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(三)ジャン=ジャック・デュマ
 ジャン=ジャック・デュマ───。
 この得体の知れない人物がコスモス園に訪れたのは、祝賀会が行われてから約二カ月後の十月下旬の事だった。北信濃はすっかり秋の装いを済ませ、施設の駐車場に植えられた紅葉の葉は真っ赤に染まり、その前を黒ずくめのスーツに身を固めたサングラスの一人の白人男性が、西園に連れられてやってきたのである。
 コスモス園の重役達が玄関前に居並んで、その男を迎え入れる光景は、新生コスモス園の出発にふさわしく見えもしたが、入所の老人達はまるで終戦の鬼畜米英を受け入れるような物珍しさを隠せなかった。
 二十八歳、フランス人。身長は一八〇センチはあろうかやや痩せ形で、サングラスをはずした鋭い瞳は青かった。栗色の髪は地毛であろうか、短く切った清潔感は、その立ち居振る舞いからも感じる事ができた。“デュマ先生”と呼ばれたその男は、コスモス園の重役達に連れられて、休む間もなく施設内の巡回を始めたのだった。
 仕事中の百恵は、三階の部屋の窓から、中庭で会話をしながら歩く彼等の姿を見つけた。
 「あの人がデュマ先生───」
 そう思うと、身体が震えた。浩幸についての真実を聞いたら、きっと西園と同じ事を言うのだろう───。百恵がどうしても認めたくない“浩幸の死”に対して、いつまで背を向けていられるのかと思うと、涙を堪えるために奥歯を強く噛みしめてしまうのだ。その恐怖から逃れるために、できることなら彼には会いたくなかった。
 その日は午後、早番者と遅番者が入れ替えになる三時に昼礼が持たれた。壇上に立つジャン=ジャックは終始落ち着いた様子で、堪能な日本語で挨拶をしたのである。
 「ミナサン、コンニチハ」
 フランス訛りの日本語に、一瞬のうちに会場が和やかになった。
 「はじめまして。僕の名前はジャン=ジャック・デュマといいます。どうぞよろしくお願いします。ムッシュヒロユキは優れた脳外科医であり、僕の良き先輩でもありました。彼は死ぬとき僕にこう言いました。『全てをよろしく頼む』と。僕はその時、その意味を全て理解しました。何故なら彼と僕は、出逢ってからついこの前彼が死ぬまで、彼とは医療問題や介護問題の細部に渡って、あらゆる角度から意見交換をしてきたからです。いわば彼は、僕にとって最大の師匠であり、友人でありました。その時、彼の夢は同時に僕の夢となったのです。どうか皆さん、まだ若輩のフランス人でありますが、どうぞ煙たく思わないで仲良くやっていきましょう!」
 非常に気さくな短い挨拶であったが、会場は拍手で温かく彼を迎え入れたのであった。
 百恵が廊下で彼とすれ違ったのは、各部屋の布団のシーツを取り替えて回っていた時であった。洗い立ての真新しいシーツを十枚ばかり抱え、二階の一番奥の部屋に向かって歩いていると、向かいから施設長の高野に連れられたジャン=ジャックが、各部屋の様子を覗きながら向かってきたのである。百恵は初めての間近な対面に、多少の緊張を覚えながらすれ違い様に軽い会釈をした。ジャン=ジャックはそんな百恵を気にする様子もなく、高野と話しながら通りすぎた。
 が、次の瞬間、百恵の歩みがピタリと止まった。
 なぜなら、二人がすれ違った際に生じたほのかな風の中に、あるいはすれ違いの気配の中だったか、いや、もっと微妙な五感を越えたところでの無我の境地の中だったかも知れない、確かに浩幸を感じたからである。
 百恵は“はっ”として振り返った。ジャン=ジャックは、高野との会話に笑みを浮かべながら、階段を下りるところだった───。

 その晩、浩幸の邸宅に、西園とジャン=ジャックが訪れた。百恵はいやな予感を覚えながら二人をリビングに通すと、コーヒーを入れた。ジャン=ジャックは家の造りを絶えず気にしながら「良い家だ」を繰り返した。
 大樹は寝そべりながら、二人の来客には何の関心も示さずテレビを見ていた。そして西園はジャン=ジャックに百恵を紹介したのだった。
