> 第3章 > (二)ゆくえ知れずの祝賀会
(二)ゆくえ知れずの祝賀会
 コスモス園の医療法人化、及び山口脳神経外科医院と同施設の統合祝賀会が予定通り執り行われたのは、九月に入って間もなくの事だった。その日、新しく広く改築されたリハビリ室には、両施設の主要人物及び来賓、並びに職員、そして出席しても身体に差し支えのない入所の老人達が集まり、盛大にその催しが開催されたのだった。百恵は動けない入所者達の介護を志願し、メイン会場には行かなかったが、その様子は施設内放送で逐次リアルタイムで知ることができた。
 挨拶に立った院長代理の西園は、その時初めて浩幸の死を正式に発表し、今後の運営についての展望を述べたのだった。院長の逝去については既に噂で流れ、施設内の誰もが知っている事であったが、百恵はそんな挨拶など聞きたくなかった。だから西園の挨拶の時は、時間を見計らって、ひとりのおばあちゃんをお風呂に入れながら、放送の音量をゼロにあわせて、まったく普段と同じ仕事に専念していたのだ。
 「今回のこの統合は、山口浩幸先生なしでは絶対にありえなかった一大事業であります。私達は故人の念願だった介護医療の充実へ、一段と力強く前進して参りたい。これこそ、私達が故人に報いるたったひとつの答えであります。私も力の限り全力で取り組んで参りますので、皆様方の惜しみないご協力を切にお願いするものでございます!」
 西園は涙を流しながら深々とお辞儀をした。
 「そしてもうひとつ、皆様方にご報告しなければならない事があります。本日は諸事情により出席する事が出来ませんでしたが、数ヶ月後に、この医療法人の理事になり、またここコスモス園の代表役をお受け頂くジャン=ジャック・デュマ先生の紹介であります」
 会場は一瞬、何の事だろうと耳をそばだてた。
 「この件に関しましては、先日の最高会議におきまして、施設長以下重役の皆様にはご承諾いただいておりますので、この場を借りて公表しておきたいのですが、デュマ先生は若干二十八歳のフランス人脳外科医であります。故山口浩幸先生との親交も厚く、故人が亡くなる直前、御自分の意志の全てをその若き青年に託したのでありました。実はデュマ先生が学生時代日本に留学していた頃故人とお知り合いになり、以来何年にも渡り、医学上の意見交換、あるいは医療と介護の問題等も含め交流し、国境を超えて公私ともに仲良くされてきた秀才中の秀才でございます。フランス人といいましてもご心配はいりません。日本の留学時代に日本語をマスターし、ともすれば私よりも堪能でありますから」
 会場に僅かな笑いが起こった。しかし、一種異様な雰囲気が漂っていたのも事実だった。てっきり西園が浩幸の後任に就くのだろうと誰しもが思っていたのが、突然、見たことも聞いたこともないフランス人が登場してきたのである。最後に西園は、「来日されるデュマ先生と一緒に、故人の夢を実現して参りましょう!」と結び、壇上を厳かに降りたのだった。
 その後、数人の重役や来賓達の挨拶の後、会場は和やかな会食の場となった。その中にお腹を大きくした旧姓七瀬光輝の姿もあった。田中と姓を変えてから、間もなく子供ができ、現在は妊娠六ヵ月の身でありながら仕事に従事している。百恵が日勤に移ってからは、ゆっくり話をする事もなく、浩幸の死の噂を聞いてからも慰めの言葉すらかけられないでいたのである。光輝は会場に百恵の姿がないのを確認すると、料理には目もくれず、百恵を探しに席を外したのだった。
 「モモ、こんなところにいた……」
 ようやく屋上で、仕事の職員に振る舞われた折を食べながら、遠くを見つめている百恵を見つけた光輝は、微笑みながら寄って行った。
 「光ッチ……」
 「なあんだ、祝賀会の会場には来なかったんだ。モモと久しぶりに話ができると思って楽しみにしてたのに」
 百恵は感傷的な表情を笑みに変えて、
 「うわっ!お腹がこんなに大きく……食べ過ぎじゃない?」
 「その冗談、懐かしい」
 二人は顔を見合わせて笑った。しかしつかの間、百恵は食べかけの箸を置いて、
 「死にゆく生命に、生まれゆく生命……。いったい生命ってなんだろう?」
 と、沈んだ口調で呟いた。
