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(九)死にかけた勇気
 浩幸と百恵のスキャンダル報道は、馬場家の人間にとっても大きな衝撃だった。生来気の小さい父などは、記事を目にした途端、頭をおさえて寝込んでしまった。母は母で、「明日から世間に顔向けができない……」と呟いたまま、涙をボロボロ流す。唯一弟の太一だけ、
 「へえ、姉ちゃんはあの先生とできていたんだ」
 と、面白がって記事を読む姿に救われたものの、とてもリビングには居づらくなって、何も言わずに自分の部屋へ籠もろうとすれば、母の「どこ行くの!ちょっとここに座りなさい!」という罵声に縛られて、長い間会話のない重い空気に耐えなければならなかった。
 そこに鳴った携帯電話。藁をもすがる思いで出てみれば、家族よりも落ち込んだ声の俊介が、「今、玄関の前に来ているんだけど……、話がある……」と言って電話が切れた。度重なる責めに合い、一刻も早く一人になりたい気持ちを抑えて玄関の扉を開ければ、父親以上に沈んだ顔付きの俊介が、百恵の手を引っ張って暗がりの家の前の路上に連れだした。日中は日陰になる所には雪が残り、冷たい風の流れる暗がりだった。
 「どういう事!」
 左手に雑誌を握りながら、俊介は怒りを隠せない口調で言った。百恵は何も応えなかった。
 「どういう事って聞いているんだ!」
 「…………」
 「黙っていたら分からない!ちゃんと答えて!」
 百恵は目を細めて目線をそらした。しかし心は凪の海に浮かぶ小舟のように、妙に落ち着いていた。
 「どういう事か聞くまで、今日は帰らない!」
 「どういう事って、そういうことよ!私、やっぱりいくら考えても新津君とは結婚できない。ごめんなさい……」
 「ごめんなさいって……、それが答え?」
 百恵は視線をそらしたまま涙をためて頷いた。次の瞬間、俊介の平手は百恵の頬を殴っていた。百恵は殴られた左頬をおさえたまま俊介をみつめた。
 「ごめん……。殴ることなかった……。でも、あの先生の事は諦めるって言ったじゃないか!百恵、しっかりしろよ!」
 俊介は百恵の両肩を揺すりながら、悲愴な声をあげた。ヒリヒリする頬をおさえ、百恵は怒る気にもなれなかった。というより、俊介に対する自分の態度を考えるとき、やはり殴られても当然のことだと納得できた。しかし、浩幸への思いはそのような理性では抑えつけることのできない、また、感情とも異質な特別なもので、百恵自身にもどうすることもできなかったのだ。
 「ごめんなさい。本当にごめんなさい。新津君はいつも私を元気づけようと、私を守ってくれた。ずっと待っていてくれた……。でもね、私、浩幸さんを愛しているの。諦める事なんかできなかったの。できっこなかった!彼はね、私の“いのち”の中で二十年以上も待ち続けた男性だったの……」
 「どういうこと!……?」
 「ごめんなさい……。もう、私の事はあきらめて……。大学生の時のように友達でいようよ」
 「そんなこと、絶対できない!」
 早く一人になりたい百恵は、やがて話をする事すら億劫になって、
 「新津君に返さなければいけないものがある……」
 と、部屋に置いたホワイトパールのブレスレッドと指輪を取りに戻った。すぐにそれであると直感した俊介は、「そんな必要はないから!」と言って、百恵が家の中へ入るのを確認すると、急いで車に乗り込んで帰ってしまった。百恵が出てきた時は、俊介の車は一つ目の十字路を曲がったところで、大きなため息を落として、母に見つからないようにそっと部屋に籠もった───。
 パジャマにも着替えず、あれこれ考え事をしていると、結局一睡もしないうちに朝がきた。精神的にはとても仕事に出れる状態でなく、体調もすこぶる悪かった。出勤前に風邪を理由に休ませてもらうという電話を入れたが、丸腰の「お大事に」という言葉に刺を感じた。断然生命力を落とした百恵は、何もやる気が起こらず、昨晩入り損ねたお風呂に入った後は、パジャマに着替えてベッドの上で一日を過ごした。
 その翌日も仕事を休んで、同じように時間を過ごした。スキャンダル記事の写真は事実とはいえ、人権を侵すが如くの心ないマスコミの報道が、これほどまでに生命力を奪うとは知らなかった。かつてこれほど苦しんだ事があっただろうか?唯一の救いがあったとすれば、それは愛する浩幸も、まさに自分と共通の苦悩を味わっているという事だった。ふと部屋に飾った祖母の写真が目に入った時、なぜか涙がとめどなくこぼれてきた。
 「おばあちゃん……、私、どうすればいい……?」
 その写真を抱きしめたまま、遠い昔の記憶を蘇らせた。

