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(四)変わりゆく環境
 コスモス園の北側に、新しい棟が建っていた。間もなく職員の間では“死せる病棟”という異名を付けられた特別養護棟、略して特養棟は、いままで社会福祉法人では受け入れることのできなかった重度の要介護老人を専門に受け入れる建物である。そこに配属された看護士及び介護スタッフ達は、いわゆる寝たきり老人達の世話をしながら、打てど叩けど何の反応も示さないような入所者達を相手に、意気消沈の日々を送るようになっていた。次第にその病棟だけが隔離されたような雰囲気になり、職員同士の間でも、その棟の配属スタッフ達に同情が注がれるようになっていた。
 百恵の配属が、その特養棟の介護責任者として移転が決まったのは、ジャン=ジャックが訪れて間もなくの、十一月初旬の事だった。ある日、丸腰に呼ばれてミーティングルームに入ってみれば、気の毒そうに言う彼女の言葉を聞いたのである。
 「百恵さん、デュマ先生直々の辞令よ。あなたを特養棟の介護責任者として移転を命じるって。昇格はいいけど、どうする?」
 「どうするって、お断りすることなんかできるんですか?」
 「まあ無理でしょうね……。でもこれって、あなたへの当てつけじゃない?聞いたわよ、山口先生の家の事。早く空け渡してしまえばいいじゃない。“死せる病棟”の管理人なんて、あなたらしくないわ」
 百恵は少し考えた後、
 「分かりました。お引き受けしますので、そう伝えて下さい。いつからですか?」
 と答えた。
 「今月、月替わりの二十三日からって言ってたわ。本当にいいの?」
 「仕方ないじゃないですか……」
 丸腰の「当てつけじゃない?」という言葉に、百恵もそうかも知れないと思った。途端に気持ちが沈んで、今まで仲良くしてきたおばあちゃんやおじいちゃん達の顔が浮かんできた。と同時に、浩幸に執着するあまりに、家を開放できない自分を恨めしく思ったりもした。別に意地を張っているわけではない。大樹と別れなければいけないという一点のみに問題があった。大樹と別れる事は、即、浩幸を諦める事を意味していたし、それ以前に、自分の子供と決めた以上、どこまでも面倒を見ていく決心をしていたのだ。百恵の心には、大きな孤独感が残った。

 そんな折り、太一と美幸が結婚した。いわゆる“できちゃった結婚”である。太一十九歳、妊娠三ヶ月の美幸は十八歳の若い夫婦の誕生であった。
 結婚などまだ真面目に考えていなかった太一は、美幸に子供ができた事を知り、蒼白になって進学を断念し、慌てて地元の板金工場への就職を始めた。両親は、
 「いったいうちの子供たちは、どういう神経をしているのだ!」
 と呆れ返っていたが、自分達が育てた子供の手前、あまり強くは言わなかったようだ。その報告を浩幸の家に訪れた二人から聞いた百恵は、両親の思いとは裏腹に、なんだか無性に嬉しかった。
 「浩幸さんが帰って来たら、真っ先に報告しなくちゃね!」
 その明るい言葉に、太一も美幸も悲しい顔をせずにはいられなかった。
 「姉ちゃん、まだあの院長先生が戻って来ると思ってるんだ……」
 その雰囲気を吹き払うように、
 「そんなことより、子供の名前、何にするの?」
 と、はしゃいだ様子の百恵が言った。
 「私が考えてあげようか?女の子だったら……、そうね……」
 「“百恵”───。お姉さんの名前、いただいていいですか?」
 美幸が恥ずかしそうに言った。
 「私、お姉さんのこと、尊敬してるんです。女の子だったらお姉さんの名前を下さい」
 「それはダメよ!馬場百恵なんていう名前になったら、ずっと、自分の名前にコンプレックスを持って生きなきゃいけないのよ!子供が可哀想だから、それだけはやめなさい」
 そこでいくつかの名前を提案しながら、最終的に「“馬場蝶々”なんてどう?」と、百恵はいたく気に入ったようであった。続いて、男の子だったら何にしようと話し合っていると、やがて美幸が、
 「“浩幸”って付けたいと思う……」
 と静かに言った。百恵は悲しそうな顔をした。
 「違うの。お姉さんのご主人っていう意味じゃなくて、私のお父さんの名前を付けたいの。私が知らずに過ごしてきた年月を、お父さんはどんな思いでいただろうって考えると、そのお父さんが愛せなかった分、私は生まれてくる子供を愛してやりたいから……」
 「そう……、“馬場浩幸”か……。いい名前ね……。きっと子供も喜ぶと思うわ」
 百恵は複雑な心境で微笑んだ。
 こうして太一と美幸は、馬場家側の近しい親戚と二人の友人を集めて、ごく簡単な結婚披露パーティを行った。百恵はこれから配属される特養棟への勤務の不安と、美しい花嫁の姿を見つめながら、天国と地獄を行ったり来たりしているような感覚を味わった。
 そして二人の新婚生活は、美幸の家から始まり、妹の香澄の面倒を見ながら、端から見れば非常に危なげな船出をしたのであった。

 入所者達の間で、百恵の移転の噂がまたたくまに流れると、老人達はこぞって、「たまにはこっちにも顔を出しておくれよ」と、その別れを、まるで異国に旅立つ娘を見送るような仰々しさで悲しんだ。
 「すぐ隣の棟なんだから、そんなに悲しい顔をしないで。私もちょくちょくこちらに顔を出すし、おばあちゃんも特養棟の方へ遊びに来て」
 そうは言うものの、中には涙を流すおばあちゃんもいたりで、百恵の胸は締め付けられた。
 そして、千ばあさんが死んだのは、百恵が移転する三日前のことだった───。
 戦争に出征したままのご主人を、ただひたすら待ち続け、必ず帰ってくると信じたまま逝ったのだ。待ち続けるのも愛の形のひとつと教えてくれた千ばあさんの表情には、ほのかに笑みが浮かんでいるように見えた。百恵は彼女の亡骸に抱きつくと、
 「千さん、どうして死んじゃうのよ!ご主人が帰って来たらどうするのよ!」
 と、いつまでも泣き続けるのだった。浩幸を待ち続けると決心した自分の心を、誰よりも理解してくれるはずの彼女の死は、百恵にとっては唯一の心の支えを失ったようなものだった。
 「千さんだけが、私の希望だったのよ……」
 しかし、千ばあさんは、もはや何も言わなかった。
 こうして変わりゆく環境の中、ますます孤独な百恵の心は、間もなく訪れる冬の足音に怯えながら、行き先不明の暗い空間に、その第一歩を踏み出すより仕方がなかった。