> 第3章 > (一)帰らぬ人
(一)帰らぬ人
 私の名前は“山口百恵”───。
 山口百恵になったけど、私の心は沈んでる。
 それでも介護のおじいちゃん、おばあちゃんには悪いから、毎日必死に笑顔を作ってる。でも、もう限界…………。
 家庭の事情で日勤にしてもらったけど、学校帰りの大樹君のご飯を作って寝かせた後は、こっそり浩幸さんの書斎のデスクに座って泣くの。
 浩幸さんがアメリカへ行って、もう一カ月になろうとするのに、彼からも西園さんからも何の音沙汰もない。でも連絡がないのは無事の知らせって言うでしょ?きっと手術に成功して、今頃リハビリに勤しみはじめてるに違いない。もうお盆よ!浩幸さん、早くしないと来月の統合までに間に合わないわよ!
 そう、結婚してからもうたいへんだったんだから!
 私のお父さんやお母さんは「どうして何の相談もなしに結婚したのか!」って、血相を変えて激怒して、私達の事情も話したけれど、とても理解してもらえる状態じゃなくて、とりあえず浩幸さんがアメリカへ発ったその日から、私は両親に住所だけ教えて彼の家に住み始めたの。でも家出でも勘当でもどちらでもいいから、号泣しながら「そんな娘に育てた覚えはない!」と、電話をかけてくるのはやめてほしい。家も同じ市内だし、それほど心配する事じゃないじゃない!こっちは大樹君の面倒を見なくちゃいけないんだから!───ごめんね、お父さん、お母さん。親不孝な娘をどうか許して下さい。
 彼がいない新婚生活───。これって新婚生活っていえるのかしら?それでも毎晩、彼の匂いの染みついた布団で寝るのがせめてもの慰め。そして隣には大樹君がいる。もしかして私はこうして処女のまま一生を終えるのかしら?
 そんなことない。彼はきっといつもの笑顔で帰ってくる。そう思い聞かせて笑って見るけれど、やっぱり不安の方が先に来て、私は寝姿の大樹君を抱きしめる。
 もし、彼が帰って来たら何て言ってやろう───、
 「お帰りなさい……」「調子はどう?」「こっちは大丈夫だったからね」「アメリカの旅はどうだった?」「手術は痛くなかった?」……それとも……「ずいぶんと長かったのね!」「ずっと待っていたのよ!」「不安で不安で仕方なかったんだから!」…………あれこれ考えてはみるけれど、でもやっぱり最初は「お帰りなさい」かな……?
 でも、もし、もしも、帰って来なかったら……?
 そんなことない───、そんなことない───

 突然、西園が家に訪れたのは、それから数日後の夕飯時だった。リビングのテーブルにハンバーグを置いて、大樹と向かい合わせにテレビを見ながら、学校での出来事をいろいろ聞いているときインターホンが鳴った。家内のモニタを見れば西園で、百恵は慌てふためいて玄関を開けた。
 「西園先生!浩幸さんの手術は?手術はどうでした?うまくいったんでしょ?」
 西園は何も答えず、百恵と目線を合わせようとはしなかった。その様子に大きな不安をあからさまに、百恵は彼を居間に通した。そして大樹にテレビを消させると、自分の場所の隣りに大樹を座らせ、その対面に西園を案内した。それから、「すいません、丁度ご飯を食べている時で……、今コーヒーを入れますから」と立ち上がろうとしたところを、西園は止めて、真剣な表情で百恵を見つめたのだった。
 「馬場さん……」
 西園の大きな図体の小さな両目から涙がボタリと落ちた。
 「院長は……死にました───」
 百恵の意識が重力を失い、身体が逆さまになったり、果てしない地獄の底へ落下したり、あるいは宇宙ゴマのように頭を軸に回転したり、遠のく意識の中で妙な体験をしていた。
 「手術自体は成功したのですが、術後まもなく拒絶反応を起こし、むこうの医師達と万策を尽くしたのですが……、おととい、息を引き取りました───。申し訳ありません!この西園が付いていながら!」
 西園は鞄の中から浩幸の遺言を書き留めたメモを取りだし、百恵の前に置いた。
 「これは院長の遺言です。馬場さんに伝えるよう頼まれました───。それから……」
 西園は更にもう一枚の書類を取り出すと、メモの横に並べて置いた。見れば離婚届けに違いなかった。
 「院長の最後の願いです。“もう死ぬ自分にいつまでもとらわれていないで、別の男性と幸せになって下さい”と……。大樹君も私が引き取ります───」
 「うそ!」
 百恵は俄に笑い出した。
 「うそよ!そんなの!みんなで私を驚かそうと思って!」
 「馬場さん……」
 「あの人が死ぬはずないじゃない!だって彼にはやらなくちゃいけない事がまだまだ沢山あるのよ!」
 「どうしたの?」
 隣の大樹が百恵の豹変振りを気にして言った。
 「大樹君、あのな……」
 「言わないで!」
 西園が言おうとしたところを百恵は遮った。
 「大樹君、あのね……、パパの手術が成功したって。でもね、退院までにはまだ時間がかかるから、もう少し待っていてねって、西園さんがそう伝えに来てくれたのよ」
 「ふうん……」
 大樹はそう言うと、安心したように「ゲームしてていい?」と聞くと、そのままゲームを始めてしまった。
 百恵は目の前の離婚届と遺言を手に取ると、ろくに読みもしないで破ってゴミ箱に捨てた。
 「馬場さん……」
 「もう馬場さんて呼ばないで下さい。私は浩幸さんの妻なのですから。それに大樹君は私が立派に育ててみせます。お願い、だから西園さんはもう私の前で、浩幸さんが死んだなんて二度と言わないで!私、浩幸さんが帰って来るまで待ってますから」
 「しかし……」
 「何か問題がありますか?」
 「山口医院の事にしろ、来月に控えたコスモス園との統合にしろ、当面は私が院長の代理で務めますが、いずれ別の有能な逸材を正式登用する予定です。そうなればいつまでも院長夫人を名乗っているわけにもいきませんし、正直言って足手まといになるのです。すいません、こんな言い方をしてしまって……」
 「そんな肩書きいらない!この家もいらない!分かって下さい!私、浩幸さんを愛してるの!」
 「すみません。訃報を伝えるために来ましたが、余計な事を言いました。馬場さんの気持ちが落ち着いた頃、再び来ます……」
 西園はそう言い残すと、元気のない様子で帰って行った。
 百恵は彼を見送ろうともせず、いつまでもゲームに夢中になる大樹の後ろ姿を眺めているのだった。