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(六)ビーズの指輪
 それは美しい粉雪の舞いだった。
 辺り一面の白の世界に、水銀灯に照らし出された二人のゆっくり歩く姿があった。ホテルの玄関から駐車場までは、それほど長い距離ではないが、圧雪と降り積もる雪で非常に滑りやすくなっていたのである。
 ビジネススーツのままで出てきてしまった百恵は、首筋や袖口から入り込む寒気で、ひとつ武者震いをした。
 「ほら、だから見送りなどいいと言ったじゃないですか?風邪をひきますよ」
 浩幸は自分のマフラーをとると、百恵の首に捲いた。
 「すみません……」
 浩幸は微笑むと、
 「なぜだろう、貴方にはいつも僕の一番見せたくない素顔が見られてしまう……」
 と、ぽつんと呟いた。
 百恵はすっかり冷たくなった両手をビジネススーツのポケットにしまい込むと、右側のそこに何やら小さな硬い粒の塊の感触を覚えた。それがコスモス園への就職面接の前日、遠い回想の中で見つけたビーズの指輪であることはすぐに知れた。ポケットの中でそれを転がして遊びながら、五歳の時に求婚をした大学生の事を思い出していた。
 やがて愛車のニュービートルの所に来ると、浩幸はドアに寄りかかり、黒の鞄から煙草を一本取り出して口にくわえた。次いでライターを取り出そうと再び鞄をごそごそやりだしたが、「あれ?ライター……」と言って、やがてコートのポケットなどを探し始めた。
 百恵は浩幸の口から煙草を取り上げると、
 「あまり吸わない方がいいですよ……」
 と言って、足元の雪の中に埋めた。
 「君はいつも僕がドキリとすることをしますね。不思議な人だ……」
 「そうですか?」
 浩幸は再び鞄から煙草を取り出して口にくわえ、再び鞄の中のあるはずのライターを探し始めた。
 と……、
 「なんだろう……?」
 浩幸が鞄から取り出したのは、ビーズでできた小さなリングだった。
 「なんだ?これは……?」
 浩幸は首を傾げて、それをしまい込もうとした。
 「待って……!」
 百恵は自分の目を疑った。そしてビジネススーツから先ほどから触っていたビーズの指輪を取り出して、浩幸の指先のリングと重ね合わせた。それはまったく同じ形をした、一対のビーズのエンゲージリングに相違なかった。
 「どうして君がこれと同じものを持っているの?」
 百恵は言葉を失い、しばらく浩幸の顔をじっと見つめた。
 いくつの粉雪が舞い落ちたろう。何万、何億……、果てしない粉の宇宙の中に、二人の姿だけが浮かんでいた───。時の流れを数えれば、いったいどれほどの長さになるのだろうか?そして心の移り変わりの数を数えれば、一体いくつになるのだろうか……?地球上の砂の数を数えることができるだろうか?星の数を数えることができるだろうか?歴史の始まりを数えることができるだろうか?そしてその終わりを数えることができるだろうか?ただ、時間的に、空間的に、精神的に、無限に広がる世界の一点に厳然とある事実こそ、二人の真実だった。
 「あなただったのですね……」
 やがて百恵が言った。
 「どういうこと……?」
 「あなたがあの時の大学生だったのですね……」
 百恵の瞳に氷りつきそうな涙が宝石のように光っていた。
 「覚えていませんか?私は五歳で、あなたは大学生だった……。私のおばあちゃんの具合が急に悪くなって、赤ヒゲ先生に来ていただいたの。その時私は席をはずされて外に出たわ。そしたらそこにあなたがいた……」
 浩幸の脳裏に一閃のひらめきが走った。それは張り詰める靄を一瞬に吹き払う突風のようだった。靄の向こうに広がった世界は、総天然色の花畑のように、寸分の忘却もない現実の世界であった。
 「思い出した……。いや、覚えてる。僕はその日、母の危篤を知らされて、大学の授業を抛り出して帰省した。そしたら死にそうな母をそのままにして、父は往診で家にはいなかった。あわてて僕は父を探しに行ったんだ。しかし、ようやく父を見つけた時、僕は母の死の知らせを受けた。そう、確かに馬場さんというお宅の前だった……。ようやく涼しくなりかけた蝉時雨の鳴り止まない夕方だったね。今、思い出した。君と会ったのはその直後のことだった……。家の玄関から出てきた君は、少し驚いた顔をして僕をじっと見つめてた……。なぜだろう、こんな昔の話なのに、これほど鮮明に覚えているなんて……」
 「そして私たちは遊んだわ。あやとりや手遊びやケンケンパーをして……。覚えてますか?」
 「僕は母の死の悲しみから逃れるため、まだ幼かった君を愛して必死に遊んだ」
 浩幸は普段なら絶対に見せない懐かしそうな表情で、百恵をじっと見つめ返していた。
 「君だったのか……」
 二人は降りしきる雪の中で、二十数年前の夏の共有の思い出を、無言のままでたどるのだった───。
 「このビーズの指輪のこと、覚えてますか?」
 浩幸は何度もうなずいた。
 「覚えてる……。君に『お嫁さんになってあげる』って言われた。僕はませている子だなって思った……」
 「そして、あなたは言ったわ───、私が『二十歳になって、まだ、その気持ちが変わっていなかったら考えてもいい』って……」
 「そう、確かに言った……」
 「私、二十歳になりました。もう八年も過ぎちゃいました……」
 百恵の瞳の涙が急に膨らんだかと思うと、次の瞬間落ちて、足元の雪の一部を溶かした。
 「多分私は、ずっとあなたを待っていた。心の奥の“いのち”であなたを待っていた。だから、あなたをこんなに好きになってしまったの……」
 「ちょっと待って───」
 浩幸は次の百恵の言葉をさえぎった。
 「今日は驚く事ばかりだ……。混乱して言葉も見つかりません」
 浩幸は明晰な頭脳で、一連の出来事の話の筋を整理しはじめた。母の最後の言葉は「あんたのお嫁さんの顔を見たかったよ……」だった。百恵と出会ったのはその直後の事だったではないか。それは偶然にせよ、百恵から結婚を申し込まれたこと。幼い子どもの衝動的な発言だったにせよ、こうして二十年後の彼女と知り合っている事実。その上、彼女が自分を好きだという事実。そればかりでない、自分の実の娘である美幸と彼女の弟が恋仲になっていること。現実生活とは別次元で働く、何か得体の知れない力を感じずにはいられなかった。しかし浩幸にはそれを認める勇気がなかった。結局“偶然”の二字に、その結論を導き出すしかなかったのだ。
 浩幸は煙草を吸うのを諦めて、それを鞄の中に収めた。
 「偶然とは、重なるものなのですね」
 浩幸が言った。
 「偶然なんて本当にあるのかしら……。私は全部“必然”に違いないって思ってます……。きっと世の中の人みんなが心の痴呆症にかかっているから、仕方のない事だけど……」
 百恵が答えた。
 「心の痴呆……?」
 浩幸は首を傾げた。
 「いったい君は何を知っているというのか?」
 「私にも分かりません……。でも心の奥の、ずっとずっと奥の私が、浩幸さんのことを好きだと言っている気がします……」
 「いったい君は何者か……?天使か……、さもなくば悪魔か……」
 「悪魔なんてひどい。私はただあなたを愛しているだけ……」
 百恵は俊介からもらった婚約指輪をはずし、手にしたビーズの指輪とはめ替えた。
 「君はまたそんな事をする……」
 「私、やっぱり結婚しません。いえ、できません」
 百恵は、自分を拒む浩幸の表情と全く正反対の表情を確認した時、思わずその身体に自分の身体を重ねた。
 「やめなさい。人に見られたらどうするのですか?」
 百恵は何も言わず、浩幸の胸で涙を流すだけだった。

 ホテルの暗い一室から、その光景をじっと見詰める悪意の双眸が光っていた。男はいやらしい笑みをひとつ浮かべると、手にしたデジカメのシャッターを何度も押した。