> 第2章 > (十二)危険因子
(十二)危険因子
 新年度が慌ただしくスタートした山口脳神経外科医院では、新たに新卒者の看護士が加わり、一段と若返り、活気も増した。中でも最年少として勤めはじめた林美幸は、脳神経を患う患者達の前で、その戸惑いを隠せない様子だった。新卒看護士の初任教育を任された西園は、若い女性達を前にして、何やら浮かれ気分でその業務にあたるのであった。
 「西園先生、やけに嬉しそうですね」
 看護士長が冷やかすと、
 「初々しいですよ、あなたと違って!」
 その高笑いが院長室にまで流れていった。その笑い声を聞きながら、何時になく穏やかな浩幸も、仕事の手を休めて立ち上がると、新任教育の行われている現場に足を運んで、戸の隙間から我が娘の様子をかいま見るのであった。産まれたばかりの美幸は、両手の中におさまってしまうほどの小さな生命であった。それが立派に成長して、看護の道を歩み始めたのである。親としては無上の喜びに違いなかったが、実の父を名乗れないもどかしさは大きな苦しみとなっていた。廊下ですれ違い様に会釈をする美幸の姿を見るとき、親として、また院長として、彼女に対して自分にできることなら何でもしようと思うのである。
 「お母さんは元気ですか?」
 ある時そう聞いた美幸の表情が俄に曇ったかと思うと、何も答えず脇を通り過ぎた。首を傾げた浩幸だったが、美津子の事を聞くことはそれ以来しなかった。
 それから少し後の給与支給日翌日の朝の事である。美幸が院長室の扉をノックして突然入ってきたことがある。
 「どうしました?」
 浩幸が言うと、
 「これっぱかですか?」
 美幸は給与明細書の入った袋をかざして横柄に言った。突然の娘の訪問とその言いぐさに驚いた浩幸は、
 「不満ですか?」
 と答えると、美幸は母から預かったという手紙をデスクの上に無造作に置いた。開けば家庭の事情を縷々記した、懐かしい美津子の清楚な文字が並んでいた。読み進めるうちに浩幸は目を細めた。そのくだりは家庭破綻の原因を、実父である浩幸に責任を追及する形で、月五十万の給与を要求する内容がしたためられていたのだ。
 「林君はこの手紙の内容を知っているのですか?」
 美幸は首を横に振った。
 「それではお母さんに伝えて下さい。いずれこうなるように考えますが、今は無理ですと。林君も一日も早く一人前の仕事ができるよう努力して下さい」
 それだけ言うと、
 「さあ、就業時間が始まっています。仕事に戻りなさい」
 美幸は少し戸惑った後、
 「院長は、昔、うちの母と何があったのですか?」
 と、真剣な表情で聞いたのだった。
 「どうしてですか?」
 「別に……。ただ、母は院長の事を恨んでいるようなので聞いてみただけです」
 「恨む……?どうして?」
 「私も分からないから聞いたんです。答えたくないなら別に言わなくてもいいですけど」
 美幸はぶっきらぼうにそう言うと、院長室を出ていった。その後ろ姿を見ながら、真実を知ってしまうのも時間の問題であるように浩幸には思えた。

 そんな四月の佳き日、七瀬が遂に結婚した。相手は見合いで知り合った五歳年上の農業を営む男性で、その披露宴に呼ばれた百恵は、友人代表でスピーチもした。高砂に座る白いウェディングドレスの花嫁は、普段の彼女とは別人の、清楚でおしとやかな美しさがまぶしかった。
 「光ッチ、おめでとう!とっても綺麗よ。私、感動しちゃった……」
 お酌に立った百恵の瞳には涙がたまっていた。
 「モモ、スピーチ、とっても良かったわよ!なあに?また泣いてるの?まったくモモは泣き虫なんだから!」
 そう言うと、七瀬は花婿を紹介した。名を田中啓治といい、彼は百恵に「光輝がいつもお世話になっています」と落ち着いた声で言うと、静かに微笑んだ。百恵も「こちらこそよろしくお願いします」と答えると、彼のコップにビールを注いだ。
 「とっても優しそうな人……、安心したわ……」
 「次はいよいよモモの番よ!どう?山口先生とはうまくいってる?」
 百恵は顔を真っ赤にすると、周囲を見渡した。浩幸は出席していないものの、コスモス園関係者が大勢来ているのである。百恵は七瀬の口をおさえた。しかし、あまりに幸せそうな七瀬を見ていたせいか、それとも浮かれた会場の雰囲気に浸っていたせいか、祝いの席でもあるし、先日のがりょう山での出来事を心にしまっておくことができなくなって、「絶対内緒よ!」を何度も繰り返すと、七瀬の耳元で、
 「キスしちゃった……」
 と囁いた。
 「ええっ!」と声をあげた花嫁に、会場の視線が集まった。しゅんとなった七瀬は「恥ずかしい事させないでよ!」と小声で言った。
 「それじゃ、なになに?もしかして、もしかするかも……?」
 百恵が頷くと、「結婚するかも知れない……」と恥ずかしそうに言った。
 「嬉しい事って重なるものね!また、後でゆっくり聞かせて」
 次々に訪れるお酌の人に押されて、「絶対内緒よ!」と念を押した百恵は高砂の席からはじかれて、席に戻るより仕方がなかった。
 そんな百恵のもとに須崎理事長がお酌に訪れた。かなり酔い、足下もおぼつかない様子で百恵の隣りに来ると、椅子に座り込んで長々と話を始めたのであった。
 「おやおや、誰かと思えば、山口先生の愛人じゃないですか。どうですか?その後、仲睦まじくやってますかね?」
 百恵は軽く笑ってあしらった。
 「あのワンマン先生にも困ったものだ。コスモス園の内情を知らないくせに、一から十まで、重箱の隅をつつくような事まで命令してくる。受け入れ側はたまったもんじゃないよ!こういうのを“素人狂言”と言うんだよね。そうだ、愛人のあなたから言ってもらえないかね」
 須崎は「こりゃ失礼、つい口が滑った。祝いの席だ、許してね」と嫌らしい笑みを浮かべながら百恵にビールを勧めた。
 「けっこうです。私、お酒、飲めませんから」
 「なんだい?君は上司の酒が飲めないのかね?」
 百恵は自分のコップのビールを一口だけ含むと、須崎の酌を受けた。
 「この間、雑誌に載った写真、理事長がお撮りになったんじゃないんですか?」
 「なんだい?君は、私がストーカーみたいな真似をして、雑誌社に情報をたれ込んだとでも言うのかい?ふん、馬鹿馬鹿しい!」
 「済んだ事ですので、もう、どうでもいいですけど……」
 須崎はだいぶ気分を損ねた様子で、
 「まあ、私にあまり口答えをして、統合前に首にならんようにすることだ」
 と言った。
 百恵は須崎を睨んで、化粧室へと席を立った。