> 第3章 > (七)忘れ得ぬ人の気配
(七)忘れ得ぬ人の気配
 その年の初雪が降った。
 百恵は冬が好きだった。思えば浩幸にプロポーズされたのも、春間近の季節はずれの雪の降った寒い冬の朝だった。がりょう山の山頂まで、浩幸の残した足跡を忠実に辿って、そこで初めて彼とキスをしたのだ。
 百恵はスタッフルームの窓から見える雪を見るともなしに、暫くその思い出に浸っていた。
 「山口さん、なに考え事してるんすか?」
 大川が朝の巡回日誌を持って、そう言った。
 「お子ちゃまには関係ないの」
 「わかった!遥か異国のご主人の事でしょ!ああ、顔が赤くなった、赤くなった!」
 大川はそう囃し立て、嬉しそうに見回りに出てしまった。百恵は拳骨の仕草でそれを見送ると、時計を見てから早番者の置いた介護記録に目を通した。そして、気になる入所者の記録に目をとめると、お風呂に入れてあげようと思い、静かに立ち上がってその部屋へ向かったのだった。
 三〇五号室の男性患者は、脳溢血による重度の脳血管性痴呆症を患い、身体を動かす事も話す事もできない。百恵がその部屋に入れば、力なく口を開けた顔で、その目だけをぎょろりと光らせてこちらを睨む。その光景はムンクの“叫び”にも似て、何も知らずにこの部屋に入って来た者があるとすれば、おそらく悲鳴をあげて逃げ去るに違いない。
 「お身体の調子はいかがですか?今日は雪が降ったので寒かったでしょう?さあ、お風呂に入りましょうね……」
 百恵は答えるはずのない男性患者に話しかけながら、その身体を抱えて車椅子に乗せると、ゆっくりお風呂場に向かって歩き出した。
 一般施設の痴呆老人達なら、気持ちの切り替えによっては笑い話にもできる。ところが特養棟の入所者達は、そういった次元をはるかに越えた生きる屍だった。百恵は横たわったままの老人の身体を洗いながら、小さなため息をついた。
 と、呼び出しチャイムの後、館内放送で百恵を呼び出す声が聞こえた。
 「介護主任の山口さん、デュマ先生がお見えです。スタッフルームにお戻り下さい」
 その呼び出しは二回ほどアナウンスされて切れた。百恵は洗いかけの老人を気にしながら、ナースコールで大川を呼びつけた。
 「なんすか?急ぎの用事って……」
 「ああ、大川君、ごめんなさい。田幸さんのお風呂の続きお願い」
 「ええ、俺がっすか?いやっすよ、苦手なんす」
 「なに好き嫌い言ってんの!」
 就職してから、リハビリ専門にやってきた大川は、専門学校以来やったことのないお風呂入れを渋った。あまり渋るものだから、
 「あっ、そうだ、今度、気が向いたらデートしてあげるから!」
 百恵の冗談に、
 「ええっ?本当っすか?それって、もしかして不倫?」
 大川は嬉しそうに、急に張り切りだした。
 「多分、永久に気が向かないと思うけど!」
 百恵はそう言い残すと、「それはないっすよ!」という無駄口青年の声を聞きながら、急いでスタッフルームに向かった。
 部屋に入ると、ジャン=ジャックは窓辺に立ち、降りしきる雪を眺めていた。
 「デュマ先生、遅くなってすみません」
 百恵の言葉に振り向いたジャン=ジャックは、笑顔を浮かべて、「廊下の壁の動物の張り紙は、貴方がやったのですか?」と聞いた。
 「はい。みんなには保育園の学芸会みたいだといわれますが、少しは明るくなったと思います」
 「効果はありましたか?」
 百恵は何も答えなかった。
 「先生に、この棟の現状を見ていただきたいとずっと思ってました」
 「今日は僕も、そのつもりで来たのです。施設内を案内していただけませんか?」
 そうして二人は、部屋を出ると、悲鳴やらうめき声がうずまく廊下を歩きだした。そして一部屋ずつ、そこに横たわっている入所者の現状を説明しながら、世間話もすることなく巡回したのだった。
