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(五)死せる病棟
 特養棟勤務の初日、そのロビーに立ったとき、百恵は冷たい異様な空気を感じた。施設自体は真新しいのだが、ガランとした空間には誰もおらず、ただ朝の寂しげな光が射し込んでいるだけで、物音ひとつしないのである。運動靴のキュッ、キュッと鳴る音だけを響かせながら、一階のスタッフルームに入れば、まるで無気力で話しもしない数人の職員が百恵を見つめた。
 「おはようございます!今日からこちらでお世話になる山口百恵です!」
 その元気な声を迷惑そうに、やがて尾佐田と名乗る女性看護士が、介護責任者のデスクに百恵を案内した。そして、前介護責任者の介護記録一式を無造作に渡すと、
 「なあに?あなたも島流し?」
 と言い残して、自分のデスクに戻ってしまった。
 「他のスタッフは?」
 百恵は近くにいた若い男性介護スタッフをつかまえて聞いた。
 「早番者は各部屋で仕事をしてますよ」
 若い介護スタッフはやる気なさそうに答えた。
 「とりあえず施設内の様子を見たいから、あなた、案内してくれない?」
 「ええっ?俺がっすか?」
 男は面倒くさそうに立ち上がると、百恵を連れてスタッフルームを出た。
 「まったくたまったもんじゃないっすよ!今年の四月にここに就職できたまでは良かったけど、医療法人化になった途端、ここに回されちまった。なんだかこの棟にいると、気持ちが沈んでくるんすよね。あんたの前の介護責任者も、鬱状態になって辞めていったんすよ。あんた山口さんて言うの?まあ、気の毒だけど、いつまで続くか見ていてやるよ───」
 第一印象と違って話し好きな男らしい。歩きながらいつまでも話を続ける彼の名を、大川陽一といった。介護専門学校を卒業したての、小柄な十八歳である。
 「ここにはね、話し相手が一人もいないんすよ。話をするにはするけど、話しているうちにため息の合唱になっちまう。ため息協奏曲第一番、なんてね。この間なんかね、スタッフの女の子が泣き出して、レクイエムになっちゃった。悲愴さを決定する音楽コンクールに出たらきっと優勝するね」
 「無駄口を言う暇があったらこの施設の説明をして」
 「山口さん、真面目なんですね。介護責任者としてはりきって来たのは分かるけど、あまり一生懸命にならない方がいいっすよ。どうせ、動けない痴呆老人に生命力を奪われて、その元気も、もって三日というところかな?俺は一日でアウト」
 大川は始終無駄口を叩きながら、三十室程ある部屋を回ってから、風呂場や接待室やボイラー室などを案内した。行く先々で見かける介護スタッフ達の表情は疲れ切り、百恵の姿を見かけても、笑って声をかける者などは一人もいなかった。
 一回りしてデスクにつくと、次に机の介護記録に目を通した。
 収容人数は二十六人。そのほとんどが要介護認定五を受けた重度の要介護老人で、中には山口医院で収容しきれない脳死患者までいる。いわゆる寝たきり老人の介護だけならまだしも、体力があり突然暴れる癖のある者は、抑制帯と呼ばれる帯でベッドに縛り付けている。これでは、介護病棟でなければ生き地獄と呼ぶにふさわしい。そうこうしている間に、どこかの部屋から悲鳴のような声が聞こえてきて、百恵は驚いて廊下に飛び出した。
 「いつものことっすよ」
 と、大川が鼻くそをほじくりながら言う。噂には聞いたが、いざ自分の身をそこに置いたとき、百恵はいっぺんに自信を消失させた。しかし、一方では首を傾げる自分がいた。それは浩幸の構想の中にあった特養棟のイメージと一八〇度違う点であった。浩幸のそれは、まさに老人達の人生の最後を荘厳するような楽園の印象があったのである。
 いったい何が違うのか───?
 百恵はさしあたり、施設の雰囲気を変えるため、壁などに動物や花などの貼り絵をすることを思いついた。
 「大川君、今日のあなたの仕事は?」
 「仕事?リハビリスタッフとして配属されたんだけど、ご覧の通りのありさまでしょ。俺の仕事といえば、スタッフに呼ばれたらその場所に行き、重い人の形をした物体を風呂場に運んだり、食事の手伝いをするだけっす」
 「暇なら手を貸してほしいの。絵は得意?」
 「保育園の時から進歩していないけど、車くらいなら描けるよ」
 そういう大川をつかまえて、スタッフルームの片隅に色画用紙を広げると、「へえ、山口さんって、絵がうまいんすね」という無駄口青年の言葉を聞きながら、ライオンや馬や犬やウサギやパンダなど、次々に描き始めた。看護士の尾佐田は、
 「なあに?学芸会でも始めるつもり?」
 と、まるで無関心に自分の仕事に専念しているのだった。大川は百恵を手伝いながら、ずっと彼女の胸元の谷間を気にしていた。そして、彼女の顔をじっと見つめた時、「綺麗な女性だな……」と思った。
 「山口さん、年はいくつっすか?」
 「子供ね!女性に年を聞くときは、もう少し気を使った聞き方をしなさい。二十九よ」
 「結婚してるんすか?」
 「どうして?」
 「どうしてって、その……、これから一緒に仕事をする仲間として、基本的な事くらい知っとかないとね……」
 「してるわよ。小学校三年生の子供が一人。夫は単身赴任でアメリカ。他に聞きたいことは?」
 「なあんだ……。俺があと十年早く生まれていればなあ……」
 「なあに?私と結婚したっていうの?ばかなこと考えてないで、そのパンダ、早くはさみで切りなさい」
 「でも、二十九歳で小学校三年生の子持ちってことは、ずいぶん早くに子供を産んだんですね。それにご主人がアメリカへ単身赴任てことは、余程大きな会社の重役ですか?それとも貿易商社マン?」
 「医者よ。さあ、口ばかり動かしてないで手を動かしなさい。減給の対象にするわよ!」
 大川は「怖い怖い」と言いながらも、つまらない話を続けながら百恵の描いた絵の切り抜きを続けた。
 午後には作業を終えて、死せる病棟のそこかしこには、様々な動物や花の切り抜きが貼り付けられ、幼稚園さながらの雰囲気を作り出した。ところが働く介護スタッフ達は無関心で、新しく配属された山口百恵なる人物に、不審と警戒の視線を送るだけだった。
 百恵は、お花畑で笑ったライオンの顔を見ながら、一人ため息を落とした。