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(十)ふたりの男
 浩幸は残業の院長室で、“馬場百恵”という人物が、自分にとっていかなる女性なのかを考えていた。開いた書類にペンを置いたまま、そのペン先は先程から遅々と進まない。もう十時を回っていた。暗闇の辺りに、山口医院の院長室からは皓々とした明かりが漏れていた───。
 「介護士としては、その姿勢や情熱などは一級のものを持っている事は分かるし、今回の事件を通して、僕に対して僕が考えていた以上の恋愛感情を抱いていることもよく分かった……」
 二十年前の出来事は別にして、浩幸はコスモス園で出逢ってからの百恵の言動をじっと思い起こしてみた。
 定期診察で初めて会った二人は、コンビニでバイトをする店員と客の関係の中で、全く知らない者同士ではなかった。自分の名前が気に入らないと言った彼女に対し、冗談で「僕と結婚しましょうか?」と言った浩幸に、「妾にはならない!」と食い付いてきた表情は愉快であり、いじらしかった。大抵の人間ならば、しかも新人の立場であれば、上役の人物に対してけっして言い答えなどできるはずがなく、思えばその時から一種、特別な女性であったではないか。それから間もなくの桜吹雪の中のデート。彼女とは初めて二人だけの時間を過ごしたが、今から思えば妙なほど自然体で付き合えたではないか。
 また、彼女が言った言葉で耳朶から離れないものがいくつかある。一つは、コスモス園統合を話し合う会議の際、大樹の面倒を見てもらって、終了後のコスモス園の屋上で彼女が言った『介護も看護も同じ』という言葉である。それは技術的な事を言っているのではなく、お年寄りに対する心の姿勢を言っている言葉であることはすぐに分かったが、それにしても呼吸をするのと同じくらいに自然と出てきた科白であることに驚きを覚えるのである。
 もう一つは、彼女を諦めさせようと誘った蛍を見ながらの晩の事である。『女は感情の生き物だ』と言った浩幸の言葉に対し、すかさず『男は理屈の奴隷!』と言い返した機知に富んだ言葉である。頭脳明晰な浩幸にして言い返す言葉も見つからず、その後ホテルに連れ込んで威嚇したにも関わらず、彼女は全てを自分に捧げようとしたではないか。挙げ句に大樹との接触を拒絶してしまったのだ。
 「あの時、彼女はどんな思いだったろうか……」
 それを考えるとき、浩幸の胸は苦しくなった。
 そしてもう一つは菅平の晩、『あなたを“いのち”で待っていた』という言葉。この意味はまるで分からない。分からないが分かるような気もした。ビーズの指輪を照合してからは、終始彼女のペースで会話が運んだが、あれは浩幸にはあり得ない事だった。全てを計算ずくで物事を進める彼にして、その思考範囲をはるかに超えるところでの内容だった。
 それに解せないのは、一連の大樹の百恵に対する懐きようである。三歳の時の大樹は、まるで百恵を母親のように思って、自分には見せない笑顔で遊んでいた。つい先日、百恵が自宅に来たときもそうである。何年間も会っていないはずで、すっかり百恵の事など忘れているにも関わらず、その胸で眠る大樹は、本当に安らかな顔をしていた。
 いったい何者か───。自分に愛を告白したかと思えば、自分の考えの及ばない遥か高みから物事を見通しているようで、かと思えばあまりに女性的な健気さがある。いままで出逢った女性とは明らかに異質な何かを持っているように思えた。彼女との様々な出来事を回想しているうちに、やがて、自分の中の常識を超越している百恵の存在が浮かびあがってくるのだった。そして先日の会議である───。
 あの後、百恵と七瀬と三人で、屋上に上がって冬の空を見あげた。暫くは無言でいた三人だったが、
 「なにもあんな大勢の重役の前で、貴方があんな大恥をかくことはなかったのに……」
 と、浩幸が呟いた。
 「大恥……?」
 百恵は首を傾げた。
 「モモは思い込んだら、後先、周囲の迷惑も顧みず、一直線に突き進んじゃうからね。モモの長所でもあり、短所でもある」
 七瀬が冷やかした。
 「でも私、大恥だなんて思っていません。だって私、本当に先生のことが……」
 「分かりました。もう言わなくて結構です。僕も馬場さんの事が本当に好きになってしまうではありませんか」
 「おやおや……、なんだか私はお邪魔みたいだから仕事に戻るわね」
 七瀬が気をきかせて去ろうとすると、百恵は腕をつかんで留まらせた。