 部屋から部屋へ移動する際、百恵は何か特異な感情にとらわれていた。横に歩くジャン=ジャックの気配の中に、ずっと浩幸を感じていたからだ。以前と同様、浩幸と会った時には必ず高鳴った胸の鼓動と同じドキドキが、いつまでもおさまらないのである。しかし横を見れば、背の高い栗毛の青目の男がいるだけで、その瞬間、浩幸の気配がはたと消えてしまう。思えば、最初に彼と廊下ですれ違った時もそうだった。そしてつい先日、山口医院の院長室に行った時もそうだった。ジャン=ジャックという男に接近するたび、浩幸の気配を感じる五感が、不思議で仕方がなかった。
 「デュマ先生と浩幸さんって、いったい、どういうご関係なのですか?」
 百恵はたまりかねてそう聞いた。ジャン=ジャックは警戒したような目で百恵を見つめると、
 「親友ですよ───」
 と答えた。
 「ムッシュヒロユキは、僕にとってよき先輩であり、師でした。僕が留学中、初めて出会った時も、なんだか遠い昔からの友人であったかのような、不思議な感覚にとらわれたものです。仲間からも、仕草から何からそっくりだと言われた事もあります」
 「そんなに親しかったのですか……」
 「どうしてですか?」
 「何だか変だなって思って……」
 「何がですか?」
 「フランスにいる時は、浩幸さんとは、どのようにやり取りをしていたのですか?」
 ジャン=ジャックは笑いながら、
 「ほとんどが電話です。やけにしつこく聞くのですね」
 と苦笑した。
 「だって、浩幸さんのお部屋を掃除したときも、ジャン=ジャック・デュマなんて人とやり取りをしていた形跡が全くないし、アルバムも見たけど、デュマ先生が映った写真なんか一枚もなかったものですから……」
 ジャン=ジャックは立ち止まって、大きな声で笑い出した。
 「それでは何ですか?山口さんは、僕が身元不明の医者の騙りとでも言いたいのですか?それは痛快だ!何なら医師免許をお見せしましょうか?フランスの物ですけどね」
 「いえ、そういうつもりで……。すみません。余計な事を聞きました……」
 百恵は言葉を失って、黙々と案内を続けた。
 一通りの巡回が終わると、ジャン=ジャックは「なるほど……」と一言いった。そして、
 「しかし、脳を患う老人の病棟なんて、こんなものですよ」
 と付け加えた。
 「でも、浩幸さんの構想の中の特養棟は、こんなんじゃありませんでした!」
 百恵はそう言うと、「先生に見ていただきたい所があります」と、スタッフルームからジャン=ジャックと自分のコートを抱えて持って来ると、エレベーターに乗って、彼を屋上へと案内した。そのエレベーターの中でも、百恵の鼓動はおさまらなかった。
 「先生、寒いですからコートを着て下さい」
 百恵は自分の白いコートを羽織ると、雪の降りしきる屋上へ先に飛び出した。雪の舞い落ちる中、暫く二人は無言のまま歩いた。
 「この屋上は、特養棟の入所者達の憩いの場所という目的で作られたのは、先生もご存じでしょう?でも、利用する人なんて一人もいない。当然ですよね。皆動けない人達ばかりなのですから。たまにスタッフが、外の空気に触れさせようと、ちょっとの時間連れて歩くだけで、後は、ネコの子一匹いない閑散とした寂しい広場───」
 ジャン=ジャックは、百恵の後を歩きながらコートの襟を立てた。雪が降り止む気配は全くない。すると、百恵は立ち止まり、
 「私、ここに遊園地を作ろうって思ってるんです!」
 と、突然言った。
 「遊園地───?」
 ジャン=ジャックは寒そうな表情を隠せないまま、不思議そうにつぶやいた。
 「そうです!子どもたちが遊ぶための遊園地を作って地域の子どもたちに解放すんです!ブランコやジャングルジムや大きな滑り台があって、お母さん達が憩える小さな喫茶コーナーもあって……、そして、北側には特設ステージが設置できるようになっていて、そこでは、読み聞かせや寸劇、音楽会などの催しを行うの。きっと子どもたちは喜んでここに遊びに来るようになるわ!そうすればこの特養棟に、活き活きとした風が流れるようになるでしょう。特養棟の入所者達には、それが何よりの栄養であり、薬になるはずです。先生、来年度予算に組み込んでいただくわけにはいかないでしょうか?」
 ジャン=ジャックは再び大きな声で笑い出した。
 「ムッシュヒロユキの奥さんは、面白い事を考える人ですね!老人介護施設に遊園地なんて、聞いたことがありません!」
