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(五)父娘と姉弟
 介護の仕事に正月休みはない。世間は「年末だ」「新年だ」と騒いでいるのに、百恵の日常は何ひとつ変わらなかった。ただ正月だけは施設でもお節料理が振る舞われ、玄関に飾られた門松などで、その雰囲気を感じるだけである。
 スケジュールを見れば、一月中旬に“介護スタッフ研修会”がもうけられており、コスモス園の医療法人化に向けて、介護スタッフの看護への関わりなどを学習する事が義務付けられた。本年秋の統合へ向け、山口医院が主催となって隔月で一回行われる研修会は、同医院の医師や外部の専門家の講師を招き、一泊二日で菅平のホテルで行われる事になっていた。コスモス園の介護スタッフ達は二班に分かれ、そのカリキュラムを全てこなさなければならないのである。
 「ねえねえ、モモ、今週の土日の研修、空いた時間にスキーでもやらない?」
 七瀬はまるで修学旅行気分であった。もっとも、こんな仕事をしていれば職場で慰安旅行などの計画もなく、たまにとれた連休なども、疲れ切ってレジャーなどに使う事などめったになかった彼女にしてみれば、ごく自然な発想だった。
 「でも、そんな時間、あるかなあ?」
 百恵が言った。
 「ナイターよ。研修は昼間だけじゃない。翌日まで何もないでしょ。これはきっと自由に遊びなさいって事よ。山口先生も粋な計画をたてたものね」
 七瀬の楽しそうな仕事ぶりに、百恵は呆れたものだ。

 第一回研修会の講師には浩幸があたる予定になっていた。統合計画の発案者として、その理念と施設の役割を明確に伝える必要があったからだ。研修日前日、大樹の寝顔を見ながらその準備をはじめた浩幸は、必要書類を確認すると、冬の菅平に備え、コートやらセーターを出そうとクローゼットの中をごそごそやりだした。普段は自宅に隣接する医院との間を行き来する他は、出張等で東京などに行く事はあっても、冬の山に行く事など皆無に等しかったから、それを見つけるのは非常に手間だった。こんな時に妻などいると非常に助かるのにと思いながら、ようやく何年も開いていないような奥の引き出しの中から、父親の正夫が往診の時に着ていたと思われる古びたジャンバーを見つけだした。ついでにその際に持ち歩いていた愛用の黒い小さな鞄も出てきて、浩幸はほくそ笑んだ。
 結局父は、すぐれた医師だったかも知れないが、山口医院を倒産にまで追い込んだ男ではなかったか。それを自分は立て直し、いまやコスモス園との統合を機に、当時にして想像を絶する病院と名の付く施設にまで発展させたではないか。鞄のファスナーを開ければ、分厚いメモ帳が出てきて、父の往診のスケジュールがびっしりと書き込まれていた。
 「この労力で経営の采を振れば、あれほどの貧乏をせずにすんだものを……」
 浩幸はそのメモ帳をゴミ箱に捨てた。しかしその小さな黒い鞄をよく見れば、洒落たデザインの値打ち物のようであった。捨てるのが惜しくなった彼は、それをハンカチやティッシュなどの小物入れに活用しようと、明日の荷物の仲間に入れた。
 「愚かな父の形見だ……」
 自分の中にある懐古の情を一笑に付して、探し物を続けるのであった───。

 研修の服装を、コスモス園に面接に行った時のビジネススーツに決めた百恵は、七瀬との約束を思い出し、一応スキーウェアも持って行こうと箪笥などをあちこち探しはじめたが、母に聞いても父に聞いてもどうしても見つからなかった。
 「ねえ太一、私のスキーウェア知らない?」
 ついに諦めて、聞いても無駄だと思いながら太一に聞けば、
 「ああ、借りたよ」
 「借りたって……、女性用のウェアなんか何に使うのよ?」
 「明日スキーに行くんだけど、友達が持ってないっていうから貸したんだ」
 「ええっ?一言お姉ちゃんに言ってよ!明日、持って行くのに……」
 「ごめん。姉ちゃん毎日忙しがってるから、スキーウェアなんか使わないと思ったんだ」
 よくよく話を聞けば、以前相談を受けた女の子と菅平にスキーに行くと言う。
 「それじゃ、明日お姉ちゃんも菅平にいるから、その子を紹介してくれたら許してあげる」
 と示談したのだった。