 おばあちゃんは死ぬ間際、何度も「百恵ちゃんのお婿さんの顔を見たかったよ」と言っていた。私はおばあちゃんの手を握りながら、まだ結婚なんてピンとこなかったけど、お父さんの請け売りで、「三浦友和みたいなカッコイイ人と結婚するから心配しないで」と答えた。おばあちゃんは笑いながら、「百恵ちゃんが幸せになれるなら、どんな人でもいいよ。必ず幸せになるんだよ」と私の頬を撫でてくれたっけ。私はその時思ったの。絶対幸せになろうって……。
 でも、幸せって何なのか分からない。分からなくなってしまったの。好きな人と結婚できれば幸せなのか?それは確かに幸せだろうけど、けっしてそれが全てじゃない。好き合って一緒になった男女だって、離婚する人も多くいる。それじゃ離婚は不幸せなのだろうか?けっしてそうとも限らない。離婚後に思い通りの人生を悔いなく生きて、幸せだったと言いながら死んでいく人だっているはずよ。幸せの基準て何だろう?
 確かに幸せって他人が測れるものじゃない。それじゃ自分で測るしかないじゃない。でも、今の私は幸せ?って自分に聞けば、「これほど不幸な人はいないだろう」って答えが返ってくる。いったい私はどうしたらいいのかしら───。
 もし、このまま浩幸さんの構想が断念せざるを得ない状態になったとしたら、それは全部私の責任。こんなところで寝ていちゃいけないの!何かをしなければ……。何かをしなければ……。
 でも、ダメ……。身体が動かないの───。

 百恵は写真に写った笑顔のおばあちゃんを見て笑い返してみたけれど、とても長い間は続かなく、やがて写真を見るのが辛くなって、ついにはそのまま布団に顔をうずめた。
 「助けて……、たすけて……、ヒロユキさん……」
 その時、百恵の携帯電話が鳴った。とても電話に出る気にはならなかったので、しばらくそのまま抛っておいたが、あまりしつこく鳴るので着信の相手の名前を見れば七瀬だったので、ようやく重い心を持ち上げて電話を取ったのだった。
 「よかった、モモ、出てくれた……。調子はどう?みんな心配しているよ。明日からは来れる?モモがいないと私も調子悪くて……」
 「ごめん……。なんだか身体が重くて、具合も悪いの……」
 「そう……。今日ね、例の件で緊急会議が開かれたの。山口先生も出席されてもうたいへんだったみたい。みんなにボロクソ言われて、私だったらボコボコにヘコんじゃうな」
 「そ、それで?どうだったの?」
 「なんか、モモの事、かばったみたい。屋上で先生、煙草を吸っていて、偶然会って───」

 浩幸は疲れ切った様子で煙草の煙をはいた。布団のシーツを取り込む七瀬は、ふと彼の存在に気がついた。しかし話かける言葉も見つからず、そのまま取り込み終えたシーツを抱えた時、
 「やあ、七瀬さん。ご苦労様!」
 会議を終えたばかりの浩幸は、いつものように気さくに声をかけて寄って来たのだった。
 「馬場さんは?」
 最初の質問がこうだった。
 「モモは体調を崩してお休みしてます」
 「そうですか……。僕のせいで彼女を大変な目に合わせてしまった。僕がなんとかするから心配しないで、明日から仕事に戻って来て下さいと伝えてもらえませんか?」
 「山口先生、一体どうなっちゃうんですか?やっぱりモモ、辞めさせられちゃうんですか?」
 「そんな事は絶対にさせない!彼女が辞めるくらいなら僕が降ります!」
 浩幸はいつにない厳しい口調でそう言い放った。七瀬は、百恵が彼に惚れている理由がいっぺんに理解できた。
 「先生、私に何かできる事はありませんか?」
 浩幸はひとつ微笑むと、
 「そうだね、馬場さんを心から支えてあげて下さい。マスコミに騒がれるって、けっこうしんどいんですよ。普通の人間ならつぶれてしまうでしょう。そうだ、馬場さんにこう伝えてもらえますか。“大変な障害ですが、僕と一緒に乗り越えましょう”って……。僕の本心です」
 浩幸は、そう言い残すとそのまま屋上を去って行った───。

 「山口先生、そんな事言ったの……?」
 百恵は嬉しくなって涙が出た。
 「明日、今日の続きの会議があるんだって」
 「光ッチ、ほんとうにありがとう……」
 百恵はそう言って電話を切った。
 言葉はナイフ。言葉は良薬。傷つけることもできれば、蘇生させることもできる。浩幸が言ったという『僕と一緒に乗り越えましょう』という言葉は、どれだけ百恵を励ましたことか。
 「一人じゃない。浩幸さんがいる!」
 そう思った時、死にかけた心の勇気が決然と燃え上がった。