 その笑いはなかなかやまなかった。
 「だめでしょうか?」
 「いや、面白い発想だと思いますよ。しかし、子ども達を特養棟に入れるということは、思いもつかない問題も常に発生し得るということです。その辺もしっかり考えて、企画書を提出してみて下さい。最高会議にかけてみますから」
 「ほんとうですか!」
 百恵は飛び跳ねて喜んだ。
 そうして二人は、屋上の際の柵のところに立つと、どんよりとした空から舞い落ちる無数の氷の精を見つめた。百恵は菅平の夜の事を思い出しながら、雪の中に浮かぶ浩幸の面影を追いかけた。やがてジャン=ジャックは、その雪の舞いを見つめながら、
 「秒速五〇センチの美学ですね……。なんだか吸い込まれてしまいそうな不可思議な感覚に陥ります」
 と呟いた。百恵は彼の横顔を見つめた。
 「知りませんか?ちょうど今日のような雪でしょう。牡丹雪が舞い落ちる速度は毎秒五〇センチという話しを……。春、桜の花びらが舞い散る速度もほぼ同じ、それに、夏舞う蛍の速度も同じだそうです。日本人は古来から、その速度の中で“美”を見いだしてきたと───、以前、ムッシュヒロユキが言っていたのを思い出しました」
 百恵はその全ての風景の中で、浩幸と同じ時間を共有した思い出を回想した。ふと、いま降る雪と蛍の舞いを重ね合わせた時、鮎川での晩、浩幸が冗談半分に言っていた言葉が鮮明に蘇ったのは、あるいはジャン=ジャックが持つ、浩幸と同じ雰囲気を感じたからだったかも知れない。
 『僕は脳外科医なんてやってますから、たまに脳移植について考える事があります。近い将来、僕は必ず脳移植が可能になると信じています。───仮に、僕と須崎さんが同じ車に乗っていて大事故を起こしたとして、彼は頭を強く打ち脳死、一方、僕の方は首から下の身体がバラバラになり頭だけが残ったとします。そこで僕は脳移植を強く希望したんだ。やがて移植手術は成功し、僕は別人の身体を持った僕になり、その後の人生を生きる事になった───。どうです?貴方は全く別人の姿をした僕を愛することができますか?』
 まさかっ───!!
 百恵の瞳孔は見開かれ、次の瞬間、ジャン=ジャックの横顔を食い入るように見つめた。
 「寒い……。いけません、頭痛持ちの僕にはこたえる寒さです。中に戻りましょう……」
 ジャン=ジャックはそう言うと、施設内に向かって歩き出した。百恵はその場に立ちつくして、暫く彼の後ろ姿を見つめると、雪に残ったその足跡に沿って忠実に歩き始めた。

 やっぱり同じ───。
 この歩調───、このテンポ───、そしてあの後姿───。
 私の体が忘れるわけがないじゃない。
 愛した人の歩き方、愛した人のペンの持ち方、愛した人の癖や仕草、そして、愛した人の息づかい───。
 浩幸さん……?
 あなた、浩幸さんじゃないの?

 「山口さん、風邪をひきますよ!」
 しかし、振り向いたジャン=ジャックは、浩幸とは全く別人の、背の高い、栗色の頭をした青目のフランス人だった。百恵は戸惑った。姿こそ違え、世の中にこれほど似通った人間が存在するのか?と。そして、施設内に入って雪を払うジャン=ジャックの姿を、身じろぎひとつせずじっと見つめた。
 「どうしたのですか?早く貴方もコートを脱いで、雪を払った方がいいですよ」
 やがて動かぬ百恵に呆れたジャン=ジャックは、静かに百恵のコートに手をかけると、それをはずして溶けかかった雪を勢いよく払い落とした。
 「さあ、スタッフルームに戻りましょう───」
 ジャン=ジャックは二つのコートを抱えたまま、エレベーターのボタンを押した。
 「デュマ先生!」
 ジャン=ジャックは振り向いた。
 「もしかして……、あなたは浩幸さんじゃありませんか?」
 一瞬、彼は驚いた顔をした。が、次の瞬間、笑い出したかと思うと、
 「山口さん、貴方が最愛のご主人を失ってからの、藁をもすがる思いの悲しみは分からないでもありません。しかし、僕と彼を見間違うなんてどうかしている。さあ、行きましょう」
 ジャン=ジャックは、エレベーターの開いた扉の中へ入っていった。