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(六)免疫抑制剤
 特養棟の仕事を始めて一週間、百恵は午後、山口医院へ行き、院長室の扉をノックした。どうしても納得のいかない現在の特養棟のあり方について、もの申しに出たのである。懐かしい院長室の扉を開けると、一人の男がデスクに向かい、書類に何かを書いているところだった。
 百恵は我が目を疑った───。
 そのペンの持ち方、左手の置き方、頭の角度から姿勢まで、以前何処かで見かけた人物と同じではないか。紛れもない、まだ結婚する以前、コスモス園のリハビリ室で、届かぬ思いを胸に押し込めながら、涙を溜めてじっと見つめていた人物に相違ない。
 「浩幸さん……」
 思わず呟いた。そして、彼女の表情がみるみるほころぶと、
 「いつ、戻って来たの?」
 そう、聞こうとした瞬間、男は顔をあげた。百恵は茫然として、そのジャン=ジャックの顔を見つめたままだった。
 「ああ、山口さん。どうしましたか?」
 百恵は何も答えられなかった。
 「僕の顔に何かついていますか?」
 「い、いえ、別に……」
 ジャン=ジャックは書類を閉じて立ち上がると、接客用のソファに百恵を案内し、コーヒーメーカーのコーヒーをカップに注いで彼女の前に置いた。
 「いかがですか?特別養護棟の仕事は?」
 「その件で、お話があって来ました」
 ジャン=ジャックは俄に笑い出すと、「だいぶ困惑しているようですね」と言った。
 「何がおかしいのですか?私が家を引き渡さないからって、特養棟へ島流しにして、さぞご満悦といったところでしょうけど、お生憎様。私、けっこう楽しく仕事をやらせていただいてますから」
 「それはよかった。僕はそれを期待していました」
 百恵はむっとした表情でジャン=ジャックを睨んだ。
 「そんなに怖い顔で睨まないで下さい。山口さんなら、あそこを変えられると思って任命したのは本当ですよ。家の腹いせなんて少しも思っていません」
 「家なんか今日からでも先生が住めばいいわ。でも、私は大樹君と別れて暮らそうなんて思いませんから」
 「もう分かりましたよ。その話はよしましょう。それより今日は何でしょう?」
 百恵は気を取り直して、考えてきたことをいっぺんに話し出した。
 「今の特養棟のあり方はおかしいと思いまして……」
 百恵は、浩幸がコスモス園と山口医院の統合問題を言い出した頃から、様々な雑誌などに掲載された彼の論文や構想を勉強してきた一人だった。当時は介護や医療問題等に興味があったわけでなく、好きになった人の考えを少しでも理解しようとの思いで学んだものだが、そこに書かれた理想と、いざ実現して現場に身を置いた時のギャップが、あまりに大きい事に驚愕したのである。その思いを率直に伝えると、
 「浩幸さんの理想は、ただ施設や設備を整えて、そこに介護者を押し込めておけばいいというものではありません。あれでは介護者にとってもスタッフにとっても牢獄の何者でもありません」
 と付け加えた。
 「ムッシュヒロユキの理想は僕も理解しているつもりです。しかし、蓋を開けてみたら、現実は違っていたというところでしょう。何か具体的な良い案でもありますか?」
 百恵は少し戸惑いながら、
 「もっと一般施設との行き来が自由にできる雰囲気作りというか、そうせざるを得ないシステム作りが必要ではないでしょうか?」
 「ほう……」
 ジャン=ジャックは楽しそうに耳を傾けた。
 「世の中全体のものの考え方が細分化方向に進んでおり、専門的なところばかりに目がいきがちですが、それではあらゆる事柄が分断化への方向に動く事は必定です。特養棟がその良い例です。浩幸さんの構想には、特別養護老人達を隔離するのではなく、よりグローバルな人間社会の中に置くことにより、その人生の最終章を包み込んであげたいという心を感じるのです。今のままでは、収容される高齢者も孤独、その介護や看護をするスタッフ達も疲れ切り、仕事に対する意欲すら失ってしまいます。現にそうなりかけています!」
 「それは特養棟の必要性を否定するという意味ですか?」
 「違います。確かに特別養護を必要とする方たちはいますので必要だと思います。しかし、今の状態は……」
 「矛盾してますよ。何か具体案をおっしゃって下さい」
 百恵は閉口して思いつく案を並べたてた。
 「例えば週に一回でも二回でも一般施設の老人達の部屋に移動したり、あるいは来てもらったり、そして同じ生活の時間を共有して、あるいは、地元幼稚園、保育園の園児達や義務教育の児童、生徒達に来てもらって、様々な催しを行ったり、動けないとはいえ、何も考える事ができないとはいえ、生きた人間の中で過ごす時間を作るのです」
 「それはムッシュヒロユキの構想ですか?」
 「私はそうであると信じます」
 「それなら山口さんの思うとおりに実行してみて下さい。僕は何も言いません」
 ジャン=ジャックはそう言うと、コーヒーを飲み干し、カップを持って立ち上がった。と、次の瞬間、身体をよろけてソファに倒れたのだった。百恵は慌ててその身体を支えに立った。
 「デュマ先生、どうされました!」
 ジャン=ジャックは頭を抱えながら腕時計を覗き込むと、
 「すみません。薬を飲む時間をすっかり忘れてました……」
 と言いながら、白衣のポケットから錠剤の薬を数粒取り出したのだった。ところが手にした錠剤をことごとく床に落としたので、百恵は驚いてそれを拾い集めると、その中の一つの錠剤の箱を見つめた。
 “Immunosuppressant”───
 箱には確かにそう書いてあった。ジャン=ジャックは慌てて百恵の手からそれを取り上げた。
 「どこかお身体でも悪いのですか?」
 百恵は心配そうにそう聞いた。
 「いや、慢性の頭痛持ちでしてね。決められた時間にこれらの薬を飲むようにしているのですよ」
 と、ジャン=ジャックは危なげな足取りで自分のデスクに向かうと、そこに置かれていた水差しの水をコップに注ぐと、それらの薬をいっぺんに呑み込んだ。
 見たことがある───。
 確かにあの箱の表記は免疫抑制剤に違いない。以前、介護福祉士の資格を取得する際に勉強した薬剤関連の参考文献に、その薬が紹介されていたのを覚えていた。しかし、免疫抑制剤とは臓器移植後に、移植患者の拒絶反応を抑制させるために用いる薬である。頭痛といったい何の関係があるのか───?
 百恵はそう思うと、不審そうにジャン=ジャックの顔を見つめた。
 「とにかく特別養護棟のことは、介護責任者である貴方に全て任せますので、好きなようにやって見て下さい───」
 ジャン=ジャックはそう言うと、「すみません。気分がすぐれません。お引き取りください」と言ったまま、デスクに頭を抱えてうずくまった。
 百恵はひとつ頭を下げると、「お大事に」と言い残して院長室を出ていった。