 「おお、ムッシュヒロユキの奥さんでしたか。お気の毒に……。しかし、青春は必ず過ぎ去るものです。気を落とさないで。僕はまだ独身ですが、フランスには“神が男と女をおつくりになり、悪魔がそれを夫婦にする”という諺もあります。また、“慌てて結婚をすると、ゆっくり後悔する”ものです。一日も早くヒロユキの事は忘れて、立ち直る事を希望します。いつまでも死んだ人間に執着していたら、時間なんてすぐに過ぎてしまいます。フランスでは“変わらない考えは、正しい考えではない”と言うんですよ」
 百恵はジャン=ジャックを睨み付けた。
 「あなたに何が分かるというのですか!?」
 西園は慌てて「馬場さん!」と言って百恵の言葉を止めた。次いで、「実は今日ここに来たのは……」とその理由を話し始めたのだった。
 話の要旨は、浩幸の自宅をジャン=ジャックに貸して住まわせたいという相談だった。西園は終始言いずらそうに話したが、要は簡単な内容だった。あまりに遠回しに語る西園にしびれを切らせた百恵は、
 「要するに私に出て行けと言うのですね!」
 と言った。西園は困った顔をしながらも、
 「早い話がそう言う事です……」
 と言った。
 「とはいえ、前院長と所帯を持っている方ですので、そんなないがしろにはしません。アパートあるいは一戸建てに移るにせよ、家賃その他諸々の生活にかかる費用は、全て医院が負担しますから」
 西園が言い終わるや否や、
 「分かりました」
 と、憤りを隠せない様子で百恵は答えた。そして大樹に、
 「ねえ、大樹君、お姉ちゃんと一緒にお引っ越しする事になるけどいいかなあ?」
 と言った。大樹はテレビに夢中になったまま「別にいいよ」と答えた。西園は少し慌てたふうに、
 「いえ、大樹君は移る必要はありません。ここは大樹君の家なのですから」
 と言った。
 「なぜ?大樹君は、私と浩幸さんの子供です。そんな不自然な話などあるものですか!それとも離婚の手続きをしろって言うの?そんなこと絶対にできません!私、一生、浩幸さんの未亡人でいいの!」
 その会話にジャン=ジャックが割り込んだ。
 「実はムッシュヒロユキに、大樹君の事も任されたのです。一緒に生活してほしいと……。本当の事を言うと、貴方の事も全部聞いて知っているのです。死んだ者の影を抱いて生きるのではなく、死んだ者との思い出は、全て遠い過去に葬りさって、明日という実在を求めて、貴方に相応しい男性との愛を育みながら生きてほしい。これがヒロユキの偽らざる心でした」
 百恵はムッとして、悲しげな表情でジャン=ジャックを見つめた。
 「あなたはいったい浩幸さんの何なの?突然、姿を現しといて、浩幸さんの事を全部知っているような事を言わないで!」
 と、いつもの涙が溢れてきた。どうにもこの涙には百恵自身困っていた。けっして涙は流すまいと言い聞かせてはいるのだが、浩幸の話になると、どうにも質が悪いのである。やがて悲しみに任せて、
 「大樹君と別れるのなら、私、この家を出て行かない!」
 と叫んでいた。
 「馬場さん……」
 「困った女性ですね……」
 西園に続いて、ジャン=ジャックが言った。西園はジャン=ジャックを横目で見つめた後、こう提案した。
 「それじゃあ、いっそ、一階を馬場さんと大樹君が使って、二階をデュマ先生が使うというのはいかがでしょう?考えてみれば、こんな広い家、一人で住むにはもったいない」
 すかさず、ジャン=ジャックは少し慌てたように、
 「バカを言ってはいけません。未亡人の女性のところに独身の男が住むなんて事は、社会的にも許されませんよ」
 と言った。西園は呆れたような笑みを浮かべると、
 「まあ、返答は今すぐでなくてもかまいません。しかし、いずれそのように考えていますので、実家に戻るなり、あるいは、今からでも不動産に当たっておいて下さい」
 「当面の僕の住処は、医院内の宿直室ということですね」
 ジャン=ジャックは愛嬌のある微笑みを浮かべて、その日二人は帰って行ったのだった。