして見間違うことなどあろうか───。
 目もと、口許、鼻の形───。ただ、目の中の光に、一種独特な冷淡さを感じるのは、あるいは雑多な人種が入り交じる東京生活の影響か。百恵は眉をひそめて目線をそらした。

 浩幸さんに双子の兄弟がいたのかしら───。
 でもそんな話、一度も聞いたことがない。
 それとも赤髭先生の隠し子?
 さもなければ、世の中にこれほど似た人間など存在するはずがないじゃない───。
 あるいは浩幸さんが脳移植をしたなんて嘘で、私を驚かそうとしているの?
 ならば、ジャン=ジャックってだあれ?
 実子である大樹君をも騙したっていうの?
 あり得ない、そんなの絶対にあり得ない。
 だあれ?
 この人だあれ?誰なの───?

 思考の混乱は頂点に達した。百恵は思わず戸惑いながら、震える声でこう聞いた。
 「菊池さん、山口脳神経外科医院ってご存じないですか?」
 「知っていますよ。もちろん」
 百恵は目を見はった。
 「このコスモス園の母体でしょ?ひと昔前、『介護医療の新しい道』とかで話題になったじゃありませんか。その後、院長が殺されたとかで、随分世間を賑わせた。あっ、そうそう、あの院長の顔が私に似ているとかで、仲間からは随分囃したてられましたよ。どうです?そんなに似ているのですか?」
 百恵は内心、「他人のそら似。やっぱり無関係……」と思った。
 「ひょっとして、あの院長の関係者?私の顔を見て、そうとう驚いていましたからね」
 菊池は癖のない声で笑った。
 「お部屋を案内します」
 百恵はそう言うと、夢子の車椅子を押して歩き出した。

 菊池英靖と名乗った男は、ネット業界ではかなりやり手の資本家のようだった。話し方やその内容の節々から感じる知的な言動に、すぐにそうと知れる。数十人の従業員を従えて、自ら営業にも飛び回る才能は、何気ない百恵の言葉を担ぎ上げたり落としてみたり、時には冗談をまじえてまったく別の観点で論じてみたり、その頭の回転の早さに浩幸と重なった。
 「菊池さんは、本当に長野は初めてなんですか?」
 「一度、母の生まれ故郷を訪ねてみたいと思ってました。もっとも母の家がどこにあったのか、ボケてしまった今では知る由もありませんが。それに有名じゃないですか、小布施の栗ようかん。職場の同僚にいくつも買ってしまいましたよ。実は四月の中旬に、今回の手続きをするためにここに来ましたが、その時はがりょう公園の桜を見てきました。だから正確にいうと長野には二回目ですね」
 「あの幻の浩幸の姿を見たのはその時だったのか」と百恵は思った。
 介護の部屋に案内された菊池は「良い部屋だ」と感嘆の声を漏らした。
 「これなら安心して母を預けられます」
 百恵は夢子の身体をベッドに寝かせたあと、一日の生活と介護内容を一通り説明した。
 やがて菊池は母夢子の身体を優しくいたわると、間もなく東京へ帰って行った。
 「母に何かありましたら携帯の方へお電話を下さい」
 と小さなメモ書きを残して。