 「全部、光ッチのおかげよ。光ッチが山口先生の言葉、伝えてくれなかったら、多分、今日も私、休んでいたと思う」
 そして、浩幸に言った。
 「私、先生の言葉でどれほど勇気づけられたか……。昨日まで落ち込んで、ベッドでうづくまっていたなんて嘘みたい。先生、ありがとうございました!」
 「実は内心、僕もどうなることかと思ってましたよ。しかし馬場さんのおかげで窮地を脱した。お礼を言わなければいけないのは僕の方です。ありがとう」
 百恵と浩幸は見つめ合った。
 「しかし、最後に意見を言って出ていったおじさん、だあれ?あまり見かけないけど……」
 七瀬が言った。
 「コスモス園の初代施設長ですよ。今は最高顧問を務めています。もっとも肩書きだけで、実際の実務はとうの昔に引退していますがね。うちの先代院長とは犬猿の仲でしたが、喧嘩するほど仲がいいっていうでしょ。でも、僕とはひどく気が合いました」
 「へえ……」と七瀬が呟いた時、遅番の就業のベルが鳴った。
 「いけない!仕事よ!」
 慌てて七瀬が施設内に戻ると、百恵は浩幸に一礼して、「光ッチ、待って!」と、その後を追って行った。浩幸はその後姿を愛おしく見守った───。
 暖房のサーモスイッチの音でふと現実に戻った浩幸は、まるで手に付かない書類を閉じると、大きく背伸びをした。そして、どうもはかどらない書類の山をみつめて、
 「明日にするか……」
 と、院長室の電気を消した。

 医院からすぐ隣の自宅まで、ものの一分もかからない。玄関の錠を締め、歩き出したところで浩幸は黒い人影に気がついた。気にもかけないで通り過ぎようとしたところ、
 「山口浩幸さんですね」
 その黒い人影がそう言った。
 「そうですが……。あなたは?」
 人影は浩幸の前に立ちはだかると、「馬場百恵さんと婚約している新津俊介といいます」と答えた。浩幸は何も言わなかった。
 「いったいあなたは、百恵をどうしようというのですか?これ以上、百恵を苦しめないで下さい!あなたのせいで、俺や百恵がどれほど苦しんでいるか分からないのか!」
 「失礼……」
 浩幸が俊介の脇を通りすぎようとすると、俊介はいきなり浩幸を殴りつけた。その勢いで浩幸は倒れ込み、口からは鮮血がにじみ出た。浩幸は右手の甲で血を拭き取ると、妙に落ち着いた声で、
 「要件は何でしょう?」
 と言った。俊介の殴った右拳は、ワナワナと震えていた。その目は夜叉の如く充血し、正気を失っていることは俊介自身知っていた。
 「百恵を返せ!」
 「それは彼女が決めることだ。馬場さんは君の所有物じゃない」
 「あんたは百恵を愛していない!愛していない人間にそんな事を言われる筋合いはない!これ以上百恵を弄ばないでくれ!」
 「百恵か……。百恵、ももえ、モモエ……。あまり考えた事はないが、悪い響きじゃない。僕もそう呼ぼうか……」
 「なんだと!」
 今一度伸びた俊介の右手を、浩幸はひょいと避けてつかんだ。
 「いきりたって殴り合いをして何になります?」
 「俺の気が少しでもおさまる」
 「おさまれば満足ですか?ならば何度でも殴るがいい」
 俊介はつかまれた右手をはらった。そしてむせぶような声で言った。
 「一体あんた、何なんだ!百恵を返してくれよ!返してくれよ……、頼むから!」
 と、次の瞬間、アスファルトに膝をついたかと思うと、土下座をするのだった。
 「馬場さんは罪な女性だ。君のように真っ直ぐ愛してくれる人がいるというのに……。でも僕も、最近彼女の事ばかり考えるようになりました。この年になって恥ずかしい話ですが、仕事も手につきません。こんな事は君に言うことじゃないかも知れませんが、僕も彼女を愛しはじめている」
 俊介は浩幸を睨み付けた。
 「教えてくれ。この前百恵はこう言ったんだ。あんたの事を二十年以上“いのち”で待ち続けていたって……。一体どういう意味なんだ?」
 「さあ……、分かりません。心の痴呆から解放されたってことかな?残念ながら、僕には思い出せませんが……」
 「思い出すって?なにを……?」
 「僕と馬場さんの過去世ですよ。思い出して欲しいですか?人間のDNAには想像を絶する記録が刻まれている。仏教的に言えば“業”と呼ばれるものですよ。仮に彼女のその直感が正しくて、もし僕もそれを思い出したとしたら、君の出る幕は完全になくなりますよ」
 俊介は浩幸から目をそらした。
 「そんな馬鹿げた話があるものか!」
 浩幸は何も言わずに、やがて自宅の玄関から家の中へ消えていった。