 翌日十時からの会議は冒頭から波乱を極めた。
 「もう山口先生には降りてもらうしかないでしょう!こんなくだらない議題を何日もかけて話し合ったって、これこそ時間の無駄だ!」
 口火を切ったのは須崎理事長だった。それを合図にコスモス園と山口医院両施設の重役達は、口々に好き勝手な事を言いだした。
 「まあまあ、一度に言っても山口先生が答えられません。まず、一晩お考えいただいた結論を先に聞きましょう」
 高野施設長が言った。
 浩幸は静かに立ち上がると、特に須崎の方を見て言った。
 「何度も申し上げましたが、今回の件における処置として、私には医療法人化後の理事長と、統合後の当施設における代表役を辞退する意志は毛頭ございません」
 「あなたは今回のスキャンダルでコスモス園の信用を大きく失墜させたんだぞ!それを何の責任もとらないとはどういう事だ!」
 須崎が叫んだ。
 「信用を失墜?では、あのマスコミの記事を見て、誰が何時、どういう事を言ったのか、リストにまとめて提出して下さい。また、スキャンダルといいますが、僕も独身ですし、馬場君も独身だ。たまたま僕がこういう立場の人間ですから大きな問題にしたがっているようですが、プライベートで独身の男女が夜に会ったって良いとは思いませんか?」
 「それは重大な発言ですぞ!」
 他の誰かが言った。
 「そうだ!施設の顔となる人の言葉としては、あまりに軽率だ!」
 会場はもはや話し合いの場所ではなく、喧嘩の様相を呈していた。
 その頃、コスモス園に出勤した百恵は車を降りると、まっすぐ会議室へと歩いて行った。その途中、七瀬が待っていて、「やっぱり来ると思ってたわ。私も早出残業つきあうわ。こうなったらやぶれかぶれね!」と、二人は足並みをそろえて目的の場所へ向かった。
 会議室の中は罵声は飛び交う、嘲笑は飛び交う、浩幸をかばう声は飛び交う、議長の声が飛び交うはで、ほとんど収拾がつかない状態だった。その中で一人獅子奮迅と反駁する浩幸だったが、多勢に押されてどうにも話し合いにはならなかった。
 その時───、
 会議室のドアがバタン!と開いた。逆光の中に立つ二人の乙女の姿は、騒然とした会場内を一瞬にして黙らせるほどの神々しさがあった。
 「なんだ?君たちは!」
 議長が言った。
 「山口先生は悪くありません!全部、私がいけないんです!」
 百恵は目にいっぱい涙をためて、ありったけの声量でそう叫んだ。
 「ほう、スキャンダラスな女の登場か?」
 「なによ!その言いぐさ!」
 七瀬が負けじと言い放った。
 「私の話を聞いて下さい!」
 百恵は首を覚悟していた。
 「あの日、研修が終わって、たまたまロビーで先生と会って、先生はいいとおっしゃったのに、私は無理に頼んで先生の見送りをしようと車までついて行ってしまったの!……私、わたし……、先生の事が好きで……、好きで好きで仕方がなくて……、胸が苦しくなって……、それで私の方から先生に抱きついたんです!だから先生はぜんぜん悪くないの!悪いのは私なんです!だからこの責任は私がとります!」
 「いや!馬場君には責任はありません!仮に責任があるとしたら僕の方です!」
 すかさず浩幸が叫んだ。
 「いいえ、私の責任ですから、処分するのでしたら私を処分して下さい!」
 「いや、責任なら僕がとる!」
 責任の取り合いに居場所を失った七瀬は、ついそののりに任せて、
 「私の責任です!」
 と叫んでいた。拍子抜けのその言葉で、一応責任の取り合いはおさまったものの、百恵の登場で会場の空気はガラリと変わった。
 「君たちは何かね?愛しあっているのかね?」
 騒然とした会議中、終始黙って様子をうかがっていた最年長のコスモス園顧問がはじめて口を開いた。
 「コスモス園存続の危機かと思って来てみれば、犬も喰わない話じゃないか。いったい誰がこんなくだらん話をし出したのか?」
 顧問はそう言い残すと、さも疲れた様子で席を立ち上がった。浩幸は、その老人が自分の前を通りすぎるとき、恩に報いる顔付きでひとつ目礼をした。それに答えて老人は浩幸の肩をポンと叩くと、次に百恵の顔と全身を舐めるように見回し微笑むと、何も言わずに出ていった。
 そのコスモス園の最高顧問を務める老人の名を河上吾郎と言った。浩幸の父正夫の友人で、浩幸は子どもの頃からお世話になっている知人である。河上の残した言葉と退場で、その会議は流れたのである。
 須崎はじだんだ踏んだ。