 「モモ……」
 すると、百恵はいきなり光輝の太股に顔をうずめると、大声をあげて泣き出したのだった。一人でずっと堪えていた悲しみが、久しぶりに会った光輝の顔を見た途端、堰を切ったように爆発したのだ。
 「浩幸さんね、必ず帰って来るって言ったのよ!絶対元気になって、また一緒にがりょう山に登ろうって約束したの!それにまた大樹君と三人でドライブしようって!なのに、なのに、どうして!どうしてなの!」
 光輝は百恵の涙の洪水を堰き止めるどころか、何も言ってあげられなかった。
 「よし、よし。泣きなさい、泣きなさい───。涙が枯れるまで、うんと泣きなさい───」
 光輝は百恵の背中を優しく叩きながら、同苦の涙をいつまでも流していた。
 やがて百恵は急に頭を起こしたかと思うと、涙を流したまま折の中の料理を次々に頬ばりはじめた。呆れた光輝は、その中のエビの唐揚げをつまみ取ると、一口に食べてしまった。
 「ああ、それ最後に食べようと思ってたのに!」
 涙声の百恵が言った。
 「まったくモモったら!泣いて損しちゃったわ!妊婦なんだから栄養取らせて!」
 百恵はやっと笑って涙を拭いた。そして、
 「私、どうしたらいいと思う……?」
 沈んだままの声で聞いた。
 「そうね、モモにはとっても悲しくて、言いずらいことだけど、死んだ人間の事、いつまでも思ってるわけにはいかないじゃない?私達、まだまだ若いんだし……」
 「でもね、私にはどうしても浩幸さんが死んだとは思えないの───」
 「そりゃそうよ、ついこの間まで、目の前で呼吸していた愛した人間が、突然いなくなるなんて信じられるわけないよ。でも、冷たい言い方かもしれないけど、それが事実なのだから現実を受け入れなきゃいけないと思う……」
 光輝は百恵の表情を気にしながら、言葉を選びながらそう言った。百恵は何も答えず、卵焼きを口に運んだ。そして、
 「二二五号室の千さんいるでしょ?」
 「千ばあさんの事?戦争でご主人と生き別れた───」
 「そう……。私、最近、彼女の事、ずっと考えてるの。偉いなあって。ああいう人生もあるんだなあって。愛した男の人をずっと待ち続ける……、これも女の一生かなって思えるの」
 「バカなこと考えるのはよしなさい。男のための人生なんて古い、古い!」
 「そうかなあ……」
 「そうだ、こうしなさい!今度コスモス園の代表役になる人、ジャン=ジャック・デュマ?だったかな?フランス人。話聞いてたら、山口先生ほどの力のある人のようだし、その人捕まえて結婚したらいい!」
 「代表役って、西園先生がなるんじゃないの?だあれ、その人?」
 「話聞いてなかったの?山口先生の後輩で、秀才中の秀才だってよ。山口先生ととっても仲がよかったんですって。二十八歳、年も丁度同じ頃だし、後は独身で、顔とスタイルが良ければ文句なしってとこね!」
 百恵は聞き流して一笑に伏した。しかし、ふと首を傾げた。
 「浩幸さんと仲が良かったって、どれくらい?」
 「なんでもデュマ先生?だったかな?彼が学生時代に日本に留学していて、その時知り合ったみたいで、以来公私共に仲良くしてたって言ってたわよ」
 「名前、何だっけ?」
 「デュマ、確かジャン=ジャック・デュマって言っていたと思う。何か思い出した?」
 「違うの……。浩幸さんがいない間、私、彼の家の中をずっと整理してたんだけど、そんな名前の外国人とやりとりをしていた形跡が全くなかったなあと思って。アルバムの写真も見たけど、そんな人、いたかなあ……」
 「きっと医院内のPCでEメールかなんかでやり取りしてたんじゃないの?医学的な意見交換もしてたみたいだから……」
 「…………」
 「まあ、数ヶ月中に来日するって言っていたから、いずれ来れば分かるわよ!」
 「そうね……」
 やがて就業のチャイムが鳴った。百恵は食べかけの折を光輝に渡すと、
 「これ、全部あげる!妊婦さんは栄養つけなきゃね!」
 と言い残し、施設内に小走りに入って行った。
 「なによ、キャベツとニンジンだけじゃない!あ〜あ、心配して損しちゃった!」
 光輝はそう言って微笑むと、残りのキャベツを食べて背伸びをした。