 研修場所へは各自で向かう事になっていた。車で菅平までだと峠道を登り、峰の原の隣り、ある者は乗り合わせで、ある者は家の者に乗せてもらい、目的のホテルまで三十分もかからない。百恵がホテルに到着すると、すでに七瀬がいて、車の上のスキーを誇らしげに、
 「あれ?モモ、スキーは?」
 と言った。
 「弟がデートで、私のスキー道具一式とられちゃった……」
 「なーんだ、残念!他のみんなも一緒に滑りに行くことになってるのに……!」
 「私はいいから、楽しんできて。弟と会う約束もあるから」
 「そうお?……」
 二人は少しがっかりした様子で研修会場へ向かった。
 研修は午前と昼休みを挟んで午後、講義と実習を含めてみっちり組まれていた。百恵は、講義に立つ浩幸の姿を見ながら、その構想と思想の深さに大きな感銘を覚えながら、知れば知るほど自分とは別次元の世界の人なんだと思わずにはいられなかった。

 私ってバカみたい!
 最初からそんなこと、知ろうとすれば知ることができたのに───。
 真夏に冬みかんが食べたくなって、そこら中のお店を探し回ったけれど見つからなくて、結局諦めなければならないことを知ってるくせに……。
 ショーウィンドウのドレスに魅せられて、お店の人に頼んで試着してはみるけれど、財布の中身と値段がつり合わなくて、結局諦めなければならない事を知ってるくせに……。
 半年の休暇を取って、パリのルーブル美術館でひたすら絵の鑑賞をしたいと思って休暇届けを出したけど、結局上司に怒られて、諦めなければならない事を知ってるくせに……。
 真夜中に突然おやきが食べたくなって、近くのコンビニを走り回って探してはみるけれど、そんな郷土料理を扱っている所はなくて、結局あきらめて翌日になってみれば、昨晩おやきが食べたくなったことすら忘れていたりして……。
 駄目なものは諦めて、諦めたものは忘れ去る。そんなのとても簡単なこと。だってその繰り返しの中で、人は人生を送ってる───。

