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(五)結婚の約束
 夜中の二時頃、百恵は急に目が覚めて、それからは頭がさえて全く寝付かれなかった。
 明日は遅番だから、午前中に面接に行かなければと思うと、コスモス園には何時に電話して、どの洋服を着ていこうかとか、何を聞かれるのだろうかとか、あれこれ考えをめぐらせているうちに、時計は三時を回っていた。
 そのうち、洋服だけでも決めておこうと、酔いのためクラクラする頭を気にせず起きあがり、キッチンへ行くとコップ一杯の水を飲み干した。
 酔っているのに、なぜか頭脳は異常にさえていた。
 年季の入った桐の洋服箪笥は祖母から譲り受けた物。もっとも自分専用で使うようになったのは、祖母が死んでからずっと後の話であるが、箪笥の扉を開けると防虫剤の匂いが鼻を突いた。それは縫い物をよくしていた祖母の匂いでもあった。
 思えば大学を卒業して以来、洋服箪笥を開ける事を忘れていた。大学時代に就職活動をした時のパンツスーツやワンピース、そこには高校時代の制服や中学時代のセーラー服まで捨てずにある。その中から数着取り出し、肩に当てては鏡をのぞき込んだ。
 あれこれ迷ったあげく、結局最後に決めたのは、襟の広い白のブラウスに、グレーのビジネススーツだった。大学時代、本命の企業に面接に行ったとき身に着けたもので、不合格の通知が届いた時は、すっかり肩を落としたものである。そのスーツにしようと決めたとき、一瞬はトラウマ状態に陥ったが、それを乗り越えてみせるという意識が勝ったのだ。
 試着して鏡に、身体を前や斜めに映して見ているうちに、胸にブローチを着けていく事を思いついた。昨年の誕生日に、気落ちしている彼女を気遣い、俊介がプレゼントしてくれた銀のブローチの事を思い出したのだ。
 「どこにしまったかな……」
 箪笥の中の引き出しをあちこち開いていくと、その中のひとつ、奥のところに埃をかぶったビロードで覆われた小さな宝石箱が現れた。百恵は懐かしさのあまり声をあげた。
 「ああ……、こんなところにしまってあったんだ……」
 それは幼い頃、まだ祖母が元気だった頃、宝物を入れておく専用の箱だった。開けると今ではガラクタとなった当時の大切な宝物たちが姿を現した。
 小さな人形に犬や猫の小さなセトモノ、お手玉におはじきに万華鏡、貝殻に洋服のガラスのボタンにビー玉に……、ビーズの指輪……、ビーズの指輪……
 ビーズの指輪を手に取った時、百恵の脳裏に遠い昔の記憶が鮮明によみがえった。

 そう……、あれは急におばあちゃんの具合が悪くなって、近所のお医者さんに往診に来てもらった時のこと……。あのお医者さん、赤髭先生って呼ばれてた。
 子どもは外で遊んでなさいって言われて、子どもがいてはいけない場所だと察した私は、言われるままにおもてに出たの。そう、確かあれは私がまだ学校にあがる前だから五歳のとき。
 ひとりで石を蹴って遊んでいたら、その石がそこに立ってたお兄さんの足に当たってしまったの。お兄さんは私を見て笑ってた。私は恥ずかしくて「ごめんなさい」も言えなかった。どぎまぎしていたらお兄さんが私のところに寄ってきて、いきなり抱っこしてくれた。
 「ここの家の子かい?」
 って言ったけど、私は恥ずかしくて頷きもしなかった。
 でも、そのお兄さんとはすぐに仲良くなった。あやとりを教えてもらったりケンケンパーをやったり……。私はお兄ちゃんが大好きになって、
 「お兄ちゃん、大学生?」
 って聞いたの。五歳でよくそんな言葉を知っていたなあって思うけど、確かに私はそう聞いた。お兄ちゃんは優しく頷いて、
 「そうだよ。よく大学生なんて言葉知ってるね」
 ってほめられた。私はお兄ちゃんと別れるのが寂しくなって、ポケットにあったビーズで二つの指輪を作ったの。お兄ちゃんの分と私の分。もちろん一人じゃできなかったからお兄ちゃんに手伝ってもらって。それでね、私まだ知らなくてその指輪をお兄ちゃんの人差し指にはめてね、なんていうか、そのお、いきなり告っちゃったの!今でもはっきり覚えてる。
 「わたし、お兄ちゃんのお嫁さんになってあげる?」
 って!そしたらお兄ちゃんは優しく笑って、「結婚指輪なら左手の薬指につけるものだよ」って、私の指輪と自分の指輪をつけなおしてくれた。
 「貴方が二十歳になって、もし、まだその気持ちが変わっていなかったら、考えてもいいですよ」
 「わたし、ぜったい忘れないよ!」
 お兄ちゃんはただ笑っているだけだった。名前も聞かなかったけど、本当にステキな男性だった……。
 でも、いつしか忘れてた……。このビーズの指輪を見つけるまで……。

 百恵はビーズの指輪を握りしめ、ビジネススーツのポケットにしまい込んだ。幼い頃の出来事は、その出来事全てが真実で、その幼い世界の全てだった。