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(七)コスモス園
 こうして百恵はコスモス園に勤めることとなった。
 勤めはじめて一週間───、百恵は通所の介護員見習いのような立場で、先輩の介護スタッフや看護士の補助的な仕事にてんてこまいだった。介護スタッフ歴八年の丸越朋美の下で、おむつの取り替えやお風呂や排泄の世話、リハビリの手伝いや話し相手、食事の配膳から後片づけ、なにもかも初体験の事ばかりで疲れもピークに達していた。特に痴呆症の老人の対応には戸惑った。
 「なんだい?あんた新入りかい?」
 「はい、よろしくお願いします」
 勤め初めて二日目、先輩の指示で車椅子の春さんというおばあちゃんを部屋に連れていく時の事である。
 「最近はスタッフさんの出入りが激しくていけないねえ。で、名前は何ていうんだい?」
 「え?な、名前ですか?馬場百恵です……」
 百恵はわざと苗字を小さく言った。
 「何だって?聞こえないよ」
 「モ・モ・エ。バ・バ・モ・モ・エです!」
 「モモちゃんか。いい名前だね……。覚えておくよ。これからもよろしくね」
 「こちらこそよろしくお願いします」
 春ばあさんを部屋に届けた後、百恵は新しい出会いに心地よいすがすがしさを感じていた。丸越はそんな百恵の態度に気が付いて、
 「どうしたの?百恵さん。何かいいことあった?」
 と聞いた。百恵はその小さな喜びの一部始終を話すと、
 「春さんはね、私にも毎日同じ事を言うのよ。もう春さんとの付き合いは今年で五年目。いまだに私を新人だと思っている」
 百恵は介護を必要とする高齢者の世界の入口に立っていることを嫌でも感じなければならなかった。
 その日は脳神経外科の院長先生が週一回の定期診察に訪れる日だった。
 百恵は一〇四号室の靖じいさんの担当を任され、一時三十分には診察が行われるリハビリ室へ連れていく予定だった。
 昼食を終えると靖じいさんの部屋に行き、必要な身の回りの世話を始めた。
 「靖さん、今日はこの後、お医者さんの診察がありますから、私と一緒に行きましょうね」
 「医者……?へえ、おら、いやだ!あの先生の顔見るだけで具合が悪くなる」
 「どうして?何かいやな事言われたの?あら、お昼ごはん、残してる」
 百恵は、トレイの残された昼食を見て言った。
 「だめじゃない。ちゃんと全部食べないと……」
 「おら、へい、毎日、毎日、こんな薄味の魚と菜っぱだけじゃ死んじまう。ここはおらを殺そうとしてるに違えねえ」
 「何を言うの?ちゃんと靖さんの栄養のバランスを考えて作っているのよ。さあ、お手洗いに行っておきましょう」
 百恵はよろよろ立つ靖じいさんの腕を支え、手洗いに向かった。
 「なあ姉ちゃん。おら軍人だっただぞ。昔は南方に渡って方々を飛び歩ったもんだ。敵の鉄砲玉何発もくらって、あるとき一度は死にかけた……」
 ゆるりゆるりと歩きながら、靖じいさんは遠くの方をみつめて話し出した。
 「姉ちゃんに話しても分からないか……」
 「戦争は知らないけど……、聞かせてください」
 靖じいさんは、百恵の顔も見ることなく、そのまま話を続けた。
 「気づいたら、周りの同僚はみな死んでいた。おらは九死に一生を得て野山をさまよい歩いたんだ。敵陣だったから昼間は草木の陰に隠れながら、いくつ夜を走り回ったか、もう腹が減って腹が減って、喉がかわいても水はない、土を食うわけにもいかないし、おらは力尽きてついにぶっ倒れただ。そしたらな、あまーいほのかな香りがおらの鼻先を包みこんでいただ。その時誰かが言った、『死んじゃいけねえ』って。きっと天の声だったにちげえねえ。それで目を開けたのよ……。そしたらな、驚いたことに目の前に一面のサトウキビ畑が広がっていただ……。おらはむさぼりつくようにそのサトウキビを食った……。うめかったなあ、あのサトウキビ……、ほんとにうめかった……」
 「靖さん……」
 「それでな、おらどうしても砂糖なめたくなって、いつだったかなあ、ここの調理室の砂糖をなめようと忍び込んだだ。けっ、そしたら運悪くあの医者の先生がいるじゃねえか。まだ三十そこそこのケツの青い医者のくせに、砂糖の入った入れ物をおらの背の届かない棚の上にひょいと乗せて、『砂糖をなめたかったら自分でとってみなさい』なんてほざきやがった」
 「ひどい……、そんな事言う先生なの?」
 「そうさ、この近くに山口脳神経外科ってあるだろ?そこの若僧よ」
 「でも、私の子どもの頃は赤髭先生って評判だったわよ」
 「なんだい、姉ちゃん、地元かい?昔はそう呼ばれていたらしいが、院長がその息子に替わってからは評判ガタ落ちよ。あの先生、きっとおらを殺そうとしているに違いねえ」
 靖じいさんは、「あのサトウキビ、も一度食いてえなあ」を何度も言いながら用を足しはじめた。今にも倒れそうなそのきゃしゃな後姿を見ているうちに、百恵は急に彼がかわいそうに思え、用が終わりヨロリとよろけた身体を支えた時、
 「分かったわ、靖さん。私、今日、先生にお願いしてみる」
 と言った。靖じいさんは百恵をみつめると、涙をためて「姉ちゃん……」と言った。
 「大丈夫。先生だって人間よ。靖さんの気持ちが分かれば、一口くらいお砂糖をなめさせてくれるわ!」
 「ありがてえ!」
 靖じいさんは百恵に抱きつくと、涙を流して「ありがてえ」を繰り返した。

 百恵が靖じいさんを連れて診察場所になっているリハビリ室に行くと、脳神経外科医の山口は椅子に座って背を向けて、前の診察者のカルテをまとめているところだった。
 「藤沢靖次さん。上半身裸になってそこに座って下さい」
 山口は背を向けたまま言った。百恵は靖じいさんの服を脱がすのを手伝って、ゆっくり椅子に座らせた。
 「あの……、先生……」
 百恵の言葉にはまるで無関心に、山口はカルテのペンを走らせながら、
 「なんでしょう?」
 と答えた。
 「靖さんがお砂糖を食べたいというのですが……」
 「駄目です」
 その返答はあまりに即座だった。しかも意識は机の書類に専念しているくせに、あまりに軽くあしらった言い方だった。
 「でも、ひと口くらい……」
 「駄目です」
 百恵はむっとした。靖じいさんの心情も知らないくせに、頭ごなしの「駄目」という冷たい言葉に無性に腹が立った。この人が靖じいさんの身体が思うように動かないのを知っていて、砂糖の入れ物を高い所にあげた意地悪な医者の張本人かと納得した。
 「あの……、靖さんは戦争中……」
 「藤沢さんは脳血管性認知症の上、糖尿を煩っているのです。砂糖を食べるなんてもってのほかだ。貴方も介護員ならそのくらいのことを……」
 振り向いた山口の顔に百恵の身体が硬直した。
 「ああ、貴方は……」
 百恵は言葉を失った。コンビニで出会ったあの男性の顔と瓜二つではないか。
 「確か……、馬場?さんでしたね」
 「ど、どうして私の名を……?」
 百恵は驚きの中で、やっとの思いで口にした。
 「少し前にすぐそこのコンビニにいたじゃないですか。胸の名札に書いてありましたよ、“馬場”って。しばらく姿が見えないので少し気になっていたのですが、ここに働くようになったのですね」
 百恵は動転していた。子供の手を引いてコンビニに訪れる彼と、目の前の彼とでは、受ける印象が一八〇度異なっていたからである。コンビニの彼はどことなく悲しげで、子供に対する限りない優しさがにじみ出ていたのに対し、目の前の彼は明るい表情の裏に、ある種冷淡なイメージが漂っていたのだ。
 「ちょうどいい、馬場さんにひとつ仕事を命じます。それはここにいる藤沢さんの食べ物の管理です。毎日施設の献立通りの食事を全部食べるように。また、ご家族の方が藤沢さんを気遣ってお菓子や甘い物を差し入れしているようですが、それらは全て没収して下さい。いいですね、馬場さん」
 「なんでその事を……」
 靖じいさんはそう呟くと深くうなだれた。その様子を見て、百恵も申し訳なさそうに俯いた。
 「馬場さん、聞こえてないのですか?」
 「そんなに馬場さん馬場さんて、苗字で言わないで下さい!」
 施設医の立場を利用した山口の横柄に聞こえた言葉と、気にしている苗字を連発されて、たまりかねて百恵は叫んでいた。
 「嫌いなんです、この苗字……」
 「じゃ、何て呼べばいいですか?」
 「苗字でなければ何でも……」
 山口は少し考えた後、「フルネームは何ていうのですか?」と言った。
 「ババモモエです。いけませんか?」
 山口は急に笑い出し、「なんだかおばあちゃんみたいな名前だね」と言った。
 「だから嫌いなんです!」
 やがて山口は笑いを抑えるとふと思い出したように、
 「そうだ、僕と結婚すれば“山口百恵”になれますね、永遠のアイドル……。まるでアヒルが白鳥になった『みにくいアヒルの子』の物語だ。どう?僕と結婚しましょうか?」
 と、山口は再び笑い出した。
 「先生の妾にはなりません!」
 山口は急に真顔になると、「めかけか……」とぽつんと呟いた。

 山口の名を浩幸といった。コスモス園の日程スケジュールを見ればすぐに知れる。診察を終えた靖じいさんを支えながら、彼の口から出る山口の陰口をたくさん聞きながら、百恵はゆっくりゆっくり廊下を歩いて一〇四号室へ向かった。
 「ごめんね、靖さん……。お砂糖を食べさせてあげようとしたけど、全く正反対の結末になっちゃった……」
 「いいってことよ。あの医者、女たらしの上に全く融通のきかねえ先生だからな。でも姉ちゃん、たまには見逃してくれよ」
 百恵は笑って答えた。