 「そしてこの痰の吸引ですが、厚生労働省は二〇〇五年三月からあなたがた介護スタッフにもできるよう通知を出したのです。その条件を馬場さん、言ってみて下さい」
 講義の途中、浩幸は突然百恵を指名した。いきなりの指名に驚いた百恵は、周りを四顧して「すみません。聞いていませんでした───」と俯いた。
 「講義の最中に何を考えているのですか」
 百恵は再度「すみません」と言った。横で七瀬が「山口先生の事です」とちゃかした。百恵が顔を真っ赤にして「もう!」と七瀬を叩くと、会場内に笑いが起こった。
 「少し顔を洗って、頭を冷やしてきた方がいい」
 再び笑いが広がった。浩幸は気分をそこねた様子で講義を続けた。
 初日は研修が終了した時点でホテルへのチェックインとなり、その後は翌日の研修開始までは自由時間だった。同室の七瀬は喜び勇んでさっそくスキーに繰り出してしまったが、残された百恵は太一に電話して、ホテルのロビーで二人が来るのを待つことにした。ロビーには滑り疲れたアベックや若者達が多くいて、ビジネススーツ姿で浮いた百恵は、コーヒーなど頼んで窓から見えるナイターの銀世界に心奪われていた。
 その時───、
 「馬場さんは滑りに行かないの?」
 その声に振り向けば、すっかりラフな洋服に着替えた浩幸が立っていた。
 「やはり一日中しゃべり通しは疲れます。僕もコーヒーを飲んだら一旦医院に戻ります。少しご一緒させて下さい」
 百恵は突然の客に驚いて、背筋を伸ばして「どうぞ」と向かいの席を手で案内した。
 「お忙しいんですね。大樹君の面倒もありますものね……」
 「大樹は理事に任せてありますので心配はないのですが、学会へ提出する書類をまとめなければなりません」
 浩幸のところにコーヒーが運ばれた。彼はそれを一口飲むと、
 「ああ、そういえば結婚式はいつですか?電報くらい打たせてもらいますよ」
 と言った。百恵は左手の薬指の指輪を隠すと、急に悲しくなって、俯きながら「まだ、日取りも何も決まっていないんです」と答えた。
 「そうですか。じゃ、決まったら教えて下さい」
 浩幸の透明な笑顔は、以前大樹に向けられていたものと同じだった。話題に窮して、百恵は浩幸の持っていた小さい黒い鞄を見つけて「ステキなバックですね」と言った。
 「これですか?これは無能な父の忘れ物です。気に入ったので僕が使う事にしたんです」
 浩幸は淡々と答えると、再びコーヒーを口にした。
 「姉ちゃん!来たよ!」
 ホテルのロビーに太一と美幸が姿を現した。気をきかせた浩幸は、「待ち合わせですか?じゃ、僕はこれで失礼……」と、立ち上がった瞬間、
 「美津子……」
 と呟いた声を百恵は確かに聞いた。
 太一はさっそく美幸に百恵を、百恵には美幸を紹介した。
 「これが俺の姉貴の百恵姉、で、こっちが林美幸さん」
 「よろしくお願いします!」
 美幸はペコンと頭を下げた。その仕草がとても可愛く、その美しい顔立ちと、彼女の振る舞いからにじみ出る人柄で、太一が好きになった理由がいっぺんに理解できた。百恵も、
 「よろしく、太一がいつもお世話になってます」
 と言うと、「そのスキーウェア、とっても似合っているわよ」と付け加えた。
 太一は百恵の向かいの男が気になって、「姉ちゃん、この人は?」と聞いた。気がつけば、浩幸らしからぬ硬直した表情でじっと美幸の顔を見つめたままだった。
 「コスモス園の施設医のお医者さん。ほら、前ちょっと話したでしょ、山口脳神経外科の院長先生。あなたはまだ生まれてなかったけど、おばあちゃんも山口先生のお父様にお世話になったのよ」
 百恵の言葉に、今度は美幸が態度を変えて、
 「ええっ!山口医院 !? 」
 と叫んだ。
 「わ、私、今年の四月からそちらでお世話になります、は、林美幸です。よろしくお願いします!」
 と、緊張した様子で頭を下げた。
 「へえ、驚いたなあ。姉ちゃんが美幸が働く医者の先生と知り合いだったなんて……。世間はせまいものだね」
 太一が言った。
 「立ち話も何だから、座って、座って。なに食べる?ケーキ?」
 百恵は二人を座らせようとすると、
 「バスの時間がもうじきなんだ。またゆっくり会わせるから」
 と、太一と美幸は、浩幸に頭を下げてそそくさと行ってしまった。百恵は二人を見送った後、「弟の太一です」と浩幸に伝えた。しかし浩幸は何も言わず、腰が砕けたようにソファーに座ったのだった。
 「どうなさったんですか?」
 百恵が心配して尋ねると、浩幸は急に笑い出し、
 「驚きました……」
 と呟いた。
 「えっ……?」
 「驚きましたよ、本当に……。美津子かと思いました……」
 「美津子って……?」
 「離婚した妻の名前です。実は今年の四月からうちに採用が決まっている看護士なんですが、僕と美津子との娘なんです。今、太一君が連れてきた美幸という子がその子なんですよ。顔を見て驚きました。僕が美津子と出会った頃の彼女と瓜二つじゃないですか……」
 「先生にはまだ子供さんがいらしたんですね……」
 「どうです?驚いたでしょう。僕の事を知れば知るほど、もっとおぞましい事実が発覚していくかも知れませんよ。貴方は僕以外の男を選んで正解だったんですよ」
 「平気です!ぜんぜん驚いたりなんかしてません!」
 「また、そんな事を言う……」
 浩幸は気を取り戻した様子でコーヒーを一口飲むと、「では、一旦戻ります」と立ち上がった。
 「車まで見送ります……」
 「必要ありません」
 「見送らせて下さい!もう先生のこと見送るなんて、ないかも知れませんから……」
 浩幸は何も言わずに歩き出し、その後を追いかけて百恵はついていった。ナイターで照らされた菅平のスキー場に、淡い小雪の粒が